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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2016年3月31日木曜日

目の前の仕事

あなたは、この人生において、自らの仕事をしなければなりません。
自らの仕事を果たすことが、あなたに与えられた役割なのです。
人はそれぞれに重要な役割を与えられています。
無駄な存在はありません。
どのような存在であろうとも、それは必要不可欠な役割を担っているということを覚えておきましょう。
しかし、多くの人はそのことを忘れています。
自分がこの世界に必要な存在であり、その役割が世界を支えているということを自覚することなく存在しています。
多くの人がそのようには思えないでしょう。
しかし、それが事実なのです。
あなたの役割は、世界にとってなくてはならないものなのです。
あなたは、自分の存在とその役割を軽んじてはなりません。
あなたがどのような自己評価を所有しようとも、あなたは世界にとって重要な存在であるということには変わりないのです。
一つ一つの存在が、それぞれの役割によって構成されているのがこの世界です。
役割を放棄しては、世界が成り立たないのです。
それぞれが重要な役割を果たしているため、世界を豊かに成り立たせるためには、それぞれが最高のパフォーマンスを発揮する必要があるのです。
それぞれのパフォーマンスの低下は、世界の乏しさに繋がります。
世界がどのようなものになるのかは、そこに存在する一つ一つの存在に関わるのです。
世界は、それぞれの人生によって構成されています。
それぞれの人生が充実し、豊かさを得るのであれば、世界は豊かに富むということを覚えておきましょう。
全体を構成しているのは個体です。
全体は、個体に関係しています。
個体が豊かであれば、全体はより豊かなものであるでしょう。
あなたが全体(の豊かさ)を考える時には、個体を蔑(ないがし)ろにしてはならないのです。
あなたの人生も、世界に関わる一つの部品です。
あなたは、自らの人生を豊かなものとして創造しなければならないのです。
自らの人生がどうなるかは、その人によります。
その人が懸命に、柔軟に、革新的に、本質的に、人生を充実させることが、全体に豊かさを導くのです。
あなたは自らの人生を諦めてはなりません。
あなたが人生を充実させるためには、人生に対して真摯(しんし)に向き合う必要があります。
それは、目の前の状況を大切にするということです。
それは簡単なことのように思えるでしょう?
しかし、それは容易なことではないのです。
それは、人が感情に左右される存在だからです。
人生には問題が山積みです。
すべての人が問題を抱えながら生きているのです。
多くの人は感情の問題と向き合うことを嫌います。
向き合うことをせず、誰かや何かに助けを求めます。
遠くに行けば、解決策が見付かると思っているのです。
そのため、人は解決策を求めて遠くへ旅立つのです。
しかしながら、人が遠くへ旅立ったということだけでは、人生に豊かさを導くことはできません。
多くの人は現実逃避を得意とします。
目の前の問題と向き合うことをせず、遠くにその解決を求めます。
誰かや何かが自分の替わりに、山積みの問題を解決してくれると、都合の良い解釈をしているのです。
しかしながら、あなたが山積みの問題のことで誰かや何かの力を借りる時には、遠くへと出向くでしょう。
自分以外の存在に自らの問題を解決してもらおうと、遠くの人を頼るのです。
あなたは、最も近くに存在している自分自身よりも、遠くの他人を頼っているのです。
あなたが頼るべきは、自分自身であるということを覚えておきましょう。
あなたが人生を豊かなものとするために必要なことは、自分に与えられた生活をすることなのです。
それに満足することなく、人生が豊かさを得ることはありません。
あなたは、目の前の経験と懸命に向き合いましょう。
そうすれば、あなたはより豊かな心、豊かな人生が手に入っているはずなのです。
しかし、多くの人は目の前の問題と向き合おうとはしていません。
それから逃れようとして、遠くへと旅立つのです。
あなたは、自らに与えらえた役割がなんであるのか?を知りましょう。
それは、あなたの目の前に存在しています。
あなたが目の前の自らの役割に気が付いた時には、遠くへ旅立つことはなくなっているでしょう。
なぜなら、それが問題の解決法であるということを知るからです。
あなたにとって重要なことは、目の前に存在しています。
あなたは自らの仕事を果たしましょう。
大切なことは、常の目の前にあります。
わざわざ遠くへ出向く必要はないのです。
誰かや何かに頼る必要もありません。
あなたは自らの仕事をすれば良いのです。
何があっても、自らの仕事を忘れてはなりません。
目の前のことを懸命に行いましょう。

2016年3月30日水曜日

子どもの願望

すべての存在は成長しなければなりません。
それは、成長することこそが幸福であるからです。
どのような幸福も、成長によって導かれます。
それがどのような成長であれ、幸福をもたらす力を持っているのです。
人生は思い通りには進まないものです。
これは、誰にとっても同じです。
それは、人の求める理想と、人生の提供する最善の間に隔(へだ)たりが存在しているからです。
人が成長しなければならないのは、未熟であるからです。
人生が理想通りに展開することは、人の破滅を意味しています。
あなたは子どもの願望をすべて叶えてあげるでしょうか?
子どもの抱えている願望には問題が多く含まれています。
あなたにはそのことが分かるはずです。
子どものことを真剣に考えるのであれば、すべての願望を実現するような真似はしないはずなのです。
”わたし達”はあなたを子どものように考えています。
それは、我が子のように考えているということです。
”わたし達”が求めるのは、あなたの真の幸福なのです。
あなたが偽りの幸福を楽しむことを求めてなどいないのです。
あなたの願望は、残念ながら歪んでいます。
あなたは未熟であり、何に真の価値があり、何が真の幸福であるのかを知りません。
そのため、理想通りに人生が展開することは、あなたにとっては危険なことなのです。
”わたし達”は、あなたの願望が安易に実現することが無いように手助けをします。
しかし、この世の理(ことわり)である因果の仕組み無視することは出来ません。
そのため、あなたの心に呼び掛けて、あなた自身の行為によって結果を調整させているのです。
あなたには苦しんで欲しくはありません。
あなたには喜んでいて欲しいのです。
それは、”わたし達”があなたを愛しているからです。
しかし、愛しているが故に、あなたの願望を阻止(そし)していることを知らなければなりません。
成る可(べ)くはあなたの理想通りには展開させません。
これは、あなたを破滅から遠ざけるためです。
破滅から遠ざかることによって、冷静さを以て自らの方向性を精査(せいさ)し、それが真の幸福へと繋がっているのかを審査(しんさ)して欲しいのです。
しかしながら、大抵の人は”わたし達”の思いに気が付くことはありません。
人生が理想通り、思い通りに展開しないことに憤慨(ふんがい)し、人生に争いを引き込むのです。
残念ですが、”わたし達”にはあなたの人生を支配する力はありません。
あなたは、自らの行為によって人生を決めるのです。
”わたし達”には、あなたの人生を決めることは出来ないのです。
そのため、あなたには自らの人生に対する責任があるのです。
”わたし達”は最善へと導きますが、どうするかを決めるのはあなたなのです。
あなたは誰かや何かを頼ることは出来ません。
自力によって行うのです。
どのような選択も、あなたが自力によって決めなければならないのです。
そのことを忘れてはなりません。
”わたし達”はあなたに最善を導きます。
あなたが偽りの幸福を嫌い、真の幸福を求めるのであれば、目の前の状況がどのようなものであろうとも、心を閉ざすことの無いようにしましょう。
受け入れることが理想ではありますが、あなたと同じように、”わたし達”の思いも理想通りには展開しないのです。
そのため、あなたに受け入れることを強いることはありません。
しかし、あなたには覚えていて欲しいのです。
人生には最善が存在しています。
しかし、あなたはそれを知りません。
”わたし達”は、あなたよりも少しだけ知っているのです。
”わたし達”はそれをあなたに導きます。
人生が理想通りに展開しなくても、人生に争いを引き込んではなりません。
”わたし達”はあなたを愛しています。
そのため、人生が理想通りに展開しないのが自然です。
そのことを覚えていて欲しいのです。
簡単に争ってはなりません。
すべては、あなたの幸福のために導かれているのです。
それは、成長のためなのです。

2016年3月29日火曜日

根性

大切なのは理解することです。
人は理解するために経験を重ねます。
すべての経験は理解を深めるためのあるのです。
あなたは、理解を深めなければなりません。
理解を深めることなく時を過ごすのは愚行です。
それは、人に苦しみをもたらします。
本質的な目的を見失ってしまうのは、どのように足掻(あが)いても苦しみに至るのです。
本質的な目的とは、理解を深めることです。
その経験が何であるのか?という簡単な問いです。
あなたはそれに答えなければなりませんが、理解を深めることがなければ、その簡単な問いに答えを導くことはできないのです。
あなたは何のためにそれを経験しているのでしょうか?
その時間は何のためにあるのでしょう?
あなたには答えることができるでしょうか?
残念ながら、それに答えることのできる人は多くはありません。
答えを持たない人の方が多いのです。
何のためにそれを経験しているのかを知らないのです。
何をしているのかも分からずに、どうやって喜ぶことができるのでしょう?
喜びとは理解によって導かれるのです。
目の前の相手の話を喜ぶためには、話の内容を理解する必要があります。
それがあなたに理解することができない言語であれば、どうやってそれを喜ぶことができるというのでしょう?
それがどのように愉快な話であったとしても、理解することができなければ退屈に他ならないのです。
退屈とは苦しみです。
そのため、理解を深めることがなければ、苦しみを得ることになるのは当然の結果なのです。
あなたが苦しみを退け、喜びを得ようと考えているのであれば、理解を深めることを大切にしなければならないのです。
理解を深めることには、何物にも勝る価値があるのです。
しかし、多くの人は理解を深めることを軽んじています。
浅はかな知識と認識によって、喜びが得られると思い込んでいるのです。
そのため、多くの人は努力を怠(おこた)ります。
多くの人はすぐに諦めるのです。
難しいことや、苦しいことに会うと、多くの人は諦めてしまうのです。
諦めてしまえば、それ以上の理解を得ることはできません。
それは、それ以上の喜びを得ることができないということなのです。
しかし、人は喜びを探します。
浅はかな知識を引き摺(ず)って喜びを探すため、その喜びも浅はかなものとなるのです。
理解が浅ければ、得られるものも知れています。
人は、理解に相応しい結果を得るでしょう。
知らなければ、知らない結果を得るのです。
知っていれば、知っている結果を得るのです。
あなたは”根性”を大切にしなければなりません。
強い意欲によって事に臨まなければ、理解を深めることはできないのです。
どのような道を進んでも、あなたはすぐに難しさを得ます。
あなたはすぐに苦しみに会うのです。
どこを進んでも同じです。
難しさを往(い)なし、苦しみを乗り越えるためには、理解が必要なのです。
理解が深ければ、良い知恵が導かれます。
理解が浅ければ、知恵は導かれないのです。
知恵は人を苦しみから救い出し、無知は人を苦しみの火の中に放ります。
人は、理解によって様々な結果を得るのです。
あなたは根性によって、簡単に諦めてはなりません。
力強くありましょう。
難しいことに会っても、苦しみを受けても、へこたれてはなりません。
それでは理解を深めることができないのです。
あなたは何を得るにしても、理解を深めましょう。
それ以上に価値のあるものがあるでしょうか?
どのような結果も、理解によって実現するのです。
理解を得れば自由と幸福を得ます。
理解を得なければ、束縛(そくばく)と不満を得るでしょう。
簡単に諦めてはなりません。
あなたはしっかりと向き合い、理解を深めなければなりません。

