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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2019年4月30日火曜日

覚悟の歩み

すべての人は、目的を以(もっ)て生まれます。
人生は、空しく生き延びる時間ではないのです。
生きることは大切ですが、それは人生の目的ではないのです。
生きることは、当たり前のことです。
当たり前のことを目的として生まれる者はいないのです。
大切なのは、どう生きるのか?ということです。
ただ生きるだけでは、人生の目的を果たすことは出来ません。
人生の目的を果たすためには、生き方が問われるのです。
ただ生き延びようとしている者には、人生の目的を果たすことは出来ません。
人生の目的を果たすためには、人生の目的を果たそうとしなければならないのです。
ただ、歩いているだけでは、目的地へと辿り着くことは出来ないのです。
目的地へと辿り着くためには、目的地へと辿り着くように歩まなければならないのです。
人生の目的を果たすためには、人生の目的を考えながら生きていなければなりません。
“人生は何か?”
自分自身に問い掛けなければならないのです。
問い掛けなければ、考えることは出来ません。
考えなければ、果たすことは出来ないのです。
適当に歩むことと、目的意識を以て歩むことには、大きな違いがあります。
適当に歩むことには当(あ)てがなく、目的意識を以て歩むことには当てがあるのです。
当てもなく歩む者には苦悩が従います。
当てもなく歩む者は、苦悩を避けることが出来ないのです。
目的意識を以て歩む者には苦しみが従います。
目的意識を以て歩む者も同じように苦しまなければなりませんが、その歩みに悩みは従わないのです。
これは、大きな違いなのです。
悩みとは、思考の病です。
それは、思考を偏(かたよ)らせ、停滞させ、腐らせてしまいます。
悩みを従える人は、乏しさを得るのです。
そのような状態では、とても目的地へと辿り着くことは出来ません。
患(わずら)っている者には、目的を果たすことが出来ないのです。
大切なのは、悩みを従えないことです。
苦しむことは良いのです。
しかしながら、悩みには注意しなければなりません。
悩みは、思考を腐らせてしまいます。
それは、足が腐るようなものなのです。
それでは歩めないのです。
あなたは、悩まずに歩まなければなりません。
悩みを従えないためには、決断することです。
自分の歩みを覚悟することなのです。
残念ながら、目的地を確信することの出来る人はいません。
すべての人が未熟に生まれ、無知を生きているのです。
道はどこへ通じているか分かりません。
それは、誰にも分からないことなのです。
しかしながら、覚悟を決めてその道を行かなければならないのです。
他に道はありません。
どちらにしても苦しまなければならないのです。
あなたが選ばなければならないのは、悩むか?悩まないか?ということなのです。
どちらか一方しか選ぶことは出来ないのです。
どの道が正解なのか、それは誰にも分かりません。
目的地へと辿り着くことが出来るかどうかも分からないのです。
人生がどうなるかは分かりませんが、あなたは道を選んで歩まなければなりません。
どのような生き方をしても構いません。
生き方に正解は存在しません。
ただ、人生に対しては、目的意識を以て生きることが大切です。
今、自分が何をしているのか?と考えなければならないのです。
目的地への道程(みちのり)は、決して平坦なものではありません。
自分にとって有利なことばかりではないのです。
時には険(けわ)しい道程もあり、時には不利を得なければならない時もあるのです。
都合の良いことも悪いこともあるのが、人生の道程であるということを理解しましょう。
現状がどのようなものであれ、覚悟を以てその道を歩んで行きましょう。

2019年4月29日月曜日

我を弱める

すべての人生には、問題が生じます。
すべての人が、問題を受け取らなければなりません。
この世界において、問題を避けることの出来る人はいません。
問題の生じない人生など、どこを探しても存在しないのです。
あなたの人生には、必ず何かしらの問題が生じます。
そして、それを受け取らなければなりません。
それは、あなたにとって必要な学びであるからです。
あなたは未熟に生まれました。
未熟に生まれたあなたは、無知を抱え、愚かさを生きなければなりません。
愚かさを生きれば、問題を引き起こさなければならないのです。
そして、問題を引き起こすことによって、苦しまなければならないのです。
それは、大切な学びのためです。
あなたは、学びを得るために苦しみます。
学びを得るために問題を引き起こします。
学びを得るために愚かに生きます。
学びを得るために無知を抱えなければなりません。
学びを得るために未熟に生まれたのです。
あなたは、学ばなければなりません。
それは、理(ことわり)を得るためなのです。
理を得るためには、学ばなければなりません。
未熟に生まれ、無知を抱え、愚かさを生きて、問題を引き起こし、苦しみによって学びを得なければ、理を得ることは出来ないのです。
理を得ることは、とても重要です。
それは、人生の目的であるからです。
あなたは、理を得ることによって、本質に触れることが出来るのです。
本質に触れることによって、成長を実現することが出来るのです。
成長することは、とても素晴らしいことです。
なぜなら、それは人生に意義をもたらし、同時に豊かさを実現するからです。
人生に意義を見出さずに生きるのは辛いことです。
人生に乏しさを実現するのも、とても辛いことなのです。
苦しいことと、乏しいことは違います。
多くの人は、苦しいことと乏しいことを同じように考えているのです。
苦しいことは、人生において何の問題でもありません。
それは、理を得るための必要だからです。
苦しみは、活力をもたらすのです。
しかしながら、乏しいことは問題です。
なぜなら、乏しさは絶望によって活力を奪い去ってしまうからです。
人生の本質を見出せず、乏しさを生きることは、盲目(もうもく)に生きていることに同じなのです。
本質を見極めることが出来なければ、盲目であることに同じなのです。
本質を生きなければ、真を得ることが出来ません。
それは、偽りを生きるということなのです。
それは、大きな問題なのです。
問題をいつまでも放置しているのであれば、人生の目的を果たすことが出来ないのです。
人生の目的は、成長を実現し、理を得ることです。
そして、理を理解し、人生を手放すことなのです。
問題を抱えたままでは、人生を手放すことは出来ません。
人は、満足した時に手放すことが出来るのです。
問題を抱えたままでは、執着(しゅうちゃく)は強くなってしまうのです。
大切なのは、問題の原因を断つことです。
問題の原因とは、我の強さです。
我を通すことによって、問題を引き起こすのです。
人生における問題を解決するためには、我を弱めるしかありません。
謙虚(けんきょ)さによって、我を弱めることが出来ます。
謙虚さとは、問題や苦しみである現状を受け入れられる度量(どりょう)のことです。
問題や苦しみを否定する態度は、謙虚さではないということを理解しなければなりません。
あなたは、謙虚さによって、未熟と無知と愚かさと問題と苦しみと乏しさと人生を手放しましょう。
それば、とても素敵なことです。

2019年4月28日日曜日

良い塩梅

人生の目的は、成長を実現し、豊かに生きて、豊かに死を迎えることです。
あなたは、この人生を豊かに去ることが目的なのです。
あなたは、豊かさと共に生きなければなりません。
豊かさとは、必要が満たされている状態のことです。
必要が満たされなければ、何を得ても豊かさではありません。
あなたが必要としないものを、他者よりも多く所有していたからといって、豊かさを得られる訳ではありません。
あなたにとって必要でないものは、何を得ても豊かさではないのです。
大切なのは、必要を手にすることです。
あなたが求めるべきは必要です。
あなたは、自分にとっての必要を求めれば良いのです。
自分に不要なものをどれだけ集めても空(むな)しいだけです。
大切なのは、見極めることです。
自分にとっての必要と、自分にとっての不要を見極めなければならないのです。
この世界には、不要は存在しません。
あなたが見極めなければならないのは、自分にとっての不要なのです。
それは、自らの役割や、人生の目的に反する状況や選択のことです。
人には、それぞれに必要な役割と目的が与えられているのです。
そのため、あなたにとっての必要と、他者にとっての必要は異なるのです。
あなたにとっての必要は、他者にとっての不要であるかも知れません。
あなたにとっての不要が、他者にとっての必要であるということもあるのです。
この世界に不要は存在しません。
あなたにとって不要なものであっても、それは、誰かや何かには必要であるのです。
そのため、自分に不要なものを軽んじてはなりません。
その価値を、現状に見出すことが出来なくても、後に見出すことが出来るかも知れません。
現状において見出している価値は、後に負担となるかも知れないのです。
人生は、どうなるか分かりません。
あなたは、現状における自分にとっての必要と不要を考えなければなりません。
そして、それを見極められるように努めなければならないのです。
しかしながら、現状における自分にとっての必要と不要を見極めることは出来ません。
それは、人が未熟であるからです。
そのため、現状における自分にとっての必要と不要を見極めることが出来ないとしても、それに苦しむ必要はありません。
ある程度の見当をつけることが出来れば良いのです。
しかしながら、これが難しいのです。
それは、近過ぎても見えません。
近過ぎれば、それはぼやけてしまうのです。
感情的に生きれば、近付き過ぎてしまいます。
そのような時には、冷静に距離を取らなければなりません。
冷静に判断することが出来なければ、現状における自分にとっての必要と不要を見極めることが出来ないのです。
それは、遠過ぎても見えません。
遠過ぎれば、それは霞(かす)んでしまうのです。
合理的に生きれば、遠ざかってしまいます。
そのような時には、心の赴(おもむ)くままに距離を縮めなければなりません。
心に従って判断することが出来なければ、現状における自分にとっての必要と不要を見極めることが出来ないのです。
大切なのは、バランスを保つことです。
それは、近過ぎても、遠過ぎてもならないのです。
焦点の合う距離感を保たなければならないのです。
現状における自分にとっての必要と不要を見極めることが出来れば、人生の目的である成長を実現することが出来ます。
成長を実現することが出来れば、豊かに生きることが出来ます。
豊かに生きることが出来れば、豊かに死を迎えることも出来るでしょう。
何事においても、距離感を考えましょう。
多過ぎても、少な過ぎても豊かさではありません。
良い塩梅(あんばい)を探すのです。
無理をしてはなりません。
不自然は”毒”です。
あなたは、自然を生きましょう。
そうすれば、あなたは、現状における自分にとっての必要と不要を見極めることが出来るでしょう。

