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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2017年4月30日日曜日

価値変換

あなたの人生において、不変は存在しません。
あなたの人生においては、すべての存在が変化し続けるのです。
それが人生の在り方であり、自然です。
あなたが人生に豊かさを必要とするのであれば、すべての存在の変化を許さなければならないのです。
多くの人は変化を嫌います。
多くの人は、変化を恐れているのです。
それは、変化することによって、既存の”慣れ”を手放すことになるからです。
多くの人は、ただの慣れを最良だと思い込んでいます。
多くの人は、何の根拠も無いただの慣れに安心しているのです。
そして、ただの慣れを失うことを恐れているのです。
多くの人は、ただの慣れに価値を見出します。
ただの慣れを価値だと思い込んでいるのです。
あなたが価値を認める”それ”は、本当に価値なのでしょうか?
”それ”は、ただの習慣に過ぎず、幻想に過ぎないのです。
あなたは、既存の価値が人生を豊かなものにすると思いますか?
例えば、五年前の価値観のままに人生が展開していると想像してみましょう。
あなたは本当にそれを豊かな人生だと思いますか?
もしも、五年前の価値観のままに人生が展開していたのであれば、あなたは苦悩を抱えていることでしょう。
残念ながら、古い価値観に価値はありません。
あなたは常に様々な経験を重ね、より良いものを知っているはずなのです。
価値の変換をしないというのであれば、あなたはより良いものを知らずに生きることになるのです。
それは、粗悪な人生を生きることを示しているのです。
あなたは常に成長(変化)し、人生は必要を変化させるのです。
あなたは必要を学ぶために生きているのです。
必要を学ぶためには、価値観を必要に合わせなければならないのです。
価値観が必要に合っていなければ、必要を学ぶことができません。
それは、変化を嫌い、成長を拒絶することになるのです。
残念ながら、多くの人は必要に対して価値観を合わせることができていません。
それは、価値の変換を怠(おこた)っているからです。
多くの人は、既存への固執(こしゅう)に慣れ過ぎているのです。
多くの人は過去を美化し、そこに価値を見出しています。
しかしながら、そこには矛盾が生じます。
後ろを振り返りながら歩めば、転んで怪我をします。
過去を美化し、今を蔑(ないがし)ろにすれば、乏しさが導かれてしまうのです。
豊かさを求めて乏しさを得るのです。
矛盾が生じるということは、誤解を所有しているということなのです。
あなたはいつまでも同じ価値を求めてはなりません。
どのような過去にも価値はありません。
当時には価値があったのです。
しかし、それは今ではありません。
必要は変わるのです。
必要が変わっているのに、そこに価値を見出そうとする行為が誤解であり、矛盾を導く原因であるのです。
そのことに気が付かない人が多いのです。
あなたは、必要が変化し続けているということを覚えておきましょう。
そのことを知らないために、ただの慣れに拘(こだわ)ることになるのです。
”詰まらない”過去に捕らわれてはなりません。
価値を変換するのです。
既に必要の無いものを求めるものではありません。
諦めて切り替えましょう。
多くの人は”無い物ねだり”に陥(おちい)っているのです。
残念ながら、今ここに無いものに価値などないのです。
今ここに有るのは、目の前の現実です。
あなたは価値観を見直してみましょう。
そうすれば、苦悩の原因に気が付くことができるでしょう。

2017年4月29日土曜日

それぞれの視点

すべての人が小さな世界に生きています。
すべての人が、異なる小さな世界を生きているのです。
人は決して、同じ世界を生きてはいません。
人生は、それぞれの場所なのです。
あなたはあなたの世界を生き、他者は他者の世界を生きます。
あなたの世界と他者の世界が交わることはありません。
それは、すべての人が、独自の視点を所有しているからです。
すべての人は、視点によって分断されているのです。
あなたの視点と他者の視点が同調することはなく、それぞれの必要を捕らえるのです。
それは、学びのためです。
すべての人は、学びを必要としています。
それは、未熟であるからです。
すべての人は、未熟を所有しているのです。
そして、すべての人が成長を目指しています。
それぞれの未熟の形は異なります。
そして、それに対する解決策も異なるのです。
人は、それぞれの課題を抱えているのです。
そのために、視点は別々の必要を捕らえるのです。
人は、自らの必要に対する視点に限定されるのです。
それは、学ぶためですが、学ぶためには苦悩を必要とします。
苦悩とは不自然のことです。
あなたの生きる小さな世界は不自然なものなのです。
自然とは、美しさです。
あなたの生きる小さな世界には、美しさは存在しません。
そこには、未完成の美しさが存在するだけなのです。
あなたは、未完成の美しさから学ばなければならないのです。
あなたは不自然な存在です。
あなたの人生は不自然であるのです。
それは、あなたが学ぶために必要なことなのです。
人は、不自然と向き合うことによって、自然を知ることができるのです。
あなたの抱える不自然とは、弱さのことです。
すべての人は、それぞれの立場で、それぞれの弱さと向き合っているのです。
あなたはすべての人がそれぞれの小さな世界を生きているということを理解しましょう。
そして、その小さな世界から抜け出すことができないことも覚えておきましょう。
すべての人は、それぞれの視点に捕らわれるのです。
視点によって異なるものを美しさとは呼びません。
視点によって異なるものを自然とは呼ばないのです。
あなたの進む先には自然が存在しています。
あなたは自然に辿り着かなければなりません。
そのためには、自らの生きる小さな世界を大切にしなければならないのです。
あなたの視点が捕らえる必要を学ばなければならないのです。
あなたの認識するすべては不自然です。
あなたは不自然の中に学ばなければならないのです。
不自然は苦悩です。
そのため、苦悩を避けることはできません。
あなたは苦悩を見詰めなければならないのです。
それを避けてはなりません。
小さな世界の中では、苦悩を避けることはできないのです。
諦めて学びましょう。
人は、目の前に導かれるものでしか学ぶことができないのです。
あなたが苦悩を生きるのは当然のことなのです。
人生は初めから不自然であり、あなたという存在も初めから不自然であるのです。
そして、すべての他者とその人生も不自然です。
すべてが不自然なのです。
そのことを理解して向き合えば、謙虚(けんきょ)に学ぶことができるでしょう。

2017年4月28日金曜日

帰還

この世界の本質は自然です。
すべては自然なのです。
すべては自然から生じ、自然に死するのです。
あなたはこの世界の本質が自然であるということを覚えておきましょう。
自然とは、矛盾しない姿です。
矛盾を離れたものが自然なのです。
この世界の本質には矛盾は存在しません。
そのため、矛盾を抱えているものは、本質ではないのです。
あなたが認識するものは、そのすべてが矛盾を抱えています。
それは、あなた自身が矛盾を抱えているからです。
矛盾を抱えているあなたの目に映るものは、矛盾であるのです。
本質ではないものを不自然と言います。
あなたは既に不自然な状態にあり、あなたの認識する世界も不自然なものなのです。
残念ながら、自然を生きる人はいません。
すべての人が不自然を生きているのです。
不自然を自然へと導くことが、この世界とあなたの人生の目的であるのです。
人は、自らの抱える不自然を自然へと近付けていく必要があるのです。
不自然を自然へと導くためには、矛盾を取り除かなければなりません。
矛盾とは、誤解によって生じます。
誤解を抱えていれば、自ずと矛盾を抱えることになるのです。
すべての人が誤解を抱えています。
そのため、すべての人が矛盾を抱えているのです。
不自然を生きるのが普通なのです。
あなたが自然を生きるためには、因果の仕組みを理解しなければなりません。
因果の仕組みを理解することがなければ、不自然を手放すことができないのです。
因果の仕組みとは、自らの所有する原因によって、それに相応しい結果を受け取るというものです。
人が矛盾を抱え、不自然を生きることになったのは、自らの抱える原因による結果であるのです。
人は、自らの抱える不自然な原因によって、不自然な結果を得るのです。
人は多くの誤解を所有しています。
所有する誤解が、それに相応しい結果を導きます。
誤解を所有している以上、不自然を離れることはできないのです。
誤解を手放すためには、学ぶ以外に方法はありません。
大切なのは、自らの抱える誤解に気が付くことなのです。
あなたが自らの抱える誤解に気が付くためには、因果の仕組みを観察する必要があるのです。
それは、目の前に導かれる状況を観察するということです。
因果の仕組みは、不自然を自然に戻すための作業なのです。
そのため、あなたの所有する誤解が導く状況は、その誤解を示唆(しさ)し、それを改めさせるものになるのです。
目の前に導かれる状況は、あなたを自然へと導く重要な教えであるのです。
それを学ぶことによって、人は不自然である誤解を手放し、本質である自然へと近付くことができるのです。
しかしながら、多くの人は目の前に導かれる教えを学ぼうとはしません。
多くの人は、その重要な学びを否定するのです。
学ばなければ、学ぶことができません。
学ぶことがなければ、誤解を手放すことはできないのです。
誤解を手放すことができなければ、不自然を生きることになるでしょう。
不自然は苦悩を導きます。
それは避けられないことです。
この世界の本質は自然であり、あなたの本質も自然です。
そのため、不自然を生きるということは、偽りを生きることになり、苦悩するということなのです。
あなたが苦悩を抱えているのであれば、それは不自然を生きているということなのです。
不自然は問題として現れるのです。
すべての問題は苦悩となり、あなたは絶望を覚えるでしょう。
人は、不自然の中に生きることはできません。
人は、不自然の中に幸福を感じることはできません。
人は、不自然の中に豊かさを得ることはできないのです。
すべては自然に還(かえ)るということを覚えておきましょう。

2017年4月27日木曜日

正しい情報

人の世には正しい情報は存在しません。
人の世に存在するすべての情報は誤解を含んでいるのです。
情報は常に未完成であり、それが完成することはありません。
それは、すべての人間が未熟であり、すべての解釈が未熟であり、すべての知識が未熟であるために、未熟な情報しか認識することができないからです。
人生は認識によって築かれます。
あなたが認識することのできる情報は、あなたの力量に左右されるということを覚えておきましょう。
人の世には正しい情報は存在しませんが、その精度を高めることはできます。
人は、正しくない情報の中から、誤解の少なくない情報を選択することができるのです。
あなたにとっての最善は、誤解を薄めることにあります。
最善は、正しい情報を手に入れることにはないのです。
あなたは誤解を薄めるように努めるのです。
しかしながら、多くの人が正しい情報を手に入れることを最善だと考えています。
そのため、手に入れることができないものを求め続けることになるのです。
手に入れることができないものを求め続けたところで、幻想に触れるだけです。
人の世において、正しい情報とは幻想であり、それを手に入れることはできません。
幻想とは思い込みであり、思い込みは誤解であるのです。
正しい情報を手に入れることを最善だと考えていれば、人の世において正しいとされている情報を信じることになるのです。
正しいとされている情報でさえ、多くの誤解を含んでいます。
それは、それを正しいとしているのが未熟な人間であるからです。
そのため、正しいとされている情報でさえ信じることはできないのです。
あなたは、正しいとされている情報を安易に信じてはなりません。
それが正しいとされている情報であったとしても、それを鵜呑みにせず、常に疑いを離れることなく、誤解を薄め続けるのです。
どのような理由であれ、現状の情報の形に固執(こしつ)してはならないのです。
現状の情報の形を正しいと信じて疑わなければ、それ以上の情報を手に入れることはできないのです。
人が未熟である限り、すべての情報は常に未完成であるのです。
人が誤解を薄めることができれば、情報の形も自ずと変化するのです。
人生を体験することによって、人は必ず成長します。
それは同時に、情報は必ず変化し覆(くつがえ)ることを意味しているのです。
情報を覆すのはあなたの力量です。
それは、あなたの力量に相応しい情報が手に入るからです。
覆ってしまった情報は価値を失います。
価値を失った情報に頼ることは、価値の乏しい人生を生きるということなのです。
価値の乏しい人生とは、多くの誤解を含んでいる人生のことであり、豊かさを実感することができない人生のことなのです。
正しいとされている情報を信じることは、価値の乏しい人生を欲することなのです。
多くの人は豊かな人生を望んでいます。
しかしながら、正しいとされている情報を信じているのです。
そして、そこに矛盾が生じていることには気が付きません。
矛盾が導くのは苦悩です。
正しいとされている情報を信じる人は、苦悩を避けることはできないのです。
残念ながら、既成概念(きせいがいねん)や常識には価値がありません。
それは、既にあるからです。
あなたは正しいとされている情報を疑うことによって誤解を薄め、正しいとされている情報をより価値のある形へと変化させなければならないのです。
正しいかどうかには価値がありません。
新たな形にこそ価値があるのです。
それは、新たな形には可能性があるからです。
あなたは、可能性こそが価値であることを知りましょう。
可能性を無視して、豊かさを手に入れることはできません。
正しいとされている情報には可能性がありません。
それは、正しいからです。
正しいとは、固着した状態のことなのです。
正しいものを変えることはできません。
そのため、あなたは何かを正しいと決め付けてはならないのです。
変化の中にこそ可能性が存在します。
正しい情報には可能性がありません。
そこに価値はないのです。
そのことを覚えておきましょう。


