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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2015年4月14日火曜日

変わるもの

すべての人は未熟です。
人は未熟であるが故に、この世界に学んでいるのです。
人が乳飲み子から始めて成人していくのは、人が未熟であるということを理解し易いように見せているのです。
しかし、多くの人は成人した時に、自分が乳飲み子であったことを忘れています。
そのため、自分が未熟であるということも忘れているのです。
しかし、すべての人が未熟であることには変わりないのです。
どれだけの経験を重ね、どれだけの歳を経ようとも、自分自身が何者であるのかすら知らないのですから、未熟であることは否めないのです。
あなたは自分が達観しているなどと考えてはなりません。
自分が優れているなどという誤解を抱いてはならないのです。
間違った解釈が、間違った行為を招き、やがて苦悩を引き起こすのです。
人は常に自分自身の部を弁(わきま)える必要があるのです。
分際(ぶんざい)を見誤れば、苦悩を受けるのは当然の結果であるのです。
自分が優れているなどとは、一生考えないことです。
あなたがどのような人物であろうとも、どれだけ成長しようとも、未熟であることには変わりがないのです。
若くして頭角を現わす者がいます。
そのような者は分際を見極めることができずに傲慢(ごうまん)に陥ります。
歳を経て、自分が物知りになったと考える者や、地位の高まりによって自惚れている者がいます。
そのような者は、ただ時の経過を経ただけだということに気が付きません。
ただ長く生き、世間のやり方に順応しただけでどうして優れているというのでしょう?
人が人である以上は、未熟であるということを理解する必要があるのです。
すべての人が成長を目指す必要があります。
成長とは、言動が知恵に導かれるということです。
生き方が貢献に傾くことです。
人格(心)が寛大になることです。
それ等によって、魂が向上することです。
人は魂の向上を目指さなければならないのです。
しかし、魂という本質を客観することはできません。
そこで、言動や生き方や人格の変化によって、自らの成長の状態を理解する必要があるのです。
あなたは自分自身を客観する必要があります。
そうすれば、自分自身の状態が未熟であるという結論に至るはずなのです。
自分自身を客観視して、未熟ではないという結論に至るのであれば、それは自己を正当化しているか、美化しているに他なりません。
未熟ではない人は存在しないのです。
そのことを覚えていなければならないのです。
あなたにとって最も簡単なのは、その言動が変化することを客観することです。
言動は思考の変化によって導かれる結果です。
考え方の変化によって、言動にも変化が訪れるのです。
考え方とは意見です。
意見は変わるのが”普通”です。
しかし、自らの意見が変わることに罪悪感を覚えている人がいます。
そして、他人の意見が変わることに嫌悪感を抱く人もいるのです。
意見が一貫していることは重要ですが、経験を経た後に意見に変化が見られないことには注意が必要です。
それは、未経験の状態と経験を経た状態では、自分自身の状態は違うはずだからです。
どのような経験を経るにしても、人は成長するのが”普通”です。
経験を経ても成長しないというのであれば、それは異常な状態であるということを理解する必要があります。
以前から意見を変えない人がいます。
経験を経た後では、意見が変わることが”普通”です。
同じ対象を支持しているという根幹の意見は変わらないにしても、その対象に対する見解は変わるはずなのです。
しかし、頑(かたく)なに自分の意見や態度を変えない人がいるのです。
それは、歪んだ信念によってか、未成長の結果であると言えるでしょう。
意見が変わることを恐れてはなりません。
相手の意見が変わることも理解する必要があります。
それは、あなたを含め、すべての人が未熟であるからです。
変化しないということは、成長しないことであるということを理解しましょう。
あなたは変化という成長を大いに楽しみましょう。


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