2019年4月27日土曜日

すべてが役に立つ

この世界には、無駄は存在しません。
なぜなら、無駄は存在する意味がないからです。
すべてに大切な意味があり、価値が備わっているのです。
あなたは、この世界に無駄など存在しないということを覚えておかなければなりません。
この世界に無駄が存在すると思い込んでしまえば、それだけ問題を引き起こすことになってしまうのです。
この世界には無駄は存在しませんから、無駄が存在するという判断は、問題を引き起こしてしまうという訳なのです。
多くの人は、誤解によって、問題でないことを問題にしているのです。
問題でないことを問題にする必要はありません。
あなたは、わざわざ苦しむ必要はないのです。
すべての人は、未熟に生まれなければなりません。
すべての人は、無知を所有し、誤解を生きなければならないのです。
そのため、この世界に無駄が存在すると思い込んでしまうのです。
役に立たないと思えることが存在すると思い込んでしまうのです。
人生を都合で考えることは最善ではありません。
なぜなら、未熟者であるあなたの都合で考えてしまえば、人生には、多くの問題が生じるのが自然だからです。
大切なのは、自分の都合によって判断しないことです。
あなたの都合に合わせて、最善が導かれている訳ではありません。
あなたの都合に関係なく、人生には常に最善が導かれているのです。
あなたの都合に悪いことであっても、導かれるのであれば、それが最善であるのです。
大切なのは、必要によって人生を判断することです。
あなたが受け取らなければならないのは、都合の良い状況ではありません。
客観的に考えて、自分(の成長)に必要な状況を受け取ることなのです。
あなたにとっての必要は、あなたの都合を考慮(こうりょ)しません。
そのため、あなたには、必要を受け取ることが難しいのです。
それは、多くの人が利己的に生きているからなのです。
多くの人は、不利を嫌います。
そして、多くの人は有利を好むのです。
しかしながら、その不利と有利も、未熟な自分の都合による判断です。
そのため、不利や有利が、そのまま不利や有利として導かれるということではないのです。
嫌った不利が有利に働くことや、好んだ有利が不利に働くことがあるのです。
未熟であるあなたの企(たくら)みは、思い通りの結果を導かないということを理解する必要があるのです。
大切なのは、目の前に導かれる状況は、それがどのようなものであれ、あなたにとっての最善であり、必要であるということです。
そして、それは、必ず役に立つということなのです。
この世界においては、役に立たないと思えるものまで役に立ちます。
この世界には、無駄は存在しないのです。
あなたは、様々な経験を通じて成長を実現します。
あなたは、少しずつでも成長しているのです。
あなたが成長することによって、価値観は変化します。
価値観の変化は、認識や判断の変化を実現するのです。
成長すれば、無駄に思えていたことが無駄に思えなくなります。
成長すれば、どうしても必要だと思っていたことが必要だとは思えなくなるのです。
成長することによって、価値の変換が実現するのです。
大切なのは、価値観は変化しし続けるということです。
あなたの価値観は、決して固定されはしないのです。
あなたは本質へと近付きます。
あなたの認識や判断は、洗練されていくのです。
あなたが成長を実現した時、この世界には無駄が存在しないということを理解することが出来るでしょう。
この世界に無駄が存在しないことを理解すれば、問題を引き起こすことも減るのです。
この世界に無駄が存在すると思い込んでいる人程、人生には問題が多いのです。
必要を認めることが、問題の発生を抑えるのです。
あなたは、わざわざ苦しむ必要はありません。
苦しみを増やす必要はないのです。
どちらにしても、未熟であるあなたは、苦しまなければなりません。
しかしながら、無理に苦しむ必要はないのです。
この世界に存在する一切は、必ず何等かの役に立つのです。
あなたには、その意味が理解出来ないだけなのです。
理解出来ないことを安易に否定してはなりません。
意味が分からなくても、大切に扱いましょう。
そうすれば、いつか必ず役に立つでしょう。

2019年4月26日金曜日

人生の目的を思い出す

すべての人は、人生に目的を以(もっ)て生まれます。
すべての人生には、目的があるのです。
あなたは、自分の人生の目的を果たさなければなりません。
あなたは、自分の人生の目的を果たすために生まれたのです。
しかしながら、すべての人は人生の目的を忘れてしまいます。
それは、この世界には、様々な誘惑(ゆうわく)が存在しているからです。
人生は、簡単に目的を果たすことが出来る程、容易(たやす)い道程(どうてい)ではありません。
それは、人生の目的は、様々な誘惑によって隠されてしまうからです。
人生の目的を果たすためには、目の前に現れる様々な誘惑を退けなければならないのです。
人は、快楽や欲望や苦悩によって、人生の目的から遠ざかります。
人は、快楽や欲望や苦悩によって、人生の目的を見失ってしまうのです。
すべての人は、自分の人生の目的を見失います。
自分の人生の目的を見失うことによって、視野が広がり過ぎてしまうのです。
視野が広がることは良いことです。
しかしながら、それは、人生の目的を見失っている人にとっては困難なのです。
人生の目的を見失っている人にとって、視野の広がりは情報の過多(かた)や、誘惑の増加に繋がってしまいます。
選択肢が多いことは良いことですが、人生の目的を見失っている人にとっては、選択肢が多いことによって、選択が定まらないという問題が生じてしまうのです。
多くの人にとって、選択肢は少ない方が良いのです。
何かに対して、懸命に、深く向き合うことによって、人生について考察することが出来ます。
人は、何かに対して深く打ち込むことによって、その経験を通じて人生を学ぶことが出来るのです。
何をするのか?は、自分で決めれば良いのです。
他者と比べて、自分の人生を決める必要はないのです。
誰一人として、自分の人生の目的を覚えてはいないのです。
誰もが、自分の人生を見失います。
自分の人生に対して、何が良いかは分かりません。
何が人生の目的であり、それを果たすために何が有効であり、最善であるかを、誰も分からないのです。
何が良いかは、試してみなければ分からないものです。
誰かと同じようにして、人生の目的を果たすことが出来るという訳にはいきません。
なぜなら、あなたは自分の人生を生きているからです。
この世界には、同じ人物は存在しません。
すべての人が異なる人物であり、異なる人生を生きているのです。
異なる人生には、異なる目的が存在しているのです。
あなたは、そのことを理解しなければならないのです。
あなたが生きなければならないのは、自分の人生です。
自分の役割を果たし、自分の人生を完成させる必要があるのです。
人は、それぞれに必要な役割を与えられています。
それは、他者とは異なる役割であるのです。
同じように思えることもあるでしょうが、厳密(げんみつ)には異なっているのです。
あなたが自分の役割を果たし、自分の人生を生きることは、世界に新たな可能性を導くことになります。
それは、新たな生き方を見せることになるのです。
人生は決して、型に嵌(は)まるものではありません。
どのような人生も形式化されてはいないのです。
似ているように思える部分もありますが、似ているように思えるだけです。
本来、人生は、全く異なるものなのです。
目的が異なるために、異なる個性を以て生まれるのです。
それぞれの個性は、それぞれの人生の目的を現しているのです。
人は、自分の個性に従って自然に生きれば良いのです。
無理に自分を偽り、他者や時代に追従(ついじゅう)する必要などないのです。
集団から食(は)み出すことは、恥ずかしいことではありません。
それは、決して、悪いことではないのです。
自分の人生を生きることが最善です。
自分の人生を生きることが出来ないことは恥なのです。
自分の人生の目的を果たすことが出来ないのは、辛いことなのです。
あなたは、人生に様々な可能性を試しましょう。
やりたいことはやりましょう。
やりたいことをやることが出来るように知恵を絞り出すのです。
やりたいこともやれない人生を生きてはなりません。
あなたは、自分が何のために生まれたのか?と自問しなければなりません。
”自分とは何か?”
”人生とは何か?”
これ等の問いは重要です。
あなたは、人生を考察し、目的を果たさなければなりません。
人生の目的を思い出すために、様々な考え方や生き方を試してみましょう。

