すべての人は未熟です。
すべての人は未熟に生まれました。
すべての人は不足を抱えています。
すべての人は歪んでいます。
すべての人は欠けているのです。
この世界において、完全な人物は存在しません。
すべての人が未熟なのです。
あなたも未熟です。
決して完全ではありません。
そのため、あなたは正しくはありません。
そして、他者も正しくはなく、すべての人が正しくはないのです。
そのため、何が正しいのか?ということは、誰にも分かりません。
唯一分かっていることは、自分が未熟であり、正しくはないということなのです。
すべての人は、主観的に生きています。
誰もが、主観に頼って生きているのです。
残念ながら、客観に頼り、客観的に生きている人はいないのです。
主観に頼って生きているために、人は多くを見失ってしまうのです。
主観とは、限定された世界です。
人は限定された小さな世界に生きているのです。
小さな世界から全体を理解することは出来ません。
”井の中の蛙(かわず)大海を知らず”という言葉があるのです。
すべての人は、井戸の中で生きている蛙のようなものなのです。
すべての人が未熟ですが、多くの人はそのことを知りません。
多くの人は、自分が正しいとさえ思っているのです。
そのため、意見の対立する他者を否定します。
多くの人には、敵が存在しているのです。
自分を正しいと思い込んでいる者には、必ず敵が存在します。
そして、そこには争いが生じるのです。
自分を正しいと思い込んでいる者の心には、争いが止みません。
そのような者は、常に争わなければならないのです。
争いによって、心が休まる時はありません。
争いによって、心は傷付き、疲弊(ひへい)するのです。
人生を豊かに生きるためには、人生の原因である心が豊かでなければなりません。
心の中で争っている者が、豊かな心であるはずがありません。
豊かな心でない者は、乏しい人生を生きるのです。
誰も、因果の仕組みから逃れることは出来ません。
誰も、因果の仕組みを拒絶することは出来ないのです。
人生を豊かなものにするためには、その心を豊かに保たなければならないのです。
大切なのは、自分が未熟であると知ることです。
そして、自分が正しくないことを知ることです。
そして、心を豊かに保つことなのです。
すべての人が偏見を抱えています。
それは、未熟であるからです。
未熟とは、偏(かたよ)りのことです。
すべての人が偏っているのです。
あなたには敵が存在します。
敵とは、異質な存在です。
異質な存在が敵なのは、自分と違うからです。
詰まらない理由で人は争います。
しかしながら、争っている場合ではありません。
それは、自分と違うということは、自分に無いものを持っているということだからです。
自分に無いものを持っている人は、あなたの不足を補(おぎな)うことが出来るのです。
人は同質である仲間と群れます。
それは、心地が良いからです。
しかしながら、同質である仲間によっては、不足を補うことは出来ません。
なぜなら、同質である仲間も同じ不足を抱えているからです。
大切なのは、異質である敵を受け入れることです。
多くの人は、それを拒絶するでしょう。
そのために、偏見は強化されるのです。
異質を受け入れることの出来ない者には、誤解によって導かれる問題と苦悩が与えられます。
異質を受け入れることによってのみ、人は偏見を克服することが出来るのです。
異質によって人は完成するのです。
あなたは、そのことを覚えておかなければなりません。
異質である敵を許すことが、人生を豊かにするための道であるということを覚えておきましょう。
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