このブログについて

「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2014年11月30日日曜日

大きな世界

小さな世界に満足していてはなりません。
この世界はあなたが考えているようなものではありません。
常識で計ることのできるようなものでもないのです。
人は未熟です。
人は決して、この世界の実相に至ってはいないのです。
そのため、知らないことが非常に多く、無知の状態であるということを覚えておきましょう。
目の前の状況、所有しているものを大切にする気持ちは重要です。
人は、与えられるものすべてを大切にしなければなりません。
しかし、多くの人は小さなものによって満足してしまい、それを失わないように必死になって努めているのです。
大切なのは世界の実相を知ることです。
世界の実相を知るためには、その視野を大きくしていかなければなりません。
できる限り高く昇り、できる限り広く見るのです。
小さな世界に満足し、それ以上の探究をしないのであれば、世界の実相を理解することなどできるはずがないのです。
与えられるものに感謝する気持ちは大切です。
しかし、それを守ろうと必死になってはなりません。
どのようなものを得ようとも、それは小さなものなのです。
あなたはそれを宝物のように思い、壊れないように、失わないように努めていますが、その考えに捉われているのであれば、それ以上の進歩発展は得られないのです。
小さな世界を満足する者には、それ以上の世界を見る機会は与えられないのです。
大きな世界に進むことは、より良い方法を得るということです。
より高い場所から眺めるのであれば、より良く理解することができるでしょう。
しかし、低い場所から眺めるのであれば、最も近いものを多少認識することができるだけであり、その先にあるもの、全体を理解することはできないのです。
その場所から見えるものによって全体を判断するのであれば、必ず間違います。
空想によって世界は動いてはいないのです。
正しく理解し、正しく動き、正しく動かすことがなければ、豊かさを得ることはできないのです。
小さな世界に満足し、それを必死に守ることによって、幸福が得られるなどと思い込んではなりません。
間違っている方法は、破滅という結果を導くのです。
あなたが小さな世界に満足し、それ以上の世界を求めないのであれば、その小さな世界によって苦しむことになるでしょう。
あなたが必死に守ろうとしているものによって、あなたは破滅するのです。
この事実を理解しなくてもかまいません。
あなたには理解することができないかも知れません。
しかし、いつか、あなたが必死に守ろうとしているものによって破滅します。
その時には、この話を思い出しましょう。
そして、そこから、より高く昇り、より広く見るように努めれば良いでしょう。
人は未熟であり、無知な存在です。
そのために「わたし」の話を簡単には理解することができないでしょう。
「わたし」は、人がこれを理解するためには、苦しまなければならないことを知っているのです。
小さな世界を必死に守ろうとしているあなたは、必ず苦しみます。
しかし、それで良いのです。
あなたはより大きな世界を求めるために苦しむのです。
苦しむのであれば、その苦しみから逃れようとして学ぶようになるでしょう。
学ぶことによって視野は高まり、広い世界を見ることができるようになるのです。
あなたは感謝することを忘れてはなりません。
しかし、満足して、それを守ろうと考えてはなりません。
人生とは、常にそれよりも大きな世界を探究するための時間です。
知性の高まりと共に、人はより大きな世界を得ることができます。
より大きな世界を求めて生きる者でなければ、知性は高まらないのです。
あなたは常に学んでいるということを理解しておきましょう。
世界はあなたに相応しいのです。
小さな世界に満足し、怠慢に生きてはならないのです。
人生が何のためにあるのかを考えましょう。
体たらくに生きてはなりません。
あなたは自分の生き方が、高い知性、大きな世界を求めているものであるのか?を考えましょう。
肉の欲に溺れ、何の感動もないような人生を生きてはなりません。
大きな世界を見る時、人の心は感動に震えます。
感動することのないような状況は、良いものとは言えないでしょう。
毎日を繰り返してはなりません。
日々、大きな世界を得るように努めましょう。

2014年11月29日土曜日

知性を求めて

あなたは知性を求めて進まなければなりません。
すべての状況の中に知性を求め、理解を深めなければならないのです。
知性を高めることは、理解を深めることです。
理解を深めることによって、人は人生というものの目的を理解するようになるのです。
知性の高まりがなければ、理解の深まりもありません。
知性の乏しい者には、残念ながら人生の目的や意味を理解することはできないのです。
知性を求める者は、自ずと現象について研究し始めます。
状況という名の現象を理解することは、この世界を理解することに等しいのです。
それは、この世界の実相を理解するということです。
人は、この世界の中に人生を築いています。
世界が存在することがなければ、人生を築くことはできません。
この世界は、人生を収めた箱のようなものなのです。
広義の意味で、この世界のことが分からなければ、人生についても分からないでしょう。
比較するものがなければ、何の理解も生じないのです。
この世界というものを理解することによって、人は人生というものを理解することに近付きます。
道を追求している人が「悟る」ということの理由がここにあるのです。
それは、道を追求することによって、この世界に対する理解を間接的にも深めているからなのです。
道を追求すること、知性を求めることのない者には、このような現象は起こりません。
世界を正しく、詳細に見ることができないために、人生との比較が実現しないのです。
そのために、人生の目的や意味を理解することには至らないのです。
そのような者は誰かや何かを頼るようになります。
そして、それが依存を生むのです。
知性を求めて進むということは、方法を理解することです。
方法を理解しているのであれば、自力によってある程度のことを処理することができるようになります。
しかし、方法を知らなければ、何一つとして自力による解決は望めないのです。
この世界は因果の仕組みによって動いています。
誰かや何かを頼ることが悪いと言っているのではありません。
しかし、度を超してはならないというのです。
できないことを頼るのは仕方がありませんが、それは自力を育てるための学びにするべきであり、次からは頼らないように努めなければならないのです。
知性を求めない者は、自力を育むことができません。
誰かや何かが知っていて、助けてくれるから安心だと考え高を括(くく)るのです。
しかし、その誰かや何かはあなたの元を去る時が来るのです。
すべては流転するのです。
いつまでもあなたのために力を尽くすことはないのです。
その時には、あなたは自力を試されるのです。
あなたはいつの日か、人生の目的と意味を問われます。
その時に、答えを知らなければ苦しむことになるのです。
問題が生じた時に、それを解決する方法を知っているのであれば、問題に対して苦悩することはありません。
あなたが苦悩しないのであれば、持てるエネルギーを使って、誰かを助けることもできるのです。
問題に苦悩しているのであれば、それに精一杯であり、誰かを助けるようなエネルギーは残ってはいないのです。
誰かを助けるという原因を所有するのであれば、因果の仕組みによって状況は好転します。
しかし、誰かを助けることもなく、迷惑を掛けているのであれば、状況は悪化してしまうのです。
知性を高めた者は、他者よりも多くの方法を知ることができます。
知性によって、人は苦しみに立ち止まることがなくなるのです。
苦しみが無くなるということはありませんが、苦しみながらも可能性を追って進み続けることができるのです。
子どもは取るに足らないことに落ち込みます。
それは、子どもが知性に乏しい状態にあるからです。
しかし、大人であろうとも、取るに足らないことで落ち込む人がいるのです。
それは、良い方法を知らないからに他なりません。
その大人は見た目は大人であっても、知性に乏しいと言えるでしょう。
問題の解決策を探すということは、知性を求めるということなのです。
あなたは知性を諦めてはなりません。
大きな話になると、多くの人が怖じ気付いて目を背けます。
そして、小さな話に捉われてしまうのです。
人生について深く考えなければなりません。
それは知性を求めることによって実現します。
物質やお金などの取るに足らないことに関して苦悩してはなりません。
純粋に知性を求めるのです。
それが、人生を豊かに生きるためには必要なことなのです。

2014年11月28日金曜日

苦しみの声

人は未熟な存在です。
人は弱いものなのです。
人は未熟であり、弱いために人生に学んでいるのです。
人は未熟であり、弱いために間違いを犯します。
間違いは躓(つまづ)きを導きます。
人は間違う度に問題を抱えることになるのです。
問題は苦しみを以て、間違いを指摘します。
人は苦しむことによって初めて、それが問題であり、間違っていたのだと知るのです。
苦しみがなければ、それが間違っていることにも気が付くことができません。
人は苦しむことによって学んでいるのです。
苦しみは悪いものではありません。
苦しみとは、あなたに対する大切なメッセージなのです。
苦しみを否定してはなりません。
大切なメッセージを否定してはなりません。
苦しみを否定するのであれば、それ以上の成長を得ることができないのです。
大切なのは、苦しみを受け入れることです。
それは問題との対峙であり、間違いを正す唯一の方法であるのです。
問題を解決するためには、間違いを正す必要があります。
その方法が、苦しみから学ぶということなのです。
あなたは苦しみに向き合わなければなりません。
あなたは魂の成長のために生まれて来たのです。
魂の成長のために人生を生きているのです。
そのことを忘れてはなりません。
魂が成長するためには、間違いに気付き、それを繰り返さないことが求められます。
間違いを繰り返さないことが、成長であると言えるでしょう。
何が正しいのかを理解することがなければ、成長することはありません。
何が正しいことなのかを学ぶために、苦しみがあるのです。
それは大切なことなのです。
しかし、人は未熟であり、弱いものです。
そのために、苦しみから逃れる手段に全力を注ぎます。
苦しみの声を聞かなければ理解することができないにも関わらず、苦しみから逃れるのであれば、本末転倒であるということを覚えておかなければならないのです。
人は未熟であり、弱いものです。
しかし、あなたは忘れてはなりません。
それでも人は強いのです。
人は愚かな存在ではありますが、学ぶことによって成長することができるのです。
人にとっては、この人生は苦しいものです。
それは、人生というものが因果によって自らを映す鏡であるからです。
どのような状況を得ようとも、それは身から出た錆(さび)であるということを忘れてはならないのです。
人はそれを乗り越えて進むことができます。
問題を抱え、苦しみを味わうことになろうとも、そこから学習し、成長することができるのです。
あなたはそのことを理解しなければなりません。
そして、それを忘れてはなりません。
人は未熟であり、弱い存在ですが、同時に強い存在であるということを覚えておきましょう。
人生はあなたが苦しむことを見守っています。
あなたが無事に苦しみの声を聞き取り、それを理解することができるように助けているのです。
あなたの目的は魂の成長であり、気楽に生きることではないのです。
学びの無い人生には、喜びもありません。
苦しみの声が届かない人生には、幸福は有り得ないのです。
あなたが苦しんでいるのであれば喜びましょう。
あなたが苦しみに対して耳を傾けるだけで、人生は大きく変わるのです。
苦しみの声を蔑(ないがし)ろにしてはなりません。
あなたのことを本当に愛しているのが苦しみであるのです。
間違えてはなりません。
騙されてはなりません。
苦しみを愛し、その意味を深く理解しましょう。

2014年11月27日木曜日

人生からの教育

大切なのは、教養を高めることです。
人は、自らを高めなければならないのです。
人が人生を生きるのは、魂を成長させるためです。
すべての存在が成長を実現するために生きているのです。
あなたが成長するためには、その精神を成長させる必要があるのです。
肉体は、あなたであってあなたではありません。
あなたの本質は魂であり、心であるのです。
肉体はこの人生を生きるにあたって、自然から与えられた最高の友です。
肉体はあなたではありますが、あなたではないのです。
あなたは自然より借りている肉体を身にまとった存在であるのです。
肉体が本質ではありません。
あなたの本質であり、正体とは、魂という意識的な存在であるのです。
あなたはそのことを覚えておかなければなりません。
このことを理解した上で話を聞くことがなければ、この話を理解することはできないのです。
肉体を丁寧に扱うことは大切です。
しかし、それだけでは足りません。
人は、教養を高め、精神を向上させなければならないのです。
肉体は衰え、やがては自然に還(かえ)ります。
しかし、肉体が消滅しても魂は残るのです。
なぜなら、あなたの本質が魂であり、それは人生を終えても学び続けなければならないからです。
魂が肉体を離れると、新たな時代に新たな肉体を与えられて、成長するために再び人生を歩むのです。
人は新たな人生を始めるのです。
それは魂を成長させるために他なりません。
人は、自らである魂を成長させるという目的からは逃れることができないのです。
そのために、苦しい人生を生きる必要があるのです。
人生とは苦しいものです。
誰にとっても、それは苦しみとして現れます。
では、なぜ苦しいのでしょう?
それは、人生のことを知らないからです。
どうすれば良いのかを知らないために、苦しむのです。
人生のことを理解しているのであれば、人は人生に苦しむことはないのです。
他人に悩まされるのは、他人のことを理解していないからです。
ただ、それだけなのです。
人生があなたに苦しみを導くのではないのです。
あなたが無知であるが故に、苦しいと決め付けているだけなのです。
人は無知であり、未熟な存在です。
苦しみはそこから生じるのです。
人が苦しまないためには、教養を高め、無知から抜け出す以外に方法はないのです。
どこへ逃げても、無知は人の内に存在しているために、同じことを繰り返すのです。
賢者は、どこにいても喜ぶでしょう。
それは、内に知恵の導きがあるからです。
大切なのは、教養を高めることです。
肉体に関することは大切ですが、精神に関することをより大切にしましょう。
人は常に学ばなければなりません。
学びの放棄は人生の放棄であるということを覚えておきましょう。
知恵がなければ、人生の意味を理解することはできません。
何も知らずに生きて、何も知らずに死んでも良いのですか?
学びはすべての時間、すべての場所に存在しています。
この世界において、学びの存在しない時間や場所は存在しません。
人はどのような状況においても、教養を高めることができるのです。
目の前のことを深く見つめましょう。
人生は常にあなたに教育を施(ほどこ)しています。
人生からの教育を放棄してはなりません。
無駄に生きてはなりません。
魂を成長させるという目的を忘れてはなりません。