2017年4月26日水曜日

特別な軌跡

人生は、あなたのものです。
あなたは、自分の人生を生きる権利を有します。
あなたは、自分の人生を好きに生きることができるのです。
あなたの目的は、人生を好きに生きることだと理解すれば良いでしょう。
しかしながら、好きに生きることは簡単ではありません。
それは、自分自身の所有する”歪み”がそれを否定するからです。
歪みは、あなたの自由を奪います。
歪みは、あなたが人生を好きに生きることを阻(はば)むのです。
あなたが人生を好きに生きることができないのは、自分自身の所有する歪みによる影響なのです。
誰かや何かのせいで好きに生きることができない訳ではありません。
それは、これがあなたの人生であるからです。
あなたがどう生きるか?を決めるのです。
誰かや何かがあなたの人生を決める訳ではありません。
あなたの人生を決定する権利は、他の誰にも与えられてはいないのです。
あなたは、自分自身の所有する歪みに気が付かなければなりません。
あなたの人生を制限しているのは、誰かや何かではありません。
あなた自身が、どう生きるのか?を決めているのです。
そのことに気が付かなければ、あなたは誤解の中で苦悩することになるでしょう。
多くの人が、自分の人生を誰かや何かの責任にしています。
誰も、あなたの人生を決定してはいません。
誰も、あなたの代わりに人生を築くことはできないのです。
好きに生きるかどうか?は、あなたが自分で決めることであって、誰かや何かによって決められるものではないのです。
あなたは、自分でどう生きるのか?ということを決めましょう。
あなたが決めなければ、他に決める者はいないのです。
そのことを覚えておかなければならないのです。
あなたは、好きに生きてみましょう。
どのような生き方も正しいのです。
人生には、正解も不正解もありません。
好きに生きれば良いのです。
好きなことを言いましょう。
好きなことをやりましょう。
好きなことに携(たずさ)わりましょう。
好きにするのです。
人生において大切なことは他にありません。
満足のいく人生こそが大切なのです。
好きに生きなければ、満足することはできません。
そのことを覚えておきましょう。
我慢して嫌いなことをする必要などないのです。
それは、自らの歪みが強いるルールなのです。
人は自分自身の所有する歪みによって、脅迫されているということを覚えておきましょう。
人生においては、必ずしも達成しなければならないことはありません。
好きに生きることには、決められた正解は存在しないのです。
好きに生きるということは、決められていない未知に挑戦するということなのです。
あなたが好きなことは、誰かの歩んだ道ではないのです。
あなたが好きに生きた時、それは特別な軌跡となるのです。
すべての人が好きに生きれば、世界は特別なものになるのです。
あなたは好きに生きてみましょう。
これは、自分自身の所有する歪みに対する挑戦です。
それは、争いではありません。
歪みに打ち克(か)つ”遊び”なのです。
好きに生きることを難しく考える必要はありません。
気楽に構えていましょう。
好きに生きることに無理は必要ありません。
それは、好きに生きることは、自然を生きるということだからです。
人生はあなたのものです。
歪みによって好きに生きることは難しくなりますが、克己(こっき)によって好きに生きれば、人生は簡単になるということを覚えておきましょう。

2017年4月25日火曜日

不可思議

人生には、不可思議なことが起こります。
それは、あなたに疑問を投げ掛けます。
あなたはその疑問に向き合うことによって、その不可思議を紐解(ひもと)くのです。
人生に起きるすべての現象は、自分自身を現しています。
すべての人は、人生を通じて自分自身を学んでいるのです。
しかしながら、人は自分自身を知りません。
それは、不可思議なものなのです。
多くの人が自分だと思っているそれは、残念ながら自分自身ではありません。
それは、自分自身の表層に過ぎず、認識された情報の集積に過ぎないのです。
それは、自分自身の一部であり、全体ではないのです。
しかし、多くの人はそれを自分自身だと思い込んでいるのです。
人生には不可思議なことが起こるように、自分自身にも不可思議なことが起こります。
あなたは自分の選択の理由を理解することができるでしょうか?
多くの場合、なぜ、そのような選択が行われたのか?という理由については理解することができないのです。
それは、人生は理想通りには進まないからです。
状況とは、選択の結果です。
状況の原因は選択にあるのです。
あなたの選択が人生を築きます。
多くの人は理想を実現するために選択を続けています。
しかしながら、理想が実現することはありません。
思い描く理想は否定され、あなたにとって不可思議な現実が導かれます。
多くの人が現実に苦悩するのはそのためなのです。
多くの人にとっては、現実が導かれた経緯が不可思議であるのです。
しかしながら、導かれた現実には、それに相応しい原因が存在しているということを知らなければなりません。
それは、自分自身の選択が不可思議であるからです。
現実の原因を紐解くことが求められているのです。
人には人生を制御する力はありません。
人は、人生に翻弄(ほんろう)されるのです。
理想が実現しないように、思い通りにすることができないのが人生です。
それは、原因を理解してはいないからです。
原因を理解していないために、結果を理解することができないのです。
人生は因果の仕組みによって築かれます。
原因は常に自分自身に有り、結果は自分自身そのものです。
自分自身を理解することがなければ、そこから導かれる状況を理解することはできないのです。
多くの人が自らの抱える感情に翻弄されます。
多くの人が、感情に任せているのです。
それは、自分自身を理解していないということを示しています。
感情に翻弄されるのは、感情を制御することができていないためです。
理解していないために、翻弄され、制御することができないのです。
自分自身を理解することによって、感情に翻弄されることはなくなります。
これは、感情を失うということではありません。
様々な感情の働きを制御するというのは、それを活用することができるということなのです。
それは、井戸を掘って地下水を利用することや、水路を設けることや、溜め池を掘ることに似ています。
天から降り注ぐ雨を待つだけであれば、天候に翻弄されてしまうのです。
水の活用法を理解することによって、今までは翻弄されていた天候を制御することができるのです。
自分自身を理解することによって、人生を制御することができます。
ただし、それは、自分勝手に人生を展開させる力を得るということではありません。
雨が降っても、降らなくても、豊かさを導くことができるということなのです。
不可思議な自分の一面を理解することによって、状況や状態に翻弄されることがなくなります。
状況や状態に翻弄されないことによって、いつどこでも、人生は豊かさを得ることができるのです。
あなたは、不可思議を放置してはなりません。
あなたの感情の原因も、人生における状況の原因も必ず存在しているのです。
それを紐解くことが、豊かさを導くのです。
人生には不可思議なことが起こります。
それは、豊かさを導くためのヒントです。
理想通りに進まない不可思議なことを大切にしましょう。
それは、豊かさの原因であるからです。


2017年4月24日月曜日

異文化交流

人は、それぞれに人生を歩みます。
すべての人が、独自の道を歩むのです。
同じ道を歩むことのできる人はいません。
誰も、共に歩むことはできないのです。
すべての人が、独りで歩まなければなりません。
そのことを覚えておかなければなりません。
しかしながら、多くの人は人生が孤独の道であるということを知りません。
多くの人は、他者を必要としているのです。
人生において、他者の協力は重要な要素です。
人は、他者を通じて自分を知ることができます。
人は、互いに協力し合い、人生を築かなければならないのです。
しかしながら、あなたの人生を実際に歩むことができるのはあなただけです。
人は互いに協力しますが、それは、それぞれが自分の人生を歩むための助け合いです。
互いが依存するような関わりであってはならないのです。
あなたは他者を手助けし、他者に手助けしてもらえば良いですが、そこに依存を作り上げてはならないのです。
人はそれぞれの道を進まなければなりません。
それが、人生の目的であるのです。
人は、他者の人生を生きるために生まれたのではありません。
他者があなたの人生を生きるために生まれたのでもないのです。
それぞれが、自分の人生を歩むのです。
それが必要なことなのです。
あなたは、誰かを引き連れて行くことはできません。
他者を引き連れて行こうとすれば、他者の人生に干渉(かんしょう)することになり、他者の人生を妨害することになるからです。
それは理想によって導き出される行為であり、理想は歪んだ結果をもたらすのです。
あなたは人生に理想を持ち込んではなりません。
人は、自分の人生を、孤独に歩まなければならないのです。
他者と共に歩もうとすれば、互いの人生は立ち行かなくなってしまうのです。
あなたは、独立した人でありましょう。
互いの人生のために協力するのです。
自分のためだけや、相手のためだけに携わってはなりません。
あなたは自分の人生を尊重し、同時に他者の人生を尊重しなければならないのです。
すべての人は歴史が異なります。
すべての人は生まれが異なるのです。
それは、善悪のことではありません。
人生において学ぶことが異なるということなのです。
生まれが異なり、経緯が異なり、死が異なるのです。
すべての人が異なる目的のために人生を体験しているのです。
そのことを理解しなければなりません。
人が、同じ価値観を理解し合うことはできません。
理想を持ち込めば、人が分かり合えると考えることもできます。
しかしながら、現実には理解し合うことはできません。
それぞれが異なる歴史によって、異なる価値観を育んだのです。
人はそれぞれに文化が異なるということを理解しなければなりません。
それぞれの文化を放棄することはできません。
それは、それが人生の学びに関係しているからです。
自らの歴史を手放して、人生の目的を果たすことはできないのです。
あなたは、自分の道を歩まなければなりません。
それは簡単なことではありません。
多くの人が他者に影響を受け、自分の人生を見失います。
他者と同じ価値観を理解し合えると考えているのであれば、他者と同じ道を進もうと考えるでしょう。
それでは、自分の人生を見失います。
他者とは、異文化として交流すれば良いのです。
互いの人生を尊重し、干渉することなく、協力するのです。
あなたは自分の人生のために相手に貢献するのです。

2017年4月23日日曜日

螺旋

この世界に無駄は存在しません。
この世界には無益なものは存在しないのです。
この世界に存在するすべてに意味があります。
この世界に存在するすべてが最善であるのです。
しかしながら、この世界には無駄が存在しているように思えます。
無益なものを体験し、意味の無いようなことに拘(こだわ)り、最悪を得るように感じるのです。
それは、認識による結果です。
事実は同じものです。
しかしながら、人によって結果は異なります。
同じ事実を前にして、結果がそれぞれに異なるのは、認識が異なっているからに他なりません。
あなたが無駄や無益や無意味や最悪に出会う時、そのような認識に出会っているのです。
事実としては、この世界には無駄や無益や無意味や最悪は存在しません。
なぜなら、あなたは後にその認識を自らの意思によって覆(くつがえ)すからです。
無駄は価値となり、無益は有益となり、無意味は意義となり、最悪は最善となるのです。
事実は変わりません。
しかし、認識が変わるのです。
あなたは、自分自身の認識が世界を築いているということを理解しましょう。
事実を変えようとしてはなりません。
あなたがどのように努めようとも、事実が変わることは有り得ないからです。
他人や世界を変えようとしても無駄なことです。
変わるべきはあなたなのです。
自分自身が変わることが求められているのです。
それが、人生の目的であるということを覚えておかなければならないのです。
人生の目的は成長にあります。
この世界においては、すべてが成長を続けるのです。
すべてが成長のために行われます。
衰退(すいたい)ですら成長のために行われるのです。
例えば、老人が退(しりぞ)くのは、若人が社会を担うためです。
若人が豊かな社会を構築するためには、老人が退く必要があるのです。
すべては成長のために行われるのです。
それが無駄や無益、無意味や最悪に思えても、それは成長のために行われていることなのです。
人生は螺旋状(らせんじょう)に向上します。
それは、ゆっくりと上昇するために、変化に気付くことが難しいのです。
しかしながら、人生は確実に変化し、向上しているのです。
あなたは同じことの繰り返しだと思い込んではなりません。
残念ながら、人生は繰り返しではないのです。
繰り返しに見えるのは、人生が螺旋状に緩やかに向上しているためです。
同じようなことを繰り返してはいますが、その度に確実に向上しているのです。
しかしながら、多くの人はその変化に気が付かず、無駄や無益、無意味や最悪と認識して、人生を否定するのです。
そして、立ち止まるのです。
人生は常に向上を続けています。
そのため、次の状態の方が良いに決まっています。
残念ながら、急激な変化を見込むことはできません。
それは、あなたにそのような実力が備わっていないからです。
この世界には、因果の仕組みが存在しているのです。
そのため、すべてがあなたに相応しいのです。
あなたに相応しい学びに出会うのです。
あなたは諦めずに継続しなければなりません。
人生が向上し続けているということを信じましょう。
事実を受け入れ、それを大切にするのです。
変わるべきはあなたです。
事実である誰かや世界を変えようと企(たくら)んではなりません。
それでは、人生に対する見解を誤るのです。
すべてが最善であるということを理解しましょう。
それ以外に大切なことはありません。
人生が螺旋状に向上しているということを忘れてはなりません。

