人は、自分が何者であるのかを知りません。
	人は、自分を知らないのです。
	多くの人が知っていると思い込んでいるのは、不自然な自分であり、それは誤解と矛盾なのです。
	多くの人は、誤解と矛盾を自分だと思い込んでいます。
	誤解と矛盾を正当化し、美化することによって、納得しているのです。
	誤解と矛盾は自分の本質ではありません。
	それは、自分から生じる排出物(はいしゅつぶつ)のようなものなのです。
	排出物は、自分にとっては不要なものです。
	それを溜め込むことは有害であるために、排出されるのです。
	多くの人は、それを自分だと思い込んでいるのです。
	残念ながら、自分が何者であるのかを知る人はいません。
	すべての人が、自分を知らないのです。
	あなたが考えている自分とは、決して自分ではありません。
	あなたは”それ”を自分だと思い込んではなりません。
	あなたは、人の心が常に移り変わっていることを知っているでしょうか?
	人の心は決して安定的なものではありません。
	それは、常に揺れ動き、決してとどまることはありません。
	次の瞬間には異なっているようなものなのです。
	多くの人は、そのようなものを自分だと思い込んでいるのです。
	そして、そのようなものを他者だと思い込んでいるのです。
	残念ながら、あなたは人の心を信用してはなりません。
	常に移り変わっている人の心は、信用に価(あたい)しないということなのです。
	本質とは、変わらないものです。
	多くの人の考えている自分という存在は、次の瞬間には様相を変えています。
	そのようなものが本質であるはずがありません。
	しかしながら、多くの人は、そのようなものを自分だと思い込んで信用しているのです。
	あなたは心を疑わなければなりません。
	自らの心も、他者の心も疑うのです。
	あなたが信用することが出来るものがあるとすれば、それは、目の前に導かれる事実だけです。
	残念ながら、人の心には真実はありません。
	そこには、微量であれ、確実に正当化と美化が入り込んでいるからです。
	人は、自らの排出物に対して、特別な嫌悪は抱きません。
	それは、正当化と美化が入り込んでいるからです。
	しかしながら、他者の排出物に対しては、特別な嫌悪を抱くのです。
	そこには、正当化と美化という心の働きが生じないためです。
	人は本質を見極めることが出来ません。
	それは、自分の本質を知らないからです。
	自らが本質的ではないのに、どうやって物事の本質を見極めるというのでしょうか?
	誤解と矛盾を抱えている人には、すべてに誤解と矛盾が反映されるのです。
	しかしながら、そのことには気が付きません。
	あなたが本質を見極めたいと考えているのであれば、疑うことを忘れてはならないでしょう。
	あなたは既に、自分の本質を見失っています。
	あなたに出来ることは、疑うことだけなのです。
	素直に受け入れるということは大切です。
	しかし、不自然な状態によって素直に受け入れるのであれば、不自然な解釈を行うだけなのです。
	歪んだ自分の解釈は、それに相応しく歪んだものとなるのです。
	疑わなければ、歪んだ解釈を行うことになるのです。
	歪んだ解釈は、歪んだ選択肢によって、歪んだ状況を導くのです。
	誤解と矛盾が導く状況は、誤解と矛盾そのものなのです。
	人は、自らに相応しい状況を得るのです。
	目の前の事実こそが真実であり、唯一の信用することが出来るものなのです。
	多くの人は自らの心を信用し、自分が正しいと思い込んでいます。
	しかしながら、誤解と矛盾に満ちたあなたが、正しいはずがないのです。
	自分が正しいと思っているのであれば、その浅はかな考えを疑いましょう。
	疑わずに、本質に近付くことはできません。
	あなたは自らの掲げる信仰を疑いましょう。
	価値観を疑いましょう。
	疑いを手放してはなりません。
	あなたは簡単に道を踏み違えるのです。
	真の道を歩みたければ、疑いを手放してはなりません。
	
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