すべての人は、動機を以(もっ)て歩み始めます。
すべての人は、どのような道に対しても、それに相応しい動機を抱えています。
どのような道も、動機がなければ存在しません。
道は、動機が存在しなければ存在しないのです。
しかしながら、道は歪(ゆが)んでしまいます。
それは、動機が変わるからです。
動機に従って、道は変化します。
動機が変わるのは、人が未熟であるからです。
動機が純真へと近付くこともありますが、大抵の場合、動機は歪んでいくのです。
大抵の動機は、純真から生じます。
多くの人は、純真な動機によって道を歩み始めるのです。
それは、とても単純であり、明快な動機です。
純真な動機とは、それを好きであることや、それが楽しいという簡単な理由なのです。
その理由が簡単である程に、その動機は純真へと近付くのです。
しかしながら、すべての人は壁や問題に行く手を阻(はば)まれてしまいます。
それは、多くの人にとって、純真な動機では乗り越えることが出来ないと思えるような壁や問題であるのです。
残念ながら、この世界においては、純真な動機によって乗り越えられない壁や問題は存在しません。
それは、その動機が純真である程に、本質的であるからです。
本質は、単純な形をしているのです。
そのため、簡単な動機である程に、その壁や問題を乗り越えることが出来るのです。
しかしながら、多くの人はそのことを知りません。
道を阻む壁や問題を乗り越えるためには、尤(もっと)もらしい動機が必要に思えるのです。
それは、難しく、複雑な動機です。
多くの人は、難しく、複雑なものの方が優れていると思い込んでいます。
そのようなものにこそ価値があると思い込んでいるのです。
そのため、多くの人は、目の前の壁や問題に対処するために、より難しく、より複雑な動機を生み出そうとするのです。
それは、道を詰(つ)まらないものにしてしまうのです。
道を歩むのが面白いのは、純真な動機で歩んでいるからです。
好きなことや、楽しいことをしているのであれば、退屈することはないのです。
しかしながら、難しく、複雑な動機のために歩むのであれば、人はやがて退屈してしまうのです。
多くの人は、壁や問題に耐え切れずに、利益や名声や地位、自尊心や優越感を満たすために道を歩むようになるのです。
利益や名声や地位、そして、自尊心や優越感を満たすことは、詰まらないことなのです。
なぜなら、それは、不足を補(おぎな)う行為だからです。
難しく、複雑な動機のために歩もうとするのであれば、不足を補うために歩まなければならないのです。
それは、マイナスをゼロにするだけの歩みです。
それは詰まらないことであり、退屈なことなのです。
あなたは、利益や名声や地位、自尊心や優越感を満たすような詰まらないことのために道を歩んでいる訳ではありません。
その道を歩むことが好きであり、楽しいからこそ、その道を歩んでいるのです。
人生を難しく複雑に考える必要はありません。
純真な動機を見失ってはならないのです。
純真な動機を見失ってしまえば、遠回りを強いられます。
動機が不純であれば、道は歪んでしまうのです。
動機が不純であることは、動機が変わる理由です。
純真な動機は、それを変える必要はないのです。
なぜなら、それは最も本質的な動機だからです。
好きなことや、楽しいことは、立派な動機です。
しかしながら、世の中は恐怖に支配されているために、詰まらないことのために道を歩むのです。
詰まらないことを動機とすれば、詰まらない歩みになることは明白なのです。
残念ながら、多くの人が、自分の歩みと道に退屈しています。
多くの人は、不満や不安を吐きながら生きているのです。
それは、動機が不純であるからです。
大切なのは、動機を改めることです。
動機が純真であれば、どのような道を歩んでも楽しいのです。
道を喜ぶ人の動機は、純真であることを覚えておきましょう。
子どもは、詰まらないことのために道を歩んだりはしません。
それは、純真な心を生きているからです。
純真な子どもにとっては、どのような状況も楽しいのです。
あなたは、そのことを覚えておきましょう。
人生の状態は、動機によって決まるということを理解しましょう。
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