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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2017年3月31日金曜日

人生は知性に依存する

すべての人が人生を築いています。
あなたの人生を築いているのは、あなた自身であるのです。
多くの人は、人生が誰かや何かによって築かれていると思い込みます。
不可抗力(ふかこうりょく)によって人生が築かれていると考えているのです。
人は、確かに無力です。
あなたの力で人生を築いているとは思えないでしょう。
自分の選択によって人生が築かれているとは信じられないものなのです。
しかしながら、あなたの人生を築いているのはあなた自身です。
目の前に導かれるすべての状況には、自らの選択という理由が存在しているのです。
あなたが選択することによって、その状況が導かれているのです。
あなたが選択することがなければ、その状況が導かれることはないのです。
それは、人生が因果の仕組みによって成り立っているからです。
すべての結果には、それに相応しい原因が存在しているのです。
しかしながら、多くの人はそれを理解することができません。
因果を結び付けることができないのです。
そのために、人生が不可抗力によって築かれていると誤解するのです。
確かに、人生にはどうすることもできないことがあります。
例えば、大きな天災に見舞われたとして、それが自分の選択であるとは思えないのです。
あなたは、天災は不可抗力以外の何物でもないと信じるでしょう。
そのような事態を経験する必要はないと考えるのです。
しかしながら、考えなければならないのは、それを誰が経験したのか?ということです。
天災だろうが、人災だろうが、それを経験したのはあなたです。
他の誰かも経験するでしょうが、経験しない人もいるのです。
経験しない人は、経験する必要がないために経験しないのです。
経験する人は、経験する必要があるために経験するのです。
単純なことです。
必要であるために経験するのです。
では、なぜ必要なのでしょうか?
それは、あなたが選択したからです。
あなたは何のために選択したのでしょうか?
それは、成長するためなのです。
成長とは、知性を高めるということです。
知性を高める理由は、満足するためです。
あなたは満足するために人生を経験しているのです。
それ以上の理由を探すことは有益ではないでしょう。
ただし、ここでいう満足の水準を見誤ってはなりません。
”詰まらない”満足のために人生を経験している訳ではありません。
あなたはこの世界の真理を紐解(ひもと)き、何事においても満足することを実現するために経験しているのです。
人生は自らの選択によって築かれています。
多くの人は、そのことを受け入れられないでしょう。
誰かや何かによって苦しんでいると思い込んでいるのです。
そこには、満足は存在しないのです。
多くの人が、現状に満足することができずに苦悩しています。
”詰まらないこと”に苦悩しているのです。
それは、知性に乏しいからです。
知性に乏しいために、目の前の状況の理由を理解することができないのです。
人生は知性に依存します。
知性は価値観を生み出し、価値観は選択肢を限定し、選択肢の限定が行為に至(いた)り、行為が状況を導くのです。
知性の状態によって、状況は異なるのです。
あなたの受け取る状況は、あなたの知性に相応しいということを理解しなければならないでしょう。
しかしながら、知性の乏しさが、それを受け入れさせはしないでしょう。
そのことを念頭において、自分自身と向き合いましょう。
そうすれば、人生が自分の選択によって築かれているということを理解することができるのです。
人生が自らの知性に依存しているということを覚えておきましょう。
知性よりも優れた状況など導かれないのです。
理想にかどわかされてはなりません。
理想という幻想も、知性が作り上げます。
そのことを覚えておきましょう。

2017年3月30日木曜日

仮の目的

すべての人は、人生の目的を見失います。
すべての人は、自分が何のために人生に存在しているのかを知らずにいるのです。
すべての人は、人生の目的を再考する必要があるのです。
すべての人は、仮(かり)の目的を掲げます。
すべての人の人生は、仮の目的のために存在しているのです。
あなたは仮の目的のために生きています。
そして、仮の目的を達成するために行為するのです。
すべての目的が真実ではありません。
あなたには、何が真の目的であるのかを知ることはできないのです。
そのため、すべてが仮の目的にとどまるのです。
あなたは仮の目的を達成することによって、少しずつ核心へと近付くことができます。
すべての人は、仮の目的を達成することを繰り返すことによって、人生の真の目的を見出すことができるのです。
この過程を経ることなく、真の目的を見出すことができる人は存在しません。
すべての人の人生は、その真の目的を隠すのです。
それは、決して公(おおやけ)にはされません。
すべての人の真の目的は、他者にも、自分自身にも隠されるのです。
それは、真の目的に対する責任感を育むためです。
そして、それを果たす資格を得させるためなのです。
すべての人が力不足の状態を得ます。
すべての人が未熟な状態によって人生を始めるのです。
それは、深く学ぶためです。
何事においても、初心や初見から始めることによって、新たな発見に繋がるのです。
そのために、既知の事柄に対しても、未熟な状態で向き合うことになるのです。
すべての人が深く学ぶために、力不足の状態であるため、いきなり真の目的に向き合うことはできません。
力不足の状態で真の目的に挑んだところで、それを達成する可能性は少ないのです。
人生に導かれるのは最善だけです。
そのため、あなたが確実に人生の真の目的を達成することができるように展開します。
あなたには、人生がどのように展開するかは分からないようになっていますが、常に最善が導かれているのです。
すべては、仮の目的を達成し、真の目的を達成するだけの力を育むためです。
あなたは、どのような目的も仮のものであるということを理解しましょう。
そして、それを覚えておきましょう。
あなたが大切に抱えている目的は、仮のものに過ぎないのです。
真の目的は、その先の、より深いところに存在しているのです。
それを理解して、目の前の仮の目的に対して懸命に向き合いましょう。
真の目的の存在を示すのは、未来に希望を持たせるためではありません。
寧(むし)ろ、目の前の仮の目的に対して、より尽力させるためです。
人は目の前の現実(今)を大切にしなければなりません。
しかし、多くの人は理想(未来)を大切にしているのです。
理想を掲げたところで、それが実現することはありません。
未来を予想したところで、そのようには展開しないのが人生です。
あなたの期待は裏切られます。
それは、あなたの予想の根拠が不鮮明であるからです。
力不足の状態であるあなたには、未来の姿を正しく予想することはできません。
すべての人の理想は実現しないのです。
そのため、人は目の前の仮の目的に対して尽力する以外に最善の方法はないのです。
先を考えて、利益を得ようと画策する必要はありません。
それは、あなたの先見や利益の形は、誤解によって成り立っているからです。
誤解を通じて画策すれば、すべてが矛盾となって実現します。
そのため、すべての理想は実現しないのです。
無駄な画策を続ける必要はありません。
あなたが大切にしている目的も、仮のものに過ぎないということを知りましょう。
そうすれば、無駄な画策によって心を汚さずに済むでしょう。
最善という機会は目の前に導かれているのです。
画策によって、人は最善の機会を否定します。
そして、仮の目的すらも達成することができないのです。
無駄な画策によって、人生を歪めてはなりません。
自分が何のために人生に存在してるのか?を考えましょう。

2017年3月29日水曜日

刺激的な人生

人生は、あなたに必要な学びを導きます。
あなたの目の前に導かれる状況は、そのすべてが必要な学びであるのです。
それがどのような状況であろうとも、あなたにとって価値のあるものなのです。
あなたはそのことを理解しておかなければなりません。
しかしながら、すべての状況を受け入れる必要はありません。
人生は、すべての状況を体験させようとは思っていないのです。
人生が提案する状況とは、あなたが好きなものを選べるように、幾つかの選択肢が用意されているのです。
人生があなたの体験する状況を決めることはありません。
そのように思えることもあるでしょうが、幾つかの選択肢の中から、あなたが決めているのです。
あなたは幾つかの選択肢の中から、どれか一つを必ず選ばなければなりません。
どのような選択であろうとも、あなたは一つを下さなければならないのです。
すべての選択肢を否定することも、一つの選択です。
あなたは必ず、一つを選ぶのです。
あなたの選択が人生を展開させます。
どのように展開させようとも、それはあなたの自由です。
あなたは好きに人生を決めれば良いのです。
すべての状況があなたにとって必要な学びを導きます。
あなたにとって無益な学びはありません。
すべての学びが、あなたにとって有益なものであるのです。
そのことを覚えておかなければなりません。
多くの人は、変化を嫌います。
既存の道を好むのです。
それは、変化によって導かれる苦悩を危惧(きぐ)しているためです。
そして、変化の少ない選択に偏るのです。
しかしながら、変化の少ない選択には、退屈を導くという面も存在しています。
退屈はあなたから活力を奪います。
退屈はあなたを疲弊(ひへい)させるのです。
あなたが疲弊すれば、人生も疲弊するのです。
疲弊することにも有益な学びが存在していますが、多くの人はそのことに気が付きません。
そして、そこに苦悩を導くのです。
変化は大切な刺激です。
刺激の無い人生は魅力的ではありません。
どのような人生にも、刺激が必要なのです。
喜怒哀楽を感じるために、魅力的なのです。
陰陽が合わさってこそ魅力なのです。
利益ばかりを得るのであれば、魅力を失います。
損益ばかりを得ても同じです。
人が豊かな人生を実現するためには、損得や陰陽の変化による刺激が必要であるのです。
人生は常に変化を提案しています。
多くの人はそれを否定します。
そのため、変化の少ない人生を生きることになるのです。
あなたが人生を退屈だと考えているのであれば、普段ならば選ぶことのない、目の前に導かれる未知の提案を受け入れてみましょう。
人生はあなたに新たな刺激をもたらします。
あなたはその提案に乗れば良いのです。
乗りが良いのは素敵なことです。
豊かな人生とは、乗りの良さによって実現すると言っても過言ではないでしょう。
未知の体験は、あなたの所有する既存の概念を打ち砕きます。
既存の概念が打ち砕かれ、新たな概念が形成される場景(じょうけい)は、あなたの心に多くの喜びをもたらすでしょう。
新たな概念を形成するためには、人生の提案を受ける他ないのです。
あなたは未知に挑戦しましょう。
幾つかの選択肢の中から、普段ならば選ぶことのない未知の選択肢を選んでみましょう。
そうすれば、新たな概念が形成されるのに時間は掛からないでしょう。
乗りの良さが重要です。
未知へ挑戦することへの高揚を忘れてはなりません。
人生からの提案を大切にするのです。

2017年3月28日火曜日

帰属意識

世の中は、結果を気にします。
世の中は、結果を評価するのです。
世の中は、結果という誰にでも理解することのできるものに価値を見出すのです。
多くの人は、世の中に従います。
世の中が求めている価値を、同じように求めているのです。
多くの人が世の中に帰属(きぞく)することを求めているのです。
そのため、世の中が求める価値には価値を見出し、そうでないものには価値を見出すことができないのです。
世の中は結果を求めます。
そのため、多くの人は結果に価値を見出すのです。
多くの人の求めている結果とは、世の中が認める価値です。
多くの人は、自分の求めている価値を求めてはいません。
多くの人は、世の中に誘導されているのです。
多くの人が結果を求めているのは、世の中や誰かを気にしているからです。
そこには、相対的な関係が築かれているのです。
世の中が求めない価値を求める人は多くはありません。
それは、世の中が求めない価値を求めたとしても、利益としての結果には結び付かないからです。
利益を得るためには、世の中の需要(じゅよう)に応えれば良いのです。
誰かの支持を得たければ、その人の需要に応えれば良いのです。
その人の都合の良いように与え、盲目(もうもく)にすれば良いのです。
そうすれば、利益という結果を得ることができるでしょう。
多くの人の求める結果とは、このようなものです。
多くの人は、利益を追求しているのです。
世の中とは、そのような場所です。
合理化によって利益を抽出(ちゅうしゅつ)します。
より多くの利益を抽出することを良い結果としているのです。
多く得ることに価値があるのです。
多く得ることに成功した者は栄えます。
多く得ることに成功した者は、世の中の需要に応えた結果を得たのです。
多くを得ることは悪いことではありません。
多くを得ることは間違ってはいません。
世の中から多くを得ることが人生の目的だと思うのであれば、それが最善なのです。
しかしながら、世の中から多くを得ることだけでは満足することができない人もいるのです。
そのような人の人生は、世の中から多くを得ることを目的としてはいないのです。
あなたが世の中に違和感を覚え、世の中の求める価値を価値と思わず、世の中に帰属することに苦痛を覚えるのであれば、”普通”の生き方を選択する必要はありません。
あなたが自分を異端(いたん)だと思うのであれば、それで良いのです。
その道が、あなたの最善であるのです。
必ずしも、結果を気にする必要はありません。
人生はどのような結果を得ても良いのです。
人生がそれを許しています。
あなたはこの人生でやりたいことをやれば良いのです。
人生とは、実験場のようなものなのです。
あなたは何でも実験することができるのです。
結果を邪推(じゃすい)し、人生でやりたいことをやらないというのであれば、満足する人生を得ることなどできるはずがないのです。
これは、あなたの人生なのです。
世の中や誰かの求める価値を追い求める必要などないのです。
あなたは世の中や誰かの僕(しもべ)となるつもりですか?
この世界では、あなたの理想は実現しません。
それと同じく、あなたの心配も実現はしないのです。
理想も心配も実現しません。
実現するのは、最善だけなのです。
そのため、あなたは必ずしも結果を気にする必要はないのです。
理想も心配も実現しないのだから、思い切ってやりたいことをやってみましょう。
結果を先に考えるのであれば、大胆(だいたん)に生きることはできません。
大胆に生きることによって、あなたは自分の人生を生きることができるでしょう。
しかし、小胆(しょうたん)に生きるのであれば、自分の人生を生きることはできないのです。
それは、小胆な人物の人生は、自立するには力不足だからです。
小胆な人物の人生は、世の中や誰かの人生に帰属するでしょう。
あなたはこの人生でやりたいことをやれば良いのです。
結果を邪推する必要はありません。
どのような結果を得ようとも、それを誰も理解することができなくても、それで良いのです。
世の中や誰かの価値観に従う必要はありません。
あなたは、あなたの方法によって生きれば良いのです。
世の中や誰かがあなたの人生をどのように評価しようとも、それで良いのです。

