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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2016年1月31日日曜日

歪んだ全体と歪んだ個

人生とは、それぞれの目的のために与えられた時間です。
人は、それぞれの目的に従って行わなければなりません。
自らの目的を軽んじ、それ以外の目的に随行(ずいこう)するのであれば、その人は苦悩を受けるでしょう。
人は、自らの目的を重んじなければならないのです。
しかし、多くの人は自らの目的を軽んじています。
それは、自らの目的を知らないからです。
そして、その重要性を理解しないためです。
すべての人は幸福を求めています。
しかし、自らの目的の実現は求めていません。
誰かや何かに従うことによって、幸福が実現すると思い込んでいるのです。
そのため、自らの目的に従った人生を生きることができないのです。
あなたは何のために生きているのですか?
その日々を繰り返すことによってどうなるというのでしょうか?
あなたは人生に目的を持っていますか?
人生に目的も無く存在してはならないのです。
あなたには責任があるのです。
それは、あなたの人生という責任です。
人生を行っているのに、それに後悔してはならないのです。
行っているものは、それに喜ばなければならないのです。
多くの人は、自らの行っていることに喜んではいません。
寧(むし)ろ、それに苦しんでいるのです。
なぜ、苦しいことを続けているのですか?
あなたの目の前の純粋な子どもは、あなたに同じことを聞くでしょう。
なぜ、苦しいことを続けているのですか?
あなたは自分に問い掛けてみましょう。
それは、あなたの目的なのですか?
苦しむ目的とは何でしょうか?
すべての人が幸福を求めていますが、その中の多くの人は苦しみの目的を以てそれを実現しようと努めているのです。
そこには大きな矛盾が存在しているのです。
原因が矛盾していれば、結果も矛盾するのです。
因果はそのままの性質を導くからです。
苦しみの目的を行っているのであれば、苦しみの結果を受けるのです。
それ以外の結果を受けることはできません。
多くの人は、自分の目的を見失っています。
そして、いつの間にかに別の目的のために生きているのです。
別の目的にどれだけ努めても、あなたが満足することはありません。
それは、あなたが自らの目的によって満足することができるからです。
それ以外の目的によっては、満足することができないのです。
そのため、多くの人は満足することなく生きているのです。
それは、本当にあなたの目的なのでしょうか?
他の目的のために生きてはなりません。
それを行ってはなりません。
世の中には、自らの目的を歪める力が働いています。
人は、自分らしく生きることが難しいのです。
全体は大切ですが、歪んだ全体は必要ではありません。
全体が歪んでいるのであれば、個が正さなければならないのです。
人の世は個を殺します。
そこでは、個を一括(いっかつ)しているのです。
本来ならば、別々の個が全体を形成するのが自然です。
しかし、人の世はそれを歪めるのです。
全体とは、同じ個の集合体であると思い込んでいるのです。
そのような世界に幸福は存在しません。
あなたは個を殺してはなりません。
他の目的のために、自らの目的を手放してはなりません。
全体を支える個でありましょう。
苦しみのために行うのをやめて、喜びのために行いましょう。

2016年1月30日土曜日

起源

あなたは、”あの人”のようにはなりません。
”あの人”は、あなたのようにはなりません。
あなたと”あの人”は、別々の結果を得るでしょう。
それは、それぞれの原因が異なっているからです。
この世界には因果の仕組みが存在しています。
それは、すべての存在の責務なのです。
これを避けることはできません。
すべての存在は、自らの所有する原因によって結果を受けるのです。
原因に関わりの無い結果が導かれることはありません。
どのように望んでもそうはなりません。
誰に祈っても同じことです。
必ず、原因に相応しい結果が導かれるのです。
あなたの原因とは、あなたの心です。
それは、言動にまで至ります。
あなたの顕在(けんざい)と潜在(せんざい)を含めたすべての思考や感情が、あなたの原因となるのです。
あなたの認識は、僅(わず)かな顕在の思考や感情を知っています。
大部分である潜在の思考や感情については知らないのです。
あなたは、自分のことを知りません。
あなたは誰ですか?
あなたは何者なのでしょう?
何のために生まれ、何のために死ぬのですか?
この問いに答えることができますか?
これ等の問いに答えることができなければ、自分のことは知らないのです。
あなたには認識することのできない原因が存在しています。
それを知らないので、自分が”あの人”と同じになると考えるのです。
そして、そのように思い込むのです。
あなたがそのように考え、思い込むのであれば、それは新たな原因となってその通りの結果を導くでしょう。
その時には、あなたは「やはり、同じになった」と言うでしょう。
しかし、あなたは自らの生み出した新たな原因によって”あの人”と同じになっただけであり、本来ならば、そのようになる必要はないのです。
あなたは自分を知っていると思い込んではなりません。
残念ながら、あなたは自分のことを知りません。
あなたが自分を”思い出した”時には、”あの人”のようになることなどないということを知るでしょう。
あなたは”あの人”について、自分のことのように心配してはなりません。
”あの人”について、自分のことのように不安を抱えてはならないのです。
あなたは、自分と”あの人”を混同して考えているのです。
”あの人”の問題(因果)を、いつの間にかに自分のものとして考えているのです。
人生はそれぞれのものです。
あなたは”あの人”ではないのです。
そのため、”あの人”と同じように振る舞わない限りは、そのようにはならないのです。
”あの人”のようになろうとしてもなれないのです。
すべては原因に起源するのです。
それ以外はありません。
「自分が”あの人”のようになったらどうしよう」
「あなたは私のようになってはいけない」
このような議論は、空論に過ぎないということを覚えておかなければなりません。
あなたは決して、”あの人”のようにはなりません。
”あの人”は決して、あなたのようにはならないのです。
余計な心配や不安を抱えてはなりません。
あなたには、人生の目的があるのです。
心配や不安によって立ち止まってはなりません。
思うように生きれば良いのです。
これは、あなたの人生なのです。
”あの人”のように生きる意味などないのです。
本当に手本が必要でしょうか?
熟考する必要があるでしょう。

2016年1月29日金曜日

魔術

人は、道理から離れてはなりません。
人は、道理から離れては生きられないのです。
それは、心を殺し、肉体を殺すでしょう。
あなたは、道理を大切にしなければならないのです。
多くの人は道理から離れています。
合理主義が歪み、利己主義へと発展しているのです。
そのため、多くの人は理(ことわり)の道を離れたのです。
道理とは、人が歩むべき道筋です。
人は、光によって生まれ、闇の中に生きています。
この世を生きるということは、闇の中に生きるようなものです。
それは様々な誘惑(ゆうわく)によってあなたを迷わせます。
暗闇を歩むのは危険なのです。
それは、足を踏み外し、斜面を転げ落ちる可能性があるからです。
暗闇の中を歩むためには、光が必要です。
道理は、人の指標となります。
それは、暗闇を照らすのです。
道理に従う者は利他主義を選択するでしょう。
それは、道理の根幹には愛があるからです。
人が愛を見失う時、そこには利己主義が導かれるのです。
利己主義は、人々の中に偽りと争いを導きます。
偽りと争いは不正を生み出し、人の中に苦悩を生じさせるのです。
そこには、道理に反した行為が横行するでしょう。
道理に反した者は”魔術”に耽(ふけ)るのです。
明確に示しますが、”魔術”に耽る者が幸福を得ることはありません。
魔術師は、その行為によって火に焼かれるのです。
”魔術”とは、道理に反する行為です。
それは、自分で生み出してもいないのに、利益を得る者に似ています。
自分で生み出してもいないのに利益を貪(むさぼ)るということは、他者の利益を横から奪い取っているということです。
自分で生み出していないのに利益を得るためには、盗む以外に方法はないのです。
”魔術”に耽る者は聞きなさい。
あなたはその行為の故に大きな苦しみを受けるでしょう。
その裁きを覆(くつがえ)すことも、それから逃れることもできません。
”魔術”を行った時から、その裁きは決定しています。
だらか、”魔術”に耽る者は、その裁きが寛容(かんよう)に下されるように、その罪を少ないものとしましょう。
自分が生み出してもいないのに利益を貪る者が許されることはないのです。
貢献してこその利益であるのです。
貢献することが道理であるのです。
盗人は多くの財を得るでしょう。
しかし、それは一時の潤いです。
盗人は、その”魔術”の災いが及ぶ時には、自らの行為に悔いるでしょう。
賢(かしこ)く振る舞うというのは、他人から盗むということではありません。
知恵は、貢献(人々の喜び)のために使われなければならないのです。
自分(やその仲間)だけが喜ぶためのものではないのです。
道理は、他者や自分を苦しめるためのものではありません。
道理は、自分や他者を幸せにするためのものであるのです。
あなたは道理から離れてはなりません。
”魔術”を用いてはならないのです。
”魔術”は楽をもたらします。
道理は苦労をもたらすのです。
自分や他者を幸せにするということは、決して楽な道ではないのです。
楽な道に価値があるでしょうか?
振り返ってみましょう。
付加価値とは、苦労そのものなのです。
苦労こそが価値なのです。
道理を生きることは苦労を伴います。
しかし、そこには最高の価値が生まれるということを覚えておきましょう。
利益を盗んではなりません。
利益を生み出す人になりましょう。

2016年1月28日木曜日

愛の戒め

あなたには戒(いまし)めが必要です。
なぜなら、罪が何であるのかを知らないからです。
罪を知らなければ、それを犯すことになるでしょう。
罪を犯せば、因果の仕組みによって罰が与えられます。
それは、あなたにとっての最善の苦しみとなるでしょう。
人は無知を所有しています。
そのため、罪を犯すのは自然の成り行きです。
人は、罪を犯し、その罰を受けることによって知恵を得るのです。
知恵は戒めとなるのです。
人の内に知恵がある時には、その戒めによって人が苦しむことはありません。
しかし、時間の経過と共に、人の内からは知恵が去ってしまうのです。
多くの人は、罰によって得た知恵を忘れてしまいます。
それは、人が慢心を得るからです。
知恵は、慢心と共に消え去るのです。
人の内に知恵がある時には、その戒めに従って罪を避けます。
しかし、それもいつかは習慣となるのです。
その結果として、人は罪を忘れてしまうのです。
そして、同じ罪を繰り返すことになるのです。
できないことは、もう一度体験しなければなりません。
それは、できるようになるためです。
過ちを繰り返すことは、人生の目的ではありません。
あなたの人生の目的は成長にあるのです。
自らの過ちを正し、より高貴な人物になることを目的としているのです。
戒めを忘れ、罪を犯すことによって苦しんでいる者が尊(とうと)ばれるでしょうか?
あなたは、そのような人を尊敬するでしょうか?
戒めを守り、克己(こっき)に励む人を尊敬の対象とするでしょう。
罰は人を焼きます。
それは、炎であるのです。
小さな罪は小さな罰を導きます。
大きな罪は、それに見合う大きな罰を与えるでしょう。
罪に相応しい罰が与えられますが、それは、炎の大きさを現しているのです。
罰は炎であるということを覚えておきましょう。
しかし、それは肉体を焼く炎ではありません。
それは、霊体(意識、精神、心、魂)を焼くのです。
指先ほどの小さな炎であっても、あなたには耐えることができません。
小さな炎でも肌に触れるのであれば、あなたは泣き叫んで許しを請(こ)うでしょう。
あなたは、小さな炎にも耐えることができないのです。
罪はあなたを焼きます。
あなたはそれに耐えることができません。
しかし、この世界においては、あなたの状態は肉体に傾いています。
そのため、炎が霊体を焼いても、それに気が付くことは簡単ではないのです。
多くの人が自らの罪の炎に焼かれていますが、そのことには気が付かないでいるのです。
罪とは、愛に反する行為です。
冷酷さには注意する必要があるでしょう。
自分勝手に行ってはなりません。
それは、相手を傷付けるでしょう。
愛の不足によって、人(や、すべての存在)は傷付くのです。
それは、あなたに罰を導きます。
愛を軽んじてはなりません。
愛こそが戒めです。
愛を忘れる者は苦しむのです。
小さな炎も侮(あなど)ってはなりません。
それは、あなたを焼くに十分であるからです。
愛の戒めを忘れないように、克己に励みましょう。

