すべての人は未熟です。
すべての人が無知です。
すべての人が無力です。
すべての人が不足し、すべての人が歪んでいるのです。
満足に達する人はいません。
すべての人が、未熟と無知と無力を満足させることができないのです。
どれだけの時間と労力を費やそうとも、満たされることはありません。
それが、自然なのです。
すべての人は生涯を通じて、自らの未熟と無知と無力から学ぶのです。
あなたは常に未熟と無知と無力と共に生きているということを知らなければなりません。
しかしながら、多くの人はそれに気が付きません。
あなたは常に未熟と無知と無力を通して、世界を見ているのです。
しかし、それがあまりにも自然であるために、気が付くことができないのです。
その結果、人は未熟と無知と無力に陥(おちい)るのです。
あなたに必要なのは、自らが未熟と無知と無力の中に陥っているということへの認識です。
あなたがそれを知ることができれば、当たり前を疑うこともできるのです。
当たり前を疑うことには価値があります。
それは、当たり前には価値が無いからです。
多くの人は、当たり前を重要だと考えています。
そのため、当たり前を許しているのです。
当たり前という状態は、停滞を意味しています。
停滞とは、変化を失った状態のことです。
人生において変化を失うということは、成長を失うということなのです。
そのため、成長の妨げとなる当たり前という状態を疑わなければならないのです。
多くの人にとっては、未熟と無知と無力を通して世界を見ているのが当たり前です。
そのため、未熟と無知と無力を許しているのです。
未熟と無知と無力を手放すことはできませんが、それを少しでも軽くすることはできます。
人は、未熟と無知と無力を少しでも軽くするために努めているのです。
未熟と無知と無力を疑うことがなければ、その状態に停滞しなければならないのです。
同じ状態に停滞することによって、人は苦悩を受けるのです。
多くの人は幸福を求めています。
しかし、実情では矛盾を選択しているのです。
幸福に対して矛盾しているために、苦悩を受けるのです。
幸福は成長によって実現します。
そのためには、停滞を脱する必要があるのです。
そのためには、当たり前を疑うことなのです。
あなたの信じている当たり前とは、小さな価値観のことです。
あなたの価値観は、成長の度に大きくなるのです。
当たり前を疑えば、価値観は大きく育まれることになるのです。
小さな価値観に拘(こだわ)ってはなりません。
当たり前を疑い、可能性を手に入れなければなりません。
疑うということが、変革の兆(きざ)しなのです。
この世界は、小さな価値観で計り知ることなどできないのです。
あなたが知っているのは、小さな価値観によって垣間見(かいまみ)ることができる世界の一部に過ぎません。
世界の一部を知っているからといって、世界を知っていることにはなりません。
一部を知って、全体を知った気になってはならないのです。
この世界は、あなたが考えるよりもずっと広大なものなのです。
生涯を費やそうとも、全体を知ることはできないのです。
あなたはいつまでも成長し続けることができます。
あなたが満足することはありません。
もしも、満足することがあれば、それは停滞しているということなのです。
自分勝手に終着点を作り出しているだけなのです。
あなたは、人生に満足してはなりません。
それは、停滞という苦悩を導きます。
飽(あ)きることのない探究心を働かせましょう。
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