すべての人には、役割が与えられています。
そして、すべての人生には目的があるのです。
あなたは、与えられた役割を果たすことによって、人生の目的を果たさなければなりません。
しかしながら、人生の目的を果たすことは容易(ようい)ではありません。
なぜなら、すべての人が未熟に生まれるからです。
すべての人は、汚れています。
そして、すべての人は歪(ゆが)んでいるのです。
歪みは、認識を歪ませます。
それは、自身が歪んでいることによって、世界が歪んで見えるからです。
歪んだ世界を見れば、認識はその通りに歪んでしまうのです。
多くの人は、歪んだ世界を”普通”だと思い込んでいます。
そのことで、役割を果たすことや、目的を果たすことが妨げられるのです。
認識が歪むことは、問題を引き起こします。
人生における様々な問題は、認識が歪むことによって引き起こされているのです。
世界を歪んで認識していることが、問題の原因であるということなのです。
誰かや何かによって問題が生じている訳ではありません。
しかしながら、認識が歪んでいる人には、そのことを理解することが出来ないのです。
認識が歪んでいる人は、正しい世界を認識することが出来ません。
正しい世界とは、理(ことわり)のことです。
この世界には、理が存在しているのです。
理に従って、世界が成り立っているということを理解しなければならないのです。
理を見極めることが、世界を見極めることです。
正しい世界を見極めなければ、自らに与えられた役割を知ることは出来ません。
役割を知ることが出来なければ、人生の目的を果たすことは出来ないのです。
歪んだ道を歩むことは出来ません。
歪んだ道を歩もうとしても、目的地へと辿り着くことは出来ないのです。
多くの人は、”良いもの”を取ることが出来ません。
多くの人は、”悪いもの”を取るのです。
良いものとは、本質的なもののことです。
そして、悪いものとは、末梢的(まっしょうてき)なもののことなのです。
認識の歪んだ者は、末梢的なものを取らなければなりません。
それは、認識が歪んでいるために、本質的なものを取ることが出来ないからです。
その良さをどれだけ丁寧に説明したとしても、本質的なものを取らずに、末梢的なものを取るのです。
それは、仕方のないことです。
認識が歪んでいるのです。
正しい世界を見ることが出来ないのです。
人が、本質的なものを取るためには、認識を正さなければなりません。
認識を正しく改めることがなければ、本質的なものを取ることが出来ません。
愚(おろ)かな者に価値を説明しても、それを理解することは出来ません。
豚には、真珠の価値は分からないのです。
これは、豚が愚かであり、劣(おと)っているということではありません。
真珠は、豚には必要がないということを言っているのです。
人は、それぞれに必要が異なります。
それは、それぞれに役割が異なっているからです。
人は、それぞれが異なる目的のために生きているのです。
豚には真珠が必要ではないように、自分の役割や目的にとって必要のないことのために生きている人が多いのです。
豚は、真珠のためには生きません。
しかしながら、人が自分にとっての必要のために生きることは難しいのです。
多くの人は、それを受け入れることが出来ないのです。
自分にとっての必要を受け入れるために苦しみが存在します。
苦しみの手助けによって、人は自分にとっての必要を受け入れることが出来るのです。
苦しみによって、傲慢(ごうまん)は砕かれます。
苦しみによって、人は謙虚(けんきょ)さを得るのです。
謙虚さによって、初めて受け入れることが出来るのです。
苦しみを経験しなければ、理を受け入れることも、本質へ近付くことも出来ません。
多くの人は、苦しみを嫌いますが、あなたは、苦しみについて考えてみましょう。
そうすれば、必要を受け入れることも出来るかも知れません。
苦しみによって、歪みは矯正(きょうせい)されます。
安易(あんい)に苦しみを否定してはなりません。
良いものは、苦しみを得なければ受け入れることが出来ないのです。
苦しみを利用しましょう。
苦しみに飲み込まれてはなりません。
苦しみによって本質を取るのです。
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