2016年1月27日水曜日

最善の判断

人は、それぞれの目的を以て人生に存在しています。
目的はそれぞれのものであって、混同することはできません。
すべての人が違う目的のために生きているのです。
あなたは、基本としてそのことを覚えておかなければならないでしょう。
目的が違うのは、学びが違うためです。
人は、学びに従った目的を所有しているのです。
学びとは、成長に対する必要です。
人は、人生において魂(思考、心、人格、霊格など)を成長させようとしているのです。
魂の成長という目的のための人生なのです。
魂の段階(状態)は、それぞれに違います。
それは、ただの時間の問題であり、優劣を知ることはできません。
長く時間を過ごしているほど知っており、短く時間を過ごしているほど知らないのです。
魂の段階とは、その程度の事柄なのです。
あなたは人に優劣を求めてはなりません。
それぞれの目的は、それぞれの立場を生みます。
立場によって、考え方は異なります。
別の地域に生まれただけで、考え方には違いが生じるのです。
後天的な信仰によっても、考え方は簡単に変わってしまうのです。
しかし、それはそれぞれの目的のために最善な方法であるということを覚えておく必要があるでしょう。
それぞれの目的に対しての最善の方法は、他人にとっては理解することが難しい方法でもあります。
そのため、度々人の間には誤解が生じるのです。
他人を理解することは難解です。
それは、目的が違うからです。
目的が同じであれば、互いに肩を組んで歩むこともできるでしょう。
しかし、目的が違うだけで、それは困難になってしまうのです。
あなたは、目的の違う他人とは簡単に理解を深めることができないということを覚えておきましょう。
多くの人は、意見の違いに対して批判を用います。
目的が違うのだから、意見が違うのは自然です。
しかし、そのことを知らないが故に、批判という安易な選択をするのです。
批判が豊かさを導くことはありません。
それは、互いを傷付けるのです。
そこには乏しさが導かれるでしょう。
あなたは、他人と考え方が違っていたとしても、それを批判してはなりません。
その人にとっては、その選択が最善であるのです。
そのことは、あなたには理解することが困難です。
あなたの立場による最善と、相手の立場による最善とは、大きく異なっているということを知りましょう。
そのため、他人はあなたから見ると滑稽(こっけい)な選択をするかも知れません。
しかし、あなたは他人の立場を知りません。
そのため、他人の選択が最善であるということを知らないのです。
あなたは、他人の選択に対して”自分ならこうする”と考えるでしょう。
しかし、それは無意味です。
あなたが他人が得たような状態を得たのであれば、その時には自分の思うように選択することが最善です。
しかし、他人から見れば、それも最善であるとは思えないのです。
他人はあなたに対して、”自分ならこうする”というあなたの選択とは違う考えを思い巡らすでしょう。
あなたが思うように、他人もあなたに対して思います。
どのような選択も、それがその人にとっては最善の選択肢なのです。
あなたよりも賢い人がいて、その賢い人はあなたを滑稽に思うでしょう。
あなたが行っていることは、あなたにも行われるのです。
それは、この世界には因果の仕組みが存在しているからです。
あなたは、相手に好きなようにさせてあげましょう。
相手がどのような結果を受けるかは、あなたには分からないことなのです。
あなたが行った場合と、他人が行った場合では、別の結果が導かれるのです。
それは、立場が違うためです。
原因に相応しい結果が導かれます。
人生は魂の成長のための場所です。
人は、自分自身の魂のこと以外には知りません。
他人の魂を知っていますか?
それなのに、あなたは他人を批判することができるのでしょうか?
他人がどのような判断を下そうとも、それを認めましょう。
それがその人の選択であり、それが最善であるということを認めるのです。
”自分ならこうする”という他人の主観があなたには重要ではないように、あなたの主観は他人には重要ではないのです。

2016年1月26日火曜日

多くの人は、立場に捕らわれています。
多くの人が、自分の立場にこだわっているのです。
多くの人は立場にこだわるあまり、立場としての視点に集中します。
その結果、立場にこだわった限定的な視点に固執(こしゅう)し、立場を離れた視点(客観視、相対的視点)を失ってしまうのです。
人の世には、善悪というものが存在しています。
それは、対立する立場を現します。
善悪とは立場によって入れ替わり、定まったものではないのです。
絶対の善もなければ、絶対の悪も存在しません。
それは、立場によって善であり、立場によって悪となるからです。
善悪というものは、実質の存在しない幻想であると理解しましょう。
しかし、多くの人はそれを確実なものとして解釈しています。
自分の立場から生じる視点は善であり、それ以外の立場から生じる視点は悪であると考えるのです。
(反対の場合もある)
そこには”無駄”な争いが生じます。
多くの人は、幻想に対して争っているのです。
何のために争っているか?も分からない人たちの争いには決着がつきません。
何のために争っているか?すら知らないのです。
何が決着であるのか?ということも知りようがないのです。
そのため、人は常に争いの中に生きなければならないのです。
あなたは争いの中に生きたいと思いますか?
そこに幸福が実現すると思いますか?
純粋に考えてください。
歪んだ習慣は正さなければなりません。
しかし、争うことが悪い訳ではないということも理解しなければなりません。
矛盾しているように思うかも知れません。
しかし、すべての立場は幻想であるのです。
争うことによって消耗し、争うことに飽きれば、争い以外の選択肢を探すでしょう。
その時には、自分や相手が立場にこだわっていたということを悟るのです。
それは、結果として、歪んだ習慣を正すことにもなるのです。
人の世では、立場を強制されます。
すべての人は立場に属さなければなりません。
しかし、立場に支配されない思想を確立することはできるのです。
それは、自由な発想によってもたらされます。
自由な発想とは、立場に捕らわれない柔軟な発想のことです。
多く人は立場にこだわった発想を頼ります。
例えば、男は男の立場でものを言い、女は女の立場でものを言うのです。
そのため、いつの世も両者は相容れないのです。
男が女の立場を察し、女が男の立場を察すれば、そこに争いが生じることはないのです。
争いとは、互いが自分の立場を主張し、相手の立場を否定することによって生まれるのです。
残念ながら、多くの人は立場を離れることはできません。
多くの人は善悪を絶対のものとして信じているからです。
そのため、人の世で生きるためには、立場を前提とした生き方をしなければならないのです。
本来ならば、立場を離れることが理想ですが、あなたは相手の立場を考慮することに努めましょう。
互いの立場を尊重することによって、ほとんどの争いは生じることがないのです。
それだけでも大きな前進です。
あなたが好きにしたいように、相手も好きにしたいのです。
しかし、立場がそれを拒むのです。
あなたは相手の主張を聞かなければなりません。
頭ごなしに断定してはならないのです。
人の世では”口”が強過ぎるのです。
それは、その心が満たされていないためです。
理想は”耳”が強くなることです。
互いが相手の主張を聞く耳を持てば、立場という幻想は崩れ、友となるのです。
この世界に存在するすべては友であるのです。
善悪で分けられるものではありません。
友を大切にしましょう。
善悪を超えた価値観によって生きることは素敵です。

2016年1月25日月曜日

人それぞれ

人生とは、それぞれのものです。
すべての人がそれぞれの人生を生きています。
それは、それぞれに目的が違うためです。
すべての人の目的が、別々の異なる形をしているのです。
同じ目的のために生まれ、同じ目的のために生きている人はいないのです。
それぞれが別々の目的のために生まれ、別々の目的のために生きているのです。
あなたはそのことを理解しなければならないでしょう。
多くの人は理解を求めています。
それは、満たされていないためです。
満たされていない人は、他人に理解を求めます。
それは、自分自身と他人との混同を生み出します。
満たされていない人は、他人に自分自身を投影します。
そして、他人を自分自身として扱うのです。
他人を自分自身として扱うというのは、相手が自分を受け入れてくれること、理解してくれることを前提とする考えです。
満たされていない人は多くの場合、相手が自分のことを受け入れ、理解してくれることが当然だと考えます。
そして、自分の意思に反する態度や状況に対して怒りを覚えるのです。
満たされていないために、余裕がないのです。
満たされていないために、欲するのです。
満たされていない人は、欲することを当然のこととします。
満たされていない人は、与えられるのを当然とします。
満たされていない人の頭の中には、(多くの場合)与えるという選択肢はありません。
不足しているために、満たそうとする考えが(無意識的にも)強過ぎるのです。
そのため、相手の気持ちや立場を考えることができません。
そして、自分の主張を押し通そうと意地を張るのです。
人生を考察すれば、目的がそれぞれに違うということを理解することができます。
「すべては一つ」に違いありませんが、それは根本が一つであって、それぞれは樹木の枝のように分かれているのです。
枝はそれぞれに分かれています。
しかし、同じ樹木から生じるのです。
それぞれの枝がそれぞれの枝葉を所有しています。
同じ形の枝葉ありません。
それぞれが環境に合わせて発展するのです。
同じ環境にある人はありません。
同じ家庭に育ったとしても、それぞれの環境は確実に異なるのです。
異なる環境を得るのは、目的が異なるためです。
それぞれの目的に沿った環境が与えられるからです。
そのため、混同して考えるのは無意味です。
無意味どころか、問題を導くでしょう。
枝が環境に対して最善を尽くすように、人も環境に対して最善を尽くす必要があります。
他人と同じように行っていてはなりません。
光が当たらなければ、長く伸びなければなりません。
多くの光が当たるのであれば、広く伸びるのです。
環境に対して柔軟に対応することができなければ、枝は枯れ落ちてしまうでしょう。
あなたは他人と自分を混同してはなりません。
他人を自分のようにする必要はありません。
また、自分を他人のようにする必要もないのです。
あなたは”あなた”であれば良いのです。
”あなた”でなければならないのです。
あなたの目的は、あなたの役割です。
あなた以外にこの役割を果たすことができる他人がいるでしょうか?
残念ながら、本当の意味であなたの代わりになる他人など存在しないのです。
胎(たい)を痛めて産んだ子の母親が、他にいるでしょうか?
厳しくも労り、子の成長を諦めない父親が他にいるでしょうか?
あなたには、”あなた”でなければならない理由があるのです。
人生はそれぞれのものです。
あなたは自分と他人を混同してはなりません。
それぞれが、それぞれの生き方をすれば良いのです。
人生は、その目的に対して自由なのです。

2016年1月24日日曜日

空ろ

この世は幻想です。
あなたは、それに熱中してはなりません。
この世には悪意が蔓延(はびこ)り、一切を空(うつ)ろとします。
悪意によって行えば、すべてが空ろとなるのです。
そこに実質はなく、すべてが幻想となるのです。
多くの人は空ろに熱中しています。
空虚に対して実質を掴もうとしているのです。
しかし、空ろは空ろであり、実質は存在しません。
この世のこと(悪意)にどれだけ努めても、あなたは得るものがないのです。
多くの人はこの世が幻想であるということを受け入れることができません。
この世に実質が存在すると思い込んでいるのです。
それは、判断基準がこの世から始まるからです。
多くの人にとって、現実とは形而下(けいじか)に収まります。
思考や感情、生命でさえ現実とし、それ等を形而下に収めようとするのです。
しかし、形而上の事柄を用いることがなければ、理解を深めることはできません。
それは、思考や感情、生命という人を形成する上で重要な要素は、形而上の事柄であるからです。
多くの人は形而下の事柄のみによって生きようと努めています。
唯物的な発想を貴重とし、唯心的な発想を否定します。
”神”や 霊を取り除いた世界が現実であると考えているのです。
形而下に限定することは、その思想を限定することになります。
それは、陰陽、善悪、左右、男女、+ー(プラスマイナス)・・・
これ等対極の片方のみを受け入れて、片方を否定するようなものなのです。
偏見は、歪みを生じさせます。
歪みとは、悪意です。
この世に存在する多くの人は、形而下に限定した見方をします。
多くの人は唯物的な発想に頼るのです。
立場が人を隔てているのです。
世の中では、唯物的な価値(財産や立場など)に対する信仰が勝ります。
それを勝ち取るためには、争わなければなりません。
そのため、世の中には争いが絶えないのです。
それは、不安を導きます。
不安を抱く心には、善意は生まれないのです。
多くの人の悪意は、この世に空ろを生み出すでしょう。
あなたが熱中していることは、人生の実質に関わることなのでしょうか?
死後に失うものを懸命に集めているのであれば、改めて考えなければなりません。
世の中は悪意によって満たされています。
そこで謳(うた)われる価値観は、悪意によるものです。
それは、どれだけ集めても空ろに過ぎず、あなたはそれによって満足することはできません。
誰かが、「これは良いものだ」と言って何かを賞賛しても、あなたはそれを鵜呑みにしてはなりません。
この世に関することの一切は空ろだからです。
この世に正しい人がいるでしょうか?
そのような人がいたとして、「これは良いものだ」と大勢に対して謳うでしょうか?
正しい人が、正しい価値観を広めることを、人の世が許すでしょうか?
世の人々は知らないのです。
正しい人が正しいことを告げても、世の人々にはそれが分からないのです。
多くの(無知な)人は、自分が現実を生きていると思っています。
しかし、思考や感情、そして生命さえも説明することができない者が、現実を生きていると言えるのでしょうか?
自分が何者であるのかも知らず、人生の意味も分からない者は、幻想を生きているのです。
それが何か分からないのだから、幻想を生きているのです。
目の前の(悪意によって導かれる)事柄に対して、あなたは熱中していませんか?
真剣に喜び、真剣に苦しむことは悪いことではあります。
しかし、実質に反しているのは問題でしょう。
喜びや苦しみなどは、立場によって全く変わるのです。
そこに実質があるのでしょうか?
立場によって全く変わるものであるなら、それは幻想に過ぎないのです。
実質は、どのような立場においても変わることはありません。
この世の空ろに熱中してはならないでしょう。
この世が幻想であるということを覚えておきましょう。