2016年3月28日月曜日

謎解き

すべての出来事には理由があります。
何一つとして、理由を持たない出来事はありません。
それがどのような些細な出来事であったとしても、そこには重要な理由があるのです。
人生は理由で溢れています。
あなたは数え切れない程の理由に囲まれています。
それを見るかどうかはあなたに任されています。
人は、その理由を知ることができます。
また、それを知らずに過ごすこともできます。
どちらを選択するかは、人によるのです。
あなたはどちらを選びますか?
あなたが決めることができます。
あなたが理由を知る必要がないと考えるのであれば、何もしなくても構いません。
あなたが何もしなければ、理由を知ることもないからです。
理由を知ることがなければ、無知のままに過ごすことになります。
それは、気楽なことです。
そこには無知であるが故の楽しみがあります。
あなたが理由を知りたいと考えるのであれば、理由を知りたいと心に強く念じましょう。
理由を知りたいと強く念じれば、理由を知ることができるのです。
それは、最善のタイミング、最善の形を以て導かれるでしょう。
理由を知れば、知恵を以て過ごすことになります。
それは幸福なことです。
そこには知恵のある者の楽しみがあるのです。
無知な者にも、知恵のある者にも、同じように楽しみが与えられます。
しかし、楽しみがあれば、その対極に位置する苦しみも存在します。
この世界には、陰陽の仕組みが存在しているのです。
すべては、必ず対極の性質を持ち合わせるのです。
陰の性質だけを持つことはありません。
陽の性質だけを持つこともないのです。
すべては、陰陽の性質を持ち合わせるのです。
無知な者の苦しみは、無知であるが故に導かれます。
それは停滞です。
無知であれば、物事が先へは進みません。
それは退屈を導き、怒りと争いを生じさせるでしょう。
その苦しみは、無知である者が受けるのです。
知恵のある者の苦しみは、知恵があるが故に導かれます。
それは壁です。
知恵があれば、物事が先へは進みません。
それは悩みを導き、挫折と絶望を味わうでしょう。
その苦しみは、知恵のある者が受けるのです。
しかし、考慮しなければならないのは、無知である者の人生には変化がなく、知恵のある者の人生は展開があるということです。
同じように楽しみと苦しみを受けても、その本質は全くと言って良い程に違うものであるのです。
無知である者は、立ち止まって喜び、そして、立ち止まって苦しみます。
知恵のある者は、進みながら喜び、そして、進みながら苦しむのです。
すべての人は同じように喜び、同じように苦しみます。
しかし、受け取る結果には違いがあるのです。
あなたはそのことを覚えておかなければなりません。
あなたが人生を豊かなものにしたいと考えているのであれば、理由を知らなければなりません。
目の前の出来事が何のために導かれたのか?という”当然の”疑問を持たなければならないのです。
多くの人は、この疑問すらも持たないのです。
自分の心臓がどうやって動いているのか?ということにすら、疑問を持つことはないのです。
理由を知れば、壁を乗り越えることができます。
あなたには様々な疑問があるばずです。
それを知りたいとは思いませんか?
何も知らずに生きて満足することができると思いますか?
すべての出来事には理由があるのです。
それを一つでも多く解き明かしましょう。
あなたが解き明かした理由の数だけ、人生は豊かさを増しているでしょう。

2016年3月27日日曜日

どこにでも善いところがあり、どこにでも悪いところがある

人生には、あなたにとっての最善のみが用意されています。
あなたの受け取るすべての体験は、あなたにとっての最善であって、それ以外ではありません。
あなたはどこで何をしていようとも、最善を受け取るようになっているのです。
あなたが最善以外を受け取ることは有り得ません。
それは、人生が目的のためだけに機能しているからです。
人生には無駄は存在しません。
無駄に思えることはありますが、それは人の未熟さが導いた思い込みなのです。
未熟な者には理解することができないだけです。
すべてには重要な意味があり、それが無駄となることは有り得ないのです。
それがどのようなものであっても、最善に変わりないのです。
あなたの人生は、あなたのために存在しています。
あなたの人生は、あなたを中心として存在しているのです。
そのため、すべてはあなたのために導かれます。
それがどのような状況であろうとも、あなたに相応しい形によって導かれるのです。
すべては最善です。
あなたが理解することは二の次です。
大切なのは、あなたの理解ではありません。
大切なのは最善を受けることなのです。
多くのことの理由を知ることはできません。
あなたには、目の前の”それ”がどのような理由によって導かれているのか?を理解することができますか?
残念ながら、あなたにはそれが難しいのです。
理由を考えても、それに正しく辿り着くことは簡単ではありません。
多くの場合、見当外れの場所(理由)に辿り着くことになるのです。
多くの人は、自らが成長した暁(あかつき)に、理由を理解することができるのです。
成長するまでは、理由を理解することはできないでしょう。
人は経験を経ることによって、後にその理由を理解することができるようになるのです。
成長を実現するまでは、目の前の”それ”がどのような理由によって導かれているのか?ということを知ることはできないのです。
成長の前には経験が必要です。
そのため、あなたが理由を理解するよりも、最善が導かれる方が重要なのです。
あなたは、理由を理解することがなくても、目の前の”それ”を懸命に学ばなければなりません。
すべてが最善であるということは後から分かることなのです。
しかし、多くの人は目の前の状況に手一杯となります。
そのため、後から分かる最善を、その時には理解することができないのです。
何が最善なのか?は、状況が教えています。
あなたの目の前に導かれる状況は、そのすべてが最善です。
あなたには受け入れることが難しい状況も導かれます。
しかし、それを最善と理解し、受け入れる必要があるのです。
多くの人は目の前の”それ”を最善として受け入れることはできません。
どのように丁寧に説明しても、それを最善とは認められないのです。
それは、無知を抱えているからなのです。
無知を抱えている者は、否定的、反抗的な態度によって支配されます。
否定的、反抗的な態度が、最善を捩(ね)じ曲げてしまうのです。
無知は、それが最善であるということを知ることができません。
そのため、無知を抱えている人は、最善を理解することはできないでしょう。
もしも、人生に無駄が存在しているのであれば、あなたは(今よりも)成長していないことになるのです。
しかし、あなたは毎日成長をし続けているのです。
それは、一つ一つの経験が最善であるということを証明しているのです。
すべての経験が最善であるために、人は成長することができるのです。
あなたはそのことを覚えていなければなりません。
すべてが最善です。
どこにでも善いところがあり、どこにでも”悪い”ところがあるのです。
それは、あなたに付き添います。
あなたがどこで何をしていようとも、そこには善いところがあり、”悪い”ところがあるのです。
(ただし、善悪は人の中にある)
あなたは受け入れる必要があります。
特別な場所で、特別な作業は必要ではありません。
どこにでも善いところと”悪い”ところがあるのです。
すべては最善です。
善悪を含(ふく)めて最善なのです。
あなたがどこにいようとも同じです。
与えられた人生を大切に扱い、感謝を以て命としましょう。

2016年3月26日土曜日

違う繰り返し

人生の目的は成長にあります。
すべての存在は成長する必要があるのです。
あなたは成長を否定することはできません。
それは、人生を否定することになるからです。
人生に存在しているのであれば、人生の目的に従わなければなりません。
あなたが人生に存在している時には、人生があなたの主となるのです。
人生には理(ことわり)が存在しています。
それを無視することはできません。
誰もが人生の理の中に存在が許されているのです。
人生の理とは、成長を実現するということです。
すべての経験は成長に繋がり、あなたはどのような経験からでも成長することができます。
人が成長を手放すことはできません。
成長のヒントは、いつもすぐ目の前にあるのです。
否応無(いやおうな)しに成長のヒントはあなたに導かれます。
それは、あなたに無視することができない程の強烈な印象を与えます。
成長を実現することは喜びの感情を導き、あなたは幸福を得るでしょう。
成長を無視することは苦しみの感情を導き、あなたは不満を得るのです。
あなたはその喜びや苦しみに本気で左右されます。
どのような人も、成長に携(たずさ)わるということを覚えておきましょう。
それを離れることはできません。
人生は繰り返しです。
人は何度も同じことを繰り返さなければなりません。
あなたは何度も同じことを繰り返し、それを経験する必要があるのです。
繰り返し経験するのは、理解を深めるためです。
理解を深めるためには、何度も向き合う必要があります。
何度も何度も向き合えば、必ず新たな視点を得ることができるのです。
新たな視点は、新たな気付きを与えます。
新たな気付きによって、人は成長を実現することができるのです。
既知(きち)は成長の証です。
無知は未熟の証なのです。
既知は新たな視点を得ることによってのみ増します。
新たな視点は経験によって得られるのです。
同じことであっても、何度も繰り返すのは、新たな視点を得るためです。
一度目に見る景色と、二度目に見る景色とでは、別のものになっているのです。
三度目にはまた別の景色となり、四度目、五度目と繰り返していく内に、より深い理解を得ることができるのです。
多くの人は繰り返しを嫌います。
それは、繰り返しに退屈を覚えるからです。
多くの人は新鮮な経験を求めていますが、それを得ることができないのです。
それは、同じことを繰り返していると思っているからです。
同じ(だと思う)ことを繰り返しても、決して同じにはなりません。
それは、毎回違う経験であるのです。
経験の蓄積があるために、どのように努めても同じになることは有り得ません。
そのため、厳密には毎回全く別の経験をしているにもかかわらず、それに気が付くことができないのです。
それは、思い込みによって成されるのです。
多くの人は同じことを同じように繰り返していると思っています。
それは、何ら変わりのないことを繰り返しているように感じているのです。
それは、本来ならば違う経験をしているにもかかわらず、それを同じ経験であると定めているからなのです。
思い込みによって、人は全く違う経験を同じものとすることができます。
思い込めば、何だって形を変えるのです。
あなたは人生の目的が成長にあるということを忘れてはなりません。
人生は常に新たな視点を与えています。
人生は常により深い理解を導いているのです。
そのことに気が付く必要があるのです。
繰り返しは、決して繰り返しではありません。
あなたは繰り返していますが、決して繰り返してはいないのです。
あなたは常に新鮮な経験と新たな視点を与えられ、常に成長しているのです。
そのことを忘れてはなりません。
繰り返しを無駄にしてはなりません。
それは、毎回違うということに気付きましょう。

2016年3月25日金曜日

最小限の努力

人生において大切なことは、自らの目的を見失わないことです。
人は、それぞれに必要な目的を持っています。
それは、人の生きる理由でもあります。
すべての人は自らの目的を所有し、それを果たすことによって満足を得ることができるのです。
自らの目的を果たすことがなければ、満足を得ることはできないのです。
人は、自らの目的を果たさなければなりません。
人はそれぞれに違う目的を所有しています。
あなたの所有している目的が、誰かと同じものであるということはありません。
それは、それぞれに違うものなのです。
それぞれに違うのが自然です。
そのため、あなたが自らの目的を他人に教えてもらうことはできません。
そして、他人の真似をしても、それを得ることはできないのです。
人は自らの目的を、自力によって見出す必要があるのです。
目的を持たない人は存在しません。
それは、人が目的によって存在しているからです。
あなたには、あなただけの目的があります。
それを大切にしなければなりません。
あなたが自らの目的を果たすためには、自分にとっての必要を満たすことが求められます。
自分にとっての必要を満たし続けることによって、結果として目的を果たすことができるのです。
あなたにとっての必要とは、あなただけの必要です。
しかし、多くの人が多くの場合、自分の必要と他人の必要とを混同しています。
自分にとっての必要を放棄している間に、自分と他人の必要の区別が付かなくなってしまうのです。
そのため、多くの人は多くの場合、人の真似をするようになるのです。
多くの人は、誰かと同じことに安心します。
他人と違うことに恐れを感じている人は多いのです。
しかし、他人と同じということは、自分を殺しているということでもあります。
人は、それぞれに必要な役割を所有しているため、本来は別々の方向性を所有しているのです。
それを歪めて他人に似せるということは、自らの目的を放棄するということになるのです。
自らの目的を放棄して、満足を得ることのできる人はいません。
誰であろうとも、自らの目的を果たすことなく、満足を得ることはできないのです。
しかしながら、おおくの人は自らの目的を果たすことがなくても、満足を得ることができると考えています。
他人と同じようにやっていれば満足することができると、本気で思い込んでいるのです。
残念ながら、人生はそう単純なものではありません。
必要はそれぞれに違っているのです。
あなたにとっての必要が、他人にとっての必要であるとは限りません。
他人にとっての必要が、あなたにとっての必要であるとは限らないのです。
そのため、人は自らの必要を満たす努力をする必要があるのです。
今のあなたに必要なことは何ですか?
あなたは何に必要性を感じているでしょうか?
本当は自らに必要の無いことに努力してはなりません。
それは決して実を結びません。
残念ではありますが、あなたがどれだけの努力を重ねても、自らの目的に対して報われない努力もあるのです。
ただし、努力は無駄にはなりません。
目的に直接的に関係しない努力は、間接的に関係するのです。
どのような努力も無駄にはなりませんが、それは間接的な報われ方をするので、多くの人はそれに耐えることができないのです。
間接的な報われ方は認識することが難しいために、努力が報われないと嘆きます。
そして、多くの人が人生に対して文句を吐くようになるのです。
方向性が間違っているのであれば、満足を得るまでに多くの努力を必要とするのです。
方向性が正しく、必要に叶っているのであれば、満足を得るまでには最小限の努力で構わないのです。
そのため、あなたは自分にとって何が本当に必要であるのか?ということを考えなければなりません。
他人や常識など、自分に直接的に関係のないものを意識した必要性を探してはならないのです。
誰もが自分にとっての必要を求めれば良いのです。
それが、あなたに役割を遂行(すいこう)させます。
誰もが自分の必要を実現すれば、これ程豊かな世界はないのです。
誰もが自分の必要を実現することによって、すべてが完全に機能するからです。
あなたは全体を構成する一つの部品です。
一つの部品が機能しなければ、全体に支障を来(きた)すのです。
あなたは、自らの目的を大切にしましょう。
自らの必要を満たさなければなりません。
最小限の努力で満足を得ましょう。

