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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2015年9月30日水曜日

真実の人生

あなたは辛抱強くなければなりません。
大切なのは忍耐を絶やさないことです。
それは、理解を得るためです。
人生の目的は成長にあります。
あなたはすべての分野において成長を求められています。
成長を実現するためにはやらなければならないことがあります。
それは、理解を深めることです。
理解を深めることなしに、成長を実現することはできません。
それは、物事の本質が深い部分に存在しているからです。
それは、決して表面には存在しません。
あなたの見るものすべてが幻想であり、誇張(こちょう)です。
すべての見た目は偽りであり、すべての行為は偽善であるのです。
そのことを理解する必要があるでしょう。
見た目や行為に騙されることなく本質を見詰める者だけに、真実が導かれるのです。
多くの人は表面的な部分を真実だと思い込みます。
自分が知っている、理解することができることを真実だと思い込んでいるのです。
しかし、あなたは何も知らずに生きています。
様々な物理原理を理解することなく、その恩恵を受けています。
人類の英知である様々な発明は、初めから存在していた物理原理を発見しただけに過ぎません。
それを侮(あなど)っている訳ではありませんが、当たり前に存在していることを後から発見しただけなのです。
それは、既にあなた(人類)が知らずに生きているということを証明しているのです。
当たり前としていることは、決して真実ではありません。
人(既に歪んでいる)が作るすべては幻想に過ぎません。
それは偽りであるのです。
あなたが信じているものは、そのすべてが幻想であり、偽りであるのです。
その本質を見極めることができなければ、取るに足らない問題に集中してしまい、大切なものを見失ってしまうのです。
辛抱強くなければ、物事の本質を見極めることはできません。
忍耐強くなければ、深くに進むことはできないのです。
本質を見極めることができなければ、騙されてしまうのです。
本質を見極めることができず、簡単に騙される者が成長を実現することなどできないのです。
目の前の”それ”が何であるのか?を知らなければ、必ず間違えるのです。
人生は何のために存在しているのですか?
何のために生きて、何のために死ぬのですか?
あなたは誰ですか?
あなたはこれ等の問いを常に持っていなければなりません。
これ等の問いを手放した者は、必ず騙されるのです。
見た目や行為に騙されることによって、いつまでも幻想を生きることになるのです。
目を覚まさなければなりません。
いつまでも偽りの世界に生きてはならないのです。
生存することに価値はありません。
生存を欲しているのは肉体であるのです。
それは、あなたではありません。
生存する方法を探すよりも、成長する方法を探しましょう。
生きることを求めているのはあなたの肉体であるのです。
忘れているかも知れませんが、あなた(精神)が求めているものは成長であるはずです。
生存するだけで幸福を覚える人はいません。
幸福とは心(精神)の満足によって初めて実現するからです。
心が満足することがなければ、決して幸福は実現しないのです。
生存に費やしている力を、この世界の理解や自身の成長のために用いることを覚えましょう。
真実(本質)に辿り着くことだけが、あなたの心を満たします。
自分が何者であり、何のために生きているのか?という問いに答えを得ること以上に幸福なことがあるでしょうか?
すべての人は、その答えを得るためにこの世界に存在しているのです。
財産や地位などの生存のために必要な方法が、人生の意味の答えを教えてはくれません。
そのような偽りをどれだけ追求しても、残念ながらあなたが幸福を得る可能性はないのです。
長らく偽りの常識の中に生きたあなたには、このことを簡単には理解することができません。
そのため、辛抱強くなければなりません。
知識欲を刺激しましょう。
忍耐を絶やすことなく理解を深めなければなりません。
理解が深まった時、あなたは真実の人生を始めることができるでしょう。

2015年9月29日火曜日

器と主人

あなたは、自分が”器”であるということを理解しましょう。
あなたは器です。
それは外部構造と内部構造を持ちます。
あなたは外と内を同時に所有します。
外は内を守るために存在し、内は外を守るために存在しています。
外と内とは一対の存在であり、どちらかを損なうことはできません。
あなたは常に外と内を同時に所有するのです。
器は、受ける必要があります。
それは、内部に貯蔵(ちょぞう)する能力を持つからです。
器は主人の注ぐものを受ける必要があるのです。
それが存在理由です。
主人は器に注ぎます。
器の形によって、注ぐものが変わります。
美しい器には美しいものを注ぎ、力強い器には力強いものを注ぎ、繊細な器には繊細なものを注ぎ、歪んだ器には歪んだものを注ぐのです。
主人は器のことを良く理解しています。
器の用途を理解しているために、それに相応しいものを注ぐのです。
あなたは”器”です。
主人とは、あなた以外の存在です。
あなた以外の存在は、あなたに相応しいものを注ぎ込みます。
それがどのようなものであろうとも、あなたはそれを受ける必要があります。
主人が注ぐものは素直に受ける必要があるのです。
主人が注ぐものが気に入らず、注いでいる最中から穴を開けてそれを垂れ流すのであれば、主人はその器の用途を変えます。
穴の空いた器には、より粗悪なものを注ぐのです。
あなたは自らの仕事を放棄してはなりません。
あなたは自らの形を持っているのです。
あなたの用途はあなたの主人が決めます。
あなたが決めるのではないのです。
目の前に導かれる状況こそが、主人の決定であるのです。
人生にどのようなことが起ころうとも、それはあなたに相応しい学びであるということを理解する必要があるのです。
多くの人は目の前の状況を受け入れません。
目の前の状況が気に入らず、それを拒絶するのです。
それでは仕事を遂行(すいこう)することはできないのです。
何を注ぎ込まれようとも、そこには意図が存在しています。
意図の無い用途は存在しません。
どのように思える用途であっても、そこには深い意味が存在しているのです。
器には、それを理解することができません。
しかし、注ぎ込まれるものを受け入れ、自らの用途を見届けるのであれば、それを理解することができるのです。
多くの人(器)は、主人の意図を見届ける前に勝手に結論を出し、勝手にそれを拒絶しているのです。
それは愚かなことです。
すべてには意味があります。
その意味を理解しなければ、人生が有意義なものになるはずがないのです。
意味を理解するのであれば、拒絶することなどなくなるのです。
注がれたものが何であろうとも、あなたはその意味を探りましょう。
あなたには思い付かないような意図が隠されています。
隠されている訳ではありませんが、あなたにとっては隠されているように見えるのです。
主人の意図を理解するのは簡単ではありません。
そのため、受け入れる姿勢というものが重要となるでしょう。
意図を理解するまでは受け入れるのです。
意図を理解した後で、どうするかを決めれば良いのです。
使える器でありましょう。
あなたが主人であれば、使い物にならない器をどうするでしょうか?
あなたの主人は、あなたに対して同じことをするでしょう。
自分にして欲しいことを、率先して他人に対してしなければなりません。
あなたは他人の主人でもあるのです。
主人がいつ注いでも良いように、器を磨いていましょう。
汚れた器は後回しにされるのです。
必要とされるのは綺麗な状態の器です。
これは、形状のことではありません。
いつの時にも、自分が器であるということを忘れてはなりません。
自分の主人が自分自身であるなどと考えてはなりません。

2015年9月28日月曜日

未来の土台

変化とは捨てることです。
変化するためには、古いものを手放さなければなりません。
古いものを手放すことをしなければ、新たなものを手にすることはできません。
新たなものを手にすることがなければ、変化を実現することはできないのです。
人は変化を実現しなければなりません。
いつまでも同じ状態にとどまっているのであれば、必ず行き詰まることになるのです。
変化こそがあなたを生かすのです。
変化することがなければ、あなたの可能性は潰(つい)え、やがては立ち行かなくなるのです。
変化を恐れてはなりません。
あなたは変化し続けなければなりません。
常に広く、高い場所を目指すのです。
多くの人は変化を恐れています。
それは、現状に慣れ親しんでいるからです。
多くの人が現状に執着し、変化を嫌います。
しかし、変化を受け入れることがなければ、可能性を失うことをどこかでは知っているために苦悩しているのです。
変化を受け入れることがなければ、あなたは後悔の念に縛られるでしょう。
ある種の安心感を得ることができますが、それは苦悩から逃れることができたという一瞬の安堵(あんど)であり、苦悩は再び訪(おとず)れるのです。
受け入れて変わることがなければ、何度でも同じ学びが導かれるのです。
大切なのは手放すことです。
残念ながら、古いものは役に立ちません。
あなたが大切にしているものは幻想に過ぎないのです。
昔のあなたにとって価値のあったものが、今でも同じように価値があるでしょうか?
残念ながら、そのようなことはないでしょう。
あなたは昔のようにそれを喜べなくなっているのです。
しかし、変化を恐れているために、喜べないものを必死で守るのです。
それが虚しい行為であるということを理解する必要があるのです。
多くの人は、所有している宝物を手放せば、今後、同じように価値のあるものが手に入らないと思い込んでいます。
しかし、現実においては、後に手に入るものの方が価値があるのです。
それは、現在よりも、後の方があなたが成長しているためです。
十代の頃よりも二十代の頃の方が、二十代の頃よりも三十代の頃の方が価値のあるものを手にすることができるのです。
成長することができていない、昔を懐かしむ者には理解することができません。
しかし、何のために時間が進み、経験が存在しているのか?ということを考えるのであれば、その意味を理解することもできるでしょう。
勇気を持って捨てるのです。
古いものをどれだけ大切に守っても、あなたが幸福を得ることなどできないのです。
世界は変化を求めています。
すべての過去は未来のための土台です。
過去は未来を支えるために存在しているのです。
過去の価値とは、未来を支えることにあるのです。
いつまでも同じ状態に拘(こだわ)っていてはなりません。
同じ状態に拘っている時間だけ”遅れる”のです。
それだけ可能性を失います。
幸福を求めているのであれば手放すのです。
新たなものの方が価値があるということを理解しましょう。
過去を懐かしむ時には、妄想(もうそう)によって思い出(記憶)を誇張(こちょう)しているのが現実です。
現在のあなたが過去と同じものを得るのであれば、そこに価値を見出すことはできないでしょう。
妄想を大切にしてはならないのです。
幻想を生きてはならないのです。
過去は未来の土台です。
土台を喜ぶことはできません。
あなたが現在見出している価値も、すぐに過去へと変わるのです。
使い物にならないものに執着してはなりません。
変化の時です。
変化を実現するために捨てましょう。
また、離れるもの、失うものを追ってはなりません。

2015年9月27日日曜日

原点

自分が何者であるのか?ということを知らなければ、人生は難しいでしょう。
どのような人にとっても、人生というものは苦悩に満ちています。
しかし、それは人生が苦悩を導いているのではありません。
人生がどう有るか?というのは、それを生きる人に任されているのです。
人生はあなたのものです。
それは、あなたの世界であるのです。
あなたと他人の人生が同じであるということはありません。
あなたは他人と違う人生を生きているのです。
それは、同じように見えて違う世界です。
それ等は交わっているように見えますが、交わることはないのです。
あなたは、自身の人生と他人の人生を別のものとして考えなければなりません。
他人が定める価値が、あなたの価値であるとは限りません。
あなたの定める価値が、他人の価値となるとは限らないのです。
どのような価値を見出すかは、その人生を生きる当人の力量に依存しているのです。
あなたは自分が何者であるのか?ということを知っていますか?
”あなた”とは何でしょうか?
”あなた”とは名前でしょうか?
”あなた”とは肉体でしょうか?
”あなた”とは性格でしょうか?
”あなた”とは立場でしょうか?
あなたは”あなた”を何だと思いますか?
そのことを知らない限りは、人生は難しいのです。
自分が何者であるのかも知らずに、必要を満たすことなどできないのです。
精密機器に水を与えればどうなりますか?
精密機器は立ち所に機能を停止してしまいます。
その精密機器にとって、水は”毒”であるのです。
自分が何者であるのか?ということを知らなければ、”毒”を飲むようなものであるのです。
それでは、問題が生じ続けることは容易に予想することができるでしょう。
あなたは何者ですか?
人間ですか?
肉体ですか?
脳神経ですか?
心臓ですか?
あなたの両親は、あなたの”親”なのでしょうか?
”あなた”を生んだのは、あなたの知っている両親ですか?
両親は、”あなた”の肉体を作り出すことには成功しました。
しかし、それは屍(しかばね)を作り出したに過ぎません。
肉体が肉体以上の存在を生み出すことはできないのです。
すべてが遺伝子情報によって決まると思いますか?
それは、肉体の所有する情報です。
ある人が自らの容姿を嫌悪するのはなぜですか?
ある人が生まれ持った性別とは別の性を自らに欲するのはなぜですか?
ある人が生存本能に反して、自ら死を求めるのはなぜですか?
ある人が肉体の欲求を満たしているのに、それだけでは決して幸福になれないのはなぜですか?
”あなた”が肉体であるのならば、そのような行為には説明がつかないのです。
ただ生存するだけで幸福であるはずなのです。
しかし、あなたはそれに満足することができません。
自分が何者であるのか?という問いに答えを導くためには、原点に立ち返らなければなりません。
始まりを知らなければ、自分自身であっても、その他の何事に対しても理解することはできないのです。
あなたは歴史を遡(さかのぼ)りましょう。
どのようなことに関しても、そのようにしなければなりません。
疑問を持つのです。
「それは何か?」
単純な問いです。
この問いに答えることなくして、すべては難しいでしょう。