2014年11月26日水曜日

一朝一夕の知恵

あなたは人生の意味を考え続けなければなりません。
人生にはどのような意味があるのか?ということを常に考え、その答えに相応しいものを探し続けるのです。
何のために生きているのか?ということを理解することなく、人生に意味は見出せません。
何をしているのか分からないのであれば、本当の喜びには到達することができないのです。
多くの人は人生の意味を考えてはいません。
人生というものが余りにも大きいために、考えが及ばないのが現状です。
人には、大き過ぎるものや小さ過ぎるものが見えないのです。
人の認識が及ぶ範囲というものは、とても狭いということを覚えておきましょう。
人生の意味を見出すためには、それを考え続けなければなりません。
一日も休むことはできません。
何のために、何年、何十年も寿命が与えられているのかを考えなければなりません。
人生の意味を一朝一夕によって知ることなど、誰にもできることではありません。
大抵の人が、死ぬ間際になって漸(ようや)く気が付くか、死んでも尚気が付かないのです。
それほど、この問いは難しいのです。
時間を無駄にしているような余裕はありません。
人は確実に死へと向かっているのです。
人生の意味を考えない者、考え始めたとしてもそれをすぐに放棄する者には、有効な時間の活用ができません。
そのために、無益な時間を浪費することになります。
その積み重ねによって、人は盲目となり、後に悔いることになるのです。
物質的なものや金銭などに意識を集中してはなりません。
それが人生の意味だなどと、浅はかに考えてはならないのです。
全世界の物質や金銭を集めても、あなたは満足することができないでしょう。
それは、そのような表面的なものには、本当の価値がないからです。
物や金銭に飢えている者には理解することができないでしょうが、人生とは物質や金銭によっては満たされないのです。
物質や金銭を有り余るほど持っても、あなたは苦しむことになるのです。
そのことを覚えていなければなりません。
物質や金銭を十分に持つのであれば、物質や金銭の苦しみが解消されるだけです。
人生とは、物質や金銭によって成り立っているのでしょうか?
物質や金銭によっては解決することのできない苦しみが多く存在しているのです。
この当たり前のことを忘れてはなりません。
人生の意味を考え続けることのない者には、疑問が生まれません。
物質や金銭を十分に所有している(する)ことが生き甲斐であり、それよりも先へは進むことができないのです。
そのような浅はかな人生を満足してはなりません。
人生の意味とは、物質や金銭によって購入することのできるようなちっぽけなものなのでしょうか?
自分自身で良く考えなければなりません。
あなたが苦しんでいるのは、何が原因ですか?
考え付く原因が本当の原因なのでしょうか?
見た目に騙されてはなりません。
一朝一夕の知恵によって理解することができるほど、人生が浅いはずがないのです。
あなたは自分が何者であるかも知らないのです。
長く生きた人でさえ、このことを知らないままに死んでいくのです。
現在のあなたの努力によって、人生の意味が見付かると思いますか?
時間が無いのです。
無駄に浪費して良い時間など存在しないのです。
生活することなど当たり前のことです。
生活することが人生ではありません。
なぜ、生活するのかも知らずに、生活していることの奇妙さに気が付かなければならないのです。
あなたは何のために生きているのかも知らずに、なぜ生きているのですか?
奇妙だとは思いませんか?
そこには深い意味があるとは思いませんか?
それを知りたいとは思いませんか?
人生の意味を知りたいと思うのであれば、それを探し続けましょう。
人生の意味になどに興味が無いというのであれば、何も知らずに死んでいけば良いでしょう。
しかし、死んで終わりではありません。
そのことは覚えておかなければなりません。
生きていることには大切な意味があります。
意味があることを蔑(ないがし)ろにするのであれば、それに相応しい結果を得るということを覚えておきましょう。
日々を大切に生きなければなりません。
懸命に生きる者でなければ、人生の意味を理解することなどできないのです。

2014年11月25日火曜日

一つの真実

「色」とは、世界を築くものです。
色彩こそが世界であるのです。
色の失われた世界においては、人は喜びを得ることはできません。
人は色彩を味わうことによって世界の喜びを得ているのです。
「色」とは喜びです。
それは、光と闇の間に存在しています。
強過ぎる光は色彩を奪います。
強過ぎる光は、全体を白に染めるのです。
強過ぎる闇も色彩を奪うのです。
強過ぎる闇は、全体を黒に染めます。
どちらであっても、世界の本当の姿を認識することはできません。
この世界の実相は、それぞれに現れる「色」によって認識することができるのです。
人生を豊かなものとして、幸福を得るためには、人は色彩を正しく認識する必要があります。
陽と陰を正しく理解することがなければ、正しい世界を理解することはできないのです。
人は、自らの正義に従って世界を創造します。
世界は、自らの正義に従ったものになるのです。
しかし、人の認識とは未熟なものであり、それほど頼りにならないものはありません。
正義を振りかざす人物は、正しく色を見ることができません。
自らの信じる光によって「色」を失い、自らの信じる闇によって「色」を失うからです。
色彩を失うことによって自分自身のことも、それ以外のことも、正しく認識することができないのです。
人が世界を正しく見るためには、自らの認識を正す必要があります。
正義という名の偏見によって、「色」を失ってはならないのです。
陽と陰が正しく現れることによって、色彩が生まれます。
陽だけでも不足していますし、陰だけでも不足するのです。
陽と陰の境目にこそ、色彩が現れるということを覚えておきましょう。
偏見に捉われている心は、陽と陰のバランスを崩しています。
その時点において、喜びは正しく導かれないのです。
人生の豊かさや幸福を実現するためには、正しく認識することが必要不可欠であるのです。
真理に反しているのであれば、どのような方法によっても豊かさや幸福を得ることはできないのです。
真理に従う時、人は正しく「色」に向き合うことができるのです。
正義という偏見によって、認識を歪めてはなりません。
敵を作り、争ってはなりません。
この世に無意味なこと、不要なものはありません。
物事を苦しいと決め付ける認識があるだけであり、すべてが大切であり、必要なものであるのです。
あなたは騙されてはなりません。
偽りを信じてはなりません。
存在するものは、そのすべてが世界によって存在を許されているのです。
この世界に存在を許されているものを否定するのは間違った方法であるのです。
それがどのように理不尽であり、あなたにとっては必要のないと思えるものであっても、それを否定するのは間違っているのです。
光を信じ、闇を害するのは愚かなことです。
光と闇が互いに交わり、一つの真実(世界)を作るのです。
どちらかが欠けているなら、世界は「色」を以て存在しないのです。
偏見によって歪んでいる人は、本当の喜びを以て人生を生きることはありません。
自らを正当化した、偽の喜びによって生きることはできますが、それが偽りであると気が付いた時には、苦悩するのです。
あなたは正しく「色」を捉えなければなりません。
あなたと他人の見ている世界は違います。
あなたが好きなものを、他人は嫌いであったりするのです。
違う世界を見ているからこそ、そこに違いが生じます。
正しく見るためには、自らが自らを正す必要があるのです。
他人の基準に合わせているだけで満足するのは間違っています。
他人も間違っている可能性があるにも関わらず、それを基準にしても正しいとは限らないのです。
常識に従っているだけで安心していてはなりません。
他人が正しく「色」を見ているのであれば、どうして争っているのでしょう?
正しく見ていないために真理を知らず、争うのです。
他人の血の色が、他の生命の血の色が、自分自身のものと同じであることを知るなら、争いを選択することはできないのです。

2014年11月24日月曜日

大河の小舟

欲望に溺れる者は、この人生の大河を渡り切ることができないでしょう。
人生は河の流れのようなものです。
人はそこを渡る一艘(いっそう)の小舟です。
舟は常に河の流れにさらされています。
舟は常に水の流れの影響を受け、放っておけば下流へと流されていくのです。
小舟の目的地は対岸です。
対岸には最も大きな喜びがあります。
それは豊かな人生であり、幸福というものなのです。
そのために、舟は対岸を目指すのです。
舟が対岸に辿り着くためには、流れに逆らって進まなければなりません。
流れに負けてしまうのであれば、対岸へと辿り着くことはできないのです。
対岸に辿り着くことのできなかった小舟は、流れに飲まれてしまうか、座礁(ざしょう)してしまうか、永遠に彷徨(さまよ)うことになります。
それは舟にとって苦しいことであるのです。
重要なのは、河の流れに逆らって進み、目的地である対岸に辿り着くことなのです。
流れに負けてはならないのです。
これを人生に当てはめるのであれば、河の流れとは欲望です。
人は欲望に流されるように生きているのです。
それに流されてしまうと、人生の崇高な目的である「夢」を実現することができません。
人は「夢」に辿り着かなければ、豊かさと幸福を得ることができず、苦しみを得ることになるのです。
人は誰でも「夢」を持っています。
「夢」が無いと言う人は、叶わぬものだと諦めて、嘘を吐いているだけです。
誰もが成りたい自分を持っているのです。
誰もが「夢(人生の目的)」を果たすために生まれて来たのです。
嘘で誤摩化し、それと向き合うことが恐いだけなのです。
その結果、欲望に身を任せることによって、自らを慰めているのです。
欲望に流されることは「夢」の実現とは真逆の行為です。
なぜ、それで慰められるかと言えば、多くの人がそうであるからです。
多くの人が流れに逆らうことができずに対岸を諦めます。
流れに飲まれ、苦しむのです。
あなたは「夢」を覚えていますか?
「夢」を持っていますか?
欲望に流されるのであれば、辿り着くべき対岸から離れてしまいます。
「夢」から離れるほどに、それを忘れてしまうのです。
そして、多くの人が本来の目的を忘れ、欲望を目的として生きていくことになるのです。
そして、人生の意味を知らず、自分が何者であるのかも分からないまま、流れに沈没するのです。
河の流れに逆らって進むことは簡単なことではありません。
欲望に打ち勝つことは、決して簡単ではないのです。
常に自らを律する必要があります。
欲望を制し、それに打ち勝つためには、欲望よりも強い決意が必要であるのです。
河の流れよりも強いエネルギーによって漕(こ)がなければ、流れを割って進むことなどできるはずがないのです。
あなたは自らを律しましょう。
欲望の快楽に溺れてはなりません。
自分の「夢」が何であったのかを常に考えておきましょう。
あなたは人生を「夢」のために生きなければなりません。
生活するために生まれて来たのではないのです。
肉体を存続させるために生まれて来たのではないのです。
人は「夢」を叶えるために生まれ、生きているのです。
あなたはそのことを忘れてはならないのです。
河の流れは常に迫ります。
人は常に欲望の脅威にさらされています。
気を抜けば、すぐに捕えられてしまうでしょう。
流れに流されるのは簡単です。
しかし、それに逆らって進むことは難しいのです。
油断してはなりません。
欲望に流されて「夢」を見失ってはなりません。
何のために生まれ、何のために生きているのかを忘れてはならないのです。

