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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2017年7月31日月曜日

避けられない因果

あなたには、因果を避ける力はありません。
どのような人物であろうとも、因果は避けられないのです。
すべての状況は、選択の結果です。
受け取る状況は、あなたの選択の結果なのです。
原因は過去に存在し、あなたは過去を変えることはできません。
すべての選択は、自らの意思によって決定されたのです。
誰かや何かが強制的に決めたのではありません。
あなたが自分自身の判断によって決めたということを理解しましょう。
どのような状況を得ようとも、あなたにはその理由が思い付くはずなのです。
思い掛け無いような状況は決して導かれません。
それがどのような状況であろうとも、あなたには、思い当たる節があるはずなのです。
すべての状況が当然の結果であるということを理解しましょう。
しかしながら、多くの人は因果を認めません。
原因と結果を結び付けて考えることができないのです。
それは、この世界の理(ことわり)を理解せず、自分の頭の中だけで考えた理想を投影しているからなのです。
残念ながら、あなたの理想が実現することはありません。
この世界には、この世界の理が実現するのです。
当然、理と理想は異なります。
理とは現実のことなのです。
すべての状況がこの世界の理です。
あなたは受け取る状況によって、この世界の理を理解する機会を得るのです。
あなたが学ぶべきは、この世界の理であり、自分の理想ではないのです。
多くの場合、理想と現実には差があります。
多くの場合、理想と現実は対極に存在するのです。
あなたの理想は常に裏切られるでしょう。
現実が、あなたの理想に寄り添うことはありません。
そのため、あなたは常に問題を抱え、常に苦悩するのです。
この世界の理を学んでいるのだから、それは当然のことなのです。
あなたは、理想を実現するために生まれたのではありません。
この世界の理を学ぶために生まれたのです。
思い上がってはなりません。
すべての理想は否定され、すべての期待を退けるでしょう。
あなたが受け取ることができるのは、”嫌な”現実だけなのです。
あなたのすべての選択が未熟です。
あなたは、この世界の理を学ぶために生まれたのです。
そのため、多くの場合、因果は問題として生じるのです。
それを否定しても仕方がありません。
大切なのは、そこから学ぶことであり、自分自身を変化させることなのです。
理想を諦めましょう。
因果を避けることはできません。
ただし、あなたが傲慢(ごうまん)を手放し、この世界の理(現実)を受け入れて変わることができるのであれば、それに相応しい因果を得ることができるのです。
因果の仕組みは、あなたを苦しめるためのものではありません。
因果の仕組みは、あなたを苦しませもしますが、あなたを喜ばせもするのです。
因果によってあなたは乏しくもなり、豊かにもなるということを覚えておきましょう。
因果によって、あなたの乏しさは避けられません。
因果によって、あなたの豊かさは避けられないのです。
理想とは、未熟な価値観です。
理想に従っていこうとすれば、あなたの乏しさは避けられないのです。
現実に従えば、あなたは豊かさを避けることはできないでしょう。
未熟な価値観に価値はありません。
それは、あなたに乏しさを導きます。
大切なのは、この世界の理が教える現実を学ぶことです。
そして、この世界の理を理解し、それを活用することなのです。
ルールを破る者が豊かさを得ることはできません。
不正を働く者が得られる豊かさなど存在しないのです。
その時には良い思いをするように見えるかもしれません。
しかしながら、それは麻薬によって得られる快楽のようなものなのです。
一時的な快楽の先には必ず破滅が待ち受けています。
理想に溺れてはなりません。
どのような人物も、因果を避けることはできないと知りましょう。

2017年7月30日日曜日

健全な心

あなたは、人生を難しく考える必要はありません。
確かに、人生には目的があり、それを果たすことが求められます。
しかしながら、それは難しい方法で成し遂げるようなものではないのです。
人生とはとても単純であり、とても簡単なものです。
人生に対する理解を怠(おこた)るのであれば、それはとても複雑であり、困難なものに思えるのです。
何事においても同じです。
理解によって構造は単純化し、方法は簡単になるのです。
理解していないものは何であれ、複雑で困難なものに思えるのです。
多くの人が人生を難しく考えているのは、人生に対する理解に浅いからに他なりません。
本来ならば単純であり、簡単なものを、複雑で困難な状態に放置しているのです。
大切なのは、人生に対する理解を深めることです。
人生に対しての理解が難しければ、目の前の何に対してでも構いません。
自分の興味を抱けるものへの理解を深めさえすれば、自然と人生に対する理解も深まるのです。
何かに対する理解が深まれば、それがとても単純な構造であることに気が付きます。
そして、より簡単な方法に気が付くこともできるのです。
何かに対しての理解を深めるほどに、小さな労力によって人生を進むことができるようになるでしょう。
多くの人は理解を深めることに興味を示しません。
多くの人が、学ぶことを嫌っているのです。
そのため、目の前のことにも興味を示さず、”心ここに在らず”という状態で生きているのです。
例えば、自らの携わっている仕事に対しての熱意を持たず、金銭や生活や家族を動機として働いているのです。
自らの携わっている仕事に対して興味を示さない者は、仕事に対する理解を深めることがありません。
それは、目の前の仕事を重たくし、問題を引き起こすのです。
そして、その問題は複雑で困難なものとして苦悩を引き起こすのです。
自らの携わっている仕事に興味を示し、理解を深めることによって”良質な仕事”を動機とすれば、仕事が金銭や生活や家族の世話をするでしょう。
良質な働きによって、あなたは成長し、人生に対する理解も深まるのです。
何かに対して理解を深める人は、自分自身に対しての理解も深めるでしょう。
自分自身に対する理解を深めるということは、自分自身を内省し、整えるということなのです。
人は、何かに対する時に、自分自身と向き合っているのです。
それは、心を整えるためです。
人生を難しく考える人というのは、心の整っていない人です。
その心は乱雑であり、多くの荷物で溢れているのです。
そのような心を引き摺(ず)って進むのは骨が折れる作業なのです。
大切なのは、心を整えることです。
あなたは心を整えるために、様々なものに対しての理解を深めているのです。
人生において大切なのは、心を健全に保つことです。
それ以上に重要なことはありません。
何を得ようとも、心の健全を保つことのできない者は、その得たものによって必ず苦悩を受けるのです。
人生は、心によって決まるのです。
あなたは人生を観察してみましょう。
それは、あなたの心を現しているということに気が付くでしょうか?
他者の人生を観察してみれば、この意味を理解することもできるかもしれません。
心が健全に保たれているのであれば、すべてが健全に輝くのです。
心が乱れているのであれば、すべてが問題として襲うでしょう。
単純なことであり、簡単なことです。
あなたはどのような状況に対しても、心の健全さについて考えていましょう。
何に対する時にでも、自らの心を観察するのです。
他に考えることはありません。
自らの心が健全に保たれているのであれば、何の問題も生じないからです。
多くの人は、自らの心以外のことを考え過ぎています。
”良質な仕事”のために働けば良いにも関わらず、金銭や生活や家族のことをあれこれと考えているのです。
そのような方法では、人生を進むことはできないのです。
金銭や生活や家族や未来のことについて思い悩む人が、どうして先へ進むことができるのでしょうか?
先へ進むというのは、変化するということです。
心を整えるというのも、変化するということなのです。
詰まらないことに執着してはなりません。
心を健全に保つことよりも重要なことはありません。

2017年7月29日土曜日

変化する必要

あなたは常に、必要を求められています。
必要とは、最善の学びのことです。
あなたは常に、最善の学びを得るように求められているのです。
それは、あなたが成長を実現するためです。
あなたに成長を求めているのはあなた自身であり、あなたの人生なのです。
あなたは豊かな人生を求めていますか?
あなたは、幸福を得たいと思いますか?
あなたが豊かな人生を生き、幸福を実感するためには、自身の成長が必要なのです。
自分が成長することがなければ、豊かさや幸福を実感することはできないのです。
あなたが成長すれば、どのような状況であろうとも、それを豊かに感じることも、それを幸福と思うこともできるのです。
成長しなければ、それを豊かに感じることも、それを幸福と思うこともできないのです。
大切なのは、自分自身が成長することです。
人生において最も重要なことは、自分自身の成長であるということを覚えておきましょう。
自分自身が成長することがなければ、どのような状況を得ようとも、それを乏しさや不幸と感じてしまうからです。
どのような状況を得ようとも、それを乏しさや不幸と感じてしまうのであれば、救いようがないのです。
そのため、あなたが成長を実現し、どのような状況にも豊かさと幸福を感じることのできる自分を整えておく必要があるのです。
成長を実現するためには、人生の求める必要に応える必要があります。
最善の学びを得ることがなければ、どのような方法を用いたとしても、成長を実現することはできないからです。
必要は、常に変化し続けています。
必要が固定されることはありません。
必要に応えるためには、常に自分自身を変化させ、状況に対応することが求められるのです。
大切なのは、変化することです。
しかしながら、多くの人は変化することを嫌います。
多くの人が傲慢(ごうまん)を所有しているのです。
多くの人が頑固であることをあなたは知っているでしょう。
多くの人は、譲歩することを嫌います。
多くの人は、自分の意見が正しいと思い込んでいるのです。
残念ながら、あなたが正しいということはありません。
もちろん、どのような人物も正しいということはないのです。
正しいものがあるとすれば、それは目の前の状況に存在する必要であるのです。
最善の学びこそが正しく、あなたの意見が正しいということはないのです。
あなたはそのことを弁(わきま)えておかなければなりません。
多くの人は、仕方の無いことをいつまでも引き摺(ず)っています。
傲慢が一つのことに執着させるのです。
状況は常に変化し、必要も常に変化し続けています。
そのような状況において、何か一つのことに執着するのは無益なのです。
無益なことを続けてはなりません。
無益なことを続けていれば、人生は乏しく、心は不幸になるのは当然の結果なのです。
人生を豊かに、心を幸福で満たそうと思えば、有益なことを続ける以外に方法はありません。
無益なこととは、状況に対する必要を見失っている状態です。
有益なこととは、状況に対する必要を行っている状態なのです。
あなたは謙虚(けんきょ)でなければなりません。
謙虚でなければ、変化に対応することができないからです。
目の前の状況に対して、何が必要なのかを考えなければなりません。
自分の意見をどのように押し通すか?などと浅はかな企(たくら)みを抱いてはならないのです。
状況の必要を見失う者が豊かさと幸福を得ることはできません。
重要なのは自分自身の傲慢さではなく、状況に存在する必要を見極める謙虚さです。
謙虚な者は多くを学ぶことができます。
当然、学ぶ者は成長を実現することができるのです。
傲慢な者は何も学びません。
傲慢な者には、学ぶ準備ができてはいないのです。
当然、学ば(べ)ない者は成長を実現することができないのです。
あなたは人生に豊かさと幸福を求めているでしょう。
ならば、自分がどうするべきなのかを理解することができるはずです。
状況と争っても言いことは何もありません。
謙虚さによって、状況から多くを学ぶのです。
そうすれば、あなたは簡単に豊かさと幸福を手にすることができるでしょう。