2015年9月26日土曜日

研磨の業

あなたは種から育てなければなりません。
大切なのは理解を深めることです。
それ以上に大切なことはないのです。
しかし、多くの人が理解を深める大切さを忘れています。
今日の人間社会は合理主義がまかり通り、多くの人が効率を求めています。
しかし、人間の考える合理とは、真理のことではありません。
そのため、人間が効率を求めることによって、非合理の状態が導かれるのです。
人間は無知です。
未熟であり、簡単に間違えてしまいます。
知恵を付けたと思い込んでいますが、寧(むし)ろ反対です。
人間は知恵を失ってしまいました。
それは結果を見れば明らかです。
人間は多くの犠牲を生み出しながら、砂上の楼閣(ろうかく)に満悦しているのです。
どれだけ多くの犠牲を払っても、砂上であっては意味を成しません。
あなたはそれを理解する必要があるのです。
人間の考える合理とは、人間の知性が到達する範囲の理論の集成です。
人間がどれだけ真理に到達しているでしょうか?
人間は多くの原理を発見してきましたが、それは全体の内のどのくらいでしょうか?
あなたは人間が賢者であると思いますか?
人間がこの世界をどれだけ理解しているのでしょうか?
多くの人は合理主義の中に効率を求めています。
それは、手間を嫌い、楽を求める怠慢(たいまん)を導きました。
多く人の心には、怠慢が蔓延(まんえん)しているのです。
それは、人々の間から研磨の業(わざ)を失わせる結果となったのです。
多くの人が磨くことを知りません。
楽を求める中で、自ら磨くことをしなくなったのです。
種から育てることは重要です。
それは、とても手間の掛かる作業です。
そして、必ずしも上手くいくとは限りません。
種から育てることは、多くの問題を引き起こします。
それは、あなたに苦悩を導くのです。
しかし、あなたは種から育てなければなりません。
途中から育てるのであれば、何の理解も得られないでしょう。
種から育てることに価値があるのです。
自然界は、種から育てます。
人間も、初めは”種”であったのです。
すべての存在が小さな種であったのです。
その積み重ねこそが、大きな物体を出現させるのです。
種を磨くことによって、それは根を伸ばします。
根を磨くことによって、それは芽を出します。
芽を磨くことによって、枝が育ちます。
枝を磨くことによって、花が咲きます。
花を磨くことによって、果実が実ります。
果実を磨くことによって、種が生まれるのです。
あなたは何のためにそれをやっているのですか?
お金を稼ぐためですか?
名声を高めるためですか?
多くの財産を手に入れるためですか?
人生とは何でしょうか?
あなたは何のために生きているのでしょうか?
種から育てなければなりません。
それを磨かなければなりません。
あなたの心は磨かれているでしょうか?
魂は輝きを失ってはいないでしょうか?
瞳には光が宿っているでしょうか?
人間の考える合理主義に騙されてはなりません。
この体系から抜け出すのです。
自然と共に有りましょう。

2015年9月25日金曜日

小さな力

小さな力を侮(あなど)ってはなりません。
あなたは大きな力ばかりに注目していることでしょう。
しかし、小さな力ほど重要なものはないのです。
多くの人は派手を好みます。
大きなことばかりに気を取られて、小さな地味を嫌うのです。
何かが一夜にして実現するなどと思っているのですか?
すべては小さく地味なことの積み重ねでしかないのです。
突如として、大きな変化が起きることはありません。
すべてには因果の仕組みが存在し、大きな変化を支える無数の小さな変化が存在しているのです。
他人を羨(うらや)ましく思う人は、その過程を理解しません。
他人がそのような状態を得ているのは、それに相応しい原因が存在するのです。
それを見ないで、結果ばかりに羨望(せんぼう)するのは浅はかであると言う他ないのです。
小さな力を認識している人は多くはいません。
多くの人は小さな力を認識してはいないのです。
宇宙を眺めた時に、恒星(こうせい)や惑星ばかりに気を取られるのです。
しかし、そればかりが存在しているのではないのです。
何も無いように見える空間に何も無ければ、星々が存在することなどできないのです。
星々は派手です。
しかし、それ等を支えているのは何も無いように見える空間に存在する小さな物体であるのです。
海水の中には、多くの生物が存在しています。
空気中にも、多くの微生物が存在しているのです。
しかし、あなたにはそれを認識することは難しいのです。
認識することは難しいでしょうが、存在しているのです。
小さな力を侮ってるのであれば、あなたの肉体が存在することはできません。
あなたの体内には抗体(こうたい)という免疫体(めんえいきたい)が存在しています。
抗体の力がなければ、あなたは生命すら存続することはできないのです。
そのような事実があるにもかかわらず、多くの人は小さな力を侮ります。
大きく派手な力を良いものとして求めるのです。
小さな力の積み重ねという原因が存在しなければ、大きな力という結果は導かれません。
小さな力を侮って軽んじている者は”奇跡”というものを信じているのです。
”奇跡”とは、有り得ない状態のことです。
原因が存在しない結果を”奇跡”と呼ぶのであれば、それが実現することはありません。
原因が存在しない結果など、有り得ないのです。
そのため、奇跡と呼ばれる事象には、列記とした原因(事実)が存在しているのです。
すべてが因果の仕組みの中に存在しています。
小さな力を侮ってはなりません。
すべては小さな力の積み重ねです。
地味な作業を軽んじてはなりません。
日々の習慣を軽んじて、特別な一日に目を奪われてはなりません。
あなたにとって大切なのは特別な一日ではありません。
夫婦にとって大切にしなければならないのは、結婚式などではないのです。
あなたが大切にしなければならないのは、何の変哲もない日々であるのです。
重力とは小さな力です。
あなたはそれに軽々と打ち勝つことができます。
あなたは重力に逆らい立ち上がることができますし、飛び跳ねることもできるのです。
重力の力を受けながら、あなたは自由に行動することができるのです。
あなたは普段、重力を気にすることもなく生活することができるでしょう。
それほど、重力とは弱い力なのです。
しかし、あなたは重力に勝ることはありません。
重力は小さな力を継続することによって、あなたを大地に引き付けるのです。
あなたが重力を超越することができるのは短い時間だけです。
小さな重力に一瞬だけ勝ることができますが、結局は負けるのです。
それは、小さな力が強いということを意味しているのです。
重力は休むことなく、あなたに働き掛けています。
そのおかげで、あなたは大地に生きることができるのです。
小さく地味な力を侮ってはなりません。
最後に勝るのは、小さな力であるのです。
覚えておきましょう。

2015年9月24日木曜日

生きる意味

あなたはそれでも生きていなければなりません。
人生の意味を知りたければ、何があろうとも生きることです。
生きることには価値があります。
あなたは天寿を全うしなければなりません。
この世界(唯物世界)で生きることは簡単なことではありません。
それは、あなたの本質が魂という意識体であり、それが肉体をまとっている状態であるからです。
あなたは魂ではありますが、肉体をまとっているために、肉体を操作する必要があります。
この世界においては、肉体を無視して何事も成し遂げることはできません。
魂の意思は、そのすべてが肉体を通じて実現します。
意識を物質化するためには、肉体の手助けが必要であるのです。
この世界は、非常に荒い波動の渦のような場所です。
肉体をまとったあなたは、嵐の海原に浮かぶ小舟のようなものです。
あなたは様々なことに翻弄(ほんろう)され、自由を失います。
あなたは、肉体を以て存在しているだけでしんどいのです。
肉体を維持するだけでエネルギーが削られていきます。
思考や感情を所有するだけでエネルギーが必要なのです。
この世界は、魂であるあなたには重たい世界であるのです。
生きることは大変なことです。
それは、苦悩との出会いです。
すべての人は苦悩を抱え、生きることは辛いのです。
それは、重りを背負って歩んでいるようなものであり、それを幸福と呼ぶ者は少ないのです。
それは、多くの人が人生の意味を理解してはいないからです。
この世界の”抵抗”を無駄なものだと思っているのです。
どのようなことがあろうとも、あなたは生きていなければなりません。
どのように辛く苦しい目に会おうとも、明日を生きる必要があるのです。
天寿を全うするまでは、生きる必要があります。
それは、人生が経験を積む場所であるからです。
必要な経験を積むことによって、あなたは汚れを去り、成長を実現することができるのです。
多くの人は意味を理解することができないために、そこから逃げ出します。
自殺することは選択肢としては間違っていません。
人は自殺することも、殺人することも許されているのです。
それ等の選択が”悪”であるとは言いません。
自殺したい者はそうすれば良いですし、殺人をしたい者はそうすれば良いのです。
しかし、誰にとっても生きることには大切な意味があるのです。
生きることは、生命維持などというつまらないものではありません。
どのような人も、生きることによって様々な経験と気付きを得ることができるのです。
あなたは、生きることの意味を噛み締めながら、毎日を懸命に生きなければなりません。
人生には様々な側面が存在し、それ等はあなたに苦悩を導きます。
しかし、それ等のすべてに大切な意味があり、重要な学びであるのです。
生きることによってのみ、人はその意味を理解することができるのです。
様々な経験を重ねることによって、人は理解力を深めることができます。
経験不足は理解力の低下に繋がり、人生の意味を知ることはできません。
そのような人は生きていることに意味が見出せず、辛く苦しい日々を過ごしていることでしょう。
どのような人生を得ようとも、その意味を見出す必要があります。
無駄はものは何一つとして存在しません。
あなたは自分が魂であり、意識体であるということを理解しましょう。
そうすれば、この重たい世界において、それを楽しむことができるでしょう。
あなたは生きている(生活している)だけでくたびれます。
それは、重たい肉体を軽い魂が動かしているからです。
それは、念力で物体を動かすのと同じことなのです。
それがどれだけ大変なことであるかを理解することができるでしょう。
嵐の中で小舟を漕(こ)ぎ進めることはくたびれるのです。
どのようなことがあろうとも、あなたは生きていましょう。
面白ことが何一つ無かろうとも、それでも生きていくのです。
生きていれば、いつかは意味を理解することができるからです。
今のあなたには理解することができないことであろうとも、後のあなたには理解することができます。
見解の違いは、経験の違いでしかないのです。
人生は見解によって自由に変化するのです。
生きていなければそのことにも気が付きません。
生きることには意味があります。
人生には意味があるのです。
あなたはそれでも生きていなければなりません。

2015年9月23日水曜日

希望とは反対のもの

”わたし”はあなたに成長を導きます。
そのために奪い、与えます。
あなたは失い、そして、得るでしょう。
それは、成長への導きです。
すべては成長のために必要であるということを理解するべきです。
何が起ころうとも、それがあなたにとっての必要です。
それを否定を以て受けてはなりません。
飲み込む必要があるのです。
薬を飲み込まなければ、病を治療することは叶いません。
薬は口に苦(にが)いものではありますが、腹には甘いのです。
多くの人は苦い薬よりも、病を欲しています。
苦い薬を飲むよりも、病に苦しむ方が良いと本気で思っているのです。
そのため、目の前の苦悩を受け入れることをしません。
あなたは苦悩から逃れようと努めるでしょう。
それを受け入れることをしないのです。
”わたし”はあなたに”反対”を与えます。
あなたの希望(のぞみ)を退け、苦悩を導くのです。
人生は、あなたの思惑とは反対の状態となるのです。
それは、”わたし”がそうするからです。
あなたはそれを受け入れなければなりません。
あなたは希望とは反対の状況を受けるでしょう。
しかし、それは成長のためなのです。
あなたを苦しめるために反対を導くのではありません。
親心は、子に厳しさを導きます。
子を甘やかすのは、親の自我による産物です。
それは、時に子を殺します。
苦い薬を拒絶する子どもに、それを飲ませるのは親心であるのです。
苦い薬を飲ませないのは、自我による行為であるのです。
”わたし”はあなたに苦悩を導きます。
それは、苦い薬です。
あなたはそれによって苦しむでしょう。
”わたし”はあなたを(一時的に)苦しめるのです。
あなたはそれを恨(うら)むでしょうか?
後になってどう思うか?ということを考えなければなりません。
その時のことばかりを考えているのであれば、あなたは選択を間違えて後悔することになります。
人生が思い通りに進まないことは良いことです。
あなたは自我によって選択します。
自我によって選択された状況が、あなたに成長を導くのでしょうか?
”わたし”はそれが浅はかな選択であるということを知っています。
そのため、あなたには良いものとして、その反対を導くのです。
自我とは小さな見解です。
それは、本質には届きません。
結果がどのようなものであろうとも、あなたはそれを受け入れなければなりません。
なぜなら、それはすべて”わたし”の監督のもと導かれる最善であるからです。
自我に捉われる者は最善を否定します。
そのため、病に苦しむことになるのです。
口に苦く、腹には甘い良薬を選ぶのか?
口には甘く、腹には苦い病を選ぶのか?はあなた次第です。
しかし、あなたの病が治療されるように、”わたし”は最善を尽くしています。
これを信じる人は、人生が思い通りに進まなくても心配する必要がないことを伝えておきます。
思い通りに進まないのであれば、あなたは薬を与えられているということだからです。
”わたし”があなたに最善を導きます。
あなたは自分か”わたし”のどちらかを選びましょう。
好きにして構いません。
しかし、”わたし”はあなたに希望とは反対を与えます。
”わたし”があなたの希望を叶えることはありません。
そのことは覚えておきましょう。
その上で、どうするのか?を決めましょう。