2014年11月23日日曜日

不自由と不足

人生には不自由なことがあります。
人生のすべてが自由として満たされることはないのです。
しかし、人生に不足はありません。
すべてが必要として満たされます。
しかし、それが自らの思い通りに進むことはないというのです。
人生には不自由がつきものなのです。
人は人生に自由を求めています。
自由を実現するために問題と向き合い、それを乗り越えようと努めているのです。
自由を得ることは大切です。
しかし、人が勝ち取ることのできる自由というのは、真理によって認められた必要に対する自由であるのです。
人は真理の認める必要を超えることはできないのです。
あなたが如何に努力しても得られないものは、現状において必要のないものです。
努力することは大切です。
あなたは決して努力を怠けてはなりません。
しかし、努力の結果にネガティブな態度であってはならないということなのです。
どのような結果を得ようとも、それが必要であるのです。
それが、今の自分自身に与えられる最大限の自由であるということなのです。
上手くいかないこと、思い通りに進まない不自由というものを敵としてはなりません。
人生に不自由を覚えようとも、それはただの不自由であって、不足ではないということを覚えておかなければならないのです。
不自由と不足を混同して考えている人が多いのです。
人は不自由を得ることはあっても、不足を得ることはありません。
この違いを理解しなければならないのです。
手が不自由であるなら、あなたは手を伸ばして可能性を掴むことを諦めるのですか?
足が不自由であるなら、可能性に向かって進むことをしないのでしょうか?
あなたに何か不自由があろうとも、可能性を求めて懸命に生きるはずです。
手が不自由なら、手が不自由なりに。
足が不自由なら、足が不自由なりに、可能性を広げようとするはずなのです。
その行為が、人に大切なことを学ばせます。
人生には、不自由でなければ学ぶことができないことがたくさんあるのです。
不自由であったからこそ、人はその大切さを理解することができるのです。
不自由でなければ知ることができないことが多くあるということなのです。
不自由によってもたらされる学びがあります。
不自由によってもたらされるのに、不自由が不足と等しいのでしょうか?
寧(むし)ろ、不自由とは可能性であるのです。
人は不自由を前にしてネガティブな態度を示します。
怒りを覚えたり、悲しんだり、苦しんだりするのです。
しかし、それが本当に正しい選択なのでしょうか?
人生には、本当に不足が存在しているのでしょうか?
それが可能性であると理解することができない未熟な存在が、そこにはいるだけなのではないでしょうか?
あなたは、人生が本当に不足をもたらすような相手なのか?ということを考えなければならないでしょう。
真理は、あなたが考えているような存在なのでしょうか?
あなたはネガティブな態度を示しますが、それは本当に相応しいのでしょうか?
すべてのことがあなたに対する大切なメッセージです。
何一つとして無駄なものはないのです。
例えそれが苦しみを伴う不自由であったとしてもです。
すべてには大切な意味があるのです。
すべてはあなたに気が付いてもらうためなのです。
すべてがあなたの魂の成長のためにあるのです。
どのような理由があろうとも、人生の目的を忘れてはならないというのです。
人生には不自由なことがあります。
しかし、それをただの不自由だと浅はかに考えてはなりません。
そして、自分勝手に不足だと決め付けてはならないのです。
真理はあなたの考えよりも、遥かに深い意味を持つのです。
あなたが思いも付かないような方法によって、学びをもたらします。
安心して学びましょう。
その不自由を敵としてはなりません。

2014年11月22日土曜日

太陽の心

心は、大きい方が優れています。
心は、広い方が優れています。
心は、深い方が優れています。
心は、柔らかい方が優れています。
心は、その質量が大きい方が優れているのです。
優れた人格の持ち主は、優れた心を持っています。
優れた心とは、広く大きな心なのです。
それは、どのようなことにも動じず、どのようなことをも包みむような寛容な心のことです。
この世界では、質量の大きなものは力を得ることができます。
質量の大きなものは引力を得るのです。
質量の大きなものは多くのものを引き寄せます。
そして、輝くことができるのです。
太陽が輝いているのは、その体積が巨大なことにあります。
大きいために力を得て、輝くことができたのです。
これは、何も宇宙にのみ当てはまるものではありません。
人の心、人の人生であっても、これと同じことが起きているのです。
心の大きな人は、その大きさ故に多くを許すことができます。
多くを許すことができるということは、優しいということです。
優しい人の元には多くの人が集まります。
それは、寛大な心に引き寄せられているからです。
寛容な人は輝いて見えます。
その人は多くの人を照らします。
その結果、多くの人に慕(した)われ、多くの人に助けられるのです。
その人の人生は、強く輝きを放ち、豊かで幸福なものとなるでしょう。
太陽は地球に多くの恵みを与えます。
太陽がなければ、すべての生命は命を失うのです。
地球のすべてが存在しているのは、太陽のおかげであるのです。
人にとって、太陽というものは無くてはならないものであるのです。
これと同じ様に、光り輝く大きな心は、人にとって無くてはならないものであるのです。
人生には希望が必要です。
あなたの心が輝きを放つのであれば、あなたは自らの人生に希望を見出すことができるでしょう。
あなたの心が輝きを放つのであれば、誰かの人生に希望を見せることもできるのです。
あなたは「神」のために死を選ぶことはなくても、大切な人のために死を選ぶことはできるのです。
それは、その人の心に希望を見出しているからなのです。
寛容な心の持ち主が苦しむことはありません。
そのような人が乏しく生きるはずがないのです。
寛容な心の持ち主の周りには、常に多くの人とドラマチックな展開が集まります。
それは、(自分が考える)良いものであったり、悪いものであったりします。
しかし、それ等すべてが大切な学びとなり、後の幸福となるのです。
多くの学びを得ることができる人が、人生を豊かなものにすることができるのです。
多くの学びを得るためには、大きな心を持つ必要があるのです。
引力によってのみ、何かを引き寄せることができるのです。
心は目には映りませんが、質量を持っているのです。
心には力があるのです。
大きければ引力は強くなり、強い力を以て輝きを放つのです。
すべての生命は太陽を必要としています。
それは、最も力を持っているからです。
太陽はすべての地表を照らします。
そして、太陽の力は、地球のすべての場所に届くのです。
あなたは太陽の様な大きな心を持たなければなりません。
天高らかに大きく輝く太陽の様な人物になりましょう。
小さなことに腹を立て、陰湿で歪んだ心を育ててはなりません。
太陽のように毎日輝いていましょう。
大きな心であれば、その質量に伴って自然と輝くということを覚えておきましょう。
許せば、人生が豊かになるということを理解しましょう。
大きな心が大切です。

2014年11月21日金曜日

正しい人と良い人


大切なのは良い人であることではありません。
大切なのは、正しい人であることです。
人は正しく生きなければなりません。
良い人として生きることには、残念ながら価値がないということを覚えておきましょう。
なぜなら、良い人とは、他人から見て正しい人であるからです。
常識や個人の価値観に照らし合わせて正しい人のことを、良い人と言うのです。
そのように不安定なものはありません。
常識は常に変化します。
人の価値観も同じです。
不安定なものが正しいことはないのです。
正しさとは、どの時代においても正しい真理であるのです。
時代によって、個人によって違うのであれば、それは正しさではありません。
真理はすべての人の中にあって、すべての人を包み込んでいるのです。
それから離れる人はいないのです。
すべての人が真理によって正しく審査されるのです。
良い人とは、常識や個人の価値観によって定められた基準です。
常識が変われば、個人の価値観が変われば、良い人の定義も変わるのです。
善人にとって良い人は、悪人にとっては悪い人です。
悪人にとって良い人は、善人にとっては悪い人であるのです。
立場によって全く違うものになるということです。
それが正しいとどうして言えるのでしょうか?
善人にとっても、悪人にとっても正しい人こそ、正しい人であるということができるのです。
自らの思う正義を信じる人だけを正しい人だと解釈するのは間違いです。
あなたの正義に反する正義を信じる人が正しい可能性はあるのです。
正義を振りかざす時点において、既に正しくはありません。
正しさとは、誰に対しても正しいからです。
すべての存在に等しくあるものを正しいと理解するべきです。
善人にも悪人にも、人間にも動物にも、すべてに等しくあるものです。
それは愛なのです。
愛こそは、立場を問いません。
あなたが悪人であろうとも、愛はあなたを包むのです。
良い人は愛について理解してはいません。
なぜなら、良い人とは特定の人からの賞賛だからです。
良い人は、ある立場の人から見ると悪い人となるのです。
正しい人だけが、どのような立場の人から見ても正しいのです。
正しい人は愛と共にあります。
良い人は愛を裏切るでしょう。
正しい人こそ強いのです。
正しい人は愛を裏切りません。
良い人は弱いのです。
そのために、愛を裏切るのです。
愛に対する信仰を捨てない人こそ、正しい人です。
あなたはどのような存在をも愛することができますか?
敵を作っているのであれば、あなたは正しくはないのです。
あなたは誰かや何かを憎んではなりません。
誰かや何かと争ってはならないのです。
良い人とは、他人に見えている姿です。
良い人に見えているその人の心中が正しいとは限らないのです。
良い人に見ているその人の心中には、争いが存在していることもあるのです。
そのように愛を裏切るのです。
あなたが正しく生きたければ、愛を裏切ってはなりません。
良い人であろうとする必要はありません。
あなたは愛に対する信仰を捨ててはならないのです。
大切なのは良い人であろうとすることではありません。
正しい人であろうとしましょう。
愛に生き、愛に死にましょう。
正しい人は永遠です。

2014年11月20日木曜日

副産物

あなたはこの世界が認識によって築かれているということを深く理解しなければなりません。
世界は認識によって確実となります。
世界は、あなたの認識によって築かれているのです。
あなたの思う様に世界は姿を変えるのです。
あなたはそのことを理解しなければなりません。
世界は決まったものではありません。
あなたの心が、決まっていないのと同じです。
因果によって導き出される世界であるのです。
原因によって、結果は違ったものとなるのです。
あなたの認識とは、世界の原因です。
あなたの認識によって、結果(世界)は変わるのです。
同じものを見ても、違う人物によって認識が一致するということはありません。
同じものであっても、人物によってその認識は違うものになるのです。
それは、見ている対象(の姿)が定まってはいないということを現しているのです。
世界が決まっていると考えてはなりません。
世界が決まっていると思い込み、諦めを抱いてはならないのです。
世界はあなたの認識によって、自由に変えることができるのです。
あなたの見たい様に見ることができ、あなたの築きたい様に築くことができるのです。
偽りによって騙されてはなりません。
あなたを支配しようとする者は、あなたにこの事実を隠すのです。
あなたが無知であり、愚かであり、諦めを抱いている状態に関心があるからです。
あなたを騙し、従順な下僕とすることを目指しているのです。
あなたは支配されてはなりません。
自立して、自由に生きるのです。
自立する力も無く、不自由の中に捕われていてはならないのです。
そのような人生に喜びなど存在しないのです。
あなたは勘違いしてはなりません。
安定や安全などに価値を見出してはなりません。
価値のために死ぬことすら理解しなければならないのです。
大切なもののために死ぬことすら恐れない人はいるのです。
そのような人は、死よりも価値のある大切なものを認識したのです。
その認識によって生きる者の死が、どうして価値の無いものなのでしょうか?
命を掛けることもなく、命よりも価値のあるものがあることも知らずに生きる人生に、本当の喜びがあると思いますか?
あなたはよく考えなければなりません。
人は必ず死ぬのです。
人生は待っていても終わります。
何もしなくても訪れる死が、価値のあるものなのでしょうか?
人は死ぬことを恐れて、命を掛けることをしません。
それが本当の幸せなのでしょうか?
あなたの認識は、本当に求めている世界を導くのでしょうか?
あなたが見ているものと、他人が見ているものは同じ様に見えるでしょう。
しかし、あなたの認識と他人の認識は違うものなのです。
そのため、この世界は決まったものではないというのです。
あなたの認識の仕方一つで、世界は大きく変わります。
認識をより良いものにするためには、広い視野と深い知恵が必要です。
狭い視野と浅い知恵であっては、認識が良いものとなることはないのです。
狭い視野と浅い知恵の人物の認識は、乏しいものです。
そのため、世界は喜びに乏しいものとなるのです。
広い視野と深い知恵の人物の認識は、豊かなものです。
そのため、世界は発見と感動に満ち溢れ、喜びの豊かなものとなるのです。
人生は自分次第なのです。
自分自身がどのように認識するのか?
ここが重要であるのです。
常識に惑わされてはなりません。
既成概念に騙されてはならないのです。
あなたは認識の幅を広げましょう。
それは、広い視野と深い知恵によってもたらされる副産物です。
物事を柔軟に捉え、思慮深くありましょう。

