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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2015年4月30日木曜日

自らの分

人生は自分自身に相応しい状況を導きます。
すべての状況が自らに相応しいものであるのです。
あなたは、それがどのような状況であろうとも、自分自身にとって最善であるということを受け入れましょう。
足掻(あが)いても良いことはありません。
足掻く程に最善が崩れていくのです。
人は、”それ”が今の自分自身にとっての最善であるということを理解する必要があるのです。
あなたが受ける状況も、あなたの選択や行為であっても、あなたにとって相応しいものであるのです。
インプットもアウトプットも、あなたにとっての最善であるということを忘れてはならないのです。
思い通りにいかないことは山程あります。
多くのことが思い通りにはいかないでしょう。
しかし、客観的に見るのであれば、それが最善であるということが理解できます。
あなたは後に、その時に受けた状況や、自らの選択や行為が過去の自分自身にとって最善であったと理解することができるでしょう。
それは、時を経て、客観視を得たからに他なりません。
その時には理解することが難しいのですが、後には必ず理解することができるのです。
それは常に起こっているのです。
今のあなたには理解することができなかったことが、未来のあなたには理解することができるのです。
それは、あなたが人生を始めた頃から変わらぬ働きであるのです。
人生は常にあなたに対して最善を導いています。
あなたが最善を受けなかったことはありません。
どのように思おうとも、それはあなたにとっての最善であったのです。
理解することができなくても、それが事実であるということを知りましょう。
足掻く必要はありません。
人生を受け入れることによって、それは正しく導かれます。
最善を変更するのであれば、最善では無くなってしまうのです。
それでも良いのであれば、好きにすれば良いでしょう。
人生はあなたの自由に決めれば良いのです。
あなたは好きに選択することができます。
どのような状況を受け取ろうとも、それはあなたに相応しいのです。
苦悩に固執(こしゅう)する必要はありません。
後悔に苛(さいな)まれる必要もありません。
上手くはいかないことであっても、それはそれで良いのです。
有るものは有るし、無いものは無いのです。
それを受け入れる必要があるでしょう。
人には”分(ぶん)”というものがあります。
人はそれぞれに分を持っているのです。
人生は分相応に展開します。
無理なことは無駄です。
あなたの分に釣り合わないものが導かれることはありません。
あなたが自分自身をどのように評価しているのかは分かりませんが、あなたに相応しく無いものをどれだけ求めても、それが与えられることはないのです。
相応しいものは簡単に手に入ります。
しかし、相応しく無いものはどれだけ努力しても手には入りません。
この世界に奇跡や偶然という幻想は存在しません。
すべては因果の仕組みによって導かれます。
あなたは分相応に生きなければなりません。
与えられたものを大切にするのです。
相応しく無いものを強請(ねだ)っても、それが手に入るということはありません。
奇跡など起きないのです。
あなたが受け入れなければならないのは、自らの分です。
自分の立場を見極めなければ、この人生を豊かなものにすることはできません。
手に入れられないものをどれだけ望んでも、それが手に入るということはありません。
そうではなくて、手に入(ってい)るものを大切にするのです。
あなたは与えられたものを大切にしましょう。
現状に対して感謝することを忘れた者には、豊かな人生は得られません。
分相応に生きましょう。

2015年4月29日水曜日

無限

世界は広いのです。
この広大な世界においては、可能性は無限に存在しています。
あなたは無限の可能性の中に生きているということを理解しましょう。
どのような理由があろうとも、自らの可能性に限界を設けてはなりません。
あなたの考える限界とは、あなたの小さな価値観の中だけの可能性を現しているのです。
それは決して、この世界の限界ではないのです。
自分自身とこの世界を一緒くたに考えてはなりません。
あなたとこの世界は全く違うものです。
あなたという個人は、全体であるこの世界の一部に過ぎないのです。
どうして、あなたの考える限界が世界の限界であると言えるのでしょうか?
あなたの認識が限界に至ることは有り得ません。
世界は、あなたの認識が及ぶほど小さなものではないのです。
限界を作るのはあなたの勝手であるのです。
知ったつもりではなりません。
世界には限界がないのです。
あなたが一生を掛けても、世界を知ることはできません。
世界を知ることもできない者には、その限界を理解することはできないのです。
あなたの考えている限界とは、あなたの勝手な決め付けであるということを覚えていなければならないのです。
多くの人は世界を知りません。
多くの人は自分自身の価値観の中だけに生きているのです。
すべての人は未熟です。
未熟な者の価値観とは、小さな世界観であるのです。
そのため、多くの人は小さな世界を生きているのです。
多くの人が人生の意味を知りません。
自分が何のために生きているのかを知らないのです。
そこで仕方なく、目の前の目的や、価値観の中に生じる夢に対して命を費やしているのです。
多くの人が業(ごう)の清算をしているだけです。
多くの人の人生は、自らの抱える無知と過ちを解消するためにあるのです。
しかし、人生というものは業を清算するために存在する訳ではありません。
人はそこで神聖(しんせい)を生み出さなければならないのです。
人は成長するために生きています。
業を清算する過程においてそれは少しずつ実現します。
しかし、それを目的にしている者が多いのです。
多くの人は気楽を得るために生きています。
苦しみから逃れることを目的としているのです。
多くの人の考える幸福とは、苦しみが無く気楽であることです。
これを求めているのです。
しかし、苦しみが無く気楽であることが人生の目的なのでしょうか?
それは、マイナスがゼロに戻るだけであり、そこに価値を見出すのは難しいのです。
マイナスをゼロに”戻した”のであれば、今度はそれをプラスしていかなければならないのです。
より良くなることが重要であるのです。
人の本質は魂です。
すべてはこれを育むための様々な経験であるのです。
魂を育むためには、神聖という富を積む必要があります。
そのためには、限界を定めてはなりません。
個人的な価値観は神聖を妨害します。
世界(無限)と共に歩むことによって、神聖は得られるのです。
世界には限界がありません。
自分勝手に限界を設けなければ、神聖は高まるのです。
世界は広いのです。
自分勝手に限界を決めてはなりません。
様々な可能性を考慮して、状況を受け入れましょう。
感謝して受け入れることができるならば、神聖は高まるでしょう。
それは、”愛”と呼ばれる力です。
世界と共に生きましょう。

2015年4月28日火曜日

支え

世界の内に存在するものの一切は流転します。
この世界の内にあって変化を受け入れないものは存在しません。
不変的に思えるものであっても、この世界の内に存在しているのであれば、必ず変化を続けるのです。
世界の内に存在する一切は、この瞬間も変化し続けているということを理解しましょう。
ただ一つ、この世界の外に存在する真理だけが不変であるということを覚えておきましょう。
この世界の一切を信用してはなりません。
なぜなら、それは変化してしまうからです。
どのように強固な鉄も、錆(さび)によって朽ちてしまいます。
多くの人は何かに頼ることによって、自分自身を保ちます。
他人や物に依存することによって、自分が崩壊しないように努めているのです。
人には頼り(支え)が必要なのです。
すべての人が未熟です。
細い茎の植物が風に倒されるように、人も簡単に倒れます。
細い茎の植物が風に倒されないためには、自分以外の何かに頼る必要があります。
自力であっては、風に耐えることができないのです。
細い茎の植物が頼るものは、風に耐え得る強さを持つものでなければなりません。
風に倒れるものを頼りにしても、共に倒れてしまうからです。
どのような強風に晒(さら)されても、それに耐えるものを探す必要があるのです。
ここでいう細い茎の植物とは人間の心を現します。
風とは人生の学び(状況)です。
頼りとは自分以外の存在です。
人生は学びの場所です。
多くの場合、学びは問題という形を以て導かれます。
そのため、多くの場合に多くの人は苦悩を覚えるのです。
多くの人が苦悩を抱えて生きています。
不安や心配、怒りや悲しみと共に生きているのです。
問題を前にした時、あなたの心は風に晒(さら)される植物のようなものです。
何かの支えがなければ、その心は苦悩によって簡単に折れてしまうのです。
心には何等かの支えが必要です。
人が苦悩を受ける時に、それに耐え得る支えとは何でしょうか?
この世界の内に存在するものは、そのすべてが変化します。
それは、支えとしては軟弱です。
強風によっては、巨木であっても倒れてしまうのです。
この場合、巨木は強風によって倒れるという変化を受け入れたのです。
変化を受け入れないものこそが、あなたの支えとなる唯一のものであるのです。
それは、この世界の内には存在しません。
この世界の内に存在しながら、世界の外に存在するもので触れられる唯一のものが真理であるのです。
人は真理を支えとしなければならないのです。
真理こそが、この世界において唯一の不変であるのです。
あなたは変化するものに頼ってはなりません。
他人や物は必ず変化を受け入れます。
どのように信用している相手であっても、その心は変化するのです。
あなたがどのように相手を信用していようとも、あなたの心も変化します。
物に頼る者がいますが、物の価値は日々変化するのです。
物ほど、当てにならないものもないでしょう。
物の価値であるなら、人の心の方がよっぽど信用することができます。
しかし、どちらも頼りにはなりません。
他人も物もあなたにとっては有難いものではあります。
しかし、それ等に頼り切ることはできません。
その支えはすぐに倒れてしまうからです。
あなたが信用している相手は、あなたが危機の時に本当に支えとなるでしょうか?
相手が危機の時には、あなたが相手の支えとなるでしょうか?
あなたが危機の時に、物が支えとなるでしょうか?
真理をおいて、不変的なものは存在しません。
真理に従っている者が、苦悩に倒れることはないのです。
この世界の内に存在するものの一切は流転するということを忘れてはなりません。
ただ一つ、この世界の外に存在する真理だけが不変であるということを覚えておきましょう。
あなたはそれを支えとしましょう。

2015年4月27日月曜日

小さい者

人は道を完成させなければなりません。
道とは人生における目的のことです。
人は、何らかの目的のために働きます。
何らかの目的を果たすために生きているのです。
意識的にも、無意識的にも、人は何らかの目的のために生きているということを理解しましょう。
それは、人生の理由です。
人が人生を生きる理由とは、自らに与えられた目的を果たすためであるのです。
その目的を果たす過程こそが道であるということを理解しましょう。
すべての人が自らに与えられた目的を果たす必要があります。
ペースは人それぞれでも構いませんが、目的を諦めることはできません。
人は人生の理由である、自らに与えられた何らかの目的の達成から逃れることはできないのです。
与えられた目的が何であるのか?ということを理解することが重要なのではありません。
それを理解していようとも、理解することがなくても、その達成に対して生きている(又は生かされている)ということを知りましょう。
すべての人は道の完成を求められるのです。
しかし、与えられた目的を果たすのは簡単なことではありません。
そのため、多くの人が人生に苦悩しているのです。
人は目的を果たすことができないために苦しむのです。
どのような状況や状態を得ようとも、与えられた目的を果たすことさえできれば、人が人生に苦しむことはないのです。
人は目の前の状況や状態によって苦しむのではありません。
与えられた目的の達成に対する状況や状態によって苦しむのです。
あなたは見誤ってはなりません。
表面的なものに耽溺(たんでき)していてはならないのです。
人生とは、物質的な活動ではないのです。
そのようなものに価値はないということを理解する必要があるのです。
物資を用いて生活することをどれだけ充実させようとも、心が満たされることはありません。
心の情熱は、道の追求によって満たされるのです。
そのため、人は物質的な人生だけではなく、精神的な人生をも生きなければならないのです。
あなたには精神的な目的があります。
それを熟考し、実行するのです。
ただし、道の入り口は狭いのです。
そこに入ることができるのは”小さい者”だけです。
人は謙虚でなければなりません。
そうでなければ、道を進むことができないのです。
植物は小さな種子の状態で道を始めます。
それは、小さな状態から始めなければ上手くはいかないことを知っているからです。
種子は柔らかく広大な土壌に落ちるとは限りません。
それは、岩の隙間の過酷な環境に落ちることもあるのです。
しかし、過酷な環境であるからといって、種子が根を出すことを諦めることはできません。
岩の隙間に懸命に根を伸ばして、やがて大輪の花を咲かせるという目的を果たさなければならないのです。
小さな種子から始めれば、岩の隙間の過酷な環境であっても、根を伸ばして成長することができるのです。
小さな種子の状態でなければ、それは実現しないのです。
あなたは”小さい者”で在りましょう。
自分が道を果たすために生きているということを忘れてはなりません。
傲慢(ごうまん)に生きてはならないのです。
人生は簡単なものではありません。
それぞれに過酷な環境の中に生きなければなりません。
不満もあれば、心配もあるでしょう。
しかし、そこに生まれたのであれば、そこで根を下さなければならないのです。
岩の隙間に落ちたからといって、種子は根を下すことを諦めたりはしません。
努力の結果、それが実現しないということはあっても、諦めることは決してないのです。
あなたは自らに与えられた目的に対して、全力で向き合っていますか?
人生を自分なりに懸命に生きていれば問題はありません。
自らが何らかの目的のために生きているということを忘れてはなりません。
小さく始めれば、どのような道も完成することができるということを覚えておきましょう。
小さく始めるとは、一刻も早く始め、尚且つ出来るだけ謙虚で在るということです。
自分が”小さい者”であるということを忘れてはなりません。
岩の隙間にも、細かく根を伸ばしましょう。