2019年4月25日木曜日

真の目的

人生には、果たさなければならない目的が存在しています。
それは、誰もが果たさなければならない目的なのです。
しかしながら、多くの人は、人生の目的を見失います。
多くの人は、人生の目的を知らずに生きているのです。
人生の目的を見失っているのが”普通”です。
多くの人は、自分が何であり、人生が何であるのかを知らないのです。
そのような状態が”普通”であるために、多くの人はそれに疑問を抱きません。
人生の目的を見失っているのが当たり前になっているのです。
人生の真(まこと)の目的を見失っていれば、偽りの目的のために生きなければなりません。
多くの人は、真の目的を見失って生きています。
そのため、多くの人は、偽りの目的のために生きているのが現状であるのです。
多くの人は、何のために生きているかを知りません。
多くの人は、何のために生きれば良いか分からないのです。
そのため、目の前の快楽や欲望を貪(むさぼ)ることを取り敢(あ)えずの目的として定めます。
それは、快楽や欲望を満たすことによって、ある種の幸福を得ることが出来るからです。
それは、一時的な満足に過ぎません。
快楽や欲望を貪ることによって得られる幸福というのは、一時的な満足しか与えてはくれないのです。
そのため、快楽や欲望を貪る人は、それを繰り返さなければなりません。
それは、糖分によって喉(のど)が乾くようなものなのです。
糖分は、一時的な満足を与えてくれます。
しかしながら、それは、より強力な乾きを引き起こすのです。
乾きによって、余計に糖分を必要とするのです。
快楽や欲望は糖分のように甘い蜜(みつ)です。
しかしながら、それは人生の目的ではないのです。
甘いものを食べ続ければ、肉体は病を引き起こします。
それは、人生にも言えることなのです。
快楽や欲望を満たし続けることは、人生の真の目的を見失わせる病を引き起こします。
甘いものを食べ過ぎると目が見えなくなるように、快楽や欲望を貪ることを目的とした人生は、人生の真の目的を見失わせるのです。
快楽や欲望を貪ることを考えている人には、人生の目的を果たすことは出来ないのです。
この世の富をどれだけ集めても空しいだけです。
肉体に様々な宝石を身に付け、肉体に豪華(ごうか)な食事を与え、肉体に贅沢(ぜいたく)な暮らしをさせても、心は決して満たされません。
この世の富を集めたところで、それは水のように指の間を擦り抜けて消えるのです。
水は、最も価値のある財産です。
しかしながら、あなたにはそれを所有する力はありません。
水は、最も価値のある財産ですが、誰にも、それを所有する権利はないのです。
この世の富は、水のようなものです。
氷にして所有しようとしても、掌(てのひら)の熱に溶けてしまいます。
この世で最も価値のある水も所有することは出来ないのです。
この世の富は、水よりも価値の劣るものなのです。
多くの人は、それを懸命に掻(か)き集め、何とか所有しようとしているのです。
水に勝る富はありません。
多くの人が欲しているのは、どこにでも存在する水よりも劣るものだと理解しなければならないでしょう。
あなたは、真の目的を考えなければなりません。
快楽や欲望、この世の富によって、偽りの満足を喜んでいてはならないのです。
多忙を喜んではなりません。
それは、人生の真の目的を考えさせないための”罠(わな)”です。
労働は尊(とうと)いものです。
しかしながら、人生の真の目的はそれよりも尊いものなのです。
何もしない時間が重要なのです。
暇な時間を大切にしなければなりません。
書は、余白に価値があります。
余白によって、文字が映(は)えるのです。
文字にばかり価値を見出していては、文字で埋め尽くされてしまうでしょう。
それを美しさとは言わないのです。
忙しく時を過ごすことに満足してはなりません。
人生の目的は、多忙の中には見出すことが出来ないのです。
暇な時間があるからこそ、人生の真の目的を探すことが出来るのです。

2019年4月24日水曜日

それぞれの課題

すべての人は、人生に目的を以(もっ)て生まれます。
人生には、果たさなければならない目的が存在するのです。
すべての人は、目的を果たすために生きているのです。
人生の目的は、それぞれに異なります。
すべての人が、異なる目的のために生まれ、生きているのです。
この世界において、同じ目的のために生まれ、生きている人は存在しません。
すべての人が異なる人生を生きているのです。
しかしながら、多くの人はそのことを理解しません。
多くの人は、自分が他の誰かと同じ目的のために生きていると思い込んでいるのです。
そのために、競争が生じるのです。
多くの人は、他者と争うのです。
同じ目的を果たすために、競い合っているのです。
しかしながら、他者と争うことでは、人生の目的を果たすことにはなりません。
なぜなら、人は自分の目的を以て生まれたからです。
人生は、他者と争うようには出来ていないのです。
人生は、他者と協力し、それぞれが自分の目的を果たすことが出来るように出来ているのです。
他者と協力しなければ、自分の目的を果たすことは出来ません。
そのため、あなたは他者と協力しなければなりません。
他者と協力して、自分の目的を果たさなければならないのです。
しかしながら、多くの人は、協力を誤解しています。
多くの人は、依存することを協力することだと思い込んでいるのです。
依存することによっては、自分の目的を果たすことは出来ません。
なぜなら、依存することによって、自分の目的を果たすという意思を失ってしまうからです。
依存によっては、自分の目的とは異なる別の目的が生じます。
それは、依存関係にある他者も同じ状態を得ることになるのです。
協力とは、それぞれが自立して、それぞれの目的を目指すということなのです。
それは、一見すると、協力しているようには見えません。
しかしながら、人生の目的を果たすためには、他者に干渉(かんしょう)したり、依存する訳にはいかないのです。
互いの邪魔をしないこと、互いが刺激となるように励(はげ)まし合うことが求められるのです。
自分のことを懸命にこなしていれば、他者はそれに刺激され、励みに思います。
しかしながら、自分のことを懸命にこなすこともなく、他者に干渉したり、依存している状態においては、目的を果たすための刺激にも、励みにもならないのです。
互いに自分の愚(おろ)かさを慰(なぐさ)め合い、怠慢(たいまん)を共に支えることになってしまうのです。
それでは、人生の目的を果たすことは出来ないのです。
人生の目的を果たすことは、容易(ようい)ではありません。
人生の目的を果たすためには、強い意志を保たなければならないのです。
安易に他者に干渉することなく、依存することもないようにしなければならないのです。
あなたは、自分のことを懸命にこなさなければなりません。
人は、それぞれに課題が与えられています。
人は、現状に学びを得なければならないのです。
そして、その学びによって成長を実現する必要があるのです。
あなたが成長を実現するためには、自らに与えられた課題をこなさなければならないのです。
自らに与えられた課題をこなすことがなければ、自分の人生は成り立たないのです。
自分の人生を成り立たせることが重要です。
多くの人は、自分の人生を成り立たせることが出来ません。
多くの人は、自分の課題に対して、背を向けている状態なのです。
多くの人は、自分ではない他者の課題に心を乱しています。
あなたは、自分の課題と他者の課題を区別しなければなりません。
他者の課題に対して、あなたが真剣に向き合う必要はありません。
誤解の無いようにしておかなければなりませんが、これは、他者やその課題を軽んじるという意味ではないのです。
他者の課題は、本人がこなさなければなりません。
他者の課題に対して、安易に干渉してはならないということなのです。
他者の課題に対して安易に干渉していれば、自分の課題に対する他者の干渉を簡単に許してしまうことになるのです。
あなたの人生をこなさなければならないのは、あなた自身です。
人は、それぞれの課題をこなさなければなりません。
それぞれの課題をこなすことによって、成長を実現し、人生の目的を果たさなければならないのです。
あなたは、自分の課題に集中しなければなりません。
これは、あなたの人生です。
自分の人生と他者の人生を混同してはなりません。
他者の課題に対して、真剣に向き合う必要はありません。
それは、あなたの課題ではないのです。
他者のために、自分の人生を軽んじてはなりません。
心を乱し、汚してはならないのです。
自分の人生を懸命に生きましょう。

2019年4月23日火曜日

道への意識

人生は、成長の道程(みちのり)です。
人は、成長を実現するために歩まなければなりません。
人は、成長を実現するために歩んでいるのです。
歩を進める度に、人は成長を実現するのです。
歩を進めるのは、選択です。
あなたは、選択によって歩を進めるのです。
選択は自由です。
あなたは、好きに歩むことが出来ます。
しかしながら、好きに歩むことが出来るといっても、自らの役割に関係する範囲だけなのです。
自らの役割に関係のない道を歩むことは出来ません。
人は、それぞれに必要な役割を与えられています。
すべての人は、役割を担(にな)っているのです。
この世界において、役割を持たない人は存在しません。
どのような人物であれ、この世界に対して必要な役割を与えられているのです。
選択は自由です。
しかしながら、そこには必要な制限が存在するのです。
制限が存在しなければ、どのような人物も自らの役割を果たすことが出来ません。
自動車は、自由に操作し、好きな道を進むことが出来ます。
しかしながら、それは道路に限られるのです。
道路が存在しなければ、自動車は進むことが出来ません。
あなたは、あなたの道を行かなければなりません。
他者に憧れを抱くことは良いことですが、自らの道と他者の道を混同してはならないのです。
あなたは、自らの道を進まなければなりません。
そして、成長を実現し、人生の目的を果たすのです。
自らの道を進むためには、自らの道を意識して歩まなければなりません。
自らの道を意識していなければ、道を外れてしまいます。
それは、溝(みぞ)にタイヤを落とした自動車のように、停滞しなければならないのです。
多くの人が、道を進もうとして停滞しています。
多くの人は、問題を引き起こすことによって、苦しみに停滞しているのです。
道を意識していれば、停滞することはありません。
思い通りに進むことが出来ないとしても、確実に進むことが出来るのです。
あなたが進むことが出来るのは、自らの道だけです。
自らの進むべき道を無視して、道を進むことは出来ません。
道を意識しなければ、停滞しなければならないのです。
道を外れた時には、停滞しなければなりません。
あなたが、人生に停滞を感じる時には、道を外れているのです。
そのことを理解しなければなりません。
道を外れているにもかかわらず、無理に進もうとしてはなりません。
それは、停滞を深めることになるのです。
人生が上手くいかない時には、別の手段を考えなければなりません。
問題や停滞を引き起こした考えや選択であっては、それ以上進むことは出来ないのです。
道を進むためには、問題や停滞を引き起こした考えや選択を手放さなければならないのです。
しかしながら、多くの人がそれを手放すことが出来ません。
なぜなら、それが正しい考えや選択だと信じているからです。
結果とは、正しい答えです。
多くの人は、停滞という結果が導かれているにもかかわらず、それを引き起こした考えや選択が正しいと信じているのです。
自尊心が、人を余計な考えや選択へと縛り付けてしまうのです。
自らを尊(とうと)ぶことは大切ですが、自らを正しいと考えてはなりません。
残念ながら、あなたは決して正しくはありません。
正しいのは、結果だけなのです。
あなたは、制限された道を好きに歩むことが出来ます。
道は決して、無限の広がりではありません。
成長を実現することが出来る道程を歩まなければならないのです。
あなたは、自らの役割に関係する範囲を自由に生きましょう。
道は十分に広いですが、無意識の者は踏み外してしまいます。
目の前の快楽や欲望や苦悩を貪(むさぼ)る者は、踏み外してしまうでしょう。
目の前の快楽や欲望や苦悩の誘惑(ゆうわく)に勝る意識を持ちましょう。