2014年11月19日水曜日

繋がり

この世界に存在するすべてのものが、自分以外の存在と協力することによって、自分自身を存在させています。
どのようなものも、独りでは存在することができないのです。
なぜなら、すべてが一つに繋がっているからなのです。
すべてのものが一つの繋がりの中に存在しているのです。
何一つとして、この繋がりを離れて存在を許されるものはありません。
すべてのものは一つに繋がっているからこそ、世界に存在することが許されているのです。
繋がりが失われる時、それは存在の消滅を現します。
繋がりが断たれたものは、存在することが許されないのです。
この世界は一つの大きな仕組みに従って存在します。
この仕組みによって、世界は成り立っているのです。
この仕組みは、世界が正しく機能するためのものです。
すべてのパーツが正しく機能するための仕組みであるのです。
この世界におけるパーツとは、存在するすべてのものです。
最も小さなものから、最も大きなものまで、すべての存在が世界を動かす一部であるのです。
存在するすべてのものは、世界のために存在しなければなりません。
世界のために存在することがなければ、この繋がり、この世界を維持することはできないのです。
繋がりを断とうとするものは、繋がりから切り離されてしまうのです。
仕組みは、全体を生かすためのものであって、一つのパーツを生かすものではありません。
壊れたパーツは交換し、投げ捨てられるのです。
パーツのために本体を蔑ろにすることは有り得ないのです。
世界はすべての存在を許し、養っています。
存在するすべてのものは、現時点において存在を許されているのです。
それでも、すべてが許されるということはありません。
許される範囲というものがあるのです。
全体の利益を著しく損なうものは、この繋がりから切り離されます。
繋がりから切り離されたものは、単独では機能することができないのです。
車のバーツは、エンジンと繋がっていなければ機能することができないのです。
エンジンが生み出すエネルギーが自身に伝わるように、直接的、間接的に繋がっておく必要があるのです。
エンジンからのエネルギーが伝わらない部品は故障と判断され、交換されるのです。
人は家族の一員です。
人は人間社会の一員です。
人は自然界の一員です。
人は地球の一員です。
人は太陽系の一員です。
人は宇宙の一員です。
人は生命の一員です。
人は此(こ)の世と彼(あ)の世の一員なのです。
火は可燃物と酸素と重力を必要としています。
それ等の協力がなければ、火は自身を保つことができないのです。
火は、可燃物と酸素と重力との繋がりの中で存在を許されているのです。
これは言い換えると「条件」と言えるでしょう。
条件が整わなければ、存在が許されないのです。
人が存在することのできる条件とは何だと思いますか?
人は何と繋がることによって、存在が許されるのでしょう?
あなたはそれを考えなければなりません。
その答えに気が付くことができるなら、あなたは存在を許され、豊かに生きることができるでしょう。
一つのパーツであるにも関わらず、単独で存在することができるなどと考えてはなりません。
自分勝手に生きてはなりません。
あなたと繋がっている存在を忘れてはならないのです。
あなたが自ら繋がなくても、他の存在はあなたに手を差し伸べているのです。
この愛に気が付かなければなりません。
いつまでも、何も知らない子どものように生きてはなりません。
あなたが有るのは、あなたと世界を結ぶ仕組みがあるおかげなのです。
あなたの実力によって生きている訳ではありません。
一つのパーツに過ぎないあなたという存在が、繋がりもなく、独りで生きていけるはずがないのです。
自惚れてはなりません。
自らが全体の一員であるということを理解し、自分以外の存在に対して協力しなければなりません。
すべてと一つに繋がっているということを忘れてはなりません。

2014年11月18日火曜日

失敗の価値

人生の目的は魂の成長です。
人生は魂を成長させるためにあるのです。
すべての時間、状況、環境、思案、行為を以て、魂は成長を計るのです。
人生は魂を成長させるためにこそ存在しているということを覚えておかなければならないでしょう。
人が成長するためには、経験を積む必要があります。
経験を積むこともなく、成長することはできません。
知識を得て、頭の中で考えているだけであるなら、成長を実現することはできません。
肉体の触覚を通して得る情報でなければ、心に届かず、心に届かないのであれば、魂には届かないのです。
肉体の触覚から心に至り、心から魂に至ることが求められるのです。
実際に触れてみなければ、何事も分からないということなのです。
机上の空論を信仰してはならないのです。
情報を得ただけで満足してはなりません。
情報を得ただけでは、魂は成長しないのです。
触覚を通じて経験することによって、人はそれを理解することができるのです。
理論は大切ですが、理論が正しいことを証明するためには、実際の動きに当てはめてみなければならないのです。
しかしながら、実際に経験することによって、人は必ず失敗を受け取ることになります。
理論が完璧であるということはありません。
答えに辿り着くためには、試行錯誤を繰り返す必要があるのです。
試行錯誤を繰り返し、失敗を積み重ねることによって、人はそれが間違っていたということに気が付くことができるのです。
間違っているということを理解すれば、それ以外の方法を模索するでしょう。
間違っている方法を淘汰(とうた)することによって、正しい方法を見付け出すのです。
方法は多く存在しています。
膨大な選択肢の中から、一つを選び出さなければならないのです。
その一つを選び出すために、多くの失敗を繰り返さなければならないのです。
人が失敗することは当然のことです。
寧ろ、失敗することにこそ意味があるのです。
失敗を恐れる人がいます。
失敗を恐れるあまり、失敗をしないように努めます。
失敗するのが当然のことであるにも関わらず、それを避けようとするのであれば、萎縮(いしゅく)してしまうのです。
萎縮すれば、人は思い切って経験することができなくなります。
失敗という名の経験を多く積み重ねなければならないのに、失敗を恐れて経験不足に陥るのです。
失敗することがなければ、何が間違った方法で、何が正し方法であるか分からないのです。
失敗を悪いものとしてはならにないのです。
人は未熟であり、知らないことの方が多いというのに、どうして知ったかぶりで失敗を恐れるのですか?
自らが無知で未熟であるということを認めれば良いだけの話なのです。
余計なプライドが邪魔をしています。
残念ながら、あなたは自分が思っているような人物ではありません。
あなたは自分自身を正当化し、美化しているために、自分自身に対して理想像を押し付けているのです。
しかし、現実は全く異なります。
あなたは学んでいるのです。
無知であり、未熟であるがために、人生を生きなければならないのです。
勘違いをしてはなりません。
どれだけ歳を重ねたとしても、そんなことには何の価値もないのです。
歳を重ねても学ばない愚かな者もいるのです。
若くして多くを学ぶ賢者もいます。
大切なのは、人は失敗から学んでいるということです。
失敗を恐れる必要はありません。
どのような失敗であっても、大したものではないのです。
あなたは自分自身や他人の失敗に対して絶望するかも知れませんが、死を受ける時にはすべてが大切な思い出となるのです。
よく考えましょう。
人生の目的が魂の成長にあるということを理解しなければなりません。
すべてのことが魂の成長に役立っているのです。
失敗から学ぶことは多いのです。
失敗から学ばない者はいません。
すべての存在が失敗から多くを学ぶのです。
ならば、失敗というものには価値があると理解しましょう。
人生の目的を忘れてはなりません。


2014年11月17日月曜日

道の極み

すべての道は愛に通じています。
どの道を進んだとしても、それが辿り着くのは愛であるのです。
道が愛に通じていないということはありません。
あなたが道を選び、それを進み続けるのであれば、最終的には愛に辿り着くのです。
他のどのような人がどのような道を進もうとも、最終的には愛に辿り着くということを覚えておかなければならないのです。
道を進むということは、高みに向かうということです。
この世界で最も高いところにあるのが愛なのです。
愛が至高であるということを覚えておかなければならないのです。
しかし、多くの人はこの事実を知らずにいます。
都合の良いようにねじ曲げられた嘘を信じ込まされているために、愛に向かうことをしません。
そのため、多くの人は争っているのです。
苦しみを覚えるのは、道を間違えているからであるのです。
正しく進むのであれば、高みへと進むのです。
高みには愛が存在しているために、高みに進むほどに愛に近付くのです。
愛に近くなると、愛を感じるようになります。
愛を感じることができるのであれば、選択肢の中には愛が生じるのです。
愛こそが心を満足させ、幸福感を生み出し、人生を豊かなものにするのだと悟るのです。
愛の無い世界には満足も幸福も豊かさもないのです。
なぜなら、それ等あなたの求めているものは、愛によって生み出されるからです。
愛に背いて生きる者には、それ等の価値を受け取ることはできません。
愛に乏しい者には、道を進むことができないのです。
道を進むことができないために、高みに昇ることができません。
高みに登ることができないために、成長することができません。
成長することができないために、愛を理解することができないのです。
愛はすべての状況に存在しています。
この世界は愛によって成り立っているのです。
すべての存在が愛であるのです。
この世界において、愛を持たないものは存在しないのです。
あなたはそのことを覚えておかなければなりません。
何かに対して不安を覚え、誰かを敵に仕立て、争って苦しむ必要はないのです。
愛が存在しているにも関わらず、我欲によって歪めるために、愛が見えないのです。
愛が見えない者は争います。
争う者は高みへと進むことはできないのです。
人生の目的とは何でしょう?
騙されている者は、金と物質が目的だと教えられ、それを素直に信じているのです。
死んで失うものが目的なのでしょうか?
死んで終わりだと思い込んでいるのならば、注意が必要です。
死んで何もかもが終わりであるなら、なぜあなたは苦悩するのですか?
死んで何もかもが終わりであるのなら、生きることに苦悩する必要もないでしょう。
死んで終わりだと言うのであれば、人生というものと、自分自身という存在の説明が付かないのです。
死んで終わりであるのならば、人生を生きる意味などないでしょう。
人格を持つ必要などないのです。
人生の目的が金や物質などに無いからこそ、心が存在し、苦悩が生まれるのです。
金や物質をどれだけ所有しようとも、苦悩が取り除かれることはありません。
何不自由ない生活をしている者であっても、苦悩は尽きないのです。
なぜでしょう?
それは、そこに目的が無いことを教えてくれているからなのです。
人は愛に近付くために生きています。
人生の目的は魂の成長です。
人は自らの選んだ道を進み、高みへと到達しなければならないのです。
愛の無い人生に、どのような喜びがあるのでしょうか?
いつまでも争っていてはなりません。
人生の目的を間違えてはなりません。
我欲によって騙されてはならないのです。
すべての道は愛に通じています。
そのことを覚えておきましょう。
愛を求めて進む者だけが、高みに到達するでしょう。

2014年11月16日日曜日

世界の真実

あなたは、自らを欺(あざむ)こうとする者に対して注意を払わなければなりません。
あなたは偽りを教えられます。
真実は隠されるのです。
しかし、それは必要なことです。
あなたは偽りの中にある、真実を見出さなければならないのです。
偽りの中からでなければ、真実を見付けることはできないのです。
すべてが真実であるのならば、真実に価値は生まれません。
真実に価値を与えるために、この世界には偽りが生じたのです。
あなたは純粋な心によって、正しく見極める必要があるのです。
正しく見極めることがなければ、あなたは偽りによって欺かれ、苦しみを得ることになるのです。
平和だとか、幸せだとか思い込んでいても、それは勝手な妄想であることがあります。
真実を知らないが為に、それを平和だとか、幸せだとか思い込むのです。
子どもはゲームをしていると幸せです。
しかし、いつまでもゲームをしていることが幸せとなるでしょうか?
人が精神を向上させ、大人になる時には、ゲームに苦痛すら感じるようになるのです。
幸せだと思っているそれが、本当に幸せであるのか?ということを見極める必要があるのです。
世界には悪意が満ちています。
あなたは常に偽りによって欺かれようとしています。
それは静かに、巧みに忍び寄ります。
捕食者は擬態(ぎたい)によって姿を隠します。
捕食者が目立つ姿によって現れることはありません。
捕食者は、常に巧妙に狙いを定めているのです。
そのため、真実を見極めるのは難しいのです。
真実を知ることがなければ、何が本当の幸福であるのかを理解することはできません。
偽りによって欺かれ、偽の幸福に喜んでいるのです。
大人がゲームに喜ぶでしょうか?
残念ながら、それはありません。
それは仮想世界であると理解することができるからです。
大切なのはリアルに生きることです。
ゲームの世界でどれだけの功績を上げようとも、何の価値もないのです。
現実逃避によっては、幸福を得ることはできないのです。
あなたは様々な方法によって欺かれます。
あなたは常に偽りによって騙されるのです。
そのことを理解しておかなければなりません。
目の前のものに対して、その真偽を問う視点を持たなければならないのです。
悪意が無くても、偽りが届きます。
悪意も無く、人を騙すのです。
偽りを真実だと思い込んでいる人は、それを偽りだと知ることもなく、人を騙すのです。
そのために、人は真偽を問う視点を忘れてはならないのです。
素直に生きることは良いことです。
しかし、真偽を問わないのはいけません。
あなたには責任があるのです。
何も考えずに生きてはならないのです。
小さな世界に生きてはなりません。
多くの偽りの中から、希少な真実を見付け出さなければならないのです。
与えられたものがただ正しいと考えてはなりません。
それ等は必要という観点によって正しいだけであり、人の道を踏み外すものであってはならないのです。
人生の目的に対しては、苦しみを得ることは間違いです。
苦しむのであれば、その時点において欺かれているのです。
真実を見極めることができたなら、人生は喜びによって満たされていることに気が付くのです。
だだし、偽りが存在しているという事実を理解した上での喜びです。
何も知らずに喜んでいるような子どもであってはならないということなのです。
あなたは様々な事象に興味と関心を持ちましょう。
あなたを欺こうとする者に対して注意を払わなければなりません。
あなたは騙されてはなりません。
世界の真実に辿り着くのです。

