すべての人は、目的を以(もっ)て生まれます。
すべての人は、目的を果たさなければなりません。
それは、目的を果たすことこそが、人生を始めた理由だからです。
人生の目的は、人生を始める前に決めたものです。
あなたは、それを果たすために生まれたのです。
しかしながら、すべての人は、生まれる前のことを忘れてしまいます。
それは、勝手の異なるこの世界に順応する必要があるからです。
そして、新たな目的に挑むために、余計な知識を忘れなければならないのです。
人生の目的に対して、純粋(じゅんすい)に向き合うことが、それを果たすための近道なのです。
あなたは、純粋な状態で人生の目的に向き合わなければなりません。
不純な状態で人生の目的に向き合ってしまえば、見当違いの目的を果たそうと努めることになるのです。
それは、方向を誤って歩むようなものなのです。
あなたは、目的地へ向かって歩まなければなりませんが、そこから遠ざかってしまうのです。
不純な状態とは、末梢的(まっしょうてき)な状態のことを言います。
人は、本質に近付く程に純粋に、本質から遠ざかる程に不純となるのです。
残念ながら、すべての人は末梢的な状態から歩み始めなければなりません。
すべての人は、本質から遠く離れてしまうのです。
生まれるとは、本質から離れることです。
すべての人は、生まれた時に純粋を失うのです。
あなたは、自分が不純を生きているということを理解しなければなりません。
すべての人は、未熟に生まれるのです。
すべての人は無知です。
そして、すべての人は歪(ゆが)んでおり、汚れているのです。
大切なのは、不純を手放し、純粋へと向かうことです。
純粋へ向かうということは、本質へと向かうということなのです。
あなたは、本質へと向かわなければなりません。
人は、何かを信じながら生きています。
どのような人物にも、信じるものが存在するのです。
人は、信じるものを頼りに生きているのです。
すべての人は、信じるものを必要としてます。
それは、杖(つえ)のようであり、道標(どうひょう)のようなものなのです。
人は、信じるものに従(したが)って歩むのです。
人は、信じるものに従って歩まなければならないのです。
すべての人は不器用です。
すべての人にとって、自分が信じるものに背くことは容易(ようい)ではないのです。
しかしながら、あなたは自分が信じるものに背かなければなりません。
なぜなら、あなたは未熟であるからです。
未熟者の信じるものは未熟です。
それは、本質ではありません。
あなたが目指すべきは本質であり、人生の目的なのです。
あなたは、本質や人生の目的から遠ざかってはなりません。
大切なのは、自分が未熟であるということを受け入れることです。
そして、信じているものを手放すことなのです。
何かを信じることはとても大切なことです。
しかしながら、時が来ればそれを手放さなければなりません。
すべての信仰(しんこう)には、期限が存在するということを理解しなければならないのです。
あなたは、成長を実現することによって、より本質へと近付きます。
そうなれば、今まで信じてきたものを信じられなくなるのです。
成長と共に、信じるものは変わります。
本質へと近付けば、今まで信じていたものを同じように信じることは出来ないのです。
あなたは、一度信じたことを手放さなければなりません。
あなたにとって、それはとても難しいことですが、手放さなければ先へ進むことが出来ないのです。
信じるものを手放すことには、大きな勇気が必要です。
杖や道標を手放せと言っているのだから、その難しさが分かるでしょう。
杖も無く、道標も無ければ、あなたは路頭(ろとう)に迷ってしまうのです。
しかしながら、そのような危険を冒(おか)してまで、あなたは信仰を手放さなければならないのです。
末梢的なものを信仰したとしても、あなたが本質を得ることは出来ません。
そして、人生の目的を果たすことは出来ないのです。
大切なのは、使えない”鍵”を手放し、使える”鍵”を手に入れることなのです。
鍵とは、信仰のことです。
目の前の扉を開き、本質へと近付くためには、それに相応しい信仰という名の鍵を手に入れなければなりません。
より本質的な信仰を手に入れた者は、本質である人生の目的へと近付くことが出来るでしょう。
あなたは、人生の目的を果たしましょう。
それは、最も深いところに存在しているのです。
穴を掘るようなものです。
掻(か)き出した土をいつまでも抱えていてはなりません。
それを手放し、次の土を掻き出すのです。
そうやって本質へと近付きましょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