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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2019年6月30日日曜日

愚行

すべての人は、目的を以(もっ)て人生に生まれます。
この世界において、無意味に生まれる人はいないのです。
人は、それぞれに異なる目的を持ち、それぞれに異なる生き方をしているのです。
目的を手放すことの出来る人はいません。
すべての人は、自らの目的を果たすために生きなければならないのです。
人生の目的を果たさなければ、満足を得ることは出来ません。
人生の目的を放棄(ほうき)すれば、不満を得なければならないのです。
不満を得るということは、乏しく生きるということです。
不満を覚えた状態で、豊かに生きる人はいないのです。
不満を覚えた時点において、豊かさを諦めなければならないのです。
人生に豊かさを実現するためには、満足を得なければなりません。
人が、この人生において満足を得るためには、目的を果たさなければならないのです。
大切なのは、豊かに生きることです。
そのために、人生の目的を果たすことなのです。
残念ながら、多くの人は、人生の目的を考えません。
多くの人は、人生が何であり、自分が何であるのか?ということには興味がないのです。
多くの人は、肉体的な快楽や欲望を貪(むさぼ)ることに一生懸命になっています。
多くの人は、人生と自分の”正体”を突き止めようとは思わないのです。
多くの人にとっては、人生と自分の正体を突き止めるよりも、肉体的な快楽や欲望を貪ることの方が重要なのです。
それは、食料が枯渇(こかつ)しようとしている人が、種を食べるようなものなのです。
一時的な感情に従い、一時的な満足を求めます。
食料が枯渇しょうとしても、種を食べてはなりません。
種は、食料を生み出す可能性があるのです。
腹が減っていたとしても、種は土に蒔(ま)かなければならないのです。
腹が減っている人は、種を食べてしまうでしょう。
それが”普通”です。
それが、愚(おろ)かな行為だと知っていたとしても、それを行ってしまうのです。
人は、自分が何をしているのか分からないのです。
多くの人には、人生と自分の”正体”が分かりません。
そのため、愚かな行為を選択してしまうのです。
あなたは、人生が何であるのか?、自分が何であるのか?と考えましょう。
この問いに対しては、生涯を通じて向き合わなければなりません。
すべての人は未熟に生まれなければなりません。
それは、人生と自分の”正体”を見極める必要があるからです。
未熟に生まれることがなければ、人生と自分の”正体”を見極めるという学びを得ることは出来ないのです。
未熟に生まれるからこそ、”何でもないこと”から、大切な学びを得ることが出来るのです。
多くの人は、人生と自分の”正体”が分からないために、愚行(ぐこう)を働くのです。
それは、決して悪いことではありません。
人は、愚行を働くことによって、大切な学びを得ているからです。
すべての人は、学ばなければなりません。
学びを得ることは、すべての人の当然の権利なのです。
それを妨げてはならないのです。
すべての人は、学ぶ必要があるのです。
あなたは、許さなければなりません。
人は、自分が何をしているか分からないのです。
もちろん、あなたも自分が何をしているか分かってはいないのです。
あなたは、自分を許しましょう。
あなたは、自分の愚かさを許さなければなりません。
自分を許すことによって、他者を許すことが出来るでしょう。
他者を許すことによって、あなたが愚行を働く時に許してもらえるでしょう。
許しは、学びを円滑(えんかつ)にします。
許すことがなければ、学びは実現しないのです。
許すことは、何よりも難しい学びです。
しかし、それだけに何よりも価値のある選択なのです。
あなたは、許さなければなりません。
許すことによって、人生と自分の”正体”を見極めましょう。
許すことによってのみ、あなたは人生と自分の”正体”を見極めることが出来るでしょう。

2019年6月29日土曜日

品位

すべての人には、大切な役割が与えられています。
すべての人は、その役割を果たさなければなりません。
それは、役割を果たすことによって、目的を果たすことが出来るからです。
すべての人は、目的を以(もっ)て生まれるのです。
目的が存在した後に、人生が生じたということを理解しなければなりません。
人生は、何となく生じたのではありません。
どのような人生にも、重要な目的が存在するのです。
あなたは、役割を果たすことによって、その目的を果たすことが出来るのです。
役割を果たすことがなければ、目的を果たすことは出来ません。
目的を果たすことは、何よりも大切なことです。
地上のすべてを手に入れたとしても、目的を果たすことがなければ、人生は空しいのです。
残念ながら、多くの人が人生を空しく生きています。
多くの人は、自分が何であるか?人生が何であるか?を知らないままに生きているのです。
そのため、与えられた役割を果たすことが出来ません。
そして、果たすべき目的を果たすことが出来ないのです。
人生を空しく生きてはなりません。
あなたは、空しいことのために生きてはならないのです。
地上の何かを手に入れることが人生の目的ではありません。
人脈、地位、名声、財産・・・
このようなものを手に入れることを目的として生まれてなどいないのです。
また、それ等に反発して、世を捨てることも目的ではありません。
人生の目的は、この世にあってこの世のものに支配されないものなのです。
この世の富を気にしないところに、あなたの役割と目的が存在するということを理解しなければならないのです。
この世の富に支配されている間は、人生の目的を果たすことは出来ません。
利益に従っている間は、役割を果たすことは出来ません。
役割を果たすためには、損得勘定(そんとくかんじょう)を抜きにして判断しなければならないのです。
利益を気にして、自分にとって得と思えることばかりを選択しているのであれば、役割を果たすことが出来ません。
あなたに与えられた役割は、下劣(げれつ)なものではないのです。
与えられた役割を果たすためには、品性が求められるのです。
どのような役割にも、品位が備わっているということを理解しなければなりません。
この世界には、無駄は存在しません。
無意味も無価値も存在しないのです。
それは、すべてが大切であり、すべてに重要な価値があることを示しているのです。
すべてが大切であるということは、上下の差は無いということです。
この世界の役割には、上下の差は無いのです。
すべてが大切で、重要な役割なのです。
例えば、鯨(くじら)が良くて、蚤(のみ)が悪いという差は存在しません。
鯨は鯨の価値があり、蚤は蚤の価値があるのです。
鯨がいなければ困りますし、蚤がいなければ同じように困るのです。
意味があり、価値があるからこそ、この世界に存在するのです。
現状に存在するものは、現状に存在しなければ困るものなのです。
それがどのようなものであれ、現状には必要です。
必要の形が変わるまでは、それがなければ困るのです。
現状には、自分にとって都合の良いものだけが必要ではありません。
自分にとって都合の悪いものも、同じように必要であるということを理解しなければならないのです。
利益を追求することが、人生の目的ではないのです。
利益を追求しても、あなたが満足することは出来ないのです。
利益を追求したとしても、あなたは幸福を得ることは出来ません。
利益を追求したとしても、人生は豊かさを得ないのです。
寧(むし)ろ、利益を追求することによって、人生は乏しさを得ます。
利益を追求することによって、あなたは不幸を得なければなりません。
利益を追求することによって、あなたは不満を覚えるのです。
利益を追求している間は、不満を手放すことが出来ないのです。
利益は大切なように思えますが、人生の目的に比べれば大切ではありません。
人生は、利益を追求するような単純で詰まらない場所ではないのです。
人生を下劣なものにしてはなりません。
あなたは、品位と共に生きなければならないのです。
損得勘定に支配されることなく生きましょう。
あなたの役割は、”出来るだけ”困っている人を助けることで果たされます。
あなたは、困っている人を”出来るだけ”助けなければなりません。
無理をする必要はありません。
困っている人を探す必要もありません。
あなたの目の前に、困っている人が導かれたら、出来る範囲で手助けをするのです。
この世界には、因果の仕組みが存在しています。
困っている人を助けるという選択が、あなたを助けるでしょう。
他者が困っているように、いつかはあなたも困ります。
現状において困ってはいなくても、いつ困るか分からないのです。
しかしながら、あなたはいつか困る時がやって来ます。
それは避けられないことなのです。
その時になって助けを求めても、因果の仕組みによって助けられないということを理解しなければなりません。
あなたは、自分の行いを受け取ります。
あなたは、自分の行いを避けることは出来ません。
他者を自分のように考えておきましょう。
あなたは、いつか他者の立場を得るでしょう。
その時に、困らないようにしておきましょう。
あなたは、自らの役割に従って、困っている人を助けるのです。