2014年11月15日土曜日

錯覚

思い込みの中であなたは生きています。
あなたの人生というものは、思い込みに満ちているのです。
壮大な思い込みによって世界を見ているために、あなたは偏見を抱えます。
偏見によって歪んだ世界を信じ、それに従って生きているのです。
あなたは正しく見る必要があります。
正しく見ることができなければ、正しく進むことができません。
正しく進むことができなければ、人は苦しみの中にとどまる以外に方法はないのです。
すべての存在は幸福を求めます。
あなたは幸福を実現しなければならないのです。
幸福を実現するためには、何が本当の幸福であるのかを理解する必要があります。
幸福の実相が何であるのか?ということが分からなければ、何を得ても幸福を得ることができないのです。
思い込みは偏見を生み出します。
あなたは思い込みに捉われることに注意しなければならないのです。
一つの現象を違う場所から観察するのであれば、その見解には違いが現れます。
正面から見るのと、背面から見るのでは、それは違ったものに見えるのです。
石を水面に放ります。
水面を捕えた石は波紋を生み出し、自身は没します。
小さな水溜まりでその現象を見た者は、その石の持つエネルギーは大きなものだと思い込むのです。
湖でその現象を見た者は、その石の持つエネルギーは小さなものだと思い込むでしょう。
同じ質量の石であっても、投げ込まれる場所によって、印象には大きな違いが生じるのです。
石が水面を捉えるエネルギーは、水溜まりであろうと湖であろうと同じです。
しかし、印象が変わるのは、錯覚を起こしているからなのです。
小さな価値観によって問題を捉えると、それは大事であるように思えます。
しかし、大きな価値観によって問題を捉えるのであれば、それは小事となるのです。
子どもが恐れることを、大人が恐れることはありません。
それは、子どもが錯覚という思い込みに縛られているからなのです。
十年前の悩みが、現在のあなたを苦しめるでしょうか?
あなたが成長しているのであれば、十年前の悩みによって、現在のあなたが苦しむことはないでしょう。
問題は同じものであっても、それに対する認識が変わったのです。
あなたが変わったために、状況が変わったのです。
価値観の広がりと共に、あなたは強くなります。
成長することによって、今までの苦しみから解放されるのです。
あなたを苦しめているのは、環境や他人ではありません。
自分自身の未熟な錯覚によって、自ら苦しんでいるのです。
有り余るほど持っているのであれば、一つを失ったとしてもそれを受け入れることができるでしょう。
しかし、不足を感じているのであれば、一つを失ったとしてもそれを受け入れることができないのです。
人は壮大な錯覚の中に生きています。
あなたは知らず知らずの内に騙されているのです。
しかも、自分自身で自分自身を騙すのです。
思い込みに縛られてはなりません。
自分が正しいという偏見を持ってはなりません。
実相を錯覚してはなりません。
あなたは常に正しく見ることを求めなければならないのです。
大きな視点を身に付ければ、物事の実相に近付くことができます。
しかし、多くの人は錯覚に捉われているために、大きな視点に目覚めた者を嘲笑(ちょうしょう)します。
錯覚に捉われる者ほど、他人を批判し、愛から遠ざかるのです。
愛から離れる者ほど愚かな者はいません。
愛によってこの世に生まれ、愛によって生きている人間が、愛を失うことほど情けないことはないのです。
愛を失った人間は、自分が何者であるのか?人生が何のためにあるのか?ということを知りません。
また、それ等の答えに辿り着くこともないのです。
そして、小さなことに苦しむのです。
自らの価値観によって、世界の見え方が違うということを覚えておきましょう。
あなたが気に掛けなければならないのは自分自身です。
自らを美しく保ちましょう。
あなたは自分自身を通して世界を見るのです。
それが小さなものであったり、歪んでいたり、欠けていたり、汚れているのであれば、正しく見ることができないのです。

2014年11月14日金曜日

善意の扉

この世界には悪意が存在しています。
悪意が網目状に広がっています。
どこにいても悪意の網に捕えられる可能性があります。
この世界の全体に、悪意が張り巡らされているのです。
あなたは悪意に捕われないように注意しなければなりません。
油断しているのであれば、悪意の網に掛かり、そのまま捕えられてしまうでしょう。
悪意の網は複雑に絡み付き、やがてあなたの自由を奪います。
自由を失ったあなたは苦しむことになるのです。
悪意の網に捕われないことです。
それが、幸福な人生には必要であるのです。
悪意の網に掛かるかどうかは、あなた次第であると言っておきます。
あなたの心が悪意に傾けば、悪意に捕われてしまうのです。
悪意は悪意を逃しません。
悪意が捕えるのは、悪意を持った者なのです。
悪意を持たなければ、悪意の網に捕われることはないのです。
善意を持つ者は、善意に導かれて進むのです。
善意の戸口は狭いのです。
そこに辿り着くためには、悪意の網を搔い潜り、正しく進まなければならないのです。
善意を持つ者でなければ導かれません。
そして、その戸口を進むに相応しい者でなければ、扉は開かないのです。
善意の扉へは、善意によってのみ導かれます。
自分自身が善意だと思っていることであっても、それが偽りであるのならば、善意の扉に導かれ、その先へと進むことはできないのです。
あなたは、自分勝手には進むことができないということを覚えておきましょう。
招き入れられなければ、強盗となるのです。
強盗は厳しく責められるでしょう。
すべての道は、資格のある者を導き、それに足らない者を排斥(はいせき)します。
本当の意味での人生の幸福とは、真実の先にこそ存在しています。
真実は善意の扉の向こう側にあるのです。
そのため、善意を持たない者が、本当の人生の幸福を得ることはできないということなのです。
人生の幸福を求めているのであれば、悪意に捕われることなく、善意を以て真実に進まなければならないのです。
この世界には悪意の網が張り巡らされています。
我欲によって悪意が溢れるのです。
悪意によって嘘が生まれます。
この世界には嘘が多いのです。
あなたは騙されないように努めなければなりません。
それは巧妙に隠され、真実を偽装しています。
常識として正しいと教えられたものであっても、その本質は悪意であるということがあるのです。
自分では善意だと信じていても、その本質が悪意であるのならば、あなたは精一杯に悪意を行っていることになるのです。
真理に正しいかどうか?ということが大切なのです。
あなたが信じているとかいないとか、そのようなものを基準に世界は動いてはいないのです。
あなたが正しいと信じていたとしても、その本質が悪意であるのならば、あなたは悪意に捕えられているのです。
あなたは自分の頭で考えなければなりません。
その選択、行為が本当に善から成るものであるのかを確かめましょう。
偏見によって歪んでいる人は、善悪を使い分けます。
嫌いなものには悪意を用い、好きなものには善意を用いるのです。
それが嫌いなものであったとしても、悪意を用いたのであれば、その瞬間に悪意の網に捕われています。
多くの人は偏見を所有しているために、簡単に悪意の網に捕えられてしまうのです。
蜘蛛の巣に捕えられた昆虫はどうなるでしょう?
あなたの肉体、心、魂は悪意の網に捕われてはいないでしょうか?
善意を以て真実に辿り着くことがなければ、人は幸福を得ることはできないのです。
悪意によって騙されてはなりません。
あなたはこの世界の嘘を見抜きましょう。
この世界には悪意が広がっています。
それを搔い潜り、真実を深く進みましょう。

2014年11月13日木曜日

発見

あなたはこの世界を発見しなければなりません。
この世界は謎に満ちています。
あなたには知らないことが多いのです。
あなたはそれを解き明かしていかなければならないのです。
自分に関係の無いことだと考えてはなりません。
あなたが生きているこの世界は、すべてがあなたに関係しているのです。
あなたと関係の無いものは存在しません。
すべてがあなたと一つであるのです。
あなたは自分のことがどれほど分かっているでしょうか?
あなたは自分自身のことを知っているのでしょうか?
自分勝手に生きる人であっても、自分が何者であるのかを知りません。
自分を中心として生きてきた人であっても、自分自身のことが分からないのです。
なぜでしょうか?
自分を中心として生きていながら、どうして自分自身のことすらも分からないのでしょうか?
答えは簡単です。
「あなた」という存在は、あなたという個体によって成り立っている訳ではないからです。
自分(人)のことを観察し続けたところで、自分(人)が何であるのか?という答えには至らないのです。
人は全体の一部です。
あなたは人類の一部であり、生命の一部であり、自然の一部であり、宇宙の一部であり、世界(次元)の一部であるのです。
このように、あなたは巨大な存在です。
それなのに、自分自身という小さな存在を観察したところで、その全容を理解することなどできるはずがないのです。
すべてを一つとして考えなければなりません。
この世界に存在するすべてのものが、あなたと一つの存在です。
あなたが知っているものから知らないものまで、そのすべてがあなたと一つであるのです。
あなたはそのことを覚えておかなければなりません。
自分以外の存在を知ること、それを理解することこそが、自分という存在を理解する上では重要なことなのです。
客観して見なければ理解することはできないのです。
あなたが自分自身で思い込んでいる「自分」というものは、偶像に過ぎません。
あなたは「自分」が何者なのかも分からないままに正当化し、美化しているからです。
他人から見えるあなたと、あなたが見ている「自分」とでは、大きな差があるということを覚えておきましょう。
視点が大きくなるほどに、正しさは増します。
地上から地上の姿を正しく現すことはできません。
しかし、空中から見れば、それは容易いのです。
より高い視点、より大きな視点から眺めることが重要なのです。
自分を中心として生きる人には、小さな視点が与えられます。
「自分」という小さな存在にしか興味がないために、広大な世界に対して目を向けることがないのです。
目の前に起こる現象がどのような意味を持っているのか?
それに興味と関心を以て向き合わなければならないのです。
世界を思慮深く観察することによって、現象の理由を発見することができるでしょう。
その発見の積み重ねが、この世界を理解することに繋がるのです。
すべてが真理に従って動いています。
真理に逆らうものはありません。
どのような理由があろうとも、真理に従っているのです。
宇宙に輝く太陽でさえ、真理に逆らうことはできないのです。
恒星(こうせい)も惑星(わくせい)も、真理の中に存在し、あなたと一つであるのです。
恒星から原子に至るまで、すべてがあなたと一つであるのです。
そのため、自分自身のことを発見するだけでは足りません。
他人のことも大切ですし、他の生命のことも大切です。
様々な道に思いを馳(は)せ、そこに流れる真理を発見するのです。
「自分」が何であるのかを知りたければ、自分自身を発見することはもちろん、それ以外のすべての存在を発見しなければならないのです。
興味と関心を以て世界を見なければなりません。
難しいことではないのです。
今まで知らなかったことを発見するだけで良いのです。
昨日よりも今日、今日よりも明日、多くのことを知っておきましょう。

2014年11月12日水曜日

執着心

小さな視野は、人に執着を生み出します。
小さな視野に捉われる人間は、小さな世界を重視するのです。
その小さな世界を重視するために、その小さな世界に執着するのです。
小さな世界以外の世界を理解することができないのであれば、小さな世界をすべてだと思い込みます。
すべてだと思い込んでいるために、それ以外の世界を否定するのです。
そして、自ら可能性を断ち、小さな世界の中に閉じこもるようになるのです。
小さな世界に閉じこもっているのであれば、それ以上の可能性を得ることはできません。
一定の空間の酸素を吸い尽くしてしまえば、人は生きていくことはできないのです。
酸素が豊富に存在しているからこそ、人はこの地球に生きているのです。
小さな世界観の中で生きている人は、この地球を食い潰してしまうということを覚えておきましょう。
世界観を広げることがなければ、可能性は断たれるのです。
一所に執着しているのであれば、可能性を奪ってしまうのです。
一所の食物を食い尽くせば、そこにはもう食べるものはないのです。
広い範囲で食事をするのであれば、食物を食い尽くすということはないのです。
人は広い視野を持ち、広い世界に生きなければなりません。
目の前のことしか見えない小さな視野と、そこに認識される小さな世界を生きてはならないのです。
食い尽くしてしまうから腹が減るのです。
腹が減るから苛立ちます。
そして、争いが生まれるのです。
食い尽くさなければ腹は減りません。
腹が減らなければ苛立つこともありません。
そこには、思いやりが生まれるのです。
執着するということは、争いを生み出すということです。
執着することによって、人は苦しむのです。
執着することがなければ、人はそこに苦しむことなく、次の可能性に対して進むことができるのです。
次の可能性に対して挑戦しているのであれば、新たな発見と喜びを得ることができます。
そこには苦しみは存在しないのです。
小さな世界で生きている者にとっては、小さなことであろうとも必死です。
小さなものを奪い合わなければならないからです。
あなたはそのような世界が幸福であると思いますか?
あなたが求めているのは、小さな世界で争うことなのですか?
小さな世界にこだわって、争ってはなりません。
大きな世界を見るのであれば、小さな世界に執着する必要はなくなります。
分け与えることの大切さや、支え合うことの重要性、許し合うことの必然性など、この世界を構成している本質に気が付くことになるのです。
小さな世界でしか生きていない者には決して理解することができません。
井戸の中の蛙に、大海のことが理解できるでしょうか?
地球の中の人間に、宇宙のことは理解できないのです。
蛙は井戸から出なければなりませんし、人間は地球から出なければなりません。
小さな世界に生きている人には理解できないのです。
小さな価値観に執着する人がいます。
大抵の人は小さな価値観に執着します。
人の本質が何であるのかを知らないために、死ぬことを恐れます。
人生が何であるのかを知らないために、未来を恐れるのです。
小さな価値観に生きている人には、この問いに一生を費やしても答えることができません。
あなたは自分が何者であるのか?
人生を何のために生きるのか?
この問いに答えることができますか?
何も知らずに生きて、死ぬことに抵抗はありませんか?
小さな世界に執着しているようではなりません。
この世界はあなたの想像を遥かに超えるほど、巨大なものであるのです。
あなたはこの世界を冒険しなければなりません。
この広大な世界を冒険し、自分という存在と人生の意味を見付け出しましょう。
視野を広げなければなりません。
小さなことにこだわってはなりません。
可能性を広げ続けましょう。
大きな世界へと向かいましょう。