2015年9月22日火曜日

自らの目的

他人の目的のために、自らの目的を犠牲にするのであれば、あなたは苦悩を受けることになります。
大切なのは自らの目的を果たすことです。
人生には果たさなければならない目的が存在しています。
それは、日常の中の小さなものから、生涯を通じての大きなものまであります。
例え、小さな目的であろうとも、それを蔑(ないがし)ろにするのであれば、後悔という形によって苦悩を受けることになるのです。
小さな目的の積み重ねが、大きな目的を達するための条件です。
そのため、自らの目的を犠牲にしてはならないのです。
それぞれに人生が存在します。
それぞれの人が、自らの目的を所有しています。
それぞれがその目的を実現する必要があるのです。
他人の目的のために、自らの目的を犠牲にするのであれば、それを実現させることはできないのです。
冷たく聞こえるかも知れませんが、仕方なのないことなのです。
それぞれに学びがあるのです。
他人を手伝うことは素晴らしいことです。
しかし、それは他人の自力を奪うことにもなるのです。
他人の目的が破綻(はたん)した時、他人はそれを手伝った人の責任へと転嫁することもできるのです。
それは、目的を達成することへの本来の目的を見失うことになるのです。
本来の目的は成長です。
人は成長するためにこの世界に存在しているのです。
罪を犯せば、それに相応しい罰を受ける必要があります。
罰を受けることがなければ、罪に対する理解は深まりません。
罪を理解することがなければ、再び同じことを繰り返すのです。
再び罪を犯せば、再び罰が与えられます。
その繰り返しです。
人は罰を受けることによって、より良い方法を学んでいくのです。
自らの目的を果たすことができなければ、罰を受けることになります。
それは、自らの目的は責任であるからです。
責任を果たさないことは罪です。
それは、罰を導くのです。
他人の目的のために、自らの目的を犠牲にするのであれば、罪を犯すことになり、それに相応しい罰を受ける必要があるのです。
言い訳は通用しません。
人生は結果がすべてです。
”ある”か”ない”かのどちらかでしかないのです。
因果の仕組みとはそのようにはっきりとしているものなのです。
あなたは良く考えなければなりません。
”良い人”を選択することは素晴らしいことです。
人は他人と協力しなければなりません。
奉仕する必要もあります。
しかし、それは自らの目的を果たすための手段であるということを理解する必要があるのです。
自らの目的を果たすために他人と協力し、他人に奉仕しなければならないということです。
この世界には、対価の法則というものも存在しています。
すべては対等に扱われるのです。
そのため、あまり難しく考える必要はありません。
しかし、他人を助けるのは、自らを助けるためであるということは覚えておかなければならないのです。
あなたは自らの目的を果たさなければなりません。
自らの目的も果たすことができないのに、どうして他人を助けることができるでしょうか?
すべての行為は自らの目的を果たすためのものです。
綺麗事では果たせません。
どれだけ理想論を振り翳(かざ)しても、後悔は導かれるのです。
自らの目的を果たす必要があるのです。
自らの目的の達成を優先した選択をしましょう。
それは利己的な考えではありません。
責任を果たさないことが利己的であるのです。
そのことを覚えておかなければなりません。
自らの目的を主体として、他人への協力に努めましょう。
目的を果たすのです。

2015年9月21日月曜日

治療

人生とは、魂の治療室です。
それは、魂に蓄えられた汚れを浄化します。
人生におけるすべての経験は、魂を浄化する働きを担っているのです。
すべての経験が、魂を浄化するのに役立っています。
この世界には、無駄は存在しません。
もちろん、無駄な経験など存在しないのです。
あなたはそのことを理解する必要があります。
そのように理解することがなければ、魂を治療しているにもかかわらず、それを拒んでしまうからです。
意図を理解することがなければ、良いことも災いとなります。
大切なのは理解力を養うことです。
無知は状態を悪化させるのです。
病気を得れば、その状態に気が付かなければなりません。
そして、それに相応しい治療に励む必要があるのです。
そうでなければ、病気によって蝕(むしば)まれた肉体と精神は、深い苦悩の中に沈むことになるからです。
人が生まれるのは、魂の治療のためです。
魂の汚れを浄化し、成長するためであるのです。
治療のためには、様々な治療法を用いる必要があります。
それは、時として皮膚を裂くことであるかも知れません。
治療には痛みが伴います。
痛みも無く、病気が完治することはありません。
そのため、あなたは人生において痛みを伴うネガティブな経験を受けることになります。
人生には苦悩が付き物です。
それを拒絶することはできません。
どのような人にとっても、苦悩を受ける経験を受ける必要があるのです。
それはあなたを苦しめるための経験ではありません。
すべてはあなたの魂を浄化するためであるのです。
魂の浄化は簡単な作業ではありません。
例えば、それは内臓を抉(えぐ)るような作業なのです。
腹を裂くことを受け入れなければ、あなたの病気は完治しません。
それを拒み続けるのであれば、腹の中で病気は悪化し、より強い苦悩を受けることになるのです。
大切なのは目の前の状況が、自らの病気によって引き起こされているということを理解することです。
病気という原因が存在するために、治療という結果が導かれるのです。
あなたの経験は、すべてがあなたの所有する原因によって導かれる当然の結果であるのです。
そのことを理解しなければならないのです。
多くの人は、因果の仕組みを否定します。
目の前の状況を自らが作り出したことを知らないのです。
自らが受け入れなければ、病気は病気とはなりません。
しかし、それを病気と認めなくても、すでに問題は生じているのです。
認めることがなければ、治療に取り掛かることはできないのです。
それは問題の悪化を招き、人生の目的を果たすことを遅らせます。
すべての人は、既に汚れを所有しています。
あなたは認めなければなりません。
そして、それを治療することに励まなければならないのです。
すべてを自らに結び付けましょう。
すべてが自己責任であるということを認めるのです。
すべての経験は、あなたにとって必要なものであるということ。
すべての経験は、魂を治療するための行為であるということを理解する必要があるのです。
それがどのように映る経験であったとしても、それはあなたの魂のためになっているのです。
多くの人は苦悩から逃れようとしますが、その時に深く考える必要があります。
苦悩とは魂の汚れの現れであり、それを拒絶しているのであれば、汚れが取り除かれるということはないのです。
人生の目的は魂の治療であり、成長です。
そのためには、苦悩に向き合う必要もあるということを覚えておきましょう。
人生が何のためにあるのか?ということを考えなければなりません。

2015年9月20日日曜日

異世界

この世界には、人の数だけ世界が存在しています。
すべての人が自らの世界を所有しているのです。
あなたの生きる世界と、他人の生きる世界は違います。
しかし、多くの人はそれを同じものであると考えています。
それは、誤解であるということを理解する必要があるのです。
なぜなら、あなたの生きる世界と、他人の生きる世界は違うものであるからです。
それは同じ時空間に存在しているように見えますが、薄い膜のようなもので隔たっています。
互いに垣間見(かいまみ)ることはできますが、それに触れることはできません。
あなたは他人を変えることはできません。
他人もあなたを変えることはできないのです。
すべての人が別の世界に生きているために、あなたの干渉は意味をなさないのです。
人がそれぞれの世界を生きているということを理解しましょう。
あなたはそれを理解した上で選択しなければ、誤った結果(苦悩)を導くことになるでしょう。
すべてを一緒くたに考えてはなりません。
主義主張が異なれば、あなたは世界観に隔たりを感じるでしょう。
簡単に言えば、それが世界の違いです。
主義主張が異なれば、あなたと他人が相見(あいまみ)えるということはないのです。
同じ時空間に生きているように見えても、接点は存在しないのです。
”すべては一つ”という原則は変わりませんが、違いを受け入れた状態によって一つであるということを理解しましょう。
それは、異なる性格、容姿、学び(運命)の人々が同じ地球という惑星で、同じ地球人として生きているのと同じことです。
違いが存在するのは自然であるのです。
あなたは自分と他人の世界が違うものであるということを受け入れなければなりません。
親子であろうとも、生きる世界は違うのです。
多くの人は宗教、人種、国、主義、血筋・・・
このようなものによって、世界を分別します。
共通点を見出すことによって、自分と他人が同じ世界に生きているのだと信じたいのです。
それは、人の心の中に弱さが存在しているからです。
人は孤独を恐れます。
人は静寂を恐れます。
人は違いを恐れるのです。
しかし、本来あなたは一人で生きているのです。
あなたはあなた独自の世界の中に、孤独と静寂を抱えて生きているのです。
違いを恐れてはならないのです。
それぞれの世界を認めるのです。
そのようにしなければ、あなたが本来の世界に生きることが難しくなってしまうのです。
あなたは一人で、静かに、他人とは違う世界を生きているのです。
他人との共存を求め、騒がしい同一世界を生きようと試みるのであれば、あなたが本来持っている世界を否定することになるのです。
あなたの人生の目的は何ですか?
あなたは何のために生きているのでしょうか?
自分自身が持つ人生の目的を見失ってはなりません。
それぞれの世界が存在するということは、それぞれの目的が違うということなのです。
あなたの目的と、他人の目的は違います。
親子であろうとも違うのです。
あなたは自らの世界を生きましょう。
しかし、自らの世界を生きるだけでは必ず不足に陥ります。
不足に陥らないためには、他人の世界から必要なものを得るのです。
存在しないものは与えてもらう以外に方法はないのです。
その土地にない植物は、他の土地から与えてもらうのです。
あなたの世界に存在しないものは、他人の世界から受けるのです。
それは、時空間を超える作業です。
あなたは常に、謙虚に学ぶ姿勢を忘れてはなりません。
学ぶ姿勢は、世界を隔てる薄い膜のようなものに圧力をかけます。
その気持ちが強いほどに力は一点に集中し、薄い膜のようなものに穴を開けるのです。
その穴は小さなものでありますが、そこから”種”を受けることができるのです。
その”種”を育てることによって、あなたの世界に新たな植物が誕生するのです。
その繰り返しによって、あなたの世界は豊かに繁栄することができるのです。
あなたは他人の世界に存在している”種”を集めなければなりません。
自分の世界にはないものを学ぶのです。
それは違いによって実現します。
そのため、違いを恐れてはならないのです。
すべてが大切なことだと受け入れましょう。
自分と他人の世界を区別しましょう。
あなたはそのどちらも尊重しなければなりません。

