人生は、問題の連続です。
誰にとっても何かしらの問題が道を共にします。
それは、すべての人が未熟であり、それを克服する必要があるからです。
問題は未熟さの提唱(ていしょう)です。
問題は、困難を通じてあなたに語り掛けます。
あなたは困難という言葉を聞いて、その意味を考えるのです。
意味を考えることによって、それを理解することができます。
理解することができれば、問題は問題としての形を保つことができません。
問題の解決は、理解によるのです。
問題が生じる度に、あなたは理解を深めることができ、知恵を増すことができるのです。
それは、成長を意味しています。
人は問題に会いますが、その度に成長しているということを理解する必要があるのです。
しかし、多くの人は問題が成長を導くという実感を得られずにいます。
そのため、問題に対して嫌悪感を抱き、それを否定しているのです。
問題とは厳しい状況に違いありません。
あなたは出来ればそれに会いたくはないと考えるでしょう。
しかし、どのように努めても、何かしらの形で問題と対峙しなければなりません。
どれだけ成長したとしても、人生には問題が尽きないのです。
厳しさを嫌う人がいます。
厳しい状況や他人の厳しい態度に対して、苦しむのです。
しかし、それを安易に苦しんではなりません。
なぜなら、厳しさには”愛”が潜在しているからです。
厳しさとは、”強い繋がり”の結果です。
物事は強く繋がるほどに激しく(密着)なります。
厳しさが存在する関係性は、”強い繋がり”によって結び付いているのです。
親子の間には厳しい言葉や態度が存在します。
しかし、他人との間にはそれは許されません。
親子の間では、厳しい言葉や態度は建設的に作用しますが、他人との間では破滅的に作用するのです。
それは、親子の間の愛の形に比べ、他人との間の愛の形は”弱い繋がり”であるからです。
”弱い繋がり”であっては、厳しさは報われないのです。
そのため、厳しさは存在することができないのです。
厳しさとは、愛による”強い繋がり”にこそ存在することができるのです。
あなたは、問題という形によって厳しさを受けます。
その厳しさに心が折れそうになることもあるでしょう。
絶望に打ち拉(ひし)がれ、立ち直れないような場合もあるかも知れません。
しかし、そこに厳しさが存在できるということは、同時に愛による”強い繋がり”が存在しているということなのです。
多くの人はそのことを知りません。
そのため、問題やその厳しさに対して安易に否定するのです。
あなたには受け入れることができないかも知れません。
しかし、愛がなければ、それに関わることができないのです。
愛がない場所には興味も生まれず、無関心という状態が導かれるのです。
無関心のものに対して問題は生じません。
関心があり、対峙するものでなければ、”強い繋がり”と問題は生じないのです。
問題は未熟さによって生じますが、それを導いているのは愛であるということを覚えておきましょう。
愛の存在しない場所に問題は存在しないのです。
問題は厳しいものではありますが、決して悪いものではありません。
それは、あなたにとって最善の学びであるということを理解しなければならないのです。
厳しさを嫌ってはなりません。
それは、本能的な無条件反射に過ぎないのです。
本能に従うのであれば、そこに知性はありません。
知性とは、本能を超越することができる力なのです。
問題や厳しさを否定することについて、考察する必要があるでしょう。
それを否定しなければならない場合もあるでしょうが、その判断が安易なものであってはなりません。
それは、甘えを生み、怠慢や傲慢へと繋がります。
人生は問題の連続ですが、それは成長の連続であるということを理解し、厳しさと真摯(しんし)に向き合いましょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