2014年11月11日火曜日

過去の栄光

大切なのは「今」どうであるか?ということです。
現状が重要であるのです。
過去にどうであったとか、未来がどうであるとか、そのようなものに重要性はありません。
今どうであるのか?ということ以上に重要なものはないのです。
あなたは、今がどうであるのか?ということを重要視しましょう。
現在が幸福であるのであれば、それで良いのです。
あなたは、今を幸福に生きるために努めましょう。
目の前の状況が幸福であるように努めるのです。
過去を振り返る人がいます。
昔は良かったなどと、過去を引き合いに出すのです。
過去がどうであっても、今が苦しいのであれば、その方法は間違っていたということを覚えておかなければなりません。
過去が良くても現状が悪いのであれば、過去のその方法は間違いであったのです。
過去を語っても何の意味もありません。
間違った方法を美化し、それにすがろうというのであれば、更なる苦しみが導かれるということを理解しなければならないのです。
現状が苦しいものであるのならば、過去に間違ったのです。
過去に間違えることがなければ、現状が苦しいはずがないのです。
このように単純なことを忘れてはならないのです。
過去に間違っていたから、今に苦しんでいるのです。
過去に正しければ、今に喜んでいるのです。
そのため、大切なのは「今」にあるのです。
過去を変えることはできません。
未来を形作るのは現状です。
そのため「今」以上に重要なものはないのです。
多くの人は現状に不満を持っています。
満たされない気持ちによって、不満や不安に嘆いているのです。
そして、過去を振り返ります。
その結果として、現実逃避を選択するのです。
現実から目を背けるのであれば、余計に「今」が疎(おろそ)かになります。
現実に向き合う必要があります。
「今」をより良いものとしなければなりません。
あなたは現状に感謝しなければなりません。
現状に対して、不満や不安などの破滅的な感情を向けてはならないのです。
現状がどのようなものであったとしても、それは過去の積み重ねによって導かれました。
それは、過去の間違いを知る機会であるのです。
自らの選択が正しかったのか、間違っていたのか?それは現状によって確認することができるのです。
あなたにとって現状がどのようなものであれ、それは大切なものであると理解する必要があるのです。
あなたは「今」を蔑(ないがし)ろにしてはなりません。
過去がどのように輝いて見えたとしても、現状が苦しいものであるのならば、それは間違っていたのです。
過去という幻想に騙されてはなりません。
すべての原因は過去にあるのです。
そのことを理解しなければなりません。
何も知らずに、過去を良いものと決め付け、現状を悪者に仕立ててはなりません。
現状は過去の積み重ねです。
現状が苦しいものであるのならば、過去を反省し、それを今に生かさなければならないのです。
過去を振り返ることには何の問題もありませんが、過去を美化し、偽りの思い出に浸ることは問題です。
偽りを信じてはなりません。
あなたは真実に対して向き合わなければならないのです。
過去に捉われてはなりません。
過去を現状に持ち込んではなりません。
目の前にある状況を大切にするのです。
今目の前にあるものが大切なのです。
すべてが大切な学びです。
それはあなたが本当の幸福を理解し、それを手に入れるためです。
そのために「今」があるということを忘れてはなりません。
大切なのは、「今」がどうであるのか?ということです。
覚えておきましょう。

2014年11月10日月曜日

無限の可能性

あなたは人の可能性を軽視してはなりません。
人には無限の可能性があるのです。
人は、無限に成長していけるのです。
人の成長に限りはありません。
あなたはそのことを覚えておかなければなりません。
多くの人は目の前のことに捉われています。
常識という既成概念の中で考えるのです。
そのため、それ以上の可能性を見ることができません。
そして、それを信じることも、それを実行し、実現することもできないのです。
常識という偏見が人の限界ではありません。
この宇宙に存在している人が、限界に縛られるはずがないのです。
人は無限の可能性を秘めているということを覚えておきましょう。
あなたは既成概念によって限界を決めてはなりません。
常識や他人が上限を決めようとも、あなたはそれを決めてはなりません。
常識に捉われる者は、それ以上の想像力を扱うことができないのです。
その程度の貧弱な想像力であっては、可能性を伸ばすことなどできないのです。
人は無限に可能性を追うことができます。
空には月が浮かび、体内には生命が存在しているのです。
このような複雑であり単純で、大きくもあり小さな世界において、人が発見している可能性など小さなものであるということを知らなければならないのです。
他人や常識が知っていることなど、この世界のほんの少しのことであるのです。
他人や常識に従って生きる者には、それ以上の成長はありません。
他人や常識という貧弱な想像力をすべてだと思い込んでいるのであれば、それ以上の可能性を見出すことなどできるはずがないのです。
可能性を広げなければ、それ以上の成長を得ることはできません。
それ以上に成長することができないのであれば、それ以上の喜びを得ることができないということなのです。
常識に捉われて、自分勝手に上限を決め付けてはなりません。
他人(親族も含めて)や常識が何と言おうとも、可能性を見ていない者の言うことを受け入れてはなりません。
停滞していたい者には、そのようにさせておきましょう。
しかし、あなたはそのようにしてはなりません。
なぜなら、停滞は苦しみを生み出すからです。
あなたの求めるのは幸福であるはずです。
ならば、強くなければなりません。
他人や常識が何と言おうとも、それに左右されてはならないのです。
多くの人は安心を求めています。
そして、現状維持を守ろうとします。
しかし、安心を求める余りに、挑戦することを忘れてしまいます。
そして、現状維持に落ち込んでしまい、そこから動けなくなってしまうのです。
あなたはそのようには生きてはなりません。
人には無限の可能性があるのです。
無限の可能性があるにも関わらず、小さな価値観と小さな世界の中に生きてはならないのです。
あなたは何のために生まれて来たのですか?
生まれて来たのだから、真実を追い求めなければなりません。
人間にはどのような可能性があるのでしょう?
今のあなたがやっていることが限界ですか?
あなたの常識が人の限界なのでしょうか?
あなたには無限の可能性があるのです。
何事にも諦めてはなりません。
あなたは常に可能性を追い求めていなければならないのです。
可能性を追い求めて、目の前のことに一生懸命に取り組みましょう。
できるはずがないという既成概念を捨てましょう。
今はできないことであっても、未来にはできる可能性があるのです。
大切なのは目には見えない可能性を追い求めることであるのです。
未来というものは目には映らないために、想像することは難しいかも知れません。
しかし、想像することを続けていれば、いつかは想像することもできるようになるのです。
一つ一つ積み重ねていけば、必ず可能性を掴めます。
あなたは人の可能性を軽視してはなりません。
自らの可能性を諦めてはなりません。
可能性は無限に存在するということを知りましょう。

2014年11月9日日曜日

純粋なものほど優れています。
価値は純度によって決まるのです。
大切なことは、それがどれだけ純粋に近いのか?ということです。
あなたは純粋に近付かなければなりません。
あなたは純粋な力を用いなければならないのです。
道を極めるためには、純粋な気持ちが必要です。
道に対して不純な気持ちで向き合うのであれば、高みを得ることはできません。
高みは、純粋な者にこそ開かれるのです。
道を極めるためには、純粋な気持ちによって、純粋な力を用いる必要があります。
それが、自我による我欲を満たすための動機であったり、方法であるのならば、良いものを得ることはできないのです。
なぜなら、自我による我欲によっては、歪みが生じてしまうからです。
強奪するのであれば、恨(うら)みの絆によって争いが導かれるのです。
争いは互いの足を引き合います。
それは互いが衰退し、滅亡する可能性であるのです。
争うことによっては、向上することも、発展することもありません。
それでは、高みを得ることはできないのです。
不純な動機によって、人は自分自身の利益を考えるようになります。
自分自身の利益を考えていること自体が、不純な気持ちであるのです。
必要な利益は、あなたの仕事によって必要に与えられるために、利益を主体に考える必要はないということです。
利己的に行ったところで、良い結果を得ることはできません。
しかしながら、多くの人はこの理(ことわり)を理解することができません。
それほど、我欲による教育が根強いのです。
この世界においての価値は、純粋なものにこそあります。
歪んだものには価値が与えられません。
より純粋な気持ちで進む者でなければ、極みに到達することはできないのです。
我欲のために利己的に行う者よりも、利他的に行う者の方が高く昇るのです。
自己の繁栄だけを望む者の視野は狭まります。
高みを目指すためには、広い視野というものが必要であるのです。
それは、理解力というものが鍵となるからです。
理解するということは、学んだということです。
学びを得ることによって、人は知恵を増して成長することができます。
成長することこそが道を極めるということです。
成長し続けることができなければ、道を極めることができないのです。
利己的な者には成長を続けることができません。
好き嫌いによって偏って見るのであれば、それが持つ本質を理解することなどできるはずがないのです。
善悪によって生み出した偏見を所有している者には、正しい理解が得られないのです。
正しく理解しない者には扉(可能性)は開かれないのです。
知恵のある者でなければ、それより先へ進むことができないのです。
道に対して純粋な者は、思慮深く捉えることができます。
広い視野によって様々な比較を行い、多くの情報から本質を検討することができるのです。
狭い視野によって比較の余地もなく、少ない情報から検討することもできないのに、どうやって正しく理解するのでしょう?
自我による我欲に従うことは視野を狭めることに繋がり、それは可能性を閉ざす方法であるということなのです。
純粋な気持ちによって進む者でなければ、歪んだ自己によって歪んで進むことになります。
視界が歪んでいるのであれば、道なりに進むことはできません。
視界の歪みに従って、道を踏み外してしまうのです。
正しく理解するためには、純粋に見えなければならないのです。
不純物の多く練り込まれた硝子(がらす)であっては、前方を正しく捉えることはできないのです。
硝子は透明であるために、よく見えるのです。
埃(ほこり)や泥によって汚してもなりません。
常に純粋を保つように努めましょう。
道に対して我欲を持ち込んではなりません。
道に対して不満や不安などの破滅的な感情を持ち込んではなりません。
ただ、純粋に学び、純粋に努め、純粋に行い、純粋に進むのです。
それ以外のことは必要ではありません。
あなたは様々な道を歩みます。
その道が塞(ふさ)がれた時には、純粋な気持ちを思い出しましょう。
あなたが純粋であるのならば、道は自ずと開かれます。
道が閉ざされるのであれば、我欲によって純粋が失われたということを知りましょう。
ただ、純粋でありましょう。

2014年11月8日土曜日

真の道

人は豊かな生活を求めています。
多くの人は豊かな暮らしを夢見ているのです。
豊かな生活に対して、喜びを覚えるのは良いことです。
しかし、豊かに生活することが人生の目的なのでしょうか?
あなたは人生というものに疑問を持たなければなりません。
人生が何のために存在しているのか?という問いは、人が人生を生きる上で最も重要なものであるのです。
人は豊かな生活を求めています。
それは何不自由ない贅沢な暮らしかも知れません。
それは慎(つつ)ましくも穏やかで安定した暮らしかも知れません。
人によって豊かさの基準は違います。
人が自らの求める豊かな生活を手に入れることができたのなら、人生の目的を果たしたと言えるのでしょうか?
豊かに暮らすことが人生の目的なのでしょうか?
豊かに暮らすことによって、人生の意味が分かるのでしょうか?
大切なのは、あなたの生きているこの人生の意味を知ることです。
豊かな生活を楽しんだところで、人生がどのような意味を持っているのかを知ることがなければ、本当の意味での幸福を得ることはできないのです。
身体が満たされたところで、心や魂が満たされないのであれば、幸福ではないということを言いたいのです。
豊かな暮らしを営むことは大切です。
しかし、人が豊かに暮らすということは、暮らしを営んでいる者の目的としては当然のことなのです。
豊かに暮らすことは、当たり前のことなのです。
しかし、多くの人は豊かに暮らすことを夢見ています。
そして、それが人生の目的であるかのように思い込んでいるのです。
人は生活を営むだけの存在なのでしょうか?
豊かな生活を営むために生まれて来たのでしょうか?
食って寝て、子孫を残すために人生を生きているのでしょうか?
あなたは人生の意味を深く考えなければなりません。
豊かに暮らすために生きているのであれば、人は人生に迷うことはないのです。
豊かに暮らすために生まれて来たのであれば、人は苦しまないのです。
豊かに暮らすことが人生の目的であるのならば、人生が何のために存在しているのかを答えられるはずです。
人生が何のために存在しているのかを答えられる人には、自分という存在が何者であるのか?という問いも理解するのです。
豊かに暮らす人は大勢います。
その人たちは、人生の意味と自分自身の正体を理解しているのでしょうか?
日本に生まれたあなたは、その時点において豊かな暮らしをしています。
周囲に比べて貧乏であろうとも、地球規模で見ると、それでも豊かに暮らしているのです。
あなたは、豊かに暮らしている者が人生の意味を知っていると思いますか?
何不自由なく暮らしている者には苦悩はないのでしょうか?
贅沢に暮らしている者にも苦悩はあります。
贅沢に暮らしている者にも、人生の意味と自分自身の正体は分からないのです。
最大の問いに対する答えを持たないのに、どうして幸福だと言えるのでしょう?
あなたはおかしいと思いませんか?
本当の意味も知らずに生きて、それが本当に幸福なのでしょうか?
後にそれを偽りの幸福であったと知っても、あなたはそれを幸福だと言えますか?
では、贅沢に、何不自由なく暮らしていない人は幸福ではないのでしょうか?
あなたよりも乏しく生きている人が不幸なのでしょうか?
贅沢に暮らす人でも、人生に苦しみを覚え、夢も希望も無く自ら命を絶つ人がいます。
乏しく暮らす人でも、人生に喜びを覚え、夢や希望に向かってたくましく生きている人もいるのです。
あなたは暮らしによって人生が左右されると思いますか?
甘えていてはならないのです。
多くの人は豊かな暮らしを求めています。
そして、それが手に入るといつの間にかに溺れてしまい、それを守るために生きるようになるのです。
そして、人生の意味が豊かな暮らしにあると思い込むのです。
先述したように、豊かに暮らすのは当たり前のことです。
それは大切なことですが、当たり前のことを人生の意味とすることはできないのです。
豊かに暮らしているあなたは、人生の意味について考えてみましょう。
そうすれば、あなたの進むべき真の道が開かれるでしょう。