2019年6月28日金曜日

歩み寄ること

人生には、果たすべき目的が存在しています。
あなたは、目的を果たすために生まれたのです。
すべての経験は、果たすべき目的を果たすためのものです。
あなたは、様々な経験を通じて、果たすべき目的を果たす可能性を高めることが出来るのです。
残念ながら、すべての人が、人生において果たすべき目的を果たせる訳ではありません。
残念ながら、多くの人は、果たすべき目的を果たすことが出来ないままで人生を終えるのです。
果たすべき目的を果たすことは、容易(ようい)ではないということを覚えておかなければなりません。
果たすべき目的を果たすことが容易でないのは、目的を果たすためには、それに相応しい経験値と成長が必要だからです。
果たすべき目的を果たすに相応しい存在でなければ、果たすべき目的を果たすことは出来ないのです。
あなたが目的を果たすためには、それを果たすに相応しい経験値を得なければなりません。
そして、それを果たすに相応しい成長を実現しなければならないのです。
果たすべき目的を果たすに相応しい経験値を得るためには、導かれる状況を受け入れる必要があります。
導かれる状況を否定しているのであれば、必要な経験値を得ることが出来ないのです。
そして、必要な経験値を得ることが出来なければ、成長を実現することも出来ないのです。
残念ながら、目の前に導かれる状況は、自分にとって都合の良いものばかりではありません。
どちらかと言えば、あなたにとっては都合の悪いことの方が多いでしょう。
なぜなら、あなたは成長を実現するために導かれる状況を経験しているからです。
目の前に導かれる状況を受け入れるのは、成長を実現する以外の理由ではないのです。
すべての状況は、あなたが成長を実現するために導かれるのです。
あなたが成長を実現するためには、自分にとって都合の悪いことも経験する必要があります。
自分にとって都合の良いこととは、停滞を許している状態のことです。
成長とは、変化です。
成長を実現するためには、変化しなければなりません。
変化を受け入れることがなければ、成長を実現することは出来ないのです。
成長とは、現状に対する否定です。
現状を否定しなければ、成長は実現しないのです。
しかしながら、多くの人は現状に停滞を望みます。
それは、現状がどのようなものでれ、ある種の安心感をもたらしてくれるのです。
その安心感は、決して真(まこと)の安心感ではありません。
現状にしがみ付いているのであれば、偽りの安心感は脆(もろ)くも崩れ去ってしまうのです。
この世界において、偽物は脆いのです。
この世界において、本当に強いものは真(まこと)である本物なのです。
偽りの安心において、豊かさを支えることは出来ません。
それは、白蟻(しろあり)の侵入した柱のように、見た目には良さそうに見えても、簡単に崩れ去ってしまうものなのです。
豊かさを支えるためには、真の安心が必要です。
あなたが真の安心を得るためには、変化を受け入れなければならないのです。
そして、成長を実現しなければならないのです。
成長とは、停滞の否定です。
それは、生きた柱なのです。
停滞とは、死を意味しています。
死んだ柱は、白蟻に食い尽くされてしまうのです。
大切なのは、生きることです。
あなたが生きるためには、必要な経験を得なければなりません。
それは、目の前に導かれる状況を受け入れるということなのです。
目の前に導かれる状況には、目の前に導かれる意味ち価値が存在するのです。
人生には、無駄は存在しません。
それが、どのような状況であろうとも、何かしらの意味があり、価値があるのです。
あなたにとって都合が悪いからといって、それが無駄であるとか、意味や価値が無いということではないのです。
すべての人は未熟に生まれます。
残念ながら、あなたは誤解を生きているのです。
そのため、導かれる状況の意味や価値を理解することが出来ません。
あなたには、自分にとっての意味や価値を正しく判断することは出来ないのです。
時には、自分にとって都合の悪いことも受け入れてみましょう。
自分にとって都合の悪い状況を受け入れ、それを経験してみるのです。
それは、あなたが想像するよりも、ずっと良いものであったことを理解することになるでしょう。
人生は、あなたが想像するよりも、ずっと良いものです。
否定している間は、その意味や価値を理解することは出来ないのです。
経験を積み、成長を実現しましょう。
そうすれば、あなたは生きることが出来るでしょう。
そして、果たすべき目的を果たすことも出来るのです。
しかしながら、必要な経験を否定し、自分にとって都合の良いことばかりを追い求めているのであれば、必要な経験を積むことも、成長を実現することも出来ないのです。
それは、生きることが出来ないということなのです。
それでは、果たすべき目的を果たすことが出来ないということを理解しなければなりません。
自分にとって都合の悪いことは、必ずしも悪いことではありません。
時には、自分にとって都合の悪いことにも歩み寄りましょう。

2019年6月27日木曜日

世界は汚れに覆われている

この世界は、汚れに覆われています。
この世界においては、すべての存在が汚れていくのです。
この世界において、美しいものは存在しません。
すべてが、汚れていくのです。
それは、この世界の理(ことわり)です。
どのように美しいものも、必ず汚れるのです。
あなたは、この世界に存在するすべてが汚れているということを理解しなければなりません。
この世界においては、汚れていることが自然なのです。
美しいものは不自然です。
あなたは、美しさを疑わなければならないのです。
多くの人は、この世界が汚れに覆われていることを知りません。
多くの人は、この世界が汚れに覆われていることを知らないために、既(すで)に汚れているものを美しいと思い込んでしまいます。
多くの人は、美しさを理解しません。
多くの人は、美しさを誤解しているのです。
すべての人は未熟に生まれます。
すべての人は、未熟であるが故(ゆえ)に無知なのです。
すべての人は、無知と共に生きています。
すべての人は、何も知らないのです。
残念ながら、多くの人が美しいと思っているものは、美しくありません。
美しさの基準が間違っているのです。
残念ながら、この世界は汚れに覆われています。
残念ながら、この世界には、美しいものは存在しないのです。
美しいものは、物質の世界には存在しないのです。
人は、判断を心によって下します。
それは、内で判断しているということなのです。
多くの人は、外に美しさが存在していると思い込んでいます。
しかしながら、外には美しさは存在しないのです。
外に存在するのは汚れだけなのです。
美しさの判断は、あなたの心に任せられています。
それは、美しさが内に存在することを意味しています。
それが、どのようなものであろうと、人それぞれに判断は異なります。
一方が美しく思っても、一方では汚れていると思うのです。
同じ対象に対しても、美しさの判断は人それぞれに異なるのです。
それは、美しさの判断が心(内)によって行われていることを示しているのです。
美しさは、内に存在しています。
あなたは、美しさを外に探してはならないのです。
美しさを外に探しても、決して見付かりはしません。
なぜなら、外に美しさは存在しないからです。
すべての人は、汚れに囲まれています。
汚れに囲まれていると、自分が汚れていることに気が付きません。
残念ながら、多くの人は汚れを美しさと思い込んでいるのです。
多くの人は、見えるものも見えません。
多くの人には、汚れが見えないのです。
なぜなら、それが当たり前だからです。
多くの人は、汚れに対して違和感を覚えないのです。
それは、とても苦しいことなのです。
見えるものが見えないことや、汚れていることに気が付かないことは苦しみなのです。
あなたは、そのことに気が付かなければなりません。
この世界が汚れに覆われていることを知らなければ、汚れを追い求めるような人生になってしまうでしょう。
美しさを見極めるためには、内を磨かなければなりません。
心を磨くことがなければ、美しさを判断することは出来ません。
心を磨くためには、許(ゆる)さなければなりません。
許すことがなければ、争わなければなりません。
争いは、心を痛め、汚すのです。
しかしながら、多くの人にとって、許すことは苦しく難しいのです。
それは、多くの人が自分が正しいと思い込んでいるからです。
残念ながら、多くの人には、見えるものも見えません。
多くの人は、自分が汚れていることに気が付かないのです。
多くの人は、自分が汚れているにもかかわらず、自分だけは美しい(正しい)と思い込んでいるのです。
あなたは、許すことによって心を磨かなければなりません。
磨かれることは、汚れにとっての苦しみであり、困難なのです。
そのため、汚れは全力で抵抗するのです。
あなたは、許さなければならない状況において、許すことが出来ない心境に陥(おちい)るでしょう。
それが汚れなのです。
あなたは、許すことによって汚れを落としましょう。
美しい心によって生きるのです。

2019年6月26日水曜日

遠回り

すべての人は、人生に目的を以(もっ)て生まれます。
すべての人は、目的を果たすために生まれたのです。
目的を無視することは出来ません。
すべての人が、目的を果たすために生きなければならないのです。
目的を果たすことは重要です。
なぜなら、あなたは目的を果たすために生まれたからです。
しかしながら、すべての人は人生の目的を忘れてしまいます。
すべての人が人生の目的を忘れ、目の前の快楽や欲望を貪(むさぼ)ることや、問題や苦悩に陥(おちい)ることに執着(しゅうちゃく)しているのです。
多くの人は、目の前の快楽や欲望を貪り、問題や苦悩に執着しています。
そのような生き方が人生だと思い込み、それが人生の目的だと思い込んでいるのです。
残念ながら、すべての人が人生の目的を忘れてしまいます。
すべての人が、盲目的(もうもくてき)に生きているのです。
すべての人が、人生が何か分かりません。
すべての人が、自分が何か分からないのです。
あなたは、人生が何であり、自分が何であるか分かりますか?
残念ながら、あなたには答えることが出来ないでしょう。
答えることが出来たとしても、その回答は後に覆(くつがえ)されるということを理解しなければならないのです。
あなたは何も知りません。
あなたは、未熟に生まれたのです。
あなたは、無知を生きなければなりません。
残念ながら、あなたには、人生や自分が何であるか?分からないのです。
人生が何であり、自分が何であるかを知らないあなたには、何が正しいか分からないのです。
あなたには、何が幸福であり、何が不幸なのかも分からないのです。
あなたは、何も知りません。
そして、あなたには、何も分からないのです。
せめて、これだけでも知っていましょう。
道を真っ直ぐに進むことは出来ません。
あなたには、道が分からないのです。
人生の目的を果たすためには、そこへ至(いた)る道を進まなければなりません。
初めての道では、遠回りしているように思える道程(どうてい)が、最短であることがあります。
そのため、遠回りしているように思えても、それに焦ってはならないのです。
最善の方法は、あなたには理解することが出来ないのです。
あなたが知っているのは、間違った方法です。
あなたは必ず失敗するのです。
多くの人は、近道をしようとします。
多くの人は、想像によって近道だと思われる道を進みます。
その道は、近道だと思えます。
しかしながら、それは目的地へとは至らないのです。
すべての道は曲がりくねり、複雑に重なります。
一直線に目的地へと至る道は存在しないのです。
そのため、目的地へと辿り着くためには、遠回りに思える道程を経なければならないのです。
多くの人は、近道をしようとして、無意味に思えることや、無価値に思えることを軽んじます。
自分にとって都合の良いことばかりを追い求めるのです。
残念ながら、この世界に無駄は存在しません。
無意味に思えることも、無価値に思えることも存在しません。
すべてには大切な意味があり、すべてには大切な価値があるのです。
無意味に思えるのも、無価値に思えるのも、あなたが未熟であるからです。
未熟であるあなたには、その意味や価値を理解することが出来ないだけなのです。
自分が理解することが出来ないのを、誰かや何かのせいにしているということを理解しなければなりません。
無意味や無価値に思えることも、大切に扱わなければなりません。
人生に近道は存在しません。
道は必ず曲がりくねり、複雑に重なるのです。
合理的に生きることが近道ではないのです。
遠回りでも、目的地へと向かって確実に歩みを進めましょう。
人生は、あなたに目的地への道程を示します。
それを受け入れて進めば、あなたは目的地へと辿り着くことが出来るのです。
しかしながら、多くの人は、人生が示す目的地への道程を否定します。
それは、自分にとって都合が悪いからです。
多くの人は、楽がしたいのです。
楽をすることよりも、人生の目的を果たす方が優れています。
遠回りをしても、最善の道程を歩みましょう。
人生の目的を果たす以上に重要なことなどありはしません。
最終的に目的地へと辿り着くことが出来れば良いのです。
焦らずに歩みを進めなければなりません。
人生を競争だと誤解してはなりません。
近道を使って誰かに勝つことなど、何の価値もないことなのです。
遠回りしても、目的地へと辿り着きましょう。