2016年1月23日土曜日

誉れ

多くの人は不足しています。
多くの人は満たされてはいないのです。
そのため、常に多くのものを求めています。
足りなければ求めなければなりません。
多くの人が満ち足りることなく生きているのです。
それは、多くの人は満ち足りることを知らないからです。
満ち足りる方法を知らないために、常に不足しています。
満ち足りている人は与えることができます。
それは幸福なことです。
与えることができるということは、ある種の余裕があるということだからです。
少ない中からでも与えることができる人の心は、豊かに満ち足りているのです。
しかし、多くの中からでも与えることができない人がいます。
多くを所有しているのに、まだ欲するのです。
それは、どれだけ多くを所有していようとも、その心が乏しく不足しているということを現しているのです。
不足しているために多くを求め、多くを所有します。
多くを求めるということは、多く不足しているのです。
多くの人はその心が豊かに満ち足りていないために、多くを求めるのです。
多くの人は他人からの評価を求めています。
認められていないが故に、認められたいという願望が強いのです。
そして、褒(ほ)められようとします。
しかし、不足し、満たされてはいないために与えることはしません。
与えることをせずに褒められようとするのです。
そのような矛盾が実現することはありません。
そのため、更なる矛盾を行うようになるのです。
矛盾によって矛盾を解決しようと浅はかに考えるのです。
それは、嘘を嘘によって真実に変えようとする愚行と同じなのです。
多くの人は、当たり前のことを褒めて欲しいと願います。
しかし、当たり前のことをするのは当たり前のことなのです。
当たり前のことをしたからといって褒められる人はいません。
当たり前のことをして褒められるためには、自らを蔑(さげす)まなければならないのです。
それは、人生の目的である成長に矛盾しています。
しかしながら、そのことには気が付きません。
自らの浅はかな考えによる愚行が、自らを満たすと思い込んでいるのです。
多くの人は褒められることを求めています。
しかし、褒められることを期待している者が、褒められることを行うことはありません。
なぜなら、その志(こころざし)が低いからです。
他人から褒めらえることを前提に行う者は、利己的に行っているのです。
自分のために行うことが、どうして他人に褒められるのでしょうか?
利己的に生きれば、他人からの誉(ほま)れは奪われます。
利己的に生きる者に対しては、恥が与えられるのです。
多くの人は利己的に生きています。
そのため、恥の上に更なる恥を重ねるのです。
褒めるべき人間がどれだけいるでしょうか?
どれも不足しています。
あなたは、当たり前のことによって褒められることを期待してはなりません。
自らを蔑んではならないのです。
羞恥心(しゅうちしん)を以て生きましょう。
恥を知らなければなりません。
あなたは、他人から褒められることを期待してはなりません。
あなたの行為が利他的で素晴らしい時には、他人からの賞賛(しょうさん)が惜しみ無く与えられるでしょう。
人が褒められることを期待せずに行った時には、その心は満ち足りることを知るでしょう。
誰に当たり前のことを褒めません。
赤ん坊が立ち上がれば褒めますが、大人が立ち上がれば、今すぐに歩きなさいと言うのです。
大人が立ち上がったことで褒められることを期待してはなりません。
多くの人は不足しています。
多くの人は満たされてはいないのです。
しかし、それに気が付いてはいません。
そのため、当たり前のことを褒めて欲しいのです。
あなたは、恥と共に生きてはなりません。
誉れを期待せずに与えましょう。

2016年1月22日金曜日

信仰の見直し

人生とは道です。
人はそれを歩んでいるのです。
道の先には目的地が存在し、すべての人はそこへ到達します。
すべての人が目的地へと向かって歩みを進めるのです。
すべての人が目的地を持ちます。
それは、現在の方向性によって決まります。
それは、初めから決められた道ではありません。
あなたは、それを自らの意思によって決めるのです。
信仰が方向性を決定します。
人は、信じるところに従って行うのです。
すべての人が信仰を持ちます。
無神論者であれば、無神論という信仰を持つのです。
人の数だけ信仰があるということを覚えておきましょう。
信仰によって方向性が決まり、それによって目的地が決まるのです。
そのため、信仰というものは人生を左右するということを理解しなければなりません。
しかし、多くの人は信仰に無頓着(むとんちゃく)です。
多くの人は、自分自身の信仰の傾向や対象を知らずに生きているのです。
そのため、目の前には思いも寄らない状況が導かれます。
この世界には因果の仕組みが存在しているために、すべての状況は当然の結果なのですが、信仰を知らないためにその結果に驚くのです。
自らの信仰を知っているのであれば、状況に驚くことはないのです。
それは当然の結果として受け入れることが許され、状況をコントロールすることが可能になるのです。
原因を理解することは、結果を理解することだからです。
あなたが満足する結果を求めているのならば、原因を大切にする必要があります。
原因を大切にしない者が、満足を得ることはできないのです。
人生の原因とは、あなたの信仰です。
あなたは信仰によって人生を築いているのです。
そのため、常に信仰に対して審査し続ける必要があるのです。
知識と経験の量に伴って知恵は増します。
知恵の高まりによって、信仰の形態も変化します。
幼い頃の信仰と、歳を重ねてからの信仰には違いがあるのです。
そのため、信仰の形態は常に古いものとなります。
知恵は毎日増していきます。
どのような者であっても、生きているだけで知恵は増すのです。
そのため、毎日信仰は変わっているのです。
しかし、多くの人はそのようには認識しません。
そのため、多くの人は古い形態の信仰をいつまでも守り続けているのです。
歳を重ねても、考え方や生き方が変わらない者がいます。
そのような人の信仰には違いがないのです。
古い信仰はあなたの可能性を阻(はば)みます。
古い情報が何の役に立つというのでしょうか?
古い信仰はあなたに満足を導きません。
それが示す目的地には満足することができないでしょう。
あなたは毎日、信仰の形態を審査しましょう。
それは、本当に信仰すべきものでしょうか?
何よりも優先すべきものなのでしょうか?
その信仰が示す目的地はどのような場所でしょうか?
あなたは常に考え続けなければなりません。
あなたが自分自身によって、どのような場所に向かうのかを決めるのです。
それは守る価値のあるものですか?
惰性(だせい)に従ってはなりません。
あなたにとっての最善を選択するのです。
他人と同じである必要はありません。
人生とは、それぞれの道なのです。
それぞれが満足する道を行くことが求められるのです。
あなたは信仰を顧(かえり)みましょう。
同じことを続けていてはなりません。
時間は素早く過ぎていきます。
後になって悔やんでも遅いのです。
毎日、信仰を見直しましょう。

2016年1月21日木曜日

世界を変える人

あなたには世界を変える力があります。
世界は、あなたが変えてくれるのを待っています。
世界は変わりたいのです。
それは、世界が理(ことわり)に忠実だからです。
”神”が定めた理は、すべての存在の向上を促します。
すべての存在は変化によって向上を実現するのです。
それがどのような変化であろうとも、変化を受け入れるのであれば、向上が実現されるのです。
停滞は向上を実現しません。
それは、変わることがないからです。
現状を変えることがない限りは、それ以上の向上を得ることはできないのです。
世界は向上を求めています。
それは、あなたにも言えることなのです。
あなたは向上を欲しています。
あなたがそれを否定しようとも、欲しているのです。
それは、幸福というものが実現するためには、変化と向上が欠かせないからです。
現状に甘んじている状態においては、幸福を得ることはできません。
なぜなら、幸福という状態は変化の中、向上の中に存在するからです。
幸福が停滞することはありません。
どのように幸福感を覚えようとも、それが停滞を得ればやがて退屈が導かれます。
そして、それが続けば苦悩となるのです。
どのような熱も冷めてしまいます。
幸福という状態は心が熱を持っている状態です。
情熱こそが幸福なのです。
しかし、停滞は情熱を冷ましてしまうのです。
情熱を傾けられないものに対して、幸福を覚える人がいるでしょうか?
飽きてしまったものに対して、どうして幸福を覚えることができるのでしょう?
変化がなければ飽きがくるのです。
そのため、幸福を保つためには変化を続けなければならないのです。
あなたには世界を変える力があります。
あなたはこれを信じますか?
多くの人は、自分には世界を変える力が無いと反論するでしょう。
しかし、あなたには世界を変える力があるのです。
あなたが信じなくても、あるものはあるのです。
世界はあなたの認識によって決まります。
あなたの心が世界なのです。
あなたが世界に対して嫌悪すれば、世界は苦しみに満ちたものになります。
あなたが世界に対して愛好すれば、世界は喜びに満ちたものになるでしょう。
世界が変わるのは一瞬です。
それは、あなたの心によるのです。
世界を変える力が無いと考えるのであれば、それは誤解を所有しているということです。
人は、それぞれの世界を生きているのです。
人には、それぞれの世界があり、それぞれの世界が一つの世界を形成しているのです。
肉体における細胞の一つが悪性になれば、そこから滅びます。
世界における細胞とは、人それぞれの世界であるのです。
あなたは、世界を形作る一つの世界であるということを覚えておきましょう。
あなたは”良い”世界を生きなければなりません。
そこには問題が存在しますが、苦悩は存在しません。
そのような世界を生きるのです。
何度も言いますが、あなたには世界を変える力があるのです。
自信を持ちましょう。
あなたが気持ちを切り替えるだけで、世界は一変するのです。
あなたは常に変化の中に生きなければなりません。
不安や怒りなどの破滅的な感情を選択しているものに対して、そのままではなりません。
破滅的な感情を建設的な感情へと変化させる必要があるでしょう。
問題が失われるということはありませんが、苦悩が失われるということはあるのです。
苦悩が存在しない、”良い”世界を築きましょう。
それは、あなた次第なのです。

2016年1月20日水曜日

難しいもの

あなたは、出来る限り難しいものに触れようと心掛けましょう。
あなたは自分にとって難しいと思えるものに触れるのです。
自分にとって難しいものには、あなたの可能性を引き出す力があります。
自分にとって難しいものは、あなたを助けるでしょう。
しかし、多くの人は自分にとって簡単なものに触れます。
それは、そこに安心感があるからです。
自分にとって簡単なものには恐れる必要がありません。
それは、簡単だからです。
簡単なものに対しては、余裕が生まれます。
多くの人は、それを安心するのです。
しかし、安心感が可能性を奪ってしまうということも覚えておかなければなりません。
すべてのものには様々な側面があります。
それ等は大きく分けて、陰陽二つの側面を有するのです。
安心感は、あなたに安息をもたらしますが、同時に可能性を奪います。
安心感に浸っていると、それに満足してしまうのです。
満足は、怠慢(たいまん)の側面を持ちます。
それはあなたの成長を阻害するものとなるでしょう。
多くの人は、変哲もない毎日を過ごしています。
そこには刺激が不足しています。
刺激とは抵抗のことであり、抵抗は力を生み出すのです。
刺激の無い毎日は、抵抗の無い毎日であり、そこには力が導かれないのです。
刺激を得るためには、自分にとって難しいことが欠かせません。
自分にとって難しいことには、すべての感覚、能力を傾ける必要があります。
全力を傾けなければ、自分にとって難しいことは苦悩というもう一つの側面を見せるからです。
これは厄介です。
苦悩を受けることによって、人はそれを拒絶するようになります。
自分にとって難しいことを拒絶することによって、それ以上の可能性を引き出すことができなくなります。
そして、自分にとって簡単なことに専念するようになるのです。
しかし、それはネガティブな理由によってなのです。
自分にとって難しいことへのトラウマが、人を自分にとっての簡単なことをこなすだけの作業的な人生へと導いてしまうのです。
自分にとって簡単なことをどれだけ繰り返したところで、そこに何が得られるというのでしょう?
あなたはただの繰り返しの作業によって、”良いもの”が得られると思いますか?
自分にとって簡単なことを繰り返すだけの変哲もない毎日は、やがて怠慢に繋がります。
その怠慢には、退屈という側面があるのです。
それは後悔へと繋がるのです。
あなたは人生に後悔を得たいと思いますか?
それが嫌ならば、自分にとって難しいことに触れるように心掛けなければなりません。
それは、あなたのすべてを刺激します。
刺激を受けて、あなたは感覚と能力を拡張することができるでしょう。
感覚と能力の拡張は、あなたに更なる自分にとって難しいことを教え、更なる刺激を導きます。
それが、成長の過程なのです。
あなたは人生の目的が成長であるということを覚えておかなければなりません。
それは、基本的な目的であり、すべての存在が避けることができません。
あなたは成長するために生まれたのです。
ただ、生活するために生まれたのではありません。
多くの人は人生を誤解しています。
長生きすることに価値があると思いますか?
何の役にも立たず、代役が幾らでもいて、誰からも誉(ほ)められないような人生に価値があるのでしょうか?
これは切実な願いなのです。
成長しましょう。
戯(たわむ)れに時を過ごしてはなりません。
あなたには目的があるのです。
出来る限り、自分にとって難しいことに触れなければなりません。
人生が繰り返しの作業ではないということを覚えておきましょう。
刺激の多い人生にしましょう。