2017年7月28日金曜日

本気で向き合う

すべての人は、目的を持っています。
すべての人は、自らの掲げる目的を果たすために生きているのです。
誰にでも、目的があるのです。
この世界において、目的を持たない者はいません。
それが短期的な目的であろうとも、長期的な目的であろうとも、ただの思い付きであろうとも、目的に違いありません。
すべての人が、何等かの目的のために生きているのです。
そして、目的を果たすことによって充足感を得ることができます。
どのような方法を用いたとしても、目的を果たすことがなければ、充足感を得ることはできないのです。
何を得ても、目的が果たされていなければ不満を覚えるのです。
人は、そのようにできているのです。
あなたには、本当に成し遂げたいことがあるはずです。
本当に成し遂げたいことを、他の何かで誤魔化そうとしても無駄です。
本当に成し遂げたいことは、他のどのような魅力にも勝っているからです。
本当に成し遂げたいことを別の何かで覆い隠そうとしても、その光は隙間を見付けて輝きを放つのです。
多くの人が自分に嘘を吐いています。
多くの人が、本当に成し遂げたいことを諦めて、別の何かによって紛らわそうとしているのです。
大切なのは、本当に成し遂げたいことに対して、懸命に向き合うことです。
それを成し遂げられるかどうかは分かりません。
どれだけの努力を重ねても、成し遂げられないこともあるのです。
大切なのは、本当に成し遂げたいことを成し遂げることではありません。
もちろん、本当に成し遂げたいことを成し遂げる方が良いと感じるでしょうが、それを成し遂げることができなくても良いのです。
大切なのは、本当に成し遂げたいことに対して本気で向き合い、その気持ちを完全に燃焼することにあるのです。
本当に成し遂げたいことに対して本気で向き合えば、結果がどのようなものであったとしても、そこに充足感を得ることができるのです。
人生においては、理想が実現することなどに価値はありません。
人生において価値のあるのは、現実が充足することなのです。
そのためには、本当に成し遂げたいことに対して本気で向き合う気持ちを大切にしなければならないのです。
多くの人は、自分が本当に成し遂げたいことなぞ知らないと言うでしょう。
人生に成し遂げたいことなど無いと反論するかもしれません。
しかしながら、それは間違いです。
多くの人は、事前に様々な条件(言い訳)を持ち出すことによって、自分が本当に成し遂げたいことに対して蓋(ふた)をしているのです。
初めから諦めているということなのです。
それは、本気で向き合うことによって失敗することを恐れているからです。
失敗しても問題ではありません。
寧(むし)ろ、人生においては、失敗することに価値があるのです。
失敗することを恐れない者は成功し、失敗することを恐れる者は失敗を続けるのです。
転けることを恐れる者は目的地へと辿り着くことはできません。
大切なのは、転けることを恐れずに一歩を踏み出すことなのです。
多くの人は、既に諦めているために、怠慢(たいまん)を生きています。
多くの人は、やる気も無く愚図愚図(ぐずぐず)としているのです。
目の前の詰まらないと思うことに対して、懸命に向き合うことが出来ない者が、何を成し遂げることができるのでしょうか?
残念ながら、そのような者には何も成し遂げることはできません。
言い訳ばかりを吐き、楽な方を選び、愚痴(ぐち)をこぼす割に利益を求める。
このような者が多いのです。
そのために、多くの人が本当に成し遂げたいことを成し遂げることができないのです。
本当に成し遂げたいことを成し遂げることができないのは、誰かや何かのせいではありません。
目の前の詰まらないと思うことに対して、懸命に向き合うことが出来ない態度のせいなのです。
一歩を疎(おろそ)かにする者は、決して目的へと辿り着くことはできません。
一歩を疎かにする者は、足を挫(くじ)いてしまうからです。
多くの人が問題を抱え、それに苦悩しているのはそのためなのです。
詰まらない生き方をするのはやめましょう。
目の前に存在するのは、あなたの人生なのです。
一つのことに手を抜けば、全体の質が低下するということを覚えておきましょう。
石垣は、一つの落石によって崩壊するのです。
懸命に生きましょう。

2017年7月27日木曜日

制限

あなたには、生まれた意味があります。
この世界に無意味に生まれる者はいません。
どのような生命も、意味を以(もっ)て生まれるのです。
あなたには、あなただけの生まれた意味があり、それはあなたにとっては大切なものなのです。
多くの人は、自らの生まれた意味を気にしません。
多くの人が、目の前の問題や快楽を気にしているからです。
目の前の問題や快楽を気にすることは決して悪いことではありません。
しかしながら、それは浅はかな解釈をもたらすだけにとどまり、人生に対する深い理解を得させることはないのです。
生まれた意味については、人生に対する深い理解を必要とします。
人生の様々な場面と向き合い、その意味を一つ一つ考察することによって初めて、人生に対する深い理解を得られるのです。
人生に対する深い理解を得なければ、生まれた意味を知ることはできないのです。
大切なのは、人生と向き合うことです。
人生には、何かしらの目的があるのです。
それは、目の前の状況に鏤(ちりば)められているのです。
それは、粉々になった欠片(かけら)を集めるようなものです。
一つ一つの欠片を集めて、それがどのように組み合わされていたのかを考えるのです。
一つ一つの欠片が集まり、それが組み合わされてくれば、それが何であったのかを理解することができるのです。
そのため、人生の様々な場面に向き合い、その意味を大切に考察するのであれば、人生が何であるのか?ということを知ることもできるのです。
そして、生まれた意味も知るのです。
ただし、すべての欠片が集まるまでは、推測の域を出ないのです。
そのため、人生は、それが終わる時まで理解することはできないのです。
生まれた意味も、その時に分かるでしょう。
しかしながら、人生の様々な場面に向き合うことをせずに怠慢(たいまん)を生きる者は、人生の欠片を集めることができません。
制限時間(人生の終わり)までに人生の欠片を集めることができなければ、人生の意味も、生まれた意味も分からないままなのです。
それは、再び同じ学びを得ることを意味しているのです。
あなたは、できる限り真剣に、人生に対して、目の前の状況に対して向き合わなければなりません。
問題や快楽に心を乱していてはならないのです。
あなたには、生まれた意味を知るという目的があるのです。
そのことを忘れてはならないのです。
目的を果たすためには、目的に沿った道を進む必要があります。
目的地に向かう道を進まなければ、目的地には辿り着くことができないのです。
道は無数に存在しています。
あなたには、すべての道を選択する権利が与えられています。
あなたは、好きな道を進むことができるのです。
しかしながら、ただ好きな道を進むのであれば、目的地に辿り着く確率は低くなります。
残念ながら、人生には制限時間が設けられているために、好き放題に寄り道や回り道をすることはできないのです。
あなたが目的地に辿り着くには、ある程度の制限が必要なのです。
制限することがなければ、目的地には辿り着けないのです。
自動車が目的地に辿り着くためには、ブレーキによる減速を必要とします。
アクセルによる加速を重要視する人が多いでしょうが、ブレーキによる減速がなければ、決して目的地に辿り着くことはできないのです。
速度を制限することがなければ、事故を起こしてしまいます。
多くの人は、加速することばかりを考えています。
成功することや、利益を得ることを重視しているのです。
失敗することや、損失を得ることを忘れてしまえば、決して目的地には辿り着けません。
人は、失敗することで知恵を増し、損失を得ることによって貢献することができるのです。
成功することや利益を得ることが自動車のアクセルであるのならば、失敗することや損失を得ることはブレーキなのです。
多くの人は、多くを求めています。
多ければ多い程良いと思い込んでいるのです。
しかしながら、それは浅はかな解釈だと言わざるを得ません。
自分にとっての利益を得ることが、あなたに生まれた意味を教えるのか?ということを考えてみれば良いのです。
例えば、金銭を欲する者がいるとします。
その者にとっての成功や利益とは、金銭を得ることです。
ある日、宝くじに当選し多額の金銭を手に入れたとしましょう。
それは、その者にとっての成功であり、利益です。
それによって、生まれた意味を知ることができるでしょうか?
人生とは、そのように単純なものではないのです。
制限も大切な選択です。
好物を制限無しに食べ続ければどうなるでしょう?
簡単に病気になってしまうでしょう。
大切なのは自制することだと理解しましょう。
制限が道を築きます。
制限の力を活用しましょう。

2017年7月26日水曜日

理解の段階

人は、自分に相応しい人生を生きなければなりません。
どのような人物も、自分に相応しい場所にとどまるのです。
誰も、自分に相応しくない場所に向かうことはできません。
誰も、自分に相応しくない人生を生きることはできないのです。
人生とは、認識によって決定されます。
認識とは、理解です。
人は、何をどのように理解するのか?ということによって、人生を選択しているのです。
人生が理解を離れることはありません。
あなたの人生は、あなたの理解によって実現するということを覚えておきましょう。
大切なのは、何をどのように理解するのか?ということです。
人は、理解によって人生の道を進むことができるのです。
理解によって道が決まります。
理解によって、どのように生きるのか?ということが異なるのです。
理解にも、段階が存在します。
浅はかな理解もあれば、思慮深(しりょぶか)い理解もあるのです。
あなたは、自らの理解の段階に相応しい人生を生きるでしょう。
人生を豊かなものにするためには、知恵が必要です。
知恵とは、知識と経験の総和(そうわ)です。
知識と経験の量が多いほど、人は豊かな人生を生きることができるのです。
知恵の乏しい者は、人生に苦悩を抱えるでしょう。
無知によって、人は乏しい人生を生きることになるのです。
無知とは、知識と経験の不足によって実現する問題です。
問題とは、浅はかな理解によって生じるのです。
理解を深めない者は無知に陥ります。
それでは、人生の道を進むことはできません。
無知な者は、その場に停滞しなければならないのです。
あなたは、理解しない相手と連れ立つことはできません。
それは、相手が理解しないからです。
あなたは相手を担いで進むことはできないのです。
あなたは、自らの歩みで精一杯であるのです。
そのため、相手は自らの足で歩まなければなりません。
人生の道を歩むためには、理解が必要なのです。
人は、理解によって歩みます。
理解しない者は歩みません。
理解することが出来るかどうかは相手次第であるのです。
あなたは、理解出来ない、しない相手を放っておくしかないのです。
あなたは誰も、無理に歩かせることはできません。
相手は相手の意思によって歩くことができるのです。
そのため、理解する者とだけ歩みましょう。
情に流されて、理解を示さない相手を無理に伴(ともな)う必要はありません。
残酷なようですが、理解を示さない相手を置いて進みましょう。
それ以外に、あなたにできることはないのです。
相手が理解すれば、相手の意思によって歩むでしょう。
人生とは、そのようなものなのです。
誰かを無理に歩ませることはできないのです。
大切なのは、自分のペースで歩むことです。
他者に歩調を合わせる必要はないのです。
相手に優しくすることは大切ですが、理解を示さない者を無理に連れ立とうとするのは優しさではありません。
あなたはあなたのペースで歩み、相手は相手のペースで歩めば良いのです。
相手に合わせて停滞しているのであれば、人生の可能性を失ってしまうでしょう。
人は、自分に相応しい人生を生きなければなりません。
あなたは、自分のことと相手のことを分けて考えましょう。
それぞれの人生を尊重するのです。
人生が展開しないというのであれば、理解が浅いのです。
人生に問題や苦悩を抱えているとしても原因は同じです。
大切なのは理解を深めることです。
大切なのは、学ぶことなのです。

2017年7月25日火曜日

心算

人生とは、自らの体験です。
あなたは、自ら人生を体験する必要があります。
残念ながら、人生があなたに変化を導くことはありません。
人生は、あなたを見守ることはしても、あなたの代わりに体験を主導することはないのです。
あなたが立ち止まる時には、それを見守ります。
あなたが歩む時には、それを見守るのです。
人生が、あなたを立ち止まらせることや、歩ませるということはないのです。
多くの人は、人生が誰かや何かの影響によって主導されているように思い込んでいます。
短絡的に捕らえるのであれば、そのような見方もできるでしょう。
しかしながら、思慮深く見れば、人生は自らの決断によって展開していくということに気が付くのです。
誰かや何かの影響は、あなたの心算(こころづもり)に呼応(こおう)しているのです。
あなたの心が立ち止まる時には、立ち止まらせるための環境が導かれます。
あなたの心が歩む時には、歩ませるための環境が導かれるのです。
環境が初めにあるのではありません。
心算が初めにあり、その後で環境が整うのです。
多くの人は、環境が初めにあって、その環境の中で心算が形成されると思い込んでいるのです。
これは、あなたの人生です。
この人生の主導はあなたに与えられているのです。
あなたに相応しい環境が導かれるということを覚えておきましょう。
あなたに相応しくもなく、あなたに関係のない環境が導かれるということはないのです。
そのため、余計な心配や期待を抱える必要はないのです。
大切なのは、今の自分に体験することのできる目の前の環境を、精一杯に生きることなのです。
あなたが目の前の環境を精一杯に生きれば、自らの心算を理解することができるでしょう。
自らの心算を理解することができれば、それを調整することができるのです。
心算が変われば、環境が変わります。
環境が変われば、人生が変わるのです。
重要なのは、自分が変わることです。
誰かや何かを変えようとしても成果は出ません。
あなたには、環境を変える力などないのです。
環境を変えようとするのであれば、それは、心算に傲慢(ごうまん)が組み込まれているということです。
それでは、環境を変えることはおろか、自分を変えることなどできないのです。
傲慢は人を束縛(そくばく)するのです。
傲慢な者は体験することができません。
傲慢な者は、同じことを繰り返す以外に方法を知らないのです。
多くの人は、誰かや何かが原因だと考えます。
環境が変わりさえすれば、自分が変われると思い込んでいるのです。
それが短絡的な思考であるということに気が付く必要があるのです。
夏の暑さに文句を吐く者は、冬の寒さにも文句を吐くでしょう。
夏の暑さに文句を吐かない者は、冬の寒さにも文句を吐かないものなのです。
例え、環境が変わったように見えても、自分が変わっていなければ、やはり環境は変わってはいないということなのです。
自分が変わることの重要性が理解できたでしょうか?
あなたは自発的に行動しなければなりません。
人生は、あなたを助けてはくれません。
あなたが夏の暑さから逃れるために風を求めたとしても、都合良く風が届けられるようなことはないのです。
風が吹かなければ、自分が動けば良いのです。
炎天下に立ち止まっている者は文句を吐くでしょう。
それに比べて、炎天下を歩む者の文句は少ないのです。
人は、どちらにしても文句を吐きます。
人は未熟なのです。
そのため、あなたは悪いものの中から、より悪くない方を選ばなければならないのです。
良いものを選ぶことなどできません。
理想を捨てて現実と向き合うのです。
夏の暑さに文句を吐くのであれば、水辺に歩んで行って涼みましょう。
自らが動かなければ何も変わりません。
待っているだけではなりません。
傲慢を捨てて、身軽になりましょう。
変わるのはあなたなのです。

