人生とは、自分自身と向き合うための場所です。
	すべての人は、自分自身と向き合うために生きているのです。
	しかしながら、多くの人はそのことを知りません。
	そのため、多くの人が誰かや何かと向き合うことを生きる糧(かて)としているのです。
	誰かや何かと向き合うことによって得られることはたくさんあります。
	しかし、それはたくさんあるように思えるだけです。
	厳密に言えば、あなたは誰かや何かから学んではいません。
	あなたは、誰かや何かを通じて、自分自身から自分自身を学んでいるのです。
	そのため、あなたは誰かの意見を受け入れることはありません。
	そして、あなたは何かに反発するのです。
	誰かや何かから学んでいるのであれば、誰かの意見や何かに反発する必要はないのです。
	あなたが何かに反発するのは、自分自身から学ぶ必要があるからです。
	反発しても、”容認”しても、あなたは自分自身と向き合わなければなりません。
	自分自身と向き合うことが人生の目的であるために、それは避けられないことなのです。
	しかしながら、多くの人はそのことに気が付きません。
	そして、いつまでも誰かや何かと向き合おうと努めているのです。
	誰かや何かに向き合うことは、それ自体が誤解です。
	あなたは、誰かや何かを通じて、自分自身から自分自身を学んでいるのです。
	そのため、誰かや何かに向き合う努力によって、人は多くの矛盾を抱えることになるのです。
	誰かや何かに向き合う努力を重ねるほどに、人は苦悩を抱えることになります。
	それは、本来の目的から外れるためです。
	自分自身と向き合い、自分自身を知ることができなければ、人は苦しむことになるのです。
	多くの人は、誰かや何かと懸命に向き合っています。
	そこには、必ず正義感という立場が生じます。
	すべての正義感は、偏(かたよ)った立場なのです。
	正義感によって、人は敵を生み出します。
	正義感によって、人は敵と味方に分かれるのです。
	正義感を抱える人は、敵を倒そうと努めます。
	そして、味方を守ろうと努めるのです。
	正義感を抱える人は、敵と向き合い、味方と向き合うのです。
	そこに、自分自身と向き合う余地はありません。
	正義感によって、人は自分自身を手放すのです。
	多くの人は正義のために行為しています。
	そして、誰もが自分が正しいと考えているのです。
	しかしながら、考えなければならないのは、すべての正義感を抱えている人が、同じことをしているということです。
	自分が正しいと考え、正義感に従う人は、誰もが同じことをするのです。
	それは、敵を倒そうと努め、味方を守ろうとするということです。
	立場は違っても、同じことをしています。
	それは、同類であるということなのです。
	正義感に従っている人は、自分と敵が対立していると考えていることでしょう。
	しかしながら、やっていることは同じです。
	やっていることが同じであるのならば、同類なのです。
	敵味方に分かれて争っているすべての人は、同じレベルの仲間なのです。
	しかしながら、敵味方に分かれて争っている本人たちは、そのことに気が付きません。
	互いに盲目(もうもく)に陥(おちい)っているのです。
	あなたが正義感を振りかざし、敵を倒そうと躍起(やっき)になり、味方を守ろうと必死になっているのであれば、落ち着いて考えましょう。
	よく考えれば、自らが未熟であることに気が付くはずです。
	そして、よく考えれば、自らの信仰が歪んでいることにも気が付くはずです。
	そして、よく考えれば、自らが愚行(ぐこう)を犯しているということにも気が付くでしょう。
	そして、こんなことをしている場合ではないことにも気が付くのです。
	あなたは何をやっているのですか?
	自分が何者であるのかを答えられるのですか?
	何のために人生を生きているのですか?
	自分が何者であり、何のために生きているのかを知らなければ、何が幸福であるのかを知ることはできないのですよ?
	正義感を振りかざして、誰かや何かと争っている場合ではありません。
	正義感を手放し、自分自身と向き合うことに努めましょう。
	
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