2016年3月24日木曜日

心の毒

人生の目的は成長にあります。
すべての存在が成長を目指しているのです。
どのような存在も、成長を実現しなければなりません。
これは、どのような存在も否定することができない理(ことわり)なのです。
あなたは成長する必要があります。
あなたは成長を求められているのです。
成長することが存在理由でもあるのです。
どのような立場にあろうとも、そこで成長を実現する必要があるということを覚えておきましょう。
しかし、おおくの人は自らの目的を理解してはいません。
成長することに対して、否定的である人が多いのです。
成長するということは、決して難しいことではありません。
それに、多くの労力を必要とする訳でもありません。
成長に対するネガティブなイメージを抱えているのであれば、それに捕らわれないように注意しなければなりません。
成長とは、変化の継続です。
変化の中にあれば、人は自然と成長を実現することができるのです。
人が成長するためには、”退屈”を得なければ良いだけなのです。
退屈を得ることがなければ、あなたは変化の中にあるのです。
退屈とは停滞です。
それは、変化を否定します。
そのため、退屈以外の状態は変化の中にあるということなのです。
多くの人は退屈しています。
それは、変化を否定し、安定という名の幻想に心を躍らせているからです。
残念ながら、安定によっては幸福を得ることはできません。
なぜなら、安定とは退屈を導くからです。
安定とは、変化を抑える作業です。
それは、良いものに見えますが、その実苦しみを導く行為であるのです。
どのような変化であっても、それはあなたに成長を導きます。
退屈を得るよりも、失敗や恥を得る方がましです。
退屈とは、最大の損失だからです。
何を失うにしても、成長(変化)を失うことを避けなければならないのです。
何を得ても、成長(変化)を得なければ幸福を実現することはできません。
変化とは、最大の宝なのです。
安定を求める人は、最大の宝を自ら手放す人なのです。
可もなく不可もない人生を歩もうと努める人には、成長という幸福は決して導かれないのです。
退屈は心の毒です。
それは、心を腐らせます。
退屈によって栄える心はありません。
退屈は心を乏しくし、やがては殺すのです。
退屈を軽んじてはなりません。
それは、あなたを蝕(むしば)みます。
それは、見えない亀裂のようなものです。
徐々に進行し、気が付いた時には手遅れなのです。
見えない亀裂が全体に行き渡った時には、崩壊を制することはできません。
あなたは、それが倒壊するのを眺めている他ないのです。
退屈は静かに人生に忍び寄ります。
あなたが人生を堅(かた)く立たせたいと思っているのであれば、退屈を退けなければなりません。
そのためには、懸命に考えることです。
懸命に働くことです。
目の前のことに対して、懸命でありましょう。
懸命であれば知恵が生じます。
知恵はあなたに変化を導きます。
無知こそが、人に退屈を導くのです。
愚かな者は退屈の友となります。
あなたは、あなたから盗む友を屋敷(人生)に招き入れてはなりません。

2016年3月23日水曜日

偽りに酔う

多くの人は、偽りに酔い痴(し)れています。
偽りは、人を酔わせます。
偽りに酔った人は、冷静な判断を下すことができません。
冷静な判断を下すことができない人は苦しみに捕らわれてしまうでしょう。
偽りとは、装飾(そうしょく)のことです。
それは、表面を飾ります。
見た目を美しくすることによって、多くの人はそれ(の本質)を美しいものだと判断します。
しかし、見た目が美しいからといって、本質が美しいとは限りません。
見た目と本質が同じであるとは限らないのです。
見た目が美しくても、本質が醜(みにく)いのであれば、偽りです。
見た目が醜くても、本質が美しい方が真実なのです。
大切なのは本質であるということを覚えておきましょう。
何事においても、その本質を軽んじてはなりません。
装飾はすぐに剥(は)がれ落ちます。
それは、長くは持ちません。
しかし、本質は永遠に保ちます。
誰も、本質を偽ることはできないのです。
偽ることができるのは、その見た目であり、表面であるのです。
あなたが満足を求めているのであれば、装飾の美しさではなく、本質の美しさを選びましょう。
装飾の美しさは簡単ですが、本質の美しさは難しいのです。
簡単なものよりも、難しいものの方に価値があるでしょう。
その価値によって、あなたは満足することができるのです。
しかし、多くの人は物事の表面的な部分に捕らわれています。
多くの人が本質に触れることができないのです。
そのため、装飾に惑わされては苦しむのです。
多くの人は偽りに酔い痴れています。
しかし、酔いはいつかは覚めるものです。
偽りはいつかは暴かれるのです。
そして、その本質を見た時には苦しむでしょう。
初めから本質を見て判断していたのであれば、苦しむことはなかったのです。
しかし、人は装飾を好みます。
それは、損得勘定に影響されているからです。
自分の利益になることは、表面的には得を得るように思えます。
自分の利益ではなく、他人の利益になることは表面的には損を得るように思えるものです。
そのため、装飾を主とする愚者(ぐしゃ)には、自分の利益を追求する道が開かれます。
自分勝手に振る舞えば、他人からの拒絶を得ます。
表面的な利益を貪るような愚行は、決して利益を導いてはくれないのです。
大切なのは本質を得ることです。
あなたが満足を求めているのであれば、自分の利益ではなく、他人の利益になるように努めましょう。
それは、表面的には損をするように思えます。
実際に、その場では損をするでしょう。
しかし、その場の小さな損よりも後に大きな利益が返ってくるのです。
それは、その人から返るとは限りません。
しかし、必ず返るのです。
それは、最善の形、最善のタイミングによって導かれます。
他人の利益のために働いた者が、損をすることなど有り得ないのです。
他人のために働くということは、表面的には醜く、本質的には美しいのです。
自分のために働くということは、表面的には美しく、本質的には醜いのです。
この違いを理解する必要があります。
これは、他人からの見た目ではありません。
あなたの”姿勢”の話なのです。
他人のために働くことには苦労があります。
それは見た目には醜いのです。
自分のために働くことには苦労はありません。
それは見た目には美しいのです。
自分勝手に生きて何になるというのでしょう?
他人のために生きることは醜いことです。
しかし、その本質は美しいということを覚えておきましょう。
美しい本質を得る人は、その本質である魂(霊格、人格)を輝かせるでしょう。
自分の利益にならないことを大切にしましょう。
それを軽んじてはなりません。
人生は、巡り巡って返るのです。

2016年3月22日火曜日

ブレーキの備わっていない車

立ち止まることは幸いです。
失敗をすることは幸いです。
思い通りに進まないことは幸いです。
敵がいるのは幸いです。
反発を受けることは幸いです。
上手くいかないことは幸いです。
損失を得ることは幸いです。
病気になるのは幸いです。
あなたはこのように思うでしょうか?
ここに列挙してあることに対して、あなたはネガティブな感想を持ったでしょう。
あなたは立ち止まりたくはないはずです。
失敗を恐れているでしょう。
思い通りに進まないことに腹を立てます。
敵によって苦しみます。
反発を受けることによっては悩むでしょう。
上手くいかないことに困り果てます。
損失を得ることによって絶望します。
病気になることによって諦めるでしょう。
これが”普通”です。
人は、物事を破滅的に考えるのが普通なのです。
常識とは、この普通を教えます。
しかし、普通に考えるのであれば、人生には苦悩が絶えないのです。
人生において立ち止まることは自然です。
失敗をすることも、思い通りに進まないことも自然です。
敵がいて、反発を受けることも自然です。
上手くいかないこと、損失を得ることは自然です。
病気になることも自然なのです。
これ等のどこに不自然なところがあるのでしょうか?
どれか一つでも悪いことがあるでしょうか?
あなたは深く考えなければなりません。
人生において、人が未熟であることは自然です。
すべての人は成熟するために存在しているのです。
未熟者が立ち止まることは当然なのです。
それが悪いことである訳がありません。
もしも、未熟者が、未熟な手段を許されるのであれば、それは未熟者を滅ぼしてしまうでしょう。
立ち止まるということは、考え直す機会を得るということなのです。
立ち止まる必要がないというのは、ブレーキの備わっていない車に乗り込むようなものなのです。
あなたは止まることを考えずに車を設計するでしょうか?
止まることができない車に乗り込む勇気がありますか?
その車に乗り込むのは、止まることが保証されているからなのです。
止まることができないと知った時点において、あなたはその車を拒絶するでしょう。
さて、人生において立ち止まるのは悪いことでしょうか?
人生を車(の進む道)として考えてみましょう。
あなたは未熟です。
あなたは常に考え直す必要があるのです。
立ち止まることがなければ、あなたは真っ直ぐに進み、奈落(ならく)の底へと落ち込んでしまうでしょう。
立ち止まることができるのであれば、違う道を選び、安心して進むことができるのです。
立ち止まることは悪いことでしょうか?
それとも、幸いでしょうか?
真っ直ぐに進むことが幸いであり、違う道を進むことは悪いことなのでしょうか?
あなたは常識に惑わされてはなりません。
未熟な考えに従ってはなりません。
あなたは自分の考えで人生を生きていると思っているのですか?
あなたに車の操作を教えた人がいるはずです。
あなたはその教育によって安全な走行ができるのです。
あなたの車には、常にあなたを教える存在が同乗しています。
あなたが道を間違える時には、ブレーキを踏んで立ち止まらせるのです。
文句を吐くものではありません。
あなたは助けられたのです。
理解しなければなりません。
すべてが必要です。

2016年3月21日月曜日

失って理解すること

あなたは対象の価値を理解する必要があります。
何故なら、対象の価値を理解することができなければ、正しい判断を下すことができないからです。
正しい判断は豊かさを導きます。
それは、あなたに喜びと満足を届けるのです。
しかし、誤った判断は乏しさを導きます。
それは、あなたに苦しみと不満を届けるのです。
人は判断によって何を得るのかを決めています。
どのような対象にも”決まり”はありません。
そこにあるのは決め付けだけであるのです。
善悪は対象の所有するところではありません。
それは、それを決め付ける者の所有なのです。
善悪は、それを観察する者によって決まります。
初めから善悪が決まっていた訳ではないのです。
人は、自分から生じた決め付けによって翻弄(ほんろう)されます。
それを決め付けているのはあなたなのです。
人は自らの判断によって、人生を左右します。
対象の価値への理解が、判断の基準となります。
その判断が正しければ、あなたはそこから豊かさを導くことができるでしょう。
しかし、その判断が誤っているのであれば、そこに乏しさを導くのです。
あなたは価値を見極めなければなりません。
対象の価値を見極めるためには、何度もそれと向き合う必要があります。
一度向き合っただけでは決して理解することはできません。
人が理解を得るためには、何度も何度も向き合う必要があるのです。
それは、何事に関しても同じことです。
あなたは対象の価値を理解するために何度も向き合う必要があります。
そして、あなたは対象の価値を理解する必要があるために、何度も向き合うようになるのです。
対象の価値を理解するまでは、それと何度も向き合わなければなりません。
同じことを繰り返しているように思うのは、対象の価値を理解してはいないからです。
理解が及べば、繰り返す必要はなくなるのです。
人生を進めるためには、対象の価値を理解する必要があります。
それ以外の方法を以て人生が先へと進むことはありません。
時間を経ても、状況や環境や人間関係に変化を得ても、人生が先へと進んだことにはなりません。
違うことをしているように思えても、結局は同じことを繰り返しているのです。
その繰り返しが大きな周期であるために気が付かないだけです。
しかし、多くの場合は繰り返しているのです。
あなたが対象の価値を理解するために、一度離れることが許されています。
離れることは失うことです。
人は対象を失った時に、その価値に気が付くものなのです。
常に所有していれば、価値を理解することはできません。
価値を理解するどころか、それを煩(わずら)わしく思って、拒絶するでしょう。
常に所有しているのであれば、あなたは嫌悪によって満たされるでしょう。
そうなれば、その価値を理解することが難しくなります。
そのために、一度それから離れなければならないのです。
あなたは手にしたものをすべて失います。
それは決められたことです。
あなたにはそれを避けることはできません。
例えば、死を避けることができるでしょうか?
死は、誰にでも訪れるのです。
あなたは何故、一度得た命(人生)を失うのでしょう?
それは、その価値を理解するためです。
失って初めて気が付くことは多いのです。
失って気が付いたことがあるのならば、それを繰り返さないように自らを改めるでしょう。
その繰り返しによって失わないようにするのです。
価値を理解すれば、失う必要はありません。
価値を理解すれば、あなたがそれ以上を失うことはないのです。
あなたは対象の価値を理解する必要があります。
それが人生の目的でもあるのです。
失うことを恐れてはなりません。
失った時に気が付くのです。
それは、良いことなのです。