2017年7月24日月曜日

考えるということ


すべての人は、人生に豊かさを求めています。
人生に対する豊かさの定義はそれぞれに異なりますが、誰もが豊かさを求めているのです。
人生に豊かさを求めない者はいません。
あなたにも、理想とする豊かな人生の形があるはずです。
誰もが、人生に豊かさを求めているということを理解しましょう。
しかしながら、多くの人は豊かな人生を実現することができません。
多くの人は、自らの求めている豊かさとは異なる、乏しさを受け取っているのです。
多くの人の人生は乏しい状態にあるのです。
乏しい状態とは、不足や不満を覚える状態ということです。
多くの人は、人生に対して不足を感じています。
多くの人は、人生に対して不満を覚えているのです。
不足や不満は問題を引き起こします。
問題は苦悩を導くのです。
多くの人は苦悩を抱えながら生きているのです。
苦悩を抱えながら生きることは、乏しいのです。
豊かな人生とは、いつでも喜んでいる生き方のことです。
人生には問題が付き物ですが、それを喜んでいられる状態というのが豊かさなのです。
多くの人は、豊かさを誤解しています。
欲望が実現することが豊かさではないのです。
多くの財産や友人を得ることは素晴らしいことですが、それが豊かさという訳ではありません。
多くの財産や友人を得ることがなくても、豊かな人生を生きている人はいるのです。
大切なのは、考えることです。
大切なのは、ものの価値を考えるということなのです。
多くの人は考えていません。
しかしながら、自分では考えていると思い込んでいるのです。
考えるとはどのような状態をいうのでしょう?
多くの人は、考えるという状態について誤解しています。
考えるとは、頭を悩ませるということではありません。
考えるとは、変化するということなのです。
人が考えた時、今までとは異なる選択をするのです。
今までとは異なる選択をするということこそが、考えているということなのです。
考える者は、変化を受け入れます。
考える者は、既存(きぞん)を手放すのです。
多くの人は既存の価値観に捕われ、変化を受け入れることができません。
多くの人は考えてはいません。
多くの人は、同じような日常を繰り返し送っているのです。
同じ作業を繰り返すのに、考える必要はありません。
同じ作業を繰り返すのであれば、却(かえ)って考えることが邪魔なのです。
同じ作業を繰り返すのであれば、考えない方が良いのです。
無知な者が豊かさを得るでしょうか?
”長い物には巻かれろ”という精神で気楽を選択している者は豊かさを得ることができません。
大切なのは、変化を選択することです。
考えている人は、変化を大切にします。
例えば、仕事で成功する人は、時代の変化を大切にしています。
時代の変化に対応することができない人は、豊かさを得ることができないのです。
変化を受け入れましょう。
そうすれば、人は考えることができるでしょう。
多くの人は同じことを繰り返します。
それは、考えていないからです。
もしも、考えている人がいれば、その人は変化を受け入れているでしょう。
変化を受け入れることによって、人生は大きく展開します。
あなたは、今までとは違うことをしなければなりません。
今までと同じ方法によって、どうして異なる結果を期待するのでしょうか?
行為が同じであれば、結果も同じなのです。
考えるということは、異なった選択をするということです。
あなたが人生に乏しさを感じているのであれば、既存に執着し、変化を嫌っています。
考えて、違う行動をしましょう。

2017年7月23日日曜日

意義と生きる

大切なのは、人生に意義を見出すことです。
すべての人生には意義があります。
どのような人物のどのような人生にも、必ず意義を見出すことが出来るのです。
あなたは自らの人生の意義を探さなければなりません。
それが見付かるまで探し続けるのです。
人生の意義とは、人生に対する充足です。
人が人生に対して満足している時に、人生の意義を見出すのです。
人生の意義は一貫している訳ではありません。
人生の意義とは、自らの状態によって変化するものなのです。
あなたが見出した意義こそが、その時の人生の意義となるのです。
大切なのは、充足の中に生きることです。
人が充足の中に生きるのであれば、人生の意義と共に生きることが出来るのです。
人が不足の中に生きるのであれば、人生の意義と共に生きることは出来ないのです。
人生の意義を見出すことは、人生を豊かなものとする唯一の方法です。
人生を豊かなものにするためには、人生の意義を探さなければなりません。
人生の意義を見出すためには、目的意識を変化させる必要があります。
現状に充足を感じることが出来ないというのであれば、それは不足を目的としているということなのです。
不足を目的とすれば、不足を得ることになります。
それは、当然のことなのです。
人は、自らの求めたものを得られるのです。
あなたが現状に不足を感じているのであれば、無意識の内に不足に対する目的意識を所有しているということなのです。
しかしながら、あなたは自らの抱えている目的意識を認識することは出来ないでしょう。
それは、余りにも自然に利用しているからです。
人は、毒を飲んでも、それが微量であるのならば気が付きません。
始めは違和感を覚えるものの、それに慣れてしまうと、毒を薬と思い込むようにもなるのです。
人生の意義を探すこともなく、日々の忙しさに溺れて、ただ平然と日常を過ごしているのであれば、それが不足を生み出す毒であっても、それを受け入れてしまうのです。
人生の意義を探すという目的意識を見失ってしまえば、思考は停止してしまい、人生についてそれ以上に考察することが出来なくなります。
人生について考察することが出来なければ、目の前の状況の意図に気が付かないのです。
目の前の状況の意図に気が付かない者は、そこから学びを得ることは出来ません。
学びを得ることが出来なければ、充足を生きることが出来ないのです。
人は、学ぶことによって成長します。
そして、成長することによって充足を生きることが出来るのです。
成長を実現する者は、平然と日常を過ごすことはありません。
成長を実現する者は、生まれたことを目的とはしないのです。
成長を実現する者は、生きることを目的とはしません。
成長を実現する者は、当たり前の先を見ているのです。
当たり前の先には、人生をどのように生きるのか?という問いが存在しています。
大切なのは、人生を生きることではありません。
人生をどう生きるのか?ということが重要なのです。
どう生きるのか?ということを考える人は、思考や行為の選択が変わります。
思考や行為の選択が変われば、状況が変わります。
状況が変わることによって、やがては人生そのものが変わるのです。
そこには、人生の意義が存在しているのです。
自分が変わり、人生が変わることによってのみ、人生の意義を見出すことができるのです。
あなたは目の前の状況に充足を得られるような視点を探しましょう。
ただし、それは簡単には見付かりません。
見付からなくても探し続けるのです。
探し続ける間に、あなたは成長しているでしょう。
探す者は変えるものです。
何かを変える者は人生の意義という至上の宝を得るでしょう。
あなたは疑わなければなりません。
当たり前を、当たり前としてはなりません。
人生の意義とは、当たり前を手放した時にこそ見えてくるものなのです。
変化を受け入れましょう。
そうすれば、人生の意義を知ることができるでしょう。
何かに執着し、変化を拒んではなりません。
人生の意義を見出さずに生きてはなりません。

2017年7月22日土曜日

人生の指標

多くの人は、人生が何によって決められているのかを知りません。
人生には、その指標となるものが存在しているのです。
多くの人は、豊かな人生を求めていますが、どのように人生が成り立っているのかを知らなければ、それを実現することはできないのです。
大切なのは、人生がどのように決められているのかを理解することです。
人生は、偶発的な奇跡ではありません。
すべてのことに理由があり、すべてが必然であるのです。
無意味なことはありません。
無価値なこともないのです。
人生におけるすべての状況とは、結果に過ぎません。
結果には、それに相応しい原因が存在するのです。
そのことを知る必要があるのです。
多くの人は、人生が運によって決まっていると考えています。
誰かが幸福なのは運が良かったからであり、自分が不幸なのは運が悪かったからだと考えるのです。
残念ながら、人生は運(偶然)によって決まるようなものではありません。
人生は、成るべくして成るのです。
誰かが幸福であるのならば、幸福という結果を導く原因を所有しているということです。
あなたが不幸であるのならば、不幸という結果を導く原因を所有しているということなのです。
それ以外に理由はありません。
すべては、あなたに相応しいのです。
多くの人は幸福を求めています。
不幸を求める人はいないでしょう。
例えば、世間的な不幸であったとしても、それを幸福と考えて求めているのです。
そのため、どのような人も幸福を求めるのです。
人生が思い通りにいかないのは当然です。
それは、人が未熟であるからです。
未熟な者の推測は的を外れます。
原因に対する結果を理解することができないからです。
多くの人は、原因と結果の繋がりを理解しません。
そのため、人生が思い通りにはいかないのです。
必ずしも、人生を思い通りに進める必要はありませんが、人生の目的を果たすためには、道に迷う訳にはいかないということも覚えておきましょう。
原因と結果の繋がりを理解することができれば、ある程度人生の道を迷うことなく目的地へと進むことができます。
大切なのは、原因と結果の繋がりを理解することです。
そのためには、勉強する必要があるのです。
あなたは不幸の本質を知っていますか?
人が不幸を得るのは偶然ではありません。
それは、無知を所有しているからです。
無知こそが不幸の原因であるのです。
人は、無知によって原因と結果の繋がりを誤解します。
人は、無知によって、結果に対する原因の選択を見誤るのです。
あなたが幸福や豊かな人生を求めているのであれば、勉強する必要があるのです。
勉強を嫌う者は、幸福を嫌う者なのです。
どのような知識でも、体験でも良いのです。
とにかく勉強することです。
勉強することによって何かしらの気付きが得られます。
気付きは誤解を照らすのです。
誤解を誤解だと認識することが重要なのです。
そうすれば、結果に対する原因の選択を誤ることもなくなるのです。
結果に対する原因の選択とは、考え方のことです。
人生は、その考え方によって築かれるのです。
人は、その考え方に相応しい人生を歩むのです。
同じような考え方の人は、同じような人生を生きているということを理解しましょう。
他者を騙(だま)して利益を貪る者は皆、詐欺師と成ります。
他者のために利益を生み出す者は皆、尊敬される人物と成るのです。
詐欺師が尊敬されることはありません。
尊敬される人が蔑(ないがし)ろにされることもないのです。
人生は、考え方によって決まります。
考え方は、勉強によって決まるのです。
そのことを理解して、勉強するか、遊び呆(ほう)けるのかを決めましょう。
これは、あなたの人生なのです。

2017年7月21日金曜日

愚図

すべての人生には、問題が存在しています。
問題の存在しない人生はありません。
どのような人物であろうとも、問題を抱え、それに向き合う必要があるのです。
それは、人が未熟であるからです。
すべての人が未熟であるのです。
生まれた者の中で、未熟を所有しない者はいません。
そのため、すべての人の人生に、問題が存在するのです。
誰も、問題を避けることはできません。
なぜなら、問題とは、自らの未熟さであるからです。
自らの未熟さを克服することがなければ、問題を手放すことはできないのです。
あなたは、問題が自らの内に存在しているということを覚えておかなければなりません。
多くの人はそのことを知りません。
そのため、外に問題の原因を探し、外に問題の解決法を探しているのです。
外に何かを探している間は、問題を解決することはできないのです。
外には問題の原因も解決法も存在しません。
そのことを理解し、あなたは自分と向き合わなければなりません。
すべての問題が、優柔によって生み出されます。
優柔とは、未熟さによってもたらされる迷いです。
多くの人が迷っています。
多くの人が決められずにいるのです。
人生を乏しくするのは簡単です。
優柔を選択すれば良いだけです。
人生を豊かにするのも簡単です。
決断すれば良いだけです。
決断によって、確実に変化が生じます。
問題が問題として存在するのは、問題を問題としてとどめておくからです。
問題を問題としてとどめることをしなければ、問題は問題ではなくなるのです。
この理屈を理解しましょう。
問題の状態に変化を加えれば良いだけなのです。
変化とは、決断によって生じます。
どのような決断でも良いのです。
あなたはとにかく決断することです。
それが、非常識な選択でも構いません。
誰からも認められなくても問題ではないのです。
大切なのは、状態に変化を加えるということだけなのです。
問題を解決するために決断するのではありません。
状態を少しだけ変化させるための布石(ふせき)なのです。
大切なのは、少しだけでも変化することです。
大きな岩も、小さな罅割(ひびわ)れによって砕かれるでしょう。
一つの石が抜け落ちるだけで、やがてその石垣は崩れてしまうのです。
あなたにできることは小さなことだけです。
問題を解決する必要などありません。
問題が解決するというのは結果に過ぎません。
結果とは、自然に導かれるものなのです。
あなたにできることは原因を選択することだけです。
そのため、大きなことをしようと気負(きお)う必要はありません。
難しいことをするのでもありません。
これは、誰にでもできる簡単なことなのです。
ただ、何かを決断するだけです。
何でも良いのです。
何かを始めましょう。
あなたが決断した瞬間から、問題は解決に向かいます。
それは、問題の本質が優柔という未熟さに他ならないからです。
愚図(ぐず)ではなりません。
間違っていようが、笑われようが構わないのです。
失敗しようが、損失を得ようが、それ自体を問題と考えてはなりません。
最大の問題は優柔であるのです。
決断を急がなければなりません。
時間を無駄に過ごしてはなりません。