2014年11月7日金曜日

因果の仕組み

すべての存在は因果の仕組みから逃れることができません。
すべての存在が因果の中に存在しているのです。
因果とは原因と結果です。
すべての結果には、それに相応しい原因が存在しています。
原因がなければ結果はありません。
それがどのような結果であっても、元を辿れば必ず原因が存在しているのです。
意味も無く何かが生じるということはありません。
すべてが意味のあるものなのです。
問題や壁に出会(でくわ)し、そこで苦しみを得ようとも、それには大切な意味があります。
それがどのような苦しみであろうとも、そこには理由があるのです。
その理由を生み出したのは自分自身です。
人間関係に苦しもうが、経済的に苦しもうが、病気に苦しもうが、何であろうとも、そこには必要な原因が存在しているのです。
自分自身にとって関係のないものは存在しません。
すべてが自分自身にとって意味のあるものなのです。
身に覚えのない状況であろうとも、原因は自分自身に存在します。
あなたがそれを、自分自身の生み出した原因から得た結果であると認識することができていないだけです。
あなたがそれを、自分自身の生み出した原因から得た結果であると忘れているだけです。
しかしながら、すべての原因は自分自身にあるのです。
あなたが知らないとか、覚えていないとか、そのような事情は関係ないのです。
法律を知らなくても、法を犯せば罰せられるのです。
後になって知らないとか、覚えていないと主張したところで、許されるということはないのです。
例え知らなくても、自らの犯した罪に対する償いをしなければならないのです。
人が苦しむのは、苦しみに相応しい原因を選択したことにあります。
苦しみを受けるに相応しい選択をしたために、苦しみという結果を得るのです。
あなたが苦しみを受けるに相応しい原因を所有していないのであれば、苦しみという結果を得ることはないのです。
人生が間違えるということはありません。
あなたがどのような方法によって否定したとしても、人生には通じないのです。
人生は公平に裁きます。
そこに私情というものはないのです。
あなたが苦しむのは、自分自身に原因があるということを覚えておきましょう。
自分自身に原因があるにも関わらず、他人や状況や環境などを逆恨みしてはならないのです。
そのような安易な考えは、原因を見失ってしまう切っ掛けとなってしまうのです。
自分自身の反省をなおざりにし、それ以外の何かに対して責任を転嫁しているのであれば、正しい解釈を得ることができないのです。
正しく理解することがなければ、原因を改善することができないのです。
更に間違った原因を生み出すのであれば、更に苦しい結果が導かれるのです。
因果の仕組みを理解しているのであれば、結果を予測することが可能です。
結果を予測して原因を選択することができるのです。
喜びを欲しているのであれば、喜びを得るためにはどうするべきかを考えるようになります。
そのためには、思いやりを以て貢献する必要があるという見解に至るでしょう。
思いやりを以て貢献する人を、誰が蔑(ないがし)ろにするでしょうか?
あなたが思いやりを以て貢献するのであれば、周囲の人からは大切に扱われるでしょう。
そして、状況は良いものとなるのです。
愛が溢れるのであれば幸福です。
どのような苦しみも、愛によって乗り越えることができるのです。
愛という結果を得るためには、愛という原因を生み出す必要があります。
自分自身の行いが、様々な形によって返ってくるのがこの世界です。
身に覚えがなくても、原因は自分自身にあるということを忘れてはなりません。
あなたは自分自身の行動がどのような結果を導くのかを予測してみましょう。
善く善く考えてみましょう。
深く、多様に考えなければなりません。
善く考えて、それでもかまわないのであれば、その行動を続けましょう。
もしも、善く善く考えてみて、その行動が苦しみを導くように思うのであれば、すぐにでもその行動を改めなければなりません。
原因は自分自身にあるために、自分自身を変えることがなければならないのです。
他人や状況や環境を変えても何の意味もありません。
残念ですが、自分自身にこそ原因があるのです。
人は因果の仕組みから逃れることはできません。
これは当たり前のことですが、多くの人は知らずに生きているのです。
当たり前のことであるにもかかわらず、それを知らずに生きているから苦悩しているのです。
一時も休むことなく、因果の仕組みが働いていることを忘れてはなりません。

2014年11月6日木曜日

あなたは世界の実相を求め続けなければなりません。
真実を知ることによってのみ、人は苦しみから解放されるのです。
真実を知ることがなければ、人は永遠に続く苦しみの中に存在し続けるということを覚えておかなければなりません。
喜びは真実の中にこそ存在しているものなのです。
偽りの中に生きるのであれば、この苦しみからは逃れられないということを理解しましょう。
あなたは常に真実を追い求めなければなりません。
どのように小さな手掛かりであってもそれを掴み、真実に辿り着くのです。
偽りからは恐れが生じます。
偽りからは疑心が生まれます。
偽りからは争いが生じます。
偽りからは迷いが生じるのです。
偽りが喜びを生み出すことはありません。
偽りが生み出す喜びは、偽りの喜び、即ち苦しみであるのです。
偽りの喜びに酔い痴(し)れることはできます。
しかし、そのような現実逃避によっては幸福を得ることはできないのです。
酒は人を現実から遠ざけます。
酒に酔っていれば、苦しい現実を直視せずに済むのです。
しかし、酔いは必ず覚めます。
そして、また現実と直面するのです。
現実から逃れることはできません。
現実を良いものへと変えていかなければならないのです。
実相を追い求めることがなければ、人は真実には辿り着くことができません。
偽りは恐れ、疑心、争い、迷い、苦しみを生み出す力があります。
偽りによって辿り着く場所は苦しみであるのです。
飛行機は間違いなく目的地に向かいます。
客の要望によって目的地を変えることはありません。
搭乗した時点によって、行き先は決まるのです。
しかし、人生というものは途中下車が許されています。
自らの間違いに気が付き、それを改めるのであれば、違う目的地へと向かう道が開かれるのです。
人生とは電車のようなもので、途中で行き先を変更することができます。
世界の実相を求め続ける人は、自分の間違いに気が付くことができます。
苦しい現実から逃げることなく向き合い続ける人には、本当の道が開かれるのです。
偽りの喜びに酔い痴れてはなりません。
あなたは常に探し続けなければならないのです。
教育によって、好奇心が奪われました。
しかしながら、多くの人はそのことに気が付いていません。
そして、自分の生き方が不自然であることにも気が付かないのです。
人は魂です。
魂が食って寝て、性交をするために生まれて来たのだと思いますか?
年老いて肉体の自由が利かず、(本能的な)欲求が朽ちてきた時になって気が付いても遅いのです。
食って寝て性交し、生活を営むことも大切ですが、それ以上に大切な目的があるのです。
魂である人間が、物質によって満足している状態が不自然であるということを理解しましょう。
食って寝て性交し、生活を営むことが最大の目的であるのならば、なぜあなたは満たされないのですか?
あなたは十分に食い、十分に寝て、十分に性交し、十分に生活しているはずです。
しかし、満たされないのです。
それは、この世界の実相がそのようなものでは足りないということを証してるのです。
人が何のために生きているのか?を知る必要があります。
それを知ることがなければ、世界の実相など分かりようがないのです。
偽りを喜ぶのであれば、それでもかまいません。
しかし、それに苦しむ時がやって来ます。
その時には答えを求めるはずです。
その時にまで気が付かず、また、このことを知っていながら行動に移さないのであれば仕方がありません。
その時まで偽りの喜びに酔い痴れていれば良いでしょう。
あなたが苦しみを得る時には、「わたし」のこの言葉を思い出しなさい。
そこから、新たな道を探せば良いでしょう。
幸あれ。

2014年11月5日水曜日

現実主義

あなたは現実を直視しなければなりません。
どのような状況にも目を逸(そ)らすことなく、真っ直ぐに見つめなければなりません。
現実から目を背けることでは、何も理解することができません。
人生は魂の成長のために存在しているのです。
すべての状況が成長のために存在しているということです。
現実は、あなたの成長のために存在しているということを理解するのであれば、そこから目を背けることは間違っているのです。
それがどのような状況であろうとも、そこから大切な成長へのヒントを学ばなければならないのです。
しかし、人には自由意志が与えられています。
目を背けることもできますし、逃げ出すことも可能です。
どのようにするのも自分次第であるのです。
だから、目を背けても、そこから逃げ出してもかまいません。
しかし、覚えておかなければならないのは、目を背けても、そこから逃げ出しても、現実は変わらないということです。
人生はあなたの成長のために状況を導きます。
あなたが成長するまでそれは続くのです。
成長することがなければ、同じ状況を導き続けるしかないのです。
そのため、目を背け続けることもできませんし、そこから逃げ続けることもできません。
人は何(いず)れ、現実と向き合わなければならないということなのです。
どのみち向き合わなければならないのであるから、早いうちに向き合う方が良いでしょう。
何事も、向き合うのは早い方が良いのです。
それは、後にするほどに状況は悪化するからです。
早い段階で気が付き、そこから学ぶことができれば、その学びは終わりです。
しかし、いつまでも学ぶことがないのであれば、より分かり易い状態を以て気付かせ、学ばさなければならないのです。
一度言って聞かなければ、次第に声を荒げる人と同じなのです。
話しても分からない者には、体験させて理解させる必要があるのです。
そのため、思考や感情や価値観の段階では自分の間違いに気が付くことはありませんが、それが状況に対して問題として現れ、それに苦しみを覚えた時になって漸(ようや)く、それが間違っていたと気が付くのです。
この世界に存在するものすべてが現実です。
あなたは現実を見つめなければなりません。
あなたの認識の内にはなくても、存在しているものがあります。
あなたが信じていなくても、現実は存在するのです。
細菌の存在に気が付くことがなくても、それによって導かれる病には気が付きます。
しかし、細菌によって病を得たのではありません。
細菌を以て病に苦しむ原因は、それよりも深い部分に存在しているのです。
あなたの思考や感情は目には映りません。
しかし、その存在を否定することはできません。
なぜなら、日常的に使い続けているそれ等を否定することは不自然だからです。
思考や感情を否定する人は存在しないのです。
しかし、思考や感情は目には映りません。
しかし、それが現実です。
あなたにはこの事実を否定することができますか?
思考や感情はどこにあるのでしょう?
肉体のどこかにあるのですか?
脳の中ですか?
心臓の中ですか?
どこを切り開いても、あなたには発見することができないでしょう。
ならば、これは現実ではないのですか?
では、思考や感情とは何なのでしょうか?
あなたの信じている現実とはどのようなものですか?
偏見によって歪められ、小さな世界を現実だとは思い込んでいませんか?
信じられることも信じられないことも、良いことも悪いことも現実なのです。
残念ながら、それを否定することはできません。
奇跡とか、偶然だとか、神秘的な価値観を植え付ける者に注意しなければなりません。
すべてが現実であり、自分の認識であっては説明が付かないだけなのです。
現実であっても、理解することができないものを奇跡だとか、偶然だとか、神秘的に呼んでいるのです。
あなたは現実を見つめ、その奇跡や偶然がどのような原因によって導かれたのかを追求しなければなりません。
説明が付けば、目の前の状況に苦しむこともないのです。
現実から目を背けるのは、理由を知らないからです。
人生にはすべて理由があるということを覚えておきましょう。

