このブログについて

「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2016年2月29日月曜日

ハングリー精神

人の心は不足によって覆われています。
すべての人の心には、必ず不足が存在しているのです。
不足を所有しない心はありません。
なぜなら、心というものは不足を所有する必要があるからです。
心は不足を必要としています。
心の働きは不足を集めることにあるのです。
心を所有している人は、同時に不足を所有しなければなりません。
心とは、不足そのものなのです。
あなたが不足することは決まっています。
それは、成長を実現するためです。
あなたが成長を実現するためには、不足を得ることが必要なのです。
不足を得ずに成長を実現することができる人はいません。
それは、不足することがなければ、それ以上成長する必要がないからです。
不足することがなければ、充足しているのです。
充足している状態で、それ以上を求める必要はありません。
あなたは、自らの飲み物がコップを満たしている時に、それ以上を継ぎ足そうとは思わないでしょう。
それは、そうする必要がないからです。
これと同じように、心が充足で溢れているのであれば、それ以上の成長は必要ではないのです。
人生の目的は成長することにあります。
それは、天井を知りません。
人は、どれだけの成長を得ようとも、成長し続けなければならないのです。
それは、今のあなたに必要とだけ言っておきましょう。
理由はどのようなものでも構いません。
それが安楽を求める気持ちであっても、苦悩を逃れようとする気持ちでも構いません。
どのような動機であろうとも、成長へと向かうのです。
人にとって、不足は重要です。
しかしながら、多くの人は不足を嫌います。
それは、不足が苦悩を導くからです。
大抵の人は苦悩を嫌うのです。
そのため、不足を拒絶します。
しかしながら、人生を考察した時には、不足の重要性を無視することができなくなります。
人生に向き合う程に、不足の大切さを理解することができるのです。
子どもは不足を受け入れることができません。
子どもに比べると、大人はそれを受け入れることができます。
それは、経験によって不足が必要であるということを少なからず学んだからです。
心はあなたにとっての必要を知っています。
心はそれをあなたに惜しみ無く与えるでしょう。
しかし、そのことを知らないあなたは拒絶します。
そこに苦悩が生まれるのです。
あなたは不足を安易に拒絶してはなりません。
それは、あなたが成長するためには必要なことなのです。
心が不足で覆われていることは自然です。
寧(むし)ろ、不足が無ければなりません。
あなたは、不足を悪だと考えてはなりません。
それを所有していても良いのです。
不足を知ることによって、あなたは成長の方法を知るでしょう。
不足に感謝しなければなりません。
不足があなたに幸福への道筋を示すのです。
不足を燃料として情熱の炎を燃やしましょう。
不足はあなたに飢(う)えをもたらします。
それは、あなたにハングリー精神を呼び起こします。
その時、あなたは意欲的に働くでしょう。
それは、幸福を導くのに十分なのです。
充足を得ることは大切ですが、不足を味わうことはそれよりも大切です。
満腹の時、あなたは自由を失うでしょう。
空腹の時、あなたは自由を得るでしょう。
そのことを覚えておきましょう。
不足に感謝しましょう。


2016年2月28日日曜日

心の訓練

人生というものは、心によって創造されます。
すべての状況は、あなたの選択による行為によって導かれるのです。
その選択は心によって決定されます。
心とは、経験の蓄積です。
それは、あなたの価値観を形成します。
あなたは価値を求めて働くのです。
あなたの心は、最も価値のあるものを求めます。
その判断は心によって成されます。
何が価値であるのかは、心が自ずから決めるのです。
心は、最も大きな比重を価値と認めます。
それは、最も大きな感情であるのです。
あなたは、最も大きな感情によって人生を創造します。
それを避けることはできません。
あなたが望もうが望むまいが、心は人生を決定するのです。
心はあなたの本質ではありません。
心は、あなたではないのです。
もしも、心があなたであるのならば、それを自由にすることができるはずです。
しかし、あなたにはできません。
それは、自分ではないからです。
心は、経験の蓄積による価値観であるのです。
それは、コンピューターのプログラムのようなものなのです。
心は、経験に従って判断します。
過去の恐怖や栄光に対して執着する人がいます。
そのような人は過去のプログラムに従っているに過ぎないのです。
心は、あなたに道を示します。
しかし、あなたがそれ(心)を治めないのであれば、心に従って生きなければなりません。
あなたがそれを治めるのであれば、心の示す道とは別の道を歩むことができるでしょう。
心に従って行くのであれば、過去の経験に従った未来を得ることになります。
それが悪いという訳ではありません。
しかし、変化を求めているのであれば、心を治める必要があるのです。
新たな人生を創造するためには、心を変える必要があります。
そのプログラムを変更することによって、未来は変わるのです。
心を変えるためには、訓練が必要です。
心が自然と変わることはありません。
それは、元の形状に戻ろうとするのです。
人生の安定を求める多くの人は、心に従って生きている人たちです。
それを幸福だと認識する人はその通りにすれば良いでしょう。
しかし、そこに幸福を認識することができなければ、心を訓練する必要があるのです。
心の訓練とは、別の感情を保つということです。
それはとても単純であり、簡単な作業です。
例えば、今までは苦しいと思っていたことに対して、喜びを抱くという具合です。
そして、その変化を保つのです。
これが心の訓練です。
あなたの肉体が仕事を覚えるのと同じことです。
それを心のレベルで行うのです。
今までの感情とは別の感情が無意識の内に出れば、それは別の人生となります。
心は最も大きな比重を求めるために、喜びが大きければ喜びの人生となるのです。
苦しみが大きければ、苦しみの人生となるでしょう。
単純なことなのです。
この単純なことができない人は苦悩するのです。
多くの人は心について考えてはいません。
心と向き合って生きてはいないのです。
大抵の人が生存競争に集中(させられて)しています。
それは、肉体との向き合いであって、心との向き合いではないのです。
深く息をして、呼吸を整えましょう。
そして、胸に手を当てて、ゆっくりと瞼(まぶた)を閉じましょう。
あなたはそこで自らの心と出会うでしょう。
”それ”と話しましょう。
そうすれば、あなたの人生は大きく変わるのです。

2016年2月27日土曜日

価値判断

それで、あなたは幸福を得たのでしょうか?
あなたの状態は、価値判断の結果です。
あなたは自らの価値判断に従って選択します。
それが状況を導き、状態となるのです。
あなたの受け取っている状態とは、価値判断による結果です。
それは、あなたが価値を見出した選択肢による当然の結果なのです。
人は、価値に従って行うのです。
それがどのようなものであろうとも、自らの価値判断によるのです。
それに価値があると考えるために選ぶのです。
あなたの状態とは、あなたが価値があると信じたものの本質であるのです。
あなたは幸福を得たでしょうか?
それは、あなたの信じたものの本質です。
あなたは自らの信じたように選択したはずです。
すべては、あなたの選んだ状態なのです。
あなたの価値判断は、あなたの生き方そのものです。
どのように考え、どのように行うかは、あなた次第なのです。
誰かによって決められているということはありません。
最終的な選択権は、あなたに任されているのです。
あなたは現状に満足していますか?
あなたが幸福を得ていると考えているのであれば、その生き方を続ければ良いでしょう。
しかし、そこに不足を感じ、苦悩を覚えているというのであれば、価値判断を変える必要があります。
幸福を得ることができない判断に価値があるのでしょうか?
あなたの目的は幸福を得ることなのです。
幸福を得るためには、幸福を得るための価値判断でなければならないのです。
これは、あなたの人生なのです。
あなたは、自らの幸福のために判断すれば良いのです。
誰かの決めた幸福が、あなたに当てはまるということはありません。
あなたは、自分に相応しい幸福を探す必要があるのです。
あなたは自らの判断によって価値を定めましょう。
あなたが幸福を得るためには、あなたを幸福にする価値判断が必要なのです。
あなたに苦悩を導く価値判断を手放さなければならないのです。
あなたが苦悩を覚えているのであれば、その価値判断は間違っています。
あなたはそれを認めなければなりません。
間違いを認めることがなければ、変えることができないのです。
人は信じることに従って行います。
信じていないことを行う人はいないのです。
そのため、その生き方が苦悩を導いているということを認める必要があるのです。
多くの人は自らの生き方を変えることができません。
決められた通り、誰かが言うようにしか行えません。
多くの人にとっては、与えられた生き方がすべてであり、自らの価値判断は反映されません。
多くの人は”奴隷”や”家畜”のように生きているのです。
あなたを幸福にしない生き方が大切なのでしょうか?
口では幸福を求めているにもかかわらず、生き方を変えることはありません。
その人は嘘吐きと呼ばれるのです。
嘘吐きは矛盾を抱えています。
そのような者が目的を果たすことはできません。
口と生き方が協力しなければならないのです。
あなたが幸福を求めているのであれば、何が自分にとっての幸福であるのか?ということを一人になって真剣に考えてみましょう。
多くの人は価値判断がそれに反しているのです。
矛盾を生きてはなりません。
あなたが最も求めているものは何ですか?
あなたが最も大切にしたいものは何ですか?
あなたは幸福を得なければなりません。
あなたが幸福を感じることがなければ、生き方を変えなければなりません。
生き方を変えることは、多くの人にとっては難しいことです。
しかし、変えなければなりません。
苦悩を抱えたままではなりません。
それは、怠慢(たいまん)だからです。
このままではいけないのです。
幸福を得る生き方を探しましょう。
幸せになりましょう。

2016年2月26日金曜日

萌(きざし)

あなたには、成長のための時間が与えられています。
時間とは、成長のための材料であり、それは本質です。
時間がなければ成長は有り得ません。
あなたが成長を実現するためには、時間という成長の本質が必要となるのです。
すべての成長は時間という大地に芽生える植物のようなものです。
どのような種子も、大地を損なっては育ちません。
どのような賢者も、時間を失っては成長することができないのです。
あなたは未熟です。
未熟な者は、賢者よりも多くの時間を必要とします。
そのため、あなたは時間をより大切に扱わなければならないのです。
時間を大切に扱うことがなければ、それは雪崩のように流れ落ちてしまうのです。
多くの人は時間を大切にはしていません。
時間を浪費することには長けていても、時間を充実させることには劣るのです。
そのため、多くの人には充実した時間が難しいのです。
あなたは時間の使い方を考えたことがありますか?
それを成長という人生の目的のために考えたことはあるでしょうか?
人生という全体を以(もっ)て初めて、時間の使い方を真剣に考えるようになるでしょう。
人生を考えることがなければ、何を考えても真剣にはなれません。
当人はそれを真剣に考えているつもりではあるでしょうが、それは一時的な考えに過ぎないのです。
人生を考えることがない者の考えは、表面をなぞるに過ぎず、決して本質には到達しません。
どのように真剣に考え、真剣に行おうが、本質を得ない者が充実した時間を得ることはできないのです。
どのように真剣に考えて、行っても、後にそれが歪んでいることを知るのであれば、後悔を得ることにもなるのです。
後悔を得ることは悪いことではありません。
そこから立ち直れば良いだけだからです。
しかし、立ち直るにはより強い気持ちが必要となるのです。
多くの人がこれに挫折(ざせつ)します。
あなたは、時間を大切に扱わなければなりません。
どのような時間にも充実を目指し、成長を実現しなければなりません。
大地に落ちた種子は、小さく萌(きざし)ます。
それを大切に育てることがなければ、見上げる大樹にはならないのです。
種子が芽吹いても、鳥が来て食べてしまうでしょう。
例え育っても、陽に焼けて乾(から)びてしまうのです。
あなたは、小さな萌を育むように、小さな成長を育まなければなりません。
そのためには、丁寧な時間の使い方が求められます。
あなたは成長のための時間を優先させましょう。
すべての時間は、人生の目的でもある成長のために用いるのが相応しいのです。
あなたは、毎日少しでも成長を実現しましょう。
そのためには、自分にできることを惜しみ無く行わなければなりません。
何事においても手を抜いてはならないのです。
それは、あなたの成長のための貴重な時間なのです。
損得勘定によって動いてはなりません。
あなたには何が損で、何が得であるのは分かりません。
分からないから、すべてにおいて懸命に行うのです。
懸命に行う者が損を得ることはありません。
損をしているような者が得をし、得をしているような者が損をしているのです。
自分の利益を求める者は却(かえ)って失い、自分の損失を求める者は却ってそれを得るのです。
自分勝手に行えば、あなたは顰蹙(ひんしゅく)を得るでしょう。
他者のために行えば、あなたは誉れを得るのです。
どちらが得であるのかは明白です。
浅はかな考えによって、損なってはなりません。
あなたは手を抜いてはなりません。
すべてが成長のための貴重な時間です。
軽んじることができる時間など無いのです。
自分にできることを考えましょう。
難しいことではありません。
自分にできることは、誰にでもできることなのです。
すべてが成長のために与えられた時間であるということを覚えておきましょう。
目の前の一つ一つのことを大切にして、少しずつでも成長を実現しましょう。