2017年7月20日木曜日

空腹

多くの人は、人生に満足を求めています。
多くの人は、理想を追い求めているのです。
理想の実現こそが、幸福だと考えているのです。
理想とは、満足している状態です。
例えば、空腹よりも満腹を理想とするのです。
誰もが、理想を掲げます。
そして、誰もが理想が最善だと思っているのです。
しかしながら、すべての人が未熟です。
すべての人が不足を抱えており、すべての人が歪んでいるのです。
そのような者の理想とは、それに相応しく未熟であり、不足と歪みを抱えているのです。
そのようなものが最善であるはずがないのです。
例えば、過去を振り返ってみて、昔の自分の理想が最善だと思えますか?
大抵の人は、昔の自分の理想が最善だとは思えないでしょう。
大抵の人は、昔の自分の理想を否定することでしょう。
現在、あなたが求めている理想は、昔の理想と同じことなのです。
現在の理想も、それを否定する日が来ます。
すべての理想は否定されるようにできているのです。
多くの人は理想を大切だと考えています。
しかしながら、理想が大切だったことは今までに一度もなかったのです。
理想は決して最善には成れません。
理想とは、未熟な自己の投影に過ぎないからです。
あなたが大切にしなければならないのは、思い通りにならない現実です。
思い通りにならない現実とは、あなたの予測の範囲を超える状況です。
それは、新たな可能性ということができるのです。
理想とは、予測の範囲内にある期待です。
そのため、理想を追い求めていれば、人生の可能性は減少してしまうのです。
思い通りにならない現実とは、予測の範囲外にある可能性なのです。
そのため、現実を受け入れることは、人生の可能性を増加させることなのです。
多くの人が理想によって安心を得ようと考えます。
未熟な者の安心とは、未熟な状況です。
理想を追い求める態度は、現状に満足する態度なのです。
人生を展開させるためには理想を追い求める必要があるとする考え方があります。
しかしながら、理想を追い求めるのであれば、却(かえ)って人生は展開しないのです。
現実を受け入れることによって、人は一歩を踏み出すことができます。
現実を受け入れることができなければ、人は理想という幻想に引き籠(こ)もるのです。
しかしながら、現実を受け入れるのであれば、理想に引き籠もることはできません。
それは、可能性を得るからです。
可能性とは、人生を展開させる力です。
可能性を得る人は、停滞することができません。
可能性を得る人は、可能性に導かれて歩み続けるのです。
多くの人が理想を追い求めますが、あなたは現実という可能性を追い求めましょう。
現実とは、思い通りにいかないことです。
人生は、思い通りにいかなくて良いのです。
人生が思い通りに進むほど、つまらないことはありません。
人生は、思い通りに進まなくて良いのです。
寧(むし)ろ、思い通りに進まない方が良いのです。
多くの人は満ち足りていることが良いことのように吹聴(ふいちょう)します。
しかしながら、あなたは自分が常に満腹であることを想像してみれば良いでしょう。
そのような状態が快適でしょうか?
そのような状態が幸福なのでしょうか?
美味い飯を食うためには、空腹があれば十分です。
どのような料理も、空腹の助けがなければ美味い飯とは成り得ないのです。
空腹であれば、何でも美味いということを理解しましょう。
人生には、不足がある方が良いのです。
何事も、足りないくらいが面白いのです。
欲しいものが何でも手に入り、常に満たされているのであれば、何も面白くないのです。
寧ろそれは、苦悩へと変わってしまうのです。
満ち足りていても面白いことはありません。
すべてを満たそうとする必要はありません。
あなたが不足を抱える現実を生きているのであれば、それに感謝しなければならないでしょう。
あなたが真の幸福を求めているのであれば、不足している状態を大切にしなければなりません。
不足している状態とは、目の前の現実なのです。
現実という空腹によって、人生という料理を美味い飯に変えましょう。

2017年7月19日水曜日

出来の悪い人生

これは、あなたの人生です。
あなたの人生の責任は、あなたにあります。
あなたは、自らの人生に責任感を持たなければなりません。
それは、自分で納得できる人生を築くということなのです。
人生は、選択によって決まります。
選択の積み重ねによって、人生が築かれるのです。
しかしながら、多くの人がそのことを知りません。
多くの人は、誰かや何かによって自らの人生が決められていると思い込んでいるのです。
残念ながら、誰かや何かがあなたの人生に介入することはできません。
誰も、他者の人生に介入することを許されてはいないのです。
あなたが誰かの人生を変えようとしても無駄なことです。
あなたは、他者の人生には指一本触れることができないのです。
あなたには、誰かを変える力はありません。
誰かの人生を操作することなどできるはずもないのです。
あなたに変えられるものがあるとすれば、それは自分自身とその人生だけなのです。
それ以外のことを変えようとしても、あなたは自らの非力さに気が付くだけなのです。
あなたは自分自身と、自らの人生を変えなければなりません。
多くの人は文句を吐きながら生きています。
多くの人が、人生に不満を抱いているのです。
しかしながら、それも自らの選択の結果に他なりません。
人生に対して不満を抱く人は、人生に不満を抱くような選択をしたのです。
そして、それを選択したのは、不満を”好む”自分自身なのです。
人は、自分に良いものを選んでいるのです。
それが不満であろうが、不幸であろうが、自分にとって良いものなのです。
それは、人が未熟であり、人生の目的は成長にあるからです。
未熟とは不足です。
未熟者は、不足を補う必要があります。
未熟者にとっての良いものとは、不足を補えるものなのです。
人は、何が不足しているのかを知りません。
しかしながら、何が不足を補うのかは知っているのです。
その選択は無意識によって行われます。
人は無意識に選択します。
論理的(ろんりてき)に考えることなど殆(ほとん)どありません。
大抵の選択は、感情的な処理によって行われるのです。
そのため、多くの人が自分で納得できる人生を築くことが難しいのです。
あなたは、物事の道理を考えなければなりません。
論理的な思考を絶やしてはならないのです。
何も考えず、ただ感情に流されているのであれば、必ず文句を吐くのです。
自分自身で論理的に考えた選択であるのならば、結果がどのようなものであったとしても、それを納得することができるでしょう。
人生には、思い通りにいかないことが山程あります。
大抵のことは思い通りには進みません。
しかしながら、思い通りに進まない状況に納得する必要があるのです。
人生は、思い通りに進まないことが自然です。
それに納得するためには、論理的な思考が必要不可欠なのです。
大切なのは、良く考えることです。
深く考察する必要があるのです。
多くの人は考えません。
多くの人は、自らの人生に責任感を持たないのです。
そのため、問題が生じれば文句を吐きます。
誰かや何かが悪いと決め付けて、それ以上に思考を働かせることはないのです。
思考が停止すれば、人生が停滞します。
人生が停止すれば、状況も停滞するのです。
その時には、問題は停滞します。
問題が停滞すれば、文句を吐き続けることになるでしょう。
どのような状況も、自らの選択によって築かれたということを理解しましょう。
それがどのような状況であろうとも、冷静に納得しなければなりません。
一旦(いったん)は納得しなければ、話は先へ進まないのです。
拒絶には創造力はないのです。
論理的に考えれば、どのような状況も受け入れることができるのです。
すべての状況が自らの選択によって築かれた自然であるということを理解し、すべての状況を納得しましょう。
そして、出来の悪い状況(自分)を受け入れた上で、より良いものを新たに創造するのです。

2017年7月18日火曜日

その先を見る

人生とは、終わりの無い旅路です。
残念ながら、人生に終着はありません。
人は、人生を歩み続ける必要があるのです。
例えば、死を以(もっ)てしても、人生が完結するということはないのです。
死も通過点に過ぎず、決して終わりではないのです。
多くの人が、人生に終着を望むでしょう。
多くの人は、人生がいつか完結すると考えているのです。
そのため、何かしらの目標を掲げ、それを達成するために生きているのです。
それは、目標地点に辿り着いた時に、何かが完結すると考えているからです。
多くの人は目標を目指します。
自らの掲げる、もしくは誰かから与えられた目標を達成することに努めるのです。
目標を達成することは素晴らしいことです。
すべての人が、達成へと向かわなければならないでしょう。
人生とは、マラソンのようなものです。
生まれた瞬間から、走り出しているのです。
多くの人は、訳も分からずに走っています。
多くの人は、自分が何をしているのか、どこを目指しているのかを知らないのです。
多くの人は、ただ生存するために生きているのです。
しかし、その中の少数は、自分が人生というマラソン競技を行っていることを自覚します。
そして、ゴールを目指して走り続けることになるのです。
人生には終わりがありません。
そのため、ゴールはそれぞれが勝手に決めることになるのです。
多くの人は、自分の掲げたゴールを目標にして、人生を走り続けているのです。
例えば、仕事(定年など)にゴールを見出して走り続けます。
例えば、子育て(自立や孫の世話など)にゴールを見出して走り続けるのです。
目標を掲げることによって、人は走ることへの意欲を得ることができます。
目標を掲げることがなければ、走り続けるための動機が弱ってしまうのです。
目標を掲げることによって、人は走り続けることができるのです。
しかしながら、多くの人は、ゴールの存在しない競技にゴールを設置します。
それは、途中で競技を放棄するようなものなのです。
多くの人が目標に対して懸命に走り続けているために、そこに辿り着くことしか考えてはいないのです。
目標の先にも道は続いているにもかかわらず、それ以上を走る体力も意欲も残ってはいないのです。
多くの人は、人生を考察することがありません。
多くの人は、目の前の目標や欲望に全力を傾けるのです。
残念ながら、人生には常に”先”があるのです。
あなたは、目標自体を目指してはなりません。
それは、思慮(しりょ)に欠けた行為であるからです。
大切なのは、その先を目指すということです。
例えば、多くの人が仕事を金儲け(生活や欲望)のために行っています。
そのため、金銭のために働くことになるのです。
仕事に対する金銭的な報酬は、残念ながら仕事の本質ではありません。
そのため、金銭的な報酬を求めて仕事をしているのであれば、その本質を見極めることができないということなのです。
本質を欠いた仕事が、良いものであるはずがありません。
金銭的な報酬のために働く者は、金銭的な繋がりによって仕事をしているのです。
そのため、金銭的な理由によって仕事を失うでしょう。
金銭的な報酬とは、仕事の最も表面的な目標なのです。
そのため、金を儲けるだけの仕事であるのならば、そこに価値を見出すことはできないでしょう。
その先にあるものを見なければ、例え金を儲けたとしても、疲れ切ってそれ以上進むことができないのです。
金儲けの先には、例えば、生き甲斐や信頼などがあります。
生き甲斐や信頼のために仕事を行う者は、金儲けのために仕事を行う者よりも先へと進むことができるでしょう。
先を見る者は、同時に本質を見ているのです。
あなたが何を行うにしても、その先を、より本質を見て行いましょう。
表面的な目標では、先へと進むことはできません。
マラソンを行うのであれば、ゴール地点から自宅に帰ることを考えておく必要があるのです。
何等かの目標を達成したから終わりという訳ではありません。
一つの目標を達成したとしても、すぐに次の一歩が踏み出されているのです。
何かが終わったと考えて、怠(なま)けてはなりません。
人生は、常に始まっているのです。