2017年4月22日土曜日

難しいこと

あなたは、難しいことを避けてはなりません。
あなたは、自分にとって難しいことを嫌ってはならないのです。
難しいことは、問題のために存在します。
それは、あなたが対峙せざるを得ない問題を解決するための助けとなるのです。
難しいことの助けがなければ、あなたは問題を解決することはできないでしょう。
多くの人は、難しいことを避けます。
多くの人は、簡単を求めているのです。
すべての人が問題と対峙します。
それを避けることのできる人はいません。
あなたも、問題と対峙せざるを得ない時がやって来るのです。
その時、多くの人は難しいことの助けを借りることができません。
それは、多くの人が難しいことを避けてきたからです。
難しいことを避けてきた結果、難しいこととの繋がりが離れてしまったのです。
多くの人は、難しいことが嫌いです。
容易に理解することができないものを否定します。
そして、容易に理解することができるものを受け入れるのです。
それは、人を安易な存在へと育てます。
多くの人は簡単なことしか理解することができず、難しいことを理解することができません。
そのため、問題は力を強めます。
それも、問題を抱える相手と相対的に姿を変えるのです。
問題を難しくしているのは、あなたです。
難しいことを理解することができなければ、問題は難しくなるでしょう。
難しいことを理解することができれば、問題は簡単なものとなるのです。
経験を重ねた者にとっては簡単な問題も、経験の乏しい者には難しいのです。
試験のために予習していない者は、難解な試験を受けざるを得ないのです。
人生における問題とは、あなたと相対的な姿を得るのです。
あなたが簡単な人間であるのならば、簡単な問題に苦しむでしょう。
あなたが難しい人間であるのならば、簡単な問題に苦しむ必要はないでしょう。
知らない者は苦悩するのです。
無知は人を苦しめ、人生を乏しいものとするのです。
多くの人が難しいことを避けていますが、その結果として、無知な者が育つのです。
無知な者には気力もなく、簡単な問題に捕らわれています。
残念ながら、人生における大抵の問題は簡単なものです。
それ等は、あなたが苦しむ必要のないものであるのです。
しかしながら、難しいことを避けてきたのであれば、苦しむ必要もない簡単な問題によって苦しむことになるでしょう。
あなたは、難しいことを避けてはなりません。
難しいことはあなたの助けとなるのです。
そのことを覚えておきましょう。
あなたは安易に生きてはなりません。
難しいことに向き合えば、見解が育ちます。
詰まらない問題に捕らわれてはなりません。
あなたが行わなければならないのは、詰まらない問題に終止符を打つことです。
残念ながら、あなたの抱えている問題は詰まらないものなのです。
あなたは問題に依存し、それによってネガティブな価値を創出しようとするでしょうが、残念ながらそこに価値は存在しないのです。
誰も助けはしません。
あなたは自分自身で自分自身を助けるのです。
そのためには、力が必要です。
力を身に付けるためには、難しいことから学ぶ必要があるのです。
多くの人が簡単なことをしています。
あなたが多くの人に倣(なら)って簡単なことから学ぼうとするのであれば、難しいことを理解することはできないでしょう。
本質とは、難しいことに取り囲まれた簡単ですが、難しいことを避けているのであれば、本質も避けることになるのです。
そのため、多くの人が本質を見失っています。
難しいことに挑戦しましょう。
難しいことを理解すれば、簡単なことはより簡単となるのです。
あなたは、難しいことのために難しいことを学んでいるのではありません。
簡単を得るために難しいことを学んでいるのです。

2017年4月21日金曜日

技を生きる

あなたは、人生を丁寧に生きなければなりません。
一つ一つの所作(しょさ)が重要なのです。
それは、自分を知るためです。
多くの人は自分を知りません。
多くの人は、自分について考えることはありません。
多くの人は、偽りの自分像を信じています。
自分を知らないのは問題です。
自分について考えないことは問題です。
自分を誤解していることは問題なのです。
自分に対する認識を誤っていれば、人生に対する認識も誤っています。
人生に対する認識を誤っているのであれば、満足や幸福に対する認識も誤っているのです。
もちろん、不足や苦悩に対する認識も誤っているのです。
認識が世界の在り方を決めます。
あなたの認識によって、世界はどのようにでも変化するのです。
すべての人の認識は誤っています。
正しく認識している人はいません。
誰一人として、認識の誤りを所有しない人はいないのです。
すべての人が未熟です。
そのことを理解しなければならないのです。
それは、行為によって明らかです。
すべての人の行為は歪んでいます。
それは、未熟な技なのです。
完全な技を扱う人はいません。
すべての人の行為は、不完全な技であるのです。
すべての人が後悔します。
それは、未熟であるからです。
未熟な技は歪んでいるのです。
それは、不自然さを導くのです。
すべての人が不自然さを抱えています。
不自然さこそが、誤った認識の正体なのです。
あなたは多くの不自然さを所有しています。
それを取り除く必要があります。
不自然さを取り除くためには、丁寧に向き合う以外に方法はありません。
一つ一つの所作を丁寧なものとし、技を磨かなければならないのです。
多くの人は、多くの不自然さと、未熟な技を抱えて後悔します。
しかしながら、丁寧に生きようとする人は少ないのです。
未熟さは弱さを導きます。
不自然さとは、弱さなのです。
自然とは、本質を指します。
不自然さを取り除いていくことによって、自然さを引き出すことができるのです。
自然とは、最も単純な形なのです。
技が磨かれ、認識が誤りを手放す程、その軌跡(きせき)は単純なものとなるのです。
それは、何度も修正していた線を、一度で引くようなものなのです。
技が磨かれるというのはそういうものです。
丁寧に向き合うことによって、技が磨かれます。
技が磨かれると同時に、認識も磨かれているのです。
一つ一つの所作を丁寧に行えば、今までには知り得なかった技を会得(えとく)することができるのです。
それは、単純な形をした技です。
それは、自然の技なのです。
あなたは技を通じて自分を理解するでしょう。
丁寧に生きる者には、深い認識が得られます。
粗雑(そざつ)に生きる者は、誤った認識を得るのです。
丁寧に生きなければなりません。
人は、自らの技を超えることはできないのです。
あなたの技が、あなたの価値を教えているのです。
粗雑に生きてはなりません。
一つ一つの技を丁寧に生きましょう。

2017年4月20日木曜日

個人の質と人生の質

あなたは、人生において自分自身を学んでいます。
すべての経験は、自分自身を知るための学びです。
すべての状況は、あなたに自分自身を教えます。
あなたは常に自分自身と向き合い、それを学ぶようになっているのです。
残念ながら、自分自身から逃れることはできません。
人生は、自分自身と向き合うための場所であり、時間であるからです。
あなたは人生を通じて、自分自身を体験しなければならないのです。
しかしながら、すべての人が人生を通じて体験する自分自身を嫌います。
人生を通じて自分自身を体験する程、あなたはそれを嫌うことになるのです。
すべての人が自分自身を嫌います。
それは、体験している自分自身という存在が既に歪んでいるということに気が付いているからです。
しかしながら、それは明確な自覚をもたらす訳ではありません。
心の深い場所で違和感に気が付いているのです。
すべての人が、自分自身という存在の不自然さに気が付いているのです。
しかしながら、それを明確な自覚として認識することができないために、嫌うという幼稚な手段を選択することになるのです。
大切なのは、理解を深めることです。
嫌うという行為は、理解とは対極の手段なのです。
嫌えば、理解を深めることはできないのです。
多くの人は、自分自身の違和感を嫌いますが、あなたはそれを嫌ってはなりません。
あなたは自分自身の違和感や不自然さを学ばなければならないのです。
人は他者や状況や環境など、多くのものに不満を抱きます。
それは、それ等を通じて教えられる自分自身の違和感や不自然さを嫌っているためです。
知るということは、すべての存在に備わっている陰陽とその仕組みを理解するということです。
自分自身という存在にも、陰陽が備わっているのです。
あなたの所有する自分自身という存在には、不自然と自然が備わっています。
しかしながら、自然よりも不自然が勝っているのが普通です。
そのため、人生を通じて体験する事柄は不自然なものが勝っているのです。
それは、問題として導かれます。
問題は苦悩を生み出すのです。
人生における苦悩とは、自分自身の抱える不自然さであるということを覚えておきましょう。
しかしながら、多くの人はそのことを知りません。
人は自分自身を体験しているだけであるのに、他者や状況や環境を体験していると思い込んでいるのです。
何かしらの問題が生じた時、多くの人は、それを自分以外の責任と考えます。
例えば、その問題を生じさせたのは、他者や会社や国など、自分以外の存在だと考えるのです。
そして、他者や会社や国などに変わることを求めるのです。
多くの人は、自分を変えようとは考えません。
多くの人は、自分以外を変えることによって、問題の解決を企(たくら)んでいるのです。
しかしながら、そのような方法は根本的に間違っています。
目測を誤れば、足場は崩れ、転落してしまうでしょう。
大切なのは、問題の本質が何であるのか?ということを見極めることです。
多くの人は、本質を探しません。
多くの人は、感情に従って、表面的な情報を鵜呑(うの)みにするのです。
残念ながら、本質は熟慮しなければ見出すことができません。
短期間で見極められる程、すべての本質は浅はかなものではないのです。
問題を自分以外の責任と考えている者には、決して見極めることはできません。
あなたがこの人生において変えられることがあるとすれば、それは自分自身だけです。
自分以外の何かに変わることを欲するのは傲慢(ごうまん)であるのです。
あなたは自分自身を顧(かえり)みて、自分自身を変えなければならないのです。
自分自身という個人を育てることが大切なのです。
人生において重要なのは、個人の働きであるということを覚えておきましょう。
これはあなたの人生です。
個人の質によって、人生の質が決まるのです。
人生の原因は自分自身です。
それ以外の原因は存在しません。
人生はあなたの認識によって築かれるのです。
そのため、すべての体験が自分自身であるのです。
誰かや何かを変えようと努めてはなりません。
そのような不自然であり、不健全なことに尽力してはなりません。
自分自身を改めることが自然であり、健全であるということを覚えておきましょう。

2017年4月19日水曜日

美しさと醜さ

あなたの経験することは、そのすべてがあなたに相応しく、あなたにとっての最善なのです。
あなたはすべての経験を最善と理解しなければなりません。
それがどのような経験であろうとも、あなたに相応しいのです。
しかしながら、多くの人はそのことを受け入れることができません。
それは、理想と現実との認識に差異(さい)が存在しているからです。
多くの人は、自らを正当化し、美化しています。
正当化と美化によって作り上げられた不自然な自分を自然な自分だと思い込んでいるのです。
そのため、多くの人にとっての基準は、無意識の内に理想となっているのです。
多くの人は理想を基準にして物事を考えています。
そのため、認識は理想に近付くのです。
理想とは、妄想です。
それは事実ではなく、願望に過ぎないのです。
理想という願望を抱いているのは、正当化と美化を認め、不自然な認識を抱く自分という存在です。
理想と現実は異なります。
理想には美しさが鏤(ちりば)められています。
それは、地上から眺める夜空のように美しく輝いているのです。
現実には、美しさと醜(みにく)さが共存しています。
それは、宇宙空間が”死の世界”であることを知らせるのです。
多くの人は理想を基準にして物事を考えます。
しかしながら、すべての人は現実に存在しているのです。
そのため、現実と理想の差異に苦しむことになるのです。
遠くから眺めるのであれば、どのようなものも美しいのです。
野原も遠くから眺めれば美しいのですが、草花は腐葉土から生じ、棘(とげ)や毒を所有し、昆虫や動物やその糞尿にまみれているのです。
理想を基準にして物事を考えている人は、文字通り”お花畑”を眺めているのです。
人生には苦悩が尽きません。
どのような人物の人生にも、問題(課題)が存在し続けるのです。
それが現実なのです。
理想を基準に物事を考える人は、問題や苦悩を否定します。
それが存在しない方が良いと考えているのです。
しかしながら、現実に目を遣(や)れば、豊かな人生にとっては、問題や苦悩が必要不可欠であることを知ることができるのです。
野原が美しく彩られるためには、腐葉土や棘や毒、そして、昆虫や動物やその糞尿が必要不可欠です。
理想を追求することによって美しさだけを残し、醜さを排除するのであれば、自然は歪んでしまうのです。
そこに導かれるのは衰退と荒廃であるのです。
不自然さは、衰退と荒廃を実現することを覚えておきましょう。
人生には問題も苦悩も付き物です。
敵となる人物は必ず現れます。
多くの人はそれ等を排除しようと考えます。
そして、不自然さを実現するのです。
人生には問題も苦悩も敵も存在して良いのです。
それが自然です。
それは、あなたが未熟であることが自然であるからです。
この世界には陰陽の仕組みが存在しています。
どのようなものにも、必ず陰陽の相互関係が成り立つのです。
陰陽の相互関係が成り立つことが自然であり、成り立たなければ不自然です。
俗に言う”良い話”が問題を引き起こすのはこのためなのです。
美しさだけでは不自然です。
醜さと共に大切にしなければなりません。
周囲に味方ばかりを集めれば、馴れ合いによって衰退して滅びるでしょう。
有利と思えば不利となり、不利と思えば有利となることを覚えておきましょう。
残念ながら、あなたの認識は歪んでいるのです。
歪んだ認識に従ってはならないのです。
不自然に頼ってはなりません。
理想を追い求めてはなりません。
現実を見詰め、すべての経験を大切に扱わなければなりません。