2016年1月19日火曜日

見当違い

人生は、自分自身の選択によって展開します。
どのような状況を得たとしても、それはあなたの選択の結果です。
人生がどのようなものになるかは、あなた次第であるのです。
選択の基準は考え方にあります。
人は、どのように考えているか?によって、どのように選択するか?を決めているのです。
しかし、多くの人は、自らの考え方と受け取る状況との間に関連性を理解しません。
受け取る状況と自分自身の考え方とは、関係しないと思っているのです。
そのため、何かの問題が生じた時には、誰かや何かにその責任を転嫁(てんか)するのです。
あなたにも思い当たるところがあるでしょう。
多くの人は、考え方と状況が強固に結び付いているということを知らないのです。
目の前の状況が自らの考え方から生じていると想像する人は多くはありません。
それは、自己正当化と理想主義が導く弊害(へいがい)です。
多くの人は、自分には非がないと思いたいのです。
多くの人は、自分が悪者にはなりたくないのです。
しかし、自己正当化と理想主義は、その責任と原因を曖昧(あいまい)にします。
それは悲劇の始まりであり、苦悩への序曲(じょきょく)なのです。
自己正当化と理想主義を支持している間は、苦悩を逃れることができないということを理解する必要があるでしょう。
自己正当化と理想主義は何によってもたらされるのでしょう?
その原因を理解しなければ、それ等への支持を取り下げることはできません。
あなたが自己を正当化し、理想主義に逃げ込む時には、どのような心理的働きがあるでしょうか?
そこには、利己的な考えがあるはずです。
自分が優位な立場を得たい。
悪者にはなりたくない。
自分は悪くない。
責任を取りたくない。
責められたくない。
相手が悪い。
世の中が悪い・・・
このように、利己的な考えを巡らせる時には、人は自己を正当化し、理想主義を確立するのです。
利己主義は欲望に根差しています。
欲深い人は苦悩を得るでしょう。
欲深い人が幸福を得ることはできません。
なぜなら、それは見当違いであるからです。
利己主義が正しいのであれば、あなたは奪い合いの世界を生きなければなりません。
利己主義がもたらすのは、争いであるからです。
互いが自分の利益のために行えば、争いが生じることなど簡単に想像することができるでしょう。
利己主義が幸福をもたらすことなどないのです。
見当違いをしてはなりません。
すべての人は欲していますが、多くの人は与えられる人生を期待しています。
与えられるということは、物乞(ものご)いです。
それは、利己主義であり、欲望から生じるのです。
乞食(こじき)の考え方は、与えられることを欲しています。
先述したように、利己主義は苦悩を導きます。
そのため、与えられることを欲している限りは、幸福を得ることはできないのです。
与えられることにどれだけ努めても、乞食は乞食に他なりません。
与えられることを欲してるために、乞食という状態を結果として受けるのです。
人生は考え方によって大きく変わります。
あなたが重要視しなければならないのは、考え方なのです。
どのような考え方によって生きるのか?ということ以上に重要なことがあるでしょうか?
人は、考え方によって乞食にもなり、与える人にもなるのです。
あなたが与えられることによって幸福を目指しているのであれば、そのような考え方は見当違いであるということを覚えておきましょう。
人は、与えることによってのみ幸福を得られるのです。
そして、与える人は豊かさを得るのです。
豊かな乞食を知っていますか?
豊かな与える人ならば、あなたも知っているでしょう?
考え方を大切にしなければなりません。
与えられることを欲してはなりません。
豊かな心によって、与える人を目指しましょう。

2016年1月18日月曜日

洗脳

人は、人生を生きています。
人生においては、選ばなければなりません。
あなたは常に選択を迫られています。
選択を拒否することはできません。
なぜなら、選択を拒否するということが選択となるからです。
人は必ず選んでいるのです。
選択によって、人生は展開します。
人生は、あなたの選択によって築かれます。
すべての状況が選択の産物です。
状況の原因は選択であるということを覚えておきましょう。
あなたは、自分の人生を生きているでしょうか?
多くの人は自分で選択していると思っています。
本当にそうでしょうか?
自分で選択していると思い込んでいるかも知れません。
あなたは、様々な可能性を考慮しましょう。
人は普段から様々な情報に触れています。
能動的に触れている情報もあれば、受動的に触れている情報もあるのです。
意識的にも、無意識的にも、あなたは様々な情報に触れているのです。
それ等は、あなたの考え方や捉え方や生き方に影響します。
自らの発言や行動が、知っている情報の中から導かれているということを理解する必要があるのです。
あなたが日本語を知らなければ、この文章を理解することはできません。
日本語という情報があなたの中にあるのです。
それは、能動的に加え、受動的な情報収集の結果なのです。
あなたの行為はあなたの信仰から生じますが、その時には所有している情報の道を通って現れるのです。
あなたの信仰から生じる行為は、所有している情報にまみれているのです。
信仰とは、情報の結果です。
人は常に洗脳されているのです。
人は必ず何かしらの信仰を所有しています。
信仰を持たない者は存在しません。
それは、洗脳の賜物(たまもの)なのです。
この言葉を読んでいる者は、この言葉によって洗脳を受けます。
そして、そこには信仰が生じるのです。
この言葉に長く触れている者は、自分もそのように振る舞おうと考え始めます。
そして、そのように振る舞うようになるのです。
別の言葉に触れている者は、その言葉のようになるのです。
それは、自分から生じた行為ではないかも知れません。
その行為は、信仰から生じた可能性があるということを覚えておきましょう。
人はそれぞれに幸福の形を所有しています。
それは、本当に自分から生じたものでしょうか?
それは、信仰によって生じたものではありませんか?
それは、本当に幸福なのでしょうか?
あなたは自分が洗脳下にあるということを知っておきましょう。
良くも悪くも、あなたは洗脳を受け続けているのです。
自分で選んでいるように思っても、選ばされている可能性があるのです。
あなたは”自分”のことを知っていますか?
自分が何者であるのか?を知っているのですか?
この問いに答えることができる者は、信仰や洗脳によって選ばされている可能性は低いでしょう。
自分を知らない者は、自分が何を選んでいるかさえ知らないのです。
自分を失う者は、容易く人生を失うのです。
あなたは自分の人生を生きていますか?
自分の人生を生きているという自信はありますか?
それは、誰かに選ばされているのではありませんか?
なぜ、あなたは心に矛盾を抱えているのですか?
なぜ、不安なのですか?
なぜ、疲れ果てているのですか?
自分で選んだことならば、楽しいはずではないですか?
深く考えましょう。

2016年1月17日日曜日

真実の追求

あなたは真実を求めなければなりません。
真実を求めなければ、満足のいく選択をすることはできないでしょう。
満足のいく選択をすることができなければ、満足のいく人生を得ることはできないのです。
選択は、信仰によって導かれます。
どのような人も、その信仰に従って選択するからです。
あなたは、自分が信じていることを行います。
そして、信じていないことを行いはしないのです。
信じていることというのは、あなたにとっての真実です。
真実とは、決して一つのものではありません。
真実とは、人それぞれに存在しているのです。
それは、立場によって変わります。
どのような立場の人にとっても、その立場に正しければどのようなことも真実となるのです。
あなたの信じていることはあなたの真実となり、他者の信じていることは他者の真実となるのです。
あなたはこのことを覚えていなければなりません。
真実と事実は別のものなのです。
そのため、あなたは常に真実を求めなければならないのです。
自らの立場にとっての真実とは何か?ということを追求し続ける必要があるということを覚えておきましょう。
知性によって真実は変わります。
同じような立場の人であっても、知性の差によって真実は別のものになるのです。
知性とは、知恵を導く力です。
それは、知識と経験による力なのです。
真実を求めるということは、知識と経験によって知性を求めるということなのです。
知識と経験を求めることがなければ、その結果である知性を得ることはできません。
知性に乏しければ、未熟な見解と歪んだ視界を得ることになるでしょう。
それは誤解を生むのです。
誤解によって満足を得ることはできません。
自己満足は得られるでしょうが、それも一時のことなのです。
多くの人は”深い”真実を求めようとはしません。
多くの人にとって、知識と経験を求めることは困難なのです。
それは、知識と経験を求めるよりも、快楽に溺れる方が楽であるからです。
人は堕落しています。
そこには怠慢(たいまん)と傲慢(ごうまん)が蔓延(まんえん)しています。
知識と経験を得るためには勇気を以て努力することや、習慣を捨てる必要がありますが、それができないのです。
慣れ親しんだ習慣の中には安楽があると信じているのです。
しかし、習慣を継続するだけであれば、やがて可能性は途絶えてしまいます。
同じことを続けていくことに、何の可能性があるのでしょうか?
そこには衰退と苦悩が待ち受けているのです。
そのため、人が人生に対して満足を求める時には、勇気を以て努力すること、習慣を捨てることが求められるのです。
あなたは努力すること、習慣を捨てることができるでしょうか?
戯(たわむ)れに”捨てていた”時間を、知識や経験を得る有意義な時間に変えることができるでしょうか?
何事も、同じように続けていてはなりません。
どのようなことも、必ず向上を以て続けるのです。
向上しないものに未来はありません。
真実が変わらないのであれば、あなたに未来はないのです。
これは仕方のないことです。
あなたの信仰の対象である真実は、それ以上のものにはならないのでしょうか?
同じ対象に対しても、子どもと大人では違う真実を得ることになります。
(優劣の話ではありません)
それは、立場によって視界(視点)が違うからです。
子どもと大人では、真実は違います。
あなたの知性の状態によって、真実は違うものとなるのです。
知識と経験を求めなければなりません。
あなたは決して怠慢や傲慢に過ごしてはなりません。
時間を無駄にしてはならないのです。
いつでも、満足のいく選択ができるようにしておきましょう。

2016年1月16日土曜日

偽りの幸福

あなたは、素直に見なければなりません。
素直に見るというのは、愛を以て見るということです。
愛から離れるのであれば、素直さから離れてしまうでしょう。
素直さから離れたのであれば、視界は歪みます。
愛以外の視点であっては、すべての景色が歪んでしまうのです。
愛によって見る時、すべては本性を現します。
愛によって暴かれないものはありません。
すべての本性は、愛の前に無力であるのです。
だから、あなたは愛を以て見なければなりません。
しかし、すべての人は愛から離れてしまいます。
それは、この世のことに従うようになるからです。
あなたは、主が誰であるのかを思い出しましょう。
あなたの主は愛であって、それ以外ではないはずです。
例えば、金銭に仕える者がいます。
金銭に仕えるのであれば、その者の主は金銭となります。
その者は、金銭である主に従い、それを喜ばそうと努めます。
金銭のために、それ以外を蔑(ないがし)ろにするのです。
地位や名誉に仕える者は、それを主とします。
欲望に従う者は、それを主とするのです。
主の言い付けに背くことはできません。
なぜなら、人は主に仕えているからです。
人は、自らの主に従います。
愛とは”天”のものです。
その他は”地”のものです。
愛に仕えることは”天”に仕えることになり、その他に仕えることは”地”に仕えることになるのです。
”天”には”神”の国があり、”地”には人の世があります。
あなたは”地”で行なわれていることを知っているでしょうか?
それを主とすれば、あなたも同じように行なわなければなりません。
それでも構わないというのであれば、”地”の事柄に仕えましょう。
あなたがこの世界に違和感を覚え、歪みを知って苦悩しているのであれば、”地”の事柄に仕えてはなりません。
あなたは愛に従うべきなのです。
人の世には不正が蔓延(はびこ)っています。
それは、嘘が土台にあるからです。
人の世は、嘘の上に成り立っています。
そこに正しさはありません。
もしも、人の世に正しさが存在するのであれば、あなたが何かに苦悩することは有り得ないのです。
残念ながら、人の世にはあなたを救う手立てがないのです。
あなたはそのことに気が付かなければなりません。
人の世の仕方に従って幸福を探せば、あなたは苦悩を得るでしょう。
それは、歪みを得ることになるからです。
あなたは愛によって素直に見なければなりません。
あなたが異常に思うことに従ってはなりません。
それは、あなたを”殺す”からです。
それは、あなたにとっての真実ではありません。
あなたの抱える違和感は、仕える主の本性を予見しています。
違和感を覚える主に仕えても、それがあなたの豊かさとなることはありません。
騙(だま)されてはなりません。
”当たり前”を当たり前としてはなりません。
人の世には、本性を隠すもの(嘘)が横行しています。
あなたはそれを見極める必要があるのです。
しかし、素直さ(愛)を失ってしまったあなたには難しいことでしょう。
あなたは子どものように見なければなりません。
生まれた時のことを思い出しましょう。
子どものように素直に見るのであれば、あなたは不正を暴き、正しい選択をすることができるでしょう。
人の世には幸福はありません。
人の世にあるのは、偽りの幸福なのです。