2019年4月22日月曜日

良いものだけを取ることは出来ない

すべての人生は、思い通りには展開しません。
すべての人生が、それを生きる人の期待を裏切るのです。
それは、人生に実現するのは、必要だけだからです。
必要以外が人生に実現することはありません。
なぜなら、必要以外は実現する必要がないからです。
人生には、不要は実現しません。
どのように思える状況も、それが人生にとって、あなたにとって必要であるために導かれていることを理解しなければならないのです。
しかしながら、あなたには目の前に導かれる状況が必要であるとは思えません。
多くの人が、目の前の状況に対して、不平不満を以(もっ)て向き合っているのです。
多くの人が不平不満を抱くのは、目の前の状況を不要であると考えているからです。
目の前の状況が必要であると考えるのであれば、不平不満を以て向き合うことなどないのです。
不要であると考えていなければ、不平不満を選択することはないのです。
多くの人は、人生に不要が実現すると考えているのです。
そこには、誤解が存在します。
なぜなら、あなたがどのように考えようとも、人生に必要以外が実現することはないからです。
間違っているのは、あなたの認識です。
なぜなら、あなたは未熟に生まれるからです。
未熟に生まれたあなたには、本質を見極める力がありません。
あなたは、物事の表面をなぞり、あたかもそれを理解したつもりでいるのです。
物事を理解するためには、その本質を見極める必要があります。
本質を見極めることなく、何かを理解することなど出来ないのです。
残念ながら、未熟なあなたには、本質を見極める力はありません。
そのため、それが何かを理解することは出来ないのです。
それが何か分からなければ、そこから得られるものも分からないのです。
多くの人は、自分が何をしているかを知らないのです。
多くの人は、自分が何を得られるかを知らないのです。
多くの人は、何も分からずに不平不満を選択しているのです。
未熟者の判断は浅はかです。
浅はかな判断によって、人は不利を得るということを理解しなければなりません。
多くの人は、必要に対して不平不満を吐きます。
それは浅はかな判断であり、選択です。
そのため、多くの人は、必要を受け取ることが出来ないのです。
多くの人は、必要を受け取ることが出来ずにいます。
しかしながら、それも必要には違いありません。
人が必要を否定した時には、少しだけ難しい形の必要が導かれるのです。
難しい形というのは、より複雑であったり、より険しく与えられるということなのです。
一度で理解する者に対して、語気を強める人はいません。
しかしながら、何度言っても理解しない人に対しては、誰もが語気を強めるのです。
それは、理解しないための必要なのです。
人生は、出来るだけ素早く必要を受け入れて欲しいと願っています。
一度で受け入れてくれれば良いと願っているのです。
しかしながら、人は簡単には必要を受け入れることが出来ません。
なぜなら、必要は決して都合の良いものではないからです。
必要は、あなたの都合に関係しません。
あなたの都合に悪いことも、それが必要であれば導かれるのです。
あなたは、良いものだけを取ることは出来ません。
人生は、良いものだけを取ることが出来るような都合の良い場所ではないのです。
良いものを取れば、同時に悪いものも取らなければなりません。
この世界は、良いものだけで成り立ってはいないのです。
男に対して女があり、昼に対して夜があるように、相反(あいはん)する二つの性質が存在するのです。
どちらが良く、どちらが悪いということではありません。
あなたが良いと考えているので、悪いと説明しているだけなのです。
良いことも悪いことも、どちらも必要です。
あなたの認識が世界を隔(へだ)てているのです。
大切なのは、あなたの目の前に導かれる状況は、それがどのようなものであれ、あなたにとっての必要であるということです。
そして、必要からは学びを得ることが出来るということです。
学びは、人生の目的である成長を実現するための必要です。
人生を選り好みしてはなりません。
良いことも悪いことも同じように大切にしなければなりません。
どのような人生であろうとも、それが必要であるということを理解しましょう。
そうすれば、あなたは不平不満を吐くことよりも、懸命に生きることを選択することが出来るでしょう。

2019年4月21日日曜日

この世界には、必要だけが実現します。
人生には、必要だけが導かれるのです。
どのような状況も必要であるということを覚えておかなければなりません。
目の前の状況に対して、その必要性を理解することが出来なければ、それを不要と思い込んでしまいます。
人は、不要なものに対して、それを排除(はいじょ)しようと努めるのです。
この世界には、不要は存在しません。
存在しないものを排除しようと努めるのは、不自然に努めるようなものなのです。
不自然は、様々な問題を引き起こします。
人生は、不自然を引き込むことによって乏しさを実現するのです。
この世界に不要が存在するという考えは不自然です。
なぜなら、すべてが必要であるからです。
必要を不要とすることは、昼を夜と主張するようなものです。
それは、とても不自然なことなのです。
必要は必要として認めなければなりません。
しかしながら、すべてを必要として受け入れることには抵抗があるでしょう。
それも仕方のないことです。
不要が存在すると考えるのが”普通”なのです。
それは、多くの人がそのように思い込んでいるからです。
多くの人の考えは、平均的な答えしか導くことは出来ません。
それは、平凡(へいぼん)な考えであるです。
平凡な考えは、平凡な答えに行き着くのです。
平凡な答えとは、誤解です。
平均は、決して本質ではないのです。
多くの人と同じように考えても、本質へと辿り着くことは出来ません。
本質を得なければ、必要を理解することは出来ないのです。
不要が存在すると考えるのは誤解です。
この世界には、不要は存在しないのが本質なのです。
すべてが必要であることが本質なのです。
本質を理解することが出来れば、不要と考えているものは、不要ではなくなります。
不要と考えていたものは、やがて必要となるのです。
必要を理解すれば、否定する必要はなくなります。
すべての人は、未熟に歪んでいます。
すべての人は、否定しているのです。
否定は、争いを導くでしょう。
すべての人は、不要と争っているのです。
本来ならば、この世界には不要は存在しません。
そのため、争いは存在しないはずなのです。
しかしながら、多くの人は敵を作って争うのです。
争いは、疲弊(ひへい)を促(うなが)します。
人は、争うことによって苦しみ、人生は、争うことによって乏しさを得るのです。
この世界に敵は存在しません。
敵が存在すると主張するのであれば、それは誤解です。
誤解によって本質を得ることは出来ません。
本質を得なければ、豊かさを得ることは出来ないのです。
すべての人は、人生に豊かさを求めています。
しかしながら、多くの人は人生に乏しさを得ています。
それは、敵を作り出して争うからです。
どのような問題も、どのような不都合も、決して敵ではありません。
あなたは、問題や不都合と争う必要はないのです。
問題や不都合は、あなたにとっての大切な学びです。
あなたは、問題や不都合を通じて成長を実現することが出来るのです。
気に入らないからといって、安易(あんい)に争ってはなりません。
自分の主張を貫(つらぬ)くことが最善ではないのです。
それは、あなたが未熟であるからです。
あなたは何も知りません。
あなたは、何も理解してはいないのです。
この世界には、不要は存在しません。
あなたは、すべてから学びを得ることが出来ます。
敵は存在しません。
そこには、必要が存在するだけなのです。
必要から学びを得ましょう。