2017年7月17日月曜日

反発心

すべての人が、自らの掲げる信仰に従っています。
すべての人が、自らの掲げる信仰に従って人生を選択するのです。
すべての人の人生は、その信仰によって築かれているのです。
信仰が人生の指標であり、それに逆らうことはできません。
信仰とは、プログラムです。
信仰が思考を決めます。
信仰が行動を決めます。
信仰が状況を決めます。
信仰が環境を決めます。
信仰が人生を決めます。
そして、信仰があなたを決めるのです。
信仰とは、人生において最も重要なものの一つです。
どのような信仰を掲げるかによって、人生が決まるということを覚えておかなければならないでしょう。
信仰とは、人格です。
人は、自らの人格に相応しい信仰を掲げるのです。
すべての人が、その人格に相応しい信仰によって人生を決めています。
そのため、人生は、その人格に相応しいものとなるのです。
すべての人生が、その人の人格に相応しく展開しているということに気が付きましょう。
この世界には、因果の仕組みが存在し、すべてがその身から出たものなのです。
そのため、人生のことを考えるのであれば、自らの掲げる信仰のことを考えなければならず、信仰のことを考えるのであれば、人格について考えなければならないのです。
多くの人は、自らの人格については考えません。
多くの人は、外に目が向いているのです。
多くの人は、誰かや何かを気にしています。
外のことばかりを気にしており、内については疎(おろそ)かなのです。
そのため、人格は蔑(ないがし)ろにされています。
その結果、人格が育まれることはなく、信仰は未熟さによって歪(ゆが)むのです。
歪んだ信仰は歪んだ状況を導きます。
歪んだ状況とは、あなたが問題とする状況のことなのです。
多くの人が、問題によって苦悩しています。
問題が生じる原因は、歪んだ信仰にあります。
信仰している対象が、人生に問題を引き起こすようなものであるということなのです。
そのことに気が付く必要がありますが、信仰は人を盲目(もうもく)にさせるのです。
多くの人が、信仰の対象を外に見出します。
その選択が歪んでいることは、多くの人が苦悩を抱えている時点において理解することができるでしょう。
所謂(いわゆる)、”普通”という状態が未熟であり、歪んでいるということなのです。
多くの人が”普通”を信仰しています。
多くの人が、皆と同じ信仰を求めているのです。
”普通”であることが安全だとか、幸福だとか思っているのです。
しかしながら、”普通”を信仰する人たちが安全を所有しておらず、幸福を生きていないことは明白なのです。
なぜなら、安全とは可能性のことであり、幸福とは変化のことであるからです。
”普通”を信仰する人たちが可能性を見出すことは難しく、変化を受け入れることはできないのです。
”普通”を信仰する人たちは、可能性と変化に反発するのです。
あなたは、反発心こそが人格を形成するということを覚えておかなければなりません。
人は、反発心によって人格を形成し、その人格が信仰と人生を決めるのです。
そのため、可能性と変化に反発している人たちは皆、”普通”という苦悩を信仰することになるのです。
大切なのは、反発心の方向性です。
人は常に何かに反発しています。
それは、地面を蹴るようなものなのです。
あなたは、反発によってそれから離れるでしょう。
その性質を理解する必要があるのです。
何に反発するのか?ということが重要です。
反発心を手放すことはできません。
そのため、反発心を抑える必要はありません。
何をどのように反発するのか?ということを考えるのです。
信仰とは、反発心の到達地点なのです。

2017年7月16日日曜日

真実の世界

すべての人が、作られた幻想の世界を生きています。
あなたの生きる常識とは、教育によって作られた幻想なのです。
すべての知識が幻想であり、すべての体験が幻想です。
すべての人は真実を知ることも、それを体験することもできません。
それは、既に幻想の中に生きているからです。
人生とは、睡眠時に生じる夢のようなものです。
それが真実であるかは誰にも分かりません。
人は夢を真実とも、幻想とも断言することはできないのです。
人生もそれと同じです。
多くの人は人生を真実だと考えています。
自らの知識や体験が”本物”だと思っているのです。
それは、実際に体感するからです。
しかしながら、すべての人が作られた幻想の世界を生きているという原則を忘れてはなりません。
すべての人が、何かしらの教育を受けて育つのです。
すべての人が未熟です。
未熟であるが故に、多くの知識を必要としています。
すべての人は、知識によって独自の価値観を築きます。
しかしながら、未熟であるが故に、偏(かたよ)った知識と体験によって、偏った価値観を形成するのが精一杯です。
すべての人の価値観とは、偏見に過ぎないのです。
偏見は真実には程遠く、幻想を脱することはできません。
そのため、すべての人が教育によって作られた幻想という価値観を生きているということなのです。
あなたの信仰は、残念ながら幻想です。
幻想を生きたとしても、豊かな人生は得られないのです。
幻想を生きることは、却(かえ)って人生を乏しくさせるのです。
大切なのは、幻想を手放し、真実に近付くことです。
そのためには、幻想に気が付く必要があるのです。
幻想に気が付くことは簡単ではありません。
睡眠時に生じる夢の世界を生きている者が、その世界が夢であると気が付くことは容易ではありません。
夢の世界を生きている者にとっては、その世界が真実なのです。
そのため、多くの人は睡眠時に生じる夢の中で感情を乱すのです。
あなたの生きている世界は、真実だと思いますか?
あなたはそこで夢の中と同じように感情を乱すでしょう。
しかしながら、それが幻想であると疑う必要があるということを覚えておかなければならないのです。
なぜなら、そこには常に問題が生じているからです。
あなたの人生には常に何等かの問題が生じています。
それは、その世界が幻想であるということをあなたに気付かせるためなのです。
問題は、あなたの覚醒(かくせい)を促(うなが)しているのです。
多くの人は問題を嫌います。
それは、幻想に浸(ひた)っていたいからです。
幻想の世界において、人は”何もしていません”。
それは、あなたが夢の中で壮大な物語を体験している時に、肉体は寝返りを打っているからです。
精神と肉体が同時に活動してこそ、人は何かを成すのです。
作られた幻想の世界を生きている者は、精神と肉体の活動のバランスを欠きます。
多くの人は精神の活動が貧弱であり、肉体の活動が富強です。
そのため、多くの人は人生において何も成さ(せ)ないのです。
あなたは人生に何を成しますか?
あなたは何のために生きて、何を遺すのですか?
精神と肉体のバランスを欠き、幻想の世界を生きている者には何かを成すことはできません。
そのことに気が付かなければならないのです。
あなたは問題を敵視してはなりません。
問題こそが、あなたを幻想の眠りから救い出してくれる唯一の助けです。
問題を否定するほどに、あなたは幻想の世界に迷い込むことになるでしょう。
周囲の人を観察しましょう。
何かを成し遂げる人は皆、何かしらの問題に向き合っているのです。
何も成さない人は、問題から逃避して快楽に溺れているのです。
あなたは問題によって、幻想から目覚めましょう。
問題こそが、真実の世界を見せてくれるということを理解しなければなりません。

2017年7月15日土曜日

美しい生き方

人生には、いつでも可能性というものが存在しています。
あなたが人生において、可能性を失うことはありません。
可能性を見失うことはあるでしょうが、可能性を失うことはないのです。
しかしながら、多くの人はそのことを理解しません。
人生は、どのような状況においても可能性に満ち溢れているものです。
しかし、そのことを信用することができないのです。
すべての人が何かしらの問題と向き合います。
そして、多くの人はその問題に苦悩するのです。
人が苦悩する時には、思考が停止している状態です。
打つ手が無い時に、苦悩という選択を許すのです。
多くの人は人生に苦悩しています。
それは、多くの人の思考が停止しているということを意味しているのです。
残念ながら、人生には、八方塞(はっぽうふさ)がりという状態は存在しません。
どのような状況にも必ず可能性が存在しているのです。
あなたは、どのような問題も解決することができます。
どのような苦悩も、それを喜びに変えることができるのです。
目の前の状況の中に可能性を見出せば良いだけなのです。
そのためには、思考を働かせなければならないのです。
多くの人が傲慢(ごうまん)に陥(おちい)っています。
傲慢とは、自分が正しいという思い込みです。
自分が正しいと思い込む者は、思考の柔軟性に欠けます。
それはまるで、引き戸を押し続けているようなものなのです。
引き戸であるにもかかわらず、それを押し続けているのであれば、扉が開く可能性は限りなく少ないのです。
人生に苦悩を抱えている人は、このような簡単な誤解を抱えているのです。
簡単なことで扉は開きません。
また、簡単なことで扉は開くのです。
傲慢という誤解を手放し、謙虚(けんきょ)さという柔軟性を身に付けるだけで良いのです。
自分が正しいと思い込む者は道を見失います。
自分を疑う者には、道が開けるでしょう。
残念ながら、自分が正しいことなどありません。
厳密には、自分が正しい時もあれば、自分が間違っている時もあるということなのです。
謙虚な者は学ぶことを許されます。
それは、状況を考察する思考の運動を助けます。
学ぶ者は考えるのです。
学ぶ意欲の無い多くの者は考えてはいません。
大地を掘れば水が得られるのに、天を仰(あお)いで文句を吐くのです。
多くの人は、努力することを嫌います。
それは、思考が停止しているために、努力の有用性を理解しないのです。
傲慢な者は同時に怠惰(たいだ)です。
傲慢な者は自分が正しいと思い込んでいるために、自分を働かせることができないのです。
自分が正しいと思い込んでいる愚者は、他人を働かせるでしょう。
問題を相手のせいにするのです。
問題を抱えているのは自分であって他人ではありません。
思考が停止ているために、その程度の事実にも気が付かないのです。
あなたが人生を豊かなものにしたければ、可能性を見出す以外に方法はありません。
可能性とは豊かさです。
可能性を失うことが乏しさなのです。
あなたは、謙虚な気持ちで状況に向き合いましょう。
そうすれば、今の自分にも何か一つでもできることが見えてくるのです。
その一つのできることを見付けることが重要なのです。
傲慢な者には、その一つのできることが見付けられないのです。
人生とは、理想通りの華やかなものではありません。
それは、とても泥臭く、見窄(みすぼ)らしいものなのです。
現実とは、決して綺麗なものではないのです。
あなたは額に汗して働きましょう。
詰まらない自尊心を手放し、謙虚になるのです。
どのような生き方が最も美しいかを考えましょう。
真の美しさを探しましょう。

2017年7月14日金曜日

偶然の幸福

すべての人は、変化を求められています。
すべての人は、変化を実現しなければなりません。
なぜなら、変化と幸福は等しいからです。
変化とは幸福です。
そして、幸福とは変化なのです。
多くの人が苦悩を抱えています。
多くの人が満足することができずに、不幸を感じているのです。
それは、変化しないからです。
多くの人は安定を求めます。
変化しないことが良いと思い込んでいるのです。
変化することがなければ、停滞する以外に方法はありません。
停滞とは不変であり、不変とは不幸なのです。
人は、変化によって幸福を感じ、不変によって不幸を感じるようにできているのです。
しかしながら、多くの人は安定という名の停滞を欲します。
そこに矛盾を覚えるでしょう。
その感覚は正しいのです。
なぜなら、矛盾しているからです。
多くの人は矛盾を抱えています。
そのため、苦悩を得ることになるのです。
多くの人が安定を求めるのは、一度手に入れた幸福を手放したくはないからです。
幸福は変化によって手に入れることができました。
しかしながら、そのことは忘れてしまうのです。
一度手に入れた幸福を守ろうとする時、多くの人はその状態を停滞させることによって守ろうとします。
現状を維持することによって、幸福を守ることができると考えるのです。
しかしながら、幸福とは変化であるために、その企(たくら)みは必ず破綻(はたん)します。
多くの人は、目の前の快楽に溺れるのです。
大切なのは、物事を俯瞰(ふかん)することです。
一部を切り取って判断するのであれば、それを誤ることになるでしょう。
多くの人は、”偶然に”幸福を手に入れます。
偶発的に起こした変化によって、偶然の幸福を手に入れるのです。
手に入れた幸福が偶然の産物であるために、それを失わないように必死で守ろうとするのです。
多くの人にとって、幸福とは偶然の産物です。
しかしながら、この世界には偶然は存在しません。
すべてが因果の仕組みの中に存在する必然なのです。
もちろん、幸福を手に入れるには理由があります。
それは、先述した変化です。
幸福を手に入れるのは簡単です。
それは、変化を受け入れれば良いだけなのです。
常に既存の概念を疑い、常に未知に興味を抱き、常に学ぶ姿勢を崩さず、常に変化するために行動する必要があるのです。
幸福を手に入れるためには、これだけの過程を経れば良いだけなのです。
特別な知識も技術も必要ではありません。
変化し続けることだけです。
これは誰にでもできることなのです。
多くの人が幼少期を幸福だと考えます。
もしくは、思春期を幸福だと考えるでしょう。
多くの人が、人生の前半を幸福と考えているのです。
それは、幼い自分が強制的に変化の中に生きていたからに他なりません。
多くの人は、年齢を重ねるに連れて、変化の乏しい人生を生きるようになります。
自分が正しいという傲慢(ごうまん)さが強化され、他者の忠告を受け入れることもなくなります。
傲慢は変化を否定するのです。
多くの不幸な人たちは皆、傲慢に陥っているのです。
あなたが不幸を感じているのであれば、その理由は傲慢に陥っているからです。
あなたが不幸を感じている理由は、変化を否定しているからなのです。
ただ、それだけです。
誰かや何かがあなたの障壁となり、あなたに不幸を強いているのではありません。
不変を許す傲慢さが、自分を苦しめていると理解しましょう。
難しく考えずに、執着を手放しましょう。
偶然に手に入れる幸福も不幸もありません。
すべての状態を説明することができるのです。
変化の重要性を理解しましょう。
偶然の幸福に縋(すが)ってはなりません。