2015年9月19日土曜日

本当の必要

世界は、成長のためだけに存在しています。
世界の目的はあなたの成長です。
世界は、あなたを成長させるためだけに存在しているのです。
それ以外の目的を以て存在することはありません。
世界は、あなたの成長のことだけを求めているのです。
あなたはそれを理解する必要があります。
世界があなたに成長を求め、それに必要なことのみを導いているということを理解することがなければ、あなたが正しい選択を実現することはできないからです。
あなたは成長を求められています。
すべては成長のための工程であるのです。
それ以外のことではありません。
あなたを苦しめるために導かれるものなど存在しないのです。
それがどのようなものに見えようとも、成長のために必要な工程であるということを理解しなければなりません。
すべてが成長のために導かれるということを理解しなければ、歪んだ価値観によって間違った解釈を生み出し、苦悩を導く選択を実行するのです。
あなたが苦悩を求めていないのであれば、そのような選択は避けるべきです。
あなたには強烈な固定観念が存在しているために、簡単には受け入れることができないでしょうが、すべてが成長のために導かれ、そこに無駄など存在しないということを受け入れる必要があるのです。
そのようにしなければ、人生の意味や意義を見出すことはできません。
そのような時間が充実することなど有り得ないのです。
充実した時間にこそ、幸福が導かれるのです。
多くの人はすべてが自らの成長のために導かれるということを受け入れることができません。
目の前の状況を、自らの大切な宝(経験)であるということに気が付かないのです。
そのため、苦悩を覚え、それを拒絶するのです。
幸福を求めているのであれば、それは間違った対応であるのです。
すべてがあなたの成長のために導かれる大切な状況です。
このことを理解しなければなりません。
多くの人は欲求に仕えています。
自我に仕えることで導かれる欲求によって、人生を豊かに築こうとしているのです。
しかし、それはこの世界を知らないやり方であると言えるでしょう。
”あなた”が求めるものが、本当に成長を助長すると思いますか?
あなたは成長する方法を知っているのですか?
それを知っているというのであれば、成長は実現しません。
成長を求める者が「知っている」と現状に満足することや、決め付けで語ることなど有り得ないからです。
あなたは知らないのです。
そのため、あなたよりも優れた立場の存在が教える必要があるのです。
それを何と呼んでも構いません。
人はそれを”神”、仏、魂、真理、宇宙人、宇宙法則、天使、守護霊、天才・・・
様々な呼び名で認識しています。
大切なのは区別ではありません。
大切なのは、そのような作用が実際に存在しているということを理解することなのです。
あなたには必要が導かれます。
あなたが求めようが、求めまいが、必要は確実に導かれるのです。
それは、この世界があなたに相応しい工程を導くからです。
世界はあなたを見守っています。
あなたの状態を見て、それに相応しい経験を導くのです。
選(え)り好みによって経験を選別するのであれば、あなたが成長することなど有り得ないのです。
好物ばかりを食しているのであれば、健康を損なうのです。
あなたの好み(欲求)が肉体の健康を実現するのではないのです。
肉体が必要としているものを理解しなければ、健康という結果(状態)は実現しないのです。
世界があなたに求めるものと、あなたが自ら求めるものは違います。
そのために、人は人生に苦悩を覚えるのです。
あなたにとっての必要は、残念ながらあなたの認識では理解することはできません。
あなたにとって本当に必要な状況は、世界によってのみ導かれます。
世界に無駄は存在しません。
すべてがあなたに相応しい工程です。
もちろん、それをすべて受け入れろと強制しているのではありません。
あなたの自我はそれを拒絶するはずです。
無理を強いるつもりはないのです。
しかし、あなたにはそのような可能性があるということは受け入れる必要があるのです。
欲求を捨て去り、あなたにとっての本当の必要を受け取る生き方を目指しましょう。

2015年9月18日金曜日

知恵の樹

無知を埋めることによって、あなたは成長を実現することができるでしょう。
人が成長するためには、知恵を増す必要があります。
知恵の高まりを以て、成長と言えるのです。
無知が知恵を阻みます。
無知を許しているのであれば、知恵が高まることはありません。
知恵が高まらなければ、成長が実現することはないのです。
無知を埋める必要があるのです。
すべての人が成長を実現するために存在しています。
誰もが成長を求めているのです。
しかし、その目的は無知によって覆い隠されます。
無知は、あなたの本来の目的を見失わせてしまうのです。
無知を許すのであれば、本来の目的を知らずに生きることになるということを理解する必要があるのです。
目的を失った瞬間に、あなたは停滞することになります。
目的が存在するために、あなたは位置を変えることができるのです。
前進することも後進することも、目的が存在するために実現する変化であるのです。
目的を持たなければ、その場から動くことはできないのです。
そのことを理解しなければなりません。
多くの人が自分は”生きている”と思っています。
時間は流れ、老化を体験しているために”生きている”と思うのです。
体感として、それで正しいのです。
肉体は”生きている”のです。
それは、肉体的な変化であり、精神的な変化ではありません。
年齢を重ねようとも、あなたが移動することができるとは限りません。
年齢を重ねようとも、同じ場所にとどまり続ける人がいるのです。
肉体は移動しますが、精神は移動しません。
肉体の目的は、老化(成長)することです。
しかし、精神の目的は違うのです。
肉体は滅びるために生きているのです。
それは破滅的な性質です。
精神は、新たに生まれるために生きているのです。
それは建設的な性質なのです。
肉体は陰であり、精神は陽です。
その二つの相反する性質が合わさった状態が”あなた”なのです。
肉体と精神の性質を混同してはなりません。
肉体は死に向かい、精神は生に向かうのです。
目的が違う両者を混同しては、目的を実現することなどできるはずがないのです。
多くの人は無知によって、目的を見失っています。
現状としては、肉体を生かそうとし、精神を殺そうとしているのです。
そこには苦悩が導かれます。
間違った方法を用いれば、上手くいかないのは当然なのです。
無知を埋めなければなりません。
どのようなことでも構いません。
新たな情報を手に入れ、知恵を付けるのです。
新たな情報は知識の化学反応を引き起こし、既存の情報と結び付きます。
それは、”気付き”をもたらし、新たな情報として内に存在が許されるのです。
情報は累乗的(るいじょうてき)に膨れ上がります。
樹木の枝が累乗(もしくはそれ以上)に豊かに茂るように、情報は”知恵の樹”として精神を豊かに支えるのです。
無知とは、知恵の樹(もしくはその枝葉)が乏しい状態にあります。
樹木の周囲には、多くの生命が導かれます。
知恵の樹の周囲には、多くの幸福が導かれるのです。
荒野には、樹木が少ないために生命が少ないのです。
あなたは知恵の樹を豊かに育まなければなりません。
無知を埋めることによって、あなたは成長を実現することができます。
どのようなことでも構いません。
新たな情報を手に入れ、知恵の樹を育みましょう。
それが目的を果たすことに繋がるのです。
それは、あなたに幸福をもたらします。
本当の幸福とは、知恵の樹によってのみ導かれる至高の果実であるということを理解しましょう。

2015年9月17日木曜日

擬似

すべての本質は隠されます。
表面的に現れ出るものは、その本質を隠す役割を担います。
この世界においては、表面的に対象を捉えてはならないのです。
その本質は必ず隠されており、それが表立つことはないのです。
見た目に注目する余り、その本質を見過ごしてはならないのです。
本質を見極めることができなければ、正しい判断を下すことができません。
正しい判断は、正しい結果を導きます。
正しい判断を下すことができなければ、それは様々な問題を引き起こし、苦悩を得ることになるのです。
あなたは表面的な情報に惑わされてはなりません。
あなたが魚を得ようと考える時、魚を騙す手段を考えます。
魚を得るために罠を仕掛けるのです。
魚の好物に針を忍ばせ、食い付いたところで引き上げるのです。
釣られた魚はその本質に気が付きません。
目の前に浮遊する好物の本質は、人間によって仕掛けられた罠であり、その意図であるのです。
この本質に気が付かなければ、問題と苦悩を得ることになるのです。
あなたは見極められますか?
それが何者かが用意した餌であるか?
それとも、安全な食物であるのか?
これは、あなたの人生なのです。
あなたは自らの意思によって決めなければなりません。
魚は食べなければ生きていけません。
魚は、食べることを義務付けられているのです。
そのため、見極めることが重要となります。
あなたは選択することを義務付けられています。
目の前に存在する幾つかの選択肢の中から、必ず一つは選ばなければならないのです。
表面的な部分に惑わされる者は、餌と気が付かずにそれに喰らい付くでしょう。
本質的な部分を見極める者は、安全な好物に有り付くことができるのです。
僅(わず)かな選択の違いが、大きく結果を分けるのでしょう。
注意深く見れば、それが餌であるのか?好物であるのか?ということが分かります。
しかし、それは区別が付かないほど精巧に似せています。
そのため、注意深く見なければならないのです。
派手な見た目に騙されてはなりません。
人は魚を得るために、疑似餌を用います。
この世界には罠が溢れているのです。
表面的な部分と本質的な部分では大きな違いがあるのです。
裏の意図(本質)が大きほど、見た目は派手に装います。
多くの人はそれに翻弄(ほんろう)されます。
そして、その本質に気が付かないのです。
ボクサーが拳を相手に当てるためには、裏をかく必要があります。
拳を相手に当てるという目的を果たすためには、相手を出し抜かなければならないのです。
当てたい拳とは違う拳や身体の動きを牽制(けんせい)に使い、陽動(ようどう)を仕掛けるのです。
表面的な情報に惑わされる者は、その陽動に計画通りに乗せられます。
そして、本来の目的である拳を受けることになるのです。
表面的な部分は目立つために、それに注目しがちですが、それに惑わされてはなりません。
目立つものは、本質的な目的ではないのです。
そのため、いつも裏の動きに注目しましょう。
態(わざ)とらしく不自然な陽動に惑わされてはなりません。
目立つものの裏で何が行われているのか?ということを見極めましょう。
本質は常に隠されます。
本来の意図は見えない部分に存在しているのです。
見た目に騙されてはなりません。
浅薄(せんぱく)な者は捕らわれます。
そのことを心に留めておきましょう。
隠された本質を見極めましょう。

2015年9月16日水曜日

集合意識

すべての人は、集合意識と共に存在しています。
どのような人も独立して存在しているのではありません。
どのような人も、他人との関係性の中に生きています。
誰とも関わりを持たずに生きることはできません。
直接的にしても、間接的にしても、あなたは誰かとの関係を結んでいるのです。
人と人を結ぶ絆というものを目視することはできません。
それは、視覚では捉えることのできないレベルの物体(意識体)であるからです。
絆を目視することはできませんが、それが存在し、強い力を有しているということをあなたは理解することができるでしょう。
それを説明(証明)することができなくても、否定することはできません。
目には映らないもの、理解することができないもの、説明することができないもの・・・
この世界には、五感では捉えることができないそれ等のものが多く存在しているのです。
しかし、多くの人は五感という肉体的な感覚の中に生きています。
五感を通して認識する世界は限定的なものです。
それは、五感の能力が万能ではないからです。
五感は限られた情報に触れることはできますが、残念ながらすべてに触れることはできません。
当たり前に存在している物質でさえ、五感では捉えることができないのです。
視覚が捉えることができるのは、可視光だけです。
それ以外の光を捉えることはできません。
聴覚であっても、臭覚であっても、触覚であっても、味覚であっても同じことです。
肉体には認識することができないことが、この世界には当たり前に存在しているのです。
そのことを忘れてはならないのです。
しかし、多くの人が五感を通して導かれる限定的な認識を正しいと思い込んでいます。
そのため、限られた情報しか得ること、理解することができず、小さな世界の中に取り残されるのです。
集合意識は五感によって捉えることはできません。
それは、肉体だけの能力では認識することができないのです。
肉体と精神の能力を合わせることによって、人はそれを知覚することができます。
人は自らの意識(思考、感情、無意識)によって影響を受けています。
あなたのすべての選択は、意識によって導かれるのです。
自らの意識によって影響を受けるあなたが、他人の意識によって影響を受けないということがあるはずはありません。
自らの意識と同様に、他人の意識からも影響を受けるのです。
自らの意識と他人の意識の集合体が、集合意識です。
それは、絆という囲いの中に集められます。
そのため、人は自らの所属する集団からの影響を受けるのです。
何かの宗教に所属すれば、その教義によって影響を受けます。
国に所属すれば憲法に、地域に所属すれば文化に、会社に所属すれば戦略に、人間関係に所属すれば”正義”に影響を受け、やがてそれに従うようになるのです。
集団意識の影響を軽んじてはなりません。
あなたはいつの間にかに染まります。
徐々に侵食(しんしょく)され、それに気が付くこともなく喜ぶようになるのです。
集合意識は、あなたから真実の世界を奪います。
誕生の時点から歪んでいる集合意識は、あなたを限定的な世界に閉じ込める働きを所有しているのです。
すべての集合意識は歪んでいます。
それは、そこに所属するすべての人が歪んでいるからです。
それは避けることのできない事実です。
人は誰もが既に歪んでいるのです。
あなたは常に集合意識からの影響を受け続けているということを理解しましょう。
あなたの意識は、集合意識によって乱れます。
個は全体からの影響を受け続けているのです。
集合意識は五感では捉えることができませんが、五感という限定的な能力と精神という限定的な能力を組み合わせた時には、その輪郭を捉えることができるでしょう。
五感で認識することだけが真実ではありません。
そのような限定的な世界に生きてはなりません。
他人との絆を視認することはできませんが、それが存在しているということを理解することはできるでしょう。
自分の中に意識が存在していることが理解できれば、他人との関係の中に集合意識が存在しているということを理解することもできるはずです。
意識があなたと人生に影響を与えているということが理解できれば、集合意識も同じようにあなたと人生に影響を与えているということも理解することができるでしょう。
何かを判断する時には、集合意識からの影響を考慮しなければなりません。
様々な影響を考慮しなければ、正しい見解を導き出すことができないのです。
帆船(ほぶね)を目的地へ辿り着かせるためには、船の能力に加え、海図と航海術、食料と医療・・・
そして、気象と潮流などという様々な影響を考慮する必要があるのです。
様々な影響を考慮しなければ、決して目的は果たされません。
目視することができない集合意識の影響を考慮しましょう。