2015年4月26日日曜日

解釈の歪み

すべての人は状況に辿り着きます。
受け取る状況こそが、その人の歩んだ結果であるのです。
人は、自らの原因に従って歩み、当然の結果としての状況を得るのです。
状況とは、その人に相応しい結果であるのです。
このことを理解しなければ、人生に対する誤解を解くことはできません。
多くの人は人生に誤解を許します。
誤解とは無知によって引き起こされる解釈の歪みです。
その歪みによって、人は苦悩を得るのです。
人生に対して苦悩を覚えている状態は、人生に対して誤解を抱いている状態であるということを理解する必要があるのです。
苦悩の原因は誤解です。
人は人生を誤解することによって、自ら苦悩を実現するのです。
あなたはなぜ、その状況を得るのか?ということを考えたことがありますか?
多くの人は状況を熟考することはありません。
多くの人が状況に対して無知を通します。
そのため、その状況の原因と経緯を理解することがなく、理解の不足によって苦悩するのです。
無知は苦悩を引き起こすために、それを放置してはならないのです。
人生に対して、目の前の状況に対して熟考し、その”謎”を解き明かさなければならないのです。
なぜ、自分がその状況を得たのか?ということを理解するのであれば、人生に苦悩することはありません。
その状況を得た理由が分からないために、人は苦悩するということを覚えておきましょう。
人は状況に対して歩みを続けます。
生きるということは、状況に向かうということです。
人は生きている以上、様々な状況に向かい、辿り着くのです。
どのような状況に辿り着くかは、その人の持つ原因によって変わります。
人は何らかのテクニックによって状況を得るのではありません。
自らの状態という原因に相応しい状況を得るのです。
自らの状態とは、真実の思想であり、真実の主義であり、真実の行為であり、真実の言葉であり、真実の心であるのです。
偽善による思想や主義、行為や言葉や心であっては、人は思い描く状況に辿り着くことができないのです。
その人の本心に従って、状況が導かれるのです。
どのようなテクニックを用いても、理想とする状況には辿り着くことができません。
詐欺師が豊かな人生を求めても、決して得られないようにです。
人は、自らの状態に相応しい状況を得るのです。
そのことを理解しなければ、誤解と間違った行為によって苦悩を引き起こすようになるのです。
多くの人は偽善によっても、理想とする状況に辿り着くことができると考えています。
そのため、善を偽ることを許しているのです。
その典型が詐欺師です。
詐欺師は偽善というテクニックによって利益を求めます。
確かに、偽善によっても何らかの利益を得ることはできます。
しかし、偽善によって得られる利益とは、偽物の利益であり、それは利益を装った損失であるのです。
偽善を語り、行う者が辿り着く状況は、乏しさと苦悩に満ちているものであるのです。
偽善によって人生の豊かさが得られるなどと考えてはなりません。
他人を騙すことはできても、因果の仕組みを騙すことはできません。
人生はテクニックではどうすることもできないのです。
そのような誤解を信じる者がいます。
偽善が真実だと信じ込むのは危険なのです。
善を偽り悪(思いやりに欠ける行為)を行えば、辿り着く状況は因果の仕組みによって苦悩となるのです。
そのため、人が幸福を求めるのであれば、善良な心によって行為することが求められるのです。
善良な心による行為によっては、自分自身の状態は善となります。
そのような人の辿り着く状況は、善行によって幸福なものとなるのです。
あなたは、自分自身の状態を気に掛けましょう。
すべての状況は自分自身に相応しいものであるのです。
あなたが苦悩を覚えているのであれば、誤解による間違った状態と行為が存在するのです。
あなたは自分自身の状態である、思想や主義、行為や言葉が、善と偽善のどちらによって導かれているのか?を確認しましょう。
そうすれば今後、自身がどこへ辿り着くのかを知ることができるでしょう。
人生が自分自身の状態によって築かれていくことを理解しましょう。

2015年4月25日土曜日

完全な客観性

人生を豊かなものにするためには、人生に対する理解が必要です。
理解を深めることによって、人生は豊かなものとなるのです。
理解が浅ければ、それを豊かなものにすることは不可能であるということを覚えておきましょう。
どのような事柄に関しても無知な状態においては、そこから豊かさを得ることはできないのです。
無知を放置してはなりません。
それは苦悩を導き、乏しさの原因となるからです。
人は、理解を深めることに励(はげ)まなければならないのです。
理解を深めることが先決です。
あなたはそれに集中しましょう。
何をするにも、理解を深めましょう。
無知は豊かさを否定します。
無知に頼っているのであれば、人生には苦しみ以外の状態を望むことはできないのです。
無知は罪です。
それは、怠慢(たいまん)によって引き起こされます。
何年、何十年と生きているのに、無知を放置してはならないのです。
人生が何であるのか?ということを考えたことがありますか?
目の前の状況の意味を考察したことがあるでしょうか?
無知のままに放置すれば、そこから得られるはずの利益を得ることはできないのです。
考えることがなければ、理解は深まりません。
そのため、あなたは考え続けなければなりません。
しかし、ただ考えるということであっては不足します。
目的は理解を深めることなのです。
要点から逸れた意味の無い理論を永遠と組み立てていくことにおいては、理解を深めることはできません。
理解を深めるために考える必要があるのです。
そのためには、要点を得た考えによって理論を煮詰める必要があります。
要点を得るためには、視点の位置が重要です。
視点の位置が的外れなものであるのならば、要点を得ることはできないのです。
照準が定まっていないのに矢を放っても、それが目標物に命中することはないのです。
何本の矢を放っても結果は同じです。
大切なのは、目標物に対して照準が定まっていることなのです。
理解を深めるためには、思考という矢が理解を深めようとする対象に対して、正しく向けられている必要があります。
それは客観視によって実現します。
対象に対して客観することがなければ、思考は正しく導かれません。
そのため、理解が深まることはないのです。
人々は身内の軋轢(あつれき)に苦しみます。
他人との関係においては、身内ほどの軋轢が生じることは稀(まれ)です。
それは、他人に対してはある程度の客観視が無意識の内にでも実現されているからです。
他人事とは、客観視から生じるのです。
他人事に関しては、人はある程度の冷静な判断が下せます。
しかし、自分事に関しては冷静さを失います。
それは、客観性を失っているからなのです。
人は他人のことは良く知っていますが、自分自身のことに関しては無知です。
それは、自分自身に対しては客観性を持たないからです。
あなたは意識的に客観性を持たなければなりません。
自分自身のことを理解するためには、自分自身から離れる必要があります。
人生のことを理解するためには、人生から離れなければならないのです。
目の前の状況を理解するためには、それを客観視する必要がありますが、そのためには、苦悩や至福から離れなければなりません。
客観性とは、完全な客観性のことです。
あなたは、損得から離れましょう。
損得勘定こそが、人を客観性から遠ざけるのです。
主観的に生きるのであれば、理解を深めることはできません。
そのため、自分がどの視点からものを見ているのか?ということにいつも注意しておきましょう。
客観性によって理解を深めることが重要です。
あなたは、すべてのことから離れましょう。

2015年4月24日金曜日

苦しみの縁

あなたが行うものは、あなたが後に受けるものです。
人は、自らの行為によって状況を得ます。
この世界には因果の仕組みというものが存在し、誰もがそれによって縛られているのです。
因果の仕組みを無視することのできる人はいません。
すべての存在が、因果の仕組みによって左右されるのです。
あなたは自らの行為の結果を受けます。
あなたの受ける状況は、あなたの行いの結果であるのです。
そのことを理解する必要があります。
人は他人との関係の中に人生を築きます。
他人との関係なくして、人生は存在しません。
すべての人は人間関係の内に生きているのです。
あなたの行為の結果は、他人を通じて導かれることがあります。
あなたはそのことを知っておく必要があります。
他人であろうとも、それはあなたの受けるべき結果を導く”道具”に過ぎないのです。
あなたが受けるべき結果のために、すべての存在が働いています。
そのため、あなたは他人から苦悩を受けるでしょう。
しかし、それに苦悩してはなりません。
なぜなら、それはあなた自身の行為によって導かれた当然の結果であるからです。
他人に罪はありません。
すべての人がこのことを知る必要があるのです。
しかし、大抵の人はこの事実を知りません。
そのため、他人の行為によって苦悩していると信じているのです。
あなたは、なぜ、自分がその状況を受けたのか?ということを考える必要があります。
他の人ではなく、あなたが受けたのです。
ここに重要な意味があるということを知らないでいるのは罪であるのです。
他の人ではなく、あなたが受けたのです。
あなたに原因があるために、その結果を受けたのです。
この世界に偶然や奇跡などというものは存在しません。
すべてが因果の仕組みによる導きであるのです。
偶然や奇跡を信じる者は、自分が無知であり、その原因の探求を諦めた愚か者であるということを口外していると気が付かなければなりません。
偶然や奇跡という自分に都合の良い結論によって片付けるのであれば、あなたが原因を理解することはありません。
そうなれば、人生に対する苦悩は続くでしょう。
他人からどのような行為を受けたとしても、それに苦悩する必要はありません。
また、それに対して怒りを用いて争ってはなりません。
それは、後にあなたが受ける行為であるからです。
自分自身の行為が、因果の仕組みによって後に導かれます。
あなたが苦悩し、他人を攻撃するのであれば、あなたは他人を苦悩させ、他人によって攻撃される時が来るのです。
あなたはネガティブな因果の縁を断ち切らなければならないのです。
他人が断ち切るのを待つのではありません。
あなたが自主的にそれを断つのです。
人生は自らの行為によって築かれます。
あなたが自主的に行うことがなければ、新たな可能性は開かれないのです。
他人によってどのような状況が導かれようとも、それを他人のせいにしてはなりません。
現状においては、それが因果の仕組みによって導かれた、過去の自分自身の行為であるということを忘れているのです。
あなたは、すべてが因果の仕組みによって導かれるということを覚えておきましょう。
忘れてしまっていたとしても、それを思い出す努力をしましょう。
あなたが原因なのです。
あなたが縁を作るのです。
あなたが始まりであるということを理解しなければなりません。
あなたが他人を許せば、後にあなたは他人から許されます。
どうするのかはあなた次第です。
どのような結果を得ても良いのです。
それはあなたの自由であるのです。
苦しむのが嫌であるのならば、あなたは自ら苦しみの縁を断ちましょう。
決断するのはあなたです。

2015年4月23日木曜日

世界の掟

人生の目的地は、どのような者であろうとも同じ場所です。
すべての人は同じ場所を目指して進んでいるのです。
それは、”至高”という場所です。
すべての人、すべての存在は、至高を目指しているのです。
どのような立場の者であろうとも、どのような信仰や思想を抱く者であっても、至高に向かうことには違いがないのです。
あなたは、すべての存在が至高を目指すということを理解し、それを覚えておきましょう。
あなたが目指しているのは至高です。
あなたがどのように考えようとも、人生を生きているのであれば、それは至高へと向かう道のりであるということを知りましょう。
どのような方法を用いても、それは至高へと向かう道となります。
意図的にそれを拒んだとしても、それが至高へと向かう道となるのです。
世界の掟(おきて)から逃れることなどできないのです。
なぜなら、世界の中に人生が存在しているからです。
多くの人は人生に嫌悪を抱いています。
苦悩に塗(まみ)れ、否定的な思想を抱きます。
しかし、それでも人生の目的を拒絶することはできません。
どのように企(たくら)もうとも、必ず至高に続く道が用意されるのです。
逃避は無駄に終わります。
すべての人が向き合うようにと定められているのです。
この掟から逃れる術はありません。
人が至高へと向かうという真理を、受け入れなければならないのです。
どれだけ否定しても無駄です。
無駄な努力ほど虚しいものはないのです。
あなたが至高へ向かうことを拒否しているのであれば、そのような無駄な努力をすることが苦悩であるということを理解する必要があるのです。
あなたは、頼んで生まれた訳ではないと反論するかも知れません。
しかし、あなたは頼んでまで生まれてきたのです。
人生には意味が無いと考える人がいますが、そのような人は真剣に向き合ってはいないのです。
真剣に向き合うのであれば、どのように小さなことであったとしても、そこには確実な意味が存在しているということを理解することができます。
大人になってみないと分からないことが、人生には山のように存在しているのです。
そのため、現状において人生に結論を下すのは、無知故(ゆえ)の誤った判断であるということを覚えておきましょう。
あなたがどのような立場にあろうとも関係ありません。
あなたがどのような状態であろうとも関係ありません。
あなたがどのような環境を得ようとも関係ありません。
あなたがどのような思想を抱こうとも関係ありません。
あなたの現状こそが、あなたの出発地点であり、その道は至高へと続いているのです。
人生を真剣に生きてみましょう。
不満や不安を手放して生きるのです。
そうすれば、”わたし”の言っていることの真意を読み取ることができるでしょう。
不満や不安に捉われて生きている者には、現状が至高へと続いているということを理解することはできないのです。
多くの人は現状に嫌悪を抱き、全力でそれを否定します。
しかし、現状とはあなたに相応しい場所であるのです。
人生は因果の仕組みによって成り立ちます。
そのため、あなたという原因が導き出した結果が現状であるのです。
それ以上の結果を求めたとしても、それを得ることはできないのです。
現状こそが、あなたの最善であるということを理解する必要があるのです。
現状を否定するのであれば、あなたは自分の立ち位置を理解することができません。
自分の現在地を知ることがなければ、どれだけ精巧な地図を持っていたとしても、何の役にも立たないのです。
自分がどこにいるのか?ということを知っていなければ、丁寧に目的地までの道のりを書き記した地図であっても、無用の長物と成り下がるのです。
あなたは現状に対してどのように考えますか?
あなたがどこにいようとも問題ではありません。
相手がどこにいても同じです。
そこから、どのように至高へと向かうのか?ということが重要であるのです。
道のりには無限の可能性が与えられています。
どのようなルートであろうとも、必ず至高へと辿り着くのです。
他人と違う道のりであったとしても、それは何の問題でもありません。
それぞれが違う価値観を持ち、違う現状を持つのです。
出発地点も違えば、道のりも違うのです。
他人との比較は何の意味も持ちません。
すべての人が至高を目指します。
現状に対して不満や不安を抱く必要はありません。
あなたは現状に対してただ感謝して、真剣に向き合いましょう。