2017年3月27日月曜日

人生の正解

誰も、人生に正解を導くことはできません。
誰も、人生の正解に辿り着くことはできないのです。
あなたが人生に正解を導こうとしているのであれば、無駄なことです。
諦めましょう。
人生に正解を探すことは、砂浜の砂を砂浜に撒いて、同じ砂を見付け出すことほどに難解なのです。
残念ながら、あなたには人生の正解を理解することはできません。
そのため、正解に価値を見出す必要はないのです。
理解することができないのだから、価値がないのです。
しかしながら、多くの人は人生の正解を追い求めます。
多くの人は、正しい人生というものが存在していると思い込んでいるのです。
残念ながら、正しい人生というものは存在しません。
人生がどのように展開しようとも、それがあなたにとっての最善なのです。
すべては最善であって、正解ではないのです。
最善は目の前に導かれ続けます。
そのため、最善を探す必要はありません。
目の前の状況を受け入れることで、その価値を手にすることができます。
最善には価値がありますが、それはすぐに手に入るものなのです。
最善を手にするのに苦労は必要ありません。
目の前の状況を受け入れるだけです。
簡単なことなのです。
しかしながら、多くの人は目の前の価値を手にすることはありません。
目の前に価値が無防備に転がっているにもかかわらず、それを拒絶するのです。
それは、誤解と矛盾を抱えているためです。
すべての人は、誤解と矛盾を抱えています。
そのため、そのような状態では、決して正解を導くことはできないのです。
誤解によって目の前の状況である最善を拒絶します。
それによって、最善を求めながらも最善を拒絶するという矛盾が生じることになるのです。
多くの人がこのような状態に陥っているのです。
それは、人生に正解が存在するという誤解を信じているためです。
残念ながら、正しい人生など存在しません。
受け入れ難い現実を受け入れることこそが、あなたにとっての最善であるのです。
十中八九、あなたは間違っています。
しかしながら、あなたの人生に関して、他者はそれよりも間違えます。 
あなたの人生に関しては、あなたよりも正しい者はいないのです。
あなたは間違っていますが、他者はより間違っています。
それは、他者が自分の現実を通じて、あなたの現実を見ているからです。
他者は自分の現実という段階を経ることによって、あなたの現実を歪めて認識するのです。
それならば、あなたは他者よりも自分自身の認識する現実を信じましょう。
どちらも正解ではありませんが、自分自身で選べは文句を吐かないのです。
人生において重要なことは、目の前に導かれた状況に対して否定的にならないことです。
それは、目の前に導かれた状況とは、疑いようのない自分の現実であるからです。
現実を否定するということは、その原因である自分自身を見失うということです。
自分自身を身失えば、人生を豊かなものにする可能性は立たれてしまうのです。
それは、あなたの人生に関しては、あなたよりも間違いの少ない人はいないからです。
あなたは正解を選ぶことはできませんが、間違っている可能性の低い方を選ぶことはできるのです。
あなたにとっての最善とは、間違っている可能性の低い選択肢であるのです。
人にとっての正解とは理想のことです。
しかしながら、理想が既に正解でも最善でもありません。
そして、人生において理想が実現することはありません。
そのため、あなたが正解を選ぶことは不可能なのです。
あなたが選ぶことができるのは最善までなのです。
そのことを理解して、理想に逃避することをやめ、現実に向き合う勇気を持つことが必要であるのです。
人は正解を追い求めることによって、最善を離れます。
人生は思い通りにはいきません。
思い通りであってはならないのです。
人生に正解を導こうと努める必要はありません。
目の前の状況(現実)を受け入れることが最善なのです。

2017年3月26日日曜日

自分を見失うための仕掛け

すべての人は人生を体験しています。
それは、人生という経験を通じて自分という存在を学び、理(ことわり)に対する誤解と矛盾を手放し、成長するためです。
あなたは人生を体験することによって、自分を学んでいます。
人生を体験することによって、自分が何者であるのか?を知るのです。
人生には様々な状況が導かれますが、そのすべてがあなたを現します。
そして、その状況に対する反応によって、自分を知ることができるのです。
あなたは常に自分を体験することになります。
理に対する誤解と矛盾を理解するためには、違和感を探すことです。
あなたが理に従っているのであれば、違和感を覚えることはありません。
それは、理に従うということが、自分という状態であるということだからです。
あなたが自分という状態に対して、違和感を覚えることはありません。
自分という状態に反しているために、違和感を覚えているのです。
人が理に従えば、自分という状態になります。
すべての人が必要な役割を与えられているのです。
理に従うということは、与えられた役割を果たすということなのです。
そのため、理に従うことによって誰かと似るということはなく、寧(むし)ろ、個性が育まれるようになるのです。
理に反すれば、人は誰かと似てくるのです。
それは、自らの役割の放棄であるからです。
人は自らの心によって判断しなければなりません。
誰かの指示を期待するようではなりません。
これはあなたの人生なのです。
他者が正解を知っているはずがないのです。
人が理に反すれば、人生を手放します。
それは、苦しいことなのです。
多くの人は、自らの心によって判断してはいません。
多くの人は、無意識の内に誰かや何かに誘導(ゆうどう)されているのです。
そして、無意識の内に誰かを誘導しているのです。
しかしながら、多くの人は、自らが誘導されているということも、自らが誘導していることも知りません。
誰もが誘導されているにもかかわらず、自分で判断していると思い込んでいるのです。
多くの人は、他者や常識に誘導されます。
あなたは、尊敬する他者に従わず、自らの心によって判断した意見や選択を行うことができるでしょうか?
あなたは、多くの人が支持してる常識に従わず、別の道を進むことができますか?
残念ながら、多くの人は尊敬する他者や常識に従います。
それは、自分という役割を知らないからです。
ただし、これは自分勝手になれということではありません。
自らの役割を果たすことができなければ、誰かや何かに貢献することは不可能です。
それは、誰かや何かに従う生き方をしている人は、本当の意味では貢献することができないということです。
貢献することができない人が自分勝手な人なのです。
自分の役割を見失い、誘導されるままに人生を生きている人は、人生の経験を通じて自分を学ぶことができません。
自分が誰かや何かに誘導されているということを学ぶことはできますが、自分が何者であるのか?ということを学ぶことはできないのです。
あなたは自分を学ぶ必要があるのです。
そのためには、その判断をしているのは誰か?ということを考えなければならないのです。
あなたは自分で決めていますか?
誰かや何かは、常にあなたを誘導しています。
人生には、自分を見失うための仕掛けが存在しているのです。
それによって、多くの人は自分を見失います。
そして、誰かのようになるのです。
あなたは自らの心に尋(たず)ねなければなりません。
誰かや何かに尋ねてはなりません。
明確な答えは、自らの心が知っているのです。
あなたは何者ですか?
何のために生まれたのですか?
難しい質問ですが、それ等に答えるために生きることが有益でしょう。
多くの人は誘導され、決められています。
それは、人生の豊かな姿ではありません。
自らの心で判断し、自らの人生を生きるのです。

2017年3月25日土曜日

洗練された光

人生とは、自分を洗練するための場所です。
あなたは、自らを洗練し続けなければならないのです。
洗練するということは、余計なものを削ぎ落として成長するということです。
あなたは自らを洗練することを見失ってはなりません。
自分を洗練すれば、人生が洗練されます。
自分が洗練されなければ、人生も洗練されません。
人生の原因は自分であるために、あなたは自分を大切にしなければならないのです。
人は、多くの誤解と矛盾を抱えています。
誤解と矛盾を抱えない者は存在しません。
誤解と矛盾とは、余計な歪みや汚れのことです。
どのようなものも、余計な歪みや汚れを取り除くことによって洗練されるのです。
すべての人が、生まれながらに誤解と矛盾を抱えています。
そして、様々な経験の中に誤解と矛盾を積み重ねていくのです。
人は、生まれながらに誤解と矛盾を抱えています。
そのため、すべての解釈の中に誤解と矛盾が鏤(ちりば)められるのです。
正しく見極めているつもりであっても、そこには多くの誤解と矛盾が生じるのです。
残念ながら、人が正しく見極められることはありません。
すべての人が必ず誤解と矛盾を通してものを見るのです。
これは避けることのできないことなのです。
それは、人が未熟な存在として生まれたからです。
すべての人は、成長することを使命として生きるのです。
学ぶことがなければ、人生には意味がありません。
自らが未熟であり、学ぶこと、成長の可能性があるからこそ、人生には意味があるのです。
意味のない人生など存在しません。
すべての人の人生に意味があるのです。
それは、すべての人が未熟であり、成長する可能性を秘めているからです。
あなたは自分を正しいと思い込んではなりません。
あなたは決して正しくはありません。
あなたは多くの誤解と矛盾を抱えているのです。
そのような自分を洗練するために人生があるのです。
人生が存在している以上、自分を洗練し続ける必要があるということなのです。
しかし、多くの人が自分を洗練することをしません。
そこに価値を見出すことができず、諦めているのです。
価値が無いのは、洗練されていないからです。
どのような人物であっても、洗練されると輝きを放ちます。
その輝きは、この世界に一つだけの神秘的な光なのです。
それは、価値のある光です。
多くの人がそれを必要とします。
多くの人が、その光を欲するのです。
あなたが自分を洗練するのであれば、多くの人がそれを無視することはできません。
あなたの光は、必ず誰かに届くのです。
そして、必ず誰かの価値となるのです。
あなたが誰かや何かに貢献するためには、自分を洗練する必要があるのです。
錆び付いて切ることができない鋏(はさみ)に何の価値があるでしょうか?
使えない道具は投げ捨てられるのです。
研ぎ澄まされて切れ味の良い鋏は、誰もが必要としているのです。
切れ味の良い鋏は、多くの人に貢献するでしょう。
鋏の錆(さび)や欠けを放置してはなりません。
それは全体に広がります。
道具は丁寧に扱わなければなりません。
あなたは自分を大切にしなければならないのです。
あなたは自分を見ましょう。
そこには、誤解と矛盾が存在しているはずです。
それ等を削ぎ落とすのです。
あなたは、既に多くの誤解と矛盾を抱えています。
集めることよりも、削ぎ落とすことに尽力する方が有益でしょう。
継ぎ足すことも大切ですが、削ぎ落とすことも大切であるということを覚えておきましょう。

2017年3月24日金曜日

現実の流れ

人は誰もが、理想を追い求めています。
誰もが理想の実現を願い、そうなるように行為しています。
理想の実現が幸福だと信じてるのです。
理想が実現することによって、満足することができると考えます。
しかしながら、理想の実現と幸福は同一のものではありません。
理想の実現によって満足することができるとも限りません。
理想の実現と、幸福や満足の間には明確な繋がりは存在しないのです。
理想が実現することで得られる幸福があります。
誰もがそれを求めていますが、それは、幸福の一面に過ぎません。
なぜなら、幸福が実現しないことで得られる幸福も存在しているからです。
多くの人は、理想が実現しなければ、幸福も有り得ないと思い込んでいるために、それを見失っているのです。
理想とは、現状の自分の求める幸福の形です。
現状の自分とは、未熟な状態です。
人は、知識と経験を得るほどに成長することができます。
そのため、現状は常に未熟な状態であるのです。
すべての理想は、未熟な自分の思い描く幸福です。
それは、その時には幸福かも知れませんが、自分が成長すれば幸福の形も色褪(いろあ)せるものなのです。
成長に従って、幸福の形は変わります。
その時には、新たな理想を掲げているでしょうが、それも繰り返しに過ぎないのです。
繰り返しに満足することができるでしょうか?
そこには退屈と苦悩が導かれるのです。
理想を追い求める人の行き着く先は、退屈と苦悩であるということを覚えておかなければならないのです。
理想が実現しなくても、人は幸福を見出し、満足を得ることができるのです。
人生とは、あなたが考えるほど粗悪(そあく)なものではありません。
理想が実現しなくても、幸福も満足も得られるようになっているのです。
それは、あなたが理想に対する妄想(もうそう)を手放すことです。
あなたが考えているほど、理想は良いものではありません。
未熟な自分の思い描く幸福など、あなたは必要としているでしょうか?
あなたはそれを必要とはしていないでしょう。
現実は、あなたの真実を映し出します。
目の前の現実は、あなたの長短を教えるのです。
それは、成長の助けとなります。
自らの長短を理解すれば、成長は早いのです。
しかしながら、自分を見誤る者は成長することができません。
多くの人は理想を求め、現実を否定します。
そのために、成長することがないのです。
多くの人がいつまでも理想を追い求めています。
多くの人が妄想の中に生きているのです。
真の幸福とは、現実の中にこそ存在しているのです。
妄想の中には存在しません。
あなたは現実を受け入れなければならないのです。
物事には必ず”流れ”が存在しています。
それは、あなたの成長の方向性を示唆(しさ)します。
理想を求めれば、”流れ”を断ち切るでしょう。
現実を受け入れることによって、”流れ”を見極め、それを生かすことができるのです。
樹木は、日光を効率良く得るために、枝を工夫します。
日光の届く場所に枝を伸ばし、日光の届かない場所の枝を枯らします。
これが、”流れ”なのです。
成長と共に、樹木の”流れ”は美しさを極めます。
それは、”流れ”を否定せず、生かしたからです。
自然界におけるすべての命が、”流れ”を受け入れているのです。
現実の中には真の幸福と満足が存在しています。
理想を追い求めるのであれば、それ等を見付けることはできません。
未熟な自分の追い求める幸福の形に惑わされることなく、真の幸福を見極めましょう。
あなたと、あなたの周囲の人々の考えている幸福は、真の幸福ではないということを覚えておきましょう。
価値観の転換が必要です。

