すべての人は罪を抱えています。
それは、罰を導きます。
罪を犯せば、罰によって改めるのは当然のことです。
人が罪を犯すのは、成長する可能性を所有しているからです。
成長する必要があるために罪を犯すのです。
成長する必要がなければ、人が罪を犯す必要はありません。
すべての罪は成長のために行われるということを理解しましょう。
受け入れることはできないでしょうが、このことを覚えておかなければなりません。
罪を悪と決め付けてはなりません。
罪は悪ではありません。
罪は悪に見えますが、それはあなたの立場がそうさせているのです。
立場を離れるのであれば、罪を悪と定めることもなくなるでしょう。
農家の立場を取る人は、作物を食らう昆虫や動物を悪と見なします。
しかし、農家の立場を取らない人は、昆虫や動物に対して哀(あわ)れみを覚えるのです。
自分に関わることには心を乱しますが、他人のことには心を乱しません。
立場が判断を導いているのです。
そのため、あなたの判断は立場を超越したものでなければならないのです。
多くの人は立場に従います。
立場を超越することができる人は稀(まれ)です。
多くの人が客観性を失い、主観を通して限定的に見ているのです。
そのため、罪が悪ではないということにも気が付きません。
罰が苦悩ではないことにも気が付かないのです。
あなたは立場を離れることができるでしょうか?
”自分”というものを構成していると思っている立場を切り離してみましょう。
そうすれば、あなたは純粋な”自分”というものに出会うことができるはずです。
純粋に判断するのであれば、罪が悪ではなく、罰が苦悩ではないということにも気が付くはずなのです。
世界は幻想に過ぎません。
すべてはあなたの認識、判断が築いているのです。
あなたの認識、判断次第によって、世界は違うものへと変わるのです。
罪は善となり、罰は幸福となることに気が付きましょう。
あなたの現在の考えでは、罪は悪であり、罰は苦悩として固定されるでしょう。
それが”普通”です。
しかし、”普通”とは偏見であり、誤解であるのです。
その集団の中の多数意見が”普通”として常識を構築します。
多数意見が正しいと思いますか?
人間が正しい存在なのでしょうか?
人間は弱い存在です。
偏見や誤解によって正義を決め付けては争っています。
愚かであり、野蛮であるのが人間なのです。
あなたも、愚かであり、野蛮であるということを知りましょう。
罪を悪と決め付け、罰を苦悩としているのであれば、愚かで野蛮であることに違いないのです。
人生は何のためにあるのでしょうか?
それは、魂の治療のためです。
あなたが罪を犯すのは、病を受ける必要があるからです。
あなたが罰を受けるのは、病を治療するためであるのです。
療養には、様々な制限が与えられます。
患部は痛み続け、不安が精神を締め付けます。
身動きが取れなくなり、好きに動くことさえできなくなるのです。
あなたは既に多くの罪を犯したのです。
それは、無知による誤解や偏見によって導かれます。
あなたはそれを正す必要があるのです。
罪は何等かの問題として導かれます。
あなたは問題を受け入れなければなりません。
そして、罪を反省するための罰を受け入れるのです。
罪を隠し通すことはできません。
すべての罪は明るみに引き出されるのです。
どのような病も、決して隠し通すことはできないのです。
すべては魂の治療です。
あなたは罪を悪と決め付けてはなりません。
罰を苦悩としてはならないのです。
罪と罰が導かれることに感謝しましょう。
すべての答えは人生の目的の中にあるのです。
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