2017年7月13日木曜日

地道な観察

すべての人の人生には目的が存在しています。
人は、ただ欲望を満たすために生きているのではありません。
人はただ、穏やかな生活を営むために生まれたのではないのです。
すべての人が、欲望よりも、穏やかな生活よりも大きな目的を所有しているのです。
あなたはそのことを理解する必要があります。
それは、人生の目的を知れば、あなたの人生は大きく様子を変えるからです。
現在、あなたが抱えている問題や苦悩は、人生の目的を知ることによって消え去ってしまうでしょう。
それは、人生の目的を知った後では、現在抱えている問題や苦悩は取るに足らないものとなってしまうからです。
すべての人が誤解しています。
すべての人が、誤解に苦しんでいるのです。
あなたが現在抱えているどのような問題も苦悩も、それが誤解であるということを知りましょう。
残念ながら、その問題も苦悩も誤解に過ぎません。
問題ではないものを問題視し、苦悩ではないことに苦悩しているのです。
あなたには、それが信じられないかも知れません。
それも無理はありません。
それは、誤解を所有しているからです。
あなたが誤解を手放せば、その問題が問題ではなく、その苦悩が苦悩ではないことを理解することができるでしょう。
あなたが解決すべきことは、問題や苦悩ではありません。
それを問題や苦悩として認識している誤解を解決する必要があるのです。
あなたが誤解を解くために必要なことは、自分を知ることです。
あなたは、自分を知ることによって(自分にとっての)必要を理解することができるでしょう。
自分を知るためには、自分を観察する以外に方法はありません。
それも、常に観察を続け、それを長年続けなければなりません。
自分を知るために重要なのは、地道な観察を諦めないことです。
誰も、あなたに自分を教えてはくれません。
あなたは自分自身によって、自分を知らなければならないのです。
地道な観察を長年続けていれば、誰にでも自分を知ることができるのです。
問題や苦悩に対して、直接的な働き掛けをする必要はありません。
自分を知ることによって、必要を理解すれば、問題を問題視する必要も、苦悩を抱える必要もないことを理解することができるのです。
問題を問題視する必要も、苦悩を抱える必要もないことを理解すれば、そのように選択する必要もないのです。
それは、問題や苦悩の解決を意味しているのです。
あなたが選択し、行わなければ、問題も苦悩も存在しません。
あなたが選択し、行うために、問題や苦悩というものが存在するのです。
多くの人は、問題や苦悩が意思を以(もっ)て存在していると考えるでしょう。
多くの人が、問題や苦悩に襲われるとでも思っているのです。
しかしながら、問題や苦悩を生み出し、それで自分を傷付けているのはあなたなのです。
誰かや何かが問題や苦悩を引き起こしているのでもありません。
自分を知らないことによって生じる誤解こそが、問題と苦悩を引き起こしているのです。
自分を知らない者には、必要を理解することができません。
必要を理解することができなければ、合理的な計画を立てることはできないのです。
必要を理解することができない者は、いつも非合理的な無計画に従っているのです。
非合理的な無計画に従っている者が、豊かな人生を生きることはできません。
それは、欲望や穏やかな生活を営むことに専念し、人生の目的を見失って生きることに等しいからです。
人生の目的を考えない者は計画を立てません。
人生の目的を考えない者は、その場凌(ばしの)ぎを演じるに過ぎないのです。
人生の目的という長期的な計画を立てられないために、刹那的(せつなてき)な生き方に終始する以外に方法はないのです。
あなたが自分を知ることができれば、”今”に集中して生きることができます。
長期的な計画と、”今”を生きることの間に矛盾を感じるかも知れませんが、大切なのは、未来(という可能性)のための”今”を生きるということなのです。
人生の目的とは、人生の可能性です。
人生の目的を考えず、刹那的に生きる者には可能性が導かれないのです。
あなたは欲望や穏やかな生活に憧れてはなりません。
人生の目的は、それ等を超えた場所に存在しているのです。
問題や苦悩を超えて考えてみましょう。
そうすれば、あなたは人生の目的を考えることができるようになるでしょう。
問題や苦悩に捕らわれることは、思考の停止を意味しているのです。
自分を知ることによって、必要を理解しましょう。
そうすれば、人生が展開をやめることはありません。

2017年7月12日水曜日

懸命な奴隷

すべての人は苦しまなければなりません。
この世界において、苦しみを離れることのできる人はいません。
あなたがどれだけの努力を積み重ねようとも、苦しみから逃れることはできないのです。
苦しみは、生涯に渡り、あなたと共に歩むでしょう。
あなたは苦しみと共に生きなければならないのです。
それが仕方の無いことだと受け入れなければなりません。
しかしながら、多くの人は、苦しみを受け入れることができません。
どうにかして、苦しみから逃れようと必死なのです。
それは、苦しみの本質を知らないために選択される行為です。
あなたが苦しみの本質を理解することができるのであれば、苦しみから逃れるために時間と労力を浪費することはなくなるでしょう。
苦しみから逃れることができないのに、それから逃れようとするのであれば、奴隷が鎖(くさり)を引きちぎろうと努めるようなものなのです。
奴隷が鎖を引きちぎろうとしても、鎖を引きちぎるほどの力はありません。
奴隷が鎖から解放されるためには、懸命に働く以外に方法はないのです。
苦しみとは、人を縛り付ける鎖のようなものです。
それは、自由を奪います。
苦しみによって、人は人としての尊厳(そんげん)を失うのです。
そのため、苦しみと共に生きるということは、自由と尊厳を失って生きるということなのです。
人にとっては、それが苦しいのです。
大切なのは、人が自由と尊厳を以(もっ)て生きることです。
そのためには、苦しみという鎖を外さなければなりません。
苦しみの本質は無知です。
すべての人は無知であるために、自由と尊厳を失っているのです。
すべての人が無知です。
そのため、すべての人が苦しまなければならないのです。
この世界において、無知を抱えない者はいません。
すべての人が、無知を抱えているということを覚えておきましょう。
そのため、あなたは必ず苦しまなければならないのです。
無知な者には、鎖の解き方が分かりません。
奴隷は、懸命に働かないために鎖に繋がれているのです。
懸命に働く奴隷は鎖を解かれ、仕事に専念することを許されるでしょう。
しかしながら、懸命に働かない奴隷には、逃亡の恐れがあります。
そのため、逃亡しないように鎖で繋いでおかなければならないのです。
多くの人は、目の前の問題から逃亡します。
人は、目の前の問題に対して、懸命に働き掛ける必要があるのです。
目の前の問題に対して、懸命に働き掛ける者は知識と経験を得るでしょう。
知識と経験は、ある段階で理解を導きます。
理解とは喜びなのです。
それは、苦しみという鎖を解く鍵であるということを覚えておきましょう。
目の前の問題に対して、懸命に向き合っている者は、鎖を解いて自由に近付きます。
無知を手放し、理解を得る者は自由を得ることができるのです。
残念ながら、あなたが労働から解放されることはありません。
それは、すべての人が無知を抱え続けているからです。
しかしながら、限られた条件の中でも自由と尊厳を以て生きることはできるのです。
すべての人が人生の奴隷ですが、懸命に働けば豊かな人生を生きることができるのです。
あなたは、苦しみの本質が無知であることを知りましょう。
目の前の問題に対して懸命に働き掛けない者には、決して無知を克服することはできません。
あなたはどのような問題においても学ばなければなりません。
人は、どのような問題からも学ぶことができるのです。
あなたは、すべての問題から学ぶことがあるということを忘れてはならないのです。
あなたは苦しまなければなりません。
しかし、それは無知を所有しているからです。
懸命に働く奴隷を、主人が苦しめることはないのです。
懸命に働く奴隷は、主人に気に入られ、重要な仕事を任されるようになるでしょう。
あなたが懸命に学べば、人生はあなたに重要な仕事を与えるでしょう。
それを喜びましょう。
    

2017年7月11日火曜日

人生を面白く

人生をどのようなものにするかは、あなたがどのように生きるのか?ということで決定されます。
大切なのは、どのように生きるか?です。
人生は、環境や状況によって決まる訳ではありません。
しかしながら、多くの人は、環境や状況によって既に自分の受け取る結果が決まっていると考えているのです。
例えば、貧しい家庭に生まれたのであれば、それだけで人生が乏しいものに決まると考えているのです。
人生を深く考察すれば理解することのできることではありますが、貧しい家庭に生まれたからといって、人生が乏しいものになるということはありません。
貧しい家庭に生まれようとも、多くの”富(金銭のことだけではない)”に満たされて、豊かな人生を生きる者があるのです。
富んだ家庭に生まれたとしても、乏しい人生を生きる者はいくらでもいるのです。
環境や状況によって人生が決まると考える方が楽です。
誰かや何かのせいにして、言い訳に逃れることができるからです。
多くの人は、自らの人生が乏しいのを、誰かや何かのせいにしているのです。
恨(うら)みを抱いたところで、人生が豊かさを得ることはありません。
それは、あなたが誰かや何かを恨むような生き方を選択するからです。
誰かや何かを恨んで生きる者には、誰かや何かに恨まれるような人生が相応しいのです。
誰かや何かを恨み、誰かや何かに恨み返されて争うことでは、人生は乏しくなるばかりなのです。
環境や状況がどのようなものに思えても、あなたは決して心を汚してはなりません。
何かが不足しているのが自然です。
何かが多過ぎるのが自然です。
人生は決して思い通りには進みません。
人生があなたの期待に応えることなどないのです。
あなたはいつも人生に裏切られます。
あなたの願いは叶わないのです。
それが人生です。
それが、人生の自然の姿なのです。
楽しいことなど何も無いかも知れません。
すべてのことに苦しみを覚え、すべてのことに悩むかも知れません。
しかし、それも人生です。
あなたはそれでも、人生を経験する必要があるのです。
誰かや何かのせいにするのは簡単です。
しかしながら、簡単な方法では、得られるものは少ないのです。
大切なのは、自分がどうするのか?ということです。
あなたは常に選択を迫られています。
あなたの選択によって、人生は変化するのです。
環境や状況、誰かや何かによって人生が決まる訳ではありません。
あなたの選択によって、人生は決まっているということを覚えておかなければならないのです。
人生を豊かなものにするためには、豊かな生き方を選択しなければなりません。
豊かな生き方とは、意欲的な生き方のことです。
人生には、面白いことが無いかも知れません。
しかしながら、面白くないからといって、不貞腐(ふてくさ)れていてはならないのです。
あなたは、詰(つ)まらないと思うことにも興味を抱くように努めましょう。
面白くないと思うのは、その面白さを知らないからです。
自分が無知であるだけなのです。
原因が自分自身にあるにも関わらず、環境や状況のせいにしてはならないのです。
残念ながら、意欲の無い者が豊かに生きられる場所はありません。
意欲の無い者は、どこへ向かっても乏しさを生きることになるからです。
意欲のある者は、どこであっても豊かに生きるでしょう。
詰まらない場所も面白くすることができるのです。
人生は自分自身の選択によって築かれます。
人生が初めから面白く作られている訳ではありません。
何事も、初めは詰まらないものなのです。
どのように向き合うのか?ということによって、その面白さを引き出すことができるのです。
無知な者には理解することができません。
無知な者には、何もかもが詰まらないのです。
あなたは学ぶ意欲を持ちましょう。
そうすれば、目の前の環境や状況がどのようなものであろうとも、必ず面白いものとなるでしょう。

2017年7月10日月曜日

対話

すべての人は、目的を以(もっ)て生きています。
それは、短期的な目的であり、長期的な目的です。
すべての人は何等かの目的を達することを目指しているのです。
目的を達するためには、目的地に到達する必要があります。
目的地に到達するためには、先へ進まなければなりません。
多くの人は、その道程を急ぎます。
多くの人は、できるだけ早く目的地に辿り着きたいと考えているのです。
早く進もうと考えれば、その足取りは疎(おろそ)かなものになります。
人は走る程に、躓(つまず)く可能性が高まるのです。
あなたは、道を急ぐ者が躓くということを覚えておかなければならないでしょう。
多くの人が、欲に従います。
多くの人は、理想を追い求めているのです。
そのため、できる限りの近道や、素早く到達することのできる方法を探しているのです。
目的地に素早く到達するだけなら、近道や良い方法を探せば良いでしょう。
しかしながら、人生においては、素早く目的地に到達するだけでは満足を得られないのです。
大切なのは、どのような過程を経て目的地に到達したのか?ということです。
例えば、バスに揺られて目的地に到達することは、素早く簡単な方法かも知れません。
しかしながら、バスに揺られるだけであれば、目的地に到達したとしても、大きな変化を得られないのです。
出発地点から目的地までの間に、変化に価(あたい)する経験を積むことができないのです。
大切なのは、目的地に到達することではありません。
目的地に到達する過程において、どれだけ変化(成長)することができたのか?ということなのです。
変化した自分が目的地に到達することに価値があるのです。
必要な経験を積むこともなく、ただ素早く簡単に目的地に到達しただけであれば、目的地に到達する必要はないのです。
道を急ぐ者は、却(かえ)って道を遠くするでしょう。
あなたは、人生の目的について考えなければなりません。
何のために生きているのか?ということを考えなければ、目的地に辿り着いたとしても虚しいのです。
多くの人は、内容を気にしません。
多くの人は、見た目だけを気にしているのです。
そのため、どのような過程を経て目的地に到達するのか?ということよりも、どれだけ簡単に、素早く目的地に到達するのか?ということに専念するのです。
人生とは、誰かとの競争ではありません。
人生とは、自分自身との対話なのです。
多くの人は誰かとの競争に明け暮れています。
しかしながら、そのような生き方では疲弊(ひへい)してしまうでしょう。
内容が伴わなければ、すぐに次の目的地に向かって出発しなければなりません。
それは、必要な過程を経てはいないからです。
目的地に到達することは大切ですが、どのような自分が到達するのか?ということの方が重要です。
そのため、あなたは急いで道を進む必要はありません。
歩いて目的地に向かうことになろうとも、それを恥じてはなりません。
確実に一歩を踏み締め、成長を実感することの方が重要なのです。
あなたは丁寧に進まなければなりません。
一時間歩むことと、一時間バスに揺られるのでは、移動距離は大きく異なります。
当然、一時間バスに揺られる方が遠くまで移動することができるのです。
しかしながら、成長の 幅は一時間歩むことの方が大きいのです。
あなたは、地道な方法を蔑(ないがし)ろにしてはなりません。
基礎を固めずに、家を建ててはなりません。
基礎を固めない方が家は早く建つでしょう。
しかしながら、それは早く傾くのです。
何事も急げば躓きます。
焦る気持ちを抑えなければなりません。
人生は誰かとの競争ではありません。
これが自分自身との対話であることを忘れてはならないのです。
あなたの目的は成長することであって、誰かに勝ることでも、誰かを負かすことでもありません。
人生は、自分自身と対話しながら、ゆっくりと確実に進めば良いのです。
軽薄(けいはく)な人間になってはなりません。
一つ一つ、一歩一歩の意味を考えて、丁寧に生きなければなりません。

