あなたは恐怖に対して無知ではなりません。
恐怖に対しての対策を練り、それに捕われないように計らわなければならないのです。
恐怖は幸福と対極に位置しています。
恐怖がそこに存在しているのであれば、そこに幸福は存在しません。
そこに幸福が存在しているのであれば、そこに恐怖が存在することもないのです。
恐怖と幸福は相反するものであり、互いに共存することはできないということを理解しなければならないでしょう。
恐怖を克服することができなければ、幸福がそこに存在するということはないのです。
人生を豊かなものにするためには、恐怖心を上手く取り扱うことこそが重要であると理解しなければならないのです。
恐怖心を扱うことができずに、幸福を得ることはできません。
どれだけ幸福を求めたとしても、そこに恐怖心が存在しているのであれば、幸福には居場所が存在しないのです。
あなたは恐怖に捕われてはなりません。
恐怖に縛られないように努めなければなりません。
人は未熟な存在ですが、鍛錬(たんれん)によって恐怖を克服することができます。
鍛錬することがなければ何も変わりはしませんが、鍛錬すれば必ず変わります。
心(価値観、考え方、捉え方、発想)は鍛えることができるのです。
鍛錬とは、その対象に向き合う行為です。
向き合い続けることによって、そのものに対する偏見や疑心が取り除かれます。
それはあたかも、鍛えられる鉄のようにです。
熱せられた鉄を叩けば叩くほど、そこに混ざり込む不純物が取り除かれます。
人の心にも偏見や疑心といった不純物が混ざり込み、そのもの自体を弱くしています。
不純物の多く含まれた鉄が脆(もろ)いように、偏見や疑心の含まれた心もまた脆いのです。
不純物の取り除かれた鉄は鋼(はがね)となり、それはしなやかで美しく、何より強いものです。
それは、そこに不純物が混ざり込んではいないからです。
あなたの心がしなやかで美しく、強く在るためには、余計な思想や価値観(偏見や疑心)を取り除かなければなりません。
あなたの心を害するその一端が恐怖心であるということを知らなければならないのです。
あなたの心が満たされるためには、多くの恐怖心は必要ではありません。
多くの恐怖心は心を煩(わずら)わせ、自身を損ないます。
それは端から発生した錆(さび)が、やがて鉄自体を粉々にするようなものなのです。
心の中に存在する恐怖心は、清らかな心を浸食し、やがてはそれ自体を破滅させてしまうのです。
発生した錆を放置するのは鉄の価値を損なう行為です。
恐怖心を放置するのは心の価値を損なう行為であるということを知りましょう。
あなたの心の価値が損なわれれば、人生の価値さえも損なわれます。
それは、心によってすべてがもたらされるからです。
人の本質は心です。
その心(精神、感情、意思など)が人を作り、人生を築くのです。
人生はあなたの判断の積み重ねです。
それ以外の何かがそれを築くことはありません。
あなたがどのように思おうとも、人生はあなたの心を中心として形成され、成り立っているのです。
その事実を知ることがなければ、人生を理想に近付けることはできないでしょう。
心にとって、ましてや幸福にとって、恐怖はネガティブなものです。
恐怖に根差した選択が心を満たし、人生に幸福を導くということはないのです。
恐怖心をコントロールし、それを正しく扱うことができなければ、必要を満たすことはできないということを理解しなければならないのです。
ただし、恐怖心が無駄であると言っている訳ではありません。
人にとって、恐怖は必要な要素です。
存在しているものはすべて必要なのです。
要はそれを正しく扱うことが求められるということです。
恐怖の必要性を理解し、それをバランス良く人生にちりばめ、役立てるように努めなければならないのです。
恐怖に支配されてしまうと幸福は得られませんが、幸福のためには恐怖の力も必要になるのです。
鉄の中から不純物を取り除くのが容易ではないように、心の中から偏見や疑心を取り除くことも容易ではありません。
しかしながら、それをしなければ「良い心」を得ることはできません。
恐怖も心を強くするためには必要です。
決して無駄にはなりません。
しかしながら、それを分かった上で取り除かなければならないのです。
人間誰しもが何等かの恐怖心を抱いています。
それをできる限り取り除きましょう。
あなたは正しい思想によって自らの心を打たなければなりません。
刀匠(とうしょう)が魂を込めて鉄を鍛えるようにです。
あなたは自らの心を正しい思想(思いやり)によって鍛えましょう。
正しいことのために恐怖を取り除けば、あなたは素晴らしい心を得ることができるでしょう。
素晴らしい心は素晴らしい人生を導きます。
そのことを忘れてはならないでしょう。