2016年2月25日木曜日

甘えと厳しさ

この世界において、無意味なことがあるでしょうか?
あなたに対して、無価値なものが導かれるでしょうか?
あなたは、相応しくないものを受け取ることがあるでしょうか?
この世界には、因果の仕組みが働いています。
それは、”神”の名によって働いているのです。
因果の仕組みが間違えることはありません。
それは正確なのです。
なぜなら、人が行ってはいないからです。
”神”は平等です。
すべてを公平に扱います。
そこに特別はありません。
喜びも苦しみも、すべてが意味を持ちます。
それは最大の価値なのです。
それを人の価値観によって計ることはできません。
それは、あなたにとっても、誰にとっても相応しいものなのです。
あなたが受ける結果も、誰かが受ける結果も、そのすべてが正しいということを覚えておきましょう。
受け取る結果の内の一つであっても、正しくないものは存在しないのです。
すべては自分の選択の結果です。
すべては、あなたに相応しく導かれるのです。
あなたの在り方が、あなたの未来を決めるのです。
そのことを覚えておきましょう。
あなたがどのような結果を受けようとも、それは誰かや何かのせいではないのです。
すべてはあなたの責任なのです。
このことを忘れてはなりません。
このことを忘れてしまえば、あなたが真実(本質)に気が付くことはありません。
真実に気が付くことができなければ、あなたは”歪んだ”結果を受け続けることになるのです。
すべてはあなたに相応しいのです。
あなたは、自らの選択の結果を受け取るに過ぎないのです。
自分に甘い者は他人にも甘いものです。
自分や他人を甘やかせば、そこには怠慢(たいまん)と偽りが生じます。
人の心が克己(こっき)を離れるのであれば、それは簡単に弱さを得るでしょう。
弱い心が行う選択が、あなたを満足させる結果を導くと思いますか?
現在、人生に問題を抱え、苦悩を覚えている人は聞かなければなりません。
そのような人は自分や他人に甘く、克己心を離れています。
弱い人間には弱い人間が集まります。
人が集うのは(幸福にとって)悪いことではありません。
しかし、それが弱い人間であれば、そこには必ず怠慢と偽りが生じるのです。
それは、問題を引き起こし、苦悩を導くのです。
そのため、人は強い克己心を持ち寄らなければならないのです。
自分に厳しい者は他人にも厳しく接します。
厳しさは人の怠慢と偽りを砕きます。
厳しさによって人は働き者となり、真を得ることができるのです。
働き者の心には意欲と知恵が生じます。
意欲と知恵によって志が生じます。
志を持つ人間には、志を持つ人間が集まります。
それは、同志となるのです。
志を同じくした者たちは、満足のために行うでしょう。
そこには幸福があるのです。
自分に甘い者には自分に甘い者が集まり、自分に厳しい者には自分に厳しい者が集まります。
自分に甘い者に自分に厳しい者が集まることはありません。
自分に厳しい者に自分に甘い者が集まることもないのです。
すべては相応しい結果となります。
あなたは自分に対してどのような態度を取るでしょうか?
他人に対してはどうでしょうか?
”神”は平等です。
それは、あなたの働きに相応しく与えられます。
不満を吐く前に甘えを克服しましょう。
不安に震えるのであれば、厳しさをもちいましょう。
すべては、あなたの責任なのです。

2016年2月24日水曜日

秤(はかり)

人は額に汗して働かなければなりません。
労働とは、尊(とうと)い宝です。
それは、人を喜ばせます。
労働という宝無くして、人が喜ぶことはないのです。
すべての人が尊い宝を得るために、額に汗して働かなければなりません。
しかし、多くの人はそのことを忘れています。
労働が尊いものであるということを忘れているのです。
多くの人にとって、労働は悪となってしまったのです。
それは、自らに相応しい労働を得ていないからです。
多くの人の労働の動機は不純です。
あなたは何のために働きますか?
何のために働いているのでしょうか?
多くの人は生活のため、お金のため、贅沢のため、安心のため、地位のため、名声のため、有利な立場のため、異性を得るため・・・
多くの人はこのような動機のために働きます。
しかし、それは欲望に根差した動機であり、労働を悪たらしめるには十分なのです。
動機が不純であれば、受け取る結果も不純なものとなります。
そのため、多くの人は労働を嫌うのです。
多くの人は労働が尊いものであるということを知りません。
欲望を満たすために、”嫌な”労働を我慢して続けているのです。
そして、多くの人はそれに耐えられません。
そのため、浅知恵を使って楽な方法を探すのです。
浅知恵によって得た楽な労働は、人の額に汗を導きません。
額に汗して働かない者(不正を働く者)には、労働の喜びはありません。
そのため、労働の動機も益々歪んでしまうのです。
労働を嫌う者は、自らの働きよりも多くの報酬を求めます。
それは、盗人と同じです。
楽を求める者は、認められていないものを取ります。
与えられていないものを貪(むさぼ)るのです。
それは、因果の仕組みによって、大きな損失を導く結果となります。
認められていないもの、与えられていないものを欲する者は、自ら多くの破滅的な代償を手にするのです。
因果の仕組みは、その者の労働に相応しい報酬を支払います。
報酬は労働の代価であり、それ以外ではありません。
あなたの働きは”神”(真理)によって計られるのです。
その秤(はかり)は正確です。
そこに間違いはありません。
あなたの労働は、”神”によって完璧に計られているのです。
あなたの受ける状況が、その答えなのです。
しかし、目の前の状況がすべてではありません。
”神”による代価がいつ支払われるかは、誰も知らないのです。
認められていないもの、与えられていないものを取る者は聞かなければなりません。
そのような者は必ず苦悩を受けることになります。
額に汗して働かない者は聞きなさい。
あなたは乏しくなります。
あなたの喉(のど)が乾く時、一滴の水も与えられません。
それは、今までに認められていないもの、与えられていないものを散々貪ったからです。
認められていないもの、与えられていないものを得ることは借り入れることなのです。
借り入れたものには、利子(りし)が発生します。
あなたは、借り入れたものに相応しい利子を支払わなければなりません。
借り入れる程に、あなたは多く支払う必要があるのです。
楽を欲する者は多くを借り入れなければなりません。
それは、怠け者であるからです。
怠け者の畑には、作物は実りません。
それは、怠けているからです。
楽をして多くを得ようと考える怠け者には、それに相応しい報いがあるのです。
それは”神”の決定です。
逃れることはできません。
あなたは額に汗して働かなければなりません。
甘えてはなりません。
懸命に働き、認められたもの、与えられたものがどのようなものであろうとも、それを喜びましょう。
それ以外は決して、あなたのものではないのです。
自惚れてはなりません。
思慮深く、懸命に生きましょう。

2016年2月23日火曜日

すべては”神”によって生じました。
”神”とは、光です。
(宗教の神ではありません。呼び方に決まりはありません)
すべては光の反射によって区別されます。
それが個性です。
個性は独自の人生を導きます。
それは、色の違いによって用途が分けられるようにです。
この世界には様々な色が存在しています。
それは数え切れません。
すべての人が独自の個性を所有し、それが同じであることはありません。
それぞれがそれぞれの色を持ち、その色に従って用いられるのです。
人は、それぞれの人生を生きなければなりません。
誰かと同じ人生を生きることは不可能なのです。
それは、人の個性が独自のものであるからです。
これを同じにすることはできません。
それぞれが独特であることに意味があり、価値があるのです。
それを損なうことはできないのです。
光はすべての存在を照らします。
存在は、光の反射によって色を映すのです。
人の個性は”神”によって生じます。
”神”に対する信仰こそが、人(の個性)を区別するのです。
”神”を信仰する人は、個性的になります。
人は独自の人生を生きなければなりません。
それは、人にはそれぞれに役割が与えられているからです。
この世界に無意味な存在はありません。
すべての存在に対して、必要な仕事が与えられているのです。
それぞれは、その役割を果たさなければならないのです。
役割を果たすことによって、それぞれの幸福が導かれます。
自らの役割を果たすことなく、幸福が導かれることはないのです。
あなたは自らの責任を果たすことなく、幸福が得られると思いますか?
どのような存在も、自らの責任を果たすことがなければ、幸福を得ることができないのです。
あなたは、自らの色を理解しましょう。
あなたは個性を大切にしなければなりません。
”神”はすべての存在を照らします。
その光を受けるものは、確実に個性を映すのです。
”神”に背く者は、光を受けることができません。
個性を失っている者は、”神”に対する信仰を持たないのです。
(”宗教”を信仰している(多くの)人には個性がありません。残念ながら、それは”神”に対する信仰ではないのです。宗教とは、単一化した儀式によって個性(”神”の光)を奪う行為なのです)
あなたは自らの個性を思い出しましょう。
”神”に対する信仰を失うということは、”神”の光を失うということです。
光に照らされなければ、個性を映すことはできないのです。
暗闇の中で色を見分けることができますか?
あなたには、暗闇の中で色を見分けることができないでしょう。
暗闇の中に生きる人たちには個性がないのです。
それは、幸福がないのと同じです。
すべては”神”によって生じたのです。
あなたにも、大切な個性が与えられています。
自分らしくあることが重要なのです。
自分らしくあるということは、自分で判断するということです。
あなたは自分で決めましょう。
肯定(こうてい)も否定も、あなたは自分で決めれば良いのです。
どうするべきかを知るのは、あなた自身であり、他の誰かではないのです。
人は個性的であって良いのです。
それぞれが個性を発揮し、全体に協力すれば良いのです。
個性を殺し、同化するのは、却(かえ)って全体を弱めます。
それぞれが強くあって、協力する方が強いのです。
あなたが全体を大切に思うのであれば、個を蔑(ないがし)ろにしてはなりません。
あなたは”神”の光によって、独自の色を映しましょう。
すべての色が揃(そろ)った時、それは”神”となるのです。

2016年2月22日月曜日

敬意を受ける人

人は、自分を知りません。
あなたは誰なのですか?
人はそれを答えることができません。
自分自身のことすら知らないのです。
しかし、多くの人は自分を知らないことすら知りません。
何も知らずに存在しているのが現状なのです。
何も知らずに存在するということは、歪んでいることにも気が付かないということです。
汚れていることを知らなければ、滅びを導くのです。
しかし、人はそのことを知りません。
そのため、多くの人は自らの喜びのために他人を苦しめるのです。
多くの人は自分勝手に楽しみます。
それが他人を苦しめているということに気が付くことはありません。
そのような人の視野は狭く、他人のことまでは考えることができないのです。
自分の喜びを貪(むさぼ)ることに必死であり、それだけにとどまるのです。
しかし、人は自分勝手に生きることはできません。
なぜなら、人は他人との関係の中に自分を知る機会を得るからです。
人は、自分を知るために生きています。
それは、自分(現状)を知ることがなければ、成長することができないからです。
自分を知るためには、相対的な他人によって教えてもらう必要があるのです。
独りであれば、その歪みや汚れに気が付きません。
それこそ、自分勝手に陥ってしまうからです。
比較対象である他人こそが、あなたに”自分”を教えるのです。
あなたは他人を見(観測し)ましょう。
そして、自分と比較しなければなりません。
他人の長短を知り、自分を知るのです。
あなたはそれを前向きに捉(とら)えなければなりません。
他人と比較することによって、気が滅入ってはならないのです。
人は歪んでいます。
人は汚れています。
この世界において、正しい人というものはありません。
どのような人も必ず歪み、汚れているのです。
それは、”神”との比較によって知ることができるでしょう。
”神”とは真理です。
人は、真理と自分を比較する必要があるのです。
真理は、あなたに正しい結果を導きます。
それは、状況や心境によって知ることができるでしょう。
あなたが苦悩を得るのであれば、それは歪みと汚れを所有していることになります。
自分勝手に振舞う者には、それに相応しい形の報(むく)いがあるのです。
それは苦悩としてあなたの側にあるでしょう。
”神”への信仰が必要です。
ただし、これは宗教への信仰ではありません。
利他への信仰であり、真理への信仰であるのです。
あなたの喜びが他人を苦しめてはなりません。
あなたの喜びが他人を喜ばせ、救うことが求められているのです。
人は自分を知りません。
自分を知らない人が、どうして正しい喜びを知ることができるでしょうか?
あなたの知っている喜びは、本当に喜びなのでしょうか?
”神”への信仰を持たない者が、どうして正しく存在することができるでしょうか?
肉の欲に溺(おぼ)れ、自分のことしか考えることができない者が褒められるのでしょうか?
あなたの尊敬がどこにあるのかを考えましょう。
敬意を受ける者が、自分の喜びのために他人を苦しめるでしょうか?
人は自分を知りません。
その行為が愚かであるということを知らなければなりません。
自らの愚行を知り、それを正すのであれば、あなたは敬意を受けるに相応しい人となるでしょう。