2015年4月22日水曜日

渡り終える者

人は人生という激流を渡り終えなければなりません。
激しい流れを進み、対岸へと辿り着かなければならないのです。
人生とは決して楽な道のりではありません。
様々な障害があなたの進路に立ちはだかります。
人は障害を乗り越え、時にはそれに捕らわれることなく、それに騙されることなく進まなければなりません。
対岸への思いを失ってしまえば、様々な障害によって道が閉ざされてしまうのです。
あなたは人生というものを深く考えなければなりません。
表面的な部分に捉われ、それに耽溺(たんでき)してはならないのです。
人生には、あなたを惑わす様々な障害が立ちはだかります。
簡単に流れを進むことはできません。
必ず、あなたを阻む問題が現れるということを覚えておきましょう。
人は多くの誘惑に会います。
誘惑に会わない人はいません。
あなたは常に激流の渦へと誘(いざな)われているのです。
誘惑に足を引かれるのであれば、激流に飲まれ、そのまま川底へと沈んでしまうでしょう。
どのような誘惑にも注意が必要です。
特に、恐怖に関する誘惑には屈してはなりません。
多くの人は心に恐怖を抱えています。
恐怖心によって不安や心配が生じるのです。
それ等の混乱が、人を誘惑に導くのです。
どのような誘惑によっても、人は対岸へと辿り着くことはできないのです。
恐怖に向き合い、それを正しく見つめなければなりません。
恐怖の正体を理解するのであれば、あなたが誘惑に引かれて川底へと沈むことはないでしょう。
人は多くの偽りに会います。
偽りに会わない人はいません。
あなたは常に、対岸へと渡ることができない道のりや手段を教えられているのです。
人の目的は対岸へと辿り着くことです。
しかし、偽りは詐欺師を使い、あなたを惑わすのです。
偽りの道のりや方法によって、激流を渡り切ることはできません。
船を使わなければ渡ることができない流れに対して、身一つでも大丈夫であると詐欺師は教えるのです。
それを信じた人は流れに飲まれ、やはり川底へと沈みます。
偽りを疑い、それを正しく見つめなければなりません。
詐欺師の本性を見極め、その偽りに騙されないのであれば、あなたは偽りによって川底へと沈むことはないでしょう。
激流を渡る人の心は簡単に混乱します。
あなたの心は既に混乱しているのです。
しかし、激しい流れの中では、そのようなことに気が付くことはできません。
多くの人が混乱した心によって生きているのが現状であるのです。
混乱したままで激流に挑み、誘惑と偽りによって川底へと沈みます。
残念ながら、大抵の人は対岸へと辿り着くことはできません。
あなたは人生が何であるのか?ということを知っていますか?
あなたは何者なのでしょうか?
この問いの答えが対岸にあるということを理解しましょう。
生涯を以てしても、対岸に辿り着くことはできません。
そのため、人は何度も何度も生まれ変わり、人生をやり直すのです。
恐怖に捉われてはなりません。
偽りを信じてはなりません。
詐欺師を見極めなければなりません。
あなたの信仰はこの激流を渡るのに相応しいものですか?
あなたの言動はどうですか?
恐怖や偽りの正体を理解していますか?
なぜ、あなたは恐れ、偽るのですか?
なぜ、他人は恐れ、偽るのでしょう?
激流を渡り終える者であれ。

2015年4月21日火曜日

欲求の選別

すべての人は人生を生きています。
無意味に生きてる訳ではありません。
人生には意味があるということを理解しましょう。
人生に対して、絶望する必要はありません。
そこには重要な意味があるということを知りましょう。
人生の意味を理解するのであれば、そこに絶望感を覚えることはありません。
どのような立場にあろうとも、それは素晴らしいものとなるのです。
意味を理解するだけで、人生に対する感想は全く違うものになるということを知る必要があるのです。
人生の意味を知らなければ、そこには何かしらの苦悩が導かれます。
苦悩によっては、人は心を消耗します。
心が消耗するのであれば、喜びや楽しみを感じ取ることは難しくなるのです。
心の力が不足すれば、状況に対して喜びや楽しみを見出すことができなくなります。
それは、人生への絶望を意味しているのです。
喜びや楽しみは人生の生き甲斐となります。
それ等が存在しなければ、生きることは辛いのです。
絶望は、生き甲斐の消失と共に訪れるのです。
人が豊かな人生を生きるためには、生き甲斐を所有する必要があるということを覚えておきましょう。
生き甲斐とは、人生の意味です。
あなたの生きる意味こそが、あなたの生き甲斐となるということを覚えておきましょう。
すべての人に欲求が存在します。
それは、肉体や心に与えられた目的です。
その目的を果たすために、欲求という形として現れるのです。
人は欲求に従います。
欲求を除外することはできません。
すべての人は、自らの有する欲求を実現するために働くのです。
人は、欲求を実現することによって、そこから様々なことを学ぶのです。
そのため、欲求を否定する必要はありません。
欲求を除外しようと努める人(修行僧や宗教家など)がいますが、そのような極端な方法に訴える必要はありません。
しかし、欲求には変化が生じます。
人は、その変化に従って生きなければなりません。
心が求めないものを追いかける必要はないのです。
消えゆく欲求に執着する必要もないのです。
あなたは、自分自身が所有する欲求に注意しましょう。
それがどのような状態であるのか?ということを注意深く観察しなければなりません。
そして、いつまでも同じことを繰り返していてはならないのです。
欲求が途絶えているにもかかわらず、それをいつまでも追い求めていては、必要な学びを実現することができずに、苦悩を得ることになるのです。
人は、欲求に従って生きなければなりません。
そして、いつかは消失する欲求に頼ってはなりません。
失うものは必要のないものであるということを理解する必要があります。
肉体の衰えと共に、欲求の性質にも変化が訪れます。
肉体の衰えと共に、睡眠欲は減退します。
食欲も性欲も、所有欲も自己顕示欲も減退するのです。
しかし、知識欲には限界がありません。
人は、どれだけ歳を取ろうとも、知識欲だけは衰えないものなのです。
それは、人生の目的が魂の成長にあるからです。
肉体は衰えるのが自然です。
しかし、魂は衰えることがありません。
どれだけ歳を取ろうとも、魂に衰えはないのです。
魂は常に成長を求めています。
そのため、最後まで存在する知識欲(成長意欲)に対して、今のうちから集中しておきましょう。
肉体の衰えと共に失われるような欲求に対して、いつまでもしがみ付いていてはならないのです。
最終的に、人は純粋に知性を追い求めるようになるのです。
その他の欲求は必ず止みます。
人生の意味が何にあるのか?ということを深く考えましょう。
欲求を選別しましょう。

2015年4月20日月曜日

独自の生き方

人生にはそれぞれに与えられた目的というものがあります。
それは、人それぞれに違うものであり、その人に対して特別に与えられた役割でもあります。
人は、自らに与えられた役割を果たし、目的を達成する必要があるのです。
どのような人物にもそれは当てはまります。
すべての人が自らの役割と目的を達するために生きているということを理解する必要があるのです。
人生における役割と目的は、それぞれに違うために、その模範が存在している訳ではありません。
人生における自分自身の役割と目的がどのようなものであるのかは、自分自身の力によって探し出さなければならないのです。
誰かがあなたの人生における役割と目的を教えてくれるということはありません。
それは、他人には理解することができないからです。
人は自分自身のことで精一杯です。
自分自身の役割と目的も日々変化しています。
それは、より良いものとしての形を取るのです。
人は、自分自身を探求し、そこに存在する役割と目的を見付け出さなければならないのです。
大切なのは、自分自身の生き方を確立することです。
しかし、これには大きな障害が立ちはだかります。
それは、”全体意識”というものです。
人は共感性を所有しています。
共感性は、それぞれの独立した個人が協力するために必要な性質です。
そのため、共感性を否定することはできません。
共感性は決して悪いものではありません。
しかし、その性質を理解することもなく、その力に翻弄(ほんろう)されてしまっては、大きな弊害となるということを理解する必要があるのです。
多くの人は共感性の本当の力を理解してはいません。
そのため、共感性によって利益を得ることができてはいないのです。
共感性とは、それぞれの異なる個性を一つにまとめる力です。
共感性によって、人は一つの目的を達することができるのです。
機械の部品はそれぞれに違う形をしています。
それぞれが違う形であることに意味があるのです。
すべてが同じ形をしているのであれば、機械が目的のために機能することは有り得ません。
それぞれが違う形をしているために、複雑な働きによって、高度な目的を達することが可能なのです。
機械は共感性によって結び付いています。
人は地球(自然界)における一つの部品です。
すべての存在が一つ一つの部品であるということを理解する必要があるのです。
それぞれが別々の役割を以て、一つの目的のために働いているということを知っておきましょう。
この事実を忘れてしまうと、役割を果たすことも、目的を達することも忘れてしまいます。
そこに生じるのは利己主義であり、混乱が導かれるのです。
それぞれが正しく機能しなければ、全体が機能しないのです。
部品が故障するのであれば、機械は不良品となるのです。
不良となった部品は交換され、投げ捨てられます。
あなたは地球の一部であるということを理解しましょう。
すべての存在が必要な役割と目的のために生まれたのです。
あなたは個人ではありますが、全体のために生きているということを理解する必要があります。
このことを忘れて幸福を得ることは不可能です。
自分自身の生き方を探し求めましょう。
他人の意見は参考としては重要ですが、あなたの生き方を決めるものではありません。
また、あなたの意見は他人の生き方を決めるものでもないのです。
共感性を誤った方法によって用いてはなりません。
無知という誤解が導くのは苦悩であるということを覚えておきましょう。
人はそれぞれに与えられた役割と目的を持ちます。
それは他人とは違うものであるために、その違いに戸惑うこともあるでしょう。
しかし、それは仕方のないことであるのです。
心の赴(おもむ)くままに生きましょう。
他人の意見を柔軟に捉えながらも、信念を絶やしてはなりません。
独自の生き方があるはずです。
それを探し続けましょう。

2015年4月19日日曜日

広大な世界

人生とは探求の道です。
あなたは、人生を探求しなければなりません。
人は、人生を探求し、そこに隠されている”秘技”を習得しなければならないのです。
それが人生を理解するということであり、豊かさや幸福と呼ぶものであるのです。
ただ、欲望と快楽に溺れて生きることが、人生ではないのです。
人生とは、そのように”浅い”ものではないのです。
一生を掛けて探求し、それを探し求めなければ理解することはできないのです。
あなたは常に人生を考えていましょう。
そして、目の前の状況が何を現しているのか?ということを熟考するのです。
目の前の状況が持つ意味すら理解することができずに、どうやって人生を理解するというのでしょうか?
個を理解することもできずに、全体を理解することなどできるはずがないのです。
あなたの人生とは、あなたの生きる時間です。
それは、目の前に現れます。
あなたは目の前の状況を見て、それがどのような意味を持つのか?ということを追求しましょう。
一つ一つのことを追求していった後に、それが全体として何を意味しているのか?ということを理解することができるでしょう。
一日を懸命に生きることができない者には、一年を充実させることはできません。
一年を懸命に生きることができない者には、一生を充実させることはできないのです。
ただ、懸命に生きるというのは、我武者ら(がむしゃら)に生きるということではありません。
懸命に生きるというのは苦行ではないのです。
穏やかに在ること、楽しく在ること、温かく在ることなど、無理を生きるということではないのです。
穏やかに在っても懸命であるということを理解しましょう。
あなたは穏やかに人生と向き合わなければなりません。
苦しみに会った時に心が乱れているのであれば、それが持つ重要な意味を理解することはできないのです。
苦しみに会った時に心が穏やかであるのならば、それが持つ重要な意味を理解することも難しくはないのです。
道を追求するためには、穏やかに向き合う必要があります。
乱れた心で何かに向き合ったところで、何一つ理解することはできないのです。
大切なのは、冷静に捉えるということなのです。
欲望と快楽が見せる妖艶(ようえん)な世界に魅了されてはなりません。
いつの時にも冷静に在るのです。
そして、自分自身の目的を保つのです。
何のために人生を生きているのですか?
人生とは何ですか?
それ等は重要な問いです。
この問いに対する答え無しに、どうやって人生に豊かさと幸福を導くというのでしょうか?
自分がどこにいて、何をしているのかも分からないのに、どうやって充実を得るというのですか?
道に迷ってしまえば、苦悩が導かれるだけなのです。
多くの人が人生に苦悩を得ます。
それは、人生という道に迷っているからです。
自分がどこにいて、どこへ向かえば良いのかも分からないままに立ち尽くしているのです。
人は時間を消費しながら生きていますが、それは生物として地上にとどまっているだけであって、人生を生きているとは言い難いのです。
歳を経て、肉体が衰えたとしても苦悩を得る者がいます。
苦悩を得るということは、人生が充実してはいないということです。
それは、人生の意味を理解してはいないということの証明です。
人生の意味を理解しているのであれば、どうして苦悩を得ることになるでしょうか?
人生の意味を理解しているのであれば、選択に間違うことはないのです。
選択に間違うことがなければ、人生は正しく導かれ、あなたに喜びを導くのです。
その選択が間違っているために、苦悩を得ることになるということを理解しましょう。
人生を探求しているのであれば、その選択が間違うということは少なくなります。
時間の経過と共に苦悩が消滅するのが、人生における自然の形であるのです。
人生を探求することがなければ、苦悩が消滅することはありません。
あなたは人生を探求し続けなければなりません。
人生に終わりはありません。
あなたは一生涯、それを探求し続けることができます。
あなたが百年間生きたところで、人生の全体を理解することはできません。
あなたが理解することができるのは、それでも人生の一部だけであるのです。
それ程、人生は膨大な情報を持つ広大な世界であるということを理解しましょう。
懸命に生きなければなりません。
人生への探求を忘れてはなりません。
欲望と快楽に溺れないように気を付けましょう。
生きる目的を見失ってはなりません。