2016年1月15日金曜日

主の種蒔き

すべての存在は、”神”の作物です。
あなたを含めたすべての存在は、”神”の畑である地上に蒔(ま)かれたのです。
”神”は地上に蒔いた種を大切に思っています。
一粒の種も忘れることはありません。
すべての種の世話をするのです。
しかしならが、種にはそのことが分かりません。
種は自分が種であるということすら知らないからです。
種であるあなたは、大地に蒔かれました。
蒔かれた種は、その種類に合わせて育まれます。
ある種は土の上に蒔かれます。
ある種は土の上に蒔かれた後に土を被(かぶ)せられます。
ある種は浅く掘られた穴に蒔かれ、土を被せられます。
ある種は深く掘られた穴に蒔かれるのです。
種によって、育て方は違います。
しかし、それは種の特性によるのです。
その種に相応しい状態を与えられるのです。
それは、種が無事に成長するためです。
しかし、種にはそのことが分かりません。
地上に蒔かれた一粒の種も、主である”神”の意思を理解しないのです。
土の上に蒔かれた種は、土の上に蒔かれたことに不安を覚えます。
土の上に蒔かれた後に土を被せられた種は、そのことに文句を吐きます。
浅く掘られた穴に蒔かれた種は、浅い穴に満足することができません。
深く掘られた穴に蒔かれた種は、絶望を覚えるのです。
すべての種が、否定的な態度をとります。
自分自身に与えられた境遇を受け入れることができないのです。
種が適切な境遇を知っているのでしょうか?
発芽率は、境遇に比例するのです。
主である”神”はそのことを知っているのです。
その種に最適な境遇を与えるのです。
それぞれに良いところと悪いところがあります。
しかし、それが最善です。
他の種と境遇を比較することは意味を成しません。
なぜなら、それぞれが違う種類の種だからです。
少ない水で育つ種もあれば、多くの水を必要とする種もあります。
多くの土が必要な種もあれば、少ない土で育つ種もあるのです。
それぞれが、与えられた境遇に最善を尽くせば、発芽(覚醒)が促(うなが)されるのです。
発芽しなければ、幹も枝葉もありません。
幹や枝葉がなければ、花や果実もないのです。
人生には(あなたにとって)辛いことが多くあるでしょう。
しかし、泣き言を用いてはなりません。
深く掘られた穴に蒔かれた種ならば、土の重さや地上までの距離などの抵抗を糧(かて)にして力強く生きれば良いのです。
それは、地上に出た時に力となるからです。
希望の光が見えなくても、決して諦めてはなりません。
少しずつでも根を伸ばし、土を押し退けて進むのです。
そうすれば、地下から地上へと新芽を伸ばすことができるのです。
あなたは自分が”神”の作物であるということを忘れてはなりません。
あなたには最善の境遇が与えられています。
しかし、そのことを理解することができる種はありません。
そのことも理解しておきましょう。
種の立場と、農夫の立場では、見える景色が違います。
種にとっての大事も、農夫にとっては無事(小事)であるのです。
あなたは与えられた境遇を愛しましょう。
しかし、誤解してはなりません。
甘んじてはならないのです。
我慢して種のままで過ごせとは言っていません。
発芽して地上に出なければなりません。
その時になって初めて、種は自らの境遇に感謝することができるでしょう。
そして、自分を蒔いたのが”神”であるということを知るのです。

2016年1月14日木曜日

目の前の情報を超える力

人生は見方によって別のものになります。
人は、主観的に人生を決めているのです。
人生は、自らの見方によって決められているということを理解しなければなりません。
人生は選択です。
選択は人によるのです。
人の選択によって、状況が導かれます。
それは、因果の仕組みによるのです。
あなたの見方が選択肢をもたらします。
選択が状況を導き、人生を決めるのです。
そのため、あなたの見方は重要なのです。
浅く見れば浅く展開し、深く見れば深く展開するのが人生なのです。
あなたが豊かな人生を求めているのであれば、深く見る必要があるでしょう。
深く見るとは、想像力を発揮して生きるということです。
人は想像力を育まなければなりません。
それは、想像力の欠如は表面を映し、本質(真実)を隠すからです。
目の前の情報だけを信じる人にとっては、人生は浅いものになってしまいます。
本質は隠されているのが普通です。
しかし、それに気が付かないのです。
想像力とは、目の前の情報を超える力です。
与えられた情報だけを以て本質を得ることはできません。
なぜなら、目の前の情報とは、一時の側面に過ぎないからです。
一つの側面によって、本質を判断することはできません。
本質とは、すべての側面の集合であるからです。
何か一つが欠けても、それは本質ではありません。
そのため、本質を見極めるためには、原因と過程と結果を知る必要があるのです。
想像力を発揮することがなければ、疑うこともないでしょう。
疑うことがなければ、今持っている以上の情報に出会うことはないのです。
与えられた情報を鵜呑みにしているのであれば、決して本質を得ることはできないのです。
あなたは想像しなければなりません。
想像することによって、見方を変える(増やす)のです。
より多面的に捉え、決して見方を固定してはなりません。
今だけを見てはなりません。
それには、過去も未来もあるのです。
今、そのような状態を得ているからといって、それが本質ではないのです。
表面的な判断を下せば、苦悩が導かれます。
それは、本質を見極めることができずに、歪んで(間違って)いるからです。
想像力に乏しい者は、短絡的な判断を下します。
早合点(はやがてん)によって苦しむのです。
その食物が食べれるかどうか?ということは重要な問題です。
美味しそうな見た目によって短絡的に判断すれば、毒を得ることになるでしょう。
安易に判断してはならないのです。
何事においても同じです。
深い見方をしなければなりません。
想像力によって、見方を深くしましょう。
想像力によって、本質を得るのです。
自己を中心に考える者には、想像力が育まれません。
相手の立場や気持ちを考慮することも想像力です。
自らの選択や、相手の選択がどのような結果に繋がるのか?
それを見極めるには想像力が必要です。
その状況において、自分がどのように振舞わなければならないのか?
それも想像力によるのです。
想像力の欠如は、何事においても乏しさを導きます。
より多くの見方を探すのです。
想像力とは、その作業によって育まれるのです。
相手ならどう考え、どう行動する?
第三者ならどう考え、どう行動する?
このように、出来る限り多くの見方を探しましょう。

2016年1月13日水曜日

木の葉

人は、木の葉のようなものです。
それは、樹木から生じます。
樹木は大地と光によってそれを生じるのです。
人は大地(肉体)と光(魂)によって成ります。
すべての人が、大地と光を無視することができません。
それは、大地と光こそが、人の誕生の原因であるからです。
大地とは、自然法則のことです。
すべての人は、自然法則に逆らうことはできません。
信じられないような自然法則も存在しますが、その中に存在する以外に方法はないのです。
自然法則に反すれば、何かしらの問題を生じます。
問題によって、人は苦悩を受けなければならないのです。
苦悩は、大地に逆らうことによって生じます。
光とは、真理のことです。
それは、”神”の法則のことです。
すべての人は、真理に逆らうことができません。
あなたにとって真理は難解ですが、その中に存在する以外に方法はありません。
真理に反すれば、何かしらの問題を生じます。
それは、自然法則に勝る苦悩を受けなければならないのです。
自然法則に勝る苦悩は、真理に逆らうことによって生じます。
すべての人が、大地と光を主に持ちます。
大地は肉体の主であり、光は魂の主であるのです。
あなたは、それ等の主から生じたのです。
すべての人が、大地と光から成る樹木に育まれるのです。
しかし、信仰を捨てる者がいます。
それは、不義な者であり、大地と光を恐れ敬(うやま)うことをしません。
自分の力で生きていくことができると高ぶり、大地と光の主に育まれているということを忘れるのです。
木の葉が樹木から切り離されれば、即ち枯れ葉となります。
枯れ葉は命を失い、躯(むくろ)となるのです。
それは、風によって吹き飛ばされ、遠くに運ばれます。
しかし、枯れ葉はそれを自力であると思い込んでいるのです。
樹木である主から離れても、遠くに向かうことができると思い込み、更なる高ぶりを得るのです。
しかし、枯れ葉の力は風によります。
風が止めば、枯れ葉には力が無いのです。
風の力を失った枯れ葉は、地や水に落ちるのです。
そこに自由は無く、自身を貪(むさぼ)る捕食者が待ち受けているのです。
木の葉の幸福とは、樹木に光を導くことです。
人の幸福とは、世界に真理を導くことです。
光を受けた樹木は、やがて花を咲かせ、実を付けるのです。
それによって、世界は豊かな場所となるでしょう。
真理に従う人が多ければ、世界は豊かさを得ることができるのです。
自分勝手に生きる者は、光を導くことができません。
そのような者は、地や水に落ち、滅びることによって樹木へ帰るのです。
この世界には役に立たないものはありません。
真理に従うことの無い者であっても、何かの役に立ちます。
しかし、滅びという苦しみを受けなければなりません。
あなたは青々と茂る一つの木の葉となりましょう。
大地と光の主からの恵みを受けるように努めるのです。
自然法則と真理に従って生きなければなりません。
自分の力によって叶うことなど何もないということを理解しましょう。
決して高ぶってはなりません。
樹木を離れれば枯れるのです。
樹木を離れた木の葉が命を保つのは一時です。
あなたが謙虚であることを願います。
大地と光の主に仕えましょう。

2016年1月12日火曜日

穴を掘る

あなたが受け取る状況は、あなたの心に由来しています。
あなたは、自らの心を状況として受け取るのです。
あなたがどこで何をしようとも、そこにはあなたの心が現れるということを覚えておく必要があるでしょう。
同じことをしても、人によって受け取る状況は違うものとなります。
レシピ通りに料理を作っても、その味は人それぞれに違うものになるのです。
違う人が同じものを作ることはできません。
それは、それぞれの心が違う状態にあるからです。
人は(原始的な)機械ではありません。
人は心であるのです。
人生とは、自分自身と向き合う場所であり、人はそこで心をより良くしなければならないのです。
あなたは常に心を育むように求められます。
あなたが受け取る状況は、あなたの心を写し、あなたはそれと対峙しなければならないのです。
心は不足しています。
心は多く持ち過ぎています。
心は歪んでいるのです。
あなたが心と向き合う時には、その問題点と向き合うことになります。
そのため、人生は苦しいのです。
どこで何をしても、気に食わないことがあります。
それは、誰にとっても言えることです。
必ず気に食わない状況や他人に出会うのです。
大抵の人はそれを否定します。
気に食わない状況や他人を排斥(はいせき)しようと企(たくら)むでしょう。
もしくは、そのような状態に対して自分を責め、自己嫌悪に陥ってしまうかもしれません。
状況や他人などの外にしても、自分という内にしても、それを攻撃するのであれば、苦しみは避けられないのです。
あなたは学んでいるということを忘れてはなりません。
気に食わない状況が解消されるということはありません。
残念ですが、一つの問題を解決したとしても、次の問題が生じるからです。
本質は、自分自身の心です。
それを正す必要があるのです。
心は広大です。
あなたの認識が及ぶような小さなものではありません。
あなたは隣の家の内部構造さえ知らないのです。
最も近くにある心の構造を知っていると言えるでしょうか?
知らないために、問題は突如として現れます。
あなたには、心のどこにどのような問題が存在しているのか分からないのです。
気に食わないことは、唐突に実現します。
地面を掘り返せば、様々な形の石や木の根が現れます。
穴を掘るという目的に対して、それ等は気に食わない問題となるのです。
人生とはそのようなものです。
あなたの目的に対して、障害となる状況や他人が必ず現れます。
しかし、それが悪いということはありません。
なぜなら、それ等はあなたが穴を掘る前からそこにあったからです。
初めからそこにあったものに文句を吐いてはならないのです。
後から穴を掘ったのはあなたであるからです。
あなたが生まれる前から、心はありました。
あなたが受け取る状況は、あなたの心に由来しているのです。
あなたが生を受けたのも、あなたの心に由来しているのです。
あなたのために、すべての状況、すべての他人が導かれます。
しかし、それ等は初めからあったのです。
初めからあったものに、あなたが出会うのです。
あなたには、あなたにとっての気に食わないことがあります。
それを否定することは簡単ですが、それでは穴を掘り進めることはできません。
違う穴を掘ったところで、そこにも様々な形の石や木の根が存在しているのです。
気に食わないこともあると受け入れましょう。
すべてが気に入ることであれば、それこそ大きな問題を引き起こすのです。
自分にとって良いことは決して良いことではありません。
安易に考えてはなりません。
なぜなら、あなたは未熟であるからです。
未熟な考えが導き出した良いことは、決して良いことではないのです。
気に食わないことも受け入れ、それを大切に考えてみましょう。
そうすれば、そこから多くを学ぶことができるでしょう。
それは、人生の目的の一つなのです。

