人生は学びに溢れています。
あなたの目の前に存在するすべての状況が学びです。
あなたは、いつでも学ぶことが出来ます。
学びが存在しない場所はありません。
学びが存在しない時はないのです。
それがどのような状況であっても、あなたの学びであり、学びと成るということを覚えておきましょう。
多くの人は、目の前に存在する学びに気が付きません。
多くの人は、目の前の学びに気が付かずに通り過ぎるのです。
そのため、学びは少なくなります。
残念ながら、学びがあなたに呼び掛けるということはありません。
あなたが気付かない限り、学びは存在しないのです。
学びとは、石や落ち葉のようなものです。
それは静かに存在しているのです。
あなたが気を向けない限り、学びは学びとしての価値を得ません。
学びは、あなたが気が付くことをひたすらに待っているのです。
大切なのは、興味を抱くことです。
無関心を生きてはなりません。
多くの人は、学びに興味を示しません。
それは、学びには価値が無いと思っているからです。
多くの人は、自分自身の成長に価値を見出しません。
多くの人は、優位な立場や財産を喜びます。
そこに因果が結ばれてもいないのに、手に入れることを喜びます。
例えば、誰かを蹴落としてまで立場を奪うことや、虚偽(きょぎ)を働いて財産を得ようとすることに躊躇(ためら)いがありません。
自分の思う結果を得ることが良いと考えているのです。
残念ながら、すべての人は未熟です。
すべての人は自分の分際を見誤ります。
すべての人は、自分を実際の分際よりも大きく見積もっているのです。
人は、自分のことを主観的に評価します。
それは、利己的な評価に過ぎないのです。
その結果、分際と利己的な評価の間に矛盾が生じるのです。
多くの人は、自分に相応しくないものも、相応しいと考えます。
因果が存在しないにもかかわらず、それを受け取ろうとするのです。
残念ながら、分際を無視することは出来ません。
人は、自分の分際に相応しい人生を生きる他ないのです。
人は人を学び、獣は獣を学びます。
幼子(おさなご)は幼子を学び、成人は成人を学び、老人は老人を学ぶのです。
これは、人の意識の状態を現しています。
意識が幼い者は、幼い自分に必要な学びを得ます。
意識が成熟している者は、成熟している自分に必要な学びを得ます。
意識が達している者は、達している自分に必要な学びを得るのです。
すべての人は、因果の中に存在します。
例え、一時的には相応しくないものを手にしたとしても、後に必ず相応しい形に落ち着くのです。
人は、因果を離れることは出来ません。
大切なのは、因果と共に生きることです。
あなたは、因果を見失ってはなりません。
自分の分際を見極め、人生を冷静に選択するのです。
人生に豊かさを求めているのであれば、自分を高めることを考えましょう。
それは、原因を考えるということです。
多くの人は結果を考えていますが、あなたは結果を考えてはなりません。
原因を考えるのです。
自分という存在が成長していれば、導かれる結果は自ずと豊かなものとなるのです。
企(たくら)みには価値がありません。
企みは、必ず後悔を導くからです。
遠くを見るのも良いですが、足元を疎(おろそ)かにしてはなりません。
学びは足元に静かに転がっているのです。
足元の石や落ち葉に価値を見出しましょう。
学びとは、そのように見付けるものなのです。
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