人とは、道を行く者のことである。
すべての人は道を行きます。
それを望もうが望むまいが、既に道の上にあり、それを歩まなければなりません。
道を否定することのできる者は存在しません。
立ち止まるのも、別の道を選ぶのも、引き返すのも自由ですが、そこには常に道があるのです。
道とは、人生そのものであり、魂の目的です。
人の本質が魂である以上、そこには道が存在するのです。
あなたが理解しようがするまいが、受け入れようが受け入れまいが、人の本質が魂(呼び方は何でも良い)という形而上(けいじじょう)の存在であるということを否定することはできません。
肉体であれ、その本質は生命です。
生命が宿らなければ、それは肉塊(にくかい)に過ぎないのです。
生命を形而下の存在によって説明することはできないでしょう。
あなたが自分自身を肉体であると主張したところで、生命を否定することができない限り、魂の目的である人生の道を否定することはできないのです。
魂の目的と言えば壮大に聞こえますが、目の前の目的や将来の夢などの”小さな”目的であっても、それは立派な道であるのです。
”わたし”は決して、あなたの目の前の目的や将来の夢を軽んじているのではありません。
それは、道における一歩に過ぎず、一歩を踏み出して満足してはならないということを理解して欲しいのです。
魂の目的である道を行くためには、目の前の目的や将来の夢を実現し続けなければならないからです。
すべての人が道を行きます。
しかし、それぞれの目的地は違っています。
多くの人と同じように生活する人は、大きな街に向かうでしょう。
それは、多くの人と同じような生き方のことであり、多くの人と同じような考え方や価値観を所有しているということです。
目の前の目的や将来の夢、そして、魂の目的が似ている人たちは、大きなコミュニティーを形成するのです。
街というものは、そのようにして生まれるのです。
それは、道の中心を成します。
道は、街の中心から放射状に伸びるのです。
多くの人とは違うように生活する人は、郊外に向かうでしょう。
それは、多くの人とは違うような生き方のことであり、多くの人とは違うような考え方や価値観を所有しているということです。
目の前の目的や将来の夢、そして、魂の目的が似ていない人たちは、小さなコミュニティーを形成するのです。
異質な者は道の先端を行き、集団から離れるのです。
道を進み続けることができるのは一部の人だけです。
多くの人は途中の街に足を休めます。
道を進むほどに人は少なくなり、家は疎(まば)らになるでしょう。
辺境の地に住む者は変わり者です。
しかし、それは、街に住む大きなコミュニティーの中の”小さな”人から見た感想です。
道を追求すれば、生き方は変わります。
境地に赴(おもむ)く人を、多くの人は理解することができないのです。
街に住む者には、辺境に住む者の意向を理解することはできません。
それは、街に住んでいるからです。
道を追求することをせず、戯(たわむ)れに時を捨てているのです。
道を追求することをせずに、自分が何者であるのかを知ることができるでしょうか?
多くの人や多くの便利に囲まれた街に住んでいては、自分を理解することなどできないでしょう。
人が自分を理解するためには、人や便利から離れなければならないのです。
独りになり、不便と共に過ごせば、或(ある)いは自分を知ることもできるでしょう。
これは、都会を離れ田舎に住めと言っているのではありません。
この言葉を簡単に捉えてはなりません。
常識から離れ、古い楽しみを捨てろと言っているのです。
常識と古い楽しみを捨てることによって、あなたは”普通”ではなくなります。
周囲の人たちは、そんなあなたを変わり者と呼ぶでしょう。
多くの人は常識と古い楽しみから離れることができないのです。
それは、怖いからです。
しかし、恐れているのであれば、道を行くことはできません。
魂の目的地は、遥か遠くに存在しているのです。
自分が何者であるかも知らずに、年老いてはなりません。
そのような人生のどこに救いがあるのでしょう?
道を追求しましょう。
周囲に誰もいなくても、あなたは歩み続けましょう。
人が住んでいない辺境に住みましょう。
そこには、やがて人々が移住するようになります。
そうなれば、あなたは更なる辺境を目指して歩みを進めましょう。
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