2017年4月18日火曜日

人生の栄養

すべての人は未熟です。
すべての人は、未熟な状態で生まれるのです。
そして、未熟な状態で生きていくのです。
人が未熟を手放すことはできません。
人生とは、未熟と向き合う時間だからです。
すべての人が自らの抱える未熟さと向き合わなければなりません。
未熟さと向き合う時、人は後悔するのです。
すべての人が後悔します。
後悔を避けることのできる人は存在しません。
それは、すべての人が未熟さを避けることができないからです。
後悔は、失敗によって導かれます。
失敗とは、理想に反した状況のことです。
人は理想に対して現実を評価しているのです。
理想を基準に物事を考えているために、失敗することを恐れるのです。
残念ながら、すべての現実は失敗です。
それは、あなたが未熟であるからです。
未熟者の選択は、そのすべてが失敗であるのです。
そのため、あなたがどのような選択を行おうとも、それは必ず失敗となり、後悔を導くことになるのです。
それが自然です。
失敗することもなく、後悔することもない人生は不自然なものなのです。
不自然な人生によって、豊かさが導かれることはありません。
不自然さとは、歪んだ状態であるからです。
人が失敗を恐れ、避ける時、人生は不自然なものとなるのです。
人は失敗し、後悔するのが自然です。
失敗をすることもなく、後悔もしないのであれば、乏しい人生が導かれることになるのです。
あなたは失敗を恐れてはなりません。
失敗を恐れることは、現実を恐れることです。
現実を恐れるのであれば、現実逃避という選択を行うのです。
現実から逃避して、人生が豊かであるはずがないのです。
人生とは、現実の出来事なのです。
失敗を重ねるほどに、あなたは現実に向き合い、人生に向き合うことができるでしょう。
失敗に対する免疫力を身に付けなければなりません。
失敗しなければ、成功はありません。
失敗し、後悔することがなければ、あなたは真剣に向き合うことをしないからです。
失敗し、後悔を経験した人は、真剣に向き合うことができるようになるのです。
しかしながら、成功という理想を追い求め、幻想の中に生きる人には、人生(現実)に対して真剣に向き合う心構えが育まれないのです。
そして、”取るに足らない”ことに不安や怒りの感情を露(あらわ)にするのです。
多くの人の執着している不安や怒りの対象は”取るに足らない”ことです。
それは、人生に対して何の価値もないものなのです。
しかしながら、未熟な本人には、それが重要なことだと思い込んでいます。
それは、愚者が快楽を貪(むさぼ)ることに明け暮れている姿に似ているのです。
愚者は、快楽を貪ることを重要だと考えています。
そのため、努力も忍耐も備わらないのです。
未熟者には、努力も忍耐も重荷です。
それ等を楽しいと理解することができないのです。
失敗をしても忍耐強く努力を続けることは楽しいのです。
あなたがそれを理解することができなければ、大きな未熟さを抱え、多くの誤解と矛盾を所有している状態であることを受け入れなければならないでしょう。
努力も忍耐も苦しいものではありません。
それに、難しいことではないのです。
失敗と後悔を良いものとして受け入れることによって、結果として努力と忍耐が導かれるからです。
失敗と後悔はあなたに多くの学びと成長をもたらしてくれます。
失敗と後悔は、あなたの栄養のようなものなのです。
それ等が不足すれば衰退します。
失敗と後悔を許せる度量を育みましょう。
自分自身に対しても、他者に対しても、失敗に対して寛容(かんよう)でなければ、栄養不足の詰まらない人生を生きることになるでしょう。
栄養が不足すれば、植物は花を咲かせないのです。
実りもありません。
失敗と後悔が重要なものであることを理解しましょう。

2017年4月17日月曜日

特別な人生の生き方

すべての人には、特別な人生が与えられています。
すべての人の人生が特別であるのです。
それは、すべての人が個別の役割を担っているためです。
あなたは、世界に一人しか存在しません。
あなたの他に、あなたの役割を果たすことができる人は存在しないのです。
そのため、すべての人が特別な役割を担い、特別な人生を生きているということなのです。
特別な人生を生きているということは、責任を所有しているということです。
すべての人が、特別な人生を生きる責任を所有しているのです。
あなたの人生は、世界で一つだけの特別な役割です。
あなたが責任を果たさなければ、世界で一つだけの特別な役割が果たされないということなのです。
あなたに重圧を掛ける意図はありませんが、あなたは自分が特別な存在であり、特別な人生を生きているということを自覚しなければならないのです。
残念ながら、多くの人は自分の人生を見失っています。
多くの人は、自分が特別な存在であるということを見失っているのです。
そのために、後悔が尽きないのです。
多くの人は自分の人生を見失っています。
そのため、一時の感情に流されるままに生きています。
一時の欲求を追い求め、次の欲求が現れるとそれを追い求めます。
それを繰り返している間に”浅瀬”を泳ぎ続けることになるのです。
”浅瀬”を泳ぎ続けたとしても、自分に成ることはできません。
それは、自分に成るためには、深く広い空間が必要であるからです。
浅はかな者が世界に貢献することはできません。
浅はかな者は無知を許し、愚かさを自慢するからです。
特別な役割を果たすためには、無知であっても、愚かであってもならないのです。
知性を磨き、賢くなければならないのです。
浅く狭い知識を所有したところで、特別な役割を果たす自分に成ることはできません。
特別な役割を果たす自分に成るためには、広く深い知識が必要であるのです。
あなたは”浅瀬”を捨て、大海へと向かわなければなりません。
”井の中の蛙(かわず)”であってはならないのです。
大海へと向かうには勇気が必要です。
そこには、多くの問題が存在しているからです。
それは、心の深部へと向かう旅路なのです。
心の”浅瀬”を生きている人は、一時の欲求に飲み込まれて弱い自分に支配されている状態です。
弱い自分に支配されている状態では、大きく成長することはできないのです。
心の深部を生きている人は、志(こころざし)を掲げて弱い自分に打ち克(か)ちます。
弱い自分に打ち克つ人は、大きく成長することができるのです。
あなたは、一時の欲求に飲み込まれて弱い自分に支配されてはなりません。
自分が特別な存在であることを思い出し、強く生きるのです。
あなたは自分の人生を諦めてはなりません。
自分を諦めてはならないのです。
あなたは特別な存在であり、特別な役割を担っているのです。
あなたは好きなことをしなければなりません。
好きなことができる人生にするのです。
多くの人が好きなことを諦めます。
しかしながら、それは豊かな人生ではないのです。
好きなことをするために尽力し、好きなことで世界に貢献するのです。
それが特別な人生の生き方なのです。
誰が何と言おうとも関係ないのです。
あなたの特別な人生の生き方は、他者には理解されません。
もちろん、あなたも他者の特別な人生の生き方を理解することはできません。
しかしながら、それで良いのです。
それぞれが特別であるために、他者を理解することはできないのです。
他者の人生を理解する必要などないのです。
それぞれが特別であるというのは、そういうことなのです。
弱い自分に打ち克ちましょう。
特別な人生を生きましょう。

2017年4月16日日曜日

繁栄と衰退

すべてのものは、繁栄と衰退を繰り返します。
それは、成長するためです。
どのようなものであろうとも、繁栄と衰退を所有しているのです。
成長のために、繁栄したものは必ず衰退し、衰退したものは必ず繁栄するのです。
この世界には、陰陽の仕組みが存在し、すべてのものにその性質が備わっています。
この世界において、繁栄を避けることのできるものは存在しません。
どのようなものも必ず繁栄するのです。
しかしながら、繁栄と同時に衰退をも避けることはできないのです。
それは、すべての存在が成長を避けることができないからです。
多くの人は、繁栄を望みます。
その一方で衰退を拒みます。
それは、傲慢(ごうまん)であるからです。
傲慢であるが故(ゆえ)に、自分にとって有利だと思えるものだけを受け入れるのです。
そして、自分にとって不利だと思えるものは否定します。
傲慢さが偏見を生み出し、偏見によって歪めるのです。
本来ならば、繁栄と衰退は同じものです。
それ等は同時に存在しているのです。
しかしながら、傲慢さを抱える者にはそれを理解することができません。
そして、繁栄と衰退を引き剥がそうと企(たくら)むのです。
その企によって繁栄と衰退を切り離したとしても、そこに生じるのは破滅なのです。
繁栄と衰退は同じものです。
それを二つに切り離すことによって、破滅が導かれるのです。
繁栄と衰退は二つで円形を作ります。
それを二分すれば、その場にとどまってはいられないのです。
半円形になれば、互いに離れることになるのです。
繁栄だけを求めても、衰退だけを求めても、そこに待っているのは破滅です。
重要なのは、繁栄と衰退の二つの性質を大切にすることです。
多くの人は、繁栄に好感を抱き、衰退には悪感(あっかん)を抱きます。
多くの人は、繁栄は役に立ち、衰退は役に立たないと思い込んでいるのです。
しかしながら、それは誤解です。
繁栄と衰退が円形を作り上げることによって、前進することができるのです。
繁栄を善とし、衰退を悪と考えてはなりません。
目的は成長にあります。
繁栄も衰退も目的ではないのです。
多くの人は繁栄と衰退を目的としているのです。
繁栄することを目指し、衰退しないことを目指します。
そのために、真の目的を見失うのです。
知性が真の目的を教えます。
知性に乏しければ、偏見に捕らわれることになるのです。
知性の向上こそが成長であるのです。
あなたは知性を向上させるために繁栄と衰退を体験しているのです。
知性は衰退によって生じます。
繁栄している時には、誰もが思慮を損ないます。
そして、誰もが内省(ないせい)を忘れるのです。
そのため、繁栄している時には誰もが知性を失います。
それは、外向に傾くことによって、自らの立ち位置を見失うからです。
立ち位置を見失えば、足を踏み外すでしょう。
足を踏み外せば、崖下(がいか)に落ち込んでしまうのです。
知性を失えば、繁栄を失うのです。
知性を失えば、衰退が導かれます。
衰退の中で、人は内省することができるのです。
内省することによって知性を見出し、自らの立ち位置を理解することができるのです。
立ち位置を理解すれば、足を踏み外すこともないでしょう。
衰退している時には、真っ直ぐに歩むことができるのです。
それは、繁栄の道なのです。
その繰り返しによって人は知性を高めるのです。
すべてのものが繁栄と衰退を繰り返すということを覚えておきましょう。
無駄な抵抗を手放し、自然と共に歩み、知性を高めましょう。

