すべての人生には、目的が存在しています。
目的の無い人生など存在しません。
どのような人生であろうとも、必ず目的が与えられているのです。
すべての人は、目的を果たすために生まれました。
目的を持たずに生きる人はいません。
すべての人が、目的を果たすための人生を生きているのです。
しかしながら、多くの人は目的を見失っています。
それは、とても小さく、とても大きく、とても近く、とても遠く、とても冷たく、とても熱いために、理解することが難しいのです。
多くの人は、人生の目的を見失いながらも、人生を生きています。
それは、決して悪いことではありません。
人は、人生の目的を見失うのが自然だからです。
それは、人生の目的を果たすためなのです。
あなたは、人生の目的を果たすために、それを見失わなければなりません。
見失うことによって、その重要性に気が付くのです。
残念ながら、すべての人は未熟に生まれます。
目的を以(もっ)て生まれたにもかかわらず、その価値に気が付かないのです。
多くの人は、価値を見誤ります。
重要でないものに価値を見出し、重要なものの価値を軽んじるのです。
多くの人が、人生を空しく生きています。
目の前の快楽や欲望や苦悩を満たすために生きているのです。
それは、空しい生き方なのです。
人生の目的は、目の前の快楽や欲望や苦悩を満たすというものではありません。
人生の目的が、そのように低俗であるはずがないのです。
あなたは、自分自身や他者が考えているよりも高尚(こうしょう)な存在です。
あなたは未熟であり、汚れと歪みを有していますが、磨けば強い輝きを放つ宝なのです。
人生の目的を見失っている者は、自分が何であるのか?ということも見失っています。
自分が何であるのか?ということを見失っているために、人生の目的を見失っていると言えるのです。
大切なのは、自分が何であるのか?という問いを生きることです。
自分が何か分かれば、何をするべきか?を理解することが出来ます。
鳥であれば大空を行き、馬であれば大地を駆け、魚であれば大海を進むのです。
水であれば下り、岩であれば保ち、炎であれば昇るのです。
人生の目的を果たすためには、自分が何か?を知らなければならないのです。
自分を見誤っているために、価値を見誤っているのです。
多くの人が、目の前の快楽や欲望や苦悩を満たそうとして空しく生きているのは、自分の価値を知らないからです。
この世界において、そのままで価値を認められるものは稀(まれ)です。
美しくなければ、価値を見出してはもらえないのです。
あなたは、泥水を飲みたいと思いますか?
汚れた器で食事をしたいと思いますか?
物が乱雑に積み上げられた部屋と、整理整頓の行き届いた部屋のどちらに住みたいと思うでしょうか?
人は、美しいものにこそ価値を見出すのです。
しかしながら、自分が美しく高尚な存在であることを知らない者は、美しさに価値を見出すことが出来ません。
未熟であり、汚れと歪みを有している状態を自分だと思い込んでいるために、そのようなものに価値を見出すのです。
多くの人が、目の前の快楽や欲望や苦悩を好んでいるのはそのためなのです。
あなたは、自分という存在が、自分自身や他者が考えているよりも、より高尚な存在であるということを理解しましょう。
残念ながら、多くの人はそのことを理解することが出来ません。
自分自身に存在する可能性に気が付かないのです。
時期が来れば、大輪の花を咲かせる植物だということに気が付かずにいるのです。
美しい花を咲かせる植物も、時期が来るまでは花を咲かせることは出来ません。
美しい花を咲かせるまでは、地味であり、他の植物に埋もれてしまいます。
誰も、価値を見出しません。
しかしながら、時期が来て美しい花を咲かせると、多くの人が注目し、価値を見出すのです。
美しい花を咲かせる植物は、時期が来るのをただ待っていたのではありません。
時期が来た時に、美しい花を咲かせることが出来るように準備を続けていたのです。
蕾(つぼみ)は、すぐに咲くことはありません。
蕾は、時期を待って開くのです。
人生を焦る必要はありません。
死ぬまでは人生です。
人によって花を咲かせる時期は異なります。
しかしながら、準備を怠(おこた)る者には、花を咲かせることが出来ません。
目の前の快楽や欲望や苦悩を満たそうと努めることなく、自分は何か?という問いに対して答えを探し続けましょう。
人生の大半が地味なものです。
特別な状況を探して自分から離れてはなりません。
あなたは、最も近くに存在する自分を探さなければならないのです。
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