2019年6月25日火曜日

自分を許す

すべての人は、目的を以(もっ)て生まれます。
すべての人は、目的を果たすために生きているのです。
しかしながら、多くの人は、人生の目的を見失います。
多くの人は、人生の目的を忘れてしまうのです。
あなたが人生の目的を忘れてしまったとしても、人生の目的は変わることなくそこに存在し続けます。
人生の目的は、人生を終える時まで存在するのです。
あなたは、目的を果たすために生まれたのです。
それは、目的を果たすために、人生という場所が最適であったからです。
人生には、目的を果たすために必要なものが揃(そろ)っています。
人生は、目的を果たすための場所なのです。
あなたは、人生の目的を果たさなければなりません。
残念ながら、多くの人は、人生の目的を忘れています。
自分が何のために生きているのか?分からないのです。
多くの人は、目の前の快楽や欲望を貪(むさぼ)るだけなのです。
多くの人は、目の前の快楽や欲望よりも崇高(すうこう)な目的を知らないのです。
そのため、目の前の快楽や欲望を貪ることに専念するのです。
残念ながら、目の前の快楽や欲望を貪ることでは、人生の目的を果たすことは出来ません。
大切なのは、人生の目的を果たすことです。
目の前の快楽や欲望を貪ることが人生の目的ではありません。
なぜなら、人生の目的は、人生を始める前に決められたものだからです。
目の前の快楽や欲望を貪ることは、人生を始めた後で決めたものなのです。
あなたは、崇高な目的を以(もっ)て生まれたのです。
決して、目の前の快楽や欲望を貪るために生まれたのではないのです。
人生の目的が目の前の快楽や欲望を貪ることであるのならば、誰もが満足を得ているのです。
しかしながら、実際には、目の前の快楽や欲望を貪ったとしても、あなたが満足を得ることは出来ません。
目の前の快楽や欲望を貪ることは、人生の目的ではないということを意味しているのです。
大切なのは、刺激的な現実を手放し、人生の目的を探すことです。
残念ながら、ただ生きるだけでは、人生の目的を果たすことは出来ないでしょう。
人生は、あなたの味方です。
人生は、常にあなたが人生の目的を果たすことを手助けしています。
人生が、あなたの敵であるはずがないのです。
しかしながら、多くの人は、人生を敵と考えています。
人生の原因は、自分自身です。
そのため、多くの人は、自分を敵と考えているのです。
多くの人は、自分を敵だと考えています。
そのため、争いが絶えないのです。
多くの人は、敵と争わなければなりません。
それは、心を傷付けるのです。
多くの人が葛藤(かっとう)しているのは、そのためなのです。
しかしながら、本人には、そのことが分からないのです。
心を傷付けていれば、治癒(ちゆ)に専念しなければなりません。
そうなれば、人生の目的を見失ってしまうのです。
多くの人が人生の目的を見失っているのは、心の治癒に専念しているからなのです。
大切なのは、心を傷付けないことです。
自分を敵と見做(みな)して、争ってはなりません。
人生を否定することは、人生の目的を隠します。

争わないためには、許さなければなりません。
許さない限り、争いは続くのです。
人生は、人生の目的を思い出さない限り空しいのです。
目の前の快楽や欲望を貪ったとしても、満たされることはないのです。
これは、あなたの人生です。
人生は、あなたが築いているのです。
それが、どのような状況であろうとも、自分であるということを理解しましょう。
すべては、自分自身の投影なのです。
あなたは、自分自身を許さなければなりません。
自分自身を許せば、自分自身の投影である、すべてを許すことが出来るのです。
誰かや何かを許すことが難しい時にも、自分を許すことは可能です。
自分が、誰かや何かに対して争う気持ちを許すのです。
許すとは、手放すことです。
あなたは、自分への争いの気持ちを手放しましょう。

2019年6月24日月曜日

原因を探す

この世界には、因果の仕組みが存在しています。
この世界は、因果の仕組みに従って展開するのです。
この世界において、因果を無視するものは存在しません。
因果の存在しない展開は存在しません。
因果を理解することが出来ない展開であったとしても、そこには因果が存在するのです。
人は未熟に生まれます。
未熟に生まれる人には、因果を理解することが出来ないのです。
そのため、多くの人が因果を理解することが出来ません。
多くの人には、目の前に実現する状況が、偶然や幸運や不運のように思えてしまうのです。
人生には、偶然は存在しません。
人生には、因果が存在するだけなのです。
幸運や不運も存在しません。
存在するのは、当然の結果だけなのです。
多くの人は、結果に捕らわれています。
結果に捕らわれることによって、原因を見失ってしまうのです。
人生を理解するために重要なのは、原因です。
原因を理解することによって、結果である人生を理解することが出来るのです。
結果を追い求めても、人生は謎のままです。
人生の謎は、原因を追求することによって解き明かされるのです。
人生の謎とは、人生の目的のことです。
人生を始めるという結果には、原因が存在しています。
人生を始める前に目的が存在しなければ、人生は始まらないのです。
何も無いところから、偶然や幸運や不運に人生が始まったのではありません。
明確な意図や目的が存在したからこそ、人生が始まったのです。
すべての人は、目的を以(もっ)て生まれます。
目的が存在しなければ、人生は存在しないのです。
あなたは、目的を果たさなければなりません。
目的を果たさなければ、人生を達成することは出来ないのです。
人生を達成することは重要です。
なぜなら、そのために生まれたからです。
そして、人生を達成することがなければ、真(まこと)の満足に達することは無いのです。
多くの人は、強い不満や不安を生きています。
人生の目的が分からず、進むべき道も知らないのです。
それは、とても苦しい生き方なのです。
しかしながら、多くの人が苦しい生き方を選択するのです。
それは、人が未熟であり、人生の目的を理解し、それを果たさなければならないからです。
すべての人は、人生の目的を果たすために生まれました。
あなたは、人生の目的を果たさなければならないのです。
人生の目的を果たさずに、人生を満足することは出来ません。
人生の目的を果たさずに、様々な快楽や欲望を貪(むさぼ)ったとしても、満たされないのです。
あなたは、目の前の状況の中に、原因を探さなければなりません。
結果に翻弄(ほんろう)されていては、人生の目的を理解することは出来ないのです。
原因を探しても、探さなくても、あなたは同じ時間を過ごさなければなりません。
どう考え、どう思っても、過ごす時間は同じなのです。
しかしながら、目の前の状況の中に原因を探すのであれば、少しずつでも人生の目的を理解することに近付きます。
人生の目的を理解することがなければ、それを果たすことは出来ないのです。
どちらにしても、あなたは人生の目的を果たさなければなりません。
人生の目的を無視することは出来ないのです。
人生の目的と離れる程に、人生には乏しさが導かれます。
人生の目的へ近付く程に、人生には豊かさが導かれるのです。
どうせ生きるのであれば、乏しいよりも豊かな方が良いでしょう。
大切なのは、原因を探すことです。
そのためには、穏やかな心が必要です。
原因とは、とても繊細なものなのです。
それは、騒がしく乱れた心には捕らえることが出来ないのです。
どのような状況も、それを感謝して許(ゆる)しましょう。
そうすれば、結果に捕らわれずに済みます。
感謝を忘れ、執着(しゅうちゃく)するのであれば、瞬(またた)く間に心は乱れてしまうのです。
多くの人は、乱れた心を生きています。
不満や不安を生きなければならないのは、心が乱れているからだと理解しなければなりません。
感謝と許しによって、あなたは心を静めましょう。
繊細である人生の原因に耳を傾けなければなりません。
そうすれば、今までとは異なる結果を導くことが出来るでしょう。
それは、幾らかでも人生の目的へと近付いた状況なのです。