2015年4月18日土曜日

信仰の対象

人は、他人と共に生きなければなりません。
人は、自分でない他人との共存の中に人生を築きます。
他人との人間関係を築くことなく生きるのは不可能です。
すべての人が自分でない他人との人間関係を必要としています。
それがどのような人物であろうとも、人間関係を構築する必要があるということを理解しましょう。
人生において、人間関係を放棄することはできません。
人が生きるためには、人間関係が必要不可欠であるということを理解する必要があるのです。
人は独りで生きることはできません。
あなたはそれを認めなければなりません。
あなたがもしも、独りで生きていける、もしくは、独りで生きているなどと考えるのであれば、それは無知による愚かな見解であるということを理解する必要があるのです。
どのような人物も、独りでは生きていくことができないのです。
あなたは、嫌でも人間関係を構築する必要があります。
人生において、人間関係とは重要な要素です。
これを蔑ろにして、豊かさを得ることはできません。
人は生まれた瞬間には(厳密には母の胎内から既に)、人間関係を所有します。
すべての人が自分ではない他人から生まれたのです。
あなたの肉体は、父と母の遺伝子を引き継いでいるのです。
父と母という自分ではない他人との人間関係が存在しなければ、あなたという存在が人生を歩むことはできなかったのです。
人間関係を否定することのできる人など存在しません。
すべての人が人間関係を所有しているということを理解しましょう。
しかし、あなたには人間関係を選ぶ権利が与えられています。
あなたは賢く他人と付き合う必要があります。
賢く立ち回らなければ、人間関係において苦悩を得ることになるのです。
人間関係はあなたを助けるものでなければなりません。
あなたの考える”良い悪い”に関係なく、それがあなたの成長にとって有益でなければならないのです。
人生の目的は成長にあります。
そのため、人間関係が成長に関連するように努める必要があるのです。
しかし、これは、自分にとって有利な人物を選別することによって、優位を得るということではありません。
”良い悪い”は関係なく、その人間関係を成長の糧(かて)にする方法を確立する必要があるということです。
人間関係を成長の糧にするためには、相手のことを理解する必要があります。
相手のことを知らなければ、自分がどのように立ち回るべきなのかを理解することができません。
それが分からなければ、成長を実現することはできないのです。
あなたは相手を理解するように努めましょう。
相手を理解するために必要なのは何ですか?
あなたは何によって相手を理解するのでしょうか?
相手の地位や立場によってですか?
相手の容姿によってですか?
相手の言動によってですか?
詐欺師は、笑顔で嘘を吐きます。
相手の地位や立場、容姿や言動によって、あなたは詐欺師を見分けることができるでしょうか?
相手が詐欺師であると理解しているのであれば、その人間関係において成長することは可能です。
しかし、相手が詐欺師であることを理解していなければ、その人間関係において苦悩を得ることは必至であるのです。
あなたが相手を理解するためには、その信仰が何に向けられているのか?ということを見極めるように努めましょう。
地位や立場、容姿や言動は、簡単に偽ることができます。
しかし、自らが信じ仰(あお)ぐ対象を偽ることはできません。
人は信仰に従って行うのです。
どれだけ狡猾(こうかつ)に偽っても、信仰を隠し通すことはできないのです。
信仰は必ず表に現れます。
あなたは相手の信仰の対象が何であるのか?ということを考える必要があるのです。
信仰の対象を理解すれば、それがどのような理由で導かれる行為であるのか?ということを理解することができるでしょう。
相手の行為を理解することができれば、自らの対応も良いものとなるのです。
人間関係で大切なのは理解力です。
あなたは相手を理解する必要があります。
相手の信仰の対象を見極めましょう。

2015年4月17日金曜日

人は何のために生まれたのでしょう?
人は何のために生きているのでしょう?
あなたが人である以上、この答えを問い続けなければなりません。
人は自分自身を探さなければならないのです。
自分自身が何のために生まれ、何のために生きているのか?ということを知らずに生きるのは苦痛です。
何をしているのか分からずに生きることは苦痛であるのです。
あなたは幸福ですか?
幸福だと答えた人は、自分が何のために生まれ、何のために生きるのか?という問いを前にしても、同じ考えでいられるでしょうか?
多くの人は、最も重要な問いに対する答えに蓋(ふた)をして生きています。
そのため、人生から現実逃避しているのが現状です。
問題を見ないようにして幸せだと思い込むのは簡単です。
自分を偽り、嘘によって幸せを捏造(ねつぞう)すれば良いだけなのです。
嘘を吐くのは簡単なのです。
しかし、嘘によって得られる幸せは、同じように嘘であることには変わりないのです。
人生の意味を理解することなく、他の何かに対して人生の幸福を頼ったとしても、それによって真の幸福を得ることはできないのです。
財産や人間関係に幸福の答えを探したところで、そのようなものがあなたに人生の幸福を導くことはありません。
物質によっては、一時の快楽を得られるだけであり、それによって何のために生まれ、何のために生きているのか?という問いに対する答えを得ることはできないのです。
この答えに到達する以外の方法によって、人生の幸福が得られるということはないのです。
人生の幸福を実現するためには、何のために生まれ、何のために生きているのか?という問いの答えに向かわなければならないのです。
人生を深く考える必要があります。
財産や人間関係などの表面的な価値に捉われてはなりません。
あなたは財産や人間関係を増やすために生まれて来たのですか?
そのために生きているのでしょうか?
財産や人間関係を生涯に渡り、増やし続けることは可能でしょうか?
それ等を増やした先には何があるというのでしょうか?
それ等は一瞬で失われる可能性があります。
いつまでも所有することは不可能であるのです。
人が生まれ、生きる理由が、本当に財産や人間関係を増やすことなのでしょうか?
あなたは本当にそうだと思いますか?
財産と人間関係を増やすことによって、あなたは本当に幸せなのでしょうか?
それが失われた時にも幸せなのでしょうか?
あなたには忘れていることがあるのです。
あなたが生まれた理由は何ですか?
あなたが生きている理由は何ですか?
あなたはこれ等を知らない訳ではありません。
あなたはこれ等を忘れてしまったのです。
思い出せば良いのです。
それは、心の奥深くに仕舞い込まれています。
そこに自我(我欲)という蓋がしてあるのです。
あなたが何のために生まれ、何のために生きるのか?という答えを知るためには、自我という心の蓋を取り払わなければならないのです。
自我によって隠されているのであれば、人生の意味を理解することはできないのです。
あなたは、財産や人間関係などの人生における表面的な価値に集中してはなりません。
それ等は地位や名誉や容姿程度のものです。
そのようなものを基準に考えれば、本当の価値を理解することができません。
地位や名誉や容姿を失ったとしても、あなたは幸福である自信がありますか?
多くの人はそうは思いません。
そのため、老人になれば様々なことに対して絶望するようになるのです。
すべてを失った時にも幸福であることが真です。
すべてを失って不幸であるのならば、それは真ではないのです。
あなたが頼りにしているものを失う可能性は常にあるのです。
あなたは頼りにしているものを手放すことができますか?
人生の意味を理解していない人は縛られます。
何のために生まれ、何のために生きているのでしょう?
すべてを失ったとしても”失われない”ものが真です。
そのことを理解しましょう。
真を探さなければなりません。
あなたは何のために生まれ、何のために生きているのでしょうか?

2015年4月16日木曜日

無意識的な選択

人生には無限の可能性が用意されています。
あなたは、無限の可能性の中から、自らの意思選択によって自由に選ぶことができるのです。
あなたの選択が次の状況を築きます。
人生はあなたの意思選択の結果であるということを理解する必要があるのです。
しかし、あなたはそれを否定するかも知れません。
人生の苦悩に対して、そのようなものを選択したつもりはないと反論するでしょう。
人生とは魂の繁栄です。
あなたの魂の中に所有しているものが心に投影され、心に映ったものを思考して実行するのです。
あなたには魂を客観することはできません。
そのため、心を見る必要があります。
心の反映こそが人生であるのです。
あなたは意識的、無意識的に人生を選択しています。
意識的に選択している時には、結果に対して納得することもできるでしょう。
しかし、無意識的に選択している時には、その結果に対しての納得はできるはずもないのです。
重要なのは、無意識的に選択しているということを理解することです。
自分の中に無意識という状態が存在するということを理解しなければ、人生を理解することはできないのです。
あなたは意識的にどれだけの意思選択を行っているでしょうか?
論理的に選択していることがどれだけありますか?
あなたがそのように考える理由は何ですか?
あなたがそのように言う理由は何ですか?
あなたがそこへ行く理由は何ですか?
あなたがそれを実行する理由は何ですか?
あなたがそのように生きる理由は何ですか?
あなたには一つ一つを論理的に説明することができるでしょうか?
説明できることが意識的な意思選択です。
しかし、あなたには自分の行為であっても、説明することが難しいものがあります。
なぜ、そのように考え、そのように言い、そこへ行き、それを実行し、そのように生きるのか?
自分がなぜ、そのようにしたのか、説明することができないものが幾つもあるはずなのです。
それは、無意識の意思選択であるのです。
人は必ずしも意識的に生きている訳ではありません。
無意識の選択が存在している以上、無意識的に生きているという状態を所有しているのです。
そのことを考慮しなければなりません。
自分自身の無意識的な選択を考慮することもなく、状況に対して対応するのは、誤解を導く原因となるからです。
無意識の選択であるのならば、あなたはそれを自覚することはできません。
あなたは自覚なく、人生を築いているのです。
そのため、あなたには覚えのない状況が導かれることになります。
その状況に対して驚愕(きょうがく)し、苦悩を覚えるのです。
例え覚えがなくても、目の前に導かれる状況があなたにとって無関係であることも、無意味であることもありません。
すべてはあなたの成長のために導かれる重要な学びであるからです。
すべてがあなたにとって関係のあるものであり、重要な意味を持つものであるということを理解しましょう。
それがあなたには信じられないような状況であろうとも、それを受けるのには理由があるのです。
同じように生きても、他人と同じ苦悩を受けることはありません。
しかし、違うように生きても、他人と同じ苦悩を受けることがあります。
なぜでしょうか?
それは、人生に対する影響力を持つのが、意識的な選択だけではないからです。
あなたは他人と同じようにしていても、無意識の状態は違う選択肢を実行します。
他人と違うようにしていても、無意識の状態は同じ選択肢を実行するのです。
人生を考える時には、意識下と無意識下の両方を捉える必要があるのです。
人生には選択の組み合わせによって無限の可能性が導かれます。
あなたの意識的な選択と無意識的な選択の組み合わせによっては、信じれらないような状況を得ることになります。
受け取った状況を理解することができず、それを受け入れることができなければ、それが苦悩として残るようになるのです。
そのため、人はどのような状況も一度受け入れてみてから、熟考する必要があるのです。
そうでなければ、なぜ、その状況が導かれたのか?という大切な理由を理解することができないのです。
無意識的な選択を考慮しない人は、状況を否定的に捉えて拒絶します。
しかし、それでは何の進歩もないのです。
自分自身を深く捉えましょう。