2017年3月23日木曜日

苦しみの手助け

重要なのは、目的を見失わないことです。
どのような道を進むにしても、その道を進むのは目的があるからです。
目的もなく道を進むことはできません。
すべての道が目的によって生じます。
道があって、目的が生じるのではありません。
あなたの目的が、あなたの後に道を生むのです。
道はあなたの軌跡(きせき)です。
用意された道など存在しないのです。
あなたが目的を見失わない限り、道が途切れることはありません。
道とは目的であるということを覚えておきましょう。
すべての人が道を進まなければなりませんが、多くの人が道を見失っています。
それは、目的を見失ってるためです。
道が途切れるには二つの条件があります。
一つは、目的を見失うことで、もう一つは道を変更することです。
道を変更するというのは、新たな目的を見出すことによって、今までの道を諦め、新たな道を築くということなのです。
これは、目的も道も見失ってはいない状態です。
人生においては、好ましい状態であるといえるでしょう。
しかしながら、多くの人はこのような状態にはありません。
多くの人は目的を見失うことによって、道が途切れている状態なのです。
目的を見失い、道が途切れてる状態の人は、無益なことを続けます。
目的を見失った状態で行う選択は有益には働かず、必ず問題を引き起こすのです。
人にとって有益な行いとは、成長することです。
成長する以上に有益なことなど存在しません。
人にとっての無益な行いとは、成長しないことなのです。
人が成長するためには、苦しむ必要があります。
苦しむことによって漸(ようや)く、自らの誤解と矛盾に気が付くことができるのです。
人が苦しむことがなければ、自らの誤解と矛盾に気が付くことはないのです。
苦しみがなければ、誤解と矛盾を抱えた状態が最善だと思い込んでしまうのです。
多くの人は、誤解と矛盾を抱えているために、苦しみの価値を知りません。
多くの人は、苦しみを拒絶するのです。
それは、無益な行いであるのです。
本来ならば、苦しんでいる時にこそ目的を見出し、道が築かれます。
しかし、多くの人は、苦しんでいる時に目的を見失い、道を途切れさせているのです。
誤解と矛盾を抱えているために、最善を最悪と置き換えているのです。
多くの人は、安楽の時に目的を見出し、道を築いていると思い込んでいるのです。
そのため、苦しみを嫌い、安楽を好むのです。
晴天が続けば、大地は乾き、植物は枯れてしまいます。
安楽を好む人の人生は、このようなものです。
そこには、中身の無い希望的観測が太々(ふてぶて)しく横たわっているのです。
人生を豊かなものにするためには、風雨が必要なのです。
風雨によって空は陰り、大地には多くの傷痕(きずあと)を残します。
しかしながら、同時に大地は潤っているのです。
風雨がなければ大地が潤わないように、苦しみによって人生が豊かさを得るのです。
苦しみは、目的を見失わないための助けです。
安楽に入り浸(びた)れば、あなたは目的を見失うでしょう。
重要なのは、目的を見失わないことです。
苦しみを敵としてはなりません。
苦しみの助けがなければ、あなたは目的を見失い、道は途切れてしまうのです。
それは、安楽の中で目的を見失わないほど、あなたは強くないからです。
あなたは未熟なのです。
安楽を選べるほど、強くはないのです。
目の前に問題が生じ、それを苦しむ時には、その苦しみが目的を見出す手助けをしているということを思い出しましょう。
苦しみから逃れるということは、手助けを否定するということなのです。
どうするべきかは、あなたが決めれば良いことです。
あなたが目的を見失ったから苦しみが手助けをしているということを覚えておきましょう。

2017年3月22日水曜日

自分への挑戦

人生とは、自分への挑戦です。
あなたは、自分と向き合い、その歪みを取り除かなければなりません。
自らの歪みを取り除くことが成長であり、人生の目的でもあるのです。
すべての人が歪みを所有しています。
すべての人が、所有している歪みと向き合わなければなりません。
どれだけ否定しようとも、歪みと向き合うことを避けることはできません。
すべての状況に自分が存在し、あなたは常にそれを体験しているのです。
多くの人は自分に向き合っているということを知りません。
多くの人は、自分の歪みと向き合っているということを知らずにいるのです。
そのため、他者や時代と向き合っていると思っています。
多くの人は、問題の原因が他者や時代にあると考えているのです。
しかしながら、あなたの抱える問題の原因はあなたにあります。
あなたの所有する歪みこそが、問題の原因であるのです。
すべての問題は、歪みの結果に他ならないからです。
あなたは問題を通じて、自らの歪みを体験しているということを覚えておきましょう。
あなたが向き合っているのは、他者でも時代でもありません。
あなたが向き合っているのは、自分なのです。
他者や時代に反抗したところで、問題が解決することはありません。
見当違いの方法を用いても、問題が解決するはずがないのです。
あなたが目の前の問題を解決したいと考えているのであれば、他者や時代に反抗することをやめ、自分の歪みと向き合い、それを認め、手放すことに努めましょう。
歪みを所有している以上、問題が解決することは有り得ないのです。
他者を攻撃することによっては問題は解決しません。
なぜなら、他者を攻撃するという行為事態が歪んでいるからです。
時代のせいにして、自らの役割を放棄することも同じです。
あなたの抱えている問題は、自分の責任なのです。
あなたは、自分の抱えている問題と、自分以外の存在を切り離して考えなければなりません。
人生は、自らの選択によって築かれているのです。
あなたは自らの選択によって問題を抱えているのです。
そのことを理解しなければなりません。
自分と他者を混同してはなりません。
自分が出来ることを他人に求める必要はないのです。
他者と同じことをする必要もありません。
あなたと他者は、別の人生を生きているのです。
あなたには、あなただけの役割が与えらえています。
他者には、他者だけの役割が与えられているのです。
別々の役割を担っているにもかかわらず、同じことを求めるために、矛盾が生じているのです。
あなたがそうしているからといって、他者がそうする必要はありません。
他者がそうしているからといって、あなたがそうする必要もないのです。
それぞれの役割、人生を別々のものとして考えなければ、必ず争いが生じます。
役割は、それぞれに与えられているのです。
あなたと同じ役割を担っている人は他にいないのです。
しかし、他者と同じことをしなければならないという誤解が真実を隠すのです。
真実を知らないために、争い、苦悩しているのです。
この世界に無駄は存在しません。
この世界には、価値のない人物など存在しないのです。
それぞれが、自らの価値を見出す必要があるのです。
それぞれが、自らの価値を見出すことができれば、争いも問題も生じないのです。
一つの席を奪い合う必要はありません。
自分を知れば良いだけです。
多くの人は自分を知ることをせず、他者を知ろうと努めています。
多くの人は、自分に成ろうとせず、他者に成ろうとしているのです。
そのような方法では、自らの役割を果たすことはできないのです。
あなたは他者に成ることはできません。
また、他者に成る必要などないのです。
あなたはあなたであれば良いのです。
自分と向き合い、自分に挑戦しましょう。


2017年3月21日火曜日

しっくりくる生き方

人は、それぞれの目的を持って生れます。
すべての人には、それぞれに担っている役割があるのです。
動物は地を駆け、魚は水中に生きるように、あなたは”あなた”を生きなければなりません。
あなたは、あなたらしく生きることが求められているのです。
しかしながら、多くの人は、自分らしい人生を知りません。
多くの人が周囲からの影響に従って生きているのです。
あなたは、自分らしく生きることができていますか?
あなたがその生き方を自分らしいと考えているのであれば、それで良いのです。
しかしながら、多くの人は、その生き方を自分らしいとは思っていません。
自分らしい生き方とは、本心が納得することのできる生き方のことです。
地を駆ける動物が水中を生きることは、自分らしい生き方ではありません。
水中を生きる魚が地を駆けることはできないのです。
地を駆ける動物は地を駆け、水中を生きる魚は水中を生きることが求められているのです。
それぞれに与えられた役割があるのです。
地を駆ける動物には、地上において役割を与えられています。
水中を生きる魚には、水中において役割が与えられているのです。
自らの役割を放棄すれば、そこには苦悩が導かれるのです。
苦悩を抱えながら生きている者は、自らの役割を見失っているのです。
自分らしい生き方ができていないために、苦悩を抱えているのです。
誰もが、自分らしい生き方を所有しています。
しっくりくる生き方というものがあるのです。
あなたはそれを探し続けなければなりません。
しっくりくる生き方は、自分の成長に伴って変化します。
現在はしっくりくる生き方であったとしても、自らの変化に従って、それは違和感を生じるようになるのです。
違和感の堆積(たいせき)が苦悩となるのです。
あなたがしっくりくる、自分らしい生き方をするためには、いつも”あなた”でなければなりません。
あなたが”あなた”を生きることが自然なのです。
地を駆ける動物は地を駆け、水中を生きる魚は水中を生きるのです。
あなたの生きる場所は、担っている役割によって決まります。
それは、理想とは異なる生き方であるかもしれません。
多くの人が理想を求めていますが、残念ながら、それはしっくりくる生き方とは異なる場合が多いのです。
孤独がしっくりくる者は、今は孤独を生きれば良いのです。
連れ立つことを理想としていたとしても、連れ立つ必要はないのです。
担っている役割は、自分が考えているほど小さなものではありません。
残念ながら理想とは、自分が考えている小さな価値でしかないのです。
現実を否定し、理想を追い求める生き方の先には、自分の頭で考えることができる程の小さな価値しか用意されてはいないのです。
理想とは、想定の範囲内の出来事でしかありません。
それは、自分に都合の良いことだけで築かれた小さな世界なのです。
そこには何の発見も気付きもないのです。
思い通りに進むことによっては、成長することはできないのです。
しかし、現実は想定の範囲外の出来事を導いているのです。
それは、自分にとって不都合なことばかりで築かれた大きな世界です。
そこには、多くの発見と気付きがあるのです。
思いも寄らない事態は、あなたを成長させるのです。
しっくりくる生き方は、あなたの想定の範囲を超えます。
驚くべき発見と気付きによって、あなたはその生き方が自分に合っていることを知るでしょう。
発見と気付きに乏しい理想を追い求める生き方では、しっくりくることはないのです。
理想を追い求める限り、あなたは苦悩を避けることができないのです。
現実を受け入れましょう。
それが、あなたのしっくりくる生き方なのです。
理想を追い求めて現実を否定するのであれば、あなたは苦悩を解決することはできないのです。
苦しむ必要はありますが、苦悩を抱える必要はないのです。
身体にしっくりくる食物は、口には苦くても、腹には甘いのです。
身体に合わない食物は、口には甘く、腹には苦いものなのです。
あなたの口(思考)には理想は甘く、現実は苦いでしょう。
しかし、あなたの腹(魂)には、現実は甘く、理想は苦いのです。
現実の中に、自分らしい生き方のヒントが隠されています。
あなたがしっくりくる生き方をするためには、現実を受け入れることです。

2017年3月20日月曜日

変革の兆し

すべての人は未熟です。
すべての人が無知です。
すべての人が無力です。
すべての人が不足し、すべての人が歪んでいるのです。
満足に達する人はいません。
すべての人が、未熟と無知と無力を満足させることができないのです。
どれだけの時間と労力を費やそうとも、満たされることはありません。
それが、自然なのです。
すべての人は生涯を通じて、自らの未熟と無知と無力から学ぶのです。
あなたは常に未熟と無知と無力と共に生きているということを知らなければなりません。
しかしながら、多くの人はそれに気が付きません。
あなたは常に未熟と無知と無力を通して、世界を見ているのです。
しかし、それがあまりにも自然であるために、気が付くことができないのです。
その結果、人は未熟と無知と無力に陥(おちい)るのです。
あなたに必要なのは、自らが未熟と無知と無力の中に陥っているということへの認識です。
あなたがそれを知ることができれば、当たり前を疑うこともできるのです。
当たり前を疑うことには価値があります。
それは、当たり前には価値が無いからです。
多くの人は、当たり前を重要だと考えています。
そのため、当たり前を許しているのです。
当たり前という状態は、停滞を意味しています。
停滞とは、変化を失った状態のことです。
人生において変化を失うということは、成長を失うということなのです。
そのため、成長の妨げとなる当たり前という状態を疑わなければならないのです。
多くの人にとっては、未熟と無知と無力を通して世界を見ているのが当たり前です。
そのため、未熟と無知と無力を許しているのです。
未熟と無知と無力を手放すことはできませんが、それを少しでも軽くすることはできます。
人は、未熟と無知と無力を少しでも軽くするために努めているのです。
未熟と無知と無力を疑うことがなければ、その状態に停滞しなければならないのです。
同じ状態に停滞することによって、人は苦悩を受けるのです。
多くの人は幸福を求めています。
しかし、実情では矛盾を選択しているのです。
幸福に対して矛盾しているために、苦悩を受けるのです。
幸福は成長によって実現します。
そのためには、停滞を脱する必要があるのです。
そのためには、当たり前を疑うことなのです。
あなたの信じている当たり前とは、小さな価値観のことです。
あなたの価値観は、成長の度に大きくなるのです。
当たり前を疑えば、価値観は大きく育まれることになるのです。
小さな価値観に拘(こだわ)ってはなりません。
当たり前を疑い、可能性を手に入れなければなりません。
疑うということが、変革の兆(きざ)しなのです。
この世界は、小さな価値観で計り知ることなどできないのです。
あなたが知っているのは、小さな価値観によって垣間見(かいまみ)ることができる世界の一部に過ぎません。
世界の一部を知っているからといって、世界を知っていることにはなりません。
一部を知って、全体を知った気になってはならないのです。
この世界は、あなたが考えるよりもずっと広大なものなのです。
生涯を費やそうとも、全体を知ることはできないのです。
あなたはいつまでも成長し続けることができます。
あなたが満足することはありません。
もしも、満足することがあれば、それは停滞しているということなのです。
自分勝手に終着点を作り出しているだけなのです。
あなたは、人生に満足してはなりません。
それは、停滞という苦悩を導きます。
飽(あ)きることのない探究心を働かせましょう。