2016年2月21日日曜日

身の程

すべての人は、身の程を知らなければなりません。
それは、成長のためです。
身の程とは、自分自身の程度です。
それは、現在地のようなものなのです。
自分自身の現在地がどこであるかを知らずに、目的地に辿り着くことはできません。
どれだけ詳細な地図を以(もっ)てしても、現在地を知ることができなければ目的までの道程を知ることはできないのです。
現在地を知らない人にとっては、どのような地図も無用の長物となるのです。
どのような目的地に対しても、現在地を知る必要があります。
あなたが幸福という目的地に到達するためには、身の程という現在地を知る必要があるのです。
身の程を知らない者の考えは歪んでいます。
身の程を知らないために、目測を誤るのです。
身の程を知らない者には知恵がありません。
それは、すべての判断が(求めている幸福に対して)誤っているためです。
知恵とは知性のことです。
身の程を知らない者にそれを望むことはできません。
なぜなら、身の程を知らないために高ぶるからです。
そこに謙虚さはありません。
高ぶる者が学ぶことはありません。
身の程を知らないために、自分が優れていると思い込むのです。
自分が優れているという思いは、利己主義を導きます。
利己主義とは自分勝手のことです。
身の程を知らない者は、自分勝手に振舞います。
それは、盗人のように計(はか)らいます。
身の程を知らない者は、他人から盗むのです。
身の程を知らない者は厚かましく、そこに遠慮はありません。
他人の所有は自分の所有であると考え、その区別を知りません。
盗人は、他人の所有を自分の所有と思い込んでいるのです。
そのために、盗む人は盗人と呼ばれるのです。
身の程を知らない者は盗みます。
依存心によって多くのものを盗むのです。
身の程を知る者には弁(わきま)えがあります。
身の程を知る者が高ぶることはありません。
自己を制し、克己(こっき)によって勝利者となるのです。
身の程を知らない者には自制がありません。
それは欲望のままに振舞い、思慮(しりょ)に欠けます。
当然、未来には苦悩を得るのです。
人間の活動のすべては、”身から出た錆(さび)”に他なりません。
それは、この世界には因果の仕組みが働いているからです。
身の程を知る者も、身の程を知らない者も、これに逆らうことはできません。
すべては、自らの行為によるのです。
身の程を知らない者は愚か者と呼ばれます。
愚か者が一人でもいれば、そこには争いが導かれるのです。
身の程を知らない者がいる場所には、必ず争いの火種があるのです。
そこには幸福は実現しないでしょう。
それぞれが身の程を知り、謙虚に努めるのであれば、そこには融和(ゆうわ)が生じるでしょう。
人々が心を通じ合わせた時には、幸福が実現するのです。
あなたは身の程を知らなければなりません。
高ぶってはなりません。
謙虚でありましょう。
盗んではなりません。
与えましょう。
あなたは、自分が誰なのか?ということを真剣に考えなければなりません。
そこには、あなたの身の程が存在するからです。
それを知りましょう。

2016年2月20日土曜日

至上の苦しみ

”わたし”は、あなたが最も苦しいことを知っています。
”わたし”はあなたにそれを与えます。
あなたは”わたし”の業(わざ)によって苦しまなければなりません。
”わたし”があなたから苦しみを退けることはありません。
寧(むし)ろ、あなたは苦しみに向かうのです。
それは、あなたが成長を実現する必要があるからです。
あなたは成長を実現するために存在しているのです。
そのため、”わたし”はその業によってあなたに報(むく)いるのです。
それは、因果の仕組みに従います。
あなたがどのような苦しみを受けようとも、それはあなたの選択なのです。
それは最善です。
”わたし”は常に、最善を以て返すのです。
”わたし”は、あなたの最も苦しむ方法を返すでしょう。
あなたはそれを受けなければなりません。
この苦しみは、誰であろうとも変わりません。
どこにいようとも同じです。
どのような方法も無益に終わります。
誰も、”わたし”の業から逃れることはできないのです。
あなたがこれに抵抗するのであれば、苦しみは却(かえ)って大きくなります。
”わたし”はあなたに最善の学びを導くのです。
それは、あなたが自らを顧(かえり)みるためです。
自らの歪みを認識するためには、自らの原因を理解する必要があるのです。
そのためには、因果に沿った業によって苦しむ必要があるのです。
苦しみは必然です。
偶然そのようになることはありません。
あなたは、その苦しみによって自分自身を知るだけなのです。
多くの人は苦しみを批判します。
最善の学びに対して唾(つばき)を吐くのです。
あなたの”救い”に対して、恨(うら)みを以(もっ)て返すのであれば、あなたは自らを呪うでしょう。
救いに対して恨みを以て返す者で、褒められた者はいません。
これまでもいなかったし、これからもいないのです。
”わたし”は、あなたの苦しみが他人には理解することができないようにします。
それは、それがあなたの苦しみであるからです。
他人は関係ないのです。
他人を巻き込むことは許されないのです。
あなたは、自分自身によってそれに向き合わなければなりません。
誰も助けることはできません。
それが”人”であるのならば尚更です。
他人はあなたを救うことができないのです。
あなたを救うことが出来るのは新たな原因であり、それはあなたの業なのです。
どのような苦しみを得たとしても、あなたは自らの業によってそれを救わなければならないのです。
原因がなければ結果はありません。
”わたし”の業に唾を吐くのではなく、自らの業によって自らを救いましょう。
”わたし”の業は、あなたに新たな業を教えるものです。
あなたは”わたし”の業による苦しみによって、新たな業を知るでしょう。
苦しみによって人は反省します。
反省を以て、人は自らを改めるのです。
自分が変わらなければ、人生が変わることは有り得ません。
そのために、”わたし”はあなたに最善の苦しみを導くのです。
どのような苦しみにも顔を背けてはなりません。
それは、あなただけのための特別な苦しみなのです。
それは決して悪いものではありません。
安易に判断してはなりません。
苦しみがあなたの助けとなります。
自分たちに都合良く練り上げられた”人の知恵”を信用してはなりません。
何が最善の結果を導くのか?ということを真剣に考えましょう。

2016年2月19日金曜日

足枷(あしかせ)

すべての人にとって、成長とは最高の喜びです。
それは、人生の目的が成長にあるからです。
すべての人が幸福を求めています。
幸福を実現するためには、成長を実現する必要があるのです。
成長を実現するためには、現在の自分よりも優れる必要があります。
あなたは常に現在の自分よりも優れているように努めなければならないのです。
あなたは常に向上心を保ち、より優れた自分でありましょう。
しかし、人の世にあって成長することは簡単なことではありません。
それは、人の歪んだ感情に晒(さら)されているからです。
多くの人は歪んだ感情を抱えています。
その最たるものは恐怖です。
多くの人は恐怖を抱えているのです。
恐怖を抱えている人は、成長という人生の目的に対しても恐れています。
成長したいという願望はあっても、成長することを恐れているのです。
それは、他人の成長にまで及びます。
恐怖を抱えている人は、その恐怖心から、他人を巻き込みます。
自分が成長することができないことに、他人をも巻き込むのです。
そのため、多くの人が他人の足を引っ張ります。
そこには協力はなく、甘えによる依存があるだけなのです。
恐怖を抱える人は甘えます。
依存心によって、自らの仕事を放棄するのです。
誰かが自分の代わりにそれをやってくれると、自分勝手に思い込んでいるのです。
しかし、あなたの代わりにそれをやる人はいません。
あなたは、あなたの仕事を自分自身の力によって果たさなければならないのです。
恐怖を抱える人は、自分の仕事が進まないことを知っています。
一人では怖いのです。
そのため、人を道連れにしようと企(くわだ)てるのです。
あなたは、その企てに従ってはなりません。
あなたを尊重しない人に対して、従順にする必要はないのです。
あなたを押さえ付ける人に対しては、反抗を以て返しましょう。
成長を目指している人が優れているのです。
恐怖に戦(おのの)いている人が優れているのではありません。
年齢や社会的地位など、何の関わりもないのです。
恐怖に従い、成長を否定すれば、衰退と苦悩が導かれるのです。
それを避けることはできません。
あなたが繁栄と幸福を求めているのであれば、成長に従い、恐怖を否定しなければなりません。
あなたを道連れにする人に従ってはなりません。
これは、あなたの人生なのです。
あなたがその人のことを思うのであれば、自らが成長することによってその人を救いましょう。
主人を間違えてはなりません。
成長することが先決なのです。
あなたは、あなたの成長を阻(はば)む恐怖を抱えている人の僕(しもべ)などではないのです。
あなたは、真の主人から成長を求められています。
あなたの成長を求め、繁栄と幸福を願う”人”こそ、あなたの真の主人であるのです。
多くの人は恐怖を抱えています。
多くの人はあなたの成長に理解を示しません。
多くの人はあなたの成長を妨げます。
多くの人はあなたの主人には成り得ません。
あなたの成長を願う人が、あなたを押さえ付けることはありません。
そのような人が、あなたを否定することはありません。
あなたが不利になるようなことはしません。
あなたの周囲には、あなたの成長を願っている人がいるはずです。
あなたはその人と共にありましょう。
もしも、そのような人が見当たらなければ、(そのような人が見付かるまで)あなたは一人で生きましょう。
人は、人から離れても生きていくことはできます。
しかし、成長から離れて生きていくことはできません。
成長から離れるくらいならば、人から離れた方がましです。
目の前の人が、恐怖と成長のどちらを信仰しているのかを見極めましょう。
その見極めに従って、選択しましょう。
これは、あなたの人生です。
あなたは自分で決めなければなりません。