2015年4月15日水曜日

成長の機会

人生とは、成長のための場所です。
人は、人生において成長を実現する必要があります。
すべての人が成長するために生きているのです。
あなたはその事実を忘れてはなりません。
いつの時にも成長を目的としていなければならないのです。
自らが成長する必要があるということを忘れてしまうと、人生には苦悩が引き込まれることになるのです。
成長するという目的に従って生きることが、人生に苦悩を引き込まない秘訣(ひけつ)です。
多くの人は、人生の目的を知らずに生きています。
自分が人生を生きていることすら意識することなく、ただ惰性(だせい)によって時間を過ごしているにとどまる人がいます。
興奮や快楽に対して集中し、人生を考えることを否定します。
そのため、興奮や快楽によって一時の安らぎを得たとしても、後になって当たり前に導かれる苦悩に遭遇してしまうのです。
興奮や快楽に逃げたところで、成長を実現することはできません。
あなたが一生を遊んで暮らしたとして、どのような成長が見込めるでしょうか?
苦しいことや難しいことから逃げ続けているのであれば、成長は現実的ではないのです。
苦しいことや難しいことに向き合い、それに対する印象が苦しみや難しさから離れる時に始めて、成長が実現するのです。
何かに対して同じ反応を示しているのであれば、それを成長ということはできないのです。
成長とは、変化の先にある向上であるということを覚えておかなければなりません。
人生には苦しいことや難しいことが付き物です。
それは、人生が成長のための場所であるからです。
成長するためにこそ人生が存在しているのです。
そのため、苦しいことや難しいことに出会わないのは不自然であるということを理解する必要があるのです。
苦しいことや難しいことを問題と言います。
問題に出会うことが、人生における”普通”です。
問題に出会うことを嫌悪する人がいますが、そのような対応は適当であるとはいえません。
問題に出会った時には、それが成長の機会であるというように思う必要があるのです。
しかし、問題とは、あなたにとっては苦悩の対象であるのです。
それは仕方のないことです。
誰にとっても、問題は苦悩であるのです。
しかし、あなたは問題を苦悩として処理してはなりません。
問題は、自分自身の問題点を示しているです。
誰かや何かのために問題が生じているのではありません。
そのように見えるかも知れませんが、それは本質ではありません。
人生におけるすべての問題の原因は、自分自身にあるということを知りましょう。
そのことを理解しなければ、問題によって苦悩することは避けられないのです。
本質を見誤れば、対応も誤ります。
間違った方法によって対応すれば、間違った結果を得ることになるのです。
どのような問題であったとしても、それを嫌悪してはなりません。
問題とは、あなたの不足を教えてくれる重要な情報であるのです。
あなたの不足を知らせている問題を拒絶するのであれば、あなたの成長の機会は奪われることになるのです。
誰かの警告には耳を貸さなければなりません。
警告とは、相手のために発せられる注意なのです。
自分のための注意を聞き入れなければ、問題に向かうのは当然なのです。
人生はあなたに警告しているのです。
それがあなたの向き合うべき問題であるということを知らせています。
あなたが問題に出会った時には、それが自分に対する警告であり、自らの不足を考える必要があるということを覚えておきましょう。
人生とは成長の場所です。
多くの人はそのことを忘れています。
問題とはあなたにとってのチャンスであるのです。
成長を実現するためには、問題に向き合わなければなりません。
逃げることも自由ですが、問題に向き合い、それを多少なりにも解決に向かわせなければ、問題の消失はないのです。
人生は成長のために存在しているので、問題を解決しないままに時を過ごしても、違う状況によって同じ内容の問題が導かれるのです。
成長からは逃れられないのです。
問題が起きることを喜びましょう。
それは、あなたの成長する機会であるからです。
問題が起きないことを不審に思いましょう。
それは、停滞か後退を導くからです。
問題を友好的に受け入れましょう。
目的は成長であるために、逃げても無駄です。
問題を解決するためには、自身が成長する以外に方法はないということを覚えておかなければなりません。

2015年4月14日火曜日

変わるもの

すべての人は未熟です。
人は未熟であるが故に、この世界に学んでいるのです。
人が乳飲み子から始めて成人していくのは、人が未熟であるということを理解し易いように見せているのです。
しかし、多くの人は成人した時に、自分が乳飲み子であったことを忘れています。
そのため、自分が未熟であるということも忘れているのです。
しかし、すべての人が未熟であることには変わりないのです。
どれだけの経験を重ね、どれだけの歳を経ようとも、自分自身が何者であるのかすら知らないのですから、未熟であることは否めないのです。
あなたは自分が達観しているなどと考えてはなりません。
自分が優れているなどという誤解を抱いてはならないのです。
間違った解釈が、間違った行為を招き、やがて苦悩を引き起こすのです。
人は常に自分自身の部を弁(わきま)える必要があるのです。
分際(ぶんざい)を見誤れば、苦悩を受けるのは当然の結果であるのです。
自分が優れているなどとは、一生考えないことです。
あなたがどのような人物であろうとも、どれだけ成長しようとも、未熟であることには変わりがないのです。
若くして頭角を現わす者がいます。
そのような者は分際を見極めることができずに傲慢(ごうまん)に陥ります。
歳を経て、自分が物知りになったと考える者や、地位の高まりによって自惚れている者がいます。
そのような者は、ただ時の経過を経ただけだということに気が付きません。
ただ長く生き、世間のやり方に順応しただけでどうして優れているというのでしょう?
人が人である以上は、未熟であるということを理解する必要があるのです。
すべての人が成長を目指す必要があります。
成長とは、言動が知恵に導かれるということです。
生き方が貢献に傾くことです。
人格(心)が寛大になることです。
それ等によって、魂が向上することです。
人は魂の向上を目指さなければならないのです。
しかし、魂という本質を客観することはできません。
そこで、言動や生き方や人格の変化によって、自らの成長の状態を理解する必要があるのです。
あなたは自分自身を客観する必要があります。
そうすれば、自分自身の状態が未熟であるという結論に至るはずなのです。
自分自身を客観視して、未熟ではないという結論に至るのであれば、それは自己を正当化しているか、美化しているに他なりません。
未熟ではない人は存在しないのです。
そのことを覚えていなければならないのです。
あなたにとって最も簡単なのは、その言動が変化することを客観することです。
言動は思考の変化によって導かれる結果です。
考え方の変化によって、言動にも変化が訪れるのです。
考え方とは意見です。
意見は変わるのが”普通”です。
しかし、自らの意見が変わることに罪悪感を覚えている人がいます。
そして、他人の意見が変わることに嫌悪感を抱く人もいるのです。
意見が一貫していることは重要ですが、経験を経た後に意見に変化が見られないことには注意が必要です。
それは、未経験の状態と経験を経た状態では、自分自身の状態は違うはずだからです。
どのような経験を経るにしても、人は成長するのが”普通”です。
経験を経ても成長しないというのであれば、それは異常な状態であるということを理解する必要があります。
以前から意見を変えない人がいます。
経験を経た後では、意見が変わることが”普通”です。
同じ対象を支持しているという根幹の意見は変わらないにしても、その対象に対する見解は変わるはずなのです。
しかし、頑(かたく)なに自分の意見や態度を変えない人がいるのです。
それは、歪んだ信念によってか、未成長の結果であると言えるでしょう。
意見が変わることを恐れてはなりません。
相手の意見が変わることも理解する必要があります。
それは、あなたを含め、すべての人が未熟であるからです。
変化しないということは、成長しないことであるということを理解しましょう。
あなたは変化という成長を大いに楽しみましょう。


2015年4月13日月曜日

自然の姿

始まりがあれば、終わりがあります。
それは変えることのできない世界の流れです。
すべての存在は、始まりによって誕生し、終わりによって死滅するのです。
始まりに対して、終わりを否定することはできません。
すべての始まりには終わりが付属し、それを引き離すことはできないのです。
そのため、この世界においては、始まりを得た瞬間には終わりを覚悟しておく必要があるのです。
終わりを受け入れることなく、それを豊かさへと導くことはできません。
終わりを受け入れることができていない始まりは、正しい完結を得ることができないのです。
終わりを受けることによって、その始まりが価値を持つということを理解する必要があるでしょう。
この世界に、死を得ない肉体が存在するでしょうか?
すべての肉体は死を経験します。
死を経験しない肉体は存在しません。
すべての肉体が死を得るのです。
あなたは乳飲み子から始まり、昏睡(こんすい)に至ります。
乳飲み子の時からは無理であっても、物心付いた時から死を受け入れて生きていくのであれば、その後の結果は違うものになるのです。
死を受け入れて生きていけば、考え方が変わります。
常に死と共に生きているのであれば、命を粗末に扱うような真似はしないのです。
安易に時間を無駄にすることもなければ、怠(なま)けることもありません。
苦悩の内に迷うこともなければ、絶望の淵に立ち竦(すく)むこともないのです。
死を受け入れていれば、生を活かすことができるのです。
人がいつ死ぬか分からないということを意識するのであれば、自分自身が”くだらないこと”に時間と労力とを集中させているということにも気が付けるのです。
そして、懸命に生きる気持ちが高まり、本当に”価値のあること”に対して時間と労力を集中させるようになるのです。
価値のあることに対して行為するのであれば、価値のある状況が得られるのです。
価値のある状況は豊かな人生を導く原因となるのです。
価値のある状況は、死を受け入れて懸命に生きる者にこそ導かれるのです。
無知によって”くだらないこと”に没頭してはなりません。
あなたは何のために人生を生きているのですか?
”くだらないこと”のために生きているのではないでしょう?
死を受け入れずに生きる者は、自分が何のために生きているのか?という判断ができません。
それは、決して逃れることのできない現実である死を受け入れずにいることによって、世界を歪めて捉えてしまうのです。
終わりが訪れることを知っていながら、それを否定することによっては、現実が歪んで投影されることになるのです。
死を逃れる肉体が存在しないように、終わりのない始まりも存在しません。
すべての始まりには終わりが付き添い、それが自然の姿であるということを理解することが必要であるのです。
始まりを受け入れながら、終わりを否定するのは間違っています。
しかし、多くの人はこの状態にあります。
始まりは認めることができても、終わりについては否定するのです。
しかし、大切なのは終わりを受け入れることです。
そうすれば、出来事に対して心を乱すことがなくなります。
終わりを受け入れることによって、その状況を愛することができるのです。
死を以て人生を眺めれば、目の前の小さなことや苦しいことに対して、喜びが生じるということを覚えていなければならないのです。
何かが終わりを迎えたからといって、取り乱す必要はありません。
終わるのが自然の形です。
寧(むし)ろ、終わりを迎えなければ、始まりは得られません。
幼虫が蛹(さなぎ)の姿を取り、成虫の姿を得るように、古い状態を捨てなければ、新たな状態を手に入れることはできないのです。
終わりによってのみ、始まりが導かれるのです。
多くの人は懸命に終わりを食い止めようと”無駄”な努力を試みますが、、それによって新たな始まりを阻害しているということを理解する必要があるのです。
新たな始まりとは、進化であり、進歩発展、成長や向上と呼ばれるものです。
終わりを受けること以外には、より良い始まりは受けることができないのです。
そのため、終わりに嫌悪を抱く必要はありません。
終わりとは、良いことであるということが言えるのです。
安易に考えてはなりません。
この世界には不要なものは存在しません。
そこに価値を見出すことができなくても、それは価値に溢れているのです。
すべての始まりには、それが誕生した瞬間から終わりを所有し、そこへ向かって進んでいるということを理解する必要があるでしょう。
始まりと終わりを受け入れなければなりません。
それが、自然の姿なのです。

2015年4月12日日曜日

至高の存在

この世界を創造したのは”神”です。
”神”とは「すべて」です。
この世界に存在するすべてが”神”であり、すべてが”神”の現われであるのです。
あなたは、この世界の一切が”神”であり、”神”によって創造されたということを理解する必要があるのです。
人間は”神”を研究しています。
それは、一生を捧げたとしても有意義な研究です。
すべての学問が”神”を別の方向から研究しているに過ぎません。
そのため、すべての学問が”神”を求めているのです。
すべての人間が、何等かの形で”神”を追い求めています。
何を研究しようとも、人は”神”とその力に触れることになるのです。
あなたはそのことを覚えていなければなりません。
そして、その事実を受け入れる必要があるのです。
この世界が”神”によって創造されたことを受け入れることができない傲慢な人間は、”神”の存在とその力を否定します。
そして、自分自身が崇高な存在であるという間違った解釈に至り、その思想を歪めていくのです。
人は謙虚に在るべきです。
謙虚さを忘れてしまえば、本質である”神”から遠ざかることになります。
すべてを”神”が創造したのだから、それから離れることによっては、途方に暮れることになるのです。
”神”から離れてしまえば、理解からも離れることになります。
それでは、自分が何をしているのか?さえ理解することができないのです。
多くの人は”神”から離れています。
そのため、善悪という偏見によって争うのです。
すべては”神”であり、”神”の創造物であるのです。
それを善悪によって分裂し、悪として攻撃するのであれば、即ち”神”を分裂し、”神”を攻撃していることに他ならないのです。
それは、”神”に対する否定以外の何ものでもないのです。
あなたは偏見を抱えて争っています。
それは、”神”という至高の存在を信じてはいないからです。
これは宗教ではありません。
宗教のように善悪を決め付けてはならないのです。
宗教という未熟な考え方は、世界に対する誤解を生む原因となっているのです。
すべての存在を大切にすることが、”神”を信じるということなのです。
人生には苦しいことがあります。
多くの人はそれを否定します。
しかし、苦しみであれ”神”が創造したのです。
それは、あなたの成長にとって必要不可欠な要素であるために導かれたのです。
必要がなければ、あなたに導くことなどないのです。
この世界は、至高の存在である”神”によって創造されたのです。
目の前のそれが、あなたにとってどのようなものであるのか?ということを、どうして人間に判断することができるでしょうか?
人間は、この世界のことをほとんど理解してはいないのです。
地球という小さな星の中でさえ、理解してはいないのです。
あなたは自分が何者であるのかを知っていますか?
あなたは誰ですか?
今回の人生の名前を以て、それが自分であるなどという安易な考えを抱いてはなりません。
あなたには、自分が何者であるか?すら分からないのです。
どうやってあなたが生きているのか?
生命はどうやって生まれるのか?
肉体がどうやって動いているのか?
あなたには答えられますか?
それ等も含めて”神”の創造物(創造力)であるのです。
最も近いことすら知らないにもかかわらず、傲慢な態度によって生きてはならないのです。
苦しいことに会っても、安易に苦しいと断定してはなりません。
あなたの目の前の状況は、至高の存在である”神”によって導かれるのです。
あなたに苦しみを与えるためなどという低次な目的のために、”神”が働くことなどないのです。
すべてはあなたを成長させるための働きであるということを理解する必要があるでしょう。
しかし、あなたは自由に選べば良いのです。
人生は苦行ではありません。
あなたの受け取り方や対応が未熟である場合には、苦しみに向き合うことによって、それは増大します。
それによって、心に否定的な反応を設定してはならないのです。
無理をする必要はありません。
ただし、すべてを”神”が創造したことを忘れてはなりません。

