すべての人は、不満を抱えています。
すべての人は、欲求が満たされてはいないのです。
すべての人は、欲求を満たすために活動しています。
すべての行為は、欲求を満たすための選択なのです。
あなたは、自らの抱える欲求を満たすために選択します。
それは、悪いことではありません。
しかしながら、多くの人は、そのことで苦悩を抱えることになります。
多くの人は、欲求を満たそうとして問題を引き起こし、苦悩を抱えるのです。
それは、満たすべき欲求を理解してはいないからです。
多くの人は、欲求を誤解しています。
満たすべき欲求を満たしているのであれば、問題を引き起こし、苦悩を抱えることはないのです。
問題を引き起こし、苦悩を抱えるのは、満たすべきではない欲求を満たそうとしているからなのです。
間違った選択をしているために、問題を引き起こし、苦悩を抱えるのです。
単純なことです。
難しく考えてはなりません。
多くの人は、満たすべきではない欲求を何とか満たそうと努めます。
それは、満たすべきではない欲求を、満たすべき欲求であると思い込んでいるからなのです。
多くの人は、頭で考えます。
そして、心で考えているのです。
残念ながら、頭や心では真実を見極めることが出来ません。
なぜなら、頭や心は自我の管轄(かんかつ)にあるからです。
自我とは、守りの自分です。
それは、未熟さを擁護(ようご)するための守護なのです。
自我は、未熟なあなたを守ります。
それは、あなたを制御するためのブレーキのようなものなのです。
スピードの出過ぎている車は、コーナーを曲がり切れずに衝突してしまいます。
それでは、自走が不可能になってしまうのです。
人生の目的は、目的地へと辿り着くことです。
安全に道程を進むためには、ブレーキの役割を担(にな)う自我の働き掛けが必要不可欠なのです。
しかしながら、ブレーキを踏み続けているのであれば、車は先へ進むことが出来ません。
車が先へと進むためには、ブレーキを緩め、アクセルを踏み込まなければならないのです。
自我に従っているのであれば、人は停滞してしまいます。
道を進むためには、真我(しんが)に従わなければならないのです。
多くの人は、自我の欲求を満たそうとしています。
目の前の快楽や欲望に溺れることで、自我の欲求を満たそうとするのです。
それは、ブレーキを踏み込むということなのです。
あなたは、真我の欲求を満たそうとしなければなりません。
それは、志(こころざし)に従って生きるということなのです。
志に従って生きるというのは、誰かや何かのために貢献する生き方を目指すということです。
人は、自分勝手に生きることは出来ません。
それは、自分勝手に生きることでは、豊かさを実現することが出来ないからです。
人は、自分以外の存在と支え合うことによって豊かさを実現するのです。
そのため、誰かや何かに貢献する生き方を実現することによって、真我の欲求が満たされるのです。
人は、欲求不満です。
それは、真我が欲求不満であるということなのです。
真我の欲求を満たさない限りは、人は欲求不満を生きなければなりません。
欲求不満を解消するためには、真我の欲求に従って生きなければならないのです。
自分勝手に生きることによっては、欲求が満たされることはありません。
何を手に入れても、それが自我の欲求であるのならば、すぐに渇いてしまうのです。
目の前の快楽や欲望を満たしたところで、人生が豊かさを得ることはありません。
なぜなら、それは一瞬の潤いだからです。
砂に水がとどまらないように、自我の欲求はすぐに渇きます。
砂の上に豊かさを築くことは出来ません。
水は石によってとどまります。
石の上には、水がとどまるのです。
あなたは、石のように強固な志を以(もっ)て生きましょう。
誰かや何かのために貢献するという欲求を満たそうと努めるのです。
誰かや何かのために尽力した時に、あなたの欲求は満たされるでしょう。
誰かや何かのために生きる時、あなたの欲求不満は解消されるのです。
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