2017年7月9日日曜日

世界を築く

すべての人は、自らの人生を生きています。
誰もが、自分自身の人生を生きているのです。
あなたが、他者の人生を生きることはできません。
他者が、あなたの人生を生きることもできないのです。
これは、あなたの人生です。
人生は、あなたに相応しい状況を導くのです。
人生は、あなたに相応しく変化します。
あなたの価値観や生き方に相応しい人生を生きることができるのです。
あなたに相応しくない人生を生きることはできません。
多くの人が、理想を掲げています。
理想とは、高望みです。
多くの人は、自らの分際(ぶんざい)に相応しくない人生を求めているのです。
それは、強欲に支配されているからです。
強欲な者は、理想を要求します。
自分に相応しくないものを求めることほど、愚(おろ)かなことはないのです。
多くの人が、自らの分際に相応しい現実を否定し、自らの分際に相応しくない理想を求めます。
現実を生きることが賢明(けんめい)であるのです。
それは、現実こそが実世界であるからです。
人は、実世界を生きることが許されています。
理想は妄想(もうそう)であり、存在しない仮想の世界です。
多くの人が理想を生きようとしていますが、それは不可能であるのです。
理想を生きる努力も無駄にはなりません。
それは、理想を生きようと努めることが愚かな行為であることを知る良い機会となるからです。
しかしながら、それ以上の意味はありません。
残念ながら、理想を生きることは叶わないのです。
あなたが生きることができるのは現実だけです。
現実という実世界を生きるように努めましょう。
そうすれば、理想として願った世界が、必要であれば現実となることもあるのです。
世界とは、体験です。
あなたの人生は体験の結果なのです。
実際に体験したことが実世界を築きます。
それが現実なのです。
しかしながら、多くの人は知識が世界だと考えているのです。
多くの人は、知識によって何かを理解した気になっています。
残念ながら、知識は世界ではありません。
知識とは、地図に過ぎないのです。
どれだけ地図に詳しくても、実際の道を歩んだことがなければ世界は広がりません。
地図を知らなくても、実際に歩めば、それが世界となるのです。
多くの人は、知識によって人生が豊かなものとなるように錯覚(さっかく)しています。
残念ながら、地図を隅々まで覚えたからといって、あなたの世界が広がることはありません。
地図は大切です。
知識がなければ、想像力や発想は導かれないからです。
しかしながら、知識を得ただけで満足してはならないのです。
地図を見たからといって、その場所を体験したことにはならないでしょう。
あなたは、それが理解できますか?
知識を得たからといって、人生が展開することなどありません。
実際に体験したこともないのに、人生を語るのは愚かなことなのです。
あなたは、人生を分かった気になってはなりません。
あなたには、何も分からないのです。
歳を経ても、小さな世界に生きる者がいます。
世界が広がらないのは、体験に対して愚鈍(ぐどん)であるからです。
知識を得ることも大切ですが、体験を得ることを重要視しましょう。
変化を恐れている者は体験を得ることができません。
変化を恐れている者の世界は広がりません。
変化を恐れている者には、人生が分からないのです。
変化とは、現実の中にこそ存在しています。
あなたは分相応な人生を生きましょう。
体験から学ぶのです。
体験こそが、世界を築くということを覚えておきましょう。

2017年7月8日土曜日

優しい人と厳しい人

すべての人が誤解を抱えています。
すべての人が、誤解を通じて人生を眺めているのです。
そのため、人生には多くの誤解が生じています。
しかしながら、その誤解には気が付きません。
それは、視力の弱い人が眼鏡を通じて見ている景色が、より鮮明に映ることに似ています。
誤解とは、理想です。
人は、理想を通じて人生を眺めているのです。
理想は、現実を美しく彩(いろど)ります。
視力の弱い人の見ている景色が眼鏡を通じて鮮明に映るように、現実を受け入れられない人が理想を通じて見る景色は、美しく飾(かざ)り立てられるのです。
多くの人は現実を受け入れることができません。
それは、現実とは苦しいものであるからです。
現実とは、自分自身の弱さの現れです。
あなたの直面する苦しみとは、自分自身の弱さそのものなのです。
多くの人は、自分自身の弱さを受け入れることができません。
そのため、それを否定し、見ないようにするのです。
多くの人が喜びを求めています。
苦しみを求める人は多くありません。
それは、理想という美しい世界に生きていたいからです。
しかしながら、それは幻想に過ぎません。
理想の美しい世界を夢見たところで、それを生きることはできないのです。
人は、現実を生きる以外に方法はありません。
あなたは常に自分自身の弱さと共に生きるのです。
人生の目的を履き違えてはなりません。
あなたは、喜びのために生きるのではありません。
あなたは、苦しみのために生きるのです。
喜びとは、苦しみと向き合うことによって生じる結果に過ぎません。
苦しみとは、喜びと向き合うことによって生じる結果なのです。
苦しみと向き合う人は、結果として喜ぶでしょう。
あなたは誤解を手放さなければならないのです。
多くの人が、喜びを求めています。
しかしながら、喜びを求めるために苦しみを選択してはいません。
喜びを求めて、目の前の喜び(気楽)を選択するのです。
例えば、多くの人は甘えられる環境を求めています。
甘えを許される気楽な環境を喜び、誰かを甘やかす自分でありたいのです。
多くの人は、互いを甘やかすことを優しさや仲が良いことだと思い込んでいます。
しかしながら、互いを甘やかす関係に可能性はありません。
互いの怠惰(たいだ)を許し、没落していく可能性に向かっていくのです。
豊かな人生を生きる人は甘えません。
そして、他者を甘やかすこともありません。
それは、常に自分自身を練磨(れんま)しているからです。
豊かな人生を生きる人は、自分自身に厳しくあるのです。
そして、他者にも厳しくあるでしょう。
それは、自分自身と同じように、他者を練磨しようとしているからです。
自分自身を磨く人は、他者をも磨きます。
互いに磨き合えば、理想に逃げる必要はないのです。
それは、磨く程に弱さの汚れが落ち、強さという輝きが現れるからです。
真(まこと)に優しい人というのは、厳しい人であるのです。
真に厳しい人というのは、甘やかす人であるということを覚えておきましょう。
あなたを甘やかす自分自身に警戒しましょう。
そして、あなたを甘やかす他者に注意しなければなりません。
微温湯(ぬるまゆ)で互いを慰め合ってはなりません。
自らを克己(こっき)し、他者を啓蒙(けいもう)するのです。
足を引っ張り合ってはなりません。
見た目に騙されてはなりません。
厳しさの中に優しさを、優しさ(甘さ)の中に厳しさを見付けましょう。

2017年7月7日金曜日

結び直し

あなたは人生に何を築きますか?
あなたは人生に何かを遺さなければなりません。
それは、自分自身のためでもあり、他者のためでもあるのです。
あなたの人生における働きによって、あなたと他者の成長に影響が及びます。
あなたがより良いものを築き、遺せば、その過程においてあなたはより成長することができるでしょう。
そして、あなたが遺すものがより良い程に、それに触れる他者は成長する可能性を増すのです。
人は、人生に良い仕事をしなければなりません。
すべての人が人生をできる限り丁寧に生きなければならないのです。
これは、あなたの人生ですが、あなただけの人生ではありません。
人は、自分のためだけに生きることはできないのです。
それは、自分という存在があるのは、他者のおかげであるからです。
他者によって、あなたは自分を存在させることができます。
他者との相対関係においてのみ、あなたは自分を生きることができるのです。
そのため、他者を無視することはできません。
他者を無視すれば、自分を無視することになるからです。
あなたは自分自身のために人生を生きなければなりません。
しかし、それは他者のための人生でなければならないのです。
多くの人が、他者を無視することによって、自分自身のためだけに人生を生きようとしています。
もしくは、自分自身を無視することによって、他者のためだけに人生を生きようとしているのです。
大切なのは、自分自身も他者も一つの存在であるということです。
この世界には、陰陽の仕組みが存在しているのです。
陰は陰だけでは存在することができません。
陽も、それ自体では存在することができないのです。
陰と陽の境界線にこそ、世界は存在するのです。
あなたが自分自身のためや、他者のためだけに生きるのであれば、良いものを築き、遺すことはできません。
良い仕事というのは、自分自身にも、他者にも貢献するものであるのです。
あなたの生き方が、自分自身や他者のどちらかに傾いているのであれば、その価値観を改める必要があるでしょう。
それは、価値観の見直しです。
あなたは良い仕事をしなければなりません。
そのためには、歪んだ価値観を手放す必要があるのです。
歪んだ価値観に従っているのであれば、良い仕事はできません。
歪んだ価値観に従っているのであれば、良いものを築き、遺すことはできないのです。
しかしながら、新たな価値観を形成するのは簡単なことではありません。
多くの人は、新たな価値観を形成することができません。
それは、新たに何かを作ることは難しいからです。
簡単なのは、壊すことです。
何かを壊すことなら、誰にでもできるのです。
例えば、美しく結ばれた紐(ひも)であっても、それを解くことは誰にでもできるのです。
しかし、紐を美しく結ぶことは誰にでもできることではありません。
紐を美しく結ぶためには、修練が必要なのです。
人は、できることをしなければなりません。
できないことをする必要はありません。
そのため、あなたは美しく結ぼうと考える必要はありません。
先ずは、解くことから始めるのです。
解き方を理解すれば、結び方も理解することができるでしょう。
それは、自分自身(他者)を理解することによって、他者(自分自身)を理解することができるようにです。
すべてが相対的です。
あなたが新たな価値観を形成するためには、既存の価値観を手放せば良いのです。
そのためには、信仰を疑うことです。
あなたの信じる価値を疑うことによって、既存の価値観は徐々に崩壊するのです。
結び目を解くことによって、美しい結び方を得るでしょう。
既存の価値観を手放すことによって、あなたは新たな価値観を得るのです。
あなたは一歩を踏み出さなければなりません。
その場を離れるのです。
そして、新たな大地(価値観)を踏み締めるのです。