2017年4月15日土曜日

役割の欠片

すべての人が、役割を担って生まれます。
すべての人が役割を果たすために生まれるのです。
この世界において、役割を持たない者はいません。
それは、すべての人のすべての人生に意味があり、価値があるということなのです。
しかしながら、多くの人は自らの担う役割を忘れます。
それは、思い出すことに価値があるからです。
人は役割を見失います。
しかし、それを人生の様々な経験を通じて拾い集めることができるのです。
一つ一つの役割の欠片(かけら)を拾い集め、それを組み合わせる作業によって、役割に対する志を身に付けるようになるのです。
すべての人は未熟です。
そして、この世界においては、自主性が尊(とうと)ばれるのです。
人は未熟さによって完成したものを受け入れることや発展させることができません。
人が自主的に何かを受け入れ、発展させるためには、小さな欠片から始める方法が最善なのです。
一から始めたことであれば、愛着が生じます。
人は、完成されたものよりも、自主的に作り上げている未完成のものに価値を見出すのです。
それは、自主性こそが役割を知っているからです。
自主性が、あなたに自らの担う役割を伝えているのです。
簡単に言えば、”やりたいこと”や”好きなこと”が役割の欠片なのです。
あなたは、やりたいことや好きなことを通じて、自らの担う役割を思い出すのです。
ただし、やりたいことや好きなことに携わることは簡単な道のりではありません。
それは、そこに愛着が生じるからです。
愛着が生じるほど、苦悩も増えるのです。
愛着のある人や物が傷付くことや失うことは苦悩なのです。
そして、愛着のある人や物と向き合うことも苦悩に繋がるのです。
やりたいことや好きなことを行う道のりにおいては、苦悩を避けることはできません。
やりたいことや好きなことを避けるのであれば、苦悩を避けることができるでしょう。
そこには愛着が生じない分、無関心でいられるからです。
多くの人は苦悩を嫌います。
そのため、やりたいことや好きなことを避けます。
多くの人はその自主性において、やりたくもないことや、好きでもないことを通じて人生を体験します。
やりたくもないことや、好きでもないことからは役割の欠片を集めることはできません。
そのため、人生は可能性を狭め、乏しさを導くのです。
そこには不満や退屈が導かれ、それも苦悩として現れるでしょう。
しかしながら、乏しさの中に導かれる苦悩は不毛です。
やりたいことや好きなことを通じて導かれる苦悩は、多くの実りを与えるのです。
それは、人生という大地(道)が肥えているからです。
やりたいことや好きなことを通じて導かれるのは豊かさなのです。
それは、役割へと向かっているからです。
人が豊かな人生を生きるためには、役割を果たす必要があるのです。
自分でなければならないのです。
自分らしく生きることができない者には、決して豊かさは導かれません。
衣食住が富んでいようとも、心がそれを崩すのです。
心はそれを納得しないのです。
あなたは役割を果たさなければなりません。
誰も避けることはできません。
どのような人物にも、その人に相応しい役割と、自分らしい人生が存在するのです。
あなたはやりたいことや好きなことを行わなければなりません。
努力とは、やりたいことや好きなことをするために行われるものなのです。
我慢や辛抱を努力とは言いません。
多くの人は、努力の意味を履き違えているのです。
自分の役割を実現させるための行為こそが努力であるのです。
我慢して、辛抱して、やりたくもないことや好きでもないことをしたところで、努力をしている訳ではないのです。
あなたは努力しなければなりません。
自分の役割、自分らしい人生を実現するのです。
やりたいことや好きなことの無い人はいません。
勝手に諦めているだけなのです。
それを隠す必要はありません。
役割の欠片を集めましょう。

2017年4月14日金曜日

学び尽くす

あなたは何のために人生を経験しているのでしょうか?
考えたことがありますか?
理由も無く、生存を続けると思いますか?
生存競争の果てに子孫や財産を残すことが目的だと考えている人は多いでしょう。
自己の欲求を満たすためでしょうか?
すべての人は老いさらばえます。
老人には、若人(わこうど)の欲求は重荷となります。
老人は、欲求を手放すのです。
あなたは老いさらばえ、やがて死に飲み込まれるのです。
子孫とは別れなければなりません。
財産は捨て置かなければなりません。
欲求も子孫も財産も、そのすべてを失うのです。
失うもののために人生を経験しているのでしょうか?
そうではありません。
あなたは、失わないもののために人生を経験しているということを理解しなければなりません。
あなたが唯一失わないもの、それは学びです。
生涯を通じて、あなたが学びを失うことはないのです。
あなたは学ぶために人生を経験しているのです。
あなたは欲求も子孫も財産をも失いますが、それでも学びは残るのです。
あなたは常に学んでいるのです。
あなたは常に学んでいるということを覚えておきましょう。
何を学んでいるのでしょうか?
それは、自分という存在についてです。
自分とは、自分の役割のことなのです。
あなたは何のために人生を経験しているのでしょうか?
それは、自分という役割を知るためなのです。
経験する必要があるということは、知らないということです。
知らないがために、学ばなければなりません。
自分を学ぶために、目の前の状況が存在しているのです。
あなたの目の前に導かれる状況は、自分を知るための最善の学びなのです。
あなたの人生の目的は、学ぶためだと知りましょう。
多くの人は、学んでいるということを知りません。
そのために、目の前の状況を否定し、逃避し、見失うのです。
その立場でしか学べないのに拒絶するのです。
学ばずに拒絶するために学べないのです。
学ばなければ学ぶ必要が生じるのが自然です。
それは、学ぶために経験しているからです。
そのことを知らずにいる人が多過ぎるのです。
多くの人は、気に入らない状況に対して、軽々しく文句を吐きます。
多くの人は、自分の立場を弁(わきま)えずに、厚かましく文句を吐くのです。
残念ながら、目の前に導かれる状況は、あなたに相応しいのです。
あなただから、その状況が導かれるのです。
多くの人は自己を正当化し、美化しているものです。
そのため、目測を誤るのです。
自分の立場が分かっていないのです。
あなたの目の前に導かれている状況は、あなたに相応しく、あなたが学ぶためには最善のものなのです。
しかしながら、多くの人はそのことを理解することができず、理想としての別の状況を欲するのです。
その太々しい態度が、苦悩を導いているということに気が付かなければなりません。
傲慢(ごうまん)が人を苦しめるのです。
あなたは謙虚に学ばなければなりません。
相応しい状況から学ばずに、何から学ぶというのでしょうか?
文句を吐き、理想を追い求めたとしても、あなたが本当に必要としているものを手にすることはできません。
自己の欲求や子孫や財産に逃げても構いません。
しかしながら、それ等を失う日がやってきます。
人は後悔するように仕立てられていますが、後悔を軽減することはできるのです。
文句を吐かずに学んでみましょう。
過去や未来に惑わされず、”今”を生きるのです。

2017年4月13日木曜日

自然の一部

人は、自然に逆らって生存することはできません。
人は、自然の一部であり、自然を超える存在ではないのです。
しかしながら、多くの人は自分が自然を超越すると思い込んでいます。
その傲慢(ごうまん)さは、自然を歪める行為へと向かうのです。
多くの人が不自然を自然としています。
それは、その傲慢さによって、不自然を自然と位置付ける認識を得るからです。
傲慢を抱える者は、自然を知ることはできません。
傲慢を抱える者は、その傲慢さ故(ゆえ)に自然を知ることができないのです。
傲慢は物事を歪めます。
傲慢はすべてを不自然なものにするのです。
そのため、多くの人は不自然を自然と思い込んでいるのです。
例えば、人の作る田畑は自然ではありません。
そして、そこで栽培される作物も自然ではないのです。
それ等は傲慢による作為が生み出した不自然なのです。
虫も食わない作物が自然なのでしょうか?
自然界に存在する命に対して、命は解放されているのです。
命は、他の命のために存在しています。
しかしながら、人の作る田畑にはその働きがないのです。
その不自然さに気が付く者は少ないのです。
それは、多くの人が傲慢に陥っているからです。
多くの人は、傲慢による作為によって自然を不自然へと歪めるのです。
あなたは、目の前の事実を受け入れることができますか?
目の前に導かれる事実は自然です。
しかしながら、多くの人はその自然を受け入れることができません。
傲慢が理想を持ち込み、自然を否定し、新たな状況を導こうとするのです。
傲慢は事実を理想に書き換えようとするのです。
理想とは不自然です。
しかし、多くの人はそのことに気が付きません。
理想が最善と思い込み、事実を否定するのです。
事実が自然です。
あなたはそのことを理解しなければならないのです。
壊れゆくものは壊せば良いのです。
しかしながら、多くの人は壊れゆくものを壊しません。
生じ得るものは生じさせれば良いのです。
しかしながら、多くの人は生じ得るものを生じさせません。
それは、そこに傲慢が存在しているからです。
壊れゆくものを壊さず、生じ得るものを生じさせないことによって矛盾が導かれるのです。
矛盾が苦悩を導くことを知っている人は少ないのでしょうか?
矛盾とは、不自然のことなのです。
その不自然さが問題の原因であり、苦悩の種であるということに気が付く必要があるのです。
自然に逆らうことによって、人は自らの可能性を途絶えさせてしまうでしょう。
自然の一部であるあなたは、自然を離れて生存することはできないのです。
傲慢に陥る多くの人が考える自然を超越したものは不自然です。
自然とは調和の中に存在しています。
自然を超越するためには、自然と争わなければなりません。
争いからは問題と苦悩が生み出されるのです。
すべてが因果の仕組みによって導かれるということを理解しましょう。
多くの人は事実を否定し、理想を実現しようと企(たくら)みます。
しかしながら、理想を実現しようと企んだ先に待っているのは事実です。
それは、より不自然になった事実なのです。
どこかのタイミングで、不自然さに気が付き、それを受け入れる勇気を持たなければなりません。
傲慢に陥っている者にとって、自らの非を認めることは簡単なことではありません。
しかしながら、それ以外に自然を得る方法はないのです。
不自然を手放し、自然と共に生きましょう。
自らの不自然さに気が付くのです。
あなたは何のために生まれたのですか?
あなたは誰ですか?
この問いを考える時、あなたは自らの不自然さに気が付くでしょう。

2017年4月12日水曜日

源泉

すべての人は、自分を知らなければなりません。
誰もが、自分を所有しています。
自分とは、この世界、この人生における役割のことです。
すべての人は、自分という役割を演じる必要があるのです。
誰もが、自分らしく生きることを求められます。
自分らしく生きることをしなければ、人は苦悩と後悔を得るようにできているのです。
苦悩と後悔を抱えている人は、自分らしく生きていないだけです。
苦悩と後悔を抱えている人は、自分らしく生きるだけでその問題を解決することができるのです。
とても単純な仕組みなのです。
自分らしさとは、自然です。
自然を手放すことは、不自然を手に入れるということです。
不自然が、人に苦悩と後悔を導くのです。
人生における問題の原因とは、自らの不自然さにあるということを覚えておきましょう。
それは、誤解と矛盾です。
人は、誤解と矛盾によって自分らしさを見失い、自然を手放すのです。
大切なのは、自分らしく生きることです。
自分の人生を生きることが重要なのです。
しかしながら、多くの人は自分らしさを見失っています。
それは、多くのものを求め過ぎているからです。
多くの人は、誤解と矛盾を抱えています。
それが”普通”です。
普通の人は、誤解と矛盾を抱えながら生きるのです。
それは、劣等感から生じる欲求です。
多くの人は、劣等感によって恐怖を抱え、それが誤解と矛盾を引き起こすのです。
恐れているために、より多くを求めます。
多くを得れば満たされると思い込むのです。
多くの人は、拡大することを求めているのです。
拡大することが幸福であり、豊かさだと思っているのです。
しかしながら、拡大する程に人は自分らしさを見失うのです。
それは、拡大する程に本質から遠ざかるからです。
本質とは、最も単純な形です。
それは、最も小さな形なのです。
縮小する程に本質に近付くのです。
あなたはそのことを覚えておかなければなりません。
あなたが自分らしさを知りたければ、拡大しようとする欲求を手放し、縮小しようとする欲求を大切にしましょう。
それは、川の流れを逆らうようなものです。
川は下流ほど大きくなり、その水は濁(にご)ります。
それは、流れ行く間に、多くの”もの”を取り込むからです。
それは一つの豊かさの形であるでしょうが、本質を理解するためには役立ちません。
本質は、最も単純な形であるからです。
川は上流ほど小さくなり、その水は透き通ります。
源泉は小さな湧き水や水滴に過ぎません。
その水には不純物は限りなく少ないのです。
川の本質は水滴です。
しかし、流れ行く間に自分らしさを見失い、自らを大河と見做(みな)すのです。
拡大するほどにそこには命が溢れ、命の数だけ”争い”が生じるのです。
それは、人の心(世)にも同じことが言えます。
人は多くを求めるほどに自分らしさを見失い、同時に多くの財産を得ます。
人の心は、本質から遠ざかり、不純物を蓄えるほどに争いを生じさせるのです。
人が争わない方法は、自分らしく有ることです。
ただ、それだけです。
源泉が流れを争うことはありません。
源泉からの支流が別の支流とぶつかり、その流れを争うことによって主流を決めるのです。
あなたは大海で争っている場合ではありません。
人生は短いのです。
あなたは川を遡(さかのぼ)り、その源泉、水滴を見付け出さなければなりません。
時流や他者に流されてはなりません。
自分らしく生きるのです。
拡大する欲求を縮小する欲求に変え、外向を内向に変えてみましょう。
そうすれば、川を遡ることができるでしょう。
自分らしさを知ってからでも、人生を生きることは遅くありません。