2019年4月20日土曜日

現状という必要

すべての人は、必要があって、現状を体験しています。
すべての現状は、体験しなければならない学びであるのです。
すべての現状は、必要であるために実現しているということを理解しなければなりません。
この世界には、無駄は存在しないのです。
必要を無駄に思える無知が存在するだけなのです。
すべての現状は、意味と価値を以(もっ)て実現しているのです。
あなたは、そのことを覚えておかなければなりません。
どのような現状も、決して無駄ではないのです。
どのような現状にも、大切な意味と価値が備わっているということを忘れてはならないのです。
現状に対して、意味と価値を見失ってしまえば、必要を得ることが出来ないのです。
必要を得ることが出来なければ、必要な成長を実現することが出来ません。
必要な成長を実現することが出来なければ、人生の必要を満たすことも出来ないのです。
それでは、人生は乏しさを実現してしまうのです。
すべての人は、豊かな人生を望みます。
豊かさの形は、人それぞれに異なりますが、豊かさを求めるということは共通しているのです。
すべての人は、豊かさを求めるのです。
しかしながら、必要を得なければ、豊かさを実現することは出来ません。
ただ生きているだけでは、豊かさは得られないのです。
必要を受け入れなければならないのです。
必要とは、現状です。
人は、現状という必要を得るのです。
現状を受け入れることが出来なければ、必要を得ることは出来ません。
それは、現状を受け入れることが出来ない者には、豊かな人生を生きることが出来ないということを示しているのです。
あなたが豊かな人生を望んでいるのであれば、現状を受け入れなければならないのです。
しかしながら、多くの人にとって、現状とは受け入れ難(がた)いものです。
なぜなら、人生における必要は、あなたの都合を考慮(こうりょ)しないからです。
すべての人が未熟に生まれます。
すべての人が無知であり、愚(おろ)かなのです。
そのため、多くの人は自分の都合を優先しています。
それは、利己的な生き方をさせるのです。
多くの人は、利己的に生きています。
それは、傲慢(ごうまん)であるということを理解しなければならないのです。
傲慢は、必要を受け入れるという謙虚(けんきょ)さを失わせます。
謙虚でない者には、必要を受け入れることは出来ないのです。
大切なのは、謙虚な態度で生きるということです。
どのような人物も、現状を体験しなければなりません。
どのような現状も、それを体験しなければならないために実現するのです。
それが、幸福な体験であろうが、不幸な体験であろうが、それを体験しなければならないのです。
すべては、必要を満たすためです。
あなたにとって、必要なものが現状に対して実現します。
現状を受け入れることは、必要を受け入れるということなのです。
すべての人は、それが必要であるために体験します。
現状がどのようなものであろうとも、冷静にいなければなりません。
なぜなら、どのような現状も、必要によって導かれているからです。
幸福な現状であっても、不幸な現状であっても、それが必要なのです。
人は、現状をある意味では強制的に体験しなければなりません。
現状の形は、自力では制御することが出来ないのです。
あなたに出来ることは、認識の制御だけです。
あなたは、現状に対して、どのように認識するのか?を決めることが出来るのです。
豊かさを得るためには、傲慢に陥(おちい)らないことです。
そして、憂鬱(ゆううつ)に陥らないことです。
多くの人は、現状に対して幸福を覚える時には、優越に浸(ひた)って傲慢に陥ります。
多くの人は、現状に対して不幸を覚える時には、絶望して憂鬱に陥るのです。
現状は、必要であるために導かれているのです。
現状が必要以外の理由で導かれることはありません。
必要に対して、優越に浸ったり、絶望する必要はないのです。
必要に対して、傲慢や憂鬱に陥る必要はないのです。
もちろん、他者も必要によって現状を得ています。
そのため、他者を羨(うらや)んだり、蔑(さげす)む必要もないのです。
すべての人は、必要を受け取っているだけです。
それ以上でも、それ以下でもないのです。
あなたは、必要があって、現状を体験しているということを理解しなければなりません。

2019年4月19日金曜日

理解することが出来ない価値

すべての人には、価値が与えられています。
すべての人が、価値のある存在なのです。
それは、すべての人が役割を担(にな)っているからです。
この世界に、無駄は存在しません。
すべてに意味があり、価値があるのです。
あなたは、無駄に生まれたのではありません。
あなたには、あなたの役割があるのです。
それは、意味のある役割です。
それは、価値のある役割なのです。
その役割を果たすことが、人生をより良いものにするのです。
すべての人は、それぞれに異なる役割を担って生まれます。
それは、この世界に無駄が存在しないためです。
役割を共有することは無駄なのです。
それぞれが役割を担わなければ、必要を満たすことは出来ないのです。
人は、それぞれの役割を果たさなければなりません。
自分の役割を果たすことが重要なのです。
あなたは、自分に与えられた役割を果たさなければなりません。
しかしながら、自分に与えられた役割を果たすことは容易(ようい)ではありません。
なぜなら、多くの人は自分に価値を見出すことが出来ないからです。
多くの人は、自分の価値を理解しません。
多くの人は、自分に価値が無いとさえ思っているのです。
しかしながら、すべての人には、大切な価値が与えられています。
価値が無いと思えても、価値は与えられているのです。
あなたは、そのことを理解し、忘れてはならないのです。
人には、価値を理解することが出来ません。
なぜなら、それは、人の価値観を基準とした価値ではないからです。
それは、この世界を基準として定められた価値なのです。
すべての人は未熟です。
それは、無知であり、愚かなのです。
人の認識は歪んでいます。
それは、歪んだ価値観を実現するのです。
人の価値観は歪んでいます。
人の価値観では、世界にとっての必要を理解することは出来ないのです。
そのため、多くの人が自分に価値を見出すことが出来ないのは、不思議なことではないのです。
多くの人が、自分の価値に気が付きません。
自分の価値に気が付くことが出来ないのだから、他者の価値に気が付くことなど出来るはずがないのです。
残念ながら、あなたの価値は他者には理解されません。
他者は、あなたを評価することが出来ないのです。
そのため、他者に必要とされていないと思っても、思い悩むことはありません。
他者には、あなたの価値が分からないのです。
それは、あなたが他者の価値を理解しないのと同じなのです。
この世界には、無駄は存在しません。
しかしながら、あなたは無駄を発見します。
この世界の意味を理解することが出来ないのです。
無駄を発見している状態では、価値を理解することは出来ません。
なぜなら、価値とは意味のことだからです。
意味が価値なのです。
あなたは、他者の価値を理解することが出来ません。
それと同じように、他者があなたの価値を理解することはありません。
それが自然なのです。
人には、この世界の意味と価値を理解することが出来ないのです。
そのため、誰かや何かに期待するものではありません。
あなたは、自分の価値も他者の価値も理解してはいないのです。
世界の価値観も理解することが出来ません。
そのため、安易な判断を下すのは最善ではありません。
意味や価値を発見することが出来なくても、それだけで意味や価値が無いと判断してはなりません。
他者も同じようにしています。
自分の価値を認められようとして、誰かや何かに期待し、不自然に振る舞ってはならないのです。
他者はあなたの価値を理解することが出来ません。
あなたは、この世界に認められれば良いのです。
自分が出来ることを懸命に努めましょう。
他者からの評価を期待して何かを行ってはなりません。
それでは、役割を果たすことが出来ないのです。

2019年4月18日木曜日

理想を超える現実など存在しない

人生は、とても素晴らしい時間です。
なぜなら、自分と向き合うことが出来るからです。
自分と向き合うことは、とても素晴らしいことなのです。
なぜなら、人生の目的は自分自身と向き合うことだからです。
あなたは、自分と向き合うことによって、自分を知ることが出来ます。
自分に対する理解を深めることによって、成長を実現することが出来るのです。
自分という存在を理解することがなければ、成長を実現することは出来ません。
あなたが成長を実現するためには、自分と向き合わなければならないのです。
しかしながら、自分と向き合うことは、必ずしも簡単なことではありません。
なぜなら、多くの場合、自分と向き合うことには多くの問題が生じるからです。
すべての人は、未熟に生まれます。
人は、誰もが無知を生きているのです。
人は、誰もが愚(おろ)かさと共に歩まなければならないのです。
自らの未熟さ、無知、愚かさと向き合うことは、誰にとっても難しいことです。
それは、辛く、苦しいことなのです。
誰もが、理想を抱えて生きています。
誰もが、理想を欲しているのです。
誰もが、理想が既(すで)に実現してくれていればと考えています。
しかしながら、現実に存在するのは、自らの未熟さと無知と愚かさだけなのです。
すべての人は、理想とは掛け離れた現実と向き合わなければならないのです。
現実は、理想に劣(おと)ります。
理想を超える現実は存在しません。
現実が理想を上回ったと思っても、すぐに理想が追い越すのです。
人の欲は尽きません。
どのような人物も、現実に満足することが出来ないのです。
それは、人生の目的が成長することであるからです。
不満は、人の性(さが)であるということを認めなければならないのです。
どのような人物も、不満を手放すことは出来ません。
最善も、やがては最善ではなくなります。
満足は、やがて不満へと変わるのです。
様々な経験を通じて自分と向き合う内に、成長が実現します。
そうなれば、感性は磨かれ、視野は広く、認識は深くなるのです。
そのような状態は、人生に不満を導くのです。
すべての人が、人生に不満を抱いています。
すべての人が、変化、成長を求めているのです。
しかしながら、変化、成長を実現するためには、自分と向き合わなければなりません。
自分と向き合い、自分への理解を深める必要があるのです。
しかしながら、多くの人は、自分と向き合うことを恐れます。
多くの人は、自分と向き合うことを拒絶するのです。
それは、自分の抱えている歪みや弱さと向き合わなければならないからです。
それは、とても辛く、苦しいことなのです。
そのため、多くの人は、自分と向き合うことから逃げようとします。
少しでも、自分から目を背ける時間を設けよとするのです。
多くの人は、様々な刺激によって、自分と向き合うことから逃れようとします。
快楽や欲望を刺激する状況に身を置き、それによって自分を忘れようとしているのです。
快楽や欲望を刺激する状況は、自分と向き合う必要性を忘れさせてくれます。
しかしながら、それも一時的なことに過ぎません。
しばらくすれば、自分と向き合う必要性を思い出してしまうのです。
そのため、多くの人は、常習的に快楽や欲望を刺激する状況を欲するのです。
そして、いつの間にか、人生の目的を見失います。
残念ながら、多くの人は、常習的に快楽や欲望を刺激する状況を欲するあまり、快楽や欲望を刺激することが人生の目的であると思い込んでしまうのです。
そこに、未熟さと無知と愚かさがあるのです。
あなたは、人生の目的を考えなければなりません。
快楽や欲望を満たすために生まれたのではありません。
あなたは、そのようなことのために生まれたのではないのです。
快楽や欲望を満たそうとして、人は後悔を得ます。
後悔は避けられないのです。
しかしながら、それも、自分と向き合うということなのです。
あなたは、自分と向き合うことからは逃げられません。
人生の目的からは、どうしても逃れられないことを知りましょう。
自分と向き合うことは簡単なことではありませんが、少しずつでも向き合うようにしなければなりません。