2017年7月6日木曜日

流転

人生には、何一つ留(とど)めておくことはできません。
すべては流転し、決して留まることをしません。
あなたには、何一つ留めておく力はありません。
すべては因果の流れの中に存在しているのです。
何かを留めておくためには、因果の流れを断ち切る必要があります。
原因と結果を結び付ける力を遮断する必要があるのです。
しかしながら、あなたにはそのような力はありません。
そのため、何かを留めておくためにどのような方法を用いたとしても、それを実現することはできないのです。
すべては流転し、決して留まることをしません。
これは、この世界の理(ことわり)です。
どのような人物も、流転に逆らうことはできないのです。
しかしながら、多くの人は何かを留めようと努めています。
どれだけの労力を用いようとも、決して留めることはできません。
そのことを理解することに労力を用いる方が健全なのです。
すべてが流転するには重要な理由があります。
それは、より良くするためです。
この世界の目的は成長です。
どのようなものにも、それを向上させる力が働いているのです。
理解することができなければ、理解するために労力を用いましょう。
否定に労力を用いたとしても、満足する結果を得ることはできないのです。
あなたには、頭髪一本であろうとも、それを留める力はないのです。
自然界において、水や命が循環するように、あなたの身体や精神、人生においても循環が行われているのです。
あなたは手放すことと、受け取ることを繰り返しているということを理解しましょう。
喉(のど)の渇きを潤したとしても、それを排出しなければどうなるでしょうか?
飲み込んだ水を体内に留めておけば、あなたは命を失ってしまうのです。
人生においても同じことが起きるのです。
強欲に従って何かを留めておこうと考えるのであれば、可能性を失ってしまうということを覚えておく必要があるのです。
人は必ず、手放さなければなりません。
初めに手放すのです。
水分を排出することによって、喉の渇きを覚えるのです。
手放すことがなければ、受け取ることはできません。
そのことを理解する必要があるのです。
多くの人は、両手に荷物を抱えながらも、更に何かを欲しています。
それ以上抱えておく力も無いのに欲するのです。
あなたは、自らの分際(ぶんざい)を弁(わきま)えなければなりません。
あなたには、何かを留めておく力はないのです。
無知な者は失うことを恐れます。
それは、手に入れたものを再び手に入れることができないと思い込んでいるからです。
あなたには、何かを留めておく力はありません。
失う(不足)という状態も留めておくことはできないのです。
そのため、何かを失ったとしても、それは問題にはならないのです。
知恵のある者は失うことを恐れません。
それは、知恵によって何度でも、失ったものやより良いものを手に入れられることを知っているからです。
知恵のある者は、何も留めておくことはできず、すべてが流転しているということを知っているのです。
知恵のある者は豊かさに満足し、無知な者は乏しさに満足するでしょう。
手放すということは、より良いものを手にするということです。
取り込んだ空気を吐き出さなければ、肺が腐ります。
溜め込んだ富を使い与えることがなければ、心が寂れてしまうのです。
強欲とは、不安です。
不安とは、無知なのです。
無知な者は必ず不安を抱えます。
そして、必ず強欲に従うのです。
留めることに専念し、手放すことを知りません。
多くのものを欲しがり、少しのものも与えようとはしません。
そのような態度こそが、目の前の問題であり、腹の中の苦悩であるということを知らなければなりません。
人生の可能性を失ってはなりません。
手放すことによって、人生には可能性が生じるのです。
何も留めず、流転を生きましょう。

2017年7月5日水曜日

無知の重荷

すべての人は、人生という道を歩んでいます。
すべての人が人生という道を進み、目的地を目指しているのです。
目的地に到達することは、必ずしも目的ではありません。
重要なのは、目的地に向かって進んでいるということです。
すべての人は人生という道を歩んでいますが、目的地に向かって進んでいる人は多くはありません。
多くの人は目的地を目指すことなく、歩き続けているのです。
人生における目的地とは、夢や理想などのことではありません。
夢や理想を実現したとしても、それが人生の目的地であるということではないのです。
人生の目的地とは、学びの終着です。
人生を学び終えることによって、人は目的地に到達するのです。
そのため、あなたは学ぶ意識を失ってはなりません。
人は、何かを学び続ける必要があるのです。
どのようなことを学ぶかは、人それぞれに異なります。
そのため、あなたは自分の目の前に導かれる学びについて、学ぶ必要があるのです。
学びとは、気付きのことです。
気付きとは、知恵の高まりです。
人は、学ぶことによって無知を克服し、知恵を得るのです。
人生の目的とは、知恵を高めることであるのです。
それは、この世の理(ことわり)を理解するためです。
あなたが人生を体験しているのは、人生を知るためなのです。
人生とは何か?という問いに答えを導くために、人生を生きているのです。
この世の理を理解することによって、あなたは人生を理解することができるでしょう。
この世の理を理解するためには、それを理解するだけの知恵が必要になるのです。
無知な者が、理を理解することはできません。
無知であれば、目の前で何が起きているのかを知ることはできないのです。
無知は重荷です。
人は、無知という重荷によって歩めなくなるのです。
無知を抱えている者ほど、人生に変化を導くことができません。
無知な者は一歩を踏み出すことができないのです。
無知であるが故に、変化を導く意味と手段を知らないのです。
知恵によって道を進む者には、変化の重要性と価値を理解することができます。
そのため、知恵のある者は常に変化の中に生き続けているのです。
無知とは、何もできない赤子のようなものです。
赤子は最低限のことしかできません。
自力で移動することもできなければ、渇(かわ)きを潤すことも、意思を伝えることもできないのです。
それは、赤子が人体に対して無知であるからです。
赤子は、無知であるが故(ゆえ)に、地に伏せているのです。
赤子も経験(学び)を重ねることによって知恵を得ます。
赤子は、知恵によって移動し、知恵によって渇きを潤し、知恵によって意思を伝えるのです。
知恵によって人生は展開します。
知恵によって、足取りは軽くなるのです。
無知であれば、二の足を踏むでしょう。
それは、どうするべきかを知らないからです。
知恵によって人は、決断を下すことができるのです。
無知な赤子は、問題の解決を他人任せにします。
その解決を待つ以外に方法はありません。
知恵の子どもは、自らの意思で問題を解決することもできるのです。
知恵にこそ価値があるということを理解しましょう。
あなたは、知恵によって人生を軽くすることができます。
知恵によって、問題は問題ではなくなり、苦しみは苦しみではなくなるのです。
知恵とは、それほど価値のあるものなのです。
知恵を得るためには、学び続ける必要があります。
知恵は簡単には身に付かないものなのです。
赤子が移動するためには、移動するための練習をし続ける必要があるのです。
赤子は一日も休まず歩もうと努めます。
そのため、歩むことに対しての無知を克服し、知恵の恩恵(おんけい)によって歩むことができるのです。
あなたは学び続けましょう。
何事にも練習を重ねるのです。
そうでなければ、あなたが人生の目的地を目指して進むことも、そこに到達することはできません。
目的地を見失った道程(みちのり)ほど、虚(むな)しいことはないのです。
無知の重荷を手放しましょう。

2017年7月4日火曜日

信用

多くの人が、苦悩を抱えています。
多くの人は、人生に苦悩しているのです。
苦悩を知らない人はいません。
すべての人が何かしらの問題を抱え、それに苦悩するのです。
人生に苦悩は避けられません。
あなたはどのような選択をしても、苦悩に辿り着くでしょう。
それは、苦悩の原因が自分自身であるからです。
人生に苦悩は存在しません。
苦悩は、あなたの中に存在しているのです。
そのことを理解することがなければ、あなたが苦悩を離れることはできないでしょう。
人生には、最善のみが実現します。
あなたはこのことを受け入れることができますか?
あなたの抱える問題は、あなたにとっての最善なのです。
信じることができますか?
多くの人は、このことを受け入れることも、信じることもできないでしょう。
多くの人は問題を否定するのです。
多くの人は、問題を最善だとは思えないのです。
それは、問題が苦しいからです。
多くの人は、喜楽を求めています。
何事も簡単な方が良く、悩まない方が良いと考えているのです。
確かに、何事も簡単な方が良く、悩まない方が良いでしょう。
しかしながら、今のあなたにそれは簡単ではなく、悩まずにはいられません。
今のあなたには、その問題を苦悩することしかできないのです。
自分にできることが最善です。
自分にできることをすることが最善なのです。
自分にできないことは最善ではありません。
自分にできないことをしようとして、最善の結果を導くことができると思いますか?
それは、新たな問題を引き起こし、新たな苦悩を抱えることになるのです。
あなたにとっての最善とは、あなたの実力に相応しい状況を受け入れることです。
目の前に問題が生じており、苦悩することしかできないのであれば、潔(いさぎよ)く苦悩することが最善です。
潔く苦悩することができれば、自らの価値観や考え方や行為を変えることもできるでしょう。
自分自身を変えることによって知恵が増し、問題に苦悩することが最善ではなくなるのです。
その時には、別の形の最善を受けることになるでしょう。
多くの人は、無い物ねだりに陥(おちい)っています。
できないことをしたがるのです。
そのため、問題に対して苦悩するという対応しかできないのです。
あなたは自分にできることをすれば良いのです。
そうすれば、問題が苦悩に至(いた)ることはありません。
問題が生じようとも、それに苦悩する必要はありません。
しかしながら、知恵の乏しさによって苦悩するしか方法がないのです。
問題に対して苦悩するのは、自らの知恵の不足であるということを覚えておく必要があるのです。
自分自身を変えることによって、問題に苦悩することはなくなるのです。
そのため、あなたは自分自身を変えることが求められているのです。
人生は、あなたに成長を求めています。
あなたは常に、変化を求められているのです。
人生はあなたの変化を促(うなが)しています。
人生におけるすべての状況は、あなたを変化させるためのものなのです。
あなたは人生を信じることができますか?
人生を信用することができない者は、成長することができません。
それは、何事も継続によって変化が実現するからです。
継続無くして、変化が実現することはないのです。
人が豊かな人生を生きるためには、どれだけ人生を信じることができるのか?ということなのです。
人生を信用することができず、目の前の問題を否定し、苦悩を抱えているような者には、豊かな人生を生きる資格はありません。
苦悩と共に豊かな人生を生きることはできないのです。
目の前の問題が、自分自身の成長のために導かれた最善であると信じることができますか?
あなたが豊かな人生を求めているのであれば、信じる以外に道はないのです。
人生を信用しましょう。
人生が、あなたを苦しめることはないのです。

2017年7月3日月曜日

気前の良い人

この世界には、目には映らない取引が存在しています。
すべての状況は、代償と報酬の取引によって実現するのです。
それは、商品を得れば、代金を支払うようなものです。
何かを受け取るのであれば、何かを与える必要があります。
何かを与えるのであれば、何かを受け取ることになるのです。
目に映る取引もあれば、目には映らない取引もあるのです。
あなたはそのことを理解しておく必要があるのです。
例えば、人間は目に映る肉体と、目には映らない精神によって構成されています。
目に映る肉体だけでは、人間を説明することはできません。
人間を説明するためには、目には映らない精神を必要としているのです。
しかしながら、多くの人はそのことを理解することができません。
多くの人は目に映る取引によって人間や人生が構成されていると考えているのです。
そのため、目に映る報酬のみを求めて代償を支払うのです。
すべての人が未熟です。
目に映らないものに比べて、目に映るものが少ないことを知らないのです。
多くの人は多くのものを見過ごしています。
例えば、肉体にとって重要な要素である、常在(腸内)細菌は目には映りません。
目に映らないからといって、常在細菌との取引を疎(おろそ)かにしていれば、人は健康を保つことはできないのです。
残念ながら、多くのものが目には映りません。
そのため、目に映るものを主体とした取引を行っているのであれば、大きな問題を引き起こすのです。
大切なものは、大抵の場合、目には映らないものです。
人生にとって最も大切なのは、可能性でしょう。
可能性は目には映りません。
あなたの目(認識)は、人生の可能性を映すほど優れた機構を備えてはいないのです。
多くの人が、可能性を見過ごしています。
そのため、多くの人は常に何かしらの問題を抱えているのです。
可能性を理解しているのであれば、問題に捕らわれることはないのです。
自分に都合の良いように取引を進めてはなりません。
残念ながら、あなたは未熟なのです。
未熟なあなたの都合とは、人生においての不都合であるのです。
そのことは、前提として覚えておく必要があるのです。
あなたは自分を信用してはなりません。
自分の都合などに価値を見出すことはできないのです。
多くの人が自分の都合を優先しています。
それは、損得勘定によって利益を得ようと企(たくら)んでいるからです。
利益を得ようとするのは悪いことではありません。
しかしながら、自分の都合の良いように得ようとする利益が、あなたの利益となることはないのです。
自分の都合によって動けば、あなたは取引によって損失を得ることになるでしょう。
相手の都合の良いように振る舞うことは、相手に利益をもたらす行為です。
相手に利益がもたらされるのであれば、目に映る取引では損失を得ることになります。
しかしながら、目に映るものよりも、目には映らないものの方が多いのです。
目に映る取引では損失を得たとしても、目には映らない取引では利益を得ることができるのです。
”海老で鯛を釣る”という言葉があるのです。
人生において、目に映る取引は小さな範囲です。
あなたはそれを代償として支払いましょう。
すると、目には映らない大きな範囲の取引によって、報酬を受けることができるのです。
多くの人は目に映る取引で利益を得るように、損をしないように振る舞います。
例えば、財産や地位や名誉などが高まるように、それ等が低くならないように努めるのです。
そして、それよりも重要なものを失うのです。
財産や地位や名誉などの、目に映るものに価値を見出し、それを得ようと必死になる必要はありません。
あなたは財産や地位や名誉などの、目に映るものを代償として、人生の意義や自分自身の正体などの価値のある報酬を受け取りましょう。
目に映るものに捕われて、詰まらない人生を生きないように注意しましょう。
”せこい”人間にならないようにしましょう。
欲に塗(まみ)れて、受け取ることばかりを考えているような愚かな人間になってはなりません。
気前(きまえ)の良い人間になりましょう。