2017年3月19日日曜日

好きに生きろ

人生は、あなたのものです。
あなたは自分の人生を生きているのです。
あなたは誰かの人生を生きているのではありません。
人生は、あなたに任せられているのです。
あなたは、自由に選択することができます。
あなたは、生きたいように生きれば良いのです。
やりたいことをやれば良いのです。
やりたくないことを、我慢しながら続ける必要はありません。
もちろん、やりたいと思い始めたことであれば、何があっても諦めてはなりません。
しかし、やりたいとも思わないことを続ける必要はないということなのです。
あなたは人生を好きに生きるべきなのです。
それが最善なのです。
多くの人は、自分の人生を生きてはいません。
多くの人は、これが自分の人生であるという自覚を持たないのです。
これが自分の人生であるという自覚を持たないが故(ゆえ)に、選択を蔑(ないがし)ろにするのです。
それは、生きたいように生きるという選択の放棄であるのです。
多くの人は、やりたくないことを我慢しながら続けています。
多くの人は、生活のため、金銭のため、家族のため・・・
このような言い訳によって矛盾を抱えているのです。
生活のため、金銭のため、家族のためなど、自分以外の何かのために生きたところで、満足することなどできないのです。
誰もが、自分の人生を生きなければ満たされないのです。
自分の生き方を美化し、正当化したところで、納得することはできません。
そのような生き方には、必ず後悔が導かれるのです。
残念ながら、多くの人が自分の人生を生きてはいません。
誰にでも、やりたいことはあるのです。
すべての人物が目的を以て生まれているのです。
やりたいことがないはずがないのです。
自分に嘘を吐いていく過程で見失ってしまったのです。
すべての人は、他者によって抑制されます。
それは、親であったかもしれません。
それは、兄弟であったかもしれません。
それは、友人であったかもしれません。
それは、常識であったかもしれません。
それは、教育であったかもしれません。
それは、自分自身であったかもしれないのです。
あなたは、様々な他者からの抑制を受けているのです。
その結果、やりたいことを見失い、どのような人生を生きたいのか?ということを見失うのです。
あなたの人生の最善は、あなたにしか分かりません。
あなたのやりたいこと、あなたの生きたい人生は、あなたしか知り得ないのです。
どのような人物も、あなたの人生を知らないのです。
そのため、他者に求めても無駄です。
もちろん、自分自身に求めても、その答えは得られません。
なぜなら、あなたが自分だと思い込んでいる存在は、自我意識に他ならないからです。
やりたいことも分からず、生きたいようにも生きられない存在は、あなたではないのです。
やりたいことを見据(みす)え、生きたいように生きているのがあなたなのです。
あなたは自分を知りません。
自分でさえ、信用することはできないのです。
あなたは自分を信用してはなりません。
そして、他者を信用してはなりません。
誰かがあなたにどのような言葉を投げ掛けようとも、あなたは自分の人生から目を離してはなりません。
他者や自分(自我意識)がどのような言葉を投げ掛けようとも、それを信用する必要はないのです。
前向きな言葉も信用する必要はありません。
結果がどのようなものになっても良いのです。
あなたがやりたいことをやり、生きたいように生きたことに価値があるのです。
やりたくないことを我慢して続け、それで生き長らえたところで、そのような人生に価値を見出すことはできないのです。
そのような人生には満足することができないのです。
あなたは、純粋にやりたいと思うことを大切にしましょう。
純粋に生きたいと思う人生を生きるのです。
誰が何と言おうとも、好きなように生きてみましょう。
しかしながら、好きに生きることには責任が生じます。
好きに生きるのであれば、決して諦めてはなりません。
そして、決して逃げてはなりません。
好きなように生きるのです。

2017年3月18日土曜日

人生の順序

どのような人物であっても、人生の目的を抱えています。
どのような人物であっても、この世界に必要な役割を担っているのです。
人は、自らの目的を果たさなければなりません。
それ以外には、人生の目的は存在しないからです。
しかしながら、多くの人は自らの目的を見失い、他者の目的を自らの目的にすり替えています。
それは、本人であっても気付かぬ内に行われるのです。
そのため、多くの人が、自分の目的ではない目的のために人生を消費しているのです。
あなたの人生、命は、自らの目的のために存在しているのです。
誰かや何かのために行動することは美しく見えます。
しかしながら、そのような理想を掲げている人物ほど、自らの目的を見失っているのです。
自らの目的を見失っているために、誰かや何かのために行動することによって、自分を納得させようと努めているのです。
大切なのは、自分のことを充実させることです。
自分のことを充実させた上で初めて、誰かや何かのために貢献することができるのです。
順序があるのです。
溺れている人を助けることのできる知識や体力や技術を身に付けずに、どうやって助けることができるのでしょうか?
自分の知識や体力や技術が不足しているのであれば、溺れている人を助けることはできません。
そのような者が溺れている人を助けようとするのであれば、自分自身も同じように溺れることさえ有り得るのです。
ミイラ取りがミイラになってはならないのです。
大切なのは、自分自身のことであり、その先に他者のことなのです。
自分自身のことも充実させることができない者が、どうして他者を充実させることができるのでしょうか?
多くの人は、自分のこともままなりません。
しかし、自分のことを蔑(ないがし)ろにしています。
誰かや何かのために行動することは美しく見えますが、それを行っている人物が美しくなければどうしようもないのです。
苦悩に溺れる者が、苦悩に溺れる者を助けることなどできません。
当然のことですが、多くの人はそれを知らないのです。
なぜなら、自らの現状を知らないからです。
多くの人は、自らの現状を知りません。
それは、自分を知らないためです。
多くの人は、自分を知ろうとはしません。
それは、恐れているからです。
人は自我意識を抱えています。
それは、弱い心なのです。
弱い心は、変化を嫌うのです。
そのため、正当化と美化によって、現状を覆い隠してしまうのです。
人が自分(の現状)を知るためには、知識を集める必要があります。
自我意識によって、自分を直接的に理解することは難しいのです。
そのため、自分以外の存在を知ることによって、相対的に自分を知るのです。
あなたは、人生の目的を果たすため、誰かや何かに貢献するために、勉強しましょう。
あなたは学び続けなければならないのです。
変化を手放せば、現状を知るための情報は手に入りません。
現状を知らなければ、何をすれば良いかも分からないのです。
それは、虚無(きょむ)という停滞を導くのです。
停滞することによって、あなたは人生の目的も、誰かや何かに貢献する機会も失うのです。
先ずは、自分のために、自分のことをするのです。
必ずしも他者と共感する必要はありません。
多くの人は、他者を気に掛け過ぎ、本来の道を見失っているのです。
他者との共感を手放さなければ、自分の目的を見失うのです。
自分の目的を見出し、その道を進む過程において、他者と共感するのです。
自分の目的も道も見出していない者が、他者と共感したところで、お互いの目的と道を隠し合うだけなのです。
多くの人は孤独を嫌います。
孤独が恐いのです。
しかしながら、自らの目的と道を見出すためには、孤独の力が必要なのです。
自分が充実するまでは、他者を助けようとしてはなりません。
その気持ちを抑えて、自分の成長に努めるのです。
未熟な自分を不甲斐無(ふがいな)く思えば成功です。
その気持ちがあなたを孤独へと導き、成長を実現させるのです。

2017年3月17日金曜日

人生の豊かさの本質

人は、それぞれに役割を担っています。
あなたの役割は、あなただけが担っています。
他者の役割は、他者だけが担っているのです。
役割を代行することはできません。
それは、その役割のために生まれたからです。
役割を通じて、必要な学びを得るのです。
必要な学びを通じて、必要な成長を実現するのです。
役割を担うことによって学びが生じ、学びを得ることによって成長することができるのです。
役割を担うことがなければ、成長することはできないのです。
それでは、人生の目的に反することになるのです。
人生の目的は成長することにあります。
成長することがなければ、人生の目的に反することになります。
人生の目的に反するということは、豊かさを得られないということなのです。
与えられた役割を果たすことによって、人は充足を得ることができるのです。
人生を豊かなものにしたいと考えているのであれば、与えられた役割を意識しながら人生を選択する必要があるのです。
人生の目的を考えることもなく、目の前の快楽に溺れるのであれば、人生は確実に乏しさを導くのです。
快楽によっては、充足を得ることはできないのです。
快楽によって得られるものは、一時的な高揚だけです。
それは、刺激は強くても、一瞬のものであり、本質は虚無(きょむ)なのです。
どれだけの快楽を喰らおうとも、満たされることはないのです。
役割を果たそうと努めることに快楽のような強烈な刺激はありません。
役割を果たそうとする道は地味であり、更には険しいのです。
喜びは些細なものであり、その割に苦労は絶えません。
常に知識と変革を求められ、休む暇もありません。
役割を果たそうとする道で得られるものは、成長だけです。
それ以外のものを期待しても得られないのです。
自らの役割を果たそうとすることは、決して容易なことではありません。
それが容易ではないために、多くの人がその道を外れているのです。
多くの人は快楽に溺れます。
それは、苦悩に溺れることも同じです。
不自然な心(自我意識)にとっては、苦悩も心地好いのです。
何かに執着し、知識と変革を蔑(ないがし)ろにしているのであれば、役割を放棄していることに他ならないのです。
あなたは自らに与えられた役割を果たそうと努めなければならないのです。
それが、あなたの人生を豊かなものにする唯一の道なのです。
それは、孤独な道です。
本当の意味での理解者は決して現れません。
誰にも、他者の役割を理解することはできないのです。
あなたは誰にも理解されません。
あなたには誰も理解することができないのです。
それが本来の人生の姿なのです。
しかしながら、不自然な自分にはそのことを理解することができません。
不自然な自分は、孤独を恐れるのです。
そして、役割を見失うのです。
あなたが自らに与えられた役割を果たそうと努めるのであれば、他者に求めてはなりません。
他者に期待することなど、何もないのです。
多くの人は、他者に理解を求めます。
それは、他者に自分と同じ性質を求めているということです。
しかしながら、それは無駄なことなのです。
それぞれが別々の役割を担っているのです。
それぞれの性質は異なるのです。
それぞれが未熟な存在なのです。
それぞれが自らの性質によって補い合うのが理(ことわり)です。
他者と同化する必要はありません。
オーケストラのように、別々の楽器が、別々の楽譜を演奏し、同じ楽曲のために同調すれば良いのです。
あなたが誰かのようである必要はありません。
誰かがあなたのようである必要もないのです。
与えられた役割に沿って生きましょう。
与えられた楽譜を演奏すれば良いのです。
他者の楽譜を演奏しようとすれば、不協和音(ふきょうわおん)を生じさせてしまうのです。
それが、人生の乏しさの本質なのです。
あなたに相応しい楽譜(役割)が与えられています。
勇気を以て、演奏しましょう。
それが、人生の豊かさの本質なのです。