2015年9月15日火曜日

単純な問い

世界は、語り掛けます。
世界が語り掛ける言葉は真実です。
それは、純粋な心の持ち主だけが聞くことのできる言葉です。
真実とは、純粋な心の持ち主の所有物であるのです。
純粋な心の持ち主以外には、真実を所有することはできません。
真実を所有することができなければ、豊かさを得ることもできないのです。
偽りによって豊かさを得ることはできません。
偽りとは乏しさであるからです。
真実こそが豊かさであるということを理解しましょう。
毒を飲んで、豊かな肉体を所有することのできる者は存在しません。
毒とは、人体にとっての偽りであるのです。
それは、肉体の豊かさを損ないます。
豊かさを損なった肉体は、乏しさを得るのです。
真実を得ることが求められます。
世界はあなたに真実を語り掛けていますが、それを聞くことができるのは純粋な心の持ち主だけなのです。
歪んだ心でそれを聞くのであれば、歪んだ状態で聞き取ってしまうのです。
どのような言葉を得ても、自らの解釈が歪んでいるのであれば、その言葉は歪むのです。
人は自分自身によって人生を築きます。
多くの人は誰かや何かのせいにしますが、それは歪んだ価値観による誤解です。
純粋に捉えるのであれば、すべての事象が自分自身によって導かれる当然の結果であるということを理解することができるのです。
あなたが選ばなければ実現しないのです。
選ぶことも、選ばないことも、あなたの選択であるのです。
その積み重ねが現状であるのです。
他の選択をしていれば、他の結果を受け取ったのです。
すべてはあなたの選択であり、あなたの責任なのです。
それを誰かや何かの責任として転嫁(てんか)してはならないのです。
それは、明らかに間違っているからです。
間違った選択は、苦悩(乏しさ)を導きます。
それ以外の結果を導くことはありません。
”奇跡”を信じている人がいますが、原因の存在しない結果など、どこを探しても存在しないのです。
すべては因果の仕組みによって実現します。
そのため、あなたという原因から導き出される目の前の状況は、そのすべてが当然の結果であり、疑いようのない事実であるのです。
そのことを理解する必要があります。
あなたの心が歪んでいたために、その苦悩(乏しさ)は導かれたのです。
それ以外の理由はありません。
受け入れましょう。
大切なのは純粋な心で生きることです。
あなたは何も知らない無垢(むく)な子どものようでありましょう。
歪んだ知恵を振りかざし、誤解で世界を選択してはならないのです。
すべての人は常識という歪みを信仰することによって、その心を歪めます。
常識とは、心の平均です。
多くの人が信じていることが常識となるのです。
そこに是非(ぜひ)は考慮されません。
事実も不実も、常識には関係ないものなのです。
多くの人は恐怖に根差しています。
そのため、常識には恐怖から導き出される無知や誤解が溢れています。
そのようなものを信用することはできません。
あなたが子どものように純粋な心を以て向き合うのであれば、常識が歪んでいるということに気が付くことができるでしょう。
何事に対しても、子どものように単純に問いましょう。
真実を手にいれるために特別な知識は必要ありません。
単純に問えば良いのです。
その問いが単純であるほど、あなたは真実に近付くことができるでしょう。
あなたはすべてを単純化するように努めましょう。
素(そ)に至れば、偽ることができないのです。
単純な疑問は偽りを暴(あば)き、真実を導きます。
できる限り純粋に、できる限り単純でありましょう。
難しく考える必要はありません。
複雑にして理解が深まることはありません。
できる限り簡単にしましょう。
そして、真実の言葉を聞くのです。

2015年9月14日月曜日

幼い世界

真実を以てしなければ、扉は開きません。
人生には、成長という名の扉が存在します。
それは、真実という名の鍵を以て開くのです。
その鍵を見極めることができなければ、扉が開くことはありません。
真実によって扉を開くことがなければ、その先へと進むことはできないのです。
扉の先にはより高次の世界が存在しています。
それは、すべてがより豊かな世界であるのです。
その世界を得ることがあなたの目的です。
そこには真の幸福というものが存在しているのです。
同じ世界でどれだけのものを集めても、あなたが幸福を得ることはありません。
幼い頃の幸福の対象をどれだけ集めても、成熟した精神にはそれは苦痛でしかないのです。
自分を騙しながら、偽りの幸福に酔い痴(し)れることはできますが、偽りの幸福を維持するためには、”毒”を呷(あお)り続けなければならないのです。
それは決して真の幸福ではありません。
幻想に満ちた偽りの幸福であるのです。
そのような愚行をどれだけ続けても、あなたが満足することはないのです。
本当に必要なのは、真の幸福であり、それは真実によって導かれるということを理解する必要があるでしょう。
あなたは真実を見極めなければなりません。
物事の表面的な部分に騙(だま)されることなく、その本質に至るのです。
そのようにしなければ、決して満足を得ることはできないのです。
しかし、真実を得ること、真の幸福に辿り着くことは簡単なことではありません。
真実は複数存在していますが、それを装う偽りの数はそれよりも膨大であるからです。
あなたが真実の鍵を得ることは、至難であるのです。
この世界には偽りが溢れています。
人は簡単に嘘を吐きます。
それは、恐怖を主体として生きているからです。
恐怖から逃れるために、嘘を吐くのです。
それがいつの間にか”普通”のことになり、無意識的に扱うようになります。
そして、自らの言動が偽りであるということにすら気が付かないようになるのです。
その結果、罪悪感もなしに、偽りを重ねるのです。
あなたは真実を求めなければなりません。
自分自身に対しても、他人に対してもです。
人が嘘を吐く時には、恐怖を拠(よ)り所(どころ)とします。
恐怖を原因とするのであれば、結果も同じ性質です。
その人の嘘には恐怖が隠されています。
その人の嘘には、あなたに恐怖を植え付ける力があるのです。
それが争いなどの破滅的な性質を持つ行為であるのならば、あなたは注意しなければなりません。
あなたに敵を教えるのであれば、それは恐怖から導き出される虚言です。
敵という概念は、恐怖から導き出されます。
恐怖が存在しなければ、敵は存在しないのです。
敵を作り出す人は、自らを正当化しようとしています。
恐怖から導き出されるその嘘が、正しいものとなるように敵を作り出すのです。
相手が敵という概念を持ち出したのであれば、あなたは注意深く観察しましょう。
その言動は、必ず偽りであるからです。
それは決して真実ではありません。
敵を作り出すような認識のレベルでは、成長という名の扉が開き、新たな世界を手に入れることなどできないのです。
争いという低次な選択によっては、その荒々しく幼い世界にとどまる他ないのです。
真実は愛に根差しています。
成長するためには愛が必要なのです。
恐怖によって導かれる敵対心や偽りは、愛とは対極に存在する選択肢です。
そこに愛が存在するのか?ということを観察する必要があるでしょう。
それは、難しいことではありません。
嘘吐きの詐欺師は、敵を作り出すことによってあなたの中の恐怖を煽(あお)ります。
その方法に従って争うのであれば、あなたが真実を以て成長を実現することはできません。
争いに参加してはなりません。
敵を見出してはなりません。
敵など存在しないのです。
すべてが愛によって一つであるということを理解する必要があるのです。
恐怖を捨てましょう。
恐怖を捨てるのであれば、あなたは真実を得ることができるでしょう。

2015年9月13日日曜日

曖昧な目的

すべては、世界を体得するために存在しています。
あなたが世界を体得するために、すべての条件が整うのです。
あなたにとって不要なものは存在しません。
あなたが不足することはありません。
すべては完全な姿によって存在し、必要は確実に満たされます。
あなたが世界を体得するための人生なのです。
世界を体得するためには、すべてを受け入れる必要があります。
それは、すべてがあなたの理解を深めるために用意された最善であるからです。
しかし、多くの人は世界を体得することの意味や人生の目的について知りません。
自分がなぜここにいるのか?
何をしているのか?
ということを知らないでいるのです。
あなたは人生の意味について考えたことがありますか?
これは大抵の人が抱く疑問です。
何のための人生であり、何のために生きているのか?
このように考えるのは自然なことです。
それは、その問いこそが答えであるからです。
人は問うことによって理解を深めるのです。
問うことがなければ、理解が深まることなどないのです。
どのような対象に向けても構いません。
問うことが重要なのです。
答えに到達するかは問題ではありません。
大切なのは理解を深めるという曖昧(あいまい)な目的を達成することなのです。
人生には”正解”などというものは存在しません。
すべてが正解であり、すべてが間違いであるのです。
そのため、理解を深め続けなければなりません。
人生とは輪郭のぼやけたものであるのです。
それを型に入れてはなりません。
あなたが実現しなければならない目的は、曖昧なものであるのです。
すべては世界を体得するためです。
そのために、あなたは必要を与えられます。
あなたに関わるすべてが、あなたの理解を助けます。
あなたの肉体(身体的特徴)は、あなたの理解を助けます。
あなたの精神(性格や能力)も同じです。
あなたの環境(境遇)も同じです。
あなたの状況も同じです。
すべてがあなたに必要な理解を導くための道具に過ぎないのです。
しかし、多くの人がそれを否定します。
大抵の人物は、自分(や自分に関わるもの)が嫌いです。
自らの肉体を嫌い、精神を嫌い、環境を嫌い、状況を嫌うのです。
もちろん、それは比率の話です。
すべてが必要な道具なのですが、多くの人はそれを否定する割合によって、十分には活用することができていないという状態を所有しているのです。
否定的な感情は、破滅的な働きを持ちます。
そのため、何かを嫌っているのであれば、それは十分には機能しないのです。
すべてを受け入れることによって、それは十分に機能するようになります。
肯定的(こうていてき)な感情によって認め、受け入れることによって、十分に機能させることができるのです。
あなたは自分自身に関わる何事においても、それを否定してはなりません。
あなたが世界を体得するために必要な条件なのです。
その条件が整わなければ、理解は深まらないのです。
そのことを受け入れる必要があります。
すべてが大切なものです。
何一つとして、無駄はありません。
すべての道具(能力)を活用しましょう。
そして、いつの日か世界を体得しましょう。
それが幸福であるということに、いつの日かあなたは気が付くでしょう。

2015年9月12日土曜日

小さな統合

あなたは統合に努めなければなりません。
「すべては一つ」です。
それが本来の姿です。
しかし、一つのものは分裂したのです。
その結果として、人は苦悩を得ることになりました。
それは、答えを得るにも、分裂した状態の手掛かり以外には手にすることができなくなったからです。
それは誤解を生みました。
分裂した手掛かりから得られる情報は、人間から答えを隠したのです。
断片的な情報を繋ぎ合わせることによって答えに辿り着くことができますが、それを繋ぎ合わせるのは困難です。
すべての人が断片的な情報を多少所有しているだけに過ぎず、全体像を掴むことはできません。
そのため、人生の意味や自分自身という存在を知ることができないのです。
すべての人が苦悩を抱えます。
それは、明確な答えを持たないからです。
しかし、人生においての苦悩は大切な情報の一つです。
それも理解する上での一種の手掛かりに他ならないからです。
多くの人は苦悩を嫌います。
多くの人が”自分”を主体とした価値観を通して認識するために、世界は歪んだ形を以て実現するのです。
しかし、”自分”というものが何であるのか?ということを知る者はありません。
”自分”が女だと思えば、女の立場から世界を見ることになり、世界は歪みます。
”自分”が男だと思えば、同じように世界は歪んでしまうのです。
女にとっても、男にとっても、(最終的には)世界は一つである必要があるのです。
分裂した状態では、答えに辿り着くことはできません。
そのため、統合に努める必要があるのです。
分裂した情報、知識、価値観、歴史、文化・・・
すべてを統合するには、柔軟な姿勢が必要です。
固定観念に固執(こしゅう)し、頑(かたく)なに現在の立場を守るのであれば、統合が実現することはありません。
そのような態度は、更なる分裂を導きます。
分裂するほどに理解は得難く、答えに辿り着くことに遠退(とおの)くのです。
すべての情報は、一つのものが分裂した状態で導かれるということを理解しましょう。
組み合わせ方を工夫しなければ、決して結合しません。
しかし、多くの人は固定観念に固執しているために、組み合わせ方を工夫することができません。
初めから結合するとは考えていないのです。
どのように分裂したものであっても、元が一つであるのだから、必ず結合します。
それは難しいことですが、不可能なことではないのです。
あなたが否定しているものは、否定するべき対象ではないのです。
現時点においては否定することしかできないでしょうが、あなたの成長に合わせて、それを受け入れることができるようになります。
それは、小さな結合という結果を導くのです。
その積み重ねが、あなたに大切な答えを導くのです。
目の前の”それ”は、元は一つであったのです。
陰と陽も二つで一つの存在です。
性質が違うことは問題ではありません。
様々な形、働きを持つ臓器の集合体が人体であるのと同じです。
しかし、すべてが大切な臓器であるのです。
形や働きが違うという理由で否定するのであれば、統合が実現することはないのです。
違うように見えるものであっても、その見た目で判断してはなりません。
深い部分においては、必ず共通点があり、元は一つであったのです。
分裂を許してはなりません。
統合を促(うなが)しましょう。
それを実現することができるのはあなただけです。
これはあなたの仕事なのです。
「すべては一つ」である(あった)ということを理解しましょう。
そのような視点で世界を観察してみましょう。
そうすれば、あなたは大切な手掛かりに気付くことができるでしょう。
苦悩を手放すためには、そのようにする他ないのです。
苦悩を好むのであれば、分裂を好み、それを続けましょう。
幸福を望むのであれば、統合に努めましょう。

