道に向き合う時、そこには純粋な心が存在していなければなりません。
純粋な心なくして、道の達成はありません。
志した道を達成するためには、邪心を用いてはならないのです。
あなたが志すどのような道も、そのすべてが神聖なものです。
覚えておかなければなりません。
邪見は通りません。
その道に対して正しくなければ通ることは出来ないのです。
邪心を所有し、邪見を用いては進むことは出来ないのです。
どのような道にも、純粋な心を用いなければ先へ進むことは出来ません。
純粋な心とは、道に対する誠実性です。
道に対しての誠実性に欠ける者には、それを達成することは出来ないのです。
純粋に道を求めなければならないのです。
誠実性とは素直であり、偽りのない心です。
それは対象に対して真っ直ぐに向かいます。
どのような道を進むにしても、そこには必ず何らかの問題が発生し、困難が立ちはだかります。
簡単に達成することの出来る道は存在しないのです。
志しとは厳しい道のりなのです。
様々な問題に向き合い、困難を進む中で、人は皆自らの目的を見失います。
厳しい道のりの中で、志していた場所を見失い、志しすら忘れてしまうのです。
簡単には辿り着けません。
目の前に発生する様々な問題や困難の中にも自らの志しやその目的地を見失わないようにしなければ、道の達成には至りません。
厳しい問題や苦しい困難の中にも自らの志しやその目的地を見失わないためには、真っ直ぐにその志しに向き合い、その目的地を捉えていなければなりません。
自らの目的を見失わないようにしっかりと見据えておかなければならないのです。
そこで必要なのが純粋な心なのです。
純粋な心は何ものの侵食も許さず、ただひたすらに真っ直ぐです。
純粋な心の持ち主である幼い子どもの眼差しには淀(よど)みが存在しないように、純粋な心はただひたすらに真っ直ぐなのです。
道に対する純粋な心を所有している人物は、どのような問題や困難の中にも自らの目的を見失うことはないのです。
邪心を所有し、邪見を用いる人物は、様々な誘惑に目をくらませて道に迷い、やがては自らの志しやその目的地を完全に見失ってしまうのです。
その結果、自らの理想とはかけ離れた場所に到達し、後悔と苦しみを受け取ることになってしまうのです。
あなたはどのような場所に辿り着きたいと考えていますか?
あなたはどのような理想を持っていますか?
あなたはどのような道を志しているのでしょう?
その道に対して、どのような心で向き合っているのでしょう?
すべての道は神聖であり、正しく存在しています。
邪心や邪見によって自らの志しやその目的地を見失うような者には辿り着くことは出来ません。
道に対して誠実であり、純粋であり、素直であり、正しく存在する者でなければ辿り着くことは出来ないのです。
あなたは惑わされてはなりません。
あなたにとっての本当の価値を見失ってはなりません。
どのような問題が道に立ちはだかり、その道のりが困難を極めたとしても、純粋な心で向き合うことを忘れてはなりません。
道に対して真っ直ぐに、正しく存在しなければなりません。
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