2019年6月23日日曜日

現実的な夢

人生において大切なのは、どう生きるか?ということです。
すべての人には、どう生きるか?という問いが投げ掛けられているのです。
あなたは、どう生きるか?を考えなければなりません。
ただ、生きることが重要なのではありません。
どう生きるか?ということが重要なのです。
人生は、生きるための時間ではありません。
人生は、生存競争などではないのです。
残念ながら、多くの人は、人生の目的を見失っています。
人生の目的を見失うことによって、生存競争に明け暮れているのです。
それは、生存競争に明け暮れていれば、取り敢(あ)えずの目的を見出すことが出来るからです。
生存競争を勝ち抜くことは、人生の目的ではありません。
他者よりも”多少”有利な生活をしたところで、満たされることはありません。
どのような生活をしても、人生は空しいのです。
この世の富をどれだけ集めても、空しいだけなのです。
どれだけの他者を従えても、空しいだけです。
どれだけの地位や名声を得たとしても、空しいということを理解しなければならないのです。
なぜなら、この世界は空しいからです。
物質的なこの世界は、数十年で消滅します。
それは、とても短い時間なのです。
それに、あなたはどのような物質も所有することは出来ません。
この世の一切は、あなたのものではないのです。
すべては幻想に過ぎません。
これは、とても現実的な夢なのです。
肉体すらも、あなたの所有にはなりません。
あなたは、肉体を離れなければならないのです。
死を免(まぬが)れることの出来る人はいません。
すべての人に、死は等しく訪れるのです。
肉体を含(ふく)め、物質的な幻想に価値を見出すのであれば、人生の目的を理解することは出来ないでしょう。
生存競争に本気になっている人は哀(あわ)れです。
それは、夢に本気になっているのと同じことだからです。
すべての人は、人生という夢を見ているのです。
大切なのは、これが現実では無いということを知ることです。
理解することは難しいでしょうが、知ることは出来るのです。
あなたは、人生の本当の目的を見失って生きています。
あなたは、人生の本当の目的を見出さなければならないのです。
あなたは、夢から覚めなければなりません。
あなたは、幻想を生きてはならないのです。
生き方を考える必要があります。
人は、誰もが必ず生き方を誤ります。
人には、人生の目的が分からないのです。
そして、人生の目的に従った生き方が分からないのです。
あなたは、生き方を考えましょう。
多くの人が陥(おちい)っている幻想や夢に惑わされてはなりません。
人生は、生存競争などではないのです。
あなたは、そのような詰(つ)まらないことのために生まれたのではありません。
あなたが生まれたのは、より崇高(すうこう)な目的のためなのです。
あなたは、生きるために生まれたのではありません。
目的のために生まれたのです。
あなたはそれを果たさなければなりません。
生き方を考えなければ、幻想や夢から覚めることが出来ません。
夢を疑わなければ、それを現実と思い込んでしまうのです。
あなたは、人生を疑いましょう。
人生を”当たり前”に考えてはなりません。
皆と同じように人生を考えるのであれば、皆と同じように、幻想や夢から覚めることは出来ないでしょう。
残念ながら、多くの人は人生が何であるか?を知りません。
人生が何であるか?を答えることが出来ないのです。
夢の中で、これが夢だと理解することが出来れば、皆と同じようにただ生存競争に明け暮れる日々から抜け出すことが出来るのです。
あなたは、これが現実的な夢だと知りましょう。
従順(じゅうじゅん)に生きてはなりません。

2019年6月22日土曜日

美しい器

この世界には、因果の仕組みが存在しています。
すべての結果は、それに相応しい原因によって実現するのです。
因果を無視することは出来ません。
因果を無視するものは存在しないのです。
どのような結果であっても、それに相応しい原因が存在するということを理解しなければなりません。
大切なのは、現状が無意味に導かれている訳ではないということを理解することです。
現状は、それに相応しい原因によって導かれたのです。
すべての人生には、目的が存在します。
目的という原因が存在しなければ、人生という結果は存在しないのです。
あなたは、人生が無意味な場所だと考えてはなりません。
あなたが人生という結果を受け取るのは、目的という原因を果たすためなのです。
あなたは、結果から原因を辿らなければなりません。
それは、原因を改めるためなのです。
新たな原因は、新たな結果を導きます。
新たな原因は、より良い原因です。
それは、より良い結果を導くのです。
より良いとは、より本質的であるということです。
この世界においては、本質に近付く程に、良いものになっていくのです。
あなたは、本質を得るために生まれるのです。
人生の目的は、本質を得ることなのです。
そのため、人生における結果である状況は、あなたを本質へと導きます。
残念ながら、人生においては、思い通りにならないことばかりです。
人生が思い通りになる人など、どこにも存在しないということを理解しなければなりません。
人生を思い通りにしようとしても無駄なことです。
どのように努めても、人生は思い通りにはなりません。
なぜなら、原因の選択が求めている結果と違っているからです。
人は、人生において、自分自身に相応しいものを得るのです。
それ以外を得ることは出来ません。
あなたが得るものは、それがどのようなものであっても、自分に相応しいということを理解しなければならないのです。
人は、相応しいものを得るのです。
美しい器には、食物が入れられます。
あなたは、大切な食物を汚い器に入れようとは思いません。
あなたは、大切な食物は、出来るだけ美しい器に入れるのです。
汚い器には、残飯が入れられます。
あなたは、捨てる必要のある残飯を美しい器に入れようとはしません。
あなたは、残飯を出来るだけ汚い器に入れるのです。
あなたは、誰に教わらなくても、美しい器には大切な食物を、汚い器には残飯を入れるのです。
それが、この世界における真理なのです。
あなたという器には、それに相応しいものを入れます。
それは、自分自身で入れるのです。
これは、あなたの人生です。
あなたは、自分の人生の原因なのです。
あなたは、自分という器に相応しいものを自分で入れます。
器が美しければ、それに見合う美しいものが与えられるでしょう。
器が汚ければ、それに見合う汚いものが与えられるのです。
誰一人として、例外はありません。
すべての人は、因果の仕組みに従わなければならないのです。
大切なのは、自分自身がどのように存在するか?ということです。
自分自身のあり方によって、人生は決定されるのです。
あなたは、誰かや何かを磨く必要はありません。
自分自身を磨けば良いのです。
それ以外に、本質へと近付き、人生の目的を果たす方法は存在しないのです。
自分を磨くためには、許(ゆる)すことです。
現状を受け入れることがなければ、磨くことは出来ないのです。
許しこそが、否定を癒(いや)すのです。
あなたが許すことによって、それに相応しい結果が導かれます。
それは、より良いと思える状況なのです。
許す人の器は美しいということを理解しなければなりません。

2019年6月21日金曜日

許し

この世界におけるすべては必要です。
この世界においては、不要は存在しないのです。
どのようなものにも意味があります。
そして、どのようなものにも価値があるのです。
この世界には、不要は存在しません。
この世界には、無意味は存在しません。
この世界には、無価値は存在しないのです。
なぜなら、不要も無意味も無価値も、存在する必要も意味も価値も無いからです。
存在しているものには、必要性と意味と価値が存在するのです。
それは、どのようなものであったとしても、必要であり、意味があり、価値があるのです。
しかしながら、人にはそれが分かりません。
人には、その必要性と意味と価値を理解することが出来ないのです。
それは、すべての人が、偏(かたよ)っているからです。
人は、その偏りによって、不要と無意味と無価値を見出すのです。
残念ながら、人は全能ではありません。
人は、完全ではないのです。
すべての人が未熟なのです。
あなたは、そのことを覚えておかなければならないのです。
人は、未熟であるが故(ゆえ)に偏見を抱えます。
偏見とは、視点の偏りです。
それは、限定的に考えることを意味しているのです。
すべての人は、限定的に考えます。
大抵の場合、それは自分の立場に従った思考なのです。
人は、自分の立場から物を見ています。
人は、自分の立場から見て、それが必要か不要か、意味があるか無意味か、価値があるか無価値かを判断しているのです。
人は、限定的にしか物事を判断することが出来ません。
そのため、多くを間違えてしまいます。
この世界には、必要だけが存在します。
それが、どのようなものであれ、存在しているのであれば必要です。
世界を限定的に見ている人には、そのことが理解出来ないのです。
すべては、あなたにとっての必要です。
不要に思えるものも必要です。
無意味に思えることにも意味があります。
無価値に思えるものにも価値があるのです。
あなたには、それが分からないだけなのです。
限定的に見ているのであれば、その必要性と意味と価値に気が付くことは出来ません。
大切なのは、許(ゆる)すことです。
不要や無意味や無価値を許せば、そこに必要性と意味と価値を見出すことが出来るのです。
許しとは、享受(きょうじゅ)することです。
否定するのであれば、そこに存在する必要性と意味と価値を理解することは出来ないのです。
あなたは、許さなければなりません。
許すことによって、制限を取り除くことが出来ます。
人は、未熟に縛られているのです。
未熟者は、許すことが出来ません。
許すことが出来ずに、争うのです。
争いは、互いの正義によって引き起こされます。
正義とは、偏見に過ぎません。
何かに偏っている状態が正義なのです。
正義は、決して正しい立場ではありません。
正義を掲げる時点において、それは、不義(ふぎ)と分裂するのです。
正義は、不義(別の正義)と争うのです。
そこには、許しが存在しません。
不義(別の正義)を許容(きょよう)してこそ、必要を理解することが出来るのです。
大切なのは、柔軟に生きることです。
正義を振りかざすことなく生きる必要があるのです。
すべてが必要であって存在しているということを覚えておきましょう。
許すことによって、別の視点に気が付くことが出来るでしょう。
あなたはそこで、不要と無意味と無価値の中に、必要性と意味と価値を見出すのです。