2015年4月11日土曜日

現状の否定と過去の美化

人生の目的は成長です。
人は成長を実現する必要があるのです。
思考の成長、心の成長、行為の成長、人格の成長、人生の向上、魂の成長・・・
成長しなければならないものは無数に存在しているのです。
あなたは、人生における時間と経験の中で、すべてを成長へと導く必要があるということを覚えておきましょう。
人生には様々な経験が訪れますが、そのすべてが成長に関するものです。
成長を実現するためだけに、その状況が導かれるのです。
人生において、成長に関係のないものは存在しません。
それがどのようなものであろうとも、成長に関係しているものであるのです。
成長に関係しているということは、それはあなたにとっては有益なものであるのです。
しかし、多くの人は自我によって判断するために、本当は有益に働くものに対して、嫌悪と拒絶という誤った選択を取るのです。
成長に必要なものを拒否しているのであれば、成長が実現することはありません。
成長を実現するためには、”必要”を否定してはならないのです。
成長を実現するためには、過去に執着してはなりません。
過去とは古い形態です。
古い形態に執着するのであれば、新たな可能性(形態)を得ることはできません。
新たな可能性こそが成長であるのです。
成長するためには、過去を手放す必要があります。
過去をいつまでも手放さないでいるなら、新たな可能性を受け入れることはできないのです。
新たな可能性を受け入れることができなければ、人生の目的を果たすことはできないのです。
しかし、多くの人は過去に執着します。
それは、過去の古い形態を信じているからです。
人は、信じることに従って行います。
行っていることを信じているのです。
過去がどのような形態であれ、それを信じているために執着しているのです。
しかし、過去がどのようなものであれ、現在に勝るものはありません。
多くの人は過去が素晴らしいものであると思い込んでいます。
しかし、それは適当ではありません。
なぜなら、過去は現在に比べて経験不足であるからです。
経験不足であるために、無知であり、未熟であることは否(いな)めません。
無知であり、未熟である状態は、人生の目的に反しています。
そのため、現在のあなたが過去に戻ることができたとしても、そこに待ち構えているのは苦しみであるということが推測(すいそく)されるのです。
人生において幸福を得るためには、成長した自己というものが必要不可欠であるのです。
成長した自己が存在しなければ、何を所有していたとしても幸福”だけ”は得られないのです。
そのことを理解する必要があるのです。
多くの人は安易に現状を否定します。
そして、安易に過去を美化しています。
しかし、その考え方は浅はかであるということを理解する必要があるのです。
大切なのは成長するということです。
古いものを捨てることがなければ、それは実現しないのです。
樹木が新芽を抱えると、古葉(ふるは)を落とします。
それは、古葉を落とすことによって、新芽を育むためです。
成長するためには、新たな可能性を得なければならず、新たな可能性を得るためには、古い可能性を手放す必要があるのです。
過去に執着したところで、あなたに有益なことは何一つとしてありません。
過去に対して幻想を抱いてはなりません。
これからのあなたにとって価値がないので、手の届かない場所に過ぎ去ったのです。
あなたの成長にとって価値のあるものは、すべてあなたの目の前に差し出されているのです。
そのことを理解する必要があるのです。
人生の目的は成長です。
古いものに執着してはなりません。
古いものを大切にしながら、新たな可能性を模索(もさく)するのです。
いつまでも幼い肉体や精神であれば苦悩を得ることになります。
新たな可能性によって成長し、成長することによって新たな可能性を手に入れましょう。
その繰り返しの積み重ねによって、人は幸福を得ることができるということを理解する必要があるのです。
古い思考、心、行為、人格、人生、魂を捨てましょう。

2015年4月10日金曜日

条件

この世界に実現するものは、それが実現するために必要な条件を満たしたものだけです。
条件を満たすことなく実現するものはありません。
それがどのようなものであったとしても、条件が満たされるために実現するのです。
条件を満たすのはあなたの意思選択です。
この世界には因果の仕組みが存在しますが、現れるものはすべてが結果であり、その結果を導くのが意思選択という原因であるのです。
何を得ようとも、それは自分自身に原因があるということを理解する必要があるのです。
その条件を自分自身で満たしたということを理解することがなければ、人生に対して苦悩を覚えるのは避けられません。
なぜなら、その現象がどのようにして実現したのか?ということを理解することができないからです。
その理由が分からなければ、混乱を引き起こします。
混乱によって目測を誤れば、広い道であろうとも崖に落ち込むことになるのです。
広い道を歩むのであれば、わざわざ崖に落ち込む必要はありません。
しかし、崖に落ち込むに相応しい条件を整えれば、それは簡単に実現することになるのです。
崖に落ち込みたくなければ、崖には近付かないことです。
谷底を覗き込むような真似をしなければ、あなたが崖に落ち込む可能性は少ないのです。
あなたの原因(意思選択)に反して、あなたが崖に吸い込まれるということはありません。
”何かの力(外的要因)”によって崖に吸い込まれるようなことがあるとするのであれば、”何かの力”を生じさせる条件を過去に満たしていたということになるのです。
それが、理解できないような事象であったとしても、実現することのすべてには条件が存在しているのです。
条件が存在しているために、実現するのです。
そのため、それはあなたにとっては理解することができないだけであって、この世界には存在する事象であるということを理解しましょう。
赤外線、紫外線、エックス線、電波などの不可視の存在を否定することはできません。
それは、今日に生きる者であれば、日常的に使用しているものであるからです。
携帯電話で通話をしておきながら、それを信じないというのはおかしな話なのです。
電波は不可視の状態です。
しかし、電波を発生させる装置と、それを送受信する機械という条件が整えば、不可視であろうとも実現するのです。
人生には信じられないようなことが起こります。
しかし、それは奇跡的に実現したのではありません。
奇跡などという曖昧(あいまい)なものは存在しないのです。
すべてが因果の仕組みによって、確実に導かれているのです。
その理由や過程を理解することができないだけであって、その理由や過程を否定することはできないのです。
人は目の前の事象を受け入れなければなりません。
あなたの認識が届かないだけであって、そこには必要な条件が存在しているのです。
それを自分自身で満たしておきながら、知らないというのは間違っているのです。
すべては自分自身の意思選択によって引き起こした当然の結果です。
そのことを覚えておかなければならないのです。
苦しみに会った時には、誰かや何かに頼ります。
それが実現する条件を整えたのが自分自身であるということを知らないのです。
そのため、目の前の苦しみに対してショックを受け、どうにかしてそこから抜け出そうと暴れるのです。
しかし、その苦しみが自らの引き起こした当然の結果であるということを知っているのであれば、心を乱すこともありません。
当然の結果であるということを理解しているのだから、覚悟を以て対応することができるのです。
逃げようと考えている者には、適切な対応はできません。
そのため、受け入れることのない者には問題の解決は実現せず、より大きな苦しみが導かれるのです。
問題を引き起こしておきながら、その責任を取らずに逃げるのであれば、許されることはないでしょう。
より大きな罪の報いを求められるに違いないのです。
あなたの財産を奪って逃げた相手に対して、あなたはどのように対応するでしょう?
それを自分自身の原因による当然の結果であると受け入れることができますか?
自らの考え方や生き方によって満たされた条件が実現したものであると信じることができますか?
それがどのような状況であれ、受け入れることができない者には苦しみが導かれます。
それは、必要な状況を否定するという新たな条件が満たされるためです。
必要を否定するのであるから、苦しむのは当たり前なのです。
人が肉体を維持するためには呼吸を繰り返す必要があります。
しかし、その必要を否定するのであれば、呼吸の停止と共に肉体的な苦しみを得ることになるのです。
必要を否定してはなりません。
実現するものがどのようなものであろうとも、それが現実であるということを忘れてはなりません。
可視の状態であろうと、不可視の状態であろうとも、人生の条件は常に満たされようとしているということを理解する必要があるのです。

2015年4月9日木曜日

壮大な力

自然界の一切は、太陽の力によって支えられています。
自然界のエネルギーは、太陽によって生み出されているのです。
自然界におけるすべての命が、太陽の力によって生み出されます。
太陽の力がなければ、自然界には命の繁栄は許されないのです。
自然界の本質が太陽であるということを理解する必要があります。
太陽の力によって地球は自転と公転を行います。
太陽の力によって水が生まれます。
太陽の力によって生命が生まれます。
太陽の力によってすべての生命は育まれます。
そして、太陽の力によって苦しみを与えられ、太陽の力によって死を得るのです。
太陽の力は偉大です。
太陽は自然界におけるすべての必要を与えてくれるのです。
太陽の力がなければ、地球上に植物は存在しません。
植物が存在しなければ、人間は生きてはいけないのです。
太陽の力は自然界の本質であるために、それを損なうことはできないのです。
自然界にとって、太陽は”愛”であり”光”です。
太陽は強く光り輝き、その壮大な力によって自然界を支えているのです。
人は自然界に育まれ、人生を生きているのです。
人(肉体)は太陽から生まれたのです。
人は人生を生きることができるのは、自然界のおかげであり、太陽の力のおかげなのです。
そのため、人は自然を尊敬し、太陽を崇拝(すうはい)する必要があるのです。
ただし、宗教という形をとって歪んではなりません。
自然と太陽を純粋に愛するべきであるのです。
そうでなければ、人生が豊かなものになることは有り得ないのです。
人生は自然によって支えられています。
しかし、多くの人はその”当たり前”にすら気が付いていません。
自分が人生を生きているのは、自分の力であるなどと思い込んでいるのです。
そして、傲慢(ごうまん)に支配された自我によって、自分勝手に生きるようになります。
その過程において、自然を破壊していくのです。
因果の仕組みは確実に自らに返ります。
人は、自らの行いに相応しい結果(状況)を受けなければなりません。
因果の仕組みから逃れることはできません。
あなたは自らの行いによって喜びもし、苦しみもするのです。
自然を蔑(ないがし)ろにすることは、自らの足場を崩す行為です。
足場を崩すのであれば、深い穴に落ち込んでしまうでしょう。
それでは豊かな人生であるとは言えないのです。
あなたは自然を大切にしましょう。
自然の本質である太陽は、”愛”と”光”を以て自然界とその中に生きるあなたを包みます。
太陽のように生きることによって、人は自然と共に生きることができるのです。
あなたが”愛”と”光”を以て生きれば、自然や自分自身や他人などのすべてを大切に扱うようになるでしょう。
太陽が自然界を愛しているように、あなたはこの世界(人生)を愛するようになるのです。
あなたは太陽のようでありましょう。
いつも人生を照らしていましょう。
喜びや楽しみを見出すのです。
自然や他人を包みましょう。
太陽が生命を生み出すように、あなたは新たな可能性を生み出し、人生を豊かなものにしましょう。
何があろうとも、”愛”と”光”を軽んじてはなりません。
空が雲によって覆われようとも、星の瞬(またた)く夜にでも、太陽は地球を照らし続けているのです。
苦悩を得ようとも、あなたは人生に感謝すること、喜ぶこと、楽しむことを忘れてはならないのです。
太陽からのエネルギーは、常に地球に届いています。
あなたの感謝の力は、常に人生に対して届いているのです。
今は曇り空であったり、夜空であろうとも、太陽は必ずあなたを照らすのです。
現状が如何に苦しくても、あなたは諦めてはなりません。
太陽が諦めたことはありません。
そのために、自然は豊かに育まれたのです。
あなたが諦めなければ、人生は豊かさを得るということを忘れてはなりません。
”愛”と”光”を大切にしましょう。
それは、壮大な力であるのです。

2015年4月8日水曜日

取引

欲深い者よ聞きなさい。
なぜ、あなたは恐るのですか?
欲深い者よ聞きなさい。
なぜ、あなたは争うのですか?
欲深い者よ聞きなさい。
なぜ、あなたは不安になるのですか?
欲深い者よ聞きなさい。
なぜ、あなたは欲するのですか?
欲深い者よ聞きなさい。
なぜ、あなたは落胆するのですか?
欲深い者よ聞きなさい。
なぜ、あなたは諦めるのですか?
欲深い者よ聞きなさい。
なぜ、あなたは絶望するのですか?
欲深い者は歪んでいます。
不足を感じるために、欲する気持ちが強調されるのです。
不足を感じるために恐怖に苛(さいな)まれるのです。
恐怖によって、利己的な考えが生じ、利己的な行為に及びます。
利己主義は苦悩を導きます。
自分勝手に生きることによっては、幸福を得ることはできないのです。
この世界において幸福を得るためには、誰かや何かを助けなければなりません。
貢献することがなければ、幸福が与えられることはないのです。
それがこの世界のルールであるのです。
利己的に生きることによって得られるのは苦悩です。
利己的に生きる者に対して、あなたはどのように思い、どのように対応するでしょうか?
利己的な者に対して、あなたは思いやりを以て接することができますか?
偽善者や詐欺師でなければ、それは難しいことなのです。
大抵の人は、利己的な者を許しません。
付き合うことによって損害を被(こうむ)ることが分かっている相手に対して、真剣に向き合う者はいないのです。
この世界を独りで生きていくことはできません。
況(ま)してや、独りで幸福を実現するなど不可能であるのです。
必ず誰かや何かの協力が必要となります。
誰かや何かとの繋がりを断ち切ることはできません。
この世界には因果の仕組みという名の”取引”が存在しているのです。
利己的に行う者に対しては、因果の仕組みは損害を与えます。
それは、利己的に行うことによって、”不正に”多くを受け取るからです。
受け取るのであれば、”取引”によって与えなければならない状況が導かれます。
与えることを拒否しているのであれば、強制的に奪われるのです。
欲深い者は常に受け取ることを考えています。
しかし、自分が与えることなどは考えていません。
与えることをしなければ、因果の仕組みによって奪われるのです。
利己的に生きた時には、その分強制的に奪われることになるということを理解しましょう。
正しい方法(相手に与えられること)によって得たものでなければ、”取引”が成立することはありません。
相手に与えられるためには、相手に対して先達(せんだっ)て与えなければならないのです。
欲深い者は正しい方法によって”取引”をしていないために、得たものよりも多くを奪われることになるのです。
欲深い者はそれを恐れているのです。
失うことを恐れているために、争い、不安になり、より欲し、落胆し、諦め、絶望するのです。
ネガティブな感情は、心の歪みから生じます。
心の歪みとは、欲深いことです。
知恵とは、欲の無いことです。
賢者はただ感謝するのです。
幸福を得る者は強欲に打ち勝つ者であるのです。
欲に心酔(しんすい)する者にとって、人生の幸福は難しいということを覚えておきましょう。
欲深い者よ聞きなさい。
自身の身の振り方について真剣に考えましょう。

