始まりがあれば、終わりがあります。
それは変えることのできない世界の流れです。
すべての存在は、始まりによって誕生し、終わりによって死滅するのです。
始まりに対して、終わりを否定することはできません。
すべての始まりには終わりが付属し、それを引き離すことはできないのです。
そのため、この世界においては、始まりを得た瞬間には終わりを覚悟しておく必要があるのです。
終わりを受け入れることなく、それを豊かさへと導くことはできません。
終わりを受け入れることができていない始まりは、正しい完結を得ることができないのです。
終わりを受けることによって、その始まりが価値を持つということを理解する必要があるでしょう。
この世界に、死を得ない肉体が存在するでしょうか?
すべての肉体は死を経験します。
死を経験しない肉体は存在しません。
すべての肉体が死を得るのです。
あなたは乳飲み子から始まり、昏睡(こんすい)に至ります。
乳飲み子の時からは無理であっても、物心付いた時から死を受け入れて生きていくのであれば、その後の結果は違うものになるのです。
死を受け入れて生きていけば、考え方が変わります。
常に死と共に生きているのであれば、命を粗末に扱うような真似はしないのです。
安易に時間を無駄にすることもなければ、怠(なま)けることもありません。
苦悩の内に迷うこともなければ、絶望の淵に立ち竦(すく)むこともないのです。
死を受け入れていれば、生を活かすことができるのです。
人がいつ死ぬか分からないということを意識するのであれば、自分自身が”くだらないこと”に時間と労力とを集中させているということにも気が付けるのです。
そして、懸命に生きる気持ちが高まり、本当に”価値のあること”に対して時間と労力を集中させるようになるのです。
価値のあることに対して行為するのであれば、価値のある状況が得られるのです。
価値のある状況は豊かな人生を導く原因となるのです。
価値のある状況は、死を受け入れて懸命に生きる者にこそ導かれるのです。
無知によって”くだらないこと”に没頭してはなりません。
あなたは何のために人生を生きているのですか?
”くだらないこと”のために生きているのではないでしょう?
死を受け入れずに生きる者は、自分が何のために生きているのか?という判断ができません。
それは、決して逃れることのできない現実である死を受け入れずにいることによって、世界を歪めて捉えてしまうのです。
終わりが訪れることを知っていながら、それを否定することによっては、現実が歪んで投影されることになるのです。
死を逃れる肉体が存在しないように、終わりのない始まりも存在しません。
すべての始まりには終わりが付き添い、それが自然の姿であるということを理解することが必要であるのです。
始まりを受け入れながら、終わりを否定するのは間違っています。
しかし、多くの人はこの状態にあります。
始まりは認めることができても、終わりについては否定するのです。
しかし、大切なのは終わりを受け入れることです。
そうすれば、出来事に対して心を乱すことがなくなります。
終わりを受け入れることによって、その状況を愛することができるのです。
死を以て人生を眺めれば、目の前の小さなことや苦しいことに対して、喜びが生じるということを覚えていなければならないのです。
何かが終わりを迎えたからといって、取り乱す必要はありません。
終わるのが自然の形です。
寧(むし)ろ、終わりを迎えなければ、始まりは得られません。
幼虫が蛹(さなぎ)の姿を取り、成虫の姿を得るように、古い状態を捨てなければ、新たな状態を手に入れることはできないのです。
終わりによってのみ、始まりが導かれるのです。
多くの人は懸命に終わりを食い止めようと”無駄”な努力を試みますが、、それによって新たな始まりを阻害しているということを理解する必要があるのです。
新たな始まりとは、進化であり、進歩発展、成長や向上と呼ばれるものです。
終わりを受けること以外には、より良い始まりは受けることができないのです。
そのため、終わりに嫌悪を抱く必要はありません。
終わりとは、良いことであるということが言えるのです。
安易に考えてはなりません。
この世界には不要なものは存在しません。
そこに価値を見出すことができなくても、それは価値に溢れているのです。
すべての始まりには、それが誕生した瞬間から終わりを所有し、そこへ向かって進んでいるということを理解する必要があるでしょう。
始まりと終わりを受け入れなければなりません。
それが、自然の姿なのです。
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