2019年6月20日木曜日

幻想との争い

”すべては一つ”です。
この世界におけるすべての存在は、一つなのです。
すべてが一つに繋がっています。
何一つとして、分離してはいないのです。
この世界には分離は存在しません。
しかしながら、あなたには、分離が存在するように思えるでしょう。
それは、あなたが未熟であるからです。
未熟者には、”すべては一つ”ということが理解出来ません。
未熟者には、分離が存在するように思えるのです。
残念ながら、この世界には分離は存在しません。
”すべては一つ”なのです。
なぜなら、この世界には意味が存在するからです。
この世界におけるすべてに意味が存在しています。
この世界において、無意味なものは存在しません。
それが、どのようなものであったとしても、そこに意味が存在するということを理解しなければなりません。
無駄に思えることはありますが、それは決して無駄ではないのです。
意味があるということは、すべてが繋がっているということなのです。
繋がっているからこそ、意味が生じるのです。
この世界において、無駄はありません。
あなたは、どのような経験からも学びを得ることが出来るのです。
あなたは、学びを得ることによって成長を実現することが出来るのです。
成長とは、人生の目的です。
あなたは、人生において成長を実現しなければなりません。
成長を実現するためには、目の前の経験を受け入れなければならないのです。
目の前の経験を受け入れることによって、必要な経験値を得ることが出来るのです。
成長は、それに必要な経験値を得ることによって実現します。
必要な経験値を得なければ、どのような努力も必要を実らせることは出来ないのです。
必要な経験を得なければ、停滞を生きることになるのです。
多くの人は、停滞を生きています。
多くの人は、停滞の中で多くの問題や苦しみを経験しなければなりません。
あなたが問題や苦しみを経験しているのであれば、停滞を生きているということを理解しなければならないでしょう。
停滞とは、必要な経験を得るための時間です。
人は、停滞の中で問題や苦しみを経験することによって、必要を得ることが出来るのです。
必要を得ることによって成長を実現し、必要を得ることによって人生を進めることが出来るのです。
停滞にも、大切な意味が存在しています。
問題や苦しみにも、大切な意味が存在しているのです。
あなたは、問題や苦しみの中に意味を見出さなければなりません。
しかしながら、多くの人は、問題や苦しみを否定します。
多くの人は、そこに意味を見出そうとは思わないのです。
多くの人は、問題や苦しみから逃れる方法を探し続けているのです。
言っておきますが、実は問題や苦しみは存在しません。
況(ま)してや、敵などというものは存在しないのです。
多くの人は、問題や苦しみの中に敵を見出して争います。
しかしながら、それは幻想に過ぎないのです。
問題や苦しみも幻想です。
それは、存在するように思えますが、存在してはいないのです。
問題や苦しみ、そして、その中の敵は誤解に過ぎません。
本来ならば、それ等はあなたの成長を助けるものなのです。
問題や苦しみや敵は、すべてが自分自身の投影であるということを理解しなければならないのです。
あなたは、存在しない問題や苦しみや敵によって争っているのです。
幻想と争っているのです。
それは、とても滑稽(こっけい)なことなのです。
あなたが、幻想を手放すためには、許(ゆる)さなければなりません。
あなたは、目の前の問題や苦しみ、そして、敵を許さなければならないのです。
それは、自分自身を許すことなのです。
許しは、幻想を解きます。
あなたは、許しによって、目の前の問題や苦しみや敵が幻想であることに気が付くのです。
”すべては一つ”です。
争いによって分離を試みてはなりません。
あなたは、許しによって統合を図る必要があるのです。

2019年6月19日水曜日

被害者

これは、あなたの人生です。
あなたは、自分の人生を生きているのです。
あなたは、この人生において、目的を果たさなければなりません。
すべての人は、目的を以(もっ)て生まれました。
すべての人は、目的を果たさなければならないのです。
人生の目的を果たすためには、自分の人生を生きる必要があります。
自分の人生を生きることが出来なければ、自分の目的を果たすことは出来ないからです。
大切なのは、自分を生きることです。
自分の人生を生きることが必要なのです。
しかしながら、多くの人は、自分を生きることが出来ません。
多くの人は、自分の人生を生きることが出来ないのです。
そのため、多くの人は人生の目的を果たすことが出来ません。
人生の目的を果たすことが出来なければ、人生は乏しさを実現するのです。
それは、苦しみであるのです。
多くの人は、自分の人生を生きることが出来ません。
そのために、人生に乏しさを覚え、苦しむのです。
人生において、苦しまない人はいません。
すべての人が苦しむのです。
それは、すべての人が自分を見失っているからです。
自分を見失っている人は、これが自分の人生であるということを知りません。
自分を見失っている人は、人生を他人事のように考えているのです。
人生には問題が生じます。
どのような人生にも問題が付き物なのです。
問題の生じない人生など存在しません。
多くの人は、問題が誰かや何かによって引き起こされたものだと考えます。
多くの人は、問題を引き起こしたのが、自分以外の何かであると思い込んでいるのです。
そのため、多くの人は、自分を被害者として慰(なぐさ)めるのです。
多くの人は、被害者として生きています。
多くの人は、被害者として怒り、被害者として悲しみ、被害者として苦しみ、被害者として喜ぶのです。
残念ながら、人生において、あなたは被害者には成り得ません。
どのような状況においても、あなたは被害者には成れないのです。
なぜなら、これは、あなたの人生だからです。
これは、自分の人生なのです。
自分の人生を創造したのは、自分自身なのです。
誰かや何かがあなたの人生を創造した訳ではありません。
どのような状況も、自分の選択によって導かれたものなのです。
それが問題であるのならば、あなたに問題があるのです。
それが苦しみであるのならば、あなたに苦しみの原因が存在するということなのです。
残念ながら、あなたは被害者ではありません。
自分で問題を引き起こしておいて、被害者には成れないのです。
人生におけるすべての状況は、あなたの選択の結果に過ぎません。
原因は、自分自身の選択なのです。
それ以外にはありません。
人生がどのように見えても、それはあなたが創造したのです。
あなたは、人生において、自分の未熟さと向き合わなければなりません。
あなたは常に、自分と向き合うことになるのです。
誰かや何かと向き合っているのではありません。
これは、自分の人生なのです。
厳密(げんみつ)には、自分以外の何かと向き合う必要がないのです。
自分以外の誰かや何かは、自分という原因を知るための助けに過ぎません。
あなたを知らせるための助けが、あなたを苦しめることはないのです。
あなたは、そのことを理解しなければなりません。
誰かや何かを許(ゆる)しましょう。
そうすれば、自分への理解を深めることが出来るでしょう。
自分への理解を深めることによって、自分の人生を生きることが出来るのです。
自分の人生を生きれば、人生の目的を果たすことが出来るでしょう。

2019年6月18日火曜日

人気

あなたは、本質を見極めなければなりません。
あなたは、本質を生きなければならないのです。
本質を生きることは重要です。
なぜなら、本質を生きることがなければ、人生の目的を果たすことが出来ないからです。
すべての人は、人生に目的を以(もっ)て生まれます。
人生に目的もなく生まれる人はいません。
すべての人が、果たすべき目的を以て生まれるのです。
あなたには、果たさなければならない目的があります。
あなたは、それを果たさなければなりません。
しかしながら、人生の目的を果たすことは容易(ようい)ではありません。
なぜなら、あなたが人生の目的を果たすためには、本質を見極め、本質を生きなければならないからです。
すべての人は未熟に生まれます。
それは、すべての人が無知であることを意味しているのです。
すべての人が無知を生きています。
人は、無知によって本質を見失うのです。
多くの人は本質を見失っています。
多くの人は、現象に捕らわれて生きているのです。
現象とは、結果のことです。
結果は本質ではありません。
本質とは、原因のことなのです。
あなたが人生の目的を果たすためには、人生の原因を知らなければなりません。
人生の原因を知るためには、”人生とは何か?”という問いに行き着くのです。
人生の原因とは、人生の意味です。
あなたは、何のために生まれたのでしょうか?
本質を見極めるということは、人生の意味を見極めるということなのです。
しかしながら、多くの人は人生の意味を見極めようとは思いません。
多くの人は、現象を追い求めているからです。
多くの人は、人生を謳歌(おうか)することを求めます。
それは、物質的な快楽や欲望を貪(むさぼ)ることによって実現するのです。
人生を謳歌している人は、目の前の快楽や欲望を貪ることに成功した人のことです。
多くの人は、それを人生の成功と考えているのです。
そのため、多くの人は、物質的な快楽や欲望を貪ることに努めているのです。
それは、現象に捕らわれる生き方です。
多くの人には、本質を見極めることが出来ません。
多くの人は、本質を知らずに生きなければならないのです。
本質を知らずに生きることは、人生に乏しさを実現するのです。
あなたは、人生を豊かに生きなければなりません。
人生の目的を果たし、満足を得なければならないのです。
そのためには、本質を見極めなければなりません。
あなたは、本質を見極めましょう。
本質は、現象のようには現れません。
本質を見極めるためには、現象から深くへと辿(たど)らなければならないのです。
本質は、深くに存在しているのです。
現象は、決して本質ではありません。
現象をどれだけ追い求めても、人生の目的を果たすことは出来ないのです。
人生の目的を果たすためには、本質を追い求めなければならないのです。
しかしながら、多くの人は本質を見極めることが出来ません。
多くの人は、現象を追い求めています。
例えば、多くの人は、人気のあるものを良いと考えるのです。
しかしながら、人気があるものは、決して本質ではありません。
なぜなら、すべての人が未熟であり、未熟な者には、本質を見極めることなど出来ないからです。
多くの人が支持しているということは、それは本質ではないということなのです。
人気があるものは本質ではありません。
あなたは、そのことを覚えておきましょう。
人気がある道を進んでも、人生の目的を果たすことは出来ません。
なぜなら、あなたの人生の目的は、他のどの目的とも異なっているからです。
多くの人が支持するからといって、それが良いものとは限りません。
人気とは、多くの人にとって都合が良いものなのです。
未熟者に都合の良いものが本質であるはずがありません。
本質とは、そのように容易(たやす)いものではないのです。
多くの人に支持されているという理由で、それを支持してはなりません。
多くの人には、本質が分からないのです。
あなたは、現象に捕らわれずに本質を探しましょう。
そして、それを見極めましょう。