2017年4月11日火曜日

難解な方法と単純な答え

どのような人物も答えを探しています。
どのような人物も、答えが欲しいのです。
どのような人物も問います。
どのような人物も疑問を抱くのです。
人生には問題が生じます。
その度に答えを必要とするのです。
問題に対する答えを得なければ、人は苦悩を得ることになります。
そのため、人は答えを欲するのです。
多くの人は、できる限り簡単に答えを得ようと考えます。
それは、人間が怠慢(たいまん)であるからです。
人間は苦労することを嫌います。
人間は、楽を求めるようにできているのです。
人間の本性に従う者は、残念ながら納得する答えを得ることはできません。
それは、常に簡単な方法を求め、苦労を回避するために、難解な方法による回答を得ることができないからです。
本質とは単純なものではありますが、簡単なものではありません。
本質を得るためには、難解な方法が必要であるのです。
知識と経験の少ない者には、本質を理解することはできません。
何かの本質を理解するためには、知識と経験を十分に蓄えた賢者でなければならないのです。
答えは単純なものです。
しかし、そこに辿り着くためには、困難が存在しているということを理解しましょう。
すべての人物が答えを求めています。
しかしながら、納得することができる答えとは、本質的なものなのです。
あなたが納得するためには、本質に向かう必要があるのです。
本質に向かうためには、簡単な方法によって得られる答えで満足してはいけないのです。
簡単な方法によって得られるのは、本質からは遠い答えなのです。
残念ながら、それは余り役には立ちません。
本質から遠い答えというものは、見当違いの答えなのです。
本質に近付く程に、難解な方法が求められます。
知識と経験によって知性が育まれるのはそのためです。
人は知識と経験を重ねます。
それは、誰もが避けることのできない理(ことわり)です。
その理由は、知性を育み、難解な方法に答えを導き出すためなのです。
それは、本質に近付くためには必要不可欠なことなのです。
知性の高まりによって、人は本質に近付くことができるのです。
納得する答えを必要としているのであれば、知性を磨くことが重要なのです。
無知な者が納得する答えを得ることはできません。
何も知らず、幻想の中で利己的な満足感に浸ることはできますが、それもいつかは覚めるのです。
幻想から目覚めた時に待っているのは、後悔という新たな問題なのです。
そこでは、新たな答えが必要となるのです。
あなたは知識と経験を集めなければなりません。
見聞を広める必要があるのです。
善悪を無視して情報を集めなければなりません。
それは、善悪を決めているのが自分自身の解釈に過ぎないからです。
解釈とは偏見です。
すべての人物の解釈は、例外なく偏見なのです。
そのため、情報、知識、経験に善悪を用いてはなりません。
悪と思えることからも学ぶべきことはあるのです。
悪と思えることからしか学べないこともあるのです。
様々な情報の果てに答えが見えるのです。
偏見によって見出す答えは、本質からは遠いものなのです。
悪と思えることから学ぶことは簡単なことではありません。
敵を慰め、悪事を許し、それ等を受け入れることは難解なことです。
しかしながら、そういう方法を用いなければ見えない答えが存在しているのです。
人は、難解な方法を用いて、単純な答えを得るのです。
本質(答え)はとても単純なものです。
しかし、それを得るのは簡単ではないということを覚えておきましょう。

2017年4月10日月曜日

本質は変わらない

本質は、変わることなく存在し続けます。
変わることがないために本質であるのです。
すべてのものには本質が存在しています。
あなたにも本質が存在しているのです。
本質の存在しないものはありません。
どのようなものにも、必ず本質が存在しているのです。
本質とは、真(まこと)です。
それは、深層に存在しているのです。
本質が表立つことはありません。
すべての本質は、深層に隠されているのです。
それは、本質を守るためです。
本質は大切なものなのです。
それを汚す訳にはいきません。
そのため、見えない場所、手の届かない場所に隠されているのです。
本質を変えることはできません。
本質は変わらないのです。
人の本質も変わりません。
あなたの本質も変わりません。
あなたは、自分の本質と一生涯付き合わなければなりません。
しかしながら、人にとっての本質とは役割のことです。
すべての人にとって、その役割は重要なものです。
それは、その役割こそが、真の満足を導くものだからです。
あなたが本当の意味で満足を得ようと考えるのであれば、自らの役割に従う必要があるのです。
本質を理解することなく、真の満足を得ることはできないのです。
多くの人は、本質を理解しようとはしません。
多くの人は、自らの本質に興味がないのです。
多くの人は、表層に現れる偽りを楽しむのです。
本質は深層に隠されています。
それを知ることは簡単ではありません。
しかしながら、表層の偽りを知ることは簡単です。
多くの人は難しいことが嫌いなのです。
そのため、簡単なことを好みます。
多くの人は深層に存在している本質と向き合うことなく、快楽(苦悩から逃れることも同じ)に彩られた生存を続けるのです。
しかしながら、人は本質を手放すことはできません。
そして、本質は自らと共に存在し続けるのです。
すべての人が、自らの役割を抱えているのです。
すべての人が、いつかは自らの役割と向き合う必要性を迫られるのです。
誰も逃れることはできません。
無関心による放置も、嫌悪による逃避も、役割を不利な状態に近付けるだけです。
あなたは本質に向かわなければなりません。
少しでも、本質に近付く必要があるのです。
それが人生の目的であり、真の満足を得る方法だからです。
人の本質は変わりません。
どのような人物も、自分の役割から逃れることはできません。
あなたは自分を変えることはできません。
あなたはいつまでも自分であるのです。
有りの儘(まま)の自分で有ることが大切なのです。
それが自然なのです。
しかしながら、自分の本質を知るための努力を欠かしてはなりません。
あなたは自分を知るために努めましょう。
変わることがあるとすれば、それは自分自身に対する認識です。
自分を知ることによって、自分に対する認識が変わります。
自分に対する認識が変わることによって誤解が解け、自分の形が変わるのです。
表層には、偽りの自分が現れています。
深層に近付くに連れて、真の自分が現れてくるのです。
本質は変わりませんが、自分の形は変わります。
あなたは、自分を知ることによって新たな自分と出会うでしょう。
新たな価値観を張り付けることで、自分を別物に変える必要はありません。
自分の深層に向かうだけで良いのです。
寧(むし)ろ、余計な価値観を剥ぎ取れば良いのです。

2017年4月9日日曜日

何を得ても良い

人生の目的は学ぶことにあります。
それは、成長を実現するためです。
あなたは成長するために学んでいるのです。
成長する目的は、理解するためです。
あなたは自分自身を理解し、人生を理解するために生まれたのです。
そのために、様々な環境で、様々な立場によって、様々な事柄を学んでいるのです。
あなたは自分自身を理解し、人生を理解することができれば満足することができます。
しかしながら、多くの人はそのことを知らず、肉体の欲求を満たすことによって得られる不完全な感情を満足と誤解しているのです。
残念ながら、肉体の欲求を満たすことでは、あなたが満足することはありません。
それは、肉体というのは道具に過ぎないからです。
肉体の欲求を満たすことは、道具の整備を行うのと同じことなのです。
道具の整備を行うことでは、目的を果たすことはできません。
あなたには、その道具を使って果たすべき目的があるのです。
美しく飾っておくだけであれば、道具に価値はありません。
多くの人は、道具を美しく保つことに専念します。
道具は美しいことに越したことはありません。
しかしながら、道具を美しく保つことが目的となってはならないのです。
あなたは道具を活用し、目的を果たさなければなりません。
肉体の欲求を満たし続けることによっては、人生に対して満足を得ることはできません。
肉体という道具を使っている存在は、道具によって得られる成果を喜ぶからです。
筆(ふで)を使う者は、文字や形、そこから導き出される世界観を喜びます。
鋏(はさみ)を使う者は、切断することによって導き出される可能性を喜ぶのです。
どのような道具であろうとも、それを飾っておくことには価値がありません。
あなたは肉体の欲求を満たすだけの生き方を手放しましょう。
道具を整備することは基本的なことであり、当然のことです。
基本的なことを目的としてはならないのです。
重要なのは応用することによって得られる変化によって得られる新たな価値なのです。
知識を蓄えるだけでは、何の価値もありません。
あなたは蓄えた知識によって、新たな経験をし、そこから知性を生み出さなければならないのです。
知識を蓄えることは基本的なことであり、当然のことです。
知識を蓄えることで満足してはなりません。
肉体の欲求(知識欲も含めて)を満たしたところで、そこから自分自身と人生を学ばなければ価値はありません。
そのため、あなたは目的意識を手放してはならないのです。
あなたは何のために生きているのですか?
この問いを見失っては、五里霧中(ごりむちゅう)に陥(おちい)ることになるのです。
人生の目的を見失わなければ、”小さなこと”に拘(こだわ)ることもなくなるでしょう。
多くの人は人生の目的を見失っています。
そのため、肉体の欲求や自らの立場などの”小さなこと”に拘ることになるのです。
肉体の欲求や、自らの立場など、人生を考察すれば”小さなこと”なのです。
あなたは、どのような立場を得ても良いのです。
富むことになっても、貧することになっても良いのです。
健康でも、不健康でも良いのです。
集団に属していても、孤独に従っていても良いのです。
ポジティブでも、ネガティブでも良いのです。
生きても、死んでも良いのです。
大切なのは学ぶことです。
状況とは、”器”に過ぎません。
あなたが必要としているのは、”器”の中の食物であるはずです。
中身を得なければ、学ぶことはできないのです。
”器”に見惚(みほ)れて食物を腐らせてはなりません。
腐った食物では、腹を痛めるのです。
それでは、肉体の整備も意味を成さないのです。
喜びのために肉体の欲求を満たすことに勤(いそ)しむ者は、却(かえ)って苦しむことになるでしょう。
どのような状況、立場を得ようとも学びましょう。
そうすれば、却って喜びを得るでしょう。

2017年4月8日土曜日

選択肢の再考と選別

すべての人には、必要な役割が与えられています。
人は、自らに与えられた役割に従って成長し、全体に貢献する必要があります。
人生の目的は個人的な成長と、全体への貢献なのです。
すべての人は個人的な成長を目指さなければなりません。
個人的な成長を目指している過程において、全体への貢献も実現することができるのです。
個人的な成長を目指すことがなければ、全体への貢献を実現することはできません。
個人的な成長と全体への貢献に役立つことがなければ、人生の目的を果たすことはできないのです。
人生の目的を果たすことによって、人は満足を得ることができます。
それは、自分勝手な自己満足のことではありません。
自分自身も、全体(例えば、他者)も満足する人生のことです。
主観的、客観的に納得する人生にこそ、人は満足することができるのです。
しかしながら、人生は自らの意思によって選択することが許されています。
それは、人生が焦ってはいないからです。
人生は、あなたの意思に任せているのです。
あなたが自らの意思によって、自己成長と全体への貢献を目指すまで待ち続けているのです。
しかしながら、あなたはいつまでも拒絶し続けることはできません。
なぜなら、この世界には因果の仕組みが存在しているからです。
すべての結果には、それに相応しい原因が存在しているのです。
そのため、目の前に導かれるすべての状況には、それに相応しい自己選択(思考や行為)が行なわれているのです。
あなたが受け取るすべての状況は、あなたの選択によって導かれる当然の結果です。
しかしながら、それを受け入れられない人が多いのです。
目の前の状況を受け入れられないことによって、人の意思には反感が芽生えます。
反感は責任転嫁を引き起こし、結果に対する原因を隠してしまいます。
本来ならば、導かれる状況から自分自身の現状を学ぶべきであるのです。
しかしながら、反感による責任転嫁は、誰かや何かを原因として仕立てるように働くのです。
すべての状況は自己選択の結果に過ぎません。
当然のことながら、誰かや何かが原因であるはずがありません。
それは、誤解であり、矛盾を生じさせるのです。
誤解と矛盾の中で、個人的な成長と全体への貢献を実現することはできません。
誤解と矛盾は、人を暗中(あんちゅう)へと陥(おちい)らせるからです。
あなたにとっての最善とは、目の前の状況の原因を自分の選択以外に探さないことです。
誰かや何かのせいにするのは簡単です。
それが、望ましくない状況であるのならば、責任転嫁を望むでしょう。
原因は、個人的な成長不足と、全体への貢献の不足にあるのです。
それ以外の原因を探すべきではありません。
誰かや何かのせいにして恨(うら)んだとしても、そのような方法は何の解決にも繋がりません。
自分自身の選択を見直す方が健全であるのです。
人は、それぞれに違う役割を与えられています。
役割が違うのだから、必要も違うのです。
あなたは自らの役割に従って成長する必要があるのです。
誰かのように成長する必要はないのです。
人は、誰かのようになろうとします。
しかしながら、誰かのようにはなれません。
それは、役割が違うからです。
誰かに対する憧れは、誰かに対する依存という側面を含んでいるのです。
誰かに対して依存しているために、目の前に導かれる好ましくない状況を誰かや何かのせいにすることができるのです。
選択肢の選別が求められます。
あなたは、自分の中の”当たり前”を再考しなければなりません。
そうすれば、自分の役割にとって重要でないものに気が付くはずです。
人は、万能にはなれません。
それは、役割を与えられているからです。
そのため、人は一つの歯車として成長し、全体へ貢献するべきなのです。
あなたの役割にとって重要ではないと思える選択を手放しましょう。
あなたは”良い子”になる必要はないのです。
他者の顔色を伺うということは、他者に依存しているということです。
世間の顔色を伺うということも同じです。
全体への貢献を実現するためには、個人的な成長が必要不可欠なのです。
自らの役割にとって重要でないことを切り捨てましょう。
自らの役割にとって重要でないことを断りましょう。
ただし、何が必要であり、何が不要であるかは、体験してみなければ分かりません。
そのため、”食わず嫌い”ではなりません。
実際に体験してみて決めるのです。
選択肢の再考と選別を忘れてはなりません。