2016年1月11日月曜日

最高の防犯対策

この世界において、因果の仕組みに勝るものはありません。
どのような存在も、因果の仕組みの中にあるのです。
それを気に掛けないものはないのです。
すべての存在が、因果の仕組みと共にあります。
あなたが因果の仕組みを否定することはできません。
すべての思考や行為はあなたに返るのです。
誰も、原因の無い結果を受けることはできません。
どのような結果も、すべてが自分自身による原因に起源しているのです。
そのため、誰かや何かによってあなたが結果を受けることはありません。
建設的にも破滅的にも、”奇跡”などというものは起きないのです。
結果には必ず、それに相応しい原因が存在しているのです。
人は自分にとって大切なものを守ろうとします。
あなたは、自分にとって大切なものを守ろうとするでしょう。
それが普通です。
多くの人は、多くの場合、問題が起きないように願っています。
損失を嫌い、利益を喜びます。
そして、そのように努めるのです。
しかし、結果としては努力が実を結んではいません。
問題が起きないように利益を追求するように振舞っても、その人は何かしらの問題を抱え、損失を得ているのです。
すべては因果の仕組みによるのです。
これを超える力はありません。
あなたがどれだけ注意深く、その宝を守ろうと努めても、盗人はあなたに気付かれることもなく、その宝を奪い去ってしまうのです。
因果の仕組みは確実です。
すべてはあなたの思考や行為によるのです。
思考や行為が悪質であっては、どのような防犯対策も意味を成さないのです。
因果の仕組みは、どのような方法を使っても”それ”を回収します。
それは、人が自分勝手に奪い取ったからです。
盗人には、盗人に相応しい罰が与えられます。
自分勝手に奪い取った者には、自分勝手に奪い返されるのです。
原因を変えることがなければ、どのような防犯対策も意味を成さないのです。
簡単に言えば、原因を変えることによって結果は変わるということです。
原因の存在しない結果が導かれるということはありません。
あなたは結果から遡(さかのぼ)って考えなければなりません。
原因が結果を導くのです。
盗まれるという結果は、その原因に起源するのです。
あなたは、盗まれない人にならなければなりません。
盗まれないためには、防犯対策をしなければなりません。
大切なものを盗まれないためには、”愛”によって相手の心に鍵を掛ければ良いのです。
あなたは”愛”という原因を持ちましょう。
”愛”こそが、最高の防犯対策なのです。
盗人であっても、あなたへの”愛”が得れば、あなたから盗むことはありません。
しかし、”愛”がなければ、簡単に盗んでしまうでしょう。
”愛”こそが見えない歯止めであり、最高の防犯対策であるのです。
だから、あなたは大切なものを失うのではないか?という疑心を所有する必要はないのです。
あなたが所有する必要があるのは”愛”だけなのです。
”愛”によって、あなたの大切なものが盗まれることはなくなります。
互いを信頼することによって、不安や心配、問題や損失は起こらないのです。
信頼があれば、あなたは深い眠りを楽しむことができるでしょう。
しかし、信頼がなければ、あなたは眠っている最中にも不安に駆られ、魘(うな)されなければならないのです。
扉に鍵を掛けるのは防犯対策とは言えません。
盗人(因果の仕組み)は、どのような鍵をも苦にしないからです。
盗人に盗みを行わせないためには、”愛”による信頼関係を築くことが求められるでしょう。
盗人は、愛する者、愛してくれる者からは盗みません。
あなたが大切にしなければならないのは、宝が盗まれないように多くの鍵を掛けることではありません。
盗人に盗む気持ちすら起こさせない”愛”を育むことなのです。
愛情深く生きましょう。
あなたの生き方が結果を決定するのです。

2016年1月10日日曜日

辺境の地

人とは、道を行く者のことである。
すべての人は道を行きます。
それを望もうが望むまいが、既に道の上にあり、それを歩まなければなりません。
道を否定することのできる者は存在しません。
立ち止まるのも、別の道を選ぶのも、引き返すのも自由ですが、そこには常に道があるのです。
道とは、人生そのものであり、魂の目的です。
人の本質が魂である以上、そこには道が存在するのです。
あなたが理解しようがするまいが、受け入れようが受け入れまいが、人の本質が魂(呼び方は何でも良い)という形而上(けいじじょう)の存在であるということを否定することはできません。
肉体であれ、その本質は生命です。
生命が宿らなければ、それは肉塊(にくかい)に過ぎないのです。
生命を形而下の存在によって説明することはできないでしょう。
あなたが自分自身を肉体であると主張したところで、生命を否定することができない限り、魂の目的である人生の道を否定することはできないのです。
魂の目的と言えば壮大に聞こえますが、目の前の目的や将来の夢などの”小さな”目的であっても、それは立派な道であるのです。
”わたし”は決して、あなたの目の前の目的や将来の夢を軽んじているのではありません。
それは、道における一歩に過ぎず、一歩を踏み出して満足してはならないということを理解して欲しいのです。
魂の目的である道を行くためには、目の前の目的や将来の夢を実現し続けなければならないからです。
すべての人が道を行きます。
しかし、それぞれの目的地は違っています。
多くの人と同じように生活する人は、大きな街に向かうでしょう。
それは、多くの人と同じような生き方のことであり、多くの人と同じような考え方や価値観を所有しているということです。
目の前の目的や将来の夢、そして、魂の目的が似ている人たちは、大きなコミュニティーを形成するのです。
街というものは、そのようにして生まれるのです。
それは、道の中心を成します。
道は、街の中心から放射状に伸びるのです。
多くの人とは違うように生活する人は、郊外に向かうでしょう。
それは、多くの人とは違うような生き方のことであり、多くの人とは違うような考え方や価値観を所有しているということです。
目の前の目的や将来の夢、そして、魂の目的が似ていない人たちは、小さなコミュニティーを形成するのです。
異質な者は道の先端を行き、集団から離れるのです。
道を進み続けることができるのは一部の人だけです。
多くの人は途中の街に足を休めます。
道を進むほどに人は少なくなり、家は疎(まば)らになるでしょう。
辺境の地に住む者は変わり者です。
しかし、それは、街に住む大きなコミュニティーの中の”小さな”人から見た感想です。
道を追求すれば、生き方は変わります。
境地に赴(おもむ)く人を、多くの人は理解することができないのです。
街に住む者には、辺境に住む者の意向を理解することはできません。
それは、街に住んでいるからです。
道を追求することをせず、戯(たわむ)れに時を捨てているのです。
道を追求することをせずに、自分が何者であるのかを知ることができるでしょうか?
多くの人や多くの便利に囲まれた街に住んでいては、自分を理解することなどできないでしょう。
人が自分を理解するためには、人や便利から離れなければならないのです。
独りになり、不便と共に過ごせば、或(ある)いは自分を知ることもできるでしょう。
これは、都会を離れ田舎に住めと言っているのではありません。
この言葉を簡単に捉えてはなりません。
常識から離れ、古い楽しみを捨てろと言っているのです。
常識と古い楽しみを捨てることによって、あなたは”普通”ではなくなります。
周囲の人たちは、そんなあなたを変わり者と呼ぶでしょう。
多くの人は常識と古い楽しみから離れることができないのです。
それは、怖いからです。
しかし、恐れているのであれば、道を行くことはできません。
魂の目的地は、遥か遠くに存在しているのです。
自分が何者であるかも知らずに、年老いてはなりません。
そのような人生のどこに救いがあるのでしょう?
道を追求しましょう。
周囲に誰もいなくても、あなたは歩み続けましょう。
人が住んでいない辺境に住みましょう。
そこには、やがて人々が移住するようになります。
そうなれば、あなたは更なる辺境を目指して歩みを進めましょう。

2016年1月9日土曜日

裏表

すべての表には裏が存在しています。
すべては陰陽の仕組みの中に存在しているのです。
必ず、対極が存在するのです。
多くの人は独自の視点を重要視します。
独自の視点を重要視することは良いことではありますが、弊害(へいがい)となることもあります。
それは、独自の視点を重要視するあまり、それに執着してしまうということです。
物事には必ず陰陽の仕組みが働いているために、一方的な見方によって足りるということはありません。
一方の見方があれば、もう一方の見方が存在するのが自然なのです。
最低、二つの視点を同時に所有しておかなければ、本質を見極めることはできないのです。
あなたは簡単に本質を見極められると思い込んではなりません。
本質は常に深くに潜み、明るみに出ることはありません。
その本質が愛によるものであったとしても、それが簡単に明るみに出るということはないのです。
あなたが愛を明るみに出す時、それは”安っぽい”ものとなってしまうでしょう。
本質が隠れているために重厚となりますが、本質が現れているのであれば、そのようにはならないのです。
裏がなければ表はありません。
あなたが誰かの問題点を指摘しなければならない時、どのように伝えますか?
あなたが愛によってそれを伝えようとするのであれば、指摘の裏には愛を忍ばせるでしょう。
愛の裏に指摘を忍ばせることなどないはずです。
あなたは表裏を読み取らなければならないのです。
物事には必ず表裏が存在しています。
表だけを見て裏を見ないのは正しくありません。
裏だけを見て表を見ないのも同じです。
あなたは表裏を同時に見なければならないのです。
一方的な視点に偏っていれば、決してその本質を見極めることはできません。
本質を見極めることができないということは、偏見を所有するということです。
偏見を所有すれば、人は誤解を導くのです。
誤解によって豊かさが導かれるということはありません。
誤解によっては、苦悩が導かれるだけなのです。
自然界では、生存をかけた生命活動が繰り広げられています。
そこには、表裏が存在しているのです。
表では相手を騙し、裏では相手を仕留めるのです。
人が魚を釣り上げる時には、餌に釣り針を仕込むのです。
裏を読み取ることをしなければ、自然界においては、すぐさま捕らえられてしまうのです。
それは、大切なものを失うということになるのです。
人生に幸福を求めている者は少なくありません。
しかし、表裏を読み解こうとする者は少ないのです。
多くの人が見た通り、聞いた通り、教えられた通りに生きています。
それが幸福を導くのでしょうか?
表だけを見て選択するのであれば、餌に釣られる愚かな魚と変わりはしないのです。
簡単に食い付いてはならないのです。
”良い話”に踊らされてはなりません。
そこには必ず裏があります。
”悪い話”に踊らされてはなりません。
そこにも必ず裏があるのです。
何事においても(先ずは)疑うことです。
情報は精査する必要があります。
簡単に信用してはなりません。
もしも、他人が争っている時には、最低でも両者の意見を聞くようにしましょう。
一方的に決め付けてはならないのです。
そのような方法では、決して問題は解決しないからです。
(主観的に)良いことにも、悪いことにも必ず裏を見ましょう。
自分が正しいと誰が決めたのですか?
勝手に思い込んではなりません。
裏の重要性を忘れてはなりません。

2016年1月8日金曜日

良い果実

樹木が豊かさを得るためには、果実を実らさなければなりません。
樹木にとって、果実を実らせることは幸福なのです。
樹木が果実を実らせるのは当然のことです。
すべての樹木は、自らの幸福のために果実を実らせます。
それは、より大きな目的である、自然界への貢献のためなのです。
自分のために行うことは全体のためになります。
全体のために行うことは自分のためになるのです。
とは言え、人は利己主義を信仰してはなりません。
最終的な目的は、世界への貢献としなければならないでしょう。
人は樹木と同じように実りを得ます。
それは、あなたの人格であったり、仕事であったり、使命であったりするのです。
すべての人が自分なりの果実を実らせる必要があります。
しかし、努力なくしてそれは実現しません。
樹木は毎年果実を実らせますが、努力を怠っている訳ではありません。
果実を実らせるために根を伸ばし、枝葉を茂らせているのです。
その努力を基礎として、樹木は毎年のように果実を実らせるのです。
人は毎日努力しなければなりません。
人における果実は、いつ実るのか分かりません。
それは、今日かも知れないし、十年後かも知れないのです。
しかし、人は果実を実らせる必要があります。
そうしなければ、豊かさや幸福を手に入れることができないからです。
ただ生きるだけでは、豊かさや幸福を得ることはできません。
ただの生命活動であっては、果実を実らせることのない樹木と同じなのです。
果実を実らせることのない樹木に、豊かさや幸福は訪れるでしょうか?
果実を実らせることのないその樹木があなたの所有物であるのならば、その樹木を切り倒し、別の樹木を植えるでしょう。
役に立たない樹木は、農夫の手によって切り倒されるのです。
樹木は毎年のように果実を実らせる必要があるのです。
しかし、果実を実らせるだけでは足りません。
無事に果実を実らせても、それを運ぶ者がいなければならないのです。
樹木はそれを自分の力ではどうすることもできません。
せっかくの果実も、それを運ぶ者がいなければ宝の持ち腐れとなってしまうのです。
果実を運ぶのは動物です。
そのため、樹木は動物を育まなければなりません。
その動物が好む果肉によって、種子を包むのです。
あなたの人格、仕事、使命は、誰かの役に立っているでしょうか?
あなたが自分ではどれだけ良いものが出来上がったと思っていても、それを評価する人がいなければ価値がないのです。
それは、独り善がりに過ぎないのです。
そのため、利己的には行えません。
自己陶酔に陥ってはならないのです。
自分のために全体に貢献し、全体のために自分に努力するのです。
あなたは、自分一人の力では何も成し遂げることはできません。
樹木が動物に種子を運んでもらわなければならないように、あなたの人格、仕事、使命は、誰かによって運んでもらわなければならないのです。
そのようにしなければ、豊かさも幸福も実現しないのです。
自己満足の世界に生きてはなりません。
樹木は自分のために果実を実らせますが、それは、動物のためでもあるのです。
それは、巡り巡って自然界のためになるのです。
あなたは日々努めなければなりません。
自分自身にできることを懸命に果たしましょう。
根を伸ばし、枝葉を茂らせなければならないのです。
あなたはあなたの協力者のために努めましょう。
あなたを支えてくれている人たちのために、懸命に努めなければならないのです。
協力者の支えなくして、あなたに豊かさや幸福はありません。
思い上がってはなりません。
果実を実らせる樹木が偉いのではありません。
運んでもらわなければ、自身では何もできないのです。
感謝の中に生きましょう。
そして、良い果実を実らせましょう。
良い果実は、あなたの協力者を喜ばすでしょう。

