人生は自分自身を基準として存在します。
人生は自分自身のレベルよって、存在の仕方に違いが生じるのです。
精神レベル、思考レベル、行動レベル・・・
すべてにはレベルが存在し、それがすべてのものに反映されるのです。
子どもが触れる世界と、大人の触れる世界では大きな違いが存在します。
子どもであっては、触れることのできない世界が存在しているのです。
あなたは、自身が過去に触れること、知ることすら無かった世界に触れている現実を知っているでしょう。
あなたが現在所有している世界は、過去のあなたには実現することのできなかった世界であるのです。
現在のあなたであるが故に、世界は今の状態を得ているということです。
そして、世界は常に変化を欲し、それがとどまることはありません。
世界が変化を否定しているのであれば、それは、自分自身のレベルが滞っているということが原因としてあるのです。
世界は常に変化し続けています。
しかし、それを認識するのは自分自身の力であるのです。
あなたは誰かや何かのせいにすることはできません。
言い訳がまかり通るほど、この世界は甘くはありません。
あなたが言い訳に酔い痴れている瞬間にも、他人の世界は確実に発展していくのです。
これは他人との競争ではありませんが、自分自身との闘いであるのです。
昨日の自分自身に劣っているようではならないのです。
人は常に成長を続け、世界を拡大し、より鮮明に、より忠実にしていかなければならないのです。
あなたには知らないことが多いでしょう。
それは、自分自身のレベルがそのレベルの世界に触れていないということなのです。
見ることができないのは、レベルが足りないからです。
触れることができないのは、レベルが足りないからです。
知ることができないのは、レベルが足りないからです。
辿り着くことができないのは、レベルが足りないからです。
手に入れることができないのは、レベルが足りないからです。
受け入れることができないのは、レベルが足りないからです。
扱うことができないのは、レベルが足りないからです。
その世界を生きることができないのは、レベルが足りないからなのです。
あなたは、世界を拡大しましょう。
常に自分自身を反省し、その成長を目指すのです。
人生において大切なことは、理解と成長であるのです。
理解することによって成長が実現します。
あなたは目の前の「当たり前」に対して、理解を追求するように努めましょう。
小さなことを懸命に学ぶのです。
多くの人は「当たり前」に対して、それを当たり前だと考えています。
それは、目の前の現象を当たり前とするレベルを所有しているということであるのです。
当たり前という考え方は、余りにも粗雑(そざつ)であるのです。
当たり前という考え方は、概要(がいよう)を捉えているに過ぎないからです。
それは、時計の文字盤と針は知っているけれど、その内部構造の存在を知らないということに等しいのです。
時計が時刻を示すためには、様々な精密な部品が必要であり、それ等が正確に機能するための仕組みが必要です。
時計が時刻を示すのは、決して当たり前のことではないのです。
小さな部品の一つ一つが確実に重要な役割を果たしているのです。
表面的な認識から、核心的な認識に移行するためには、自分自身のレベルがそこに達する必要があるのです。
精神レベル、思考レベル、行動レベル・・・
自分自身のレベルというものが、興味の対象を決めるのです。
時計の見た目を満足する人がいれば、その構造や歴史を含めて満足する人もいます。
子どもは「質」を理解しません。
時計の形をしているのであれば何でも良いのです。
紙で作った時計であっても、時刻を正確に示さなくても、内部構造が存在しなくても、歴史が無くても構わないのです。
ただ、時計の形をしたものが腕に飾ってあれば満足なのです。
この純粋さは、もちろん大切なものです。
しかし、人は無知であってはならないのです。
有知でありながら、純粋でなければならないのです。
あなたは純粋なまま、世界を拡大し、世界を詳細に捉えましょう。
自分自身のレベルが大切です。
常に自分自身の成長を目指しましょう。
世界の実相は、あなたの思っているようなものではありません。
多くのことを知りましょう。