2015年4月7日火曜日

幸福の正体

すべての人は幸福を求めています。
すべての人が、形は違えど、それぞれに求める幸福を持つのです。
誰もが自らの求める幸福を実現したいと願っているのです。
そして、その幸福を実現するために、自分なりに行動しているでしょう。
様々な考え方が存在します。
それは、人それぞれに許された自由です。
人は、自らの信じる考え方に従い、自らの求める幸福を実現しようと努めているのです。
しかし、すべての方法が幸福へと向かうということではありません。
幸福に対して不適切な方法もあるということを理解しなければなりません。
目的地に辿り着くためには徒歩を有する以外に方法はないにもかかわらず、いつまでも車に乗っていたとしても目的地に辿り着くことはできないのです。
幸福を実現するためには、それに相応しい方法を選択する必要があるということを理解しましょう。
幸福とは何でしょうか?
幸福とは、心境の状態です。
喜びを感じる状態の心を幸福というのです。
他人や状況や財産が幸福であるということはありません。
なぜなら、あなたがその人物、状況、財産を好ましく思っていたとしても、それに嫌悪する人がいるのも事実だからです。
しかし、喜びを感じる心の状態は誰にとっても幸福です。
このことから、幸福というものが心の状態であるということを理解することができるでしょう。
あなたが幸福を求めるのであれば、他人や状況や財産という外的な刺激に対してその役割を求めるというのは誤った方法です。
他人という外的な刺激に幸福を求めたとしても、他人との関係はいつかは終わります。
出会いがあれば別れがあるのです。
一生、あなたとの関係を続けることのできる人はいません。
相手が先に死を迎えるか、あなたが先に死を迎えるからです。
他人(人間関係)に幸福を求めたとしても、他人があなたを幸福にすることなどできないのです。
親兄弟であろうと、誰であろうと同じことです。
状況に求めたとしても、それ等がいつまでもあなたの所有物であるということはありません。
状況は刻々と変化を続けているからです。
財産に求めたとしても、財産との関係はいつかは終わります。
財産は簡単に手元を離れます。
詐欺師があなたの財産を狙っています。
その結果、自らの欲望によって財産を失います。
そして、あなたが死を迎えれば、一切の財産を失うことになるのです。
財産に幸福を求めるのは適当ではないのです。
他人や状況や財産に対して幸福を求めたとしても、あなたを本当の意味での幸福に導くことはできません。
幸福とは心の状態であるために、心に対して集中する必要があるのです。
他人や状況や財産によって得られる幸福とは、一時的なものに過ぎないんのです。
それは、必ず失うものであるのです。
他人があなたを裏切ることで、他人と夢見た幸福は脆(もろ)くも崩れ去ります。
時代遅れになった状況によって、あなたは苦悩を受けます。
財産を失うことによって、財産によって支えられていた幸福は塵(ちり)となるのです。
これ等が本当の幸福であると思いますか?
誤った方法であっては、本物の幸福を手にすることはできないのです。
他人があなたを裏切る(裏切られたと思う)ことは当たり前のことです。
考え方がそれぞれに違うのであるから、別れが来るのは至極自然のことなのです。
他人との関係が永遠に続くという幻想を抱くことの方に問題があるのです。
状況が変化するのも当たり前であり、財産を失うのも当たり前です。
状況も財産も、元元あなたの所有物ではないのです。
どうして、状況や財産を永遠に所有することができるのでしょう?
他人との別れの際にも、状況の終わりや財産の損失に出会っても、心が喜びを感じる状態であるのならば、あなたはどのような感想を得るでしょう?
それ等の”災難”(と思っていること)に出会っても、心が喜びを感じているのであれば、幸福を得られるのです。
簡単な理論です。
幸福の正体を見極めましょう。
幸福の本質が自らの心の状態にあるということを理解する必要があるのです。
他人や状況や財産に幸福を求めているのであるなら、あなたは一生をかけても本当の幸福に出会うことはありません。
誰かと一緒にいるから幸福なのではありません。
その状況を前にしているから幸福なのでもありません。
財産を所有しているから幸福なのでもないのです。
深く考える必要があるでしょう。

2015年4月6日月曜日

均衡の法則

世界は常に、均衡(きんこう)を保ちます。
世界の均衡が崩れることはありません。
それは、真理によって保たれるバランスだからです。
すべては均衡の中に存在しているということを知らなければなりません。
均衡とは”釣り合い”のことです。
すべての存在は、他の存在と共存する(釣り合う)ことによって、世界に対してその存在が許されます。
他の存在と共存することがなければ、この世界においては存在すら許されないのです。
存在しているものはすべて、その他の存在との繋がりを所有しています。
”すべては一つ”に繋がっており、その繋がりを失うことはありません。
すべての存在が一つに繋がっているのだから、一つの存在が何等かの変化を受け入れれば、その変化によって他の存在も影響を受けるのです。
どのような存在も単独で行動することはできません。
それぞれが影響し合っているということを知るべきであるのです。
”あなた”という存在は、その他のすべての存在との繋がりを所有しています。
あなたには認識することができないことではありますが、あなたはすべての存在と一つであるのです。
あなたの行動は、その他の存在に対しての影響力を持っています。
あなたの行動によって、その他の存在は何等かの変化を受け入れなければならないということなのです。
人生は自分自身のものです。
それは自分自身の意思によって決めることができます。
どのような選択をしようとも、それはあなたの自由です。
しかしながら、自由とは責任のことです。
責任が果たされなければ自由ではないのです。
自由と責任は同じものであるということを理解しましょう。
人生には責任があるのです。
あなたは自由意思という名の”意思の責任”を所有しているのです。
あなたの選択によって、その他の存在には多少なりに影響が引き起こされます。
地球が好転することによって季節が巡り、季節の移り変わりによって自然界は影響を受けて様々に変化するのです。
あなたが行動することによって、季節が巡ることはありませんが、周囲の誰かや何かには影響を与えることは確かです。
今までに、あなたの行動によって何かが変わったことがあったでしょう?
あなたが別の行動をしていたのであれば、変化の形も違ったものとなっていたはずです。
行動することと行動しないことの比較によって、変化の形がどのようなものであるのかは想像に難くないでしょう。
季節が変わればあなたの行動も変わります。
夏になれば涼を求め、冬になれば暖を求めます。
季節の変化によって、あなたの行動は左右されるのです。
これと同じように、あなたの行動によって影響を受ける存在があるのです。
そのことを理解しておく必要があるのです。
あなたは影響力を持っています。
それを軽んじてはなりません。
あなたの力によって、誰かが助かることがあります。
あなたの一言によって、命を救われる人もいるのです。
あなたの力によって、誰かが苦しむこともあります。
あなたの行動によって、誰かに迷惑をかけているかも知れないのです。
欲望に根差した者は、他の誰かを奴隷にすることによって利益を得ます。
その利益によって欲望を満たすのです。
利益を得る者とは対照的に、奴隷は損失を被(こうむ)ります。
支配者によって、奴隷は影響を受けているのです。
この両者には、天秤の法則が働きます。
一方が重たければ、一方は軽んじられるのです。
一方が多くを取れば、一方は少なく受けることになります。
大切なのは、この世界には因果の仕組みが働いているということを忘れないことです。
支配者は多くを取ることによって富を集中させます。
しかし、この世界は均衡を保とうとするために、富を得た代わりの”何か”を奪い、奴隷に対して適切な形で返すのです。
この世界を表面的に見てはなりません。
見た目に騙されているのであれば、この世界に存在する”均衡の法則”を理解することはできません。
あなたが何かを失えば、因果の仕組みに従って必要な何かが与えられます。
しかし、因果の仕組みによって与えられるものが、あなたの意に沿うとは限りません。
あなたが何を得るのかは、あなた次第であるのです。
あなたの意思選択に期待します。

2015年4月5日日曜日

大きく見る

人生を豊かなものとするためには、大きな視野を実現する必要があります。
大きな視野を実現することができなければ、豊かな人生を得ることはできません。
それは、大きな視野でなければ、この世界のことを理解することが難しいからです。
大きな視野でなければ、人は人生の意味を理解することができません。
それは、目の前の状況に集中するあまり、それに捉われてしまうためです。
部分的に対象を捉えるのであれば、全体とその繋がりを理解することができません。
全体とその繋がりを理解することができなければ、その対象の持つ意味を正しく理解ことはできないのです。
小さな視野によって世界を捉えるのであれば、人生が何のためにあるのか?ということを理解することはできないでしょう。
誰かが苦悩しているからといって、それだけではそれがその人の害になるのか?ということを判断することはできません。
その人が苦悩している経緯を知らなければ、判断を誤ることになるのです。
ただ、部分的に見て哀(あわ)れむのであれば、その意味を正しく理解することはできず、本当はその人にとっての利益であることにも気が付かないのです。
利益を手放す必要はありません。
しかし、多くの人は小さな視野によって判断するために、成長にとっての利益を安易に手放してしまうのです。
誰かがあなたに厳しい言葉を投げ掛ける時に、それを厳しい言葉だけに限定して解釈すれば、それは自分にとっての苦しみとなります。
それを大きな視野によって解釈し、その厳しい言葉によって自分の愚かさを正してくれているのだという理解を得ることができれば、それは喜びとなるのです。
視野の状態によって解釈は大きく変わります。
解釈が変われば、そこに導き出される感情や状況にも大きな変化が訪れるのです。
大きな視野によって判断するのであれば、それは利益となるのです。
しかし、小さな視野によって判断するのであれば、それは損失となるのです。
対象の本質を理解することがなければ、苦しみを得ることになります。
それは、対象を歪めて見ているためです。
この世界に存在するものはすべて成長のための材料です。
すべては成長のために存在しているのです。
そのため、それがどのようなものであろうとも、成長の役に立ちます。
この世界には、成長に関係のないものは存在しません。
成長の材料を歪めて見るのだから、成長を妨げる状態を得るということになるのです。
成長を妨げる状態によって対象を得るのであれば、成長は妨げられます。
成長が妨げられることによって得られる感情は苦しみであるのです。
人が豊かな人生を求めているのであれば、苦しみを生み出さない工夫が必要であるのです。
物事を歪めて見るのであれば、どのような人物であろうとも、必ず苦悩を得ることになります。
人生の苦しみとは”誤解”によって生じるということを理解する必要があるのです。
なぜなら、この世界には苦しみというものが存在しないからです。
苦しみというものは、人の認識の中にのみ存在する概念であるということなのです。
そのため、人によって苦しみの対象が違うのです。
もしも、この世界に苦しみというものが形を以て存在しているというのであれば、誰もがその存在に対して苦しみます。
しかし、そのようなことは現実には有り得ません。
それを苦しむ人がいる一方で、それを喜ぶ人がいます。
すべての人が苦しむ対象というものは、この世界には存在しないということです。
そのため、苦しみというのは概念に過ぎないのです。
考え方が変われば、苦しみは消え去ります。
十代の頃の苦しみは、二十代の頃には苦しみではありません。
二十代の頃の苦しみは、三十代の頃には苦しみではないのです。
このことを以てしても、苦しみというものが概念に過ぎず、自分自身で作り出しているということを理解することができるでしょう。
人生に苦悩しないためには、視野の拡張が求められます。
対象の全体像と経緯を理解すれば、それに苦しむ必要はありません。
南の空を見て、嵐がやって来ているということを知れば、万全を期することができるのです。
嵐が到達してから、それが嵐であると気が付いたのであれば、そこには苦悩が導かれるでしょう。
そして、何の準備もなく嵐の中に耐える時には、いずれ嵐は遠ざかり、その後には晴天が広がっているということを想像することすら難しいのです。
嵐が来ることを事前に理解し、万全の準備をしている者には、嵐が過ぎ去った後の世界に対しての考えが、既に生まれつつあるのです。
心に余裕がなければ、人は苦しみに溺れるということを覚えておきましょう。
大きな視野によって世界を捉えるのであれば、目の前の状況に苦しむこともないのです。
人生は感動と喜びによって満ち溢れているというのに、それに気が付かないのです。
足元の泥(どろ)を見ては、周囲に広がる花畑には気が付かないのです。
とにかく、大きな視野を持つように努めなければなりません。
小さく見てはなりません。
部分的に解釈してはなりません。
大きく見ることを覚えましょう。

