純粋なものほど優れています。
	
	価値は純度によって決まるのです。
	大切なことは、それがどれだけ純粋に近いのか?ということです。
	あなたは純粋に近付かなければなりません。
	あなたは純粋な力を用いなければならないのです。
	道を極めるためには、純粋な気持ちが必要です。
	道に対して不純な気持ちで向き合うのであれば、高みを得ることはできません。
	高みは、純粋な者にこそ開かれるのです。
	道を極めるためには、純粋な気持ちによって、純粋な力を用いる必要があります。
	それが、自我による我欲を満たすための動機であったり、方法であるのならば、良いものを得ることはできないのです。
	なぜなら、自我による我欲によっては、歪みが生じてしまうからです。
	強奪するのであれば、恨(うら)みの絆によって争いが導かれるのです。
	争いは互いの足を引き合います。
	それは互いが衰退し、滅亡する可能性であるのです。
	争うことによっては、向上することも、発展することもありません。
	それでは、高みを得ることはできないのです。
	不純な動機によって、人は自分自身の利益を考えるようになります。
	自分自身の利益を考えていること自体が、不純な気持ちであるのです。
	必要な利益は、あなたの仕事によって必要に与えられるために、利益を主体に考える必要はないということです。
	利己的に行ったところで、良い結果を得ることはできません。
	しかしながら、多くの人はこの理(ことわり)を理解することができません。
	それほど、我欲による教育が根強いのです。
	この世界においての価値は、純粋なものにこそあります。
	歪んだものには価値が与えられません。
	より純粋な気持ちで進む者でなければ、極みに到達することはできないのです。
	我欲のために利己的に行う者よりも、利他的に行う者の方が高く昇るのです。
	自己の繁栄だけを望む者の視野は狭まります。
	高みを目指すためには、広い視野というものが必要であるのです。
	それは、理解力というものが鍵となるからです。
	理解するということは、学んだということです。
	学びを得ることによって、人は知恵を増して成長することができます。
	成長することこそが道を極めるということです。
	成長し続けることができなければ、道を極めることができないのです。
	利己的な者には成長を続けることができません。
	好き嫌いによって偏って見るのであれば、それが持つ本質を理解することなどできるはずがないのです。
	善悪によって生み出した偏見を所有している者には、正しい理解が得られないのです。
	正しく理解しない者には扉(可能性)は開かれないのです。
	知恵のある者でなければ、それより先へ進むことができないのです。
	道に対して純粋な者は、思慮深く捉えることができます。
	広い視野によって様々な比較を行い、多くの情報から本質を検討することができるのです。
	狭い視野によって比較の余地もなく、少ない情報から検討することもできないのに、どうやって正しく理解するのでしょう?
	自我による我欲に従うことは視野を狭めることに繋がり、それは可能性を閉ざす方法であるということなのです。
	純粋な気持ちによって進む者でなければ、歪んだ自己によって歪んで進むことになります。
	視界が歪んでいるのであれば、道なりに進むことはできません。
	視界の歪みに従って、道を踏み外してしまうのです。
	正しく理解するためには、純粋に見えなければならないのです。
	不純物の多く練り込まれた硝子(がらす)であっては、前方を正しく捉えることはできないのです。
	硝子は透明であるために、よく見えるのです。
	埃(ほこり)や泥によって汚してもなりません。
	常に純粋を保つように努めましょう。
	道に対して我欲を持ち込んではなりません。
	道に対して不満や不安などの破滅的な感情を持ち込んではなりません。
	ただ、純粋に学び、純粋に努め、純粋に行い、純粋に進むのです。
	それ以外のことは必要ではありません。
	あなたは様々な道を歩みます。
	その道が塞(ふさ)がれた時には、純粋な気持ちを思い出しましょう。
	あなたが純粋であるのならば、道は自ずと開かれます。
	道が閉ざされるのであれば、我欲によって純粋が失われたということを知りましょう。
	ただ、純粋でありましょう。
	
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