すべての人は人生を体験しています。
それは、人生という経験を通じて自分という存在を学び、理(ことわり)に対する誤解と矛盾を手放し、成長するためです。
あなたは人生を体験することによって、自分を学んでいます。
人生を体験することによって、自分が何者であるのか?を知るのです。
人生には様々な状況が導かれますが、そのすべてがあなたを現します。
そして、その状況に対する反応によって、自分を知ることができるのです。
あなたは常に自分を体験することになります。
理に対する誤解と矛盾を理解するためには、違和感を探すことです。
あなたが理に従っているのであれば、違和感を覚えることはありません。
それは、理に従うということが、自分という状態であるということだからです。
あなたが自分という状態に対して、違和感を覚えることはありません。
自分という状態に反しているために、違和感を覚えているのです。
人が理に従えば、自分という状態になります。
すべての人が必要な役割を与えられているのです。
理に従うということは、与えられた役割を果たすということなのです。
そのため、理に従うことによって誰かと似るということはなく、寧(むし)ろ、個性が育まれるようになるのです。
理に反すれば、人は誰かと似てくるのです。
それは、自らの役割の放棄であるからです。
人は自らの心によって判断しなければなりません。
誰かの指示を期待するようではなりません。
これはあなたの人生なのです。
他者が正解を知っているはずがないのです。
人が理に反すれば、人生を手放します。
それは、苦しいことなのです。
多くの人は、自らの心によって判断してはいません。
多くの人は、無意識の内に誰かや何かに誘導(ゆうどう)されているのです。
そして、無意識の内に誰かを誘導しているのです。
しかしながら、多くの人は、自らが誘導されているということも、自らが誘導していることも知りません。
誰もが誘導されているにもかかわらず、自分で判断していると思い込んでいるのです。
多くの人は、他者や常識に誘導されます。
あなたは、尊敬する他者に従わず、自らの心によって判断した意見や選択を行うことができるでしょうか?
あなたは、多くの人が支持してる常識に従わず、別の道を進むことができますか?
残念ながら、多くの人は尊敬する他者や常識に従います。
それは、自分という役割を知らないからです。
ただし、これは自分勝手になれということではありません。
自らの役割を果たすことができなければ、誰かや何かに貢献することは不可能です。
それは、誰かや何かに従う生き方をしている人は、本当の意味では貢献することができないということです。
貢献することができない人が自分勝手な人なのです。
自分の役割を見失い、誘導されるままに人生を生きている人は、人生の経験を通じて自分を学ぶことができません。
自分が誰かや何かに誘導されているということを学ぶことはできますが、自分が何者であるのか?ということを学ぶことはできないのです。
あなたは自分を学ぶ必要があるのです。
そのためには、その判断をしているのは誰か?ということを考えなければならないのです。
あなたは自分で決めていますか?
誰かや何かは、常にあなたを誘導しています。
人生には、自分を見失うための仕掛けが存在しているのです。
それによって、多くの人は自分を見失います。
そして、誰かのようになるのです。
あなたは自らの心に尋(たず)ねなければなりません。
誰かや何かに尋ねてはなりません。
明確な答えは、自らの心が知っているのです。
あなたは何者ですか?
何のために生まれたのですか?
難しい質問ですが、それ等に答えるために生きることが有益でしょう。
多くの人は誘導され、決められています。
それは、人生の豊かな姿ではありません。
自らの心で判断し、自らの人生を生きるのです。
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