2017年3月16日木曜日

自分にとっての必要

人生においての必要は、人それぞれに異なります。
それぞれの人生が決して同一ではないように、人生における必要も決して同一ではありません。
あなたにとっての必要と、他者にとっての必要が一致することはないのです。
人生においては、それぞれの必要を満たすことが求められているのです。
人生における必要を混同すれば、人生の目的を見失います。
あなたの人生の目的は、必要を満たしていくことによって理解することができるからです。
人生における必要を満たすこともなく、人生の目的を知ることはできないのです。
多くの人が、自らの必要と他者の必要を混同しています。
そして、自らの人生の目的を見失っているのです。
あなたには、果たさなければならない使命があるのです。
誰かのために生まれたのではありません。
あなたは、自分のために生まれ、全体のために生まれたのです。
他者の必要が、あなたの必要になることはありません。
誰かのために生きることによっては、あなたが人生の必要を満たすことはできないのです。
あなたは自分のために生きるのです。
あなたは、全体のために生きなければならないのです。
その中で、あなたは自分の人生における必要を理解するでしょう。
あなたは、自分について考えましょう。
そこに、どのような他者も介入させてはなりません。
あなた以外には、知り合いが誰一人として存在していないと仮定してみましょう。
そうすれば、あなたは自分のために何が必要であるのかを知ることができるのです。
人は、それぞれの人生を生きて然(しか)るべきです。
これは、自分勝手に生きることではありません。
自分勝手に生きるというのは、他者の利益を損なう生き方のことです。
他者の利益を損なう生き方とは、他者の使命を奪う生き方のことなのです。
すべての人には、必要な役割が与えられています。
あなたにはあなたの役割が与えられ、他者には他者の役割が与えられています。
自分勝手に生きるということは、自分の必要を満たさないことによって他者の必要に介入し、他者の役割を阻害するということなのです。
あなたがあなたの役割を果たさなければ、それだけ、誰かに負担が掛かることになるのです。
自分の必要を満たすことなく、自分に与えられた役割を果たさなければ、豊かな人生を実現することはできないのです。
自分の役割を放棄して、他者に負担を掛けるものではありません。
あなたは、自分について考えなければならないのです。
あなたにとっての必要と、他者にとっての必要は異なります。
あなたは自分が必要と思える必要を求めれば良いのです。
あなたの必要を、他者がどのように評価しようとも、恐れてはなりません。
あなたの必要と他者の必要は異なるからです。
あなたの人生と他者の人生は違うのです。
元々が違うものであるのに、他者の評価を気にする必要はないということなのです。
違うものを同じものにしようとしているのです。
それは、不自然です。
不自然な状態には、必ず負荷が掛かります。
違うものを同じものにしようとすれば、いつかは滅びるのです。
あなたの人生は、あなただけに与えられた役割です。
そのため、あなたの人生を他者が決めることはできません。
どのような人物にも、あなたの人生がどのようなものなのかを知ることはできないのです。
多くの人が自分の人生すらどのようなものなのかを知りません。
自分の人生がどのようなものなのかすら知らないのに、どうして他者の人生を知ることができるのでしょうか?
あなたの人生における必要は、他者には理解することができません。
あなたの人生には、正解も見本も存在しないのです。
それぞれが異なっていて良いのです。
それが自然です。
”すべては一つ”です。
しかしながら、それぞれは異なっています。
異なったそれぞれの存在が”一つ”を形成するのです。
あなたは自分の人生に自信を持ちましょう。
どのような人生でも良いのです。
他者の顔色を伺(うかが)うような、詰まらない人生にする必要はありません。
あなたにとっての必要は、必ずあなたを満足させるでしょう。
そのような人生を求めましょう。

2017年3月15日水曜日

命の使い方

多くの人は、生きることに価値を見出しています。
多くの人にとっては、生きることに価値を見出すことは正しいのです。
多くの人は生きることに幸福を感じているのです。
あなたが、生きることに幸福を感じているのであれば、その道を進めば良いでしょう。
それは、正しい道です。
しかしながら、生きることに価値を見出すことができない人もいます。
生きることに価値を見出すことができない人にとっては、その道が正しいのです。
誰もが、自分にとって正しい道を進めば良いのです。
自分にとっての正しい道とは、真(本心)が求める生き方のことです。
感情に従う生き方のことではありません。
それは、理性に従う生き方のことなのです。
人は、感情に従って生きています。
人は、誰かや何かの影響に従うように生きているのです。
人は、無意識の内に同調圧力に従っています。
しかしながら、多くの人が感情に従っているために、それが同調圧力であるということに気が付きません。
同調圧力に従う生き方が、真の求める生き方だと思い込んでいるのです。
同調圧力に従うことによって、あなたは真の生き方を見失います。
あなたの人生の目的は、誰かと同じものではないのです。
似ているところは多々あるでしょうが、同じではありません。
あなたはあなたの目的を果たさなければならないのです。
そのためには、感情に従う生き方に疑いを抱き、見失っている理性に従う生き方を確立しなければならないのです。
生きるということは、感情に従う行為です。
多くの人は、周囲の人達がそうしているように、延命に重きを置いています。
自分の目的ではないことに労力を費やし、時間を無駄にしています。
あなたの使命と、他者の使命は異なります。
あなたの命は、何のために使われるべきなのでしょうか?
その答えを知るためには、生き方を見詰(みつ)めることです。
人は、自らの生き方を見詰めることによって、命が何に使われているのかを知ることができるのです。
命が何に使われているのかを知れば、自らの生き方を評価することができるのです。
あなたは、自らの命の使い方を見詰めてみましょう。
あなたは人生に満足していますか?
満足している人は、そのまま進みましょう。
もしも、満足することができないというのであれば、道を再考する時期が来ているのです。
あなたは常に自らの生き方を審査しなければならないのです。
生きることを考えるのは、人生の表層です。
生き方を考えるのは、人生の深層なのです。
現状に満足することができなければ、人生を少しだけ深く見詰める必要があるのです。
生き方に価値があるということを知りましょう。
それは、鉄の質に価値があるのと同じなのです。
鉄が錆(さ)びているのであれば、どれだけ塗装(とそう)しようとも、新たな錆によって塗装は剥がれ落ちてしまうのです。
表明を磨いたとしても、錆は浮いて出るのです。
錆によって鉄は滅びます。
大切なのは、錆に負けない鉄であるのです。
生きることは塗料です。
生き方は鉄なのです。
同調圧力に従い、真が求める生き方を手放すのであれば、良い鉄とは呼べません。
それは、すぐに錆を抱え、滅びに向かうのです。
真が求める生き方を行うのであれば、それは良い鉄でしょう。
それは、錆びることもなく、自らの役割を果たすのです。
生き方が疎(おろそ)かであるために、大量の塗料を必要とするのです。
大量の塗料とは、生きることへの執着のことです。
真の生き方をしている人には、生きることへの執着よりも、目的を果たすことへの執着が勝るでしょう。
それは、死を超越する生き方なのです。
あなたは死を恐れていますか?
人生には、死よりも大切なものがあるはずです。
それを見付けられた時、あなたの人生は良いものとなるでしょう。

2017年3月14日火曜日

流れに沿う

すべての人は、不自然な状態で生まれます。
すべての人が、生まれながらに不自然な状態なのです。
人は、生まれながらに未熟です。
人は、生まれながらに無知です。
人は、生まれながらに無力なのです。
それは、不自然な状態なのです。
人が自然な状態を得るためには、未熟を克服し、無知に打ち克(か)ち、無力を制する必要があるのです。
すべての人が、生まれながらに不自然という檻(おり)の中に閉じ込められているのです。
不自然という状態は、人の自由を奪います。
未熟と無知と無力と共に、自由を得ることはできないのです。
それ等によっては、不自由を得ることは必至なのです。
すべての人が幸福を求めていますが、不自然な状態では幸福を得ることはできません。
未熟と無知と無力が導くのは、苦悩でしかないからです。
あなたが幸福を求めているのであれば、自然な状態を実現しなければならないのです。
自然な状態とは、未熟さによって抵抗することをせず、無知によって苦悩することもなく、無力によって絶望することのない状態のことです。
知恵によって目の前の状況を受け入れ、それを発展させることが自然なのです。
多くの人は、目の前の状況を否定します。
気に食わない状況に対して抵抗を続けるのです。
この世界には、因果の仕組みという理(ことわり)が存在しています。
これは、すべての結果には、それに相応しい原因が存在しているというものです。
原因の存在しない結果は存在しません。
つまり、あなたの受け取るすべての状況には、それに相応しい原因が存在しているということです。
あなたが受け取る状況は、あなたに関するものです。
あなたに関係のない状況は導かれません。
あなたの受け取る状況という結果は、あなたの抱える原因によって導き出されたということなのです。
あなたでなければ、その状況を受け取る必要はないのです。
そのため、あなただけが、その状況を受け取っているのです。
あなたは不自然な状態を所有しています。
そのため、抵抗し、苦悩し、絶望するのです。
人生は本来、成長するための場所です。
あなたはすべての状況から成長を実現することができるのです。
しかしながら、不自然な状態がそれを阻止します。
不自然な状態が成長を妨げているのです。
それは、人生の目的に対して不自然であるからです。
人生の目的に対して自然であるということは、すべての状況によって成長が促(うなが)されるということだからです。
知恵によって、人は成長することができます。
不自然を手放し、自然を得ることによって、人生は豊かに展開するのです。
すべての人は、生まれながらに不自然を抱えているのです。
人は生まれながらに抵抗し、苦悩し、絶望するのです。
あなたはそれ等の選択肢を手放さなければならないのです。
それは、未熟と無知と無力を手放すということです。
抵抗と苦悩と絶望は、未熟と無知と無力の結果に過ぎません。
あなたは、原因である未熟と無知と無力を手放さなければならないのです。
そのためには、勉強しなければなりません。
知識と経験を求め続けなければならないのです。
信じられないことにも興味を抱き、常に価値観の変化を実現しなければならないのです。
勉強しなければ、あなたは自分に成れません。
不自然な自分は、本当のあなたではないのです。
学ばなければ、本当の自分の人生は生きられないということを理解しましょう。
不自然な者の生きる人生は、不自然なものなのです。
未熟によって抵抗し、無知によって苦悩し、無力によって絶望する者には、本当の人生を生きることはできません。
抵抗も、苦悩も、絶望も必要としない生き方を選択しなければならないのです。
自然であることだけが、あなたに豊かな人生を導くでしょう。
あなたは生まれながらに余計なものを抱えています。
人生を経験する中で、少しずつ不自然を手放していきましょう。
本来ならば、抵抗も苦悩も絶望も必要ありません。
流れに沿って自然に進みましょう。

2017年3月13日月曜日

思いのままに描く

すべての人は、人生を行っています。
あなたは、自らの意思によって人生を決めなければなりません。
あなたの選択によって、人生は道を創造するのです。
選択したことも、選択しなかったことも、人生に反映されるのです。
あなたは自らの意思で人生を選択することができます。
しかしながら、人生を思い通りにすることはできません。
自らの意思によって人生を選択することはできますが、理想が実現するということではありません。
矛盾しているように聞こえるかも知れませんが、白紙に人生を描いている訳ではないのです。
そこには、既に多くの色や形が描かれているのです。
絵の上に絵を描くのです。
例えば、常識や他者からの干渉、自らの未熟(無知、誤解、矛盾)などが既に描かれているのです。
新しく描く線は、それ等の影響を受けるのです。
そのため、人生は自らの意思によって選択することができますが、それが直接的に理想を実現することには繋がらないということなのです。
すべての人の人生が、既に描かれている絵の上に、新たに線を描くという状態なのです。
それは、人生の改作であるのです。
誰もが、人生を改作しているのです。
そのため、人生には抵抗が生じます。
線を描けば、既に描かれている絵に干渉するのです。
それは、様々な問題を引き起こすでしょう。
既に描かれている絵の作者は、あなたの線が気に食わないのです。
そのため、あなたが自分の意思で線を描けば、誰かとの間に軋轢(あつれき)が生じることがあるのです。
多くの人は、優しさからそれを嫌います。
線を描く度に誰かを傷付けてるとも考えるのです。
しかしながら、あなたはそれでも線を描かなければなりません。
なぜなら、これはあなたの人生だからです。
他の誰の人生でもないのです。
あなたが描き、完成させなければならない一枚の絵画なのです。
あなたは自信を以て人生を描きましょう。
誰がどのように感じようとも、それはその人の学びなのです。
あなたが自らの人生を描くことは我が儘(まま)ではありません。
自らの人生を描くことは、自然なことなのです。
寧(むし)ろ、自らの人生を描かないことは不自然であるということを覚えておかなければならないでしょう。
善悪で道を決める必要はありません。
善悪という価値観は非常に曖昧(あいまい)なものです。
立場によって善悪は形を変えるのです。
それは、人生を描く指標とはなりません。
正解も不正解もありません。
あなたの人生は、人類史上あなたが初めて描くものです。
後にも先にも、あなたの人生を描いた人は存在しないのです。
そのため、正解も不正解もないのです。
それは、人生を描く指標とはなりません。
心の赴(おもむ)くままに線を描けば良いのです。
どのような道を進んでも良いのです。
誰が何と言おうとも、自分で選んだ道が最善なのです。
誰にも、あなたの人生を判断することはできません。
誰にも、あなたの人生を理解することはできないのです。
誰にも、あなたの人生に価値を付けることはできません。
すべての人生が一つしか存在していないからです。
あなたの人生を誰かに決めてもらうことはできません。
それは、あなたの仕事なのです。
初めから絵が描かれているからといって、線を描かなくても良いということではありません。
自分の線を描かないということは、後悔を導くことになるからです。
人生を完成させるために生まれたのです。
どのような絵になろうとも構いません。
心の赴くままに描けば完成します。
心に従いましょう。
純粋に生きるのです。
そこに、善悪を持ち込む必要はありません。
思いのままに描きましょう。