2017年4月7日金曜日

目覚め

多くの人は、問題に対して嫌悪を抱きます。
多くの人は、問題を回避するために尽力するのです。
それは、問題を嫌悪することによって、問題が苦しみの原因であると考えているからです。
残念ながら、苦しみの原因は問題ではありません。
あなたが問題を抱えて苦しむことなど有り得ないのです。
問題を抱えて苦しいと思い込むことはあるでしょう。
しかし、問題を抱えたからといって、苦しむということはないのです。
苦しみの原因が問題であるのならば、問題によって得られる喜びは存在しないのでしょうか?
残念ながら、問題が導く感情は、苦しみよりも喜びの方が多いのです。
問題を抱えて苦しむ人は、認識が浅いと言わざるを得ません。
問題というものを深く観察し、熟考していないことによって、感情論を振りかざしているに過ぎないのです。
残念ながら、感情を信用することはできません。
なぜなら、同じ対象に対しても、感情は対極の反応を示すからです。
例えば、死に対して嫌悪を抱く人がいます。
大半の人は、死に対して嫌悪を抱くでしょう。
それは、死が悪いことだという証明になるのでしょうか?
死の本質は苦しみなのでしょうか?
一部の人は、死に対して嫌悪を抱くことはありません。
自ら命を断つ人もいるのです。
死を美徳と捕らえている人もいるでしょう。
死を喜ぶ人もいるのです。
それでも、死の本質は苦しみと言えるでしょうか?
感情論を用いれば、視点は主観に捕らわれてしまいます。
あなた(個人)の主観が、対象の本質を捕らえることなどないのです。
死は、ある人には苦しみであり、ある人には喜びであるという視点を得なければ、その本質を得ることはできないのです。
多くの人は主観によって問題を苦しみと結び付けます。
そのため、問題を回避することに尽力しているのです。
問題は、ある人には苦しみであり、ある人には喜びであるのです。
物事には、必ず二面性が存在するのです。
この世界には、陰陽の仕組みが存在しているのです。
多くの人が認識しているのは、問題の一面に過ぎません。
一面を認識するだけでは、その本質を理解することなど不可能なのです。
あなたは、問題がどうして生じると思いますか?
そして、問題は何のために生じると思いますか?
問題が生じるには理由があるはずです。
この世界には、理由の無い事柄は存在しないのです。
あなたには、理解することのできない理由も存在しますが、それも感情論に過ぎません。
無知なあなたには、大抵の理由を理解することができません。
しかしながら、問題を体験し、無知を克服したあなたには、その理由を理解することもできるのです。
その時、問題は喜びとなるのです。
結局のところ、人は主観によって世界を歪めているに過ぎません。
勝手に苦しんでいるということなのです。
問題が苦しみを生み出しているのではありません。
苦しみを生み出しているのは、自分自身であるということを理解する必要があるのです。
問題を苦しみとしないためには、学ぶ以外に方法はありません。
多くの人は無知を良しとします。
視界が歪んでいることが気にならないのです。
歪んで見えている”それ”を幸福と呼んでいるのです。
多くの人は、幻想を生きているのです。
深く観察し、熟考しましょう。
そうすれば、視界の歪みに気が付くはずです。
視界の歪みに気が付けば、幸福を幸福だとは思えなくなります。
そして、苦しみを苦しみとも思えなくなるのです。
幻想から目覚めれば、本質である現実と向き合うことができるでしょう。
学ばなければなりません。
知性を磨くのです。
感情論を振りかざして自己の正当化を図っている場合ではないのです。
様々なものに抱いている幻想から目覚めましょう。

2017年4月6日木曜日

自分自身

人生は、自分自身を知るための時間です。
あなたは常に自分自身と向き合い、それを知ろうとしています。
多くの人は、他者や状況や環境、そして、時代と向き合っています。
しかしながら、あなたは、他者や状況や環境、そして、時代を通して自分自身と向き合っているのです。
人生には、自分自身しか存在しません。
人生の本質とは、自分自身なのです。
だだし、これは傲慢(ごうまん)に陥るための誘(いざな)いではありません。
多くの人は、人生の本質が自分自身だと聞けば、誤解によって自己中心的な思考に陥ってしまう可能性もあるでしょう。
あなたは誤解してはなりません。
人生は身勝手に生きる時間ではないのです。
寧(むし)ろ、自分自身を知るということは、謙虚に生きるということなのです。
傲慢を手放し、謙虚さを得るために、あなたは自分自身を知る必要があるのです。
多くの人は傲慢に陥っています。
多くの人は自分が正しいと思い込んでいます。
多くの人は誤解し、矛盾を抱えます。
多くの人は否定し、拒絶します。
多くの人は対立し、争います。
多くの人は苦悩し、悲しむのです。
これ等は傲慢によって導かれる働きです。
傲慢に陥っている者は皆、このような流れの中に存在するのです。
人が傲慢に陥るのは、自分自身を知らないためです。
自分自身を知る者は謙虚になり、自分自身を知らない者は傲慢に陥るのです。
傲慢であれば、人生に豊かさを実現することはできません。
傲慢な者には、満足も安らぎも得られないのです。
傲慢な者は常に苦しみます。
それは、自らの愚行によって苦しむのです。
他者や状況や環境、そして、時代はあなたの苦しみに関係ありません。
誰とどこで何をしようとも、あなたは自らの選択の結果を受けるのです。
傲慢に陥れば、苦しみを選択します。
謙虚に至れば、喜びを選択するのです。
人生は、自分自身を知るための時間です。
人生の目的は自分を知ることにあるのです。
目的に沿(そ)っていれば、喜びを得ることは自然です。
目的に反していれば、苦しみを得ることは自然なのです。
あなたが人生を豊かなものにしたいと考えているのであれば、自分自身と向き合う必要があるのです。
他者や状況や環境、そして、時代と向き合ってはなりません。
本質は、そこには存在しないのです。
どのような人物でも、どのような状況でも、どのような環境でも、どのような時代でも構わないのです。
それ等の外敵要因がどのように変化しようとも、自分自身を知るということには変わりないのです。
あなたはすべての時間を通じて教えられている自分自身を知りましょう。
そうすれば、自分自身にとって何が必要であるのかを知ることができるでしょう。
多くの人は理想を追い求めます。
理想が正しいと思い込んでいるのです。
残念ながら、理想が正しいことはありません。
残念ながら、理想があなたを幸福にすることはないのです。
なぜなら、あなたは自分自身を知らないからです。
自分自身を知らないあなたの理想が、どうしてあなた(自分自身)を幸福にするのでしょうか?
自分自身を知らない者の理想など、歪んだ妄想(もうそう)に過ぎないのです。
理想を追い求めるものではありません。
理想を追い求めることで人は謙虚さを見失い、やがては傲慢に陥るのです。
理想を追い求めるのは傲慢です。
現実が最善の学びであるはずです。
現実を否定し、理想を追い求めるということは、最善の学びを否定するということなのです。
最善の学びを否定することは傲慢であるのです。
分(ぶん)を弁(わきま)える必要があるのです。
現実こそが、あなたにとっての分相応です。
目の前の現実を否定するような傲慢な者が、それ以上の豊かさを得ることなどできるはずがないのです。
あなたは自分自身を知りましょう。
そうすれば、理想が最善ではないことを知るでしょう。
自分自身を知って、分相応な人生を生きるのです。

2017年4月5日水曜日

人生の荷物

すべての存在は、成長を目指します。
すべての存在が成長という理(ことわり)に導かれているのです。
この世界において、成長を否定することのできる存在はいません。
すべての存在が例外なく、成長を目指さなければならないのです。
しかしながら、成長には様々な段階が存在しています。
多くの人は、成長の一部を切り取って、それを成長と呼んでいるのです。
多くの人は、拡大することを成長と考えてます。
物事が豊かに膨張(ぼうちょう)し、多くを蓄えることを成長と呼ぶのです。
多くの人にとって、成長とは増大することであるのです。
物事が増大することは成長です。
それは成長に間違いありません。
しかしながら、それは成長の一部に過ぎません。
どのようなものも、増大し続けることはできません。
それは、物事には定められた限界というものがあるからです。
あなたは筋力の限界を超えて荷物を抱えることはできません。
多くの荷物を抱えようとしても、それを支える筋力には限界が存在しているのです。
限界はそれぞれに異なりますが、必ずそれは存在しているのです。
そのため、どのようなものも増大し続けることはできないのです。
成長の始めは拡大です。
しかしながら、限界を超えて拡大することはできません。
それは、無駄であるからです。
そのため、次に方針を変える必要があるのです。
次の成長は洗練です。
限界にまで拡大した後は、縮小を始めます。
それは、成長の形です。
縮小することが成長なのです。
拡大することが成長であると信じている間は、限界を超えてしまいます。
それでは、成長することはできません。
拡大するということは、余計も抱えているということです。
余計を抱えているために拡大するのです。
本来ならば、本質を抱えていれば良いのです。
本質とは、最も単純なものです。
拡大する程に、それは本質を離れます。
しかしながら、本質を得るためには拡大する必要があるのです。
それは、比較しなければならないからです。
様々なものを比較することによって、本質に近付くことができるのです。
始めに拡大するのは、比較対象を得るためです。
多くのものを比較することによって、人は本質の在り処(か)に気が付くことができます。
そして、本質の在り処に気が付くことによって、余計を理解することができるのです。
余計を理解すれば、それを削ぎ落とすことができます。
余計を削ぎ落とすことによって、本質を残すことができるのです。
拡大することがなければ、洗練することはできません。
多くの中から選ぶことに価値があるのです。
拡大することもなく、本質を理解することはできません。
そのため、すべての成長は始めに拡大します。
そして、拡大した状態から縮小し、洗練されるのです。
成長の目的は、本質を見極めることにあります。
本質とは理のことです。
人はこの世界の理を理解する必要があるのです。
それは、自分の人生の目的を見極めるためでもあるのです。
理を理解することによって、自分を理解することができます。
自分を理解することができれば、人生の目的を理解することもできるのです。
人生の目的を理解することができれば、他者と張り合う必要はないでしょう。
理を理解すれば、他者と張り合う必要がなくなるのです。
成長を拡大と考えている者は、他者と争うことになるでしょう。
他者と争い、打ち勝つことになど価値はありません。
なぜなら、他者など、あなたの人生に関係ないからです。
人生を争いの大地にしてはなりません。
成長の目的を見失ってはなりません。
洗練することこそが成長です。
拡大のみを目指すことをやめましょう。
洗練することを目指すのです。
余計なものを多く抱えているよりも、重要なものを少し抱えている方が有益であることに気が付きましょう。
人生には、そんなに荷物は必要ないのです。
荷物を選別し、洗練されたものを運びましょう。

