人生の目的とは何でしょうか?
	すべての人が人生に目的を持ちます。
	何を始めるにしても、そこには理由が存在します。
	理由こそが目的であるのです。
	人生を始めるにあたって、人は誰もが理由を持っているのです。
	理由もなく始まることはありません。
	あなたが覚えていないにしても、理由は存在しているのです。
	あなたは、現在行っていることを始めた理由を覚えていますか?
	どのような目的で、それを始めたのでしょうか?
	大抵のことの理由を忘れているのが現状です。
	人生は勝手に始まるのではありません。
	明確な理由に従って始まるのです。
	この世界には因果の仕組みが存在します。
	すべては、原因によって導かれる結果であるということです。
	人生という結果は、どのような原因によって導かれたのでしょうか?
	それは、人生における経験によって知ることができるのです。
	人生における様々な経験から得られるものは何でしょうか?
	それは、向上であり、成長であるのです。
	すべては成長のための経験であるということです。
	生きている者が成長を実現しないことは有り得ません。
	どのような生き方をしようとも、必ず成長が実現するようになっているのです。
	それが、忘れている目的であり、理由であるからです。
	どのような経験を通しても、結果的に人は成長することができます。
	人生の目的とは成長であるのです。
	それは、個人的な目的と、全体的な目的を持ちます。
	全体の中に生きる個人が、利己的に生きることはできません。
	全体が主体であり、個人が客体(きゃくたい)であるのです。
	個人は全体のために貢献することによって、豊かさを得ることができるのです。
	全体を蔑(ないがし)ろにすれば、個人は滅びます。
	汚染された湖の魚は全滅するのです。
	魚が豊かに暮らすためには、湖が美しくなければならないのです。
	あなたは個人的な目的と全体的な目的の両方を持ちます。
	あなたは個人でありながら、全体であるということなのです。
	そして、優先すべきは全体です。
	全体のために個人を扱うのです。
	多くの人は個人のために個人を扱います。
	それは、自我(我欲)の蔓延(まんえん)に貢献します。
	多くの人は自分勝手に生きているのが現状なのです。
	そこに悪意は無いにしても、無知と無意識の内に自我に従うのです。
	そして、それが”普通”とも、美徳ともなっているのです。
	自我による行為によって全体は滅びます。
	全体が滅びれば、個人は確実に滅びるのです。
	そのため、自我による行為は、全体の為にはならないということなのです。
	しかし、人は魂という名の純粋な意識を持ちます。
	これは心のように汚れることも、歪むこともありません。
	魂とは”神(高次)”と繋がる崇高な意識であるのです。
	これを扱うためには、無我の状態でなければならないのです。
	我欲によって、人は思うままに人生を描きます。
	意向というものは、自我に属しているのです。
	大切なのは任せることです。
	非我(ひが)によって生きることが重要なのです。
	思い通りにいかないことに不満や不安を持ち出す必要はないのです。
	”神”が映し出す映画の上に、自我によって他の映画を上映してはならないのです。
	二つの映画が重なり合えば、そこに何が映し出されているのかを理解することはできないのです。
	そのため、あなたは真っ白のスクリーンであることが求められます。
	それは、純粋であるということです。
	不満や不安に駆られて無理に求めなくても、必要は満たされるのです。
	あなたは”神”の見せる映画を楽しみながら理解すれば良いのです。
	人生の目的はそんなところにあるのです。
	自我によって人生を歪めてはならないでしょう。
	純粋な気持ちで、”神”の見せる人生を楽しみましょう。
	
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