2016年2月18日木曜日

喜びの権利

人は、自分自身の人生を生きています。       
すべての人が自分自身の人生を生きなければなりません。
それは、経験するためです。
人は、経験によって理解を得るのです。
人は、経験することによって自らの道を理解します。
それは、経験によってのみ知ることができます。
すべての経験は相対的です。
それは、あなたに”違い”を知らせるのです。
あなたは”違い”によって、それが何であるのかを知ることができるのです。
”違い”を得なければ、それが何であるのかを知ることはできません。
それは、比較することができないからです。
物事を相対的に比較することがなければ、人はどこへ行けば良いのか?どのように行けば良いのか?を知ることはできないのです。
すべての人が自分自身の人生を生きていますが、その道を知る人は少ないのです。
多くの人が自らの歩むべき道を知らずにいます。
あなたはそれを知っているでしょうか?
人生は何のために存在し、あなたは何のために生きているのでしょうか?
すべての人がその答えを知る必要があるのです。
そのためには、理解を深める必要があります。
理解を深めるためには経験する以外に方法はありません。
その相対性を理解することがなければ、何の答えにも辿り着くことはないのです。
人が経験するためには、喜びに従う必要があります。
人は喜び(だと思っているもの)のためにしか動かず、苦しみに対しては否定的です。
そのため、人が経験を得るためには、喜びに従う必要があるのです。
あなたは、自らの喜びを奪い取ってはなりません。
それがどのような喜びであろうとも、あなたが喜びであると感じるものであるのならば、そのために動く必要があります。
他者の意見は関係ないのです。
常識にも価値はありません。
あなたがそれを喜びであると感じるのであれば、それはあなたにとって必要な経験なのです。
また、他人の喜びを奪ってはなりません。
あなたがそれを喜びであると思うように、相手もそれを喜びであると思っているのです。
喜びの対象が違うだけであり、それを喜ぶ気持ちは変わらないのです。
喜びを奪われた人は、経験することができません。
人生において最も苦しいことは、経験することができないことでしょう。
それは、理解を奪います。
理解を得なければ、人が幸福を得ることはできないのです。
理解する機会が多いほど、その人は幸福であるでしょう。
理解する機会が少ないほど、その人は苦しむのです。
誰であろうとも、人の喜びを奪い取ってはなりません。
それがどのような喜びであろうとも、その人のするままにしておきましょう。
すべての人が、自らの喜びに従って行為し、それによって最善の経験を得ることができます。
それは、その人にとっての最善の理解に繋がるのです。
常識的な利益に繋がるかどうかなど、何の価値もないのです。
喜びを奪い取るのは大罪です。
それは、人を殺します。
人を生かす方法は、喜びを奪い取らないことなのです。
自分の基準において判断してはなりません。
あなたにとっては価値のないことであろうとも、他者にとっては最高の価値であるのです。
あなたの喜びなど、他者にとっては退屈に過ぎません。
それぞれに必要な理解が違うのです。
そのため、喜びも違うのです。
安易に判断してはなりません。
どのような人物であろうとも、他者の喜びを奪い取る権利はありません。
この理(ことわり)を犯す者には、因果の仕組みによって、同じように喜びが奪い取られるでしょう。
人は経験による理解を必要としています。
あなたは自身に対しても、他者に対しても、その権利を犯さないように注意しましょう。
自身と他者の喜びを尊重し、それを許しましょう。
人生の目的は成長にあるのです。
それ以外は価値がないということを知らなければなりません。
喜びを大切にしましょう。



2016年2月17日 17:52:33 の変更内容が競合しています:

人は、自分自身の人生を生きています。
すべての人が自分自身の人生を生きなければなりません。
それは、経験するためです。
人は、経験によって理解を得るのです。
人は、経験することによって自らの道を理解します。
それは、経験によってのみ知ることができます。
すべての経験は相対的です。
それは、あなたに”違い”を知らせるのです。
あなたは”違い”によって、それが何であるのかを知ることができるのです。
”違い”を得なければ、それが何であるのかを知ることはできません。
それは、比較することができないからです。
物事を相対的に比較することがなければ、人はどこへ行けば良いのか?どのように行けば良いのか?を知ることはできないのです。
すべての人が自分自身の人生を生きていますが、その道を知る人は少ないのです。
多くの人が自らの歩むべき道を知らずにいます。
あなたはそれを知っているでしょうか?
人生は何のために存在し、あなたは何のために生きているのでしょうか?
すべての人がその答えを知る必要があるのです。
そのためには、理解を深める必要があります。
理解を深めるためには経験する以外に方法はありません。
その相対性を理解することがなければ、何の答えにも辿り着くことはないのです。
人が経験するためには、喜びに従う必要があります。
人は喜び(だと思っているもの)のためにしか動かず、苦しみに対しては否定的です。
そのため、人が経験を得るためには、喜びに従う必要があるのです。
あなたは、自らの喜びを奪い取ってはなりません。
それがどのような喜びであろうとも、あなたが喜びであると感じるものであるのならば、そのために動く必要があります。
他者の意見は関係ないのです。
常識にも価値はありません。
あなたがそれを喜びであると感じるのであれば、それはあなたにとって必要な経験なのです。
また、他人の喜びを奪ってはなりません。
あなたがそれを喜びであると思うように、相手もそれを喜びであると思っているのです。
喜びの対象が違うだけであり、それを喜ぶ気持ちは変わらないのです。
喜びを奪われた人は、経験することができません。
人生において最も苦しいことは、経験することができないことでしょう。
それは、理解を奪います。
理解を得なければ、人が幸福を得ることはできないのです。
理解する機会が多いほど、その人は幸福であるでしょう。
理解する機会が少ないほど、その人は苦しむのです。
誰であろうとも、人の喜びを奪い取ってはなりません。
それがどのような喜びであろうとも、その人のするままにしておきましょう。
すべての人が、自らの喜びに従って行為し、それによって最善の経験を得ることができます。
それは、その人にとっての最善の理解に繋がるのです。
常識的な利益に繋がるかどうかなど、何の価値もないのです。
喜びを奪い取るのは大罪です。
それは、人を殺します。
人を生かす方法は、喜びを奪い取らないことなのです。
自分の基準において判断してはなりません。
あなたにとっては価値のないことであろうとも、他者にとっては最高の価値であるのです。
あなたの喜びなど、他者にとっては退屈に過ぎません。
それぞれに必要な理解が違うのです。
そのため、喜びも違うのです。
安易に判断してはなりません。
どのような人物であろうとも、他者の喜びを奪い取る権利はありません。
この理(ことわり)を犯す者には、因果の仕組みによって、同じように喜びが奪い取られるでしょう。
人は経験による理解を必要としています。
あなたは自身に対しても、他者に対しても、その権利を犯さないように注意しましょう。
自身と他者の喜びを尊重し、それを許しましょう。
人生の目的は成長にあるのです。
それ以外は価値がないということを知らなければなりません。
喜びを大切にしましょう。

2016年2月17日水曜日

人の主

人生は、心に相応しい場所となります。
人生は、心によって決まるのです。
人は、その心によって人生を築きます。
それは、すべての選択、すべての行為が心によってもたらされるからです。
人は心です。
心とは、人そのものなのです。
あなたは心を大切にしなければなりません。
しかし、多くの人は心について関心を持ちません。
心に関することに努めないのです。
多くの人は肉(肉体)の欲求に関心を持ちます。
多くの人は、如何(いか)に肉を満足させるかを考えているのです。
その選択、行為は肉に従います。
肉に従えば、心は弱まります。
それは、人の主が肉となるからです。
肉に従う人は、その僕(しもべ)となるのです。
僕が主以上の力を得ることはありません。
僕は制限され、自由を失うのです。
僕には自由が与えられません。
すべての僕は、主に従わなければならないのです。
肉を主とする人は、肉に逆らうことができません。
それは、肉のための人生となり、自由は制限されるのです。
肉の欲をどれだけ満たしても、あなたは幸福を得ることができません。
残念ながら、肉の欲を満たしても、それは一瞬の満足に過ぎず、またすぐに乾いてしまうのです。
それは、喉(のど)をどれだけ潤しても、またすぐに潤わさなければならないことに等しいのです。
腹を満たしても、またすぐに同じことをしなければなりません。
眠りを満たしても、またすぐに同じことが必要です。
性的快楽を満たしても、またすぐに求めるのです。
肉の欲には満足が無いのです。
そこにあるのは、一瞬の満足なのです。
心は同じことを求めません。
一つが満たされたのであれば、同じことを繰り返す必要がなくなります。
心には真の満足があるのです。
あなたが真の満足を欲しているのであれば、肉に関することではなく、心に関することに努めなければなりません。
肉を育むことよりも、心を育むことの方が有益なのです。
それは、人生が心によって生じているからです。
肉によって生じるのは苦悩です。
人が肉に従う時には、そこに苦悩が導かれるでしょう。
多く食べれば苦悩するでしょう。
多く眠れば苦悩します。
多く”愛せば”、やはり苦悩するのです。
肉の欲があなたを幸福にすることはありません。
しかし、心の欲には、あなたを幸福にする力があります。
それは、心の欲が壮大(そうだい)であるからです。
心が求めるものは、”神”が求めるものと等しいのです。
それは、利他的な欲求です。
心に従えば、人は思いやりに根差すのです。
肉に従えば、人は自分勝手に根差すでしょう。
肉の目的は生存です。
心の目的は(霊的、人格的な)成長なのです。
そこには大きな違いがあるのです。
肉の僕は生存を繰り返します。
心の僕は成長を繰り返すのです。
肉の生存が到達するのは衰退と死です。
これを避けることはできません。
心の成長が到達するのは別世界なのです。
これも避けられません。
人生を変えるためには、心の成長を実現する必要があります。
いつまでも、肉の欲に熱中していてはなりません。
あなたが人生というものを深く考えた時には、心の欲に従わなければどうすることもできないということに気が付くでしょう。
人の主が誰であるのかを思い出しましょう。

2016年2月16日火曜日

純粋

すべての人は幸福を目指しています。
幸福とは、それぞれの形であり、他人の幸福を他人に当てはめることはできません。
人は、それぞれの幸福の形を目指す必要があるのです。
幸福の形はそれぞれに違えど、それに相応しい自分というものは同じです。
どのような道においても、その道に対して純粋でなければなりません。
純粋な自分を保つことができなければ、人が幸福を得ることはできないのです。
純粋とは、不純物のない状態です。
道に対し、幸福に対して純粋でなければ、それを得ることはできないのです。
あなたは、道に対し、幸福に対して純粋でなければなりません。
道に対して不純であれば、道を間違えます。
幸福に対して不純であれば、幸福を見失うのです。
純粋でなければ辿り着くことはできません。
どのような道を進み、どのような幸福の形を目指していたとしても、その目的を見失ってしまえば叶わないのです。
目的地へと歩みを進めている時に、他のことに心が捕らわれるのであれば、人は目的地ではない他の目的のために歩みを進めることになるのです。
それは、純粋な目的が、他の目的と混ざったということなのです。
二つのものが混ざり合えば、それだけで元を知ることが難しくなります。
二つ以上のものが混ざり合えば、あなたは元を知ることはできないでしょう。
他の目的のために純粋を離れるのであれば、道は途絶え、幸福は崩壊するのです。
あなたは幸福を目指しているはずです。
しかし、あなたはその幸福を得るために、純粋であるでしょうか?
その道に対して、幸福に対して純粋でいられるでしょうか?
あなたは何のためにその道を歩み、その幸福を得たいのでしょうか?
あなたの動機は、歪んではいませんか?
多くの場合、その目的は純粋から離れます。
いつの間にかに、様々な欲求が湧いて、目的を違えるのです。
”あれもしたい”、”これも欲しい”と本当は必要のないものにまで手を伸ばすのです。
純粋な子どもは、一つの目的のために精一杯に突き進みます。
純粋であるが故に、”余計”なものは目に映らないのです。
多くの人は純粋から離れています。
”余計”なものばかりに目が奪われ、本当に大切なものを見失うのです。
それは、道に迷っている状態です。
多くの人(大人)が苦悩を抱えています。
それは、道に迷っているためです。
子どもが苦悩を抱えるでしょうか?
あなたは純粋から離れてはなりません。
余計な知恵、余計な欲念(よくねん)は必要ないのです。
ただ、道のため、ただ、幸福のために進めば良いのです。
なぜ、”余計”に迷い、”余計”に苦しむのですか?
多くの人は状況や環境を言い訳とします。
状況や環境があなたの幸福に関わるのでしょうか?
状況や環境が、本当にあなたの邪魔をしているのでしょうか?
条件が整わなければ出来ないのでしょうか?
いつ、それが整うのでしょうか?
残念ながら、多くの人は条件が整ったとしても、それを言い訳にします。
結局は、不純を取り入れることによって道に迷うのです。
なぜ、子どものように生きられないのですか?
純粋に道を求め、純粋に幸福を目指してはいけないのですか?
あなたを食い止めるものは何ですか?
あなたは何を恐れているのですか?
幸福を目指していながら、それを否定するのですか?
矛盾はあなたを苦しめます。
他人を気遣うことは大切ですが、他人に遠慮する必要はないのです。
あなたはあなたの道を進み、あなたの幸福の形を実現すれば良いのです。
それぞれが幸福を実現することこそ、この世界の喜びなのです。
それぞれが幸福を諦める世界には、喜びはないのです。
あなたは、自分のためにも、他人のためにも、世界のためにも、幸福を実現しましょう。
余計なことを気に掛けず、純粋に求めましょう。