2019年4月17日水曜日

必要は、その時に分かる

人生には、必要が実現します。
どのような状況が導かれようとも、それが必要であるのです。
すべての人が、必要を受け取ります。
すべての人は、必要以外を受け取ることは出来ないのです。
あなたの目の前に導かれるすべての状況が、あなたにとっての必要です。
あなたは、目の前のすべての状況から必要な学びを得ることが出来るのです。
しかしながら、未熟に生まれたあなたには、目の前に導かれる状況が必要であるとは思えません。
大抵の場合、それは、都合の悪い形で導かれるからです。
人生には、都合の良いことはありません。
多くの人は、不平不満を生きているのです。
すべての人が、誰かや何かに合わせなければなりません。
自分の思い通りに、自分に都合の良いようには、人生は展開しないのです。
思い通りにならないのが人生です。
それは、あなたが学びを得るためです。
学ぶためには、心の中に葛藤(かっとう)が必要です。
それは、自分に都合の良いように事を運びたいという気持ちと、現状という自分に都合の悪い状況との争いなのです。
すべての人は、利己(りこ)と利他(りた)の狭間(はざま)で揺れているのです。
人生は、利他的に展開します。
あなたは、誰かや何かの役に立つように振る舞わなければならないのです。
しかしながら、未熟に生まれたあなたは、利己的に生きたがります。
それは、不安を抱えているからです。
未熟に生まれたために、人生に対して不安を抱いているのです。
不安は、恐怖によって引き起こされる感情です。
すべての人は、恐怖を抱えているのです。
すべての人は、自らの立場や所有の強化を図ります。
それは、立場や所有が強化されると、幸福や豊かさが安泰(あんたい)であると考えるからです。
残念ながら、立場や所有と幸福や豊かさには直接的な関係はありません。
立場や所有に関係なく、幸福や豊かさを得ることが出来るのです。
幸福とは、偏見(へんけん)による誤解です。
何かに対して傾倒(けいとう)すれば、幸福を実現することが出来るのです。
無知な子ども程幸福であるのは、無知であるが故(ゆえ)に偏見と誤解を抱えているからなのです。
立場や所有を強化したところで、豊かさを手に入れることは出来ません。
なぜなら、豊かさとは、人生の目的を果たした結果であるからです。
人生の目的と、立場や所有は関係ありません。
立場や所有が乏しくても、人生が豊かである人はいるのです。
大切なのは、知恵の導きによって、人生の目的を果たすということです。
立場や所有などの”余計なこと”に気を取られていてはならないのです。
あなたは、必要だけを所有していれば良いのです。
必要は、その時に分かります。
探し回って見付かるものではありません。
未来や過去を思い悩むことで見出されるものでもないのです。
必要は、現状に導かれます。
あなたが目の前の状況の中に、自分にとっての必要を見付けるでしょう。
必要は、その時になってみなければ理解することは出来ません。
あれこれと考えても埒(らち)が明きません。
考えても探しても、必要を見付けることは出来ないのです。
必要は、必要な時に分かるのです。
そういうものなのです。
大切なのは、現状を懸命に生きることです。
自分なりに励(はげ)むことなのです。
現状を懸命に生きている者には、必要を理解することが出来ます。
必要を理解すれば、問題は解決します。
必要を理解すれば、道は開けるのです。
どうすれば良いか?は、必要が必要な時に教えます。
あなたは、打算する必要はありません。
心の赴(おもむ)くままに生きれば良いのです。
そうすれば、あなたは、誰かや何かのために生きていることでしょう。
それが、あなたにとって、この世界にとっての必要なのです。

2019年4月16日火曜日

最善の場所

人生には、無駄は存在しません。
人生には、必要だけが存在するのです。
それは、無駄なものは存在する意味がないからです。
無駄だと思う考えが存在するだけなのです。
すべての人は、未熟に生まれます。
そのため、すべての人は無知を抱えます。
無知は偏見を生み出します。
そして、すべての人は偏見によって誤解を抱えるのです。
すべての人は、誤解によって、無駄が存在すると思い込んでしまうのです。
未熟さが、この世界に無駄を存在させるのです。
しかしながら、本来ならば、この世界には無駄は存在しないのです。
人が未熟に生まれ、誤解によって認識を歪めているのも、必要なことなのです。
それは、成長を実現するためです。
人は、成長を目的として生まれます。
人生は、成長を実現するための時間なのです。
すべては、成長を実現するための経験です。
すべての経験は、成長を実現するための最善であるのです。
人生には、最善だけが導かれます。
どのような現状も、それが最善であるということを理解しなければならないのです。
しかしながら、多くの人には、そのことが分かりません。
なぜなら、無駄が存在していると思い込んでいるからです。
無駄が存在すると思い込んでしまえば、現状に対して疑心(ぎしん)を抱えてしまいます。
現状を疑うことは、最善を疑うということなのです。
最善を疑えば、最善を受け取ることは出来ません。
人は、自らの信じるものを受け取るのです。
そのため、無駄を信じている人は、無駄に思える状況を受け取らなければなりません。
それは、決して無駄な経験ではないのですが、本人が無駄であると信じているために、そこから学びを得ることが出来ないのです。
学びを得ることが出来なければ、成長を実現することが出来ません。
成長を実現することが出来なければ、”やはりあの経験は無駄であった”という思い込みが強化されてしまうでしょう。
そうすると、更に無駄を信じてしまうことになるのです。
人生は、誤解で満ちています。
人生には無駄など存在しないにもかかわらず、多くの人は、無駄を信じています。
多くの人が人生に苦悩し、乏しさを感じているのは、無駄を信じているからです。
大切なのは、すべてが最善であり、必要であると信じることです。
しかしながら、それは未熟なあなたにとっては、とても難しいことでしょう。
すべてが最善であり、必要であると信じることは、容易(ようい)ではありません。
しかしながら、人生に豊かさが必要と考えているのであれば、すべてが最善であり、必要であると信じなければならないのです。
多くの人は、現状を嫌います。
多くの人が、現状を拒絶するのです。
人生に無駄は存在しません。
あなたが気に入らなくても、あなたは最善の場所にいます。
あなたが気に入らなくても、あなたは最善のことをしているのです。
しかしながら、そうは思えないでしょう。
なぜなら、あなたが未熟であるからです。
物事を疑う前に、自分自身を疑わなければなりません。
自分自身の認識が歪んでいないかどうか?を考えなければならないのです。
多くの人は、自分を疑うことなく、目の前に導かれる状況を疑います。
それでは、いつまで経っても最善を受け入れることが出来ないのです。
最善を受け入れることが出来なければ、問題を解決することが出来ません。
人生に導かれる問題は、最善を拒絶することによって実現するものなのです。
最善を受け入れていれば、問題が導かれることはないのです。
あなたが問題を抱え、苦悩し、人生に乏しさを感じているのであれば、無駄が存在するという誤解を手放しましょう。
この世界には、無駄は存在しません。
無駄が存在すると信じても構いませんが、その選択の責任からは逃れることが出来ません。
あなたは、自分が気に入らなくても最善の場所で、最善のことをしているのです。
そのことを信じましょう。

2019年4月15日月曜日

存在価値

この世界には、必要が実現します。
この世界には、必要だけが存在するのです。
それは、現状における必要です。
この世界には、現状において必要なものが存在を許されているのです。
現状において、それがどのようなものであろうとも必要なものです。
必要に思えなくても、それは必要だからこそ存在しているということを理解しなければならないのです。
あなたには理解することが出来ない理由があるのです。
それは、あなたが未熟に生まれたからです。
すべての人が未熟に生まれます。
すべての人が、無知と愚(おろ)かさを生きているのです。
そのため、認識は歪(ゆが)みます。
認識が歪んでいれば、理解も歪むのです。
理解が歪んでいれば、本質を見極めることは出来ないのです。
すべての人が、本質を見極めることなく生きています。
すべての人が、本質を見失っているのです。
そのような状態では、この世界の必要を理解することは出来ません。
この世界の必要を理解することが出来ないということは、不要を考えてしまうということなのです。
すべての人が、この世界には不要が存在すると考えています。
しかしながら、それは、自分の都合によって左右される必要と不要なのです。
人は、自分の都合によって世界を考えているのです。
残念ながら、世界はあなたの都合に合わせては動いてくれません。
世界は、あなたの都合に関係なく動くのです。
それは、必要を実現するためです。
世界は、必要を実現します。
それは、世界にとっての必要であり、あなたにとっての必要なのです。
世界にとっての必要と、あなたにとっての必要は同じです。
なぜなら、あなたは世界にとって必要な存在であるからです。
あなたは、必要として生まれたのです。
しかしながら、多くの人がその事実を知らないままに生きています。
多くの人が、自分の存在価値を知らずに生きているのです。
自分の存在価値を知らなければ、自分を大切に扱うことが出来ません。
人は、価値が無いと思うものには容赦(ようしゃ)が無いのです。
人は、価値が無いと思うものを軽んじます。
それは、野に吐き捨てられる果物の種のようなものなのです。
食べることにおいて、多くの人は種に価値を見出しません。
多くの人は、種を飲み込まずに吐き捨てるのです。
食べることにおいて、種に価値を見出すことは難しいでしょう。
しかしながら、吐き捨てられた種は、地に根を下ろして成長し、やがてはたくさんの果実をもたらすのです。
食べることにおいて、種には大した価値はありません。
しかしながら、種は無限の果実をもたらすのです。
価値が無いと思えるものにも、時が来れば価値が見出されるのです。
野に吐き捨てられる種も、時の経過によって、無くてはならない存在となります。
それは、時の経過によって価値のある存在となるのです。
現状において、すべてを判断することは出来ません。
残念ながら、あなたは未熟なのです。
結論を急いではなりません。
判断を早まってはならないのです。
この世界には、必要が実現します。
野に吐き捨てられる種のように、一見すると不要に思えるものにも、野に吐き捨てられるという必要があるのです。
多くの人が、現状に対して不平不満を吐いています。
すべての人は、より都合の良い現状を求めているのです。
しかしながら、あなたが大切にしなければならないのは、自分の都合ではありません。
あなたが大切にしなければならないのは、この世界の必要なのです。
必要は、あなたの都合に関係ありません。
都合が悪いと思えることであっても、目の前に実現するのであれば、それが必要なのです。
この世界には、必要だけが実現します。
あなたには理解することの出来ない深い理由によって、必要だけが実現するのです。
必要は避けられません。
必要は、受け入れるしかないのです。
なぜなら、それが必要であるからです。
とても単純で、明快(めいかい)な答えなのです。
あなたがどれだけ拒絶しても、必要を受け取らなければなりません。
あなたは、必要を受け入れるしかないのです。
必要は決して、自分の都合の良いものではありません。
大抵の場合、必要というものは都合の悪いものなのです。
あなたが人生に豊かさを必要とするのであれば、必要を受け入れなければなりません。
自分の都合に関係なく導かれる必要を学ばなければならないのです。
豊かさを実現するためには、自分にとって都合の悪いものを避けて通ることは出来ません。
自分にとって都合の悪いものを乗り越えていかなければ、自分に豊かさを実現することは出来ないのです。
今日やるべきことは、今日中に完成させましょう。
明日やるべきことは、明日完成させれば良いのです。
昨日やるべきことを、いつまでも考えていてはなりません。
それは、どうすることも出来ないことなのです。
必要を考え、必要を理解しましょう。
そうすれば、今日やるべきことを今日中に完成させることが出来るでしょう。
その積み重ねこそが、豊かさを実現するのです。
自分の存在価値を見誤ってはなりません。