2016年3月20日日曜日

自由の実現

あなたは自由を放棄してはなりません。
人は、自由に生きることが許されています。
自由とは、責任のことです。
自由に生きるということは決して、自分本位に生きるということではありません。
自由と責任は同じです。
自由に生きるということは、責任を果たして生きるということなのです。
責任を放棄した自由はありません。
自由とは、責任を果たすことで実現するものなのです。
あなたが自由に生きるということは、責任を果たす生き方をするということです。
あなたの責任とは、生まれた意味にあります。
人には、それぞれに与えられた役割というものがあるのです。
与えられた役割を果たすことで、人は自らの責任を果たすことができるのです。
あなたは何のために生まれたのでしょう?
それを知ることがなければ、自由を得ることはできません。
それは、責任を果たすことができないからなのです。
あなたの生まれた意味とは、あなたの与えられた役割であり、それは義務なのです。
あなたはそれを果たさなければなりません。
誰もが自らに与えられた役割を果たす義務を負っています。
しかし、多くの人はそれを忘れています。
自らの責任を忘れて、戯(たわむ)れに時を過ごしているのです。
多くの人が人生の意味を知らずに生きています。
そして、人生の意味を知らずに去るのです。
それを幸福だと考えてはなりません。
何も知らずに幸福を得ることなどできないのです。
無知とは責任の放棄であり、自由を奪う行為なのです。
無知であるだけで、人は自由を失います。
あなたは無知を克服しなければなりません。
自分が何のために生まれたのか?
自分の役割とは何なのか?
考察しなければならないのです。
人はそれぞれの役割に従って生きなければなりません。
それは、それぞれの自由を実現するということです。
あなたは自由に生きましょう。
心の赴(おもむ)くままに人生を創造(選択)するのです。
好きなことをするのです。
それが人生なのです。
あなたは自由を実現し、その後で他人との折り合いを付ければ良いのです。
自由も実現していないのに、他人との折り合いを付けようと考えてはなりません。
それは、自分の責任も果たすことができないような者に、他人との折り合いを付けることなどできないからです。
あなたは自由に生きれば良いのです。
常識や周囲の意見を気に掛けていてはならないのです。
あなたは他人の機嫌を伺(うかが)うために生まれて来たのではありません。
あなたは与えられた役割を果たし、自由を謳歌(おうか)するために生まれて来たのです。
他人との関係に悩む必要はありません。
あなたは自分の責任を果たしましょう。
そして、余裕があれば、他人との折り合いを付ければ良いのです。
誰もが自らに与えられた役割を果たさなければなりません。
そうでなければ、それぞれが独立することができずに、依存関係を築くことになるのです。
依存関係によっては、互いが足の引っ張り合いを実現します。
それでは自由を得ることができないのです。
大切なのは自由の実現です。
あなたは自らの責任を果たしましょう。
自分が何をするべきなのかを考え、自由を得ましょう。
あなたは自由を放棄してはなりません。
目の前のことに懸命に向き合いましょう。
他人との折り合いはその後で構わないのです。

2016年3月19日土曜日

巣立ち

既成概念(きせいがいねん)に捕らわれることは、人の可能性を狭めます。
人は、未知に対して挑戦しなければなりません。
どのようなことでも良いのです。
知らないことを知る必要があるのです。
既成概念に捕らわれることは、未知の否定に他なりません。
既知(きち)を尊重することは大切ですが、それに頼り過ぎれば可能性は断たれるのです。
既知に加えて、未知をも大切にしなければなりません。
多くの人は既知に頼ります。
既成概念を生きることは、安心感を得ることができます。
そのため、多くの人はそこにいようと努めるのです。
鳥の雛(ひな)が成長すれば、やがて巣立ちを迎えます。
巣立ちを迎える頃の雛にとって、巣はもはや小さいのです。
雛はより広い世界を求めなければなりません。
広い世界において、雛は命を得るのです。
巣立ちの時が来ても巣を離れることがなければ、雛は命を失うでしょう。
これと同じように、人は広い世界を求めなければなりません。
それは、未知によって実現します。
未知を得ることによって、広い世界を得ることができるのです。
既知を尊重することは、雛が巣を愛おしく思うことと同じです。
どのような雛も、いつまでも巣に住むことはできません。
時は迫っているのです。
あなたはいつまでも既成概念を頼ることはできません。
あなたの考え方や生き方は、命(時)を失うからです。
すべてには時があり、命があります。
今はその考え方や生き方によって豊かさを得ることができるかも知れません。
しかし、時が来れば、通用しなくなります。
却(かえ)って、その考え方や生き方が重荷となるのです。
既成概念に捕らわれているがために、苦悩するようになるのです。
時代が変われば、方法も変わるのです。
豊かさを得る方法は、時代によって変わるということを理解する必要があるのです。
既成概念とは、教えられた概念です。
既成概念に従うということは、教えられた方法を用いるということです。
教えられたということは、それよりも以前に確立された方法であるのです。
前時代的な方法が、現代に通用するでしょうか?
時が来れば、雛は巣を離れなければなりません。
未知を得なければ命はないのです。
人の命とは可能性のことです。
人は可能性を得る必要があります。
可能性とは未知のことです。
それが未知であれば、即(すなわ)ち可能性であるのです。
しかし、未知を得るには勇気が必要です。
雛が巣を飛び立つ時には、飛び立てるという確証はないのです。
どうなるかは分かりません。
失敗するかも知れません。
地面に叩き付けられ、他の動物に捕食される可能性もあります。
しかし、雛は飛び立たなければならないのです。
人生とは未知への挑戦です。
伸(の)るか反(そ)るかなのです。
未知に向かうのは博打(ばくち)のようなものです。
雛はそうしたのです。
あなたもそのようにしなければなりません。
あなたには既成概念に苦悩する日が訪れます。
時は確実に迫ります。
あなたはそれを避けることはできません。
いつまでも既成概念に頼ってはなりません。
あなたは未知を得て、新たに創造するのです。
人生に可能性を途絶えさせてはなりません。
未知を得るのです。


2016年3月18日金曜日

禁止

人生には無限の可能性があります。
あなたは、無限の可能性の中から自由に選ぶことが許されています。
人生は決まってはいません。
それは、あなたの選択によって決まるのです。
誰も、あなたの代わりに選ぶことはできません。
人生の決定権はあなたに委(ゆだ)ねられているのです。
あなたは自由に選べば良いのです。
他人と同じである必要はありません。
誰かと同じようにすることに安心を覚えるかも知れませんが、それは自分勝手な言い分に過ぎません。
なぜなら、皆が同じことを繰り返すのであれば、衰退は免れないからです。
より良くする必要があるということを覚えておきましょう。
より良くするためには、違うことをしなければなりません。
しかし、今までの方法を否定するということではありません。
今までの方法を尊重しつつ、新たな方法を模索していくのです。
新たな方法のみが、より良い未来を創造することができるのです。
繰り返しによって、あなたは苦悩を覚えることになるでしょう。
繰り返しには未来がないのです。
残念ではありますが、続けるだけには(建設的な)意味がないのです。
同じ作物を繰り返し育てるのであれば、畑は痩せてしまうでしょう。
痩せた畑では、豊かな作物の収穫は見込めないのです。
豊かな収穫を期待するのであれば、違う作物を育てる必要があるのです。
あなたは、誰かと同じように生きる必要はありません。
誰かと同じように生きれば、後悔することになります。
それは、あなたには役割が与えられているからです。
すべての存在が、必要な役割を担っています。
この世界に無駄は存在しません。
無駄に思えることはあるでしょうが、認識が及んでいないだけです。
すべては必要であり、その役割を機能させることによって豊かに育みます。
働きがなければ、豊かさはありません。
すべての機能が働いてこそ、豊かさを得ることができるのです。
あなたには、あなただけの役割が与えられています。
あなたはそれを重たく考える必要はありません。
あなたの役割は、あなたが果たすことのできるものだからです。
しかし、そこには努力が必要となります。
怠慢(たいまん)によって果たすことのできる役割など存在しないのです。
あなたは誰かと同じように生きる必要はありません。
しかし、自らの選んだ道において懸命に努力して生きる必要があります。
努力しない者は必ず苦悩します。
それは、問題を抱えることになるからです。
どのような生き方を選んでも、そこには必ず問題が生じます。
その問題を解決するのは、”神”に対するお祈りでも、仲間の協力でもありません。
あなたの努力によってのみ、問題を解決することができるのです。
努力して知識を育み、努力して技術を磨き、努力して問題を喜びに変えるのです。
努力がなければ、決して問題は解決しません。
人生には無限の可能性があります。
あなたはどのような生き方も許されているのです。
”神”が許さないことはありません。
どのようなことも可能なのです。
”神”が許しているために、人は命を奪うことができるのです。
しかし、人はそれを禁じています。
しかし、動物や植物の命を顧みることはありません。
責任は導かれますが、どのような生き方も”神”は許しているのです。
あなたは少ない選択肢の中から、生き方を選んではなりません。
視野を広げましょう。
誰が何と言おうとも構わないのです。
あなたは自由に生きれば良いのです。
その結果として、後悔したとしてもそれで良いのです。
あなたはそこから学ぶことができるでしょう。
”神”は何も禁じていないということを覚えておきましょう。
既存の価値観に捕らわれる必要はありません。
生き方を自由に考えましょう。

2016年3月17日木曜日

思い通りに進まない時

人生は、あなたの思い通りに進むものではありません。
寧(むし)ろ、人生はあなたを裏切るでしょう。
あなたの思いを無視し、それとは反対の状況を導くこともあるのです。
それは、あなたの要求とあなたへの必要が違うためです。
あなたの要求とは、あなたが判断した必要です。
それは、あなたの視点(立場)から求めた必要です。
あなたへの必要とは、人生が判断した必要です。
人生の視点から必要なものを与えるのです。
あなたが求めるものと、人生が与えるものには相違があるでしょう。
視点が違えば、必要も違ってくるのです。
子どもの頃のあなたと、大人のあなたでは、必要に違いがあるはずです。
昨日のあなたと今日のあなたでは、既に必要が違っているのです。
視点とは立場です。
立場が違えば、見えてくる景色も違います。
その違いが、必要の違いを導くのです。
あなたにとっての最善が、必ずしもあなたの要求に沿うものとは限りません。
残念ながら、あなたには何が最善であるのかを知ることができないからです。
あなたが最善を知るためには、より広い視野が必要です。
全体を眺めることができなければ、最善を理解することができないのです。
あなたは人生がどうなるのかを知っていますか?
次の展開がどうなるかさえ、あなたには分からないのです。
そのような視野によって、本当に最善を得ることができるのでしょうか?
あなたの要求は、あなたの最善となるのでしょうか?
あなたの最善とは、あなたを成長させる糧(かて)になるか?ということです。
あなたにとっての必要とは、成長するに必要であるということなのです。
成長するのに最善でなければ、必要だとは判断されないのです。
人生は思い通りには進まないものです。
あなたはそこで悔しい経験をするでしょう。
沸き起こる怒りに自分をコントロールすることができないかもしれません。
深く傷付き、絶望を味わうかもしれません。
悲しみの果てに塞ぎ込んでしまうかもしれません。
人生には苦しいことがたくさんあるのです。
誰にとっても、人生は苦しいものでしょう。
気楽に生きる人はいません。
どのような人であっても、苦悩を抱えているのです。
あなたが羨ましく思う人がいたとしても、その人はあなたと同じように苦悩しているのです。
誰にとっても、人生は思い通りには進んでいないものなのです。
あなたはそのことを理解しましょう。
悲劇の主人公に自分を重ね合わせていてはなりません。
泣き言は何の価値もないのです。
あなたを苦しめるだけです。
それでは問題は解決しません。
人生が思い通りに進まなくても、そこには人生が導く最善があるのです。
理想は必ずしも最善ではありません。
あなたの理想が実現するのであれば、あなたは成長する機会を失ってしまうでしょう。
あなたの理想が実現するのであれば、それ以上成長することができないということなのです。
理想は実現しない方が良いのです。
それは、あなたのためなのです。
成長することが人生の目的です。
それは、人生の中で最大の喜びです。
成長すること以上の喜びは存在しないのです。
思い通りに進まなくて良いのです。
思い通りに進まなくても努力を続けなければなりません。
紅葉(もみじ)の葉が落ちたからといって、水遣りを怠ってはならないのです。
葉が落ちれば、根を伸ばしています。
思い通りに進まないことの中には、最善があり、必要があるということを覚えておきましょう。
思い通りに進まない時も、大切にしましょう。