2016年2月15日月曜日

幸せの土台

人の世は、愛情から離れています。
人の世では、愛情(利他)は通用しません。
そこでは、利益(利己)が勝るのです。
多くの人が自己の利益を優先しています。
愛情のために働く者は少ないのです。
あなたは、愛情と利益のためならば、どちらのために働きますか?
多くの人は利益のために働くのです。
あなたは、利益を捨てて働くことができるでしょうか?
多くの人がそのようには行えません。
それは、余裕を持たないためです。
皆、自分のことで精一杯なのです。
その根底には恐怖があります。
そのため、人の世は愛情から離れてしまうのです。
愛情とは利他的な価値観です。
それは、利己を離れます。
愛情に根差した行為は、他者に対する施(ほどこ)しです。
それは、他者に満足を与えます。
利益に根差した行為は、自己に対する施しです。
それは、自己を満たすのです。
あなたはどちらが大切だと思いますか?
どちらの道があなたを幸せにするでしょうか?
判断はあなたに任せます。
あなたは自由に決めることができるのです。
好きな道を選びましょう。
あなたは常に選択を迫られます。
自己のために行うか?他者のために行うか?という選択です。
それは、浜辺に打ち寄せる波のようです。
自己のために行えば、自己満足を得られます。
他者のために行えば、他者の満足を得られるのです。
表面的に見れば、自己のために行うことが有利なように思えます。
しかし、自分が自分に与えるものと、他者があなたに与えるものとでは、その質は違うものとなるのです。
好き勝手に選ぶことに喜びがあるでしょうか?
多くの人はそれが良いと考えます。
しかし、好き勝手に選ぶということは、変化を捨てるということにも繋がるのです。
人が好き勝手に選ぶ時には、自己の好みに傾倒しがちです。
それは、偏りをもたらし、変化を捨てることになるのです。
他者から与えらえるものは、自分の好みとは限りません。
それは、新たな価値を知る良い機会となるのです。
変化とは、幸せの土台です。
変化がなければ、幸福は実現しないのです。
安定とは、破滅への序曲なのです。
あなたが幸福を求めているのであれば、変化を求めなければなりません。
そのためには、自己の利益を追求することを程々にとどめなければならないのです。
他者のために行うことは、あなたの心に大きな変化をもたらします。
未熟な心は利己に傾倒し、成熟した心は利他に傾倒するのです。
両者の視点は大きく異なるのです。
両者は別の世界(道)に生きるのです。
どちらの景色があなたを幸せにするでしょうか?
人は共感を得ます。
「すべては一つ」に繋がっているのです。
他者の満足はあなたの満足となります。
他者の苦悩はあなたの苦悩となるでしょう。
信じることが難しくても、あなたが真に愛する人に出会った時には、この言葉の意味を理解することができるでしょう。
人の世は愛情を離れ、争いで満ちています。
あなたはそのような世界で幸せになれるでしょうか?
あなたの大切な人はどうでしょうか?
一人一人が自己の利益を程々にとどめ、愛情のために働かなければならないでしょう。
人は独りでは幸せになれません。
人は好き勝手に満足することはできないのです。

2016年2月14日日曜日

収穫の時

喜びに会った時、あなたは誰から生まれたのかを思い出しましょう。
怒りに会った時、あなたは同じようにしなければなりません。
悲しみに会った時も、安楽に会った時にも、あなたは自分の主人が誰であるのか?を思い出さなければならないのです。
多くの人は、自分が誰から生まれたのか?を知りません。
多くの人は、自らの出生(しゅっしょう)を忘れてしまったのです。
それは、多くの人が表面的な結果ばかりを気に掛けているからに他なりません。
多くの人は結果を重視します。
それは決して悪いことではありません。
しかし、結果だけを見ているのであれば、その判断は必ず歪んでしまうのです。
大切なのは、原因から生じる結果を見ることです。
すべての結果には必ず、それに相応しい原因が存在しています。
結果と等しく、原因も重要なのです。
原因は、結果の始まりです。
それがなければ結果はないのです。
結果は、新たな原因となります。
しかし、結果が次の原因となることを多くの人は知らないのです。
大切なのは原因の手入れです。
原因を気に掛けなければ、次の結果は歪むのです。
それは、野菜から種を得るようなものです。
野菜が実ったからといって、種を蔑(ないがし)ろにするのであれば、来年の収穫は期待することができないのです。
収穫の時には、来年のために種を気に掛けておかなければならないのです。
多くの人は結果を得た時に、次のことを考えてはいません。
その結果に懸命になるあまり、次のことを忘れるのです。
収穫は終わりではありません。
それは、始まりであるのです。
多くの人は喜怒哀楽に会った時に、それで終わりだと思い込んでいます。
その時には、主(種)を忘れているのです。
誰によって収穫が得られるのですか?
その種を、誰があなたに与えたのでしょうか?
多くの人は自分が主人だと思い込んでいます。
しかし、あなたにはその種を生み出すことも、それを育てることもできないのです。
あなたに出来ることと言えば、種を蒔(ま)き、育った後に収穫することだけなのです。
あなたの力によって野菜が育まれるのではありません。
それは、主人の力によって育まれるのです。
あなたの力によって野菜が育つのであれば、あなたは自らを主人として、それを称(たた)えれば良いでしょう。
しかし、あなたの力によって野菜が育つことはありません。
野菜は勝手に育つのです。
そのため、収穫の時には、あなたは主人を称える必要があるのです。
喜怒哀楽を収穫した時に、あなたは誰(何)を称えていますか?
誰(何)によって、その収穫が成されたのでしょう?
あなたは考えなければなりません。
義(ぎ)を忘れる者に栄光はありません。
主人に感謝することの無い召し使いは、主人に覚えられることはありません。
それは、主人の保護を受けるには足りないのです。
収穫(結果)の時に主人を称えない者は、種(原因)を得ることはできないでしょう。
そうなれば、次の収穫の時期には、その人の畑には収穫物はないのです。
あなたは誰から生まれたのかを思い出しましょう。
あなたは誰に仕えているのですか?
あなたは誰の所有なのでしょうか?
その判断を誤れば、次の結果を誤ることになるでしょう。
あなたを生かしているのは誰ですか?
生きていることが当たり前のことでしょうか?
それは、主人の保護の賜物(たまもの)なのです。
畑に作物が育つことによって、あなたは生かされているのです。
そのことを覚えておきましょう。
あなたに収穫をもたらすのは誰か?ということを考えましょう。

2016年2月13日土曜日

純粋の優

すべての本質は純粋です。
物事は、本質に向かう程に純粋なのです。
それは、余計を所有しません。
より良い形とは、より少ない形なのです。
多くの人は本質を知りません。
より複雑であり、より多くある方が良いと思い込んでいるのです。
それは、余計を招き、混乱と歪みを生じます。
何事においても、純粋である程に優れているということを理解しましょう。
すべての存在は成長を求めます。
成長とは、本質を得るということです。
成長する程に、人は本質に近付きます。
本質に近付くということは、同時に純粋に近付くということでもあるのです。
優れているものは、劣っているものに比べ、少量によって等しいのです。
少量によって等しいために優れているのです。
少ない部品(材料)、少ない工程(手間)、少ない力(運動エネルギー、労力)、少ない代償(費用、環境破壊)によって、成果を得る方が優れているのです。
しかし、多くの人は反対のことを考えています。
多くの部品、多くの工程、多くの力、多くの代償によって、成果を得る方が優れていると考える人もいるのです。
複雑は、高等であるように思えます。
より難しく考え、難しく行っているのだから、これは高度であると、多くの人は考えているのです。
しかし、本当にそうでしょうか?
下等であるために、難しく考えなければならず、難しく行わなければならないのではないでしょうか?
無駄を生み出すことが高等なのでしょうか?
無駄を生み出すことなく、成果を得る方が優れているということは明らかなのです。
多くの人は文明が高度に栄えたと思っています。
今日の文明が、本当に高等なのでしょうか?
あなたは今日の文明に純粋を見ることができるでしょうか?
それは、少量によって成果を得ているでしょうか?
本当に高等であれば、多くの人が幸福を得ているはずです。
あなたは満足しているでしょうか?
あなたの周囲の人はどうですか?
多くの人が本質を見失っています。
そのために、簡単なことを難しく考え、簡単なことを難しく行っているのです。
それは純粋を失います。
そこには余計と混乱と歪みが生じるのです。
あなたは疲弊(ひへい)してはいませんか?
多くの人が、心も身体も疲れ果てているのです。
なぜでしょうか?
人生とは苦しむためのものなのでしょうか?
残念ながらそうではありません。
人生とは、成長し、幸福を得るための場所であるのです。
疲弊するような生き方は、決して高等ではないのです。
あなたは純粋を得なければなりません。
余計な考えや行為を付け足してはなりません。
物事を簡単に考え、簡単に行えば良いのです。
不満や不安を抱えている人がいます。
そのような人は、自らそれを難しくしているに過ぎないのです。
純粋に対して複雑を加えれば、それは衰退します。
この世界で豊かに栄えるためには、純粋である必要があるのです。
本質を得なければ、必ず破滅します。
純粋とは、より簡単なことです。
あなたは、少ない部品、少ない工程、少ない力、少ない代償によって、成果を得ましょう。
しかし、そのためには大きな努力が必要です。
あなたは常に勤勉に励(はげ)み、勤労に努めましょう。
それが知恵をもたらします。
知恵は、物事を単純にし、あなたを本質へ導くでしょう。

2016年2月12日金曜日

所有

人は、自分以外の存在を助けなければなりません。
人生の目的である成長(特に霊的、人格的)を実現するためには、自分以外の存在を助ける必要があるのです。
利己主義と成長は反比例します。
自分勝手に行う者が成長を実現することはないのです。
自分勝手に行う程に、人は成長から遠ざかるのです。
成長とは、自分よりも困っている存在に手を差し伸べることによって実現するのです。
そのため、あなたが真の幸福を得るためには、自分以外に施(ほどこ)す必要があるのです。
困っている存在に恵み与えることによって、あなたは至高の宝を得ることができるのです。
それは、成長のために必要な”材料”であって、それは他者を助けることでのみ受けることができます。
自分勝手に行う者には手にすることができない代物(しろもの)なのです。
どれだけの金銭、地位、名声、”奴隷”を得たとしても、成長することはできません。
成長のために必要な”材料”がなければ、成長は実現しないのです。
あなたは、自分よりも困っている存在に対して、恵み与えるようにしましょう。
しかし、それは、あなたの所有の中から与えなければなりません。
誰かの所有を自分の所有と偽って与えても、成長のための”材料”が得られることはないのです。
多くの人は、自分の所有を損なうことを恐れます。
成長を得ないために、欲深くなるのです。
純粋な子どもは、少ない所有の中から最大限に与えます。
歪んだ大人は、多くの所有の中から最小限も与えません。
どちらが成長を得ているかは、一目瞭然(いちもくりょうぜん)であるのです。
人は、世の中に熱中することによって、純粋さを失いました。
大抵の大人は盲目(もうもく)なのです。
その瞼(まぶた)は重く閉ざされ、その瞳は光を見ることはありません。
そのため、自分勝手には行えど、困っている存在に対して恵み与えることをしないのです。
多くの人が自分の所有を手放しません。
そして、自分を知らないのです。
人は恵み与えることで人生の目的を果たします。
しかし、それを拒否するのであれば、人生の目的を知らないということなのです。
多くの人が自分を知らないのは、”虎の威を借る狐”であるからです。
それは、他人の力(所有)を自分の力(所有)だと思い込んでいる人のことです。
例えば、多くの人はそれが親の力であるにも関わらず、それを自分の力であると思い込んでいます。
会社の力、仲間の力、”神”の力であるにも関わらず、それを自分の手柄としているのです。
そのような者には知恵がありません。
他人の所有を恵み与えてもらうことはしても、自分の所有を恵み与えることはしないのです。
愚かな者は、自らのために蓄えます。
賢い者は、他者のために蓄えるのです。
多くの人が自分が”狐”であるということを知りません。
多くの人は、自分が”虎”であると思い込んでいるのです。
多くのことを豪語(ごうご)しますが、独りでは何もできないのです。
他者の所有を頼る者には、実質(実力)がないのです。
そのような者は、何をしても悉(ことごと)く苦悩に繋がるでしょう。
少ない所有であっても、その中から恵み与えることに意味(価値)があるのです。
他者の所有の中から、どれだけを恵み与えようとも、何の意味もないのです。
それは、与える者も与えられる者も、共に苦悩を得ることになるからです。
今の自分の実力では成し得ないことは、成し得なくても良いのです。
下らない見栄を張り、虚しい誉(ほま)れを受けようと必死に努めても、受けることができるのは苦悩だけなのです。
あなたは他者の所有を頼ってはなりません。
他者の所有から盗んではいけません。
力の及ばないことは諦めましょう。
無理に事を運んでも、実力不足のあなたには実現することができないのです。
あなたは、実力に従って自分以外の存在に施しましょう。
他者の所有に迷惑を掛けてはなりません。
他者の所有から恵み与える者は、愚(ぐ)の骨頂(こっちょう)そのものであるのです。
知らないところで嘲笑(ちょうしょう)され、誹(そし)りを受けることはあっても、尊敬されることはありません。
知らないのは、本人だけであるのです。
自分のできることに専念しましょう。

2016年2月11日木曜日

庭の草木

”わたし”は、”神”の庭師です。
”わたし”は、”神”の庭を整えます。
必要を植え、必要を育てます。
必要は切り落とし、必要は取り除きます。
”わたし”は”神”の庭が、いつも美しくあるように願っているのです。
庭が美しくあるように、時を休まずに手を掛けているのです。
”わたし”は手を抜きません。
常にその庭は美しいでしょう。
不要なものは塵一(ちりひと)つ落ちてはいません。
そこには、必要だけが飾(かざ)るのです。
”わたし”は、”神”が褒(ほ)める庭に整えます。
”わたし”は、”神”のために働いているのです。
”神”以外の主人はありません。
そのため、主人以外が好む庭にはならないのです。
”わたし”は、主人以外の意見を聞き入れません。
庭師が、主人以外の意見を聞き入れるでしょうか?
庭師は、その主人の命ずるままに至高の仕事を行うのです。
主人に逆らうことはありません。
それは、喜びのために働いているからです。
”わたし”は”神”の庭を整えるのが好きなのです。
これは”わたし”にとっても、草木にとっても強制ではないのです。
そのため、”わたし”の整える庭は常に美しく、そこに育つ草木は常に輝いているのです。
そこには、遍(あまね)く草木が育ちます。
その種類を数えることはできません。
それは無数にあって、”神”のみが知っているのです。
庭師は、庭の中で働きます。
それを外から眺めることはないのです。
”神”は、庭に育つすべての草木を賞(め)でます。
そして、それが豊かに育つことを願っているのです。
”わたし”はその心を理解し、手入れを怠(おこた)りません。
庭とは、世界のことです。
草木とは、あなたのことなのです。
あなたは、”神”の庭に育つ一本の草木なのです。
”神”はあなたの成長を喜びます。
”わたし”はあなたの成長を助けます。
”わたし”はあなたに必要を与え、あなたから必要を取り除きます。
主人である”神”は”わたし”を信頼してくださります。
あなたの管理は、”わたし”に任されているのです。
”わたし”は、あなたが豊かに育つように懸命に働きます。
あなたが眠りに就いた時にも、手入れを欠かしません。
あなたは安心して学べば良いのです。
恐ることは何一つとしてありません。
この庭は”わたし”に任されているのです。
あなたにとって悪いことなど何一つとして存在しないのです。
”わたし”を信用する必要はありません。
寧(むし)ろ、あなたは疑わなければなりません。
そうでなければ、あなたの成長は実現しないからです。
あなたは必ず、”わたし”に気が付きます。
そして、その施(ほどこ)しが必要の中にあるということを知るのです。
あなたは美しく輝くことだけを考えていましょう。
その心が美しくなければなりません。
難しいこと、どうすることもできないことを考える必要はありません。
ただ、心を汚さないようにしましょう。
草木は何にも執着しません。
あなたは何にも執着する必要はありません。
どのような不満も心配も、心に留(と)めなくても良いのです。
悩みを離れ、ただ美しくありましょう。
あなたは”神”の庭に育つ美しい一本の草木なのです。
そのことを覚えておきましょう。
自信を失ってはなりません。

2016年2月10日水曜日

神聖な時間

人生とは、成長のために与えられる時間です。
人はそれを自分勝手に扱うことはできません。
それは、あなたの成長のために与えられた神聖な時間であり、それ以外の目的によって”汚す”ことは許されてはいないのです。
多くの人は人生が”誰”から与えられているかを知りません。
そのため、自分勝手に時間を”汚す”のです。
多くの人は時間を汚しています。
それは、成長のためには用いられません。
私利私欲のために用いられる時間は、人生の目的に対して歪んでいるのです。
人は、その歪みによって苦しむことになるのです。
目的に反すれば、それを修正する力が働きます。
それは、人に苦しみを覚えさせるのです。
歪みを正すためには、それと同等かそれ以上の働き掛けが必要です。
一度歪んだものを正すためには、それを歪めた時よりも大きな力が必要となるのです。
そのため、歪みを得た人は、それよりも大きな苦しみを得るのです。
それは、自然なことですが、多くの人はそれを理解してはいません。
自分勝手に時間を扱っておきながら、自分が歪んではいないと思っているのです。
残念ながら、多くの人は自分勝手に時間を扱っています。
それを知るためには、動機を探れば良いのです。
あなたは、何のため、誰のためにそれを行うのでしょうか?
その動機が、あなたの歪みを教えるでしょう。
多くの人は自分勝手に時間を扱っています。
あなたも例外ではありません。
あなたは多くの場合、自分のためにそれを行っているからです。
もちろん、自分のために行うことは悪いことではありません。
しかし、すべての人が自分のために行えば、そこには争いが生まれるのです。
そこに成長があると思いますか?
成長した人格は、互いを尊重するのです。
成長した人格が自分の私利私欲のために行い、互いに争うことなど有り得ないのです。
争い(不満、暴力、不安、心配、不調和・・・)を抱えているのであれば、自分勝手に時間を扱っているのです。
それは、結果に現れます。
結果を見れば、原因である動機を知ることができるのです。
あなたの動機は何ですか?
あなたは何のために行うのですか?
あなたは私利私欲に根差して、時間を汚してはなりません。
それは、成長のために与えらえた神聖な時間なのです。
あなたは、人生の意味を履き違えてはなりません。
それは喜びのためにあって、苦しみのためにあるのではないのです。
苦しみのために行ってはなりません。
争いのために行ってはならないのです。
あなたは争いのために行っていませんか?
不満や不安を解決するために行ってはいませんか?
すべての人が恐怖を抱えています。
それは、心が弱いからです。
恐怖は人に不満や不安を導くのです。
人は弱いために、簡単に恐怖に従ってしまうのです。
動機が恐怖であれば、結果は争いと苦しみなのです。
それ以外の結果を受けることはできません。
あなたは何のために行うべきなのか?ということを考え続けなければなりません。
それは、仕える主人を決めるようなものです。
恐怖に仕える者は、争いと苦しみを受けるのです。
喜びに仕える者は、仲間と慈しみを受けるのです。
あなたは動機を慎重に選ばなければなりません。
人生は成長のために与えられる時間です。
あなたは安心して行えば良いのです。
すべては成長に繋がっています。
不足を満たそうとして、自分勝手に行う必要はないのです。
あなたは感謝して、喜びに支えましょう。
そこには、成長と幸福が導かれるのです。

2016年2月9日火曜日

”神”

”神”とは、すべてです。
存在する一切が”神”なのです。
それは決して限定されません。
一部を以て”神”とすることはできません。
すべてが”神”なのです。
最も大きなものから、最も小さなものまで、そのすべてが”神”であり、それ以外ではありません。
そのため、”神”には名前が無いのです。
”神”に名を付けることはできません。
それは、すべてだからです。
すべてには名前の付けようがないのです。
誰も、”神”に名を与えることはできません。
それは、”神”に名を与えようとする者も”神”の一部に過ぎないからです。
脳が(浅)知恵を働かせて、自分が”神”であると宣言しても、肉体の一部の器官に過ぎません。
心臓がその働きを止めれば、簡単に死んでしまうのです。
そのようなものが”神”であるはずがないのです。
どのような存在も、名前が与えられているのであれば、それは”神”ではないのです。
名前は個体に与えられます。
”神”の一部が名を受けるのです。
脳は”神”ではありません。
あなたはこの事実に気が付かなければなりません。
名を持つ一切は決して”神”ではありません。
何かが自分を”神”であると宣言しても、あなたは名を持つものを信仰してはなりません。
それは、”神”を偽装するのです。
偽りの”神”への信仰は、偽りの”神”からの施(ほどこ)しを得ることになります。
詐欺師からの施しは盗品であるのです。
盗品によって、あなたが幸福を得ることはありません。
盗品によって一時的に幸福を覚えることもあるでしょうが、それが明るみに出た時には苦悩を得るでしょう。
知らないという理由では許されません。
すべては、因果の仕組みによるのです。
あなたが”神”を求めているのであれば、その信仰を一部に限定してはなりません。
況(ま)して、名を持つものを信仰してはならないのです。
その”神”が名を掲げているのであれば、それは偽りの”神”に他なりません。
それは詐欺師であるのです。
詐欺師に従う者は、汚名を着せられるのです。
その行為が”神”によって誉(ほま)れを受けることはありません。
多くの人は名を持つ”神”を信仰しています。
それは、様々な偶像(ぐうぞう)で現されます。
偶像は、木や石や土や金属や絵の具に過ぎません。
そのようなものが、どうして”神”なのでしょうか?
多くの人は偶像のため、偽りの”神”のために生き、そのために死ぬのです。
しかし、そこで約束されるのは盗品による報酬なのです。
偽りの”神”を信仰する者は、偽りの信仰と偽りの報酬によって苦しむでしょう。
ただし、それが悪いというのではありません。
偽りの”神”に捕らわれる者は、それ以外の選択はできないのです。
それはその者に相応しいのです。
偽りの”神”に仕える者は、その行為の故に苦しめば良いのです。
苦しむことによって、そこに不足が存在することに気が付くようになるからです。
すべては”神”の一部です。
どこを取っても、そこから”神”へと至ることができるのです。
すべての人は”神”を知ります。
すべての人は”神”へと辿り着くのです。
あなたもいつかはそうなります。
その時を得るために、あなたはこのことを覚えておきましょう。
”神”とはすべてです。
”神”は名を持ちません。
覚えておきましょう。

2016年2月8日月曜日

幸せの在り処

幸せはどこにあるのでしょう?
あなたはそれがどこにあるか分かりますか?
すべての存在は幸せを探しています。
それは、すべての存在が幸せになりたいからです。
それぞれの幸せの形は違いますが、それを求める気持ちは同じなのです。
あなたも幸せを探していることでしょう。
あなたはどこを探しますか?
どのように探しますか?
幸せとは何でしょうか?
すべての人が求めている幸せですが、多くの人はそれを知りません。
知らないのに探しています。
しかし、知らないために見付かることはありません。
多くの人は生涯、自分の探す幸せを見付けることができないのです。
多くの人は幸せを知らずに死んでいきます。
”わたし”はあなたに幸せになって欲しいと思っています。
あなただけの幸せの形を知り、それを見付け出して欲しいのです。
人生は幸せになるための場所と言っても良いでしょう。
すべての存在は幸せを見付け、それを手に入れなければならないのです。
しかし、幸せの形はそれぞれに違うため、他人の幸せを自分に置き換えることはできません。
人の真似事では、あなたが幸せになることはないのです。
これを別の視点で見れば、あなたの幸せは他人から受けるものではないということです。
他人はあなたを幸せにすることができません。
なぜなら、幸せの形がそれぞれに違うからです。
それぞれは、自分の幸せの形を求めなければならないのです。
他人があなたを幸せにすることができないということは、あなたも他人を幸せにすることはできません。
それは、人は自力によって幸せを実現することができるということなのです。
あなたは、あなたによって幸せになるのです。
誰かや何かがあなたの幸せに関わるのではないのです。
あなたは現状をどう感じているでしょうか?
あなたは現在、幸せですか?
もしも、あなたが幸せでないと感じているのであれば、それは誰かや何かに期待しているからでしょう。
現状に対して幸せを感じる(見付ける)ことができない者が、誰かや何かが与えるものによって幸せを感じることができると思いますか?
初めはそれに幸せを感じたとしても、その現状には同じように幸せを見失うのです。
そして、再び誰かや何かに期待するのです。
現状に幸せを感じることができない者が、幸せを実現することはありません。
幸せとは、自分の中にあるのです。
しかし、多くの人はそれを誰かや何かというように外に探しているのです。
幸せを外に探しているのであれば、どれだけ経ってもそれを見付けることはできません。
誰かや何かに期待しては、幸せを実現することはできないのです。
あなたが幸せを求めているのであれば、今すぐにそれを外に探すのを止めましょう。
幸せはあなたの中にしか存在しないのです。
多くの人は自らを顧(かえり)みることがありません。
そのため、自分を変えることをしないのです。
多くの人は自分を改めることなく、幸せを実現することができると考えています。
しかし、それは安易な考えであるということは、現状を見れば理解することができるでしょう。
あなたは現状を受け入れなければなりません。
あなたが幸せを感じていないのであれば、その方法は既に間違っているのです。
大金を手にしても、素晴らしい伴侶(はんりょ)を得ても、あなたが幸せになることはありません。
多くの人は状況や環境が変われば、自分の状態も変わると考えています。
しかし、そのように都合の良い話はないのです。
あなたが努力しなくても誰かや何かの力によって幸せになれるのであれば、既に幸せなはずなのです。
しかしながら、現状はそうではないのです。
受け入れなければなりません。
いつまでも、現実に目を背けていてはなりません。
現実(現状)を見詰めましょう。


2016年2月7日日曜日

反逆

あなたは他者を潤さなければなりません。
あなたは、自分のために行ってはなりません。
その行為が、自分の誉(ほま)れのためであってはならないのです。
その行為が自分のためであれば、あなたは却(かえ)って自分の誉れを失うでしょう。
あなたが自分の誉れのために行う程に、それは他者の誉れを生むのです。
人は、自分のために生きることができません。
それは、人が全体の一部に過ぎないからです。
あなたは、自然界の一つの命に過ぎず、他のどのような命とも等しいのです。
自然界は、共存共栄の精神によって成り立っています。
それは、争っているように見えるかも知れませんが、互いのために存在しているのが本質なのです。
そうでなければ、自然界は既に消滅しているでしょう。
それが豊かに存在しているのは、共存共栄の精神を重んじているからに他ならないのです。
自分の利益を追求するのであれば、その世界は破壊されるのです。
人の世は、自分の誉れのために行う者で満ちています。
他者のために行う者は多くはないのです。
そのため、人の世には苦悩が蔓延(まんえん)しているのです。
それは、互いが攻撃し合う仕組みを生み出し、互いに消耗するのです。
人は、人の世に属しているだけで苦しむのです。
しかし、多くの人は人の世に根差した幸福を求めています。
人の世が利己主義によって満ちている以上、人の世に根差した幸福などというものは幻想に過ぎません。
そのように矛盾したものは実現しないのです。
人が人の世において幸福を求めるためには、先ずは利己主義を廃止しなければならないのです。
人が自分の誉れのために行っている間は、誰一人として幸福を得ることはできません。
自己満足によって、偽りの幸福を楽しむことはできます。
しかし、それは虚しいのです。
真の幸福とは、他者を潤すことによってのみ実現するものなのです。
人の世は、自然界を倣(なら)って共存共栄の精神によって満ちなければなりません。
自然界を破壊しているのは人間だけです。
人の自己に対する(不足から生じる)強過ぎる欲求が、すべてを歪めているのです。
あなたが幸福を求めているのであれば、自分の態度を改めましょう。
それは、あなたの土壌となります。
自然の繁栄は、土壌によるのです。
あなたの幸福は、あなたの態度によるということを覚えておきましょう。
あなたはなぜ、他者を潤さないのですか?
なぜ、自分の誉れを求めるのですか?
自分の誉れを得たとしても、幸福は得られないのです。
自分の誉れが幸福であると思っているのですか?
人生というものを深く考えなければなりません。
自分勝手に幸福を宣言しても虚しいだけなのです。
実質が無ければ、それは脆(もろ)くも崩れ去るのです。
他者の幸福無くして、自己の幸福はありません。
全体の一部であるあなたは、全体の所有物なのです。
脳が健康であっても、その他の四肢が病に犯されているのであれば、脳は幸福を得られないでしょう。
あなたは、小さな腫物(しゅもつ)にさえ、動揺し、不安を覚えるでしょう。
全体の一部が自分勝手に行うことは、肉体が小さな腫物を得るようなものなのです。
あなたが小さな腫物に幸福を覚えるというのであれば、自分の誉れのために行いましょう。
あなたがそれを恐れるのであれば、他者の誉れのために行わなければなりません。
人の世には”愛”に対する反逆が跋扈(ばっこ)しています。
利己主義とは、”愛”に対する反逆なのです。
”愛”がなければ全体は潤わないのです。
”愛”のない場所に幸福などあるでしょうか?
他者の誉れを求めることは広義の”愛”です。
自分の誉れを求めることは狭義の”愛”なのです。
どちらも”愛”に違いはありませんが、その大きさは違うのです。
”愛”の大きさによって、幸福の大きさは違うでしょう。
それは、雨(水)の量によって、植物の数が違うようなものです。
多くの雨は、多くの命を養うでしょう。
あなたは他者を潤さなければなりません。

2016年2月6日土曜日

肉の檻

すべての人は肉体に囚われています。
それは、肉の檻(おり)です。
人は肉体という檻の中に囚われているのです。
それは、あなたの自由を奪います。
あなたは生まれた時から既に、自由を奪われているのです。
あなたは生まれた時に、自由に行うことができましたか?
あなたには、寝返りすらできなかったのです。
それ程までに、自由が奪われているのです。
しかし、経験を重ねることによって、日常生活には支障が無い程には行えるようになります。
多くの人は、好きな時に、好きな所へ向かい、好きなことをすることができるのです。
それは赤子の頃に比べれば、遥かに勝る自由です。
そのため、多くの人は自分が自由であると思い込みます。
そして、肉の檻の中の自由を楽しむのです。
どれだけ自由を楽しんだとしても、檻の中では虚しいのです。
檻の中にいるのであれば、どのような人も囚われ人に違いないからです。
多くの人は自由を知りません。
肉の檻の中の小さな自由を自由だと考えているのです。
それも無理はありません。
檻の外の世界を知らなければ、想像すらできないのです。
あなたは自分を何者だと考えるでしょうか?
あなたは誰ですか?
多くの人は自分を肉体であると思っています。
脳や心臓という肉の塊(かたまり)に過ぎないもの、他の動物から見れば食物に違いないものを自分だと考えているのです。
あなたは動物の脳や心臓を食べる時に、それがその動物そのものだと思いますか?
考え方はそれぞれで構いません。
しかし、そこから導き出される結果には違いが生じるのです。
自分を肉体であると考える人には、肉の檻が与えられます。
肉の檻に囚われた人は、肉の欲を満たし続けなければなりません。
囚われ人は、罰を受けなければならないのです。
罰を受けるために囚われたのです。
肉の欲による罰とは、苦悩のことです。
肉の檻に囚われるすべての人が、苦悩を抱えています。
肉の檻の中にいる以上は、それを免れることはありません。
肉の檻に囚われる人は、苦悩を受け続けなければならないのです。
睡眠を続ければ苦悩が導かれます。
食事を続ければ苦悩が導かれます。
肉欲を続ければ苦悩が導かれます。
活動を続ければ苦悩が導かれます。
仕事を続ければ苦悩が導かれます。
勉強を続ければ苦悩が導かれます。
買い物を続ければ苦悩が導かれます。
遊びを続ければ苦悩が導かれます。
何を以てしても、肉の欲からは苦悩が導かれるのです。
肉に頼っても幸福は得られないということを覚えておきましょう。
それは、肉が求めるものは、そのすべてが粗悪であるからです。
あなたの本質とは魂です。
それは、霊であり、心であり、意識であり、精神であるのです。
あなたの本質は、肉ではないのです。
そのため、あなたを真に満たすものは魂の欲だけなのです。
唯物を求めるのが肉です。
魂は唯心を求めるのです。
物を得るにしても、その本質である”物の魂(心)”を得るのです。
唯物を求めるのであれば、肉の檻を通り抜けることはできません。
それは、あなたを束縛(そくばく)するのです。
唯心の価値に気付き、肉の檻を抜け出しましょう。
そして、真の自由を得るのです。
世界は広いのです。
肉の檻の中からはそれを知り得ません。


2016年2月5日金曜日

幸福の地

人生とは、目的地への道程です。
人は、自らの目的を果たさなければなりません。
目的を果たすことによって、目的地を得るのです。
すべての人がそれぞれの幸福を得たいと考えています。
それは、人の目的となります。
人は、それぞれの幸福の地へと歩むのです。
人が目的を果たし、目的地を得るためには、道を進み続けなければなりません。
道を進むためには、道程を照らす必要があるのです。
道程が照らされていなければ、歩むことはできません。
人は、光に照らされた道を歩むのです。
闇雲に歩むことはできません。
それは、人が恐れているからです。
何の明かりも無く夜道を歩むことはできません。
勇気を以て歩んだところで、目的地を得ることはできません。
目的地を得る前に、深い穴に落ち込んでしまうでしょう。
そのため、道を照らす光が必要なのです。
人生の道を照らす光とは喜びです。
それは、新たな世界観です。
それは、新たな価値観によって実現します。
人が道を照らす光を得るためには、新たな価値観という火種が必要なのです。
習慣に捕らわれ、同じ選択を繰り返すのであれば、変わらない価値観によって変わらない世界を戯(たわむ)れるだけです。
それは退屈を導き、やがて苦悩へと変わるのです。
変わらない価値観によっては、人が幸福の地へと辿り着くことはありません。
それは、徐々に小さくなる灯火のようなものだからです。
道を進むにつれ、大きくて強い光が必要になります。
それは、山頂を目指すようなものであり、登るほどに厳しい環境となるからです。
小さな弱い光であれば、簡単に消えてしまうのです。
そのため、道を進むためには、より本質的で堅固な価値観が必要なのです。
里に暮らす人には、山頂の厳しさを理解することができません。
道を進まない者には、新たな価値観など必要としないのです。
そのような者は、変わらない価値観に安心しています。
しかしながら、それではどれだけの時間を以てしても、幸福の地を得ることはできないのです。
人生の目的地は高い場所、遠い場所にあるのです。
目の前にあるのではありません。
あなたは赤子の頃が幸福だと思いますか?
それが人生の目的なのでしょうか?
肉体は成長するものの、幼いままの精神によって人が幸福を得ることができると思いますか?
そのような価値観は役には立ちません。
寧(むし)ろ、それは重荷となるでしょう。
いつまでも幼い精神、古い価値観のままでいてはなりません。
それでは道を進むことはできないのです。
古い価値観に執着してはなりません。
あなたは常に新たな価値観を求めるのです。
それは、無知に出会うことによって実現します。
自分の中の無知に出会うということは、新たな知識に出会った時です。
新たな知識は、相対的にあなたの無知を知らせるのです。
新たな知識は、新たな価値観を形成するのです。
それは、道を照らす光となり、あなたの歩みを進ませます。
新たな知識に照らされた道を歩んで行けば、幸福の地へと辿り着くことができるのです。
知性の停滞は、人生の停滞を意味します。
あなたは常に(あなたの知らない)新しい知識に触れていましょう。
発見があなたを苦しめることはありません。
それは、あなたを喜ばせるのです。
人生に発見がなければ、あなたは簡単に苦しんでしまうでしょう。
話は単純です。
心は発見を楽しむのです。
ただそれだけです。
古い価値観を守ってはなりません。

2016年2月4日木曜日

知恵の光

多くの人は苦しみの奴隷です。
しかし、そのことには気が付いていません。
多くの人は奴隷でありながら、自分のことを自由人だと思っているのです。
奴隷は、自分が奴隷であることを忘れます。
それは、その環境に慣れてしまうからです。
奴隷も長く続けるのであれば、自分が奴隷であるという自覚を失うのです。
そして、奴隷でありながらも、自由人であるという妄想に生きるようになるのです。
多くの人は人生に苦悩を覚えます。
多くの人が苦しみと共に生きているのです。
あなたの隣にも苦しみがいるでしょう。
喜怒哀楽がネガティブに傾けば、それは苦しみとなるのです。
喜楽が苦しみを免れることはありません。
ネガティブな喜楽は、苦しみであるのです。
不安、心配、争い、後悔・・・
ネガティブな感情の結果として、このような状態が導かれるのです。
しかし、多くの人はこれを普通であると考えています。
人は不安になり、心配し、争い、後悔する・・・
あなたはこのような状態が普通であると思いますか?
周囲を見渡すと、それを普通のこととして考えている人が多いはずです。
そのため、あなたはそのような状態が普通であると思い込んでしまう可能性が高いのです。
実際のところ、多くの人がそのような状態を放置しています。
何かに対する不安、心配、争い、後悔・・・
このような状態を先延ばしにしているのです。
これを解決するためには、あなたを苦しみの奴隷として繋ぎ止めてある鎖(くさり)を解かなければならないのです。
人は、苦しみに拘束(こうそく)されているのです。
そのため、苦しみは続きます。
それを振り解こうともがきますが、鎖が見えてはいないのです。
闇雲に行っても、鎖が解けることはありません。
あなたは、暗闇の中で自らを拘束している鎖を解くことができると思いますか?
それを解くためには、光が必要なのです。
鎖が目に映るのであれば、あなたはそれを解くこともできるでしょう。
光とは知恵のことです。
あなたは知恵を得なければなりません。
あなたを苦しみの奴隷として繋ぎ止めている鎖とは、無知のことなのです。
無知であれば、人は苦しみの奴隷となるのです。
罠を知らない動物は、簡単に捕らえられてしまいます。
多くの人も、無知の鎖を知りません。
そのため、簡単に奴隷となるのです。
自由とは、苦しみを持たない人の宝です。
何かに対して不安、心配、争い、後悔・・・
これ等を感じているのであれば、既に自由は奪われているのです。
無知の鎖は音も無く、姿を隠して襲います。
それは、暗闇を飛ぶ梟(ふくろう)のように、あなたに襲うのです。
梟が木の上から狙っていることを知らない鼠(ねずみ)は、簡単に餌食(えじき)となるでしょう。
それは、苦しみに捕らわれる人のようにです。
多くの人は、自分が既に苦しみの餌食になっていることにすら気が付いてはいません。
四肢はもがれ、腸(はらわた)は引き摺(ず)り出されているにもかかわらず、自分の立場を理解していないのです。
梟に捕らえられた鼠は、いつかは苦しみの死を得るのです。
無知の鎖に繋がれた苦しみの奴隷の結末は、梟に捕らえられた鼠に変わりません。
あなたは無知の鎖を解かなければなりません。
いつまでも、苦しみの奴隷として生きてはならないのです。
無知を先延ばしにしてはなりません。
生存競争に一生懸命になるあまり、知恵の会得を蔑(ないがし)ろにしてはならないのです。
無知な自由人がいるでしょうか?
自由人には知恵があるのです。
無知は奴隷を育むのです。
あなたは、苦しみの奴隷であるということを自覚しましょう。
そして、知恵の光によって、無知の鎖を解きましょう。

2016年2月3日水曜日

成長の味方

人生は、あなたの成長のための場所です。
あなたはすべての経験を通じて成長を実現します。
どのような経験も、成長のために存在し、どのような経験によってもあなたは成長することができるのです。
ただし、成長を実現するためには一定の条件を整える必要があります。
条件を整えることなく、成長が実現することはありません。
そのため、人は条件が整うまでは同じことを繰り返す必要があるのです。
成長のための条件とは、知恵のことをいいます。
経験値、理解、価値観、行為、言葉、心、選択、影響力・・・
所有するすべての力がある一定の水準を満たした時、人は知恵を以て成長を実現することができるのです。
しかし、一定の水準を満たすためには、それを実現するための抵抗が必要となります。
抵抗とは、問題です。
人にとっての問題とは、成長のための抵抗であるのです。
それは、様々な形で現れます。
それは、成長の条件が様々な形であるためです。
必要に合わせて問題が生じ、それは決して無駄ではありません。
不足している部分を強化するためなのです。
しかし、多くの人は問題が成長のための必要であるということを知りません。
そのため、問題を否定するのです。
問題は成長のための抵抗であるため、それを否定するということは成長に遠退きます。
それは、更なる問題を引き起こし、決して楽な道ではないのです。
問題は、誰にとっても苦しいものです。
しかし、それは誰にとっても必要なのです。
あなたはこのことを覚えておき、出来るだけその苦しみに向き合うように心掛けましょう。
向き合うことができない問題を否定することは構いませんが、それと向き合う必要があるということを忘れてはならないのです。
人は問題、苦しみと向き合わなければなりませんが、そこから逃そうとする力も働きます。
その力は”陰”に任せてあり、弱みに付け込みます。
あなたが問題に向き合うためには、”陰”の働きの一つである、”弱みに付け込む”という性質を理解する必要があるのです。
このことを理解しないままで”陰”と付き合うのであれば、あなたは簡単に弱みに付け込まれてしまうでしょう。
弱みに付け込まれることで、あなたは問題と向き合うことから逃がされるのです。
弱みに付け込まれることで、人は都合の良い道を選ぶようになります。
都合の良い道とは、成長に対して正しい道ではありません。
人が自分にとって都合の良い道を選ぶ程、成長は遠退いてしまうのです。
”陰”には、あなたを惑(まど)わす力(役割)を与えています。
暗闇に覆われてしまう心はすぐに惑い、簡単に弱みに付け込まれてしまうでしょう。
そして、都合の良い道を選び、成長から遠退くのです。
あなたは安易に選択してはなりません。
問題、苦しみに諦めてはなりません。
人生には様々な問題が生じます。
そのすべてが苦しみとしてあなたを襲うでしょう。
しかし、それ等の問題、苦しみが成長の無駄になるということはありません。
”陰”が弱みに付け込もうとする時には、すべての問題、苦しみが成長の味方であるということを思い出してください。
そして、出来れば、問題と苦しみを否定しないように努めましょう。
問題を抱えること、苦しむことは悪いことではないのです。
それ等はあって良いのです。
多くの人は成長を求めてはいません。
多くの人が求めているのは”安定”なのです。
それは、あなたを揺るがす問題と苦しみを嫌います。
”安定”を求め、問題や苦しみを否定するのであれば、成長からは遠退くのです。
そのことを理解しておきましょう。
”陰”によって心を支配されてはなりません。
弱みに付け込まれてはならないのです。
すべてが最善なのです。
あなたは何を得ても良いのです。
この世界には悪いことなど存在しません。
すべてが成長に繋がる最善です。
そのことを覚えておき、感謝することを忘れてはなりません。

2016年2月2日火曜日

因果の証

何事においても、そこには必ず因果の仕組みが働きます。
すべてには因果関係が存在し、それに漏れることはありません。
どのような事柄に関しても、必ず因果の仕組みが働くのです。
あなたはこのことを覚えておかなければなりません。
因果の仕組みは絶対の法です。
何者もこれを犯すことはできません。
あなたが人の世でどのような立場の人物であり、どのように考えようとも、”神”の法である真理を犯すことはできないのです。
あなたは従わなければなりません。
決して逆らうことはできません。
一切は、因果の仕組みによって実現します。
何かが起こっても、何も起こらなくても、それは因果の仕組みによって実現したことなのです。
あなたの目の前の状況は、あなたの因果です。
原因はあなた自身にあります。
あなたの心や言動によって、それは実現するのです。
しかし、多くの人は因果の仕組みが働いているということを知らずにいます。
因果関係が存在しなければ実現することがないにも関わらず、それを求めているのです。
原因がなければ結果はありません。
あなたがどれだけ求めても、それは覆りません。
”奇跡”など起こらないのです。
あなたは甘い(都合の良い)言葉に騙されてはなりません。
しっかりしなければならないのです。
多くの人は困難に会った時に”神”の助けを求めます。
それは、誰かや何かに対しても同じです。
しかし、原因がなければ救われることはありません。
それは、因果関係が認められないからです。
因果関係が存在しないにも関わらず救われるのであれば、それを”奇跡”と呼べば良いでしょうが、そのようなことは有り得ません。
同じようにしても、人によって結果は違います。
多くの人はそれを不思議がります。
しかし、そこには因果の仕組みが働いているだけであり、それ以外の理由はないのです。
誰かや何かに救われるためには、誰かや何かを救わなければなりません。
”神”の救いを求めるのであれば、”神”を救わなければならないのです。
当たり前のことです。
あなたは、あなたのために貢献しない者に施(ほどこ)すでしょうか?
あなたのために貢献しない者が施しを求めた時には、あなたはそれを断るでしょう。
しかし、あなたのために貢献する者に対しては、相手が求めもしないのに施すでしょう。
与える者は与えられ、奪う者は奪われます。
そこには、当たり前の因果関係が存在するのです。
多くの人は与えることをせずに与えてもらおうとしています。
それは、奪うという行為そのものなのです。
しかし、そこには罪悪感はありません。
奪うことが当然だと思い込んでいるのです。
そのため、思うような結果を得ることができないのです。
あなたは、何事においても因果の仕組みが働いているということを忘れてはなりません。
他人から奪ってはなりません。
何より、”神”から奪ってはならないのです。
因果の仕組みを定めた”神”が、あなたの都合の良いように惜しみ無く与えると思いますか?
残念ながらそのようなことはありません。
”神”が自らの法を犯すことなど有り得ないのです。
あなたが受けるすべてのものは、あなたの因果の証です。
どのようなものを得ても、それがあなたに相応しいのです。
勘違いしてはなりません。
思い上がってはなりません。
何もしていないのに、何かをしてもらえると考えてはなりません。
”神”はそれを見抜いています。
あなたが企(たくら)むのであれば、それは因果の仕組みによって相応しい形で、相応しい時に返るでしょう。

2016年2月1日月曜日

世界の材料

知識とは、世界そのものです。
世界は、知識によって築かれます。
知識がなければ世界もありません。
人は、知識の範囲内に存在しているのです。
世界はあなたとは関係なく存在しているのでしょうか?
あなたが知らない世界があると思いますか?
残念ながら、あなたが知らなければ世界はないのです。
それは、知らない世界には生きられないということです。
知識は、あなたの世界の材料です。
知らないことは、別の世界の事柄なのです。
それは、あなたには関係の無いことなのです。
あなたが生きているのは、あなたの世界です。
それは、あなたの知識に起源しているのです。
人は、知識に従って生きています。
知識に従って生きなければならないのです。
知識に反して生きる人はいません。
人は、自らの所有する知識を信じているのです。
しかし、新たな知識に出会います。
人が新たな知識を得たのなら、それは、世界を揺るがすことになるのです。
知識によって世界は一変します。
一つの知識を得たとしても、あなたは世界全体を見直さなければならないのです。
新たな材料を組み入れる時には、全体のバランスを再考しなければなりません。
一つのことが変われば、その他のことも変えなければならないのです。
そうでなければ、バランスが崩れてしまい、機能することができないのです。
それは、苦悩を導きます。
新たな知識によって、あなたの中の常識は一変します。
一つの知識によって、既存の知識が役には立たなくなるのです。
あなたは常に新たな知識を得ています。
その度に、世界を修正し続けなければならないのです。
その修正が世界をより良い場所に変えるのです。
新たな知識には、世界を一新する力があります。
あなたが人生(世界)を変えたいと考えているのであれば、知識を得なければならないのです。
人生を変えたいと考えている人の多くは、既存の知識、方法によって変えようと考えています。
しかし、それは不可能です。
なぜなら、知識が世界(人生)だからです。
知識が変わらなければ、人生が変わることはないのです。
どのような人も、自分の所有する知識を信じ、それに従っています。
知識を改めるのであれば、あなたはそれに従って世界を変えるでしょう。
しかし、知識が改められなければ、それに従って世界を変えることはないのです。
知識とは、世界そのものです。
あなたは知識を軽んじてはなりません。
無知を放置してはならないのです。
それは、世界の放置であり、人生の放棄であるからです。
しかし、多くの人は無知を受け入れています。
新たな知識を得ようとはしないのです。
同じ場所、同じ人間関係、同じ事柄、同じ価値観、同じ時間、同じ”空気”、同じ情報・・・
無知を受け入れている人には発展がないのです。
これは、危機に違いないのです。
知識を得れば世界は変わります。
あなたが世界に変化を求めているのであれば、知識を欲し、自分を変える必要があるのです。
どのような道においても、知らないために苦しむのです。
知っていれば、問題など生じず、苦しむこともないのです。
無知は大敵であるということを覚えておきましょう。
世界は簡単に変わります。
それは、知識を得るだけです。
難しく考えてはなりません。
勤勉を心掛けましょう。