2016年1月7日木曜日

信じられないこと

あなたは何を知っているというのでしょう?
すべての人は知りません。
自分自身に関わることで少しだけ知っていることもあるでしょうが、ほとんどのことを知らないのです。
あなたは自分自身が何者であるのか?
人生が何のためにあるのか?
という根本的な問いに答えることができるでしょうか?
多くの人はこの問いに答えを持たないでしょう。
人は無知であることが自然です。
すべての人が無知を所有しているのです。
それは決して悪いことではありません。
誰もが赤ん坊として生まれ、立ち上がることさえできないのです。
すべての人が無知であり、無力であったのです。
大切なのは、知恵を得ること、力を得ることなのです。
無知という状態が悪い訳ではありませんが、無知を放置することは怠慢です。
自らが無知であると知っていながら、それを放置するのは傲慢なのです。
無知を克服しなければなりません。
無力を改めなければならないのです。
しかし、あなたがどれだけ知恵や力を得ても、知らないことは存在します。
どのように努めても、無知や無力を完全に拭い去ることはできません。
世界は果てしなく大きく、果てしなく深いのです。
あなたが無知と無力を所有することは、この世の理であると理解しましょう。
無知と無力が存在し続けるのであれば、あなたにとって受け入れることが難しいことや、どうすることもできない状況というものは常に存在します。
しかし、多くの人は自分自身が知恵や力を所有していると思い込んでいます。
そのため、受け入れることが難しいことや、どうすることもできない状況というものを否定するのです。
知恵があると思い込んでいるために受け入れることができず、どうにかすることができると考えるのです。
人生には信じられないようなことが起こります。
それは、あなたの常識を覆(くつがえ)すような出来事です。
あなたはそれを難解だと思い、信じることができないでしょう。
しかし、あなたは無知であり、無力であるのだから、信じられないことは起こるのです。
自らの力を過信する者は、常識や既成概念に捉われるでしょう。
力を過信しているために、それ以上の成長は必要ないと思い込んでしまうのです。
常識によっては計り得ない新たなものを受け入れるためには、成長を欲する以外に方法はないのです。
あなたは決して自らの力を過信してはなりません。
あなたは決して知りません。
あなたの目の前には、決して太刀打ちできないような状況が現れることもあるのです。
そのことを知っているのであれば、あなたが否定の内に生存するということはなくなるでしょう。
人生は素晴らしいものです。
しかし、否定を用いるのであれば、それは苦しいものとなるのです。
力を過信する者には感謝がありません。
力を過信する者には謙虚さがありません。
力を過信する者には慈しみがありません。
力を過信する者には愛がないのです。
あなたは自らの力を過信することなく、感謝、謙虚さ、慈しみ、愛と共に生きなければなりません。
あなたが信じられないことに出会っても、感謝、謙虚さ、慈しみ、愛によって、あなたが混乱を得ることはありません。
それ等によって、あなたが苦しむことはないのです。
どのような状況に出会っても大丈夫です。
力を過信することがなければ、あなたは必ず乗り越えていくことができるでしょう。
否定はあなたの壁となります。
信じられない状況に立ち止まっていてはならないのです。
無知であるあなたにとって、信じられないことはたくさんあるでしょう。
その度に立ち止まっているのであれば、時間が幾らあっても足りないでしょう。
信じられないことが自然です。
受け入れることの重要性を理解する必要があるのです。
すべての人は知りません。
そのため、信じられないことがあっても、それで良いのです。

2016年1月6日水曜日

広告塔

この世界には、陰陽の仕組みが存在してます。
現時点において、あなたは自らの立場を選ばなければなりません。
あなたは選ばされます。
あなたは、自分の意思によって、陰陽のどちらかを選ばなければならないのです。
あなたに否定する権利はありません。
どのような選択も、陰陽のどちらかに結び付きます。
あなたの選択は、あなたに陰陽のどちらかを決めさせるのです。
多くの人は知りません。
多くの人は何も知らずに生きています。
何も知らない状態を幸福だと思い込んでいるのです。
この世界は、あなたの考えているような”浅い”世界ではないのです。
あなたの想像も及ばないような働きが存在し、それはあなたに及んでいるのです。
あなたの選択は、あなたの行く末を決めます。
あなたは選ばなければならないのです。
陰陽の選択です。
難しいことではありません。
二者択一(にしゃたくいつ)です。
どちらかを選ぶのです。
あなたが選ぶ方の力を得ます。
あなたを通して、その力が世に導かれます。
どちらを選ぼうとも、それはあなたの自由です。
しかし、その責任はとらなければなりません。
自らの選択によって生じた結果は、自らが請(う)け負わなければならないのです。
あなたは常に選択を迫られています。
その思考の一つ一つ、その言葉、行為のすべてが、選択であるのです。
あなたは常にどちらかに足を踏み出しているのです。
無知な者には理解することができません。
何も知らずに死んでいくことは簡単ですが、責任は生じます。
その責任は、あなたが死を得たとしても無くなることはありません。
良くも悪くも、あなたは自らの責任を果たさなければならないのです。
安易に選択してはなりません。
無知であってはなりません。
無知が言い訳にはならないのです。
知らなかったとしても、その責任はあなたが請け負わなければなりません。
子どもだろうと、老人だろうと、男だろうと、女だろうと、何の関係もないのです。
人は、選択によって力を授かり、力によって世界に影響を導き、その責任を請け負います。
知らないのであれば、勉強しましょう。
後悔しても意味はありません。
それは、初めから分かっていたことなのです。
無知という状態を放置していた自分自身の責任なのです。
中立などという状態はありません。
あなたには、そのような権利は与えられていないのです。
驕(おご)ってはなりません。
あなたは真剣に人生を考える必要があるでしょう。
ただ、目の前の”どうでも良いこと”に負われて年老いてはなりません。
有益であり、有意義な選択をしなければなりません。
あなたの選択は、自動的にあなたの状態を決めます。
あなたの選択は、自動的にあなたの方向性を決めるのです。
自らの選択に対する拒否権はありません。
あなたは自らが選択した通りに得るのです。
目覚めなければなりません。
いつまでも眠っていてはなりません。
自覚を以て生きなければなりません。
克己(こっき)を重んじて生きなければなりません。
あなたの選択は、”誰”の役に立っているでしょうか?
あなたは、”誰”の広告塔となるでしょう?
あなたは既にどちらかを選んでいます。
あなたは既にどちらかの仕事をしています。
反省を忘れてはなりません。

2016年1月5日火曜日

時代を生きる

世界の目的は進化です。
世界の中に存在する人の目的は成長です。
すべての存在は進化を目指して進歩します。
この世界において、退化するものはありません。
衰え、滅びるものはありますが、退化するものはないのです。
すべてが成長のために存在し、それを実現し続けているのです。
しかし、それを理解する能力を持たない者には、そのような認識はありません。
物事が進化しているにも関わらず、それを退化として捉えてしまうのです。
実質とは違う見解に従うのであれば、混乱を導くことになるのです。
目的地に向かっているにも関わらず、それを理解することができずに抵抗するのであれば、目的地とは違う場所に辿り着いてしまうのです。
あなたには受け入れることができるでしょうか?
すべては常に進化しているのです。
それを受け入れることができるというのであれば、不安や恐怖によって抵抗する必要はありません。
それがあなたにどのように映ろうとも、進化の過程であるということを理解する必要があるのです。
幼虫が成虫になるには、蛹(さなぎ)という状態を通過する必要があります。
幼虫に比べ、蛹は手足を奪われて自由に行動することができません。
幼虫からすれば、蛹の状態はすべてに劣ると考えることもできるでしょう。
しかし、内部では凄まじい変化が起きているのです。
幼虫が成虫になるためには、幼虫であったという”古い”情報、価値観、状態を壊す必要があるのです。
蛹とは、古いものから新しいものに移行する期間であると理解すれば良いでしょう。
古い状態から、新しい状態に移行する際には、身動きが取れません。
しかし、内部ではすべてを破壊するという行為が繰り返されます。
多くの人にとっては、動きもなく、破壊を受ける状態を進化とは解釈することができません。
しかしながら、その本質は進化であるということを理解する必要があるのです。
すべての人は古い情報、価値観、状態を所有しています。
それ等は長い年月によって習慣化されています。
習慣化されたものは、誰にとっても心地好いのです。
そこに不安や恐怖を覚えることはありません。
新たなことを始める時には、人は不安や恐怖を覚えます。
そのため、新たなことは悪いこと、古いものが良いこと、という歪んだ思想が生まれてしまうのです。
しかし、本質は感情とは反対です。
古い情報、価値観、状態にいつまでも執着しているのであれば、必要な進化を実現することができません。
幼虫がいつまでも幼虫のままであっては、苦しみの中に滅びる他ないのです。
季節と共に成長することが、幼虫にとっての幸せなのです。
人にとっての幸せとは、時代と共に成長し、時代と共に滅びることでしょう。
あなたは時代を知らなければなりません。
世界があなたに何を求めているのでしょうか?
それを考え続けなければならないのです。
いつまでも古い情報、価値観、状態に執着していてはなりません。
それ等は必ず壊されます。
多くの人はそれを嫌い、不安や恐怖によって抵抗します。
大切なのは新たな情報、価値観、状態を得ることです。
古い情報、価値観、状態は、古い時代と共に滅びるのです。
新たな情報、価値観、状態は、新たな時代と共に生きるでしょう。
何かを失っても、それは不幸ではありません。
必要ではないために失うのです。
それ以外の理由など存在しないのです。
あなたは必要なものを失い、必要なものを得るのです。
そのことに気が付かなければなりません。
あなたの目的は成長です。
世界の目的は進化なのです。
何かが退化するということはありません。
誤解を所有しないようにしなければなりません。
常に勉強に励みましょう。
そして、時代を生きるように心掛けましょう。