2016年3月16日水曜日

高め合える相手

友とは、誰のことでしょうか?
あなたは誰を友と呼びますか?
誰があなたを友と呼ぶでしょう?
人は友を求めています。
人にとって、友の定義は様々です。
そのため、他人との間には相違が生じることになります。
友の定義は、人を分けるのです。
あなたは誰を友と呼びますか?
あなたにとって友とは何ですか?
あなたの寂しさを共に埋めてくれる人のことでしょうか?
あなたを必要とし、共にいてくれとせがむ人のことでしょうか?
あなたと共に悩みを分かつ人のことでしょうか?
あなたと共に歩み、離れない人のことでしょうか?
あなたを慰め、共に泣いてくれる人のことでしょうか?
あなたのために復讐を果たし、仇(かたき)を討(う)つ人のことでしょうか?
あなたを甘やかし、共に怠惰(たいだ)に過ごす人のことでしょうか?
あなたに共感し、その思いを共に果たしてくれる人のことでしょうか?
あなたを好敵手と見做(みな)し、励まし合う人のことでしょうか?
あなたのためには何もせず、自己の利益を追求する人のことでしょうか?
あなたは会ったこともないが、互いに知っている人のことでしょうか?
あなたが道を踏み外そうとしている時に、叱(しか)ってくれる人のことでしょうか?
あなたにとっての友とは誰ですか?
あなたは誰を友と呼ぶでしょう?
深く考えなければなりません。
残念ながら、すべての人を友と呼ぶことはできません。
なぜなら、友とは互いに高め合う相手のことだからです。
あなたのために懸命に働き、相手のために懸命に働くことによって、そこに友情が生まれるのです。
友とは、依存の間柄ではありません。
どちらかが利用する間柄でもないのです。
互いのことを等しく思いやることができる間柄こそが友であるのです。
あなたはただ近くにいるだけの人を友と呼んではなりません。
ただ近くにいるだけでは友とは呼べないのです。
多くの人は誤解しています。
そして、見せ掛けの友を増やすことに専念するのです。
ただ近くに人がいることに安心します。
ただ近くに人がいることの何に安心するというのでしょうか?
人生の目的は成長にあるのです。
成長することが難しい関係性は、あなたを苦しめるだけなのです。
多くの人は幸福を求めています。
しかし、近くに多くの人がいることを求めているのです。
ただ近くに多くの人がいるだけでは、あなたは幸福を得ることはできません。
寧(むし)ろ、余計な関係性によって、あなたの安らぎは崩壊するでしょう。
誰とでも仲良くすることは良いことです。
しかし、それは不可能です。
偽善を手放しましょう。
”すべては一つ”には他なりません。
しかし、人間関係のレベルにおいては、それは分離する必要があるのです。
分離しても一つに繋がっています。
寧ろ、分離することがすべてを一つに繋げるのです。
敵と共にいれば内部崩壊を起こします。
水と火が共にいれば、その力は相殺されるのです。
火は消えてしまい、水は灰で汚れてしまいます。
水が容器に収まって火と分離すれば、互いは大きな力となるのです。
互いの力を引き出すためには、分離する必要もあるということを覚えておきましょう。
すべての人が友ではないのです。
あなたにとっての友は誰ですか?
火は火と、水は水と共にいれば良いのです。
無理をする必要はありません。
あなたの周りに高め合える人がいなければ、独りでいれば良いのです。
孤独は悪いことでも、辛いことでもないのです。
高め合える友を探しましょう。

2016年3月15日火曜日

不信

あなたは、自分の状態を気に病む必要はありません。
あなたは、最善の中にあります。
あなたは、最善を経験しているのです。
それ以外の経験は必要ではありません。
あなたは、必要を得ています。
この世界には無駄は存在しません。
すべてのことが必然であり、最善です。
それは、成長するに必要な経験なのです。
人生の目的は成長にあります。
すべての存在が成長を目的としています。
しかし、どうすることが成長に繋がるのかを知る人はいません。
そのため、人生があなたに最善の経験を導くのです。
どうすることが成長に繋がるかを知らない人は、何が最善であるのかを知りません。
それは、不信に繋がり、否定的な感情を呼び起こします。
目の前の状況、自分の置かれている状態を気に入ることができずに苦悩するのです。
すべてが必要であること、すべてが最善の経験であるということを受け入れることができる人は少ないのです。
そのため、多くの人が苦悩の中に生きています。
苦悩を離れることができる人は多くはないのです。
それは、不信によって受け入れることができないからなのです。
大切なのは、自分が知らないということです。
あなたは自分が何者であるのかを知っていますか?
人生の目的を知っていますか?
自分が何をするべきなのかを知っているのですか?
知らない者は受け入れる必要があるのです。
人生があなたを苦しめるためにあると思いますか?
よく観察しなければなりません。
世界には悲しみが溢れています。
辛い経験もたくさんあるでしょう。
しかし、それ等の経験はあなたを苦しめるためのものなのでしょうか?
人生に苦悩する人は多くいます。
しかし、人生を知っている人は少ないのです。
振り返ってみましょう。
それは、あなたを苦しめるためのものだったでしょうか?
その経験のおかげで、あなたは一つ成長することができたのではないでしょうか?
楽しいことばかりでは、あなたは何一つ成長することができないのです。
気楽な人生に何を望むというのでしょう?
何も知らないことに満足することができるというのでしょうか?
何もできないことに幸福を覚えるでしょうか?
苦悩は無知によって導かれます。
何も知らないために苦悩するのです。
何もできないために苦悩するのです。
ただ、それだけのことです。
人生の目的は成長にあります。
成長することによって幸福を得られる仕組みなのです。
成長することができなければ、苦悩するのは当然の結果であるということを知らなければならないのです。
では、現状は誰の責任なのでしょうか?
誰かや何かがあなたを苦しめているのでしょうか?
それを苦しんでいるのはあなたであって、他の誰でもないのです。
他の誰かが同じように苦しむでしょうか?
あなたでなければ苦しまないでしょう。
自分と他人を混同してはなりません。
これは、あなたの学びであるのです。
あなたに必要な状態です。
あなたには最善の経験が導かれています。
あなたの状態は、あなただけに与えられる素敵な時間なのです。
否定する必要はありません。
よく観察してみましょう。

2016年3月14日月曜日

螺旋

この世界に新しいものがあるでしょうか?
それは、今までに存在しなかったものなのでしょうか?
世界に新しいものはありません。
それは、繰り返されるのです。
ただし、少しだけ変わって出てくるものはあります。
世界は、螺旋(らせん)を描き、存在しているのです。
基本的には、同じことの繰り返しです。
新しいものは存在しません。
どのような陶器も、同じ土から作られます。
どれだけ形が違っていても、本質は同じなのです。
多くの人は、新しいものが存在すると思っています。
新たな発見を成し遂げたと思い込んでいるのです。
革新的な働きをしたと考えますが、それも過去の焼き直しに過ぎません。
あなたが思い付くことは、過去の人が思い付いているのです。
あなたが行うことも、過去の人が行っています。
残念ながら、新発見もなければ、新しい行為もありません。
新しい生活も文化も、長い歴史を見ればないのです。
あなたは現代を先進的であり、革新的であると思い込んでいることでしょう。
しかし、それは過去にもあったのです。
受け入れることができないかも知れませんが、この世界には新しいものはありません。
しかし、多くの人はそれを新発見だと言い、その権利を主張するのです。
過去の焼き直しが、どうして新発見なのでしょうか?
人は権利を主張します。
しかし、それはあなたが始めではないのです。
始めの権利を主張することは恥ずべきことなのです。
それは、自らの無知を公言しいているに等しいからです。
今あるものは、昔にもあったのです。
世界は繰り返されるのです。
それは、人(類)の成長に比例しているのです。
人の成長に合わせて、螺旋は幅を変えます。
人の成長に合わせて、変化の量が変わるのです。
しかし、それは過去を基礎としているのです。
人は経験の中から生み出します。
様々な経験の中からその一部を抜き取り、創造するのです。
人の行為は過去の集大成に過ぎません。
人の行為が、過去を無視することはないのです。
人の行為は変わりません。
今も昔も同じことをしているのです。
そのため、全く新しいことは存在しないのです。
世界は繰り返しです。
救いがあるとするのであれば、より向上したものを繰り返しているということです。
あなたは謙虚でありましょう。
どのような発見も、既に世界に存在しているのです。
人類のすべての発見は、既に自然界に存在しているものに過ぎません。
自然界に存在していないものを発見することはできないのです。
存在しているものが見えるようになっただけのことです。
それだけのことで争ってはならないのです。
あなたはそれを喜びのために用いなければなりません。
努力して螺旋を進み、より良いものを生み出したのであれば、それを誰かや何かのために役立てましょう。
それを自分の利益のために用い、権利を主張し、醜(みにく)い争いに身を投じてはなりません。
”すべては一つ”です。
どのような立場の存在も、協力しなければなりません。
主張は異なっても、同じ世界に存在する仲間なのです。
謙虚でありましょう。

2016年3月13日日曜日

心の意図

人の心は定まりません。
心は常に彷徨(さまよ)っています。
それは、価値を求めて彼方此方(あちらこちら)に駆け回るのです。
あなたの心は落ち着きません。
常に何かを求めています。
それは、所有に飽(あ)き、別を所有しようと欲します。
人の心は満足することがありません。
それは決して定まらないのです。
あなたは、人の心が定まると考えてはなりません。
それは所有(物)を離れます。
すぐに別の物が欲しくなるのです。
心は一所(ひとところ)には止まらないのです。
陽が降れば雨を求めるでしょう。
雨が降れば陽を求めるのです。
そのことを理解しなければなりません。
人は、心の性質を理解して、それと付き合わなければなりません。
心を知らなければ、あなたは人生に戸惑ってしまうでしょう。
心は、あなたではありません。
あなたはそれを自分と重ねてはなりません。
心はあなたの意思とは関係ないのです。
多くの人は心が自分であると思い込んでいます。
そのため、心に翻弄(ほんろう)される時には苦悩を得るのです。
心は、あなたの不足を知っています。
そのため、あなたの不足を補おうとしているのです。
心があなたに導くものは、あなたの不足にとって重要です。
あなたはそれを以て不足を満たさなければならないのです。
心が導くものに対して苦悩している場合ではないのです。
それを大切に扱わなければならないのです。
心が所有を離れるのは、あなたに経験をさせるためです。
陽が降るという経験を得たのであれば、雨が降るという経験を得させようとするのです。
心は、あなたに多くの経験を導こうと努めているのです。
飽き易い人がいます。
それを気に病む必要はありません。
飽き易いというのは、集中が続かない訳ではないからです。
飽き易い人は、それによって広い経験を得ているのです。
それは浅いものではあるけれども、多くの比較対象を導きます。
比較対象によって、”それ”がどのようなものであるのかを知ることができるのです。
反対に、一つのことに専念する人がいます。
それを気に病むことはありません。
一つに専念するというのは、不器用という訳ではないからです。
専念する人は、それによって深い経験を得ているのです。
それは狭いものではあるけれども、本質に近付くのです。
本質に近付くことによって、”それ”の意味を知ることができるのです。
心は、あなたの不足を知っているために、忙しく働いています。
基本は価値を探すことに努めています。
そして、価値のあるものを見付けたら、そこにとどまって掘り下げます。
あなたが何かを飽きることなく続けるのであれば、その本質を教えてもらっているのです。
あなたは心の意図を知りましょう。
心を自分であると考えてはなりません。
あなたには心を理解することができないからです。
心を理解することはできませんが、心の意図を知ることはできるのです。
心の意図を知れば、目の前の状況に苦悩する必要はありません。
あなたは楽しんで、それを経験すれば良いのです。
人の心は定まりません。
それは、あなたに価値のある経験を探しているからなのです。