2019年6月17日月曜日

価値のあるもの

すべての人は、目的を以(もっ)て生まれます。
すべての人は、目的を果たさなければならないのです。
人生において、目的を無視することは出来ません。
人生の目的を無視して生きることの出来る人はいないのです。
すべての人は、人生の目的と向き合わなければなりません。
人生の目的を無視しようとしても、目の前には常に人生の目的に関連する状況が導かれるのです。
人生の目的は果たさなければなりません。
あなたは、目的を果たすために生まれたのです。
あなたは、人生の目的と向き合わなければならないのです。
すべての人が、人生の目的を果たすために生まれました。
人生の目的は、人それぞれに異なっています。
あなたには、あなたの人生の目的が存在するのです。
誰かと同じように生きたところで、人生の目的を果たすことは出来ません。
あなたは、あなたの人生の目的を果たす必要があるのです。
目的は、人それぞれに異なります。
あなたは、あなたの人生の目的を果たさなければならないのです。
しかしながら、多くの人は、人生の目的を見失っています。
多くの人は、自分が何をすれば良いのか?ということが分からないのです。
多くの人は、暗闇を手探りで生きているのです。
人生の目的を見失い、自分が何をすれば良いのか?分からなくても、あなたは人生の目的を果たさなければならないのです。
異なる目的のために生きている人も、自分にとっての価値が人生の目的を果たすための材料であることを知らなければなりません。
人は、自分にとっての価値を追い求めることによって、人生の目的を果たすことが出来るのです。
あなたが人生の目的を果たすためには、自分にとっての価値を追い求めなければならないのです。
あなたは、価値を追い求めましょう。
しかしながら、これは、利己的に生きるということではありません。
利己的に生きたとしても、そこに価値はないのです。
価値を追い求めるというのは、本質を追い求めるということです。
あなたは、本質を見極めなければならないのです。
本質にこそ価値があるのです。
本質とは、この世の理(ことわり)のことです。
この世の理以上に価値のあるものが存在するでしょうか?
この世の理は、何よりも価値のあるものなのです。
この世の理を追い求めるのであれば、その過程において人生の目的を果たすことが出来るでしょう。
本質を追い求める姿勢が、あなたの人生を豊かなものにするでしょう。
あなたは、価値を見極めなければなりません。
価値とは、本質であり、理のことです。
価値を見極めるということは、本質や理を見極めるということなのです。
古いから良いということも、新しいから良いということもないのです。
古くても良いものもあれば、新しくて悪いものもあります。
新しくて悪いものもあれば、古くて良いものもあるのです。
本質とは、古くても新しくても価値のあるものです。
理は、いつの時代も同じなのです。
本質は、いつの時代にも価値があるものです。
古くても、新しくても、価値のあるものを追い求めましょう。
古くても、新しくても、価値のあるものは存在するのです。
あなたは価値を探さなければなりません。
古さや新しさに捕らわれずに、価値を探しましょう。
それは、あなたにとっての価値で構いません。
誰かにとっての価値が、あなたにとっての価値であるとは限りません。
価値は、人それぞれに異なるということを覚えておきましょう。
自分にとっての価値を追い求めることによって、あなたは本質を得ることが出来るでしょう。
本質を得れば、理へと辿り着くことが出来るのです。
それは、人生の目的を果たすためには、必要なことなのです。
価値を追い求めなければなりません。
本質を見極めなければなりません。
理に辿り着かなければなりません。
人生の目的を果たさなければなりません。

2019年6月16日日曜日

忘れ物

すべての人は、人生に目的を以(もっ)て生まれます。
すべての人は、人生において目的を果たさなければならないのです。
人は、それぞれに異なる目的を以て生まれますが、成長の先に目的の達成が存在することは共通しているのです。
すべての人は、人生において成長を実現しなければなりません。
成長を実現することによって、人生の目的を果たすことが出来るのです。
成長を実現することは難しいことではありません。
しかしながら、それは難しいことでもあるのです。
なぜなら、成長を実現するためには、必要な経験を受け入れなければならないからです。
成長のために必要な経験を受け入れることは容易(ようい)ではありません。
なぜなら、成長のために必要な経験とは、人生そのものだからです。
あなたが成長を実現するためには、人生を受け入れなければならないのです。
人生を受け入れることは容易ではありません。
多くの人は、人生を受け入れることが出来ないのです。
なぜなら、人生は苦しいからです。
多くの人は、人生を有りの儘(まま)に受け入れることが出来ません。
多くの人は、人生を我が儘に受け入れたいと考えているのです。
多くの人が、自分の都合で人生を考えています。
多くの人は、人生が自分に有利に働くことを望んでいるのです。
多くの人は、人生の幸福を願っています。
しかしながら、多くの人の考える幸福とは、利己的な偏見(へんけん)に過ぎないのです。
多くの人の考える幸福とは、誤解に過ぎないということを理解する必要があるのです。
多くの人には、幸福の意味が分かりません。
多くの人には、真(まこと)の幸福を理解することは出来ないのです。
それは、人生の目的を理解してはいないからです。
多くの人は、人生の目的を見失っています。
多くの人は、自分が何をしているのか分からないのです。
自分が何をしているのか分からないために、人生を有りの儘に受け入れることが出来ないのです。
人生の目的を知れば、人生を有りの儘に受け入れることが最善であるということを理解することが出来ます。
しかしながら、人生の目的が分からないために、人生を我が儘に生きようとするのです。
すべての人生には、大切な目的があるのです。
あなたは、それを思い出さなければなりません。
人生は無駄な時間ではありません。
すべての経験が、あなたの目的を果たすために必要なものなのです。
人は、”忘れ物”を取り戻すために生まれました。
人には、忘れてはならないものがあるのです。
それを取り戻すまでは、道を戻らなければなりません。
あなたは、必要を満たすまで、何度も同じ経験を必要とするのです。
人生の目的とは、”忘れ物”を取り戻すことです。
目の前の快楽や欲望を貪(むさぼ)ることや、暇潰(ひまつぶ)しなどではありません。
もちろん、苦悩に溺(おぼ)れることでも、生き長らえることでもないのです。
あなたは、”忘れ物”を取り戻すことによって、不足を補(おぎな)い、歪みを正すことが出来るのです。
”忘れ物”は、人それぞれに異なりますが、すべての人がそれを取り戻すために生きているのです。
この世の物は、あなたには馴染(なじ)みのないものばかりです。
あなたは、この世の物を取り戻すために生まれたのではないのです。
名声や地位や財産を集めたところで、あなたが満たされることはありません。
それ等は、あなたの”忘れ物”ではないからです。
”忘れ物”は、形の無いものです。
それは、あなたが完成するための部品なのです。
それは、心のための部品です。
それは、人格のための部品です。
それは、魂のための部品なのです。
あなたの本質は、肉体ではありません。
あなたの本質は霊であり、魂なのです。
霊や魂が、この世の名声や地位や財産を欲しがり、喜ぶと思いますか?
霊や魂には、この世の価値は魅力的に映らないのです。
これは、真に価値のあるものを探す(思い出す)ための人生です。
あなたは、それを忘れているのです。

2019年6月15日土曜日

動機

すべての人は、動機を以(もっ)て歩み始めます。
すべての人は、どのような道に対しても、それに相応しい動機を抱えています。
どのような道も、動機がなければ存在しません。
道は、動機が存在しなければ存在しないのです。
しかしながら、道は歪(ゆが)んでしまいます。
それは、動機が変わるからです。
動機に従って、道は変化します。
動機が変わるのは、人が未熟であるからです。
動機が純真へと近付くこともありますが、大抵の場合、動機は歪んでいくのです。
大抵の動機は、純真から生じます。
多くの人は、純真な動機によって道を歩み始めるのです。
それは、とても単純であり、明快な動機です。
純真な動機とは、それを好きであることや、それが楽しいという簡単な理由なのです。
その理由が簡単である程に、その動機は純真へと近付くのです。
しかしながら、すべての人は壁や問題に行く手を阻(はば)まれてしまいます。
それは、多くの人にとって、純真な動機では乗り越えることが出来ないと思えるような壁や問題であるのです。
残念ながら、この世界においては、純真な動機によって乗り越えられない壁や問題は存在しません。
それは、その動機が純真である程に、本質的であるからです。
本質は、単純な形をしているのです。
そのため、簡単な動機である程に、その壁や問題を乗り越えることが出来るのです。
しかしながら、多くの人はそのことを知りません。
道を阻む壁や問題を乗り越えるためには、尤(もっと)もらしい動機が必要に思えるのです。
それは、難しく、複雑な動機です。
多くの人は、難しく、複雑なものの方が優れていると思い込んでいます。
そのようなものにこそ価値があると思い込んでいるのです。
そのため、多くの人は、目の前の壁や問題に対処するために、より難しく、より複雑な動機を生み出そうとするのです。
それは、道を詰(つ)まらないものにしてしまうのです。
道を歩むのが面白いのは、純真な動機で歩んでいるからです。
好きなことや、楽しいことをしているのであれば、退屈することはないのです。
しかしながら、難しく、複雑な動機のために歩むのであれば、人はやがて退屈してしまうのです。
多くの人は、壁や問題に耐え切れずに、利益や名声や地位、自尊心や優越感を満たすために道を歩むようになるのです。
利益や名声や地位、そして、自尊心や優越感を満たすことは、詰まらないことなのです。
なぜなら、それは、不足を補(おぎな)う行為だからです。
難しく、複雑な動機のために歩もうとするのであれば、不足を補うために歩まなければならないのです。
それは、マイナスをゼロにするだけの歩みです。
それは詰まらないことであり、退屈なことなのです。
あなたは、利益や名声や地位、自尊心や優越感を満たすような詰まらないことのために道を歩んでいる訳ではありません。
その道を歩むことが好きであり、楽しいからこそ、その道を歩んでいるのです。
人生を難しく複雑に考える必要はありません。
純真な動機を見失ってはならないのです。
純真な動機を見失ってしまえば、遠回りを強いられます。
動機が不純であれば、道は歪んでしまうのです。
動機が不純であることは、動機が変わる理由です。
純真な動機は、それを変える必要はないのです。
なぜなら、それは最も本質的な動機だからです。
好きなことや、楽しいことは、立派な動機です。
しかしながら、世の中は恐怖に支配されているために、詰まらないことのために道を歩むのです。
詰まらないことを動機とすれば、詰まらない歩みになることは明白なのです。
残念ながら、多くの人が、自分の歩みと道に退屈しています。
多くの人は、不満や不安を吐きながら生きているのです。
それは、動機が不純であるからです。
大切なのは、動機を改めることです。
動機が純真であれば、どのような道を歩んでも楽しいのです。
道を喜ぶ人の動機は、純真であることを覚えておきましょう。
子どもは、詰まらないことのために道を歩んだりはしません。
それは、純真な心を生きているからです。
純真な子どもにとっては、どのような状況も楽しいのです。
あなたは、そのことを覚えておきましょう。
人生の状態は、動機によって決まるということを理解しましょう。