2017年3月12日日曜日

自分は自分で育てる

人生において大切なことは、すべての状況が自分の成長のために存在しているということを理解することです。
この理解を持たなければ、人生には誤解と矛盾が蔓延(はびこ)ることになるのです。
誤解と矛盾は、人生に苦悩を導きます。
誤解と矛盾を手放すことなく、苦悩を手放すことはできないのです。
人生においての最大の誤解は、すべての状況が自分の成長のために存在しているということを理解しないことなのです。
多くの人は、不幸が存在していると考えています。
自分にとって不利な状況が存在し、それが自分を苦しめていると考えているのです。
残念ながら、状況があなたに不利に働くことはありません。
そして、どのような状況であろうとも、あなたを苦しめる原因には成り得ないのです。
何度も言いますが、すべての状況が自分の成長のために存在しているのです。
どのような状況を経験しようとも、それがあなたの成長を手助けするのです。
あなたはどのような状況からでも学ぶことができるのです。
どのような状況からでも、成長することができるのです。
しかし、多くの人が誤解と矛盾を生きています。
不利な状況が存在すると信じ、不幸の原因が外にあると思い込んでいるのです。
明言しなければなりませんが、苦しんでいるのは自分のせいなのです。
すべての苦しみは、自分自身で生み出しているのです。
誤解と矛盾が苦しみの原因なのです。
誤解と矛盾を抱えているのは状況ではありません。
それ等を抱えているのは、あなたなのです。
あなただからこそ、そのような状況を経験しているのです。
他者には、それと同じ経験は必要ないのです。
あなただけが、その状況を経験し、あなただけが、それを苦しんでいるのです。
誤解と矛盾を手放せば、苦しみとその状況を手放すことになります。
原因がなければ結果は存在しないのです。
誤解と矛盾という原因が存在しなければ、状況と苦しみという結果は存在しないのです。
本来ならば、人生においてあなたが苦しむ必要はないのです。
しかし、すべての状況が自分の成長のために存在しているということを理解しないために苦しんでいるのです。
あなたは人生において、自分を成長させているのです。
そのことを知らなければなりません。
あなたは自分を育てなければなりません。
自分は自分で育てるものです。
それは、目の前の状況を、自分の意思で受け入れるということなのです。
目の前の状況を受け入れることをしなければ、必要な経験を得ることができずに、成長することができません。
他者があなたの代わりに、目の前の状況を受け入れることはできません。
他者に頼んだとしても、何の解決にもならないのです。
他者に自分を育ててもらおうと思ってはなりません。
あなたは自分で決断しなければならないのです。
すべての状況が自分の成長のために存在しているということへの理解を決断するのです。
目の前の状況を否定してはなりません。
恐れによって否定したい気持ちが沸き起こるでしょう。
それは、仕方のないことです。
しかし、それを乗り越えなければならないのです。
人生においては、最善が導かれています。
あなたの目の前には、常に最善が導かれているのです。
残念ながら、多くの人は、それを最善だと理解することはできません。
人生に対して、そこまで深く考察している人は少ないのです。
誰もが無意識の同調圧力に屈しています。
多数派が有益だと教えられ、それに従うことで自分の人生に対する責任を放棄しているのです。
あなたは独りの存在です。
あなたの人生は、この世界に一つであるはずです。
どうして、独りの存在であるのに、多数派の意見が有益なのでしょうか?
あなたは他者に自分を育ててもらおうとしてはなりません。
あなたは自分で自分を育てるのです。
目の前の状況は、自らの抱える誤解と矛盾の姿です。
それを経験し、手放し、成長することは、あなたの責任なのです。
難しく考える必要はありません。
人生におけるすべての状況は、自分の成長のために存在しているということを理解するだけで良いのです。

2017年3月11日土曜日

自然の姿

すべての人が、不自然を所有しています。
すべての人が、不自然な存在なのです。
あなたが思い込んでいる自分という存在は、不自然な状態を指しているのです。
すべての人が無知を所有しています。
すべての人が誤解の中にあるのです。
すべての人が偏見を信仰しています。
すべての人が幻想を生きているのです。
幻想を見極め、偏見を疑い、誤解を脱し、無知を克服している者はいません。
そのため、すべての人が不自然な状態であるということなのです。
あなたは無知を所有しています。
あなたは誤解をし、偏見を信じているのです。
そして、偏見とは幻想に過ぎません。
例えば、幻想は理想として現れます。
理想とは、不自然な願望です。
事実は理想と異なります。
理想は、事実を否定しているのです。
目の前に導かれた状況こそが事実であり、その事実が自然なのです。
事実である自然を否定することによって、人は不自然を抱えることになるのです。
有りの儘(まま)が自然の姿です。
我が儘は不自然な姿なのです。
多くの人が事実を否定し、理想の実現を願います。
その願望こそが、人生に対する偏見であり、誤解であり、無知なのです。
理想が実現する方が魅力的であるかも知れません。
願望が実現する方が喜ばしいでしょう。
しかしながら、人生の目的を考えた時には、理想も願望も実現しない方が有益なのです。
人生とは、不自然な自分から、自然な自分へと成長する場所なのです。
無知や誤解や偏見などの多くの歪みを抱えている不自然な状態から、知恵によって単純で純粋な自然な状態に向かうことを求められているのです。
複雑なものは優れているとはいえません。
それは、複雑なものは本質を欠いているからです。
単純なものこそが優れているのです。
本質とは、単純で純粋なものなのです。
不自然な存在である人間が形成する社会は、非常に複雑な構造をしています。
それは、方々(ほうぼう)で絡み付き、解くことが困難である状態になっているのです。
人が問題を抱えるのは、複雑であるからです。
誰もが不自然な思想を抱え、不自然な生き方をしているのです。
人生は単純で良いのです。
苦悩と向き合って成長することさえ考えていれば良いのです。
人が自然な状態で生きれば、社会が複雑な構造を形成することもありません。
誰もが自分の苦悩と向き合って成長しようと努める社会であれば、調和と協力が生まれるのです。
誰もが自分の苦悩と向き合うことから逃げようと努める社会であるために、不調和と争いが生まれているのです。
人は成長するために生まれたのです。
それが自然の姿です。
自然から離れた人間は苦悩を抱えます。
苦悩から逃げるだけであれば、成長することは出来ません。
苦悩することが自然であり、それと向き合うことが自然なのです。
不自然な自分を放置してはなりません。
無知、誤解、偏見、幻想を疑うことによって、手放さなければならないのです。
しかしながら、あなたが不自然な自分と向き合い、自然の道を歩もうとすれば、そこには必ず障害が現れます。
あなたは、様々な誘惑によって、自然な道から逸らされるでしょう。
誘惑に打ち克(か)つ強い意志を保っていなければ、不自然を脱することはできないのです。
多くの人は誘惑によって、不自然な自分へと連れ戻されます。
自然を得ることは簡単なことではないのです。
その道は険しく、多くの困難が待ち構えています。
自然の道には多くの苦しみが存在しているのです。
苦悩と向き合って成長することだけを考えるということは、誘惑に負けない意志を見失うなということなのです。
あなたは自然へと向かいましょう。
無知や誤解や偏見や幻想(理想)を手放すことによって、あなたは自然を得るでしょう。

2017年3月10日金曜日

真実を生きる

偽りを生きることは、苦悩を生きるということです。
すべての人が幸福を求めていますが、偽りを生きることによっては、それを実現することはできません。
幸福とは真実のことであり、真実を生きることによってのみ実現されるものなのです。
真実を生きることがなければ、幸福を実現することはできないのです。
あなたが幸福を求めているのであれば、真実を生きる必要があるということを覚えておきましょう。
真実を生きるためには、偽りを生きることを諦めなければなりません。
多くの人が、偽りを生きることによって幸福が実現するという、根拠の無い期待を抱いています。
多くの人が偽りを軽んじているのです。
偽りは必ず苦悩を導きます。
因果の仕組みによって、それを避けることはできないのです。
偽りを生きる者は、必ず苦悩を受けるのです。
それ以外の状況を得ることはできないのです。
偽りとは、矛盾のことです。
矛盾している状態を偽りというのです。
多くの人は偽りを生きています。
多くの人は、矛盾を抱えている状態なのです。
あなたは自らの抱える矛盾に気が付いているでしょうか?
目の前の状況を否定することは、矛盾です。
不安や心配、怒りや争いを選択することは矛盾なのです。
多くの人は理想と現実の矛盾に苦しんでいるのです。
現実を否定するということは、それだけで矛盾することなのです。
なぜなら、目の前に導かれる現実こそが真実であるからです。
理想とは、残念ながら偽りなのです。
それは、理想は現実には存在しないからです。
現実に存在しないものは真実ではないのです。
あなたは現実に存在しないものを真実だと認めることができますか?
無知の話をしているのではありません。
理想は現実には存在しないために理想なのです。
理想とは、現実に存在しない状態を望む願望であるのです。
理想によってあなたが幸福を実現することはできません。
目の前の現実と向き合うのです。
目の前の状況が、あなたの現状を現しているのです。
そこに理想は存在しないのです。
多くの人は言葉に頼ります。
残念ながら、言葉が偽りを脱することはありません。
真実を現す言葉は存在しないのです。
言葉は、理想を語ることはできるでしょう。
言葉によっては、どのようにでも現実を歪めることができるのです。
そのため、あなたは言葉を信用してはなりません。
自分自身の言葉も、他者の言葉も信用してはなりません。
言葉を信用する価値はないのです。
あなたが真実を得ようと考えているのであれば、行為を見ましょう。
行為は真実を現します。
行為を偽ることはできません。
人の真実は、その行為に現れるのです。
行為こそが真実であるということを知りましょう。
言葉は理想(偽り)を見せます。
しかし、行為は現実(真実)を見せるのです。
そのため、自分自身と他者の真実を知りたければ、言葉に惑わされてはならないのです。
あなたは行為を観察することによって、真実を知るのです。
人は言葉で偽りながら、行為で真実を見せます。
その人の真実を知りたければ、その行為を見るのです。
それだけで、その人の真実を知ることができるのです。
どのように巧妙(こうみょう)に隠そうとも、行為から滲(にじ)み出る真実を隠すことはできません。
真実を生きるということは、行為を生きるということです。
どのように壮大なことを語ろうとも、その行為が健全なものでなければ、結果は苦悩を導くのです。
言葉を信用してはなりません。
長期に渡る行為を信用しましょう。

2017年3月9日木曜日

自分の仕事を始める

これは、あなたの人生です。
誰の人生でもありません。
あなたが自分で決めるものなのです。
どのような立場の人物も、これが自分の人生であるということを受け入れなければなりません。
誰もあなたの代わりに選択することは出来ません。
誰かがあなたの代わりに選択したと思えることがあったとしても、それは人生に反映されることはありません。
誰かがあなたの代わりに選択したと思えることがあったとしても、反映されるのは、自分で選ばなかったという選択肢なのです。
その時には、自分で選ばなかったという選択肢の影響が結果として導かれるだけなのです。
多くの人は、他者が自分の人生に介入していると考えていることでしょう。
しかしながら、それぞれの人生には大きな隔(へだ)たりが存在し、それ等が混在することはありません。
人生は、それを生きる人の意思によってのみ、展開していくのです。
人生をどうするか?は、あなたの意思なのです。
どう生きるか?ということが重要なのです。
それ以外に重要なことはないのです。
あなたの選択によってのみ、人生は展開します。
あなたの意思がすべてなのです。
誰かに自分の人生の選択を任せているのであれば、人生は何も変わりません。
状況や環境などの見た目は影響を受けるでしょうが、そこで経験することに違いはないのです。
それは、あなたが変わっていないからです。
あなたが変わっていなければ、あなたの意思によって展開する人生が変わることはないのです。
見た目を変えたところで満足することは出来ません。
ただ、生きていくだけでは、人は後悔するのです。
残念ながら、生きていくことに価値はありません。
どう生きるか?ということに価値があるのです。
あなたは自分の人生を生きているという自負を持たなければなりません。
気高く、自分の人生を生きるのです。
多くの人は、他者と自分の人生を混同して考えています。
それは誤解です。
他者には他者の目的があり、あなたはあなたの目的があるのです。
同じことを学ぶ必要はありません。
同じことを苦しむ必要も、同じことを喜ぶ必要もないのです。
共感を抱く必要もなければ、賛同される必要もありません。
あなたは他者を引き連れて、自分の人生を生きることは出来ないのです。
誰もが独立した存在として生きなければならないのです。
自分の人生を放棄して、他者の人生に出向いてはなりません。
他者の人生は、あなたに関係の無いことなのです。
あなたがどう思うか?
あなたがどう考えるか?
あなたがどうするか?
ということが重要なのです。
人生を豊かなものにするためには、興味のあることを主軸とする必要があります。
どのような人生にしたいですか?
どのような生き方に興味がありますか?
あなたに聞いているのです。
あなたが答えなければなりません。
誰にでも、興味のあることがあります。
興味のあることを持たない人はいません。
それは、すべての人が目的を以て生まれたからです。
あなたの興味が、あなたの人生の目的を教えます。
興味とは、人生の入口なのです。
興味のあることを始めなければ、あなたが自分の意思で何かを決めることは無いでしょう。
興味のあることでなければ、人は自分の意思で決断することが出来ないのです。
好きなように生きなければなりません。
好きなように生きるとは、好きな生き方をするということです。
他者からの賛同など必要ありません。
自分が興味のあることを追求するのです。
それが、後に誰かや世界に貢献する仕事となるでしょう。
今すぐに、自分の仕事を始めるのです。
今すぐに、自分の人生を始めましょう。