2015年4月4日土曜日

個人的な原因

あなたは人生にどのような感想を持っているでしょうか?
あなたは幸せですか?
幸せだと答えたあなたは、なぜ幸せなのですか?
あなたは不幸ですか?
不幸だと答えたあなたは、なぜ不幸なのでしょうか?
人生を豊かなものにするためには、それを分析する必要があります。
人生というものがどのようなものであるのか?ということを理解することなく、豊かなものにすることはできないのです。
人生は初めから決められているものではありません。
もしも、人生が初めから決められているのであれば、そのような茶番を演じる必要がどこにあるというのでしょうか?
人生とは未知のものです。
それは、あなたの意思選択によって築かれていく無限の可能性であるのです。
人生を築くのはあなたの仕事です。
あなたは、自らの人生がどのようなものになるのか?ということを自分の意思によって決めなければならないのです。
人生がどのような状態にあるのか?ということは、あなた次第であるのです。
あなたは無限の可能性の中から、好きな選択肢を選べば良いのです。
幸せであろうと、不幸であろうと、それはあなたの決めたことであるということを覚えておきましょう。
しかし、この世界はあなたの思い通りにはなりません。
この世界とは、あなたが人生を築いている場所のことです。
世界とは全体のことであり、人生とは個体のことを言います。
あなたに左右することができる人生とは、この世界という全体の内の一つの個体であるということなのです。
あなたが自由に築くことができるのは、全体の一部に過ぎないということを理解する必要があるでしょう。
世界は必要を満たしながら存在するため、あなたの思い通りにはなりません。
それは、あなたの都合によって世界は動いてはいないからです。
あなたの都合によって影響を受けるのは、あなたの人生であるということなのです。
世界はすべての存在に”必要”を導きます。
世界の目的は成長です。
成長するために必要な条件を整えるのが世界の仕事であるのです。
世界は、成長に必要な条件を整えることはしますが、それ以外のことはしません。
そのため、個人的な感情によって、公平を軽んじることはないのです。
世界は誰にとっても必要な形に保たれているのです。
それは、成長するためです。
成長することによって得られるのは、どのような感情でしょうか?
人が成長する時に得られる感情とは幸せです。
あなたは、自らや他人が何かを克服した時には、幸せな気分を得るでしょう。
人生は成長のためにすべてを整えるために、人生が不幸を整えるということは有り得ないのです。
世界が整える必要を理解している者は、その本意を理解することができるために、どのような状況を得ようとも幸せを得ることができるでしょう。
しかし、世界が整える必要を理解することのできない者は、その本意を理解することができないために、どのような状況を得ようとも不幸を覚えるのです。
同じ世界に生きているのです。
同じ文化圏に生きているのです。
同じ国に生きているのです。
同じ地域に生きているのです。
同じ家に住んでいるのです。
それなのに、どうして幸せを得る者と不幸を得る者とに分かれるのでしょう?
兄弟や姉妹であろうとも、どうして違いが生じるのでしょう?
それは、個人的な原因に他ならないのです。
どのように平等に与えようとも、結果は異なります。
歳上であるという詰まらない理由によって、多くを欲する愚かな者もいるのです。
それは、歪んだ認識によって導き出された、個人的な選択に過ぎないのです。
そのような選択によって、人生には変化が起きるのです。
人生を豊かなものにするためには、世界が公平であるということを理解する必要があります。
そして、世界は必要だけを満たすということも忘れてはなりません。
あなたがどのような人生を生きようとも、それはあなたの責任であるということです。
誰かや何かのせいにしてはなりません。
幸せな者は、勝手に幸せなのでしょうか?
不幸な者は、勝手に不幸なのでしょうか?
誰にとっても苦悩はあります。
誰にとっても喜びはあるのです。
それ等を正しく認識することができていないという個人的な原因が、そこにはあるのです。

2015年4月3日金曜日

心地の好い世界

世界は違いに富んでいます。
この世界には違いが存在します。
違いによってそれぞれが別々の形を取ります。
それぞれが違いによって分けられるのが自然であるのです。
それがこの世界のルールであり、それを否定することはできません。
すべての存在が違いを所有します。
違いを所有しないものは存在することができないのです。
そのため、違うことが前提であるということを理解しなければならないのです。
あなたは違いを受け入れなければなりません。
それぞれに違うことには重要な意味があるのです。
それぞれが違いを所有していなければ、得られない学びがあるのです。
違うことによって、そこには変化が生じます。
変化が生じることによって、そこには無限の可能性が生まれます。
違いによる変化が生じることがなければ、可能性は導かれないのです。
違うことによって初めて、そこには可能性が生じるのです。
そのため、違うことにこそ意義があり、それを同じにしようとする考えは歪んでいるのです。
多くの人は、自分とそれ以外の存在を混同して考えます。
自分を中心とする考えが根付いているために、すべての存在を自分自身と同一視するのです。
それは違いを受け入れてのことではありません。
小さな自尊心によって、自分の主義主張が正しいと知らしめるための行為に他なりません。
違いによって共存するということではなく、同一化によって自分にとっての心地の好い世界を築こうとしているのです。
しかし、そのような傲慢(ごうまん)が世界に通用するはずがありません。
なぜなら、あなたは未熟であるからです。
未熟な者を基準とするのであれば、すべてが歪んでしまいます。
そのような世界には価値がないのです。
基準は優れた存在とする必要があるのです。
優れた存在というのは”神”のことです。
”神”とはすべてであり、真理や摂理であると言えます。
この世界を支配する力こそが、最も優れているのです。
それを基準としなければなりません。
世界は変化を許しています。
すべての存在を見なさい。
それは変化に富んでいます。
同じように見えるものであっても、それぞれは違う存在であるのです。
この世界には多種多様な生き物で埋め尽くされています。
それは、可能性を広げるためであるのです。
違いは大切です。
あなたは他人との違いを心配する必要はないのです。
人間であるあなたと、その他の動植物には大きな違いがあります。
それ等は見た目には大きく違う形を取るのです。
しかし、それ等は共存することができます。
あなたは人間を食べて生きてはいないでしょう?
自分と似ている人間の形を食べるのには抵抗があるはずです。
あなたは動物を食べ、魚を食べ、昆虫を食べ、植物を食べ、細菌を食べているのです。
それ等は違いを所有していますが、あなたに対して何の問題もないはずです。
違いというものには、価値があるということなのです。
違いによってあなたが苦悩する必要はありません。
あなたは他人と違っていても良いのです。
寧ろ、違っていなければならないのです。
違うことがこの世界における”普通”です。
違う形の歯車でなければ、精巧な動き(可能性)を得ることはできないのです。
すべてが同じ形の歯車であるなら、単純な動きによって、限られた可能性にとどまるでしょう。
違いを軽んじてはなりません。
違いを否定してはなりません。
違いによって苦悩する必要はありません。
自分自身と、それ以外の存在を同一視することをやめましょう。
与えられた個性を最大限に発揮して、世界に貢献しましょう。

2015年4月2日木曜日

流転

この世界に存在するすべてのものが、形を変えて流転しています。
世界が止まることは有り得ません。
それは、世界の消滅を現すからです。
世界が消滅することはありません。
それは、この世界の中にそれぞれが存在を許されているからです。
世界が全体であり、それ以外は一部分に過ぎないのです。
そのため、世界が消滅することはありません。
消滅することがなければ、その動きが止まることもないのです。
人はこの世界の中に人生を築きます。
人生は人の意思の結果です。
この世界には因果の仕組みが存在し、それがすべての結果を決定しています。
そのため、人は自らの意思を原因として、それに相応しい結果を受けるのです。
因果の仕組みが誤ることはありません。
そして、その働きが止まることはありません。
あなたの意思に対する報(むく)いは、どのようなことがあろうとも、必ず導かれるのです。
しかし、それがあなたの考えている形であるということはありません。
あなたにとって最善の形として導かれるのです。
それは、この人生の目的が成長にあるからです。
成長のために因果の仕組みは働いているのです。
そのため、あなたの成長に最も優れた形によって導かれるのが自然であるのです。
この世界に存在するすべてのものが、形を変えて流転しています。
あなたが他の命を食すれば、それが栄養というエネルギーとして得られるのと同じです。
あなたは他の命をそのまま得ているのではなく、肉体が生命を維持するのに必要な栄養という形に変換して受け取っているのです。
そして、栄養を得れば、それを排泄します。
排泄物は細菌や昆虫などの他の命の栄養となり、植物の栄養ともなります。
そして、あなたはまた他の命を食らうのです。
あなたが命を失えば、その肉体は他の生き物の栄養となり、土に還るのです。
この世界においては、すべてのものが形を変えながらも流転するのです。
そのことを理解する必要があります。
あなたの意思は原因という形を取ります。
そして、原因は結果という形を取り、やがて状況という形によって導かれます。
あなたは自分自身の意思を、状況という異なる形によって受け取るに過ぎないのです。
そのことを理解するのであれば、どのような意思によって人生を選択するべきなのか?という問いに行き着くでしょう。
自らがどのような意思によって人生を選択するべきであるのか?ということを問い続ける者は、それがより良い選択となるように努めるようになります。
より良い選択とは、より建設的であり、より愛情深い選択のことです。
より高尚な選択というものによっては、より幸福な結果(状況)を得ることができるということなのです。
自らの意思選択について熟考することがなければ、より高尚な選択というものを実現することはできません。
破滅的であり、冷酷な選択を行うのであれば、因果の仕組みによって形を変えたそれ等の答えが確実に導かれるようになるのです。
毒を飲めば死を得ます。
薬(薬品のことではない)を飲めば生を得るのです。
この世界は”当たり前”に動いているのです。
奇跡や偶然などという曖昧(あいまい)なものは存在しません。
奇跡や偶然などという浅はかな認識が存在するだけであり、すべては当然の結果として導かれるのです。
そのため、自分自身の意思選択の質が重要であるということなのです。
良いことを行ったにもかかわらず、悪いことを得ることはありません。
一時的に悪いと”思う”状況を得ることはありますが、それは結果ではないのです。
良いことを行えば、得られる結果は良いこと以外には有り得ないということを理解しましょう。
これを忘れるのであれば、浅はかな者は安易に悪事を働くでしょう。
そして、悪事によって得られる一時的な快楽を良い結果であると思い込み、奇跡や偶然に酔いしれている間に、後に迫る苦悩に気が付かないのです。
その結果、避けることのできない苦悩によって、不幸に溺れるのです。
あなたは自分がどのように在るべきなのか?ということを熟考しましょう。
浅はかな考えによって生きてはなりません。
あなたの意思選択が”良い意味にしろ悪い意味にしろ”消滅することはありません。
すべてが巡り巡って自らに帰るということを理解しましょう。

2015年4月1日水曜日

詰まらない世界

未知なものに対して、どうしてあなたの判断が正しいと言えるのでしょう?
あなたはそれを知らないのです。
知らないので未知なのです。
知らないものをどうやって判断するというのですか?
知らないのであれば、判断など付かないはずなのです。
なのになぜ、それがどのようなものであるのかを決め付けるのですか?
あなたは何者なのですか?
この世界を判断することができるほどの叡智(えいち)に達しているとでも言うのでしょうか?
残念ながら、あなたは未熟です。
あなたは多くを不足し、大きく歪んでいます。
これは仕方のないことです。
未熟であるが故に、この世界で学んでいるのです。
あなたが未熟でないのならば、この世界において学ぶ必要など、初めからないのです。
学ぶ必要があるために、生きているということを理解しなければなりません。
しかし、多くの人は自己を正当化します。
そして、自分自身が優れているという虚像を信じ込み、真実から目を逸らすのです。
未知なものに対して、人は恐怖を抱きます。
しかし、それは知恵による行為ではありません。
無知であるが故に恐れるのです。
すべての問題が、無知によって生じるということを理解する必要があるのです。
人が問題を解決するためには、無知を解消する必要があります。
無知を解消することによって問題が消滅するのです。
無知を解消するためにはどうすれば良いでしょう?
それは、未知に対して興味を抱き、それを真摯(しんし)に学ぶことです。
多くの人が未知に対して恐怖を抱きます。
そのため、未知に対しては億劫(おっくう)になり、否定的な態度を取るのが”普通”です。
そして、未知を未熟な判断によって勝手に決め付け、自らの可能性を途絶えさせるのです。
未知には多くの可能性が存在しています。
未知にこそ、無知を解決する力があるのです。
そのため、多くの未知に向き合い、無知を知恵によって埋めていかなければならないのです。
多くの人は未知を恐怖の対象と決め付けています。
しかし、未知を克服することによってのみ、無知は解消されるのです。
あなたは未知を恐れる必要はありません。
この世界は何のために存在しているのですか?
あなたは何のために人生を生きているのですか?
あなたは成長するために存在しているのです。
成長するためには、無知を埋め、知恵を実現する必要があるのです。
未知にこそ可能性が存在しています。
あなたはそのことを理解しなければなりません。
知らないものを否定してはなりません。
あなたは未熟であり、無知であるのです。
あなたの知らないことなど、この世界には数え切れないほど存在しているのです。
あなたの知っていることなど、数えるほどしかないのです。
それも、表面的なことを知っているだけであり、本質的なことは何一つ知らないという事実を受け入れましょう。
あなたは誰ですか?
あなたは最も近しい”自分”のことすら、何一つ知らないのです。
それなのに、どうして未知を決め付けることができるのでしょうか?
なぜ、それを嘘であると疑うのでしょうか?
本当か嘘かは、自分自身で体験しなければ決して判断することができないことであるのです。
それを判断しているというのであれば、あなたこそが嘘であり、嘘吐きであるということを理解しなければならないのです。
小さな視野によって、小さな世界に生きてはなりません。
無知が蔓延(はびこ)る詰まらない世界に、何の意味があるというのでしょう?
無知によって何千年生きたとしても、あなたは真実の喜びにすら到達することはできないでしょう。
未知を否定するような詰まらない人間であってはなりません。
無知を埋めるために、未知に向かいましょう。
知恵によって、楽しい人生にしましょう。