2019年6月14日金曜日

肥大

すべての人は、成長を実現するために生まれました。
すべての人は、人生において、成長を実現しなければならないのです。
そして、すべての人は成長を求めています。
それは、成長することが心に満足を導き、人生に豊かさを導くことを知っているからです。
しかしながら、多くの人は、成長について誤解しています。
多くの人は、成長の意味を履き違えているのです。
多くの人は、成長とは、肥大することだと考えています。
拡大することが成長であると考えているのです。
多くの人は、何かを大きく育てることを成長だと思い込んでいるのです。
残念ながら、肥大することは成長ではありません。
成長とは、大きく育てることではないのです。
成長とは、本質に迫ることです。
本質に迫ることがなければ、成長は実現しないのです。
例え、縮小したとしても、それが本質に迫っているのであれば成長なのです。
本質に迫ることは、無駄を削(そ)ぎ落とすことです。
余計を手放したり、歪みを正したり、汚れを落とすことが成長なのです。
肥大することを成長であると安易(あんい)に考えてはならないのです。
本質に迫るために肥大する必要があるというのであれば、それは成長です。
しかしながら、多くの場合、本質に迫るために肥大する必要はないのです。
大抵の場合、本質に迫るためには、縮小しなければなりません。
なぜなら、本質は、それの最も深い場所にあり、中心に存在しているからです。
肥大する程に、中心から離れてしまうのです。
多くの人は、成長するために大きく育てようと努めます。
しかしながら、その方法が最善ではないということを理解しなければなりません。
大きい程に、本質から離れます。
大きい程に、動かすことが難しいのです。
大きい程に、止めることが難しいのです。
大きい程に、方向転換(ほうこうてんかん)が難しいのです。
大きい程に、手放すのが難しいのです。
大きい程に、融通無碍(ゆうずうむげ)が難しいのです。
大きいことは、必ずしも良いことではありません。
なぜなら、道は一直線ではないからです。
あなたの進まなければならない道は、曲がりくねっています。
あなたの進まなければならない道は、険しいものなのです。
あなたが道を進むためには、道に従った対応をしなければなりません。
道に従わなければ、歩みを進めることは出来ないのです。
例えば、信仰や価値観が大きい程に、道に従うことが出来ません。
信仰や価値観が大きければ、人は、それをどうしても果たそうとして傲慢(ごうまん)に陥(おちい)ってしまうのです。
積み上げたものが大きい程に、それを手放すことが出来ません。
人は、大きく育てる程に、強く心が引かれてしまうのです。
人生は、決して思い通りにはなりません。
道が曲がっているのに、真っ直ぐ進むことは出来ないのです。
道が曲がっているのに、真っ直ぐに進もうとすれば、道から外れてしまいます。
それでは、目的地へと辿り着くことは出来ないのです。
あなたは、目的地へと辿り着くために歩んでいるのです。
人生は、目的を果たすために生きているということを理解しなければなりません。
本質に迫ることは、道を進むということです。
あなたは、成長しましょう。
あなたは、本質に迫らなければならないのです。
無闇に肥大することが本質に迫ることではありません。
本質に迫るためには、時には立ち止まり、時には曲がらなければならないのです。
信仰や価値観を曲げることには、大きな抵抗を覚えるかも知れません。
しかしながら、本質に迫るためには、信仰や価値観”など”曲げなければならないのです。
あなたの考えは取るに足りません。
なぜなら、あなたは未熟だからです。
成長を誤解してはなりません。
本質に迫ることこそが成長であるということを覚えておきましょう。

2019年6月13日木曜日

自分への道

すべての人は、目的を以(もっ)て生まれます。
人生には、目的が存在するのです。
目的も無く生まれる人は存在しません。
目的の無い人生など、存在しないのです。
すべての人は、目的を果たすために生まれます。
すべての人は、人生の目的を果たさなければならないのです。
しかしながら、人生の目的を果たすことは容易(ようい)ではありません。
それは、誰にとっても難しいことなのです。
なぜなら、人は人生の目的を忘れてしまうからです。
多くの人は、人生の目的を見失います。
多くの人には、自分が何のために生まれたのか?分からないのです。
そのため、取り敢(あ)えずは、誰かや何かによって用意された道に進むのです。
しかしながら、それは、人生の目的を果たすための道ではありません。
なぜなら、それは自分で選択した道ではないからです。
人生の目的を果たすためには、人生の目的を果たすための道を歩まなければなりません。
人生の目的は、自分自身だけが知っています。
他の誰にも、あなたの人生の目的は分からないのです。
人生の目的を果たすための道は、自分自身に選ばせなければならないのです。
誰かや何かによって選ばれた道を進んだとしても、その先に目的地は存在しません。
あなたが人生の目的を果たすためには、自分で人生を選ばなければならないのです。
人生は、選択です。
あなたは、常に選ばなければなりません。
自分で選ぶことをしなければ、自分の人生を生きることは出来ないのです。
多くの人は、人生の目的を見失っています。
そのため、誰かや何かに人生を選ばせるのです。
多くの人にとって、それは当たり前の選択です。
誰かや何かに用意された道を進むことは、選択においては楽だからです。
人は選択しなければなりませんが、選択することは容易ではありません。
多くの人は、出来れば選択したくないと考えているのです。
多くの人は、選択を恐れます。
それは、自分にとって都合の悪い事態を引き起こしてしまう可能性があるからです。
都合の悪い事態とは、生存に対して不利な状態です。
多くの人は、生存に有利な状態を求めています。
多くの人は、自分にとって都合の良い事態を求めているのです。
そのため、成功の見込みの少ないことを選択することはありません。
多くの人は、人生について考えることをせず、用意された道において、どれだけの安定と快楽や欲望を貪(むさぼ)ることが出来るか?ということを考えているのです。
多くの人は、用意された道において、他者と競い合います。
多くの人は、互いに牽制(けんせい)しながら生きていくのです。
多くの人の目的は、他者との競争に勝ること、仕事や資産を拡張(かくちょう)すること、快楽や欲望を貪ること、自尊心を慰(なぐさ)めること、不安や心配を押さえ付けること、などに切り替わってしまうのです。
多くの人は、そのようなことを実現するために生きているのです。
多くの人にとって、そのような目的が当たり前となっているのです。
残念ながら、これは、あなたの人生です。
あなたの人生の目的と、他者の人生の目的は、決して同じものではありません。
誰もが、異なる目的のために生まれ、異なる目的を果たすために生きているのです。
当たり前の生き方が、あなたを満たすことはないのです。
人生の目的を果たすことがなければ、何を得ても満たされません。
当たり前に固執(こしつ)しているのであれば、人生は空しいのです。
あなたは、人生の目的を果たさなければなりません。
人生の目的とは、あなたにとっての真実です。
あなたは、真実へと辿り着かなければならないのです。
当たり前を疑わなければ、真実に辿り着くことは出来ません。
なぜなら、当たり前とは、あなたにとっての偽(いつわ)りだからです。
当たり前を疑えば、人は真実に近付くことが出来ます。
この世界における真実とは、理(ことわり)のことなのです。
理とは、この世界における法則であり、それは、真(まこと)の自分なのです。
あなたは、理に辿り着くことによって、自分の役割と人生の目的を理解することが出来るでしょう。
誰かや何かに用意された道を、疑いもなく歩んではなりません。
あなたは現状を疑いましょう。
世界を疑いましょう。
人生を疑わなければなりません。
そこから、理と真の自分への道が始まるのです。