2017年3月8日水曜日

簡単に信用出来ないもの

人は、自分が何者であるのかを知りません。
人は、自分を知らないのです。
多くの人が知っていると思い込んでいるのは、不自然な自分であり、それは誤解と矛盾なのです。
多くの人は、誤解と矛盾を自分だと思い込んでいます。
誤解と矛盾を正当化し、美化することによって、納得しているのです。
誤解と矛盾は自分の本質ではありません。
それは、自分から生じる排出物(はいしゅつぶつ)のようなものなのです。
排出物は、自分にとっては不要なものです。
それを溜め込むことは有害であるために、排出されるのです。
多くの人は、それを自分だと思い込んでいるのです。
残念ながら、自分が何者であるのかを知る人はいません。
すべての人が、自分を知らないのです。
あなたが考えている自分とは、決して自分ではありません。
あなたは”それ”を自分だと思い込んではなりません。
あなたは、人の心が常に移り変わっていることを知っているでしょうか?
人の心は決して安定的なものではありません。
それは、常に揺れ動き、決してとどまることはありません。
次の瞬間には異なっているようなものなのです。
多くの人は、そのようなものを自分だと思い込んでいるのです。
そして、そのようなものを他者だと思い込んでいるのです。
残念ながら、あなたは人の心を信用してはなりません。
常に移り変わっている人の心は、信用に価(あたい)しないということなのです。
本質とは、変わらないものです。
多くの人の考えている自分という存在は、次の瞬間には様相を変えています。
そのようなものが本質であるはずがありません。
しかしながら、多くの人は、そのようなものを自分だと思い込んで信用しているのです。
あなたは心を疑わなければなりません。
自らの心も、他者の心も疑うのです。
あなたが信用することが出来るものがあるとすれば、それは、目の前に導かれる事実だけです。
残念ながら、人の心には真実はありません。
そこには、微量であれ、確実に正当化と美化が入り込んでいるからです。
人は、自らの排出物に対して、特別な嫌悪は抱きません。
それは、正当化と美化が入り込んでいるからです。
しかしながら、他者の排出物に対しては、特別な嫌悪を抱くのです。
そこには、正当化と美化という心の働きが生じないためです。
人は本質を見極めることが出来ません。
それは、自分の本質を知らないからです。
自らが本質的ではないのに、どうやって物事の本質を見極めるというのでしょうか?
誤解と矛盾を抱えている人には、すべてに誤解と矛盾が反映されるのです。
しかしながら、そのことには気が付きません。
あなたが本質を見極めたいと考えているのであれば、疑うことを忘れてはならないでしょう。
あなたは既に、自分の本質を見失っています。
あなたに出来ることは、疑うことだけなのです。
素直に受け入れるということは大切です。
しかし、不自然な状態によって素直に受け入れるのであれば、不自然な解釈を行うだけなのです。
歪んだ自分の解釈は、それに相応しく歪んだものとなるのです。
疑わなければ、歪んだ解釈を行うことになるのです。
歪んだ解釈は、歪んだ選択肢によって、歪んだ状況を導くのです。
誤解と矛盾が導く状況は、誤解と矛盾そのものなのです。
人は、自らに相応しい状況を得るのです。
目の前の事実こそが真実であり、唯一の信用することが出来るものなのです。
多くの人は自らの心を信用し、自分が正しいと思い込んでいます。
しかしながら、誤解と矛盾に満ちたあなたが、正しいはずがないのです。
自分が正しいと思っているのであれば、その浅はかな考えを疑いましょう。
疑わずに、本質に近付くことはできません。
あなたは自らの掲げる信仰を疑いましょう。
価値観を疑いましょう。
疑いを手放してはなりません。
あなたは簡単に道を踏み違えるのです。
真の道を歩みたければ、疑いを手放してはなりません。

2017年3月7日火曜日

自分の方法で生きる

この世界には、陰陽の二つの性質が存在しています。
それは、有無を形成します。
それは、生死によって理解することができるでしょう。
人は生まれ、死ぬのです。
人は死に、生まれるのです。
人は、命の中に生死を所有し、有無を所有し、陰陽を所有しているのです。
それは、この世界がそうであるからです。
この世界には、陰陽の二つの性質が存在しています。
それは規則となり、世界を形成しているのです。
あなたはこの世界に生まれました。
それは、同時に規則の中に生まれたということでもあるのです。
あなたが生まれる前からこの世界は存在しています。
しかしながら、あなたが生まれたことによって、世界は存在したのです。
ここにも、有無が同時に存在しているということを理解しましょう。
この世界の規則は、あなたに相応しいのです。
あなたはこの世界の規則によって多くを学ぶ必要があるのです。
多くの人は、世界の規則を受け入れることが出来ません。
言っておきますが、あなたが世界に生まれたのです。
あなたはこの世界の規則の一部として生まれました。
すべての人の生まれは、”奴隷”であるということを覚えておかなければならないのです。
”奴隷”には豊かさは与えられないのです。
それは、従うだけの”奴隷”であっては、世界に貢献することはできないからです。
そのために、すべての人には”奴隷”としての状態を抜け出し、本当の意味で世界に貢献することが求められているのです。
あなたは、この世界のために貢献しなければなりません。
貢献するということは、世界を発展させるということなのです。
人が世界に貢献することによって、規則は変化していくのです。
それが時代です。
時代によって、規則は大きく異なります。
人は、時代を創造していくのです。
時代は変化し続けます。
あなたが生まれた時とは、時代は大きく異なっているのです。
人は、規則の中に生まれます。
しかし、その規則は変化し続けます。
あなたは規則と共に、自らの在り方も変化していく必要があるのです。
時代に逆らうことは、世界に貢献することにはなりません。
時代を牽引(けんいん)する必要があるのです。
時代を牽引するということは、大それたことを行うということではありません。
あなたの考える方法によって生きていれば良いだけです。
しかしながら、多くの人は自らを”奴隷”という初歩の立場から解放することが出来ません。
それは、前時代的な方法を続けているということなのです。
時代を牽引する方法は、人それぞれに異なります。
人が、自分の人生を生きることを決心した時、その方法は自然と導かれるのです。
貢献は、自分の人生を生きることによってのみ実現することが出来るのです。
”奴隷”としての立場は、自主性を失っている状態です。
それは、安全という名の不自由の檻(おり)に閉じ込められている状態であるのです。
それでは貢献することは出来ません。
時代に従う(逆らう)ということは、規則に支配されるということなのです。
あなたは新たな規則を創造しなければなりません。
それは、その世界に生きる自分のためです。
そして、その世界に生まれる誰かのためなのです。
生まれた時から規則は存在しています。
初めから存在している規則を問題とする必要はないのです。
規則は既に存在しているのだから、それを活用すれば良いのです。
あなたのために規則は存在するのです。
規則に行く手を阻まれる必要はありません。
規則に苦悩する必要はないのです。
不満や文句を吐くものではありません。
腐らずに励(はげ)みましょう。
安全という名の不自由の檻に閉じこもっているのは、あなたの意思なのです。
それは、雛鳥(ひなどり)の卵の殻のように、子どものあなたを守る防壁であったのです。
しかしながら、いつまでもそこにとどまっているために苦しんでいるのです。
苦悩を感じるのであれば、防壁が狭くなったということです。
あなたが守られる時代は過ぎたのです。
古い時代を手放し、新たな時代に足を踏み出すのです。
安全という名の不自由の檻を破り、危険という名の自由を遊びましょう。
それは、自分の考える方法によって生きるということなのです。

2017年3月6日月曜日

非常識な幸福

すべての人が、豊かな人生を求めています。
人は、幸福を求める存在です。
すべての人は、それぞれの幸福を求め、それぞれの豊かさを必要としているのです。
幸福も豊かさも、固定化されたものではありません。
それ等には、無数の形が存在するのです。
人生の道筋が無限大に存在しているように、幸福と豊かさの形にも限りが無いのです。
しかしながら、多くの人は幸福と豊かさを限定的に捕らえています。
生き方には定義はありません。
どのように生きても構わないのです。
しかしながら、多くの人の生き方には限りがあるのです。
何をどう考えても構いません。
しかしながら、何をどう考えるか?は、ある一定の範囲内にとどまるのです。
例えば、常識という定義の中に答えを求めます。
多くの人は、常識としての幸福や豊かさが最善であると考えるのです。
それは、限定的な幸福や豊かさであり、あなたの幸福や豊かさの形には当てはまらない可能性があるのです。
多くの人が、人生に閉塞感を感じていることでしょう。
本来ならば、人生には無限大の可能性が存在しているのです。
しかしながら、それを感じられずにいるのです。
人生の道筋は無限大です。
どのように生きようとも、その生き方は人生に許容されるのです。
多くの人が恐れているのは、それが他者に許容されないからです。
しかしながら、これはあなたの人生なのです。
他者の許容が最善ではありません。
他者の許容は重要ですが、それが答えではないのです。
他者の許容を得られなくても、通らなければならない道筋があるのです。
他者の許容を前提とするのであれば、あなたの人生は限定的なものとなってしまうのです。
常識とは、他者です。
他者から独立することを非常識というのです。
多くの人は、他者に依存して生きています。
自らの生き方を自力に頼ることなく、誰かに任せているのです。
そのような方法によっては、人生に閉塞感が生じることは当然の結果なのです。
大切なのは、これが自分の人生であると忘れないことです。
あなたも、他者も知らない生き方が存在しているのです。
非常識を掴まなければ、自分の人生を生きることは出来ません。
自分の生き方にこそ、幸福と豊かさが存在しているのです。
あなたに相応しい幸福と豊かさの形が存在しているのです。
あなたがそれ等を得ようとすれば、常識という他者を離れ、非常識という自分と向き合わなければなりません。
あなたは自分と向き合うために、他者と向き合っています。
非常識な生き方を確立するために、常識を体験しているのです。
行き着く先は非常識です。
すべての人は、最終的に自分に至るのです。
あなたは自分の生き方を探し続けなければなりません。
そのためには、知恵を必要とします。
知恵とは、知識と経験の産物です。
知識が人生の幅を広げ、経験がそれを深めます。
その結果として、自分の生き方を知ることができるのです。
無知によって、人は狭い世界を生きるでしょう。
知恵によって、人は広い世界を生きることができるのです。
閉塞感は無知によって生じるということを理解しましょう。
学び続けなければ、常識を離れることはできません。
無知は他者に対する依存を引き起こすからです。
無知な者は常識を生きるのです。
そこには、あなたに相応しい幸福も豊かさも存在しません。
そう思える”何か”が存在しているだけです。
常識が最善だと思い込んでいるように、定型化された人生を幸福や豊かさだと思い込んでいるのです。
常識を疑い、非常識(個性)を形成しましょう。
それぞれが非常識な幸福や豊かさによって、共存するのです。

2017年3月5日日曜日

無為を行う

すべての人は未熟です。
すべての人は無知です。
すべての人は無力なのです。
人生には、どうすることも出来ないことがあります。
人生には、どうすることも出来ないことが多過ぎるのです。
人生には問題が付き物です。
あなたはいつも問題と向き合っていることでしょう。
問題を目の当たりにした時、あなたは自らの未熟さに気が付くことでしょう。
そして、無知を知り、無力を体験するのです。
あなたには、どうすることも出来ないことがあるのです。
人生における大抵のことは、あなたにはどうすることも出来ないことなのです。
多くの人は、どうすることも出来ないことをどうにかしようと努めるでしょう。
しかしながら、どうすることも出来ないことは、どうすることも出来ません。
どうすることも出来ないことは、どうもしなくて良いのです。
重要なのは、物事の本質を理解することです。
本質を理解することなく、正解(納得)を導き出すことは出来ません。
あなたが問題と向き合うのは、自らの未熟と無知と無力に気が付くためです。
それ以上の意味はないのです。
あなたは問題と向き合い、自らの未熟と無知と無力を知れば良いだけなのです。
それ以外に何かをする必要はないのです。
多くの人は、問題の本質を状況だと理解しています。
誰かや環境などによって問題が引き起こされたと考えているのです。
そのため、他人や環境に影響を及ぼすことによって、問題を解決しようと努力します。
この世界には、因果の仕組みが存在しています。
すべての結果は、自分という名の原因によって導かれるのです。
それがどのような結果であれ、他人や環境などの外的要因によって導き出される結果など存在しないのです。
すべての問題は、自らの未熟と無知と無力によって導き出されるのです。
問題の本質とは、自分なのです。
あなたでなければ、その問題を受け取る必要はないのです。
他人が受け取っている問題をあなたが受け取る必要はありません。
あなただからこそ、その問題が導かれるのです。
他人だからこそ、その問題が導かれるのです。
それは、原因が自分にあるからです。
自分を知れば、自分を変える方法も知ることができます。
しかし、自分を知らなければ、どのような方法も的外れなものとなるのです。
多くの人は、問題の解決に他人の方法を用います。
残念ながら、他人の方法によっては、あなたの問題は解決しないのです。
原因が異なっているのだから、解決方法も異なっているのです。
作為(さくい)によっては、自分の方法を導くことはできません。
それは、作為をしているのは己(自我意識)であるからです。
自らの未熟と無知と無力を知らなければ、その傲慢(ごうまん)さによって己に従うことになります。
自らの未熟と無知と無力を知れば、その謙虚さによって真(真我)に従うことになるのです。
真こそが、無為(むい)によって自分の方法を導くことができるのです。
真の行為は無為となるのです。
自分を知ることによって、自分にとっての最善を知ることができます。
知らないがために、あれこれと作為を必要とするのです。
知っていれば、無為を行うことができるのです。
余計なことを考える必要はありません。
余計なことを行う必要もないのです。
どうすることも出来ないことに出会ったとしても、あなたは何かをする必要はありません。
自分を知ることだけに専念するのです。
どうにかしようと作為する必要はありません。
知れば、自然に行っているものなのです。
作為は必要ではありません。
知ることを大切にしましょう。
無為を行うことによって、問題を解決しましょう。

