あなたは純粋でなければなりません。
純粋な心によって道を進まなければなりません。
道に対して心が汚れるのであれば、あなたはその道を行くことができません。
道は、純粋にその極みを求める者を導くのです。
あなたは純粋にその道を求めましょう。
純粋さを失い、汚れた心は自我に執着します。
自我によっては我欲が生まれ、我欲によっては道は閉ざされてしまうのです。
道を求める者には非我によって生きることが求められます。
道のために生きることができない者には、道は豊かさを与えることはないのです。
その心が道に対して純粋なほど、その道を探究する気持ちが湧き起ります。
道に対する探究心こそが、道を深くするのです。
道に対する探究心が強い者ほど、道を進むことができるのです。
道に対して探究心の弱い者は、その道を進むことはできないのです。
気持ちが強い方が先へと進むことができるのです。
人は、気持ちによって選別されるのです。
あなたはそのことを覚えておきましょう。
我欲によって道に対する信念が汚れるのであれば、その道とは違う道を行くことになります。
極まる程に純真であるということが言えるのです。
不純物が混ざる程に本物からは遠ざかるのです。
あなたは、道に対して純粋な心を持たなければなりません。
どのような道を行くにしても、それを極めたいと、その道の本物に成りたいと考えているのであれば、我欲に取り込まれてはならないのです。
動機が不純であれば、決して極まることはありません。
不純物を混ぜてはなりません。
本物でなければならないのです。
多くの人は不純の虜(とりこ)になってしまいます。
それは、不純である方が楽だからです。
汚れる程に手を抜くことができるのです。
染み一つない衣服を汚すのは憚(はばか)られます。
誰であっても、汚れの無いものを汚したいとは思わず、汚れからその美しさを守ろうとします。
しかし、一度汚れるならば、その気持ちは弱まります。
二度汚れるならば、後にどれだけ汚れようともそれを気にかけることは無くなるのです。
汚れてしまった衣服は、切り裂かれ、雑巾にでもなるでしょう。
美しさという純粋さが失われるのであれば、その汚れた心によって本来の道を進むことができなくなるのです。
その衣服に汚れがなければ、あなたはいつまでもその衣服を身に付けて楽しんだでしょう。
しかし、汚れているのであれば、違う用途によってそれを使うことになるのです。
衣服が自ら使い道を決めるのではありません。
衣服の使い道を決めるのは、その主人である人間なのです。
あなたの使い道を決めるのは、あなたではありません。
あなたの使い道を決めるのは、あなたの主人である、その道であるのです。
道が認めなければ進むことはできません。
あなたは自分勝手に道を行くことなどできないのです。
自由意志によって築くことができるのは、あなたの心境であるのです。
勘違いしてはなりません。
どのような道であれ、その道があなたを呼び寄せ、あなたを手放すのです。
あなたには権限が無いのです。
社員は主人である会社の判断に従わなければなりません。
社員がどのように自分勝手な主張をしようとも、それは通らないのです。
法律によって通ったとしても、会社はその社員に対して厳しく当たるのです。
道に対して不純な者は、その道に嫌われます。
我欲に支配された愚かな者には、道を極めることはできないのです。
あなたがその道を行きたいと願うのであれば、我欲に捉われることなく、純粋な気持ちで向き合いましょう。
その道の発展に重きを置き、自己の利益は後回しなのです。
社員は会社のために働かなければならないのは、当然のことなのです。
会社のために働くことができない社員は、どの会社でも成果を上げることはできないでしょう。
もしも、自分の会社を持つようなことがあったとしても、誰もその社員を慕(した)うことはないのです。
会社のために直向(ひたむ)きに働く社員を会社が放っておくということはありません。
その社員が自分の会社を持つ時には、社員が会社を支えるでしょう。
自分の在り方を考えなければなりません。
我欲によって極まる道など存在しないということを覚えておきましょう。
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