2014年11月4日火曜日

素晴らしき世界

狭い視野では、狭い範囲しか望めません。
この世界は、あなたの考えている以上に広いのです。
広い世界に生きているにも関わらず、狭い範囲に生きてはならないのです。
あなたは視野を広めるように努めましょう。
自ら求めなければ、それを得ることはできないのです。
あなたは学習意欲によって、視野を広げなければなりません。
低い目線では、低い範囲しか望めません。
この世界は、あなたが考えている以上に高いのです。
高い世界に生きているにも関わらず、低い範囲に生きてはならないのです。
あなたは目線を高めるように努めましょう。
自ら求めなければ、それを得ることはできないのです。
あなたは志(こころざし)によって、目線を高めなければなりません。
世界は大きいのです。
しかし、人はそのことに気が付きません。
目の前の小さな世界をすべてだと思い込んでいるのです。
その間違いのために苦しみが生じます。
この世界においては、間違うと躓(つまず)きます。
間違いを正すように求められるのです。
それは、人が成長するためです。
人は、その本質である魂を成長させるために人生に生まれ、生きているのです。
広い視野と、高い目線が必要です。
その二つを得ることができなければ、小さな世界に縛られて生きることになるのです。
広大な世界の一部を切り取り、そこから得られる情報のどこに信憑性があるというのでしょう?
あなたはその情報を信じることができますか?
経験者と未経験者の話では、経験者の話を信じるはずです。
大きな世界を見る者と、小さな世界を見る者とでは、大きな世界を見る者の方が正しいということを覚えておきましょう。
知らない者は知らず、知っている者は知っているのです。
あなたは知るように努めましょう。
小さな世界を生きてはなりません。
生きている間に、できる限り視野を広めるのです。
そして、できる限り、目線を高めましょう。
宇宙は広大です。
それは広くあり、高くあるのです。
それにも関わらず、目の前の小さな世界をすべてだと信じていてはならないのです。
あなたの知っているものがすべてではありません。
あなたの知らないものの方が多いのです。
無知であるが故に生きて、学んでいるのです。
そのことを忘れてはなりません。
何のために生きているのか?を考えなければなりません。
人生は詰まらない場所ではありません。
あなたが人生を詰まらない場所だと考えるのであれば、それは余りにも狭い範囲の小さな世界の中で生きているという証なのです。
人生は詰まらない場所ではありません。
知り得ないほどに広大な世界の、どこが詰まらないのでしょう?
自らの過ちに気が付かなければなりません。
人生を詰まらないとか、退屈だとか、苦しいとか、そのように考えてはなりません。
世界の広さを実感するのならば、そのような考えが愚かなものであるということを実感するでしょう。
視野を広げ、目線を高くすれば、見えてくる世界が変わるのです。
それは、住む世界の変化を意味しているのです。
人は認識の中に生きています。
狭い視野と低い目線によって小さな世界を認識するのであれば、小さな世界の住人となります。
広い視野と高い目線によって大きな世界を認識するのであれば、大きな世界の住人となるのです。
あなたは世界の実相に近付きましょう。
学習意欲と志を忘れることなく生きていきましょう。
素晴らしき、広大な世界に生きているということを忘れてはなりません。

2014年11月3日月曜日

代用品

すべての人が愛を求めています。
すべての人の望みは、愛によって満たされることであるのです。
人は様々な方法や表現を用いながら、愛を得ることを目指しているのです。
どのような人であっても、愛を欲しているのです。
そのことを忘れてはならないでしょう。
愛とは、心(魂)を満たすエネルギーです。
それは、建設的な波動であり、充足と幸福を与えるものなのです。
愛という建設的なエネルギーによってのみ、人は幸福を得ることができるのです。
すべての人が愛を得るために生きているということを理解しておきましょう。
この前提を理解していなければ、間違った方法によって、間違ったものを得ることになり、本当に必要なものを得ることができなくなってしまうのです。
それでは、人生に苦しみが導かれてしまうのです。
間違っているのであれば、人は苦しむことになります。
人が苦しまないためには、間違わずにいる必要があるのです。
間違いとは、愛から逸(そ)れることです。
愛を失った方法は、そのすべてが間違っているということを理解しなければなりません。
人は独りでは生きていくことができません。
どのような人物であっても、他人との関係の中に人生を生きる以外に方法はないのです。
他人が存在しなければ、自分というものは存在することができないのです。
人間関係を円滑に進めていく上では、愛が欠かせません。
愛を欠いた人間関係が上手くいくはずがないのです。
人間関係が破綻するのであれば、人生が苦しみを導くのです。
そのため、人は他人との関係を良いものとしなければなりません。
人と人とは協力し合って生きていかなければならないのです。
良好な人間関係の実現のためには、愛が必要なのです。
愛は形としては分かりにくいものです。
しかし、人の思考や感情が形はなくても存在しているように、愛というものも物質的には無形に存在しているのです。
愛の力を認めなければなりません。
愛を否定している人であっても、深層では愛を求めているのです。
自分自身では認識していないだけなのです。
すべての行動が愛を得るためのものであるということを知りましょう。
この世界で愛を求めない者はいないのです。
暴力であろうが何であろうが、それは愛を求めるための手段でしかいないのです。
人は様々な方法を使って愛を求めるのです。
愛を得るために、様々な欲求によって様々なものを得るのです。
しかし、すべては愛の代用でしかありません。
愛を得ようとして、様々なものに対して、愛の代用となるように求めているのです。
しかしながら、多くの人はそのことに気が付いていません。
そのため、深層では愛を求めていながら、自分自身が愛を求めていることに気が付かずにいるのです。
そして、認識はそこで止まっています。
愛の代用を得ることで満足しているのです。
しかし、それは代用でしかありません。
所謂(いわゆる)偽物であるのです。
偽物には効力はありません。
すぐに滅金が剥がれ、不足を感じてしまうのです。
いつまでも満足を得るためには、本物を持つ必要があるのです。
本物の愛とは何であるのか?
その答えを探し続けなければならないのです。
様々なもので欲求を満たそうとする人がいますが、愛以外であっては満たされないということを理解しましょう。
あなたは愛を求めていましょう。
そして、他人に対しては愛を与えましょう。
何を以てしても、愛の代用であるということを覚えておかなければなりません。
愛以外の何物によっても、心(魂)が満たされることがないということを覚えておかなければなりません。
代用品によって本物の幸福を得ることはできません。
代用品では満足することができないのです。
愛を求めましょう。

2014年11月2日日曜日

価値の溢れる場所

あなたは目の前に導かれるすべての状況に対して、その価値を理解しなければなりません。
人生は魂の成長のために用意された最高の時間です。
それは人が成長するためにだけに与えられた最高の贈り物です。
人生は、その人のためにあるのです。
その人を苦しめるために存在しているのではないのです。
成長のために存在している人生を、ネガティブに捉えてはなりません。
不満や心配などの破滅的な思考によって考えるのであれば、人は苦しむことになるのです。
人が苦しむのは、人生の本意を理解することがなく、その本意に逆らっているからです。
間違っている時には、人は苦しみを得るのです。
人生に苦しまないためには、人生に対して逆らってはならないのです。
人生はあなたの成長のために必要な状況を導きます。
あなたにとって不要なものは導くことがありません。
しかし、多くの人はそれを不要なものだと理解するために苦しみを抱えるのです。
すべてが必要なものであるということを理解しましょう。
必要であるのであれば、価値があるのです。
あなたがどのように考えようとも関係ありません。
他人にどのように教わろうとも関係ないのです。
人生というものは、価値の溢れる場所です。
あなたの目の前のすべての状況に、素晴らしい価値があるということを知りましょう。
安易な考えによって、価値を損なってはなりません。
人生に不満や心配を持ち込んではならないのです。
人生はあなたのために存在しています。
あなたには信じることができなくても、あなたの成長のためにその状況が与えられるのです。
その状況を価値のないものと決め付けてはなりません。
あなたがその状況に向き合っているのであれば、それはあなたにとっての大切な学びであるということなのです。
決して無駄にはなりません。
それと向き合うことによって、あなたは成長を実現することができるのです。
目の前の状況を嫌い、そこから逃げるのであれば、人生の意味を理解することはありません。
向き合うことでしか、理解することはできないのです。
それがどのように苦しいことであったとしても、あなたのために導かれた状況であるのです。
それを否定してはならないのです。
あなたは成長するために生まれてきたことを思い出さなければならないのです。
人生に不満や心配を持ち込む人は、成長するために生まれてきたことを忘れているのです。
目的を見失うと、喜びは得られません。
目的を達成するからこそ、満足が生まれるのです。
何をしているのかも分からないままに生きるのであれば、本当の喜びを得ることはできないのです。
人生の本当の意味を知りたければ、目の前に導かれる状況に価値を見出し、それを受け入れて乗り越える必要があるのです。
本当の幸福を得るためには、良いも悪いも大切にしなければならないのです。
あなたの中には偏見が存在しています。
偏見は浅知恵から生じます。
人生が何であるのかを知っているのであれば、偏見によって区別することはないでしょう。
偏見がある心は苦しむのです。
それは、成長の糧(かて)を嫌い、受け付けないからです。
食事をしなければ肉体は痩せ細ります。
やがてはその機能を停止してしまうのです。
人生が導く状況を否定しているのであれば、魂に必要な栄養が届かないのです。
成長するために存在している魂が成長の機会を奪われるのであれば、魂は痩せ細り、やがてはその機能を停止してしまうのです。
しかし、魂は消滅しません。
機能を停止したままで存在し続けるのです。
それは不自由であり、苦しみであるということを理解しましょう。
あなたは魂を育まなければなりません。
この人生という場所は、そのための最適の場所であるのです。
人生は価値によって満ち溢れています。
その価値を理解しなければなりません。
人生に悪いことはありません。
そのように決め付ける浅知恵があるだけです。
価値のないものは存在しません。
その状況があなたの目の前にあるのは、あなたにとって価値のあるものだからです。
状況を嫌ってはなりません。
すべてに何等かの意味があるのです。
そのことを忘れてはならないでしょう。

2014年11月1日土曜日

考え続ける人

想像力を働かせなければなりません。
想像力の欠如は、可能性の欠如であるということを覚えておきましょう。
大切なのは可能性を失わないことです。
人生を可能性に溢れたものにしなければなりません。
人生は自分自身の力によって切り開いていくものです。
自らが行わなければ始まりません。
人生は因果によって実現するのです。
自らが可能性を見出すのであれば、可能性は無限に広がります。
自らが可能性を潰すのであれば、可能性は失われるのです。
人生がどのようになるのも、自分次第であるということを覚えておかなければならないでしょう。
人生に可能性を見出すためには、豊富な想像力が必要であるのです。
貧弱な想像力には、可能性を見出す力はありません。
そのようなものを頼りにしていても、人生は豊かなものにはならないのです。
貧弱な想像力に頼ってはなりません。
あなたはそれに従ってはならないのです。
あなたは常に想像力の向上に励みましょう。
人から教わるものや常識を鵜呑みにしてはなりません。
何の疑いもなく、検証もすることなく信じてはなりません。
与えられるものにただ満足してはなりません。
思考を停止してはならないのです。
大切なのは考えることです。
人は考え続ける必要があります。
思考に限界はありません。
あなたは想像力を働かせ、すべてのことを考え続けて可能性を見出し、やがては真実に辿り着かなければならないのです。
人には、知らなければならないことが多くあります。
偽りを信じていてはなりません。
真実を知ることがなければ、本当の豊かさを得ることができないのです。
人はやがて死を迎えます。
人は死んだら終わりではありません。
そのように甘い世界ではないということを告げておきます。
人の本質は魂であり、肉体ではありません。
肉体が滅びようとも、魂は存在するのです。
死によって、この世の関わりから離れることができるなどと考えていてはならないのです。
苦悩を抱えたままで死を迎えれば、それによって死後にも苦悩することになると理解しましょう。
人生がただ生活するためだけに与えられたものだと思いますか?
そのようにちっぽけなものではないということを理解しましょう。
ここでも、想像力が重要になってきます。
人は何のために生きるのか?
自分は何者であるのか?
可能性を追い求めていかなければ、この問いに答えを導くことはできないでしょう。
貧弱にものを考えてはなりません。
豊富な想像力によって考える必要があるのです。
想像力を高めるためには、偏見を持たずに、様々なことを学ぶ必要があります。
偏見によって偏っているのであれば、想像力を高めることはできません。
知っていることが少ないのであれば、多面的にものを捉えることがありません。
それは想像力の欠如であり、同時に可能性の欠如であるのです。
あなたは多くのことを知らなければなりません。
様々なものに興味関心を持ち、それを学ぶように努めましょう。
自ら学ぶことがなければ、何も変わりません。
人生は自分自身に相応しいからです。
すべてはあなたに相応しいものです。
あなたがどのように否定しようとも、あなたに相応しいもの以外に与えられることはありません。
すべてが因果によって導かれるのです。
すべての原因はあなたであるのです。
貧弱な想像力に従ってはなりません。
想像力を働かせましょう。