2017年3月4日土曜日

本物は鈍く輝く

すべての人の人生には、真の目的が存在しています。
それは、心の奥底に沈んでいる思いです。
すべての人は、心の奥底に沈んでいる思いを果たすために人生を生きているのです。
人生には明確な目的が存在しています。
あなたはいつでも、その目的を果たすために行動しているのです。
すべての状況は、人生の目的を果たすために導かれます。
すべての経験は、人生の目的を果たすために与えられるのです。
あなたは真の目的のために人生を生きていますが、認識は及んではいません。
認識が及ばなければ、それが人生の真の目的であることに気が付かないのです。
認識することがなければ、それを果たすことができないのです。
大切なのは、認識することなのです。
しかしながら、多くの人は人生の真の目的を認識することができません。
それは、心の奥底に沈んでいるために、簡単に認識することはできないのです。
人生の真の目的が心の奥底に沈んでいるのは、実感を強めるためです。
心は、苦労することによって、その価値に対する認識を高めることができるのです。
苦労して手に入れたものほど思い入れが強いものとなり、価値は高まるのです。
簡単に手に入れたものは、簡単に手放すことができるでしょう。
簡単に手に入れたものには、思い入れは少ないのです。
思い入れを強くするのは、簡単に忘れないためです。
忘れてしまうのであれば、もう一度学ばなければならないからです。
忘れないために、苦労を必要とするのです。
人生の真の目的を果たすためには、苦労が付き物です。
苦労を伴わない道には、真の目的は存在しません。
真の目的が簡単に果たされることはないのです。
人生は簡単なものではないということを覚えておかなければならないのです。
多くの人は簡単に諦めるでしょう。
苦労を抱え、困難にぶつかった時には、道を捨てるのです。
簡単に諦めるのであれば、何も学ぶことが出来ないのです。
そのような方法によって得られるものになど、価値は無いのです。
それは、偽りの目的としてあなたを騙すようになるのです。
簡単に得られるものになど価値はありません。
人生の真の目的は、簡単には果たせないのです。
多くの人は、自らの決めたことをすぐに諦めてしまいます。
その道の本質を学ぶこともなく、簡単に諦めるのです。
道に携(たずさ)わった分だけ、苦労も増えます。
しかし、苦労の分だけ学びもあるのです。
苦労することがなければ、学ぶことなどできないのです。
偽りの輝きに騙(だま)されてはなりません。
真の目的とは鈍く輝いています。
それは、陰と陽の全体を所有しているからです。
偽りの輝きには華やかさがあるのです。
それは、不自然な輝きなのです。
本物は鈍く輝くのです。
偽物は態(わざ)とらしく輝いているのです。
多くの人は不自然な輝きに騙されています。
それは、理想を求めているからです。
理想には曇りが存在しません。
理想は不自然に輝いているのです。
しかしながら、現実は自然に輝きます。
自然の輝きは穏やかです。
それは、偽る必要がないためです。
偽る必要のあるものは、偽る必要があるために必要以上に輝くのです。
あなたは偽りの輝きに騙されてはなりません。
生きること自体には価値がありません。
生きることは、偽りの輝きなのです。
どう生きるか?ということに価値があるのです。
どう認識するか?ということが重要なのです。
認識が浅ければ、真の目的を知ることはできません。
認識を深めるためには、簡単には諦めないことです。
苦労を否定してはなりません。
鈍く輝く本物を手に入れるために苦労するのです。
不自然に輝く偽物を簡単に手に入れるための人生ではないのです。
心の奥底に沈んでいる、真の目的を思い出しましょう。

2017年3月3日金曜日

価値の見直し

人生における価値は、学びに従って変化します。
人生における価値は、状況によって異なるのです。
例えば、空腹の時に価値があるのは食物です。
空腹の時に装飾品には価値がないのです。
病の時に価値があるのは休養です。
病の時に遊びには価値がないのです。
状況によって価値は大きく変化します。
それが人生においては、学びによって価値が変化するのです。
人生においての学びは、あなたの成長の段階に従って変化します。
成長の段階に変化がなければ、価値も変化することはありません。
人は、自分に相応しい価値を得るのです。
自らの成長の段階に相応しい価値を欲するのです。
あなたに必要な価値とは、あなたの成長の段階に相応しいものなのです。
人生における価値は、常に変化しているのです。
しかし、人が自らの成長の段階を実感することは容易ではありません。
多くの人は自分を気にすることなく生きているからです。
多くの人は自分を知りません。
多くの人は、外のことばかりに心を捕らわれているのです。
世の中のことや、他人のことばかりに気を取られているのです。
そのために、常識的な価値や、他人の欲する価値を自分の価値だと誤解しているのです。
すべての人は価値を欲しています。
しかしながら、そこには多くの誤解が存在しているのです。
多くの人は、自分にとって必要としていない価値を求めているのです。
本当は、自分にとっては価値の無いものであるにもかかわらず、自分を知らないためにそれが価値だと思い込んでいるのです。
誤解は矛盾を生じさせます。
多くの人が価値を求めながら、人生に矛盾を感じるようになります。
追い求めてきた価値が、自分を、人生を満足させることがないという事実に気が付くのです。
見当違いの価値を求めているのであれば、人生には苦悩が導かれるのです。
それは、やがて虚しさとなるでしょう。
大切なのは、自らの追い求めている価値が、自分にとって本当に価値のあるものなのか?ということを考えることです。
多くの人が価値の再考を蔑(ないがし)ろにします。
多くの人が、いつまでも訳も無く昔の価値を引き摺(ず)っているのです。
多くの人が惰性的(だせいてき)に生きていると言えるでしょう。
多くの場合、価値観は変化しません。
多くの人は、自らの信じる価値観を変更したくないのです。
価値観を見直さないために、いつまでも真っ直ぐに走り続けているのです。
価値観を見直さないことは気楽です。
人生について考え始めると、今までの世界観が崩れ落ちてしまうのです。
ただ、生活し、快楽を求めるだけの単純な人生が終わりを告げるのです。
多くの人にとって、それを手放すことは苦しみであるのです。
多くの人は何も考えたくはありません。
多くの人は、惰性的に生きていたいのです。
与えられたものを消費することが心地好いのです。
難しいことは考えたくはないのです。
失敗するかも知れない挑戦はしたくないのです。
周囲の人と違うことを主張したくはないのです。
多くの人は、変えたくなく、変わりたくないのです。
しかしながら、あなたは日々成長しています。
どのような人物も、同じ状態ではいられないのです。
成長の速度は僅(わず)かであり、自分では気が付かないかも知れません。
しかしながら、日々の知識と経験の増加によって確実に成長しているのです。
そのため、あなたはいつまでも同じ価値を追い求めることはできません。
同じ道を進んでいても、価値は変化するものなのです。
あなたは価値を見直さなければなりません。
矛盾によって苦しむ時には、価値観に限界がきているのです。
苦しみを覚えたのであれば、価値だと思っている”それ”を手放しましょう。
あなたは古い価値によって苦しんでいるのです。
手放せば、新しい価値を得られます。
価値は、学びの段階に従います。
古い価値を諦めましょう。

2017年3月2日木曜日

理想と後悔

人生に後悔を避けることはできません。
すべての人生には後悔が導かれます。
それは、人の心が多くを求めているからです。
人は選択しなければなりません。
人は、一つの道を選ばなければならないのです。
人は多くの選択肢の中から、一つを選ばなければなりません。
しかしながら、人の心はそれに満足することはないのです。
人の心は一つの選択肢に満足することができず、道を進みながらも、別の選択肢を悔やむのです。
人の心は多くを求めています。
それを一つに絞るのは簡単なことではないのです。
そのために、多くの人は人生に後悔を得るのです。
人生とは、後悔の連続です。
後悔を避けることはできません。
しかしながら、後悔しながらも、選択した一つの道を進まなければならないのです。
後悔するということは、自らの選択した道が最善であるということを理解してはいないということです。
人が後悔する時には、理想に傾倒している状態です。
進んでいる道に理想を重ねることによって、他の選択肢を悔やんでいるのです。
理想を持ち込むのであれば、現実は霞(かす)んでしまうでしょう。
あなたが進まなければならないのは、自らの選んだ現実です。
受け入れることが難しいかも知れませんが、不可抗力によって決められたように思える道であっても、それは自らの選択なのです。
あなたがその道を進んでいるのです。
あなただからこそ、その道を進んでいるのです。
他者は別の道を進みます。
それは、他者だからです。
どのような不可抗力も、その不可抗力を自分が選んだのです。
意識的であろうが、無意識的であろうが関係ありません。
結果は目の前の現実として導かれているからです。
目の前の現実は、疑いようのない事実なのです。
受け入れることができなくても、それはあなたの選択によって導かれる因果の姿なのです。
残念ながら、すべては自らの選択です。
そうは思えないという感情論に頼ってはなりません。
現実を受け入れることができない弱さが、理想を堅固(けんご)なものにしているのです。
現実を受け入れることができない理想論が、皮肉にも、人を苦しめているのです。
しかし、これは理想を所有するなということではありません。
理想は大切です。
あなたは理想を抱き、人生の指標としなければなりません。
ここで示しているのは、現実と理想を混同してはならないということなのです。
理想とは未来(もしくは過去)の選択肢です。
現実とは現在の選択肢なのです。
これ等は異なるものなのです。
多くの人は、現実に理想を持ち込もうとしているのです。
その方法は矛盾を導き、それが後悔を導くのです。
大切なのは、現実を受け入れることです。
現実を受け入れることによって、人は後悔を減らすことができるのです。
それでも後悔は消滅しません。
人の心はそれほど強いものではないからです。
後悔を避けることはできませんが、後悔を減らすことは可能です。
あなたにできることは、後悔を減らすことだけなのです。
そのためには、現実を大切にすることです。
理想に悔やむことをやめるのです。
人生には理想が実現する必要はありません。
なぜなら、あなたの掲げる理想など、未熟な心の未熟な計画に過ぎないからです。
一年後、あなたは同じ理想を掲げているでしょうか?
一年間も様々なことを経験し、成長しているのであれば、同じ理想を掲げることはできないはずなのです。
成長していないのであれば、同じ理想を掲げ、現実との間に後悔していることでしょう。
目の前の現実が最善です。
そのことを理解すれば、後悔は減るでしょう。

2017年3月1日水曜日

個性の道

すべての人には、個性の道があります。
それは、自分のための道であり、それは、他者のための道でもあります。
個は全体と等しいのです。
個を失えば全体を失います。
そして、全体を失えば、個を失うのです。
すべての人には役割が与えられています。
人は、役割を果たすために生まれたのです。
すべての人の人生には意味があり、その意味を見出すことが求められているのです。
あなたが人生の意味を見出すためには、個性を見出す必要があります。
自分が何者であるのか?ということを知らなければ、人生の意味を見出すことはできないのです。
あなたは何者ですか?
あなたの担っている役割とはどのようなものでしょうか?
多くの人は、個性の道を知りません。
多くの人が個性を埋没させることによって、人生の意味を遠ざけるのです。
それは、気楽であるからです。
人生の意味を考えずに済めば、苦悩は薄まるのです。
人生の意味を考えるということは、誰にとっても苦悩と向き合うことになるのです。
個性の道を行くことは独立の道であり、培った結束を解かなければならないのです。
多くの人は、無個性という状態で結束しています。
それは、自分で考える必要がないために気楽です。
従うことは、気楽だとする考え方があるのです。
それは、未熟な考え方です。
親に甘えている子どものようなものなのです。
親の庇護(ひご)に守られている子どもは、その環境が気楽であるために追従(ついじゅう)するようになるのです。
親の指示に従わなければ、気楽な環境を損なうことを知れば、そのような危険を冒すこともないのです。
人は恐怖に根差し、安楽を求めます。
個性の道を断てば、恐怖に会うこともなく、安楽を失わずにも済むのです。
そのように考えるのです。
多くの人は、気楽な環境を好みます。
しかしながら、気楽な環境は滅びの道です。
個性を育まなければ、個は力を失うのです。
個が力を失えば、全体は滅びるのです。
多くの人の選択する無個性の道は、自分を守っているように見えて、その実は滅ぼしているのです。
個性とは、自然です。
無個性とは不自然なのです。
人は、それぞれの個性を発揮することによって初めて、誰かや何かに貢献することができます。
何かに追従するだけの無力な者に、何が出来るというのでしょうか?
あなたは個性を育まなければなりません。
我が道を行くのです。
心配しなくても、それで利己的な結果を招くことはありません。
個性を生かすことによって初めて貢献することができるのです。
我が道を行く者は、貢献することができるのです。
貢献する者が利己的であるはずがないのです。
あなたが誰かや何かに貢献したいと考えているのであれば、個性を大切にしなければなりません。
多くの人は同調圧力に屈しているのです。
誰一人として理解者が現れることがなくても、それがあなたの個性の道であるのならば突き進みましょう。
その時点で理解者が現れなくても、個性の道を進む者は必ず輝きを放ちます。
その輝きが誰かや何かに貢献するのです。
主役はあなたです。
あなたの抱える問題は、あなたが自力で解決するのです。
これはあなたの人生なのです。
他者が介入することができるようなものではないのです。
誰もあなたを助けることはできません。
個性という自然の力を失った者には、豊かさを導くことはできません。
無個性とは、別の個性のことであり、それは不自然な力なのです。
不自然は乏しさを導くのです。
個性の道は、決して気楽なものではありません。
そこには、多くの困難が存在し、多くの苦悩を受けるでしょう。
しかしながら、そこには必ず喜びが導かれるのです。
無個性の道には、気楽が存在します。
そこには、困難も苦悩も存在しません。
しかしながら、そこには必ず虚しさが導かれるのです。
自然は不自然に勝ります。
個性は無個性に勝るということを覚えておきましょう。
誰もがいつかは、個性を育むようになるでしょう。