2015年9月11日金曜日

分裂する世界

世界は、あなたの心の反映です。
世界はあなたによって築かれるのです。
あなたの判断が存在しなければ、世界は存在しないということを理解する必要があるのです。
すべての物質は意識によって生み出されるのです。
物質が始めに存在しているのではありません。
世界があって、あなたが存在しているのではないということです。
多くの人が自我(肉体の心)を中心とした認識を行います。
そのため、物質が始まりであって、意識は付属すると考えるのです。
あなたは、世界(環境や状況や相手)の変化によって、自らの心が変化すると考えるかも知れません。
それは、一般的な考え方(常識)です。
しかし、世界は、心によって作り出されるのです。
知性が情報を導き、それによって物質が生じます。
あなたの肉体が存在するのは、遺伝子情報の結果です。
遺伝子情報がなければ、肉体は存在しません。
肉体が後から、遺伝子情報を作り出したのではないのです。
すべての”形”は、知性による情報によって生み出された物質的な集合体であるのです。
どのような”形”も、知性による情報が存在しなければ、その姿を得られないのです。
心が世界を生み出すという概念に触れましょう。
誰かや何かがあなたの人生を左右しているのではありません。
誰かや何かは、あなたの心の反映に過ぎません。
極端に言えば、あなたの心が誰かや何かを作り出したのです。
誰かや何かは幻想でしかないのです。
目の前のそれは現実的に見えるかも知れませんが、幻想(として見ている)に過ぎないのです。
人間は価値観を所有しています。
価値観とは物事の判断基準です。
例えば、美醜として対象を隔(へだ)てます。
美と醜(しゅう)は、価値観によって初めて生まれる隔たりです。
あなたの価値観が触れるまでは、世界に美醜という隔たりは存在しなかったのです。
あなたの価値観がそれ等を分裂させたのです。
このことが理解できるでしょうか?
陰陽は一つです。
これを分裂させることはできません。
どちらも大切な性質であり、別のものではないのです。
しかし、人の価値観は平気でこれを分裂させます。
その結果として、誤解が生じ、苦悩を受けることになるのです。
それは、その方法が間違っているからに他なりません。
間違っているから躓(つまず)きを得るのです。
あなたは偏見を所有しています。
それは、あなたが自我に依存しているためです。
自我とは肉体の心であり、それは生存本能であるのです。
自我は肉体を守ります。
肉体を中心とした考えを提唱(ていしょう)するのです。
あなたは肉体ではありません。
肉体を持った精神であるのです。
肉体に偏ってはなりません。
もちろん、精神にも偏ってはなりません。
世界を分裂してはならないのです。
多くの人は自我を中心に世界を眺めます。
それでは偏見の世界が生み出されてしまうのです。
そこに理解は実現しません。
誤解は苦悩を導くのです。
すべてが心の反映であるということを理解しましょう。
あなたは自らの心を通じて世界を見ているのです。
世界は既にあなたの心を通じて歪んでいるのです。
そのことを理解しなければ、誤解を解決することはできないのです。
世界に変化を望むのであれば、自らの心を変えるだけで良いということを理解しましょう。

2015年9月10日木曜日

繰り返しから抜け出す

人生は、自らの意思によって構築されます。
人生は自分自身によって建設されるのです。
人生における環境や状況は、あなたの意思選択に起源しています。
あなたは自らの意思によってそれを決めることができるのです。
自らの意思によって選んではいないように見える環境や状況も、それが直接的に作用していないだけであって、あなたの意思選択の結果に他ならないのです。
人生はあなたの意思を尊重します。
あなたの選択を実現します。
それが、対象に対して実行するという選択であろうと、実行しないという選択であろうとも、それを実現するのです。
どちらの選択が良いとか悪いというのではありません。
人生はあなたの意思を尊重し、あなたの代わりを務めるということはないのです。
人生の主役はあなたです。
あなたの意思が重要な役割を占めるのです。
そのことを理解する必要があります。
人生の目的とは、誰にとっても成長です。
すべての人、すべての存在が成長を実現するために存在しています。
すべてが成長するための働きであるのです。
あなたも成長を目的としています。
あなたは成長という目的を否定することはできません。
それは、人生を始めることは、あなたの意思選択による決定であるからです。
前述したように、すべてはあなたの意思によって実現しているのです。
自分自身で決めたことは実現します。
あなたは自らの意思選択の結果を学んでいるのです。
それは成長のためです。
成長することが目的であるために、成長するまでその学びは続くことになります。
あなたは自分自身で選択した学びによって成長することが求められます。
それを実現することができなければ、それを実現するまで何度でも繰り返されるのです。
残念ながら、人生は合理主義です。
無駄は存在しません。
成長することなく、先へ進むことはできないのです。
自分自身で選んだ学びなのだから、あなたにとっては相応しいものであるのです。
それは、あなたにとって学び易い状況なのです。
成長のためには、繰り返しを断つ必要があります。
繰り返しは、同じ意思選択によって実現します。
同じ方法であれば、同じ結果に至るのは当然です。
”奇跡”が起きて、同じ方法であっても違う結果に至るなどという夢のような話は存在しません。
人生は合理主義です。
あなたが自分自身で気が付き、変えるのを待っているのです。
自力によって克服しなければ、それは成長とは呼べません。
そのため、誰かや何かの力(他力)によって学びを乗り越えようとしても、それは無駄な足掻きとして終わるのです。
他力によって目の前の問題を退(しりぞ)けても、それは克服したことにはなりません。
他人が成長するだけであって、あなたの成長が実現した訳ではないのです。
そのため、あなたは再び自力によって学び直す必要に迫られるのです。
繰り返しに陥(おちい)った時には、意思選択を変えましょう。
これまでとは違う選択をするのです。
しかし、それには勇気が必要です。
成長するためには、いつだって勇気が必要なのです。
恐れを抱いているのであれば、成長を実現することはできないのです。
恐れを克服したので、成長したのです。
すべての人は繰り返しに至ります。
その時には、ほんの少しでも良いので、これまでとは違う選択をしてみましょう。
そうすれば、ほんの少しの違いが結果に現れるでしょう。
少しずつの繰り返しによって、大きな違いが生まれるのです。
一年後、あなたは変わっていない自信がありますか?
それがどのように小さな違いであっても、一年間も続ければ、大きな違いになるのです。
直ぐにどうにかなるなどと考えてはなりません。
そのような”奇跡”などは実現しません。
長い目で見る必要があります。
少しずつ、繰り返しから抜け出しましょう。

2015年9月9日水曜日

光を灯す

すべての人の人生には問題が存在しています。
問題は苦悩を導き、人はそれを嫌います。
問題が存在しない人生はありません。
すべての人生には問題が存在するのです。
なぜでしょうか?
そもそも、問題とは何でしょうか?
あなたは問題について考えなければなりません。
多くの人は問題の表面的な部分だけを見て、それを判断します。
そのため、問題の本質とその役割を理解することができずに、更なる苦悩を受けることになるのです。
すべての人の人生には問題が存在しますが、その形は様々です。
問題は、人生によって違うものです。
あなたにとって問題であることが、他人にとっては問題ではありません。
他人にとっては問題ではないことが、あなたにとっての問題になることもあるのです。
問題を受けるのは人です。
人はそれを心によって受けます。
心の状態によって、その状況を問題とするか?問題とはしないか?ということを決めることになるのです。
問題とは誰かや何かによって導かれる状況ではありません。
同じ相手や対象から導かれる状況であっても、人によってそれを問題とし、又は問題とはしないのです。
すべての問題が心に起源するということを理解する必要があるのです。
問題が心に起源するということを理解するのであれば、問題の解決は早いものになります。
問題とは心の状態の結果です。
状況が問題であるということはありません。
状況は誰にとっても公平なものなのです。
それを判断し、”色”をつけているのは人の心なのです。
心がその状況を問題であると判断しているのです。
問題に向き合う時には、心と向き合う必要があるということを忘れてはならないでしょう。
すべての問題が心との対峙なのです。
この世界には陰陽の仕組みというものが存在しています。
すべての存在が陰(マイナス)と陽(プラス)の性質と役割を持っているのです。
電球を光らせるためには、マイナスとプラスの極が必要です。
乾電池によって電球を光らせるためには、マイナスとプラスの極を繋げて、一つの”輪”にしなければなりません。
マイナス極だけでは電球を光らせることはできません。
プラス極だけでも同じことです。
電球を光らせるためには、マイナスとプラスの双方の極が必要となるのです。
あなたが電球を光らせるという人生の問題を抱えていたとしましょう。
多くの人が電球が光らないことを誰かや何かのせいにします。
そして、電球が光る仕組みや乾電池の仕組みについて関心を持ちません。
それでは、いつまで経っても電球を光らせること(問題解決)には至らないのです。
多くの人は問題に対して何かしらの偏見を抱えています。
心が一方しか見ようとしないために、その問題が生じているのです。
電球を光らせるためには、マイナスとプラスの極に線を繋げば良いだけです。
誰にだってできることです。
しかし、その原理を理解しない人には解決することのできない問題となるのです。
問題と対峙した時、多くの人はその苦悩から目を背けてしまいます。
それは例えば、マイナス極を利用しないという状態を引き起こすのです。
それでは電球は光らないのです。
人生における問題とは、心の回路が繋がっていない状態を言うのです。
それは、善悪の判断によって苦悩を拒絶することです。
陰陽を一つに繋げることによって、そこには大きな力が生まれるのです。
心にはマイナス面とプラス面が共存します。
それは無意識の内に人生に映し出され、あなたは喜びと苦しみの両方を覚えるのです。
心が統合されるのであれば、喜びと苦しみも統合されます。
その暁(あかつき)には、あなたが苦悩を覚えることはないでしょう。
すべての状況に光が灯るということを理解することができるのです。
陰と陽を一つに繋げましょう。
そうすれば、すべての問題は心によって解決するでしょう。

2015年9月8日火曜日

意識の修復

すべての存在は”完全”を目指します。
すべての存在が不足を抱えているのです。
成長によってそれを埋めることで”完全”に近付くのです。
あなたも当然”完全”を目指しています。
生きる目的は成長にありますが、その先には”完全”という目標があるのです。
人が”完全”を得るためには、その意識が一つにまとまる必要があります。
すべての人の意識は分裂した状態にあります。
しかも、それは分裂した時に粉々に砕かれているのです。
その一つ一つの欠片(かけら)を拾い集め、又は補うことによって”完全”は実現されるのです。
しかし、あなたは自らの意識が分裂しているということを知りません。
既に自分の意識は一つの状態にあると勘違いしているのです。
それは、あなたの認識が分裂された領域に及ばないからです。
あなたは分裂した状態の意識を一つのものとして考えます。
それは、様々な感情を持つ心が一つであると思っているようにです。
しかし、心は幾つも存在し、それ等は様々な状態を所有しているのです。
不足している部分は補う必要があります。
そうでなければ、”完全”を実現することができないからです。
あなたは意識の修復をしているのです。
不足している部分には補充する必要があります。
あなたが人生において受ける様々なことは、意識の修復、統合のために必要な作業です。
それは不足を補うために行われます。
不足を補うために必要な作業は実現し、それに必要のない作業は実現しません。
あなたが受ける状況は、そのすべてが意識のためにあるのです。
それは、あなたの自我によって導かれるべき状況ではありません。
それは、あなたの認識することができない意識を修復する作業なのです。
あなたは非我(ひが)によって、その作業に協力しなければなりません。
作業は高次の意識体(神、守護霊、宇宙人、ハイヤーセルフ・・・など呼び方は何でも良い)によって監督されています。
しかし、主体は自分自身です。
実際に作業するのはあなた自身です。
監督がどのように働き掛けようとも、作業をするあなたからの協力がなければ実現しないのです。
自我とは身勝手です。
それは、監督の指示に背きます。
それでは、意識の修復作業は捗(はかど)らないのです。
多くの人は目の前の状況に対して嫌悪感を抱き、それを拒絶します。
与えられる状況は、不足を埋めるものであり、それは大切な作業であるのです。
しかし、そのことを理解することがなければ、協力することはないのです。
高次の意識体は、あなたに対しての協力を惜しみません。
あなたが意識を修復するために働き続けているのです。
与えられるものがどのようなものであろうとも、あなたにとっては必要であり大切なものです。
どれだけ努力しても与えられないものもあります。
それは、既に修復された意識の領域であるのです。
修復された意識を再び修復する必要はありません。
あなたが他人と比較して羨(うらや)ましく思うことも、与えられないのであれば、それ以上に欲する必要はないのです。
自我を主体として生きている者には、この意味を理解することが難しいでしょうが、いつかは気が付くでしょう。
意識は分裂状態にあります。
それは、本来の姿ではないのです。
あなたは本来の姿を取り戻さなければならないのです。
これは、現実でありますが、現実ではないのです。
与えられるものが最善であるということを理解しましょう。
そして、それに感謝することができる心境を育みましょう。
そのような心境がなければ、意識の修復と統合を実現することはできないでしょう。
”完全”を実現するために、成長を目指しましょう。
そのために、先ずは自我(身勝手)を捨てましょう。