2016年3月12日土曜日

速やかな人

あなたは速やかに向かわなければなりません。
あなたは速やかに行わなければなりません。
あなたは速やかに去らなければなりません。
あなたは、速やかな人でありましょう。
何事においても、時を延ばしたり、遅らせてはなりません。
時は貴重な財産であり、それを軽んじてはなりません。
すべての存在が時を大切に扱い、速やかに行動しなければならないのです。
何かに手間取っているのであれば、あなたは苦しみを得るでしょう。
時を浪費することは、誰にとっても苦しいことなのです。
それは、時は成長にとって必須だからです。
何を用意しても、時がなければ成長することはできません。
時は、最も重要な要素なのです。
あなたは人生において成長しなければなりません。
成長とは、人生の目的であるのです。
成長するためには時が必須です。
時が多い程に、成長の確率は上がるのです。
時が無ければ、成長の確率は無いのです。
速やかに行動しなければ、時は逃げ去ってしまいます。
あなたが速やかである程、時を有効活用することができるのです。
徐(おもむろ)に時を使い、行動に遅ければ、時の損失は免れないのです。
それは、あなたの苦しみとなります。
あなたは速やかに行動し、時に余裕を持たせなければならないのです。
多くの人は執着を楽しみます。
多くの人は時の大切さを理解してはいません。
そのため、気持ちの切り替えが出来ずに、執着を得るのです。
執着を得れば速やかに向かうことができなくなります。
速やかに行うことも、速やかに去ることもできないのです。
それは、経験の停滞を導きます。
人が成長するためには、必要な経験を得ることが求められます。
経験とは状況の消費です。
それは、変化の中にあるのです。
多くの変化を得る者が、多くの成長を得るのです。
変化を得ない者は、成長することもないのです。
あなたが成長(幸福)を求めているのであれば、多くの変化を求めなければなりません。
多くの変化を得るためには、速やかに行動しなければならないのです。
一所(ひとところ)に止まっているのであれば、状況に変化を導くことはできないのです。
時を虚しく過ごす者には変化がなく、成長もないのです。
ここで言う変化とは、精神の変化のことです。
その興味関心が変化することが成長なのです。
その価値観がより高尚へと向けられることが成長なのです。
場所を変えても意味がないのです。
”中身”を変えなければなりません。
何事も、遅いことは苦しみを導くでしょう。
あなたは誰かに会う時には、速やかに向かい、速やかに行い、速やかに去らなければなりません。
その人に会うのに遅くする必要はありません。
遅く行うことも、遅く去ることも必要ではないのです。
あなたはできる限り速やかに向かい、速やかに行い、速やかに去るのです。
あなたが相手を待たせればどうなるでしょう?
その相手の前での行為が遅ければ、どうなるでしょう?
相手を待たせ、行為が遅いにもかかわらず、だらだらと一向にその場を去らなければ、相手はあなたに敵対するでしょう。
そのため、あなたは執着を離れ、速やかに行動しなければならないのです。
楽しいという理由によって、何かに執着してはなりません。
楽しくても切り上げるのです。
何事においても、あなたは速やかに向かい、速やかに行い、速やかに去りましょう。

2016年3月11日金曜日

”神”の道具

すべての存在は”神”の所有です。
すべての存在が”神”によってその存在を許されているのです。
それは、相対的に機能しています。
この世界において、無駄なものはありません。
それを無駄と考える未熟さがあるだけなのです。
成熟した精神には、無駄が存在しないということを理解することができるのです。
大人と子どもでは、その必要性が異なるようにです。
ここで言う大人とは成熟した精神のことであり、子どもとは未熟な精神のことです。
肉体年齢のことではありません。
大人の提案に対して、子どもはそれを無駄だと考えます。
大人は子どもに学習を促します。
しかし、子どもはその必要性を理解しません。
そのため、多くの子どもは学習を嫌います。
大人は、経験によって学習の必要性を理解しています。
互いの意見は反しているように思え、その議論は無駄なように思えますが、大人は子どもを説得する術を学び、子どもは勧告を受け入れることを学ぶのです。
子どもを説得することによって大人は成長し、大人の勧告を受け入れることによって子どもは成長するのです。
そこには、大きな意義があるのです。
すべての存在が独自の信仰を持ち、それを善とします。
それぞれは自らの善を掲げて争います。
正義の前では、相手の善は悪となるからです。
それ等は相対的に争うのです。
そこには、大人と子どものように成長を分かつという目的があるのです。
しかし、人はそれを知りません。
それは、未熟であるからです。
”神”はすべての存在に成長を求めています。
それは、喜びのためです。
あなたが成長に意味もなく喜ぶのは、そこに”神”の意思が存在するからなのです。
この世界のすべては”神”の所有です。
あなたはそのことを覚えておかなければなりません。
”神”は互いを相対的に向き合わせます。
そこで、互いの不足を理解させるのです。
あなたが不足しているのであれば、相対する相手と争わなければなりません。
すべての争いは不足によってもたらされるのです。
それは、不足を満たすためです。
不足が満たされるまで争いは続きます。
互いに満足していれば、争いなど起きないのです。
すべては成長のためです。
しかし、あなたは成長など望んでいないと悪態を吐くかも知れません。
しかし、それは苦悩が許さないでしょう。
成長することがなければ、そこには苦悩が導かれます。
それは、”神”の意思です。
人は”神”の道具なのです。
ただし、支配的な意味などではありません。
それは、自由を与えられた道具なのです。
しかし、”神”は手入れをしません。
それは、道具(人)に任せられているのです。
刃物が鈍るのは、自身から生じる錆(さび)によります。
切れ味の鈍る刃物は使われる機会を失います。
それは、活躍の場を失うことであり、喜びから遠ざかるということなのです。
錆とは道具から生じた不足です。
それは、成長から遠ざかることによって生じます。
あなたが喜びを得るためには、成長する必要があるのです。
あなたは錆びた刃物と鋭い光を放つ刃物であれば、どちらを用いるでしょうか?
”神”はあなたと同じことをするでしょう。
(本来は、「あなたは”神”と同じことをするでしょう」です)
あなたは自身が”神”の所有であり、道具であるということを理解しましょう。
自分勝手に振舞い、手入れに乏しい道具が用いられることはありません。
その道具が使い物にならなければ、代役を立てる他ないのです。
”神”はあなたの準備が整うまで待ちます。
使える状態を得るまではあなたを用いないのです。
あなたは成長を求めなければなりません。
自分を磨き続けましょう。
人生の目的は、怠慢(たいまん)や傲慢(ごうまん)にはないのです。
”神”の道具として、誇らしく整いましょう。

2016年3月10日木曜日

幸福の種

これは、あなたの人生です。
あなたにはこれを体験する義務があります。
あなたはこれを体験しなければなりません。
人生とは、人それぞれに違う状況です。
それが同じであることはありません。
なぜなら、人生とは、人の状態に起源するからです。
あなたの人生は、あなたの状態に起源するのです。
それは、人生というものが、それを生きる者の成長のために存在しているからです。
どのような存在であっても、人生によって成長することを目的としているのです。
その者が成長する必要がなければ、人生は存在しません。
あなたの人生は、あなたが成長するための時間であり、あなたが成長する必要がなければ人生そのものが存在する必要がないのです。
そのため、あなたが存在しなければ、人生も存在しません。
人生とは、あなたと一体であるのです。
これはあなたの人生です。
他の誰のものでもありません。
あなたはこれを体験する必要があります。
あなたはこれを体験し、成長を実現しなければならないのです。
しかし、人生には気楽なことばかりではありません。
どのような人の人生にも、気楽よりも苦悩が勝ります。
それは仕方のないことです。
それは、気楽によって人が成長することがないからです。
気楽を得れば、人は成長から離れてしまいます。
気楽は人を怠慢(たいまん)にさせ、その心を悪しくしてしまうのです。
気楽を得る者ほど人生に背くのです。
そのため、人生には苦悩が導かれます。
しかし、あなたを嫌って苦悩を導くのではありません。
その問題と向き合い、乗り越えることによって成長を実現するためなのです。
人生の目的は成長です。
そのためには、問題と苦悩と超越の手順が不可欠なのです。
気楽な道にはこの過程は存在しません。
そのため、気楽によっては成長することができないのです。
人生に苦悩が導かれるのはそのためです。
あなたは毎日働かなければなりません。
毎日考え、毎日耕(たがや)し、毎日食べるのです。
気楽な人生など存在しないのです。
誰かを羨(うらや)むことには、何の価値もありません。
あなたは、自分の人生について集中しなければならないのです。
他の人生を望むことはできません。
それは、他の人の経験は、あなたには必要ないからです。
あなたには、あなたに必要な経験があるのです。
それは、あなたの人生にこそ存在しているのです。
あなたは自らの人生を生きましょう。
あなたは心に従って生きなければなりません。
あなたの心が最も強く求めることに従うのです。
あなたは我が道を進まなければなりません。
あなたはそれを経験する必要があります。
必要な経験を手放してはなりません。
不安や心配は誰もが抱えているのです。
あなたが他の人生を望んだところで、そこには同じように不安と心配が存在しているのです。
それは、すべての人が未熟であり、成長するための経験を有しているからです。
どこへ行っても同じです。
成長のための経験を避ける方法はありません。
あなたは問題を抱え、苦悩を抱き、それを超越する必要があるのです。
人の幸福とは、そこにあるということを覚えておきましょう。
苦悩を嫌ってはなりません。
それは、あなたの幸福の種だからです。
あなたはそれを人生という畑に蒔き、後に食べてしまいましょう。

2016年3月9日水曜日

必要に会う

あなたは不要に会うでしょうか?
あなたの受ける状況や環境は、あなたに意味のないものなのでしょうか?
あなたは深く考えてみなければなりません。
冷静に考えるのです。
不安や怒りを手放し、それを見詰めなければなりません。
そうしなければ、あなたが会うものの本質を得ることができないからです。
不安や怒りを離れて冷静に見た時には、あなたは必要に会っているということを理解するはずです。
不安や怒りなどの破滅的な感情が、あなたから本質を隠すのです。
あなたが本質を得るためには、破滅的な感情に捕らわれないことです。
目の前にあるものを、前向きに捕らえてみましょう。
そうすれば、あなたはそこに必要だけが存在しているということを理解することができるのです。
あなたは、見る必要の無いものを見るでしょうか?
知る必要の無いものを知るでしょうか?
聞く必要の無いものを聞くでしょうか?
行く必要の無い場所に行くでしょうか?
得る必要の無いものを得るでしょうか?
失う必要の無いものを失うでしょうか?
出会う必要の無い人に出会うでしょうか?
置かれる必要の無い状況に置かれるでしょうか?
苦しむ必要の無いものに苦しむでしょうか?
深く考えなければなりません。
過去を振り返った時には、一つ一つの経験すべてが自分に貢献しているということを知るでしょう。
何か一つでも経験が欠ければ、今のあなたは無いのです。
それは、今よりも成長が望めないということです。
あなたがどのように考えようとも、その経験に会ったおかげで、現在は最も優れたあなたであるのです。
あなたは知る必要のものを知り、聞く必要のあるものを聞くでしょう。
行く必要のある場所へ行き、得る必要のあるものを得るでしょう。
失う必要のあるものを失い、出会う必要のある人に出会うのです。
置かれる必要のある状況におかれ、苦しむ必要によって苦しむでしょう。
否定的に生きてはなりません。
それは、物事の必要性を手放すということです。
物事の必要性を手放してしまえば、その本質を手放すことになります。
本質とは学びです。
あなたは、その経験の本質を学んでいるのです。
それを手放すというのであれば、学びを得ることができずに成長することができません。
人生の目的は成長にあります。
成長することができないのであれば、同じ学びを繰り返さなければならないということです。
その学びは、あなたが成長するまで続けられます。
人生が休むことはありません。
あなたが成長するまで、学びは導かれ続けるのです。
それを否定することはできません。
あなたは常に学びの中にあるのです。
あなたは決して不要には会いません。
すべてが必要によって満たされ、あなたが破滅的な見方(感情)を離れた時には、その本質に気が付くでしょう。
本質に気が付けば、それは成長のための燃料となるのです。
あなたは決してそれを余計な荷物だとは思わないのです。
本質に気が付いた人は、目の前の状況を楽しむでしょう。
本質に気が付いた人には不要は存在しないのです。
あなたは、自分が不要には会わないということを知りましょう。
あなたは不要に会いません。
あなたは必要に会うのです。
そのため、それがどのようなものであれ、目の前のものは大切なものなのです。
あなたにとっては、それが相応しいのです。
あなたには、自分に与えられた必要(学び)に対して不安や怒りを用いてはなりません。
それはあなたを鈍(にぶ)くします。

