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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2019年2月14日木曜日

覆い隠された真

すべての人が未熟に生まれます。
すべての人が無知であり、苦しみを受けなければなりません。
それは、人生の目的が成長を実現することであるからです。
すべての人は、成長を実現するために生まれるのです。
人生における様々な経験は、それぞれの成長を実現させるための、それぞれの必要です。
人は、自分に必要な経験を通じて、自分に必要な成長を実現することが出来るのです。
自分に必要な経験を経なければ、自分に必要な成長を実現することは出来ません。
そのため、すべての人は、自らの人生において、必要な経験を得ることになるのです。
それがどのような状況であろうとも、それを経験しているというのであれば、それがあなたにとっての必要です。
あなたにとっての必要は、あなたの都合には関係ありません。
あなたにとって都合の悪い経験であったとしても、それが必要であるのならば導かれます。
人生において、不要は実現しません。
それがどのようなことであっても、必要であるから実現するのです。
あなたは、そのことを理解しなければなりません。
多くの人は、現状に対して不平不満を吐きます。
現状に対して不平不満を吐くことが、当たり前のことだと思い込んでいるのです。
しかしながら、人生を俯瞰(ふかん)した時には、現状に対して不平不満を吐くことは不自然であるということに気が付くのです。
多くの人は、主観に縛られています。
多くの人は、自分自身の視点を離れられないでいるのです。
そのため、多くの人は、自分自身の視点を信用します。
多くの人は、自分が正しいと思い込んでいるのです。
そのような思い込みは、主観に対する執着(しゅうちゃく)を強めてしまうのです。
多くの人は、主観を離れられずにいるのです。
主観に執着するということは、狭い視野で生きなければならないということです。
狭い視野で生きるということは、真(まこと)を知らずに生きなければならないということなのです。
真を知らなければ、偽りを知らなければなりません。
偽りによって、人が得るのは苦しみと乏しさです。
喜びと豊かさを得るためには、真を知らなければならないのです。
真を知るためには、偽りを手放さなければなりません。
なぜなら、真は、偽りによって覆い隠されているからです。
偽りとは、真を覆う汚れのようなものです。
汚れを洗い流すことによって、輝きを放つのです。
すべての人は、未熟に生まれ、無知を抱えています。
無知とは、偽りのことであり、知恵を覆う汚れのことです。
無知を所有しているということは、知恵という真の輝きに触れることが出来ないということなのです。
すべての人が、生まれながらに未熟と無知を所有しています。
すべての人は、既に余計なものを所有しているということなのです。
余計なものを所有しているために、苦しんでいるのです。
大切なのは、余計を手放すことです。
未熟や無知を手放さなければなりません。
未熟や無知を手放せば、知恵を得ることが出来るのです。
しかしながら、多くの人にとって、それは難しいことです。
なぜなら、恐れを抱いているからです。
恐れは、強力な”汚れ”です。
それは、鍋底にこびりついた焦(こ)げのように、心に堅(かた)く張り付いて離れないのです。
恐れを手放すことは容易ではありません。
そのためには、勇気が必要だからです。
勇気は、諦めによって生じます。
あなたが余計なものへの執着を諦めた時、そこに勇気が生じるのです。
勇気は、恐怖を乗り越えます。
一度、余計なものを手放すのであれば、次に余計なものを手放すのは、難しいことではなくなっているのです。
あなたは、勇気を以(もっ)て既知(きち)への執着を手放しましょう。
そして、未知への好奇心を抱くのです。
あなたには、手放さなければならないものがたくさんあります。
何を失っても、恐れることはありません。
何を得ても、恐れることはないのです。
余計を手放せば、必要が導かれます。
無理に欲する必要もありません。
必要は自然と導かれるのです。
安心して手放し、安心して待ちましょう。

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