2015年9月7日月曜日

限定的な視点

世界は決め付けによって溢れています。
どこを見ても決め付けが先行します。
既に世界は決め付けの中に埋もれているのです。
あなたが見ている世界は、あなたの決め付けが創造した世界です。
それは、あなたの意思とは別の意思によって構築されているように思うかも知れませんが、この世界はあなたの意思によって構築されたのです。
その証として、同じ対象を見ても、他人とは違う印象を受けることができます。
あなたと他人の認識は、同じ対象に対して別のものであるのです。
世界が共通の意思によって築かれているのであれば、あなたと他人は同じ対象に対して、同じ印象を覚えるのです。
これは、個性が与えられ、独自の世界が与えられている証となるでしょう。
あなたは他人とは違う世界を生きています。
しかし、それは同じように見えるのです。
同じように見える違う世界を生きているということに気が付いた時に、あなたは決め付けという束縛(そくばく)から逃れることができるでしょう。
多くの人が世界は一つのものだと考えています。
それは、そのように見えるためです。
それは、決め付けです。
多くの人が主観によって生きていますが、その主観から離れられないでいるのが現状なのです。
それは、自我による決め付けが既に存在しているからです。
決め付けは経験によって形成されます。
あなたは様々な経験を通じて、いつの間にかに偏見という決め付けを構築したのです。
それを無意識的に世界に反映し、その結果を見ているのです。
あなたの生きている世界は真実ですが、真実ではありません。
矛盾しているように聞こえるかも知れませんが、それが真実です。
この世界は”有って無い”のです。
あなたは自らの意思によって世界に有無を決め付けているのです。
有無の形によって、世界は形を変えるのです。
それぞれの人が個性を持ち、その個性はそれぞれの有無を好みます。
そのため、それぞれの世界が存在しているのです。
あなたは無意識的に多くの決め付けを所有しています。
決め付けは、対象の真実の姿を覆い隠します。
それは、限定された視点であるからです。
決め付けることによって、視点が固定されます。
その視点から見るのと、別の視点から見るのでは、形は随分異なります。
物事は、表と裏では全く違う形を所有しているのです。
そのため、どちらか一方で判断することはできません。
偏れば、必ず間違えます。
理解の深まりを以て、人は成長という目的を実現することができます。
理解を深めるためには、決め付け(限定的な視点)を取り除く必要があるのです。
長い経験によって構築された視点は、簡単には崩れません。
長い歳月によって、圧縮されて硬くなったのです。
岩を崩すのが難しいように、決め付けを崩すのも難しいのです。
そのため、短時間で変えることはできません。
それが構築されたのと同じように、長い歳月を掛けてゆっくりと崩し、再構築していく必要があるのです。
しかし、一度構築した視点が無駄になることはありません。
それは、一方の見方(視点)を支えます。
様々な角度から対象を捉える時、初めてそれを理解することができるのです。
あなたは無意識的に世界を限定しています。
先ずは、その世界がすべてではないということを受け入れましょう。
あなたの知らない世界(可能性)は多々あるのです。
人間の生き方が一つではないように、世界も複数存在しているのです。
それぞれの世界が集合しているのがこの世界なのです。
そのため、決め付けることはできません。
決め付けを持ち出した瞬間に限定されます。
それでは、大切な可能性を失ってしまうのです。
決め付けによって世界を限定してはなりません。
世界を柔軟に捉えましょう。
予想外のことが起これば、それが真実なのです。
自らを正当化し、未知と無知に蓋(ふた)をしてはなりません。
あなたの知らない世界が存在するのです。

2015年9月6日日曜日

目の前の状況に対する理解を深めることによって、あなたは世界の全体像を掴むことができます。
全体像を掴むことは大切です。
それは、全体を理解しなければ、個を理解することができないからです。
個についてどれだけ研究しても、全体と比較することがなければ、その正体を理解することなどできないのです。
あなたが井戸の中の蛙(かえる)であったとして、自分を蛙だと思っているとします。
しかし、井戸の外に出れば、蛙は蛙という状態を保つことができないのです。
それは、蛙かも知れませんが、捕食の対象という状態になるかも知れません。
蛙は井戸の中にいる時には自身のことを強者だと思っていたかも知れませんが、外の世界では自身を弱者だと考えるかも知れません。
個に対する定義は、全体を以て覆るのです。
個をどれだけ研究しても、全体によってその状態は変化してしまうのです。
そのため、個を理解するためには全体を理解する必要があります。
蛙は、井戸の外に出て、自分を蛙だと証明しなければならないのです。
全体と照合した時に導かれる答えが真実であるでしょう。
しかし、多くの人は”井戸の中の蛙”の状態を所望(しょもう)しています。
それは、既知(きち)の世界よりも大きな未知の世界が存在しているにもかかわらず、恐怖によってそれを見ようとはしないからです。
既成概念(きせいがいねん)に安心を覚え、既知の世界を生きることに専念しているのです。
それでは、自分自身のことすら理解することはできません。
自分が何者であるのか?という基本的な情報を理解することがなければ、人生にどのような選択をすれば良いのかすら分からないのです。
多くの人が迷いの生存を続けるのはそのためです。
自分自身を”蛙”だと思っていますが、それは、小さな世界の中の一面でしかなく、真実ではないのです。
あなたの目の前には未知の世界が広がっています。
多くの人は知ったつもりではありますが、本当は何も知らないのです。
しかし、それでも生きていけるために、知ったつもりで生きていくことに危機感を覚えないのです。
社会に適応して当たり前に生活することで生命を存続させることはできます。
しかし、ただ生きていく、生き長らえるだけで心(魂)が満たされるのでしょうか?
それを幸福だと考えるのであれば、そのように生きていくことに問題はありません。
そのように考える人にとっては、それが必要なことであるからです。
しかし、ただ生命活動を続けることにはいずれ限界が訪れます。
あなたは当たり前の生活に疑問を抱き始めるのです。
その時に、人生とは何だろう?
何のために生きているのか?
何のために仕事をしているのか?
自分自身とは何だろう?
などという問いに向き合うことになります。
そこで必要になるのが、井戸の外の世界と自分を照合する作業なのです。
世界を理解することがなければ、それ等の問いに答えを導き出すことができないのです。
そのため、あなたには理解を深める必要があるのです。
”わたし”はあなたに何度も同じ道を歩かせます。
何度も何度もあなたはその道を通る必要があります。
それは、一度では理解することができないからです。
一度目と二度目では、景色が違うことに気が付くでしょうか?
それは、景色が変わっている訳ではありません。
あなたの認識が違っているのです。
繰り返すことによって、あなたはその道の様々な情報を得ることができます。
繰り返すことによって、多くの情報を得ることができるのです。
その情報を繋ぎ合わせることによって、細部が鮮明となり、全体像を掴むことができるのです。
それは、パズルを組み立てることに似ています。
一つ一つのピースを繋ぎ合わせることによって、あなたはそこに何が描かれているのか?を次第に理解することができるでしょう。
一部だけを見て、全体を理解することはできません。
全体を理解することがなければ、一部を理解することができないのです。
あなたは理解を深めましょう。
あなたに関連していることであれば、何でも良いのです。
未知の世界を求めるのです。
井戸の中から出るのは勇気が必要です。
しかし、井戸の中で自惚れて生きるよりはましです。

2015年9月5日土曜日

衣替え

心は広大な世界です。
あなたの知っている心は、心の一部に過ぎません。
心という意識的な世界は、あなたの考えている以上のものなのです。
それには限界がありません。
あなたが思っている以上に複雑な状態を得ています。
心は一つではありません。
それは、無数に存在しているのです。
あなたは自らの心が一つであると考えているかも知れません。
しかし、それは感情ごとに違います。
過去と現在と未来にも同時に存在します。
過去の心と、現在の心と、未来の心は(ある意味)別物です。
それぞれが違う状態を所有しているのです。
それは、樹木の葉のようなものです。
木の葉は枝に繋がり、枝は幹に繋がります。
幹は根に繋がり、全体を以て樹木とします。
その樹木の持つ葉は、そのすべてが樹木の所有物です。
根から幹に繋がり、枝から生えている葉は、その樹木のものなのです。
これは、あなたにも同じことが言えます。
あなたは樹木でいうところの根であり、幹であり、枝であり、葉です。
葉は心を現します。
一つの樹木であっても、所有する葉のそれぞれの形は微妙に異なります。
大きさ、色合い、厚み、状態(損傷、病気など)・・・
良く観察すれば、それぞれに違いがあることを理解することができるでしょう。
心もこれと同じです。
様々な感情に対して心は働きます。
それは、感情ごとに心を生み出します。
感情に対して、心は分裂するのです。
そのため、心に強い衝撃を受けることによって、その出来事がトラウマ(心的外傷)となり、嫌悪感や罪悪感などの強迫観念に襲われたり、それに蓋(ふた)をして忘れたりしてしまいます。
そのような心は樹木で言う所の一つの枝葉を形成するのです。
トラウマによって形成された枝葉は、他の枝葉と同じように青々と茂ります。
その枝葉だけが都合良く枯れ落ちるということはありません。
無理に引き剥がすこともできません。
それを克服するためには、成長する以外に方法はないのです。
樹木は成長することによって古い枝葉を落とします。
春に芽吹いた木の葉は、秋には落とされます。
そして、春を迎えた暁(あかつき)には、新芽が芽吹くのです。
それは、秋に落とした木の葉とは違うものです。
それは、別の蕾(つぼみ)から生まれるのです。
成長することがなければ、葉が入れ替わることはありません。
あなたが成長することがなければ、抑圧された感情(トラウマとしての心)が解放されることはないのです。
成長することがなければ、いつまでも葉が枝から枯れ落ちることはないのです。
成長するためには、新たな世界を得る必要があります。
樹木は季節の訪れによって木の葉を落とすのです。
あなたが新たな世界を求めるのであれば、古い心は枯れ落ちます。
それは、抑圧された感情に限ったことではありません。
無知の心や誤解の心なども枯れ落ちるのです。
そうやって、人は”天(高次)”を目指さなければなりません。
樹木がそうするように、古い心を捨て去りましょう。
枯れ落ちる常識(古い知識)に執着してはなりません。
それは季節の訪れによって簡単に枯れてしまうものなのです。
冬に葉を落とす必要のある樹木が、葉に執着すれば、生命を脅かすことになるでしょう。
古い心に執着してはなりません。
新たな知識や状況に興味を抱き、心の衣替えを実現しましょう。