2016年3月8日火曜日

野の獣

あなたが金を儲けるには、人の弱みに漬け込めば良いでしょう。
それは難しいことではありません。
不安を駆り立て、怒りを導けば良いのです。
人は不安と怒りによって、あなたに多くを捧げるでしょう。
あなたが金を信仰しているのであれば、人に不安と怒りを導きましょう。
そうすれば、あなたの主人(信仰の対象である金)は、あなたに報酬を惜しみなく与えるでしょう。
すべてのものには性質が備わっています。
人が頭脳によって生き、鳥が翼によって生き、魚が鰓(えら)によって生きるようにです。
金はその性質によって自ら生き、また人を生かします。
金という存在に命が無いと誰が決めたのですか?
金に命が無いと考えてはなりません。
金はその性質によって生きているのです。
あなたが金を扱う時には、生き物として扱わなければなりません。
それは野の獣のように、人に従うことはありません。
人が野の獣を従えることができるでしょうか?
その時には従えたように思っても、その性質が牙を剥いて襲うのです。
多くの人は自分が金の主人であると考えています。
しかし、そうではありません。
金の主人は金自身であり、あなたではないのです。
あなたがどうして、自分以外の存在を従えることができるでしょうか?
あなたは我が子でさえ、従えることができないのです。
どうして金を従えることができると考えるのでしょうか?
金を求める人は、金の主人には成り得ません。
それは、僕(しもべ)の方が主人を求めるからです。
あなたが金のために生きるのであれば、その主人はあなたではないのです。
金を求める者は金の僕となり、その命令に従わなければならないのです。
金のために働き、金のために生きる者が、どうして金の主人なのでしょう?
金を儲けるために人の弱みに付け込む者は、その業(わざ)によって鎖(くさり)に繋がれます。
人から奪う者は、盗人となるのです。
あなたは目的(金儲け)のために、人から奪ってはなりません。
金と共存しなければならないのです。
野の獣は、その扱い方を間違えなければ安全です。
しかし、その扱い方を間違えてしまえば、牙を剥くのです。
その時には、あなたは簡単に捕らえられ、大いに悲しむでしょう。
金の扱い方を間違えてはなりません。
野の獣はあなたの僕にはならないのです。
それを制することはできません。
互いの性質を知り、共存する方法を探すのです。
金を信仰する者は金に仕え、”神”を信仰する者は”神”に仕えるでしょう。
人は仕える主人から、その報いを得るでしょう。
あなたは自らの務めを果たし、与えられるもので満足しましょう。
それが足りないからといって、奪い取ってはなりません。
人に不安と怒りを導けば、それはその人を苦しめる結果となるからです。
人から奪い取って苦しめるのであれば、その人が次にあなたに報いることは、それと同じことなのです。
あなたは自らの行為を受けるでしょう。
因果の仕組みは正しく、そして相応しくあなたに返るからです。
すべての責任は自分自身で負わなければなりません。
あなたは、自らの責任を放棄することはできません。
金を得ることは決して悪いことではありません。
それが与えられた結果であるのならば安全です。
しかし、与えられていなければ安全ではないのです。
野の獣が自ら歩み寄るのであれば安全です。
しかし、それを追い立てることは安全ではないのです。
どうするべきなのかを考えましょう。
あなたは何に仕えるのかを考えなければなりません。
どのように向き合うのかを考えなければなりません。

2016年3月7日月曜日

親の信仰

あなたは人を責めてはなりません。
その人は、既にその報いを受けているからです。
あなたは何が正しいかを知らないのです。
どうして、他人を責めることができるのでしょうか?
あなたがその人を責めるのであれば、その人が正しくないことを証明しなければなりません。
そして、自分が正しいということを証明する必要があるのです。
あなたにこれができるでしょうか?
あなたが信じて主張する正しさにどれだけの人が賛同し、どれだけの人が反対するでしょうか?
正しいというのであれば、すべての人に支持されるはずです。
しかし、それは実現しないでしょう。
あなたが正しいと主張しても、それに反対する人は必ずいるのです。
あなたは、完全なる正しさを有することはできません。
あなたが有することができるのは、”自分が正しいと思う意見”であるのです。
それは、決して正しくはないのです。
すべての人が”自分が正しいと思う意見”を所有しています。
そのため、誰一人として正しさを有することはありません。
自分を正しいと主張する者は、その時点において正しくはないのです。
この世界には、正しい人など存在しないのです。
すべての人が未熟です。
すべての人が歪みを有しています。
すべての人が成長を求められています。
すべての人が苦悩します。
すべての人が学んでいるのです。
正しい人は存在することが許されないのです。
この世界は学びを得る場所だからです。
そのため、自分を正しいと主張する時点において、学びを得ているのです。
人は、自らに相応しい場所(状況、環境)を得ます。
正しいのであれば、問題は決して生じません。
すべては因果の仕組みによるからです。
問題を受ける者は、それが相応しいために受けるのです。
自らが正しくもないのに誰かを責め、不正によって本当は低い自らを高めようとする者には、その行いに相応しい問題を受けるでしょう。
あなたが問題を受けないようにするには、人を責めることをやめることです。
あなたは人を責めることができるような”立派”な人物なのでしょうか?
あなたには知らないことも、できないこともないというのでしょうか?
”わたし”はあなたの高ぶりに反対しましょう。
その時点において、あなたは完全には正しくないのです。
それでも、あなたは自らが正しいと主張し、人を責めるのですか?
自らを顧(かえり)みて、どうするのかを決めましょう。
自らを顧みることなく、どうして自分が正しいというのでしょうか?
客観視すらできない者が多いのです。
あなたの信じている正しさは、決して正しくはありません。
あなたは疑い続けなければなりません。
あなたがそれを信じる根拠はどこにあるのですか?
習慣としての信仰があるのではないですか?
子は親を見て育ちます。
子は普通、親のように振る舞うのです。
親の業(わざ)を子が真似るのです。
子が親を排(はい)することは稀(まれ)です。
親が正しいと主張することを、子は真似るのです。
”普通”の子は、親の信仰を受け継いでいるのです。
親が酒に耽(ふけ)るのであれば、子も酒を楽しみます。
親が暴力的であれば、子も暴力的であるのです。
親の正しさが子の正しさとなるのです。
酒に耽ることは正しいのでしょうか?
暴力的に振る舞うことは正しいのでしょうか?
意見は二分するでしょう。
どちらが正しいかを決めることはできません。
あなたはどちらかの意見によって人を責めるでしょうが、それは正しくはありません。
あなたはどうして人を責めることができるのでしょうか?
あなたは何が正しいのかを知らないのです。

2016年3月6日日曜日

苦悩を捨てる

苦悩は所有によって導かれます。
あなたが苦悩を離れたいと考えているのであれば、所有を離れなければなりません。
所有を離れるというのは、執着を離れるということです。
人は何かに執着します。
執着することは、人を苦しめるのです。
熱した炭を握っていれば、掌(てのひら)が焼かれます。
冷めた氷に触れていれば、指先は死を得ます。
あなたにとっては、熱した炭も冷めた氷も問題であるのです。
それは、苦悩を導きます。
それに執着し、手放さないのであれば、苦しみは必至なのです。
あなたが苦しみを手放すためには、所有(執着)を手放す必要があるのです。
熱した炭も冷めた氷も、手放さなければ苦悩は続くのです。
あなたがそれ等を手放した時から苦悩が去るのです。
手放したとしても、すぐに苦悩が去る訳ではありません。
しかし、それは徐々に去るでしょう。
多くの人は執着します。
それは、所有しているものを大切だと考えているためです。
しかし、それは本当に大切なのでしょうか?
あなたは思慮深くありましょう。
多くの人は無知の中にあります。
無知は視野を狭めます。
視野の狭まりは、人を執着へと導くのです。
視野の狭まりが人から可能性を奪います。
それは、比較対象を隠し、所有の価値を高めます。
比較対象があれば、所有の価値は下がるのです。
それしかなければ、あなたは無条件でそれを選ぶでしょう。
しかし、二つの選択肢があれば、別のものを選ぶこともできるのです。
無知は所有に対して執着を強要します。
無知な者はそれを否定することはできません。
無知である程執着しなければならず、苦悩しなければならないのです。
人生において苦悩を抱えている人は無知を所有しています。
その苦悩は無知の克服によって解決するのです。
そのためには、無知を手放さなければなりません。
人は、知らず識(し)らずの内に無知という問題を所有し、それに執着しているのです。
無知を所有するということは、変化を否定するということです。
無知は変化を嫌います。
無知な者程、何かを変えることを恐れます。
それは、変わることによって不利を得る可能性があると考えているからです。
もしくは、変わることの価値を知らないのです。
どのような変化であっても、それがあなたに不利に働くことはありません。
それに、価値の無い変化など存在しないのです。
寧(むし)ろ、変化しないことには大きなリスクがあるということを覚えておかなければならないのです。
あなたは変化(成長)しない人を許しますか?
あなたは変化(成長)しない人と共にいたいでしょうか?
良く考えましょう。
熱した炭や冷えた氷を握って離さないにもかかわらず、苦悩を訴えている滑稽(こっけい)な者を見る時、それを褒(ほ)めるでしょうか?
そのような人に対して、あなたは今すぐに握っているものを手放すように声を荒げるでしょう。
それでも離さないのであれば、呆(あき)れてその人を離れるでしょう。
執着によって、どのように豊かさを得るというのでしょうか?
変化を続ける人は褒められます。
それは、多くの人の羨望(せんぼう)を受けるでしょう。
変化を放棄する人は軽んじられます。
それは、多くの人の恥となるのです。
あなたは苦悩の対象を手放さなければなりません。
ただ、それだけのことです。
何も難しいことはないのです。
執着を離れましょう。

2016年3月5日土曜日

褒める人

あなたは、理解しなければなりません。
重要なのは、理解を深めることです。
それは知識の高まりであり、知恵の実現です。
人は理解することによって豊かさを得ることができるのです。
理解することがない人は苦しみます。
それは、無知を高め、苦悩を受けるようになるためです。
人が豊かな人生を求めているのであれば、無知を離れ、知識を求めて理解を深めなければならないのです。
しかし、多くの人は無知を楽しんでいます。
多くの人は現状維持に興味があり、向上には消極的です。
多くの人にとって、自ら知識を求め、理解を深めることは容易ではないのです。
そのため、知恵を以て生きる人は少ないのです。
知恵を以て生きる人が苦悩と共に生きることはありません。
理解は苦悩を退けるのです。
しかし、多くの人は苦悩の中に生きています。
それは、理解に浅く、無知を以て生きるからです。
無知は苦悩を引き寄せます。
知恵は人を賢者とし、無知は人を愚者とします。
賢者と愚者では、生き方が異なります。
両者は全く反対の選択をするでしょう。
賢者は他者を褒めます。
それは、他者を理解することによって、相手を建設的に捉えることができるためです。
理解することがなければ、相手を建設的に捉えることはできません。
相手を理解することがない者は、褒めることがありません。
口を吐いて出る言葉は、批判や否定となるのです。
そのような人は愚者と呼ばれるのです。
相手を褒めることができるかどうか?によって、相手の反応は別のものになります。
相手を褒めることができる人には、他者は手厚く応接するでしょう。
相手を褒めることができない人には、他者は怒りを現すでしょう。
どちらの対応が好ましいですか?
人は独りでは生きていくことができません。
独りでも生存は可能でしょうが、人生の完結には至らないのです。
人生を完成させることがなければ、生きているとは言えないのです。
人は他者と共に生きています。
他者を無視することはできません。
あなたが豊かな人生を求めているのであれば、他者からの手厚い応接を受ける必要があるのです。
相手に強要しても、それを受けることはできません。
他者からの手厚い応接は、他者の心によって決まるのです。
他者からの手厚い応接がなければ、あなたは豊かさを得ることができません。
他者から怒りを受ければ、あなたは苦しむのです。
あなたの人生は、あなたの独断では決めることができないのです。
あなたは必ず他者と接する必要があるのです。
その機会を大切に扱わなければならないのです。
あなたは他者を理解するように努めましょう。
それがどのような事柄であってもです。
理解に努めているのであれば、理解を深めることができるでしょう。
理解が深まれば、あなたは他者を褒めることができるようになるでしょう。
褒められて気分を害する者がいるでしょうか?
褒められた相手は、あなたに尽くすようになるでしょう。
あなたが他者に尽くされたいと考えているのであれば、他者の良いところを探さなければなりません。
知らないからと言って、安易に否定してはならないのです。
その行為は、あなたから他者を遠ざけるのです。
あなたに関することを否定する人と共にいたいと思いますか?
あなたは理解しなければなりません。
人は自分を理解してくれる者の友となるでしょう。