2016年1月4日月曜日

苦しみが真実ならば、喜びも真実である

この世界には、陰陽の仕組みが存在しています。
一切の存在は、陰陽の対極性を所有しています。
どのようなものに対しても、陰陽の二つの側面が存在しているのです。
例えば、正義というものは、立場によって悪ともなるのです。
正義とは、善悪の対極性を所有しているものであるのです。
陰陽のどちらか一つの性質だけを所有しているものは存在しません。
どのようなものも必ず、陰陽の二つの性質を所有しているということを覚えておきましょう。
人は、立場によって陰陽を隔(へだ)てます。
立場によってそれの陰の部分を強調したり、陽の部分を強調するのです。
陰陽が切り離されることはありませんが、どちらかを強調することによって、強調されない方は隠れてしまうのです。
多くの場合、立場を重んじる人は自己を正当化します。
意識的にも、無意識的にもそのように振る舞います。
自己を正当化することによって、強調する部分のみが明白となり、強調されない部分は不明となるのです。
人は、立場によって陰陽を明白と不明に隔て、多くの誤解を所有します。
それは、混乱を導き、動揺した心は真理から離れます。
真理から離れた心は苦悩に行き着くのです。
あなたが行わなければならないのは、立場に固執(こしゅう)しないことです。
陰と陽に隔ててはならないのです。
一切の存在は、陰陽のどちらをも所有しているのが自然なのです。
それを隔てるのであれば、不自然が生じることになります。
不自然によって、心が喜ぶことはありません。
陰陽を隔てるという不自然を導いては、あなたが喜びを得ることはできないのです。
あなたは立場を離れなければなりません。
立場を離れ、陰陽の両側面を受け入れなければならないのです。
多くの人は、自分自身に都合の良いように解釈しています。
認識において、自分にとって都合の良いものは存在し、都合の悪いものは存在しないのです。
(ここで言う”都合の良い”とは、思考の傾向にとって都合の良い状態です)
例えば、ネガティブな状態の人にとっては、苦しみが都合の良い状態です。
ネガティブな思考の状態の人にとっては、苦しみが都合の良い状態であるため、その部分を強調します。
それによって、何に付けても”苦しい”と吐き続けるのです。
苦しみという状態が存在するのであれば、その対極に存在する喜びという状態も同時に存在しているはずです。
しかし、ネガティブな思考という立場に捉われているために、苦しみという状態に固執するのです。
ネガティブな思考の状態の人にとっては、苦しみは現実的です。
その苦しみはその人を追い込み、”神”に見放されたような気分になり、やがては絶望に辿り着きます。
しかしながら、それは真実なのでしょうか?
苦しみが現実的であり、喜びは非現実的なのでしょうか?
ネガティブな思考の状態の者にとってはそうでしょうが、ポジティブな思考の状態の者にとってもそうでしょうか?
あなたがネガティブな思考の状態の時と、ポジティブな思考の状態の時では、同じ結果を導くでしょうか?
結局は、あなたの立場が陰陽のどちらかに傾いているだけなのです。
ただ、それだけです。
ネガティブな思考の状態の時も、ポジティブな思考の状態の時であっても、苦楽は共に現実的(もしくは非現実的)であるのです。
片方しか見えていないだけなのです。
今は苦しいかも知れませんが、後には喜んでいます。
今は喜んでいるかも知れませんが、後には苦しんでいるのです。
すべては現実であり、幻想です。
この世界には、陰陽の仕組みが存在しています。
例外は存在しません。
これは、すべての存在に与えられた理(ことわり)であるのです。
すべてを創造した”神”は、すべての存在に陰陽を施(ほどこ)しました。
”神”でさえ、陰陽の性質を所有しているのです。
どちらか一方だけが導かれるということは有り得ないのです。
あなたが苦しみを見ている時には、喜びを探さなければなりません。
あなたが喜びを見ている時には、苦しみを探しましょう。
どちらをも大切にしなければなりません。
都合の良いように解釈してはなりません。
それは、あなたに歪みを導きます。
どちらかに偏ってはなりません。

2016年1月3日日曜日

明るい心、明るい顔

人生を決定付けるのは、あなたの内側です。
あなたの考え方、受け取り方、心根によって人生は決まります。
何かしらのテクニックによって人生が決まるということはありません。
例えば、宝くじに当選し、巨額の金銭を手に入れたとしても、それによってあなたの人生の本質が変わるということはないのです。
宝くじに当選しようがするまいが、あなたの内側が人生を決めるのです。
そのため、”くだらない”テクニックを磨いてはなりません。
それは、浅知恵に他ならないからです。
器量も無いのに、大金を手に入れるだけで人生が変わると思いますか?
乏しい知性の者は、大金を手に入れたとしても乏しい知性なままなのです。
例えば、大金によって人生が変わるということはありません。
どちらにしても、内側に違いがなければ、違う規模の同じことをするのです。
愚かな者は愚かに行い、賢い者は賢く行います。
多くの富によって不幸な者がいます。
少ない富によって幸福な者がいるのです。
富が多ければ幸福であり、それが少なければ不幸であるということはありません。
物事は本質によって捉えなければなりません。
浅知恵によって、人生が変わるということはないのです。
あなたは深く考える必要があるでしょう。
多くの人は浅知恵によって人生を制御しようと考えています。
大金を手に入れたとしても、人生が変わることはありません。
人間関係や環境を変えることも同じです。
自分の内側を変えようとしないのは、人生の本質を変えようとしないことに等しいのです。
人間関係や環境を変えようとも、内側に変化がなければ同じことを繰り返します。
それは、何の解決にも繋がらないのです。
誰かや何かに自分の人生を任せることはできません。
多くの人は浅知恵によってそれ等に頼りますが、それは一時の慰めにはなっても、人生を変える力はないのです。
あなたは内側を変えなければなりません。
人生には多くの困難が存在します。
あなたは多くの苦しみを受けることになるでしょう。
その中で、多くの人はその心中や顔に苦悩を浮かべます。
大切なのは、内側が”良い”状態であることです。
心中や顔に笑みを浮かべることなのです。
あなたが苦しいのは知っています。
しかし、苦しいからといって、簡単に苦しんではなりません。
なぜなら、苦しみとはあなたの誤解によって生じる歪みであるからです。
その苦しみの原因はあなたの内にあるのです。
あなたの解釈が間違っているに過ぎません。
そのため、内側を変えることによって、誤解を乗り越え、人生が変わるのです。
あなたは情けない顔で生きてはなりません。
どれだけ苦しい状態であっても、それを楽しむように努めなければならないのです。
どのような状況にも、必ず良い部分が存在します。
それは、あなたの役に立つことです。
人生に無駄は存在しません。
それがどのような問題であろうとも、ただ苦しむためのものではないのです。
あなたの誤解を解決するための問題であるのです。
あなたが誤解を解決すれば、その問題は終わるのです。
いつの時にも、楽しく生きましょう。
人生は問題の連続です。
しかし、それを暗い心や顔で迎え受けてはなりません。
何かが満たされなくても、それが最善であるということを受け入れるのです。
そうすれば、現状は素敵な輝きによって満ちていると知ることができるでしょう。
どのような状況にも苦しみというものは存在しないのです。
あなたの内側に苦しみがあるだけだということを覚えておきましょう。
答えは簡単です。
明るい心と顔によって生きれば良いだけです。
気に入らないことや、受け入れ難いことばかりでしょうが、それを悪いものと決め付けてはなりません。
人生はあなたのために存在しています。
すべては、あなたの内側を向上させるために起きる喜びであるということを覚えておきましょう。

2016年1月2日土曜日

強い繋がり

人生は、問題の連続です。
誰にとっても何かしらの問題が道を共にします。
それは、すべての人が未熟であり、それを克服する必要があるからです。
問題は未熟さの提唱(ていしょう)です。
問題は、困難を通じてあなたに語り掛けます。
あなたは困難という言葉を聞いて、その意味を考えるのです。
意味を考えることによって、それを理解することができます。
理解することができれば、問題は問題としての形を保つことができません。
問題の解決は、理解によるのです。
問題が生じる度に、あなたは理解を深めることができ、知恵を増すことができるのです。
それは、成長を意味しています。
人は問題に会いますが、その度に成長しているということを理解する必要があるのです。
しかし、多くの人は問題が成長を導くという実感を得られずにいます。
そのため、問題に対して嫌悪感を抱き、それを否定しているのです。
問題とは厳しい状況に違いありません。
あなたは出来ればそれに会いたくはないと考えるでしょう。
しかし、どのように努めても、何かしらの形で問題と対峙しなければなりません。
どれだけ成長したとしても、人生には問題が尽きないのです。
厳しさを嫌う人がいます。
厳しい状況や他人の厳しい態度に対して、苦しむのです。
しかし、それを安易に苦しんではなりません。
なぜなら、厳しさには”愛”が潜在しているからです。
厳しさとは、”強い繋がり”の結果です。
物事は強く繋がるほどに激しく(密着)なります。
厳しさが存在する関係性は、”強い繋がり”によって結び付いているのです。
親子の間には厳しい言葉や態度が存在します。
しかし、他人との間にはそれは許されません。
親子の間では、厳しい言葉や態度は建設的に作用しますが、他人との間では破滅的に作用するのです。
それは、親子の間の愛の形に比べ、他人との間の愛の形は”弱い繋がり”であるからです。
”弱い繋がり”であっては、厳しさは報われないのです。
そのため、厳しさは存在することができないのです。
厳しさとは、愛による”強い繋がり”にこそ存在することができるのです。
あなたは、問題という形によって厳しさを受けます。
その厳しさに心が折れそうになることもあるでしょう。
絶望に打ち拉(ひし)がれ、立ち直れないような場合もあるかも知れません。
しかし、そこに厳しさが存在できるということは、同時に愛による”強い繋がり”が存在しているということなのです。
多くの人はそのことを知りません。
そのため、問題やその厳しさに対して安易に否定するのです。
あなたには受け入れることができないかも知れません。
しかし、愛がなければ、それに関わることができないのです。
愛がない場所には興味も生まれず、無関心という状態が導かれるのです。
無関心のものに対して問題は生じません。
関心があり、対峙するものでなければ、”強い繋がり”と問題は生じないのです。
問題は未熟さによって生じますが、それを導いているのは愛であるということを覚えておきましょう。
愛の存在しない場所に問題は存在しないのです。
問題は厳しいものではありますが、決して悪いものではありません。
それは、あなたにとって最善の学びであるということを理解しなければならないのです。
厳しさを嫌ってはなりません。
それは、本能的な無条件反射に過ぎないのです。
本能に従うのであれば、そこに知性はありません。
知性とは、本能を超越することができる力なのです。
問題や厳しさを否定することについて、考察する必要があるでしょう。
それを否定しなければならない場合もあるでしょうが、その判断が安易なものであってはなりません。
それは、甘えを生み、怠慢や傲慢へと繋がります。
人生は問題の連続ですが、それは成長の連続であるということを理解し、厳しさと真摯(しんし)に向き合いましょう。

2016年1月1日金曜日

新たな時代の新たな価値観

古い価値観は、常に妨げとなります。
それは、新たな時代にそぐわないのです。
新たな時代は、新たな価値観を求めています。
新たな価値観でなければ、新たな時代を担うことはできないのです。
時と場所に相応しい価値観というものが存在するのです。
それを誤れば、そこには不調和と苦しみが導かれるのです。
時代に調和する価値観を有する必要があるのです。
あなたは時代を見極める必要があります。
変化に敏感でなければなりません。
変化に聡(さと)く、柔軟でなければならないのです。
時代は常に変化し続けています。
人は変化し続けなければなりません。
そうでなければ、不調和によって苦しみを受けることになるからです。
時代にそぐわない価値観を所有している者が調和によって喜ぶことはありません。
どのような努力も実ることはありません。
時代にそぐう価値観という根幹が満たされなければ、どのような方法も水の泡となるのです。
大切なのは価値観が変化し続けることです。
多くの人は頑固さを所有しています。
自分の価値観がいつまでも通用すると思い込んでいるのです。
しかし、変化することがなければ、それだけで通用しなくなります。
古いというだけで、役には立たないのです。
あなたは既成概念(きせいがいねん)にこだわっていてはなりません。
いつまでも自分の価値観が通用することなど有り得ないのです。
あなたはいつまで同じように、同じことを続けるのでしょうか?
時代は変わったのです。
昨日と今日では全く別の世界です。
情報は、それほどに加速しているのです。
長い期間によって時代が変わるなどという古い価値観を所有してはなりません。
昨日まで真実であるとされてきた常識は、今日には覆ります。
昨日までは価値のあったものが、今日には無価値となるのです。
いつまでも、愚図愚図としていてはならないのです。
あなたの考え方や行為は、今日という日に後悔を残しませんか?
その生き方で満足することができるでしょうか?
自分自身の小さな尺度によって、世界を考えてはなりません。
あなたの周囲の人たちが何も変わっていないように思えても、あなたは変化を続けなければなりません。
他人の変化を実感することは簡単ではありません。
付き合いのある人々が変化していないからといって、時代が変わっていない訳ではありません。
大抵の人、大抵のコミュニティーが時代に取り残されるのです。
周囲の人たちと同じであるということに安心してはなりません。
昨日と今日では時代が違うのです。
周囲の人たちが何等変わらなくても、あなたは時代を見極め、変化に聡く、柔軟でありましょう。
そして、毎日、自分自身を変化し続けるのです。
個人的に変化するということを大切にしましょう。
自発的に生きるのです。
周囲が変わったことを知って自分も変わろうとする時には、既に手遅れなのです。
そのような者は時代に取り残されます。
決して、新たな時代を生きることはできないのです。
新たな時代にあっても、前時代的な考え方、生き方をする必要があるのです。
古い価値観が何の役に立つのでしょうか?
老人の多くはこのような状態に陥っています。
残念ながら、役には立たないのです。
しかし、これは若者にも言えることです。
古い価値観を所有する者は、誰であろうとも時代の妨げとなるのです。
勤勉によって、価値観が古くならないように努めましょう。
あなたには、新時代を担うという役割があるのです。
担うことをせずに、依存する者が多いのです。
そのような腑甲斐無(ふがいな)い生き方をしてはなりません。
新たな価値観を形成することによって、新たな時代を生きましょう。