2019年4月14日日曜日

気楽な人生

人生は、苦しみの時間ではありません。
しかしながら、人は苦しみを避けることが出来ません。
人生は苦しみではないのですが、多くの人は苦しまなければならないのです。
それは、苦しむことが好きだからです。
人生は、因果の仕組みによって成り立っています。
人生には、原因に関係しない結果が導かれることはありません。
すべての結果は、それに相応しい原因によって実現するのです。
目の前の苦しみが存在するのであれば、その苦しみに相応しい原因を所有しているということです。
それ以外には、苦しみが導かれる理由はないのです。
あなたが苦しんでいるのは、あなたが苦しみを選択したからに他なりません。
誰かや何かによって、あなたが苦しんでいるということではないのです。
誰かや何かには、あなたを苦しめることは出来ません。
なぜなら、これは、あなたの人生であるからです。
あなたの人生の原因は、あなたにしかありません。
誰かや何かが、あなたの人生の原因を所有することは有り得ないのです。
人生は、自分自身によって築かれるのです。
それ以外にはないということを覚えておきましょう。
あなたは、自分の人生を操作しなければなりません。
自らの選択によって、人生を導くのです。
あなたは、自らの人生の船頭(せんどう)であるということを覚えておかなければなりません。
あなたによって、人生は向きを変えるのです。
苦しみに舵(かじ)を切れば、人生は苦しみに向かいます。
喜びに舵を切れば、人生は喜びに向かうのです。
難しいことではありません。
自分の選択に相応しく人生は展開するのです。
人生を難しく考え、深刻に生きている人がいます。
そのような人は、必ず苦しむことになるのです。
それは、重たい荷物を抱えているようなものだからです。
心には、重さがあります。
すべての人は、心を抱えて人生を歩まなければなりません。
悲観的に考えるのであれば、心は重たくなってしまうのです。
重たい心を抱えて歩むのは重労働です。
それは、いつか苦しみを引き起こすのです。
多くの人が苦しんでいるのは、人生に対して悲観的に生きているからです。
ただ、それだけのことです。
人生に対して、否定的、破滅的に生きているのであれば、心は重たくなってしまうのです。
大切なのは、重たい荷物を抱えないことです。
多くの人は、心配し過ぎです。
多くの場合、心配の大半は考え過ぎなのです。
起こり得ない状況を勝手に想像して心配しているのです。
人生は、そんなに重たく考える必要はありません。
難しく考える必要もないのです。
なぜなら、人生は、どのようになっても構わないからです。
人生が、どのように展開しても、そこには最善の学びが存在しています。
あなたは、どのような状況からも学びを得ることが出来るのです。
それは、あなたを成長させるために必要な学びなのです。
すべてが学びであること、人生がどうなっても良いことを知れば、少しは気楽に考えることが出来るはずです。
人生はどうなるか分かりませんが、心配する必要はありません。
なぜなら、人生は所有する原因に相応しく展開するからです。
人生が、因果を無視することはないのです。
原因をある程度把握していれば、人生がどのように展開するか?を、ある程度予測することが出来るのです。
誰かや何かに対して、思いやりを以(もっ)て接すれば、誰かや何かから思いやりを以て扱われるでしょう。
もちろん、因果の仕組みはそのように単純なことではありません。
結果は、様々な原因が複合的に導き出すものだからです。
しかしながら、新鮮な材料で作る料理は美味しく食べることが出来ます。
それは、口にも腹にも良いのです。
しかしながら、食材が腐っていれば、すべての料理は口にも腹にも悪いのです。
食材の鮮度が重要なのです。
思いやりに近付く程に、その原因は新鮮です。
思いやりから遠ざかる程に、その原因は腐敗(ふはい)するのです。
思いやりを以て気楽に生きることが大切です。
それは、心を美しく保つ生き方なのです。
人生において、心を美しく生きる以上に良いことはありません。
思いやりを以て、気楽に生きる以上に良い生き方はないのです。
難しく考えてはなりません。
悲観的に生きるべきではないのです。
どのような状況が導かれたとしても、否定的、破滅的に生きてはなりません。
どのような状況も、思いやりを以て気楽に受け入れましょう。
どう頑張っても、出来ることしか出来ません。
出来ないことは出来ないのです。
それで良いのです。


あなたは、人生を出来るだけ気楽に考えましょう。

2019年4月13日土曜日

理想が苦しみ

すべての人は、理想を抱えています。
誰もが、理想の実現を求めているのです。
人は、理想が実現することを幸福と考えます。
そして、理想が実現しないことを不幸と考えるのです。
人は、幸福を求めます。
幸福であることが良いと考えているのです。
しかしながら、幸福を追い求めることには限界があります。
幸福を追い求めることは苦しいのです。
それは、目的地に向かって全力疾走(ぜんりょくしっそう)しているようなものだからです。
しかしながら、多くの人は、幸福を追い求めることが苦しみであることを知りません。
苦しいのは、幸福ではないからだと考えるのです。
不幸であるために苦しいと考えるのです。
そこに誤解があるのです。
目的地に向かって走る続けることは不可能です。
人生は長い道程(どうてい)なのです。
早く走ったからといって、目的地に到着することが出来る訳ではありません。
目的地に到着するためには、適度に休み、適度に歩み、適度に走らなければならないのです。
無理をしても、目的地に辿り着くことは出来ません。
焦っても、目的地に辿り着くことは出来ないのです。
大切なのは、確実に目的地に辿り着くことです。
そのためには、考える必要があるのです。
我武者(がむしゃ)らに走っても仕方がないのです。
目的地に辿り着くためには、目的地に辿り着くことが出来るかどうか?ということを考えなければならないのです。
目的地までの距離と、自分の体力を考えれば、無謀(むぼう)な挑戦はしないでしょう。
深く考えれば、理想が無謀であるということに気が付くはずなのです。
多くの人は、理想を追い求めることによって苦しんでいます。
理想を追い求めることをしなければ、苦しみは避けられるのです。
走り続けていれば、呼吸は苦しくなります。
それと同じようなことが、心にも起こっているのです。
あなたが苦しみに陥(おちい)っているのであれば、理想を追い求めることをやめましょう。
そうすれば、苦しみを手放すことが出来るでしょう。
走ることをやめれば、呼吸は徐々に安定してくるのです。
呼吸が整うまでは走ることをやめ、代わりに休んでも良いし、歩んでも良いのです。
苦しいことを続けていても、目的地に辿り着くことは出来ません。
苦しみが訪(おとず)れたなら、違う方法を試みるのです。
苦しみを生み出した方法を続けているのであれば、苦しみはいつまでも続くのです。
別の方法に切り替えることによって、理想を手放すことにはなりますが、同時に苦しみを手放すことが出来るのです。
人生は、理想を実現するための場所ではありません。
人生においては、理想を実現する必要などないのです。
多くの人は、理想が最善だと思い込んでいますが、理想とは偏見(へんけん)が生み出す幻想に過ぎません。
すべての人は、未熟に生まれるのです。
未熟者の理想が最善であるはずがないのです。
無理をして、理想を追い求める必要はありません。
理想など、実現しなくても構わないのです。
人生には、必要が満たされます。
どのような現実も、それが必要であるために導かれるのです。
人生に、不要なものは存在しません。
不要に思えるものであったとしても、それが必要なのです。
あなたは、そのことを理解しなければなりません。
すべての必要は満たされます。
満たされないものは、必要ではなかったと諦めるべきなのです。
実現しないものをいつまでも追い求める必要はありません。
それは、苦しみを助長するだけなのです。
苦しみが嫌なら、理想を諦めましょう。
現実を大切にすれば、苦しみは去るでしょう。