2019年6月12日水曜日

青虫と蝶

人生には、多くの可能性が存在しています。
人生は、どうなるか分かりません。
あなたには、人生を知ることが出来ないのです。
人生は、あなたの予想を裏切ります。
人生は、あなたの思い通りには展開しないのです。
多くの人は、人生についてあれこれと考えます。
それは、人生に対して、自分の都合を反映しようと企(たくら)んでいるからです。
多くの人は、人生に対して、自分の都合の良い状況を望んでいるのです。
しかしながら、人生には自分にとって都合の悪い状況も導かれます。
それを見て、多くの人は、人生に裏切られたと感じるのです。
すべての人は、未熟に生まれます。
この世界においては、すべての人が未熟なのです。
すべての人は、無知を抱えています。
無知は、愚行(ぐこう)を引き起こすのです。
すべての人が、愚かに生きているということを知らなければなりません。
当然のことながら、あなたも愚かに生きているのです。
すべての人には、人生の正解が分かりません。
人生において、何が最善なのか?それは誰にも分からないことなのです。
すべての人が、人生の正解を知らずに生きているのです。
すべての人が、人生の正解を探しているのです。
人生の正解とは、人生の目的のことです。
すべての人は、目的を以(もっ)て生まれます。
そして、すべての人は、目的を果たさなければならないのです。
すべての人は、人生の目的を探しているのです。
青虫は、自分が生まれた目的を知りません。
青虫は、葉を食べることに懸命です。
青虫は、葉を食べることを生きる目的としているのです。
しかしながら、青虫はいつまでも青虫のままでいることは出来ません。
時(必要な条件)が満ちれば、青虫は葉を食べるのをやめなければなりません。
そして、蛹(さなぎ)へと自らの形を改めなければならないのです。
青虫と蛹は、全く異なる姿形をしています。
青虫は、自分が蛹になることを知らないのです。
青虫は、蛹になった後に、自分が蛹であったことを知るでしょう。
しかしながら、時が満ちれば、蛹は蝶(ちょう)へと形を改めなければなりません。
自分を蛹だと思っていた青虫は、自分が蝶であったことを知るのです。
青虫と蝶は、姿形は然(さ)る事乍(ことなが)ら、性質も全く異なるのです。
青虫は、自分が蛹であり、蝶であることを知りません。
それは、想像が及(およ)ばないことなのです。
しかしながら、時が満ちれば、青虫は蝶に成るのです。
それは、避けられないことです。
人は、何に成るのでしょうか?
時が満ちれば、あなたが現状の姿形や性質ではいられないのです。
あなたは、想像が及ばない存在へと変貌(へんぼう)を遂(と)げることになるのです。
人生は、どうなるか分かりません。
人生は、あなたの予想を裏切ります。
現状だけで判断することが出来る程、人生は簡単なものではないのです。
自分を決め付けてはなりません。
人生を決め付けてはならないのです。
自分も、人生もどうなるか分かりません。
青虫が蝶に成るように、あなたも驚くべき変貌を遂げることになるのです。
人生に対して、自分に対して、可能性を捨ててはなりません。
人生にも、自分にも、多くの可能性が存在しているのです。
何事も諦(あきら)める必要はありません。
一心不乱(いっしんふらん)に自分の仕事に励(はげ)みましょう。
どのような状況においても、今の自分に出来ることを懸命に行うのです。
そうれば、青虫が蛹と成り、やがて蝶に成ったように、人生の目的を見出して、それを果たす人と成るでしょう。

2019年6月11日火曜日

違和感

人は、独りでは生きていくことが出来ません。
すべての人は、他者との関わりの中に人生を築かなければならないのです。
人は、独りで生まれることが出来ません。
人は、母体を通じて生まれなければならず、その時点において、”他者”との関わりが存在しているのです。
孤独を愛していたとしても、他者との関わりを断つことは出来ません。
どのような形であれ、人は、他者との関わりを維持しなければならないのです。
この世界には、完全に孤独な者は存在しません。
人は、他者と関わらなければならないのです。
他者と関わることは大切です。
なぜなら、あなたが自力で解決することが出来る問題は少ないからです。
大抵の問題は、他者の協力を得て解決するしかないのです。
あなたが独りで解決することの出来る問題など、ほとんど存在しないということを知らなければなりません。
否応無(いやおうな)しに、あなたは他者と協力しなければならないのです。
自分の問題を解決するためには、他者の協力が必要です。
それは、他者もあなたの協力を必要としているということです。
他者の問題の解決に助力することが、自分の問題の解決に繋がります。
利己的に自分のことだけやっていても、自力では問題を解決することは出来ないのです。
自分は他者に協力せずに、他者からの協力を得ようと考えるのは傲慢(ごうまん)です。
それは、愚(おろ)かなことなのです。
なぜなら、この世界には、因果の仕組みが存在しているからです。
この世界においては、原因に相応しい結果だけが実現します。
必要な結果を実現するためには、それを実現するに相応しい原因が必要なのです。
他者への協力という原因が存在しなければ、他者からの協力という結果は実現しないのです。
因果の仕組みを前にして、自分だけが利益を得ることなど出来るはずがないのです。
どのような人物も、因果の仕組みを無視することは出来ないのです。
あなたは、出来る限り、他者に協力しなければなりません。
あなたは、他者との関わりを断つことは出来ないのです。
他者との関係においては、あなたにとって都合の良いことばかりではありません。
他者との関係においては、あなたにとって都合の悪いことも多いのです。
残念ながら、人は分かり合えません。
人は、互いのことを理解することが出来ないのです。
それは、人生の目的が異なるからです。
人生の目的に付随(ふずい)して役割が与えられています。
人は、それぞれに異なる役割を担(にな)っているのです。
目的と役割が異なれば、選択肢も異なります。
選択肢が異なれば、互(たが)いの間には軋轢(あつれき)が生じてしまうのです。
人は、他者との関わりにおいて、葛藤(かっとう)しなければならないのです。
残念ながら、それがどのような人物であったとしても、他者との関わりが円滑(えんかつ)に運ぶことはありません。
必ず、何かは引っ掛かるのです。
他者との間には、必ず違和感が生じます。
残念ながら、あなたには、それを取り除く手立てがありません。
誰にも、他者との間の違和感を取り除くことは出来ないのです。
他者との関わりは、違和感そのものです。
あなたは、そのことを理解しなければなりません。
どのように努めても、違和感を取り除くことは出来ません。
それは、人が異なる目的を以(もっ)て生まれ、異なる役割のために生きているからです。
他者との関わりに違和感を覚えることは自然です。
他者との関わりに対しては、違和感を覚えて良いのです。
人は、分かり合えません。
無理に分かり合おうとするのは不自然なことなのです。
無理は祟(たた)ります。
人は、分かり合えなくて良いのです。
あなたは、違和感を抱えたままで協力しましょう。
相手を理解しようとするのは良いことですが、理解しなくても構(かま)いません。
理解することが出来なければ、理解することが出来ないままで良いのです。
違和感を楽しみましょう。
違いがあること、理解することが出来ないことは、素敵なことなのです。

2019年6月10日月曜日

意識の導き

すべての人は、意識を所有しています。
意識とは、先導です。
人は、意識に従(したが)って歩まなければなりません。
どのような人物も、意識の導きを無視することは出来ないのです。
誰もが、意識に導かれているのです。
どのような人物も、意識の導きに逆らうことは出来ません。
それは、喉(のど)が渇(かわ)けば水に導かれるように、あなたには、逆らうことが出来ないのです。
どのような努力も、意識の導きに逆らうことは出来ません。
あなたは、意識に導かれなければならないのです。
意識は、確実にあなたを導きます。
あなたは、従わなければなりません。
意識は、それぞれに異なる段階を得ています。
人は、自らの意識の段階に相応しい導きを得るのです。
意識は、その段階に相応しい導きをします。
意識は、段階に相応しい導きしか出来ないのです。
どのような意識も、段階を超えて働くことは出来ません。
意識の導きは、その段階に限定されるのです。
すべての人は、未熟に生まれます。
それは、意識の段階も未熟であることを示しているのです。
人の未熟さは、意識の未熟さです。
人は、意識の段階に相応しいのです。
あなたの選択、言動、生き方は、あなたの意識を示しています。
人は、意識の段階に相応しい人生を生きなければならないのです。
どのような人生であったとしても、それに相応しい意識の導きを受けているということです。
人生に問題を抱え、苦悩や乏しさを覚えるのは、意識がそれに相応しい段階であるということを理解しなければならないのです。
あなたは、自らの意識の段階を認めなければなりません。
現状を受け入れることが出来なければ、改善は望めません。
改善が望めなければ、展開は実現しないのです。
あなたが人生に展開や豊かさを求めるのであれば、意識を高めなければなりません。
意識を高めるためには、それを磨き、成長させなければならないのです。
意識を高めるためには、学ばなければなりません。
学ぶ意欲の無い者の意識は高まらないのです。
学ぶためには、傲慢(ごうまん)を手放さなければなりません。
自分が正しいという思い込みや、自分が最も優れているという誤解を手放さなければならないのです。
残念ながら、あなたは正しくもなければ、優れてもいません。
あなたは未熟であり、歪(ゆが)んでいるのです。
あなたには、謙虚(けんきょ)に学ぶ必要があるのです。
すべての人が未熟です。
すべての人が傲慢に陥(おちい)り、自分が正しいとか、自分が最も優れていると考えているのです。
自分が正しく、自分が最も優れているのであれば、それ以上に成長することは出来ません。
自分が正しく、自分が最も優れていると考える時に成長は止まるのです。
あなたが成長を実現するためには、自分が間違えていると、自分が劣(おと)っていると考えなければなりません。
ただし、これは自分を蔑(さげす)むということではありません。
自分が未熟であり、今以上に成長することが出来るということを認めなければならないということなのです。
人は、自分が何をしているか分かってはいません。
人は、自分が考え、行っていると思い込んでいるのです。
しかしながら、あなたは何も考えてはいません。
そして、何も行ってはいないのです。
あなたは意識に従っているだけなのです。
意識が考え、意識が行っているのです。
そのことを理解しなければなりません。
あなたは、自分を、他者を許(ゆる)さなければなりません。
すべての人は、意識に従っているだけなのです。
許すことによって、学びを得ることが出来ます。
あなたは、許しましょう。
そうすれば、自らを磨き、成長することが出来ます。
それは、意識を高めることになり、新たな選択肢が得られるのです。
意識が高まることによって、意識の段階は変わります。
意識の段階が変わることによって初めて、人生は展開するのです。
意識の導きを理解しましょう。