2017年4月4日火曜日

減退と増進

この世界には、陰陽の仕組みが存在しています。
すべてには、陰陽の性質が備わっているのです。
陰とは減法のことです。
それは、減退の性質です。
陽とは加法のことです。
それは、増進の性質です。
すべての存在は、減退と増進の二つの性質の中に存在しているのです。
減退も増進も避けることはできません。
すべての存在は、変化し続けているからです。
すべての存在は、減退か増進の方向へと変化しなければなりません。
世界は常に流転しているのです。
変わらないものはありません。
変わらないように見えているだけです。
変わらないように見える裏では、減退と増進が繰り広げられているのです。
減退と増進が繰り広げられた結果として、変わらないように見えているのです。
何かは必ず減退し、何かは必ず増進します。
変化とは、減退と増進の割合によって導かれる結果なのです。
あなたは、物事が常に減退と増進を続けてるということを知りましょう。
すべての物事が変化し続けているということを理解する必要があるのです。
すべての事柄に減退と増進の力が働きます。
そして、その割合はあなたが決めるのです。
あなたの選択によって、何が減退し、何が増進するか決まります。
それは、あなたが自分で決めることなのです。
意識的にも、無意識的にも、あなたの選択は減退と増進の割合に反映されます。
あなたは常に選択を求められているのです。
そのことを覚えておかなければなりません。
あなたは常に、自分の人生を決めているのです。
人生は、あなたの選択に従って減退と増進を行います。
何が減退しようとも、何が増進しようとも、それはあなたの選択に従った結果であるのです。
しかしながら、多くの人は人生の一連の流れを知りません。
物事を表面的に捕らえているために、人生が自分の選択によって築かれていることを理解することができないのです。
人生が自分の選択によって築かれていることを理解することができなければ、誰かや何かによって人生が築かれていると思い込みます。
それが、ネガティブな感情であっても、ポジィティブな感情であったとしても、人生を誰かや何かのせいにすることは得策ではありません。
多くの人が人生を誤解しています。
人生の大半が理想通りには進みません。
その時、多くの人は誰かや何かに対してネガティブな感情を抱くのです。
誰かや何かのせいで問題が生じ、苦しんでいると思い込むのです。
それは誤解です。
人生がどのように展開しようとも、それは、自分の選択の結果に過ぎないのです。
人生には時折、良いことがあります。
その時、多くの人は誰かや何かに対してポジィティブな感情を抱くのです。
誰かや何かのおかげで利益が生じ、喜んでいられると思い込むのです。
それも誤解です。
人生がどのように展開しようとも、それは、自分の選択の結果に過ぎないのです。
良いことも悪いことも、すべては自分の選択の結果です。
誰かや何かがあなたの人生を決めている訳ではないのです。
これは、自分を”神”と思えと言っているのではありません。
誤解によって傲慢(ごうまん)に陥ってはなりません。
冷静であれということなのです。
人生は、自分の選択によってどのようにも変化します。
自らの人生の形は、自分の選択によって決めることができるのです。
あなたは誰にも、何にも束縛(そくばく)されることはありません。
あなたはいつも自由なのです。
そのことを理解しておきましょう。
何が減退し、何が増進しようとも、それは、あなたの選択の結果です。
それ以外の場所に答えを求めてはなりません。
何を減退させ、何を増進させるのかを冷静に考えましょう。
傲慢に陥って、冷静さを失ってはなりません。
小さなものでも必ず大きくなります。
大きなものでも必ず小さくなるのです。

2017年4月3日月曜日

最善のために苦しむ

すべての人は最善を所有しています。
すべての人は最善によって導かれているのです。
最善を所有しない人はいません。
すべての人が、それぞれの最善を与えられているのです。
最善というものは、人生の指標となります。
最善は人生を知っているのです。
最善とは、すべての人の道標(みちしるべ)となるものなのです。
最善と共に歩めば、人生は豊かに繁栄するのです。
しかしながら、多くの人は自らが最善を所有していることを知りません。
多くの人は、多くの場合、最悪を所有していると思い込んでいるのです。
多くの人が人生を嘆(なげ)きます。
多くの人が不運を憂(うれ)いているのです。
残念ながら、人生を嘆く必要のある人は存在しません。
不運を憂う必要などないのです。
多くの人は、苦悩を欲しているのです。
しかしながら、自分ではそのことに気付いてはいません。
多くの人は自分が最善を所有し、目の前には常に最善が導かれているということを知らないのです。
最善に気が付く必要があるのです。
最善に気付くために、苦悩を欲しているのです。
人は未熟です。
そのため、理解力が乏しいのです。
人は常に最善と共に存在していますが、そのことを理解することができません。
常に最善と共に存在しているということに気が付くためには、最悪(だと思っている)の状態を得る必要があるのです。
最悪(だと思っている)の状態を導くことによって、相対的に最善に気が付くことを求められているのです。
光の中で光に気付くことはできません。
暗闇の中でこそ、人は光に気付くことができるのです。
多くの人が最善という光を理解するためには、最悪(だと思っている)という暗闇を得る必要があるのです。
そのために、自ら人生を嘆き、不運を憂うのです。
本来ならば、自ら苦しむ必要などないのです。
しかしながら、最善に気が付くことができないために、自ら苦しみを得る必要があるのです。
あなたが最善に気が付くことができれば、人生に苦悩が導かれることはありません。
すべてを最善だと知れば、苦悩は存在することができないのです。
最善が不足しているために、苦悩が入り込むのです。
人は常に、学びという器を満たしているのです。
最善だと思う割合によって、苦悩の割合は変化します。
最善だと思う割合が多ければ、苦悩の割合は少なくなります。
最善だと思う割合が少なければ、苦悩の割合は多くなるのです。
あなたは学びの器を満たさなければならないのです。
その割合は、自らの選択によって決めることができるのです。
あなたはよく考えなければなりません。
人生を深く考察するのです。
そうすれば、人生には無駄が存在しないということを理解することができるでしょう。
無駄が存在しなければ、最善が存在しているのです。
すべてが最善であることを理解すれば、後は感情の問題なのです。
多くの人は、その傲慢(ごうまん)さによって、不利(だと思っている)な状態を受け入れることができません。
その傲慢さ故に、苦しんでいるのです。
最善というものは、決して理想の形をしてはいません。
最善というものは、常に現実の形で現されるのです。
目の前の現実を受け入れることが求められます。
最善はそれぞれに異なっているものです。
そのため、誰かの状態と比較することによって歪んだ理想を作り上げてはなりません。
あなたには、あなただけの最善の形があるのです。
誰かと比較することになど意味がないのです。
あなたは自分の人生を生きましょう。
自分に与えられた最善に従って進むのです。
自分の現実を受け入れるべきです。
最善を手放してはなりません。

2017年4月2日日曜日

同類

人生とは、自分自身と向き合うための場所です。
すべての人は、自分自身と向き合うために生きているのです。
しかしながら、多くの人はそのことを知りません。
そのため、多くの人が誰かや何かと向き合うことを生きる糧(かて)としているのです。
誰かや何かと向き合うことによって得られることはたくさんあります。
しかし、それはたくさんあるように思えるだけです。
厳密に言えば、あなたは誰かや何かから学んではいません。
あなたは、誰かや何かを通じて、自分自身から自分自身を学んでいるのです。
そのため、あなたは誰かの意見を受け入れることはありません。
そして、あなたは何かに反発するのです。
誰かや何かから学んでいるのであれば、誰かの意見や何かに反発する必要はないのです。
あなたが何かに反発するのは、自分自身から学ぶ必要があるからです。
反発しても、”容認”しても、あなたは自分自身と向き合わなければなりません。
自分自身と向き合うことが人生の目的であるために、それは避けられないことなのです。
しかしながら、多くの人はそのことに気が付きません。
そして、いつまでも誰かや何かと向き合おうと努めているのです。
誰かや何かに向き合うことは、それ自体が誤解です。
あなたは、誰かや何かを通じて、自分自身から自分自身を学んでいるのです。
そのため、誰かや何かに向き合う努力によって、人は多くの矛盾を抱えることになるのです。
誰かや何かに向き合う努力を重ねるほどに、人は苦悩を抱えることになります。
それは、本来の目的から外れるためです。
自分自身と向き合い、自分自身を知ることができなければ、人は苦しむことになるのです。
多くの人は、誰かや何かと懸命に向き合っています。
そこには、必ず正義感という立場が生じます。
すべての正義感は、偏(かたよ)った立場なのです。
正義感によって、人は敵を生み出します。
正義感によって、人は敵と味方に分かれるのです。
正義感を抱える人は、敵を倒そうと努めます。
そして、味方を守ろうと努めるのです。
正義感を抱える人は、敵と向き合い、味方と向き合うのです。
そこに、自分自身と向き合う余地はありません。
正義感によって、人は自分自身を手放すのです。
多くの人は正義のために行為しています。
そして、誰もが自分が正しいと考えているのです。
しかしながら、考えなければならないのは、すべての正義感を抱えている人が、同じことをしているということです。
自分が正しいと考え、正義感に従う人は、誰もが同じことをするのです。
それは、敵を倒そうと努め、味方を守ろうとするということです。
立場は違っても、同じことをしています。
それは、同類であるということなのです。
正義感に従っている人は、自分と敵が対立していると考えていることでしょう。
しかしながら、やっていることは同じです。
やっていることが同じであるのならば、同類なのです。
敵味方に分かれて争っているすべての人は、同じレベルの仲間なのです。
しかしながら、敵味方に分かれて争っている本人たちは、そのことに気が付きません。
互いに盲目(もうもく)に陥(おちい)っているのです。
あなたが正義感を振りかざし、敵を倒そうと躍起(やっき)になり、味方を守ろうと必死になっているのであれば、落ち着いて考えましょう。
よく考えれば、自らが未熟であることに気が付くはずです。
そして、よく考えれば、自らの信仰が歪んでいることにも気が付くはずです。
そして、よく考えれば、自らが愚行(ぐこう)を犯しているということにも気が付くでしょう。
そして、こんなことをしている場合ではないことにも気が付くのです。
あなたは何をやっているのですか?
自分が何者であるのかを答えられるのですか?
何のために人生を生きているのですか?
自分が何者であり、何のために生きているのかを知らなければ、何が幸福であるのかを知ることはできないのですよ?
正義感を振りかざして、誰かや何かと争っている場合ではありません。
正義感を手放し、自分自身と向き合うことに努めましょう。

2017年4月1日土曜日

雨に打たれて枝はしなる

すべての人が未熟です。
すべての人が誤解を所有し、矛盾の中に存在しています。
矛盾を離れることのできる人は存在しません。
すべての人は、矛盾の中に人生を築くのです。
矛盾は苦悩を導きます。
そのため、すべての人の人生に苦悩が導かれます。
苦悩を離れる人はいません。
どのような人物であろうとも、苦悩は付き添(そ)うのです。
苦悩から逃れようとしても無駄なことです。
矛盾の中にあって、苦悩から逃れようとしても、どこにも逃げ場所はないからです。
人生に苦悩は付き物であるのです。
あなたは、人生とは、苦悩することであると理解しなければなりません。
苦悩から逃れようとすることは、人生の目的に反します。
苦悩を受けることが自然なのです。
苦悩から逃れようとすることは、更なる矛盾を抱えることになるということを覚えておかなければならないでしょう。
人は苦悩と向き合わなければなりません。
それは、人が未熟であるからです。
人は未熟であるために苦悩を受ける必要があるのです。
それは、苦悩が成長のために存在しているからです。
苦悩が導かれる理由は、あなたが成長するためであるのです。
成長にとって、苦悩は必須なのです。
苦悩が存在しなければ、成長は実現しないということを理解しなければなりません。
しかしながら、多くの人は苦悩が成長にとって必須であることを知りません。
苦悩というものが、自分にとって損失をもたらすと、その小さな価値観の中で思い込んでいるのです。
そのため、苦悩を受けたい人は少ないのです。
苦悩を避け、苦悩を否定し、苦悩から逃れようとします。
しかしながら、苦悩を遠ざける程に人生が矛盾を強めることは知らないのです。
人生は、あなたに成長を促(うなが)しています。
人生は、常にあなたの成長を欲しているのです。
あなたの目の前には、成長のための苦悩が常に導かれています。
あなたが苦悩を受け入れることによって、成長は実現するのです。
豊かな人生を実現するのは簡単なことなのです。
苦悩を受け入れるだけです。
ただ、それだけのことです。
苦悩とは、天から降り注ぐ雨のようなものです。
それは、枝を重くします。
雨に打たれて枝はしなるのです。
苦悩によって、人は心を重たくします。
しかしながら、心を重たくすることによって、傲慢(ごうまん)によって天を目指した枝は地に向いてしなり、謙虚(けんきょ)さを得るのです。
心を重たくすることがなければ、人の傲慢は膨らみ続けるのです。
苦悩によって、人は傲慢の意味を理解し、謙虚さを育むのです。
若木(わかぎ)は枝を突き上げます。
そこには傲慢さが溢れています。
しかし、老木(ろうぼく)は枝を垂(た)らすのです。
そこには謙虚さが見て取れるでしょう。
老木の垂れた枝は、苦悩を経た知恵なのです。
それは、陽の光をより多く集めるための変化なのです。
植物が豊かさを得るためには、水(雨)と陽の光が必要です。
雨は枝を重くしますが、同時に根に活力を与えます。
雨が枝を重くするのは、後に陽の光を多く得るための準備なのです。
苦悩は心を重くしますが、同時に心を強くします。
苦悩を受け入れる者は、後に多くの喜びを得るでしょう。
苦悩によって傲慢を手懐(てなず)けましょう。
苦悩によって、謙虚さを育むのです。