2019年4月12日金曜日

人生は、どうなるか分からない

すべての人生には、目的地が存在しています。
すべての人は、目的地を目指して歩み続けているのです。
目的地の存在しない人生は存在しません。
なぜなら、すべての人生には目的が存在しているからです。
すべての人は、目的を果たすために生きているのです。
すべての経験は、与えられた目的を果たすためのものなのです。
与えられた目的がどのようなものであれ、あなたはそれを果たさなければなりません。
目指す目的地がどのような場所であろうとも、あなたはそこを目指して歩み続けなければならないのです。
残念ながら、人生は思い通りにはなりません。
それは、あなたが未熟であり、無知であるからです。
あなたの認識は歪(ゆが)んでいます。
残念ながら、あなたには、与えられている人生の目的と、目指すべき目的地を正しく理解することは出来ないのです。
未熟であり、無知であるために、正しい人生の目的と目的地が分からないのです。
すべての人は、認識を歪めています。
多くの人は、理想を目的だと思い込んでしまうのです。
残念ながら、理想は人生の目的ではありません。
なぜなら、理想とは、歪んだ願望に過ぎないからです。
理想とは、生まれた後の願望なのです。
しかしながら、人生の目的というものは、人生を始める前から存在する必要なのです。
必要が目的となります。
目的が存在しなければ、人生は存在しないのです。
なぜなら、この世界には、無意味なものは存在することが出来ないからです。
無意味なものは、存在する意味がありません。
そのために、無意味なものが存在することはないのです。
あなたの現状は、あなたにとっての必要です。
あなたが人生の目的を果たし、目的地へと辿り着くための必要なのです。
あなたが人生の目的を果たし、目的地へと辿り着くためには、現状に対する必要性を認めなければならないのです。
理想を追い求める歩みは、多くの問題を引き起こします。
それは、道の無い場所に次の歩みを踏み出すようなものなのです。
それは、問題なのです。
道のある場所でなければ、次の歩みを踏み出すことは出来ません。
大切なのは、確実に道を踏み締めて歩むことです。
歩もうとして怪我をすることは、最善ではないのです。
あなたは確実な一歩を踏み出しましょう。
確実な一歩を踏み出すためには、焦(あせ)らないことです。
人生は、どうなるか分かりません。
人生は、誰にも予測することは出来ないのです。
人生は、思いも寄らない展開を実現します。
あなたの期待や理想、不安や悲観は裏切られるのです。
そのため、焦って歩む必要はありません。
あなたの目的は、あなただけに与えられた目的です。
そして、あなたの目指す目的地に辿り着くことが出来るのは、あなた一人だけなのです。
他の誰も、あなたの代わりにあなたの目的を果たすことは出来ません。
他の誰も、あなたの代わりにあなたの目的地へと辿り着くことは出来ないのです。
誰も、あなたの邪魔をしません。
誰も、あなたの邪魔は出来ないのです。
大切なのは、ゆっくり自分の歩幅で歩むことです。
あなたは、自分のペースで歩めば良いのです。
人生は長い旅路です。
今から、人生の結末を理解することは出来ません。
そのため、どのような現状も、それを楽しみましょう。
無理をしてはなりません。
焦ってはならないのです。
周囲の人達のことを気にする必要はありません。
他者は他者、あなたはあなたなのです。
歩幅を乱してはなりません。
次の歩みを踏み間違えてはならないのです。
ゆっくりと歩みましょう。

2019年4月11日木曜日

もがき

人生は、決して思い通りにはなりません。
人生は、あなたの都合を考えないのです。
人生にとっては、あなたの都合は必要ではありません。
人生は、あなたの都合に対して価値を見出さないのです。
そのため、あなたの都合に合わせるようなことはしないのです。
人生が、都合良く展開することはありません。
人生は、この世界に対しての必要を実現します。
この世界にとっての必要とは、あなたにとっての必要でもあります。
残念ながら、自分にとっての必要を、あなたは理解しません。
それは、あなたが未熟に生まれたからです。
未熟者には、必要を理解することが出来ません。
あなたは、必要と都合は異なるということを理解しなければならないのです。
多くの人は、都合を追い求めています。
自分にとって都合の良いことが最善であると考えているのです。
それは、気分が良いからです。
自分にとって都合の悪いことに対して、多くの人は気分を害します。
それは、思い通りにならないからです。
多くの人は、我欲に根差して生きています。
多くの人は、傲慢(ごうまん)です。
そのため、思い通りにならない状況に対して、気分を害するのです。
人生において重要なのは、必要を受け入れることです。
必要を満たすことこそが、最善を実現することなのです。
必要を受け入れることなく、最善を実現することは出来ません。
最善を実現するためには、必要を受け入れる他ないのです。
必要とは、目の前の現実です。
それは大抵の場合、自分にとって都合の悪い状況なのです。
人生とは、学びの場所です。
人は、人生において学ばなければなりません。
それは、成長を実現するためです。
成長とは、理(ことわり)に近付くことです。
成長とは、本質を見極めることなのです。
それは、人生とは何か?自分とは何か?という問いに答えを導き出すことです。
人は、成長することによって、答えを得るのです。
成長するためには、傲慢を手放さなければなりません。
傲慢を抱えていれば、理に近付くことも、本質を見極めることも出来ないのです。
傲慢を手放すことは容易ではありません。
多くの人にとって、傲慢を手放すことは難しいのです。
なぜなら、傲慢と共に生きて来たからです。
そして、傲慢が正しいと信じているからなのです。
自分が正しいという考えは傲慢です。
多くの人は、自分が正しいと考えています。
しかしながら、多くの人は、自分は傲慢ではないと考えています。
多くの人は、自分は謙虚(けんきょ)な人間だと思っているのです。
しかしながら、多くの人は傲慢です。
人生に対して、自分の都合の実現を願っている時点において、傲慢であるということを理解しなければならないのです。
しかしながら、傲慢を手放すということは、目の前の現実を受け入れなければならないということなのです。
多くの人にとって、それは困難なことなのです。
多くの人は、目の前の現実を受け入れることが出来ません。
もっと良い状況や状態があるはずと探すのです。
しかしながら、人生が導くのは最善です。
それを受け入れない限りは、より良い状況や状態が導かれることはないのです。
現実を受け入れることは苦しいことです。
人は、苦しみを受け入れなければならないのです。
あなたは、もがかなければならないでしょう。
人生は、苦しみの体験なのです。
もがき苦しむことによって、傲慢を振り落とすことが出来るのです。
もがき苦しむことによって、道は開けるでしょう。
人生には、避けることの出来ない苦しみが存在します。
あなたは、それと向き合わなければなりません。
安心してもがき苦しみましょう。

2019年4月10日水曜日

無理な偏り

この世界は、学びの場所です。
この世界は、学びの場所でなければなりません。
学びには、違いが必要です。
違いが存在しなければ、学びは存在しないのです。
違いが変化を生み出し、そこに葛藤(かっとう)を覚えます。
心が揺さぶられることによって、学びが発生するのです。
人は、この人生において、自分自身を学んでいるのです。
どのような経験を通じても、学んでいるのは自分自身であるということを理解しなければならないのです。
これは、自分自身を理解するための人生なのです。
あなたは、理(ことわり)を通じて、自分自身を学んでいるのです。
自分自身を学ぶためには、自分自身を教えてくれる存在が必要です。
それは、自分とは反対の性質や役割を持つ存在です。
あなたは、自分とは違う存在によって、自分自身を学ぶことが出来るのです。
自分以外の存在が、自分に反発することがなければ、何が自分であるかを知ることは出来ないのです。
特定の誰かを認識することが出来るのは、それぞれが異なる性質や役割を持っているからなのです。
それぞれが同じ性質や役割を持っているのであれば、見分けが付きません。
それでは、学びを得ることが出来ないのです。
あなたは、違いによって学びが得られるということを理解しなければなりません。
この世界には、違いが存在します。
この世界において、同じものは存在しないのです。
同じように思えるものは存在しますが、決して同じではありません。
すべてが完全に違っているということを理解しなければなりません。
人には、それぞれに違いが必要です。
それは、それぞれの性質や役割が異なっているためです。
それぞれが違っているのが自然です。
人は、それぞれの性質や役割に従って違っているのが最善なのです。
平等とは、それぞれが異なる状態によって共存している状態のことを言います。
それぞれが同じ状態であることは、決して平等ではありません。
なぜなら、それぞれの性質や役割を否定することであるからです。
世界には、違いが必要です。
例えば、この世界には、男と女が必要です。
これは、肉体的や精神的な性差(せいさ)のことです。
人は、肉体的や精神的に、男か女に別れなければならないのです。
例えば、この世界には、健康と病気が必要です。
健康な人もいれば、病気の人もいます。
健康な時もあれば、病気の時もあるのです。
健康だけでは学ぶことはありません。
病気だけでも学ぶことはないのです。
健康があり、病気があるからこそ、学ぶことが出来るのです。
例えば、裕福な生活もあれば、貧乏な生活もあります。
裕福な時もあれば、貧乏な時もあるのです。
裕福なだけでは学ぶことはありません。
貧乏なだけでも学ぶことはないのです。
違いによって、そこから何かを学ぶことが出来るのです。
違いが存在するのは、それが必要だからです。
学びを得るためには、違いを経験しなければならないのです。
そして、葛藤を経験しなければ、成長を実現することは出来ないのです。
どちらが良いということではありません。
どちらの状態も必要なのです。
幸せでも不幸でも良いのです。
必要な状態を経験し、必要な学びを得れば良いのです。
無理に偏(かたよ)る必要はないのです。
現状が不幸だからといって、無理に幸せを掴もうとする必要はありません。
学ばなければ意味はありません。
学ばずに、無理に脱出を試みたところで、抜け出すことは出来ないのです。
あなたは、学ばなければなりません。
学び終えるまでは、同じ学びにとどまり続けるということを理解しなければなりません。
どのような現状も大切にしましょう。
それが、学ぶということです。