2015年9月4日金曜日

相対論

人生における価値は、それぞれの人によって違います。
それは、それぞれの人の所有する状況に違いがあるからです。
状況が違えば、価値は変わります。
病に苦しむ人は良薬に価値を見出すでしょうが、健康な人にとってそれは価値の無いものとなります。
喉が渇いている人にとって水は価値のあるものであるでしょうが、満腹な人にとっては苦悩の元です。
このように、状況に応じて価値の対象は変動するのです。
そのため、物質的な対象に対して、普遍的な価値を求めることは賢明ではないのです。
なぜなら、それ等は状況に影響を受けるからです。
物質的な対象は決して安定しません。
物質的な対象に対して、生涯を通じて価値を見出すことなどできないのです。
すべての状況に対応することのできる物質的な対象などは存在しないのです。
それは、物質的な対象は相対的な性質を持つからです。
物質的な対象は、相対する物質的な対象との協力によって力を発揮することができます。
道具は、あなたの協力を必要としています。
あなたも、道具の協力を必要としているのです。
互いの協力によって、価値が生み出されるのです。
道具だけでは価値を生み出すことはできません。
あなただけであっても、それは同じことが言えるのです。
物質的な対象は、相対的な性質を持つということを忘れてはなりません。
そのため、物質的な対象をどれだけ集めようとも、その価値はどのような状況にも対応することができるとは限らないのです。
山で遭難している時に、どれだけの金銭を所有していようとも、それが価値を生み出すことはありません。
多くの金銭よりも、多くの食料を所有している方が価値があるのです。
そのように不安定な価値を懸命に追い求めることは、本当に大切なことなのでしょうか?
あなたはこの人生について、深く考えなければなりません。
あなたが懸命に集めているものは、本当に価値のあるものでしょうか?
それを考える必要があるのです。
普遍的な価値とは何でしょうか?
あなたはこの世界に普遍的な価値が存在すると思いますか?
物質的な視点で見るのであれば、普遍的な価値に気が付くことはありません。
精神的に捉えなければ、普遍的な価値を見出すことはできないのです。
物質的な生き方には限度があります。
物質的な生き方によっては、人は人生に行き詰まってしまうのです。
どれだけの物質的な対象を手に入れても、結局は人生の意味を理解することはできません。
装飾が増えるほど、本質を理解することが難しくなるのです。
大切なのは、本質を見極めることです。
それは、心が教えてくれます。
あなたの心を満たすものが価値のあるものだからです。
もちろん、物質的な対象によって心が満たされるということはあります。
それは重要な過程であり、それを否定しているのではありません。
しかし、変動的な価値であるために、限度があるということなのです。
心の変化には限度がありません。
物質的な対象に比べると、精神的な対象の方が未知です。
それは、可能性を導くのです。
未知の可能性に対して、心は躍動します。
未知の可能性を得るほどに、心は満たされるのです。
無知を放置すれば、心が躍動することはありません。
それは、慣れや飽きの状態にとどまるからです。
物質的な対象をどれだけ集めても、それは慣れや飽きを生じさせます。
根本が同じものをどれだけ集めても、未知の可能性を得ることにはならないのです。
例えば、形の違う宝石や車をどれだけ集めても、慣れや飽きを食い止めることはできないのです。
精神的な探求に価値を見出すことは、生涯を通じて心を躍動させるのです。
”夢”を持って生きる人が、不幸(慣れや飽き)を味わうでしょうか?
物資的な対象に価値を見出しているのであれば、自らの死を意識してみましょう。
それでも、あなたは同じように物質的な対象に価値を見出すことができるでしょうか?
あなたの心を本当の意味で満たす対象を探しましょう。
未知の可能性を大切にしましょう。
そこに価値があるのです。
精神的な対象に価値を見出さない限り、未知の可能性を受け入れることは難しいでしょう。
物質的な対象に価値を見出す人は、それに執着するあまり、本当の意味での変化に気が付かないからです。
違うように見えることでも、同じことを繰り返しているのです。
宝石や車をいくら集めても、虚しさを回避することはできません。
人生とは何か?ということを考え、それに見合う価値を探しましょう。

2015年9月3日木曜日

理解の鍵

人生の目的は成長にあります。
人は誰もが成長を実現させる必要があります。
すべての時空間に成長のための学び(原因)が存在しています。
すべての人がそれを受けなければなりません。
誰であろうとも関係ありません。
地上でどのような立場を所有していようが関係ないのです。
これは、この世界の理(ことわり)であり、誰も逆らうことができないのです。
あなたは成長のために学びを得ます。
それを否定することはできません。
成長するためには、弱い部分を向上させる必要があります。
強い部分を強化することは大切ですが、弱い部分の方が成長率が低いために、重点的に行われるのです。
そのため、人は問題を抱えます。
問題とは、解決することが難しい状況です。
それは、苦悩を導きます。
人生には苦悩が付き物です。
それは、人の内部には弱い部分が存在しているからです。
あなたはいつも問題を抱えているでしょう。
それは、成長のためなのです。
問題を解決することによって、人は成長を実現することができます。
問題を解決することができなければ、成長は実現しないのです。
誰かや何かに頼ることによって、代わりに問題を解決してもらったとしても、それではあなたが成長したことにはなりません。
そのため、そのようなやり方であっては、同じ問題が再び導かれ、あなたは同じ苦悩を繰り返すことになるのです。
これは、自分自身のための人生なのです。
誰かや何かが成長するためのものではありません。
あなたが成長する必要があるということを理解しなければならないのです。
問題は、自力によって解決する必要があるのです。
問題を解決するためには、その扉を開く”鍵”が必要です。
どのような扉も”鍵”を用いなければ開きません。
問題に対して、それに相応しい”鍵”を探す必要があるのです。
問題を解決するための”鍵”とは”理解”です。
理解こそが、問題を解決する鍵となるのです。
多くの人が理解を深めないままに問題に対峙します。
もしくは、理解を深めようともせずに逃げ出します。
それでは、人生における幸福を実現することはできないのです。
あなたは理解を深めなければなりません。
何よりも、理解を深めることを第一としましょう。
理解が深まらなければ、どのような努力も無効となります。
間違っている方法が、必要な結果を導くことはありません。
合わない鍵では、扉は開かないのです。
扉が開く前に、あなたは疲れ切ってしまうでしょう。
理解を深めるためには、観察する以外に方法はありません。
しかし、多くの人は観察することを疎(おろそ)かにします。
理解が深まる前に、自我による決め付けが先行するのです。
あなたの知っていることなど何も無いに等しいのです。
そのため、自我による決め付けによっては、どのような問題も解決することなど有り得ないのです。
しかし、多くの人はそのことに気が付きません。
自惚(うぬぼ)れが仇(あだ)となり、自我によって問題が解決するなどと本気で信じ込んでいるのです。
合わない鍵をどれだけ試しても、決して扉は開きません。
その努力は無駄に終わります。
”鍵(選択肢)”は無数に存在します。
しかし、扉が開くのは一つです。
扉(問題)を良く観察しましょう。
対象の”話”を聞くのです。
頭ごなしに決め付けてはなりません。
そのような方法であっては、一生涯その問題が解決することはないのです。
一生涯、同じ問題を抱え、同じ苦悩に付きまつわられるのです。
理解の”鍵”を以て問題に向き合いましょう。
力尽くで押し通せるほど、扉は薄くはありません。
理解の”鍵”を以て問題を解決することがなければ、先へ進めないということを覚えておきましょう。

2015年9月2日水曜日

現実世界

現実とは、目の前に広がる世界です。
あなたの体験している世界は、あなたにとっての紛れもない現実なのです。
すべての人が自分自身の現実を抱えています。
すべての人が自分自身の現実の世界に生きているのです。
それがどのような世界であろうとも、それが現実なのです。
現実というものは一つではありません。
それは、共通している世界ではないのです。
幾層にも重なる世界すべてが現実であるということを理解しましょう。
あなたに理解すること、受け入れることができない世界は、非現実ではありません。
あなたに受け入れることができない世界も、それは現実であるのです。
多くの人は自らが受け入れることができない世界を非現実として否定します。
それは、あなたにとっては非現実であり、受け入れることができない世界ではありますが、それはあなたにとっての非現実であるだけであり、他人にとっては現実そのものなのです。
世界を限定的に考えてはなりません。
あなたの知っている世界など、広大な世界の微小な一部分だけであるのです。
微小な一部分だけを切り取って全体を理解することは不可能です。
あなたの知っている現実のみを語って、全世界を理解したような気持ちになってはなりません。
現実は、あなたの考えているような小さなものではないのです。
世界を良く観察しなければなりません。
あなたの暮らす地域の常識と、他人の暮らす地域の常識は違います。
それだけで、現実は違うものとなるのです。
脳波の違いによって、人は違う現実を目の当たりにします。
あなたが睡眠の状態にある時、夢を見ています。
夢は非現実なのでしょうか?
あなたはそれを体験しているのです。
覚醒している状態のみを現実と位置付けることには無理があるのです。
夢の世界の体験も、明らかな現実なのです。
それが現実でないというのであれば、その体験に感情が働くはずがないのです。
あなたは夢の世界に対して、本気で恐れたり、本気で喜んだりするのです。
その感情は非現実的なものなのでしょうか?
それでは、覚醒している状態に受ける感情は、本当に現実的なものなのでしょうか?
脳波の違いによって、人は違う世界の同じ現実に向き合うのです。
脳波の違いだけで、人は違う世界の同じ現実を体験することができるのです。
あなたと他人の価値観によって導かれる認識は違います。
あなたの生きる世界(観)だけが現実であると主張するのには無理があるのです。
あなたは自分自身が認識することのできる現実に生きているのです。
他人は他人の認識する現実に生きています。
それを一緒くたに考えてはならないのです。
世界は決して一つの空間に存在してはいません。
様々な階層が幾重にも連なった世界が現実なのです。
主観で判断するのであれば、それは過ちを導きます。
主観で判断することができるほど、世界は小さくはないのです。
あなたは現実が幾つも存在するということを受け入れましょう。
小さな世界に生きてはなりません。
無知は苦悩を導くのです。
自己中心的な生き方によって、どうして豊かさが導かれるというのでしょう?
あなたは他人の視点を生きることはできません。
他人とあなたの視点は必ず違います。
それぞれが違う世界を生きているのが”普通”なのです。
そのため、常識という集合意識によって現実を理解することはできません。
現実が他人と同じである必要はないのです。
あなたの生きている現実が他人と同じであっては異常(不自然)なのです。
そのことを理解した上で世界を見なければなりません。
想定が間違っているのであれば、結論も間違えるのです。
現実が一つではないということを理解しましょう。

2015年9月1日火曜日

すべてが正解

人生におけるすべての選択は正解です。
あなたがどのような選択をしようとも、それは間違いではないのです。
選択の結果、どのような状況が導かれようとも、それが正解なのです。
この世界には因果の仕組みが存在しています。
あなたの選択は状況(人生)の原因となるのです。
あなたの選択に相応しい結果が現れるのです。
それは、必要な結果です。
人は人生において成長を目指しています。
すべての人が成長を実現するために生きているのです。
しかし、何を以て成長が実現するかは、それぞれに違います。
それは、それぞれの状態が違うためです。
状態が違うのだから、必要な状況も異なるということなのです。
そのため、必要は人それぞれに違うのが”普通”なのです。
何かが正解であり、何かが不正解であるということはありません。
すべてが正解であるのです。
どのような状況を得ようとも、それが自らの成長を助けます。
それが自分にとっては苦しいと感じるようなものであったとしても、それでなければ成長は実現しないのです。
多くの人は苦しいと感じることを否定します。
そこから逃れようとするのです。
しかし、その苦しみは自らの選択の結果です。
その選択しかできなかったのです。
自らの選択の結果として導き出される状況は、最善であるということです。
それ以外の状況を導くことはできなかったのです。
そのため、人は導き出された状況に対して、それを真摯(しんし)に受け入れる必要があるということを覚えておきましょう。
しかし、否定や拒絶が選択肢に無いというのではありません。
あなたは否定や拒絶をしても良いのです。
これは強制ではありません。
人生は自分自身で選択することが許されているのです。
自分自身の選択が許されているからこそ、その選択によって導き出される結果は真摯に受け入れる必要があるということです。
人生におけるすべての選択は、あなたに課せられた責任です。
自らの選択の結果は受けなければならないのです。
それは、それが最善であるからです。
多くの人は受け入れることができません。
それは、自分自身のこと(状態)を知らないからです。
すべての状況は自らの選択の結果であるにもかかわらず、そのことを知らないのです。
そのため、苦しみという状況に対して否定や拒絶を選択するのです。
自分自身のことをよく理解している人物は、簡単に否定や拒絶を選択することはないでしょう。
それは、成長する意欲を持っているためです。
人生におけるすべての状況、結果は最善です。
それはあなたが自分自身で導いたからです。
それは、あなたにとって最善の学びであるということを理解しましょう。
そうでなければ、人が成長することなどできないのです。
誰かや何かに対して責任転嫁するようであれば、いつまで経っても成長することはありません。
それでは、人生の意味を見失うのです。
不正解や失敗というものはありません。
あなたがどのように考えようとも、そのような事実は存在しないのです。
すべてが最善であり、大切な学びなのです。
すべてが正解であるということを理解しましょう。
意味の無いことなどないのです。
それぞれの状態によって必要が違います。
そのため、それぞれの幸福の形も違っているのが”普通”なのです。
それぞれに生き方が違って良いのです。
それぞれが正解なのです。
協力することは大切ですが、同じである必要はありません。
誤解を解きましょう。
すべてが正解であり、最善であるということを理解しましょう。