2016年3月4日金曜日

後継

すべての存在において、時間は有限です。
これを無限にすることのできる存在はありません。
すべての存在が限られた時間の中に存在しているのです。
あなたは、与えられた時間が有限であるということを知りましょう。
それを無限であるように扱ってはなりません。
あなたが時間を欲する時には、それは失われているのです。
悔やみは後に起こります。
それを先に得ることはできません。
あなたは時間について、より考察する必要があるということを覚えておきましょう。
有限の時間の中では限界があります。
そこでの業(わざ)には限りがあるのです。
そのため、すべての存在は後継にそれを託(たく)さなければならないのです。
すべてが時間によって奪われるのです。
あなたの体力も気力も、状況や環境さえも時間によって奪われるのです。
あなたはすべてを奪われます。
それを守ることはできません。
あなたに残るものは何一つとしてないでしょう。
あなたは託さなければなりません。
いつまでも時間を与えられるなどと思ってはなりません。
あなたの時は尽きるのです。
その時には、あなたは瞼(まぶた)を開くことも、立ち上がってどこかへ向かうことも許されないのです。
あなたは自分以外の存在に託さなければなりません。
自然界にはその仕組みが延々と受け継がれています。
竹は根によって後継し、後継させます。
梅は種子によってそうします。
人間は欲望(に根差した意思や子ども(教育)など)によって託すのです。
それぞれに後継を得る方法が違います。
時間が有限であるのだから、何かしらの方法によって後継を得る必要があるのです。
しかし、あなたは”人間”のように、動植物のように後継を得てはなりません。
それは、苦悩を導くからです。
苦悩を避けるためには、賢(かしこ)くなければなりません。
賢者は悟りによって子を残します。
それは、”人間”や他の動植物とは違う方法なのです。
あなたが豊かに存在し、それを後継に託したいと考えているのであれば、悟りを得ることに時間を使わなければなりません。
賢者が託すのであれば、世界は幸いです。
愚か者が託せば、世界を苦しめるのです。
それは、悟りによって事を行わないからです。
悟りとは、本質を得ることです。
人生とは何か?
自分とは何か?
この問いに答えを導くのが悟りの役割なのです。
あなたは時間が有限であるということを知りましょう。
そして、その立場から人生や自分について、目の前の状況や未来について考えましょう。
無益に時を過ごしてはなりません。
あなたはすべての時間の中に問いましょう。
その働きはあなたを賢くし、やがては悟りをもたらすでしょう。
悟りを以て後継する者、後継させる者は幸いです。
それは、世界に幸福をもたらすからです。
欲望を以て後継する者、後継させる者は苦しむでしょう。
それは、世界に苦悩をもたらすからです。
悟りとは真の知恵であり、欲望とは無知(偽の知恵)であるということを覚えておかなければなりません。
知恵を得るためには、時間を大切に扱い、そこに充実を求める必要があるのです。
何を以て充実とするかは、人それぞれです。
それは心に従いましょう。
それぞれに必要な充実の形があるのです。
それを放置してはなりません。
時間を大切にしましょう。
過去と現在と未来を大切にしましょう。
悟りを以て後継し、後継させましょう。
それによって満足を得ましょう。

2016年3月3日木曜日

安眠できる場所

あなたは自分の家に帰らなければなりません。
それは、あなたが安心するためです。
あなたが安心するためには、自分の家に帰る必要があります。
それは、自分の家には、あなたの眠る場所があるからです。
他人の家にあっては、眠りを得ることは難しいのです。
それは、安心することができないからです。
あなたが穏やかな眠りを得るためには、安心する必要があるのです。
人は、他人の家にあって安心することはできません。
それは、そこに家の主人がいるためです。
客人が主人を意に介(かい)さないということがあるでしょうか?
客人は、家の主人からの施(ほどこ)しを受けます。
施しを受けて、それを気に病まない者がいるでしょうか?
どのような客人も、家の主人に対して謝意を以て返すでしょう。
横柄な態度を取るのは客人ではありません。
それを許されているのは、家の主人か強盗だけなのです。
安心して眠りを得ることができる場所があなたの家なのです。
あなたの寝床はどこにあるでしょうか?
あなたの安心はどこにありますか?
あなたは最も大きな安らぎに帰らなければならないのです。
その生き方に安らぎはありますか?
あなたは安心して眠りを得ることができているでしょうか?
あなたに安らぎがないというのであれば、それは他人の家にいて、気が休まらないのと同じです。
その生き方は、あなたに相応しくないでしょう。
多くの人は他人の家に行っては施しを欲します。
何も持たずに出向き、他人の家の財産を漁(あさ)るのです。
どのような客人も、他人の家で横柄な態度によって財産を漁るのであれば、強盗となるでしょう。
多くの人は苦しみながら生きています。
やりたくないことを仕事にし、不満や不安に追い立てられます。
しかし、幸福を求めているのです。
他人の家の財産を漁る強盗が、どうして幸福を得ることができるのでしょうか?
強盗が得るものは懲(こ)らしめであるのです。
そこに喜びはなく、自由もありません。
あなたの家には安らぎがあります。
世の中を見ましょう。
そこには様々な生き方があるのです。
あなたの生き方はあなたが決めるべきなのです。
他人にはそれを知ることができません。
あなたの家がどこにあるのか、他人には分からないのです。
あなたは、安らぎを以て我が家を知るでしょう。
様々な価値の置き方があります。
しかし、あなたは安らぎに価値を置く必要があるでしょう。
他に価値をおいて苦悩を得ているのであれば、どれだけ努めても幸福を得ることはできないのです。
他人の家にあって眠ろうと努めても、あなたは安心して眠ることはできないのです。
苦悩の中に幸福を見出そうとしても、あなたにはできないでしょう。
あなたの幸福は、安らぎを得る生き方の中にこそ存在しているのです。
あなたは自分の家に帰らなければなりません。
いつまでも他人の家の財産を漁っていてはなりません。
あなたが本当に求める生き方とはどのようなものですか?
あなたは今の生き方に本当に満足しているのですか?
後悔する時には、時間は僅(わず)かとなっているでしょう。
自分に聞いてみなければなりません。
あなたは自分の人生を軽んじてはなりません。
安心して眠ることが大切なのです。
苦悩を覚える他人の家を出ましょう。
あなたは、自分の家に帰るのです。

2016年3月2日水曜日

器の水

あなたは少しずつ蓄えなければなりません。
それは、水滴が一滴ずつ垂れるようにです。
一滴ずつ垂れれば、それは器に収まります。
それは器を満たし、不足は無いでしょう。
しかし、多くの人はそのようには考えません。
勢い良く注ぐのです。
それは、強欲があるからです。
多くの人は強欲を所有しています。
恐怖によって多くを求めているのです。
そのため、器に注ぐ水は勢いを増します。
大量の水を一気に注ぎ込むのです。
そうすれば、器はすぐに満たされると考えているのです。
しかし、本当にそうでしょうか?
勢い良く注がれる水は、その勢いが強い程に器に収まることはありません。
それは、勢いが強いがために器にとどまらず、外に弾かれるのです。
勢い良く注げば、器の中には少しの水しか残らず、大半は地面を濡らすのです。
地面を濡らす水で、どのように喉(のど)を潤すのでしょうか?
それは、瞬く間に地面に吸収され、跡形も残りません。
あなたが受けるのは、器の水だけなのです。
器の水が少ない者は、渇きを潤すことができません。
そして、その渇きを少しでも潤すために、器の内側や外側に張り付いた水滴をも舐めるでしょう。
それでも足りないために地面に這(は)い蹲(つくば)り、嘆(なげ)きの内に泥を口にするでしょう。
その泥は口を苦くし、渇きは一層強くなるのです。
あなたが渇きを恐れているのであれば聞きなさい。
あなたは少しずつ注がなければなりません。
強欲を以て勢い良く注いではなりません。
何事に関しても、賢明でありましょう。
人の世では、強欲な者は多くを得ます。
他人の目からはそのように見えるのです。
しかし、多くの水によって渇きを潤すのは、賢明な者なのです。
一滴ずつ溜めるには根気が必要です。
それは、常に続ける必要があります。
多くの人はそのようにはできません。
それは、信じることに乏しいからです。
一滴ずつ溜めることには長い目で見る必要があります。
それは、一見したところでその変化に気付くことができないからです。
辛抱強くなければ、それを続けることはできないのです。
目の前の欲望に釣られるような薄弱な精神では、決して行えません。
喉の渇きに打ち勝ち、水が器を満たすのを待たなければならないのです。
あなたは辛抱することができるでしょうか?
その方法が価値をもたらすことを信じることができるでしょうか?
早く注ぐ者は却(かえ)って遅く飲むのです。
遅く注ぐ者は却って早く飲むのです。
”水”は無限にはありません。
あなたに与えられる”水”の量は決まっているのです。
賢明に注がなければなりません。
あなたが豊かさを求めているのであれば、強欲には気を付けましょう。
勢い良く注がれることに喜んではなりません。
それは、多くを損なうからです。
堅実でありましょう。
他人があなたに勢い良く注ごうと提案しても、あなたはそれを深く考えなければなりません。
多くの人は器に勢い良く注ごうとしています。
それは、そのように教わるからです。
多くの人が苦悩を抱えているのはなぜでしょうか?
それは、喉が渇いているからです。
知恵によって、喉が乾くことのないようにしましょう。

2016年3月1日火曜日

考え方の通りの人生

すべての人の人生は、その考え方によって形成されます。
人生が考え方を離れることはありません。
それは、人生には自己責任という選択肢が用意されているからです。
あなたは、自らの責任に応じた結果を得ることになります。
それは、人生が成長を目的としているためです。
人は、責任の範囲内で人生を築きます。
すべての状況は選択の結果であり、それはあなたに相応しいのです。
因果の仕組みがそれを導きます。
人は自らの考え方に従って選択します。
それは、相応の結果を導くのです。
人生は考え方の結果なのです。
それ以外を求めるのは責任転嫁(せきにんてんか)であるということを覚えておく必要があるでしょう。
どのような状況を得ようとも、それを誰かや何かの責任にしてはなりません。
あなたが責任転嫁をした時点において、その本質は闇に葬(ほうむ)られることになります。
あなたはそれを探しても見付けることはできません。
暗闇の中でどうして髪の毛一本を見付けることができるのでしょうか?
責任転嫁をするということは、それ程のことなのです。
すべてはあなたの責任です。
それは、あなたの考え方によって導かれたからです。
因果の仕組みは平等に働きます。
それは、人を分けることはありません。
どのような人をも平等に裁くのです。
あなたの行為が審査(しんさ)されるのです。
あなたの行為は考え方の結果です。
行為に及んだ後では、それを言い逃れることはできないのです。
すべてが自己責任なのです。
あなたはこのことを忘れてはなりません。
人生がどのように展開しようとも、それはその人の考え方によるのです。
誰かや何かがそのようにしたのではありません。
多くの人は誤解しています。
誰かや何かがそのようにしたのだと言い張るのです。
残念ながら、そのような事実はありません。
事実も無いのに訴(うった)える人は虚偽(きょぎ)の罪を犯し、その報いを受けることになるのです。
その苦しみは計り知れません。
周囲の人を見ましょう。
彼等はその考え方の通りの人生を得ています。
考え方と違う人生を得ている人などいないのです。
働き者は収穫を得、怠け者は空腹を得るのです。
怠け者で収穫を得、働き者で空腹を得る人はいません。
結果がそれを知らせています。
ただし、畑(収穫を与えるもの)に対しての働きでなければなりません。
畑の収穫を得ようと思っているのに、畑仕事を怠けてはならないのです。
畑以外の働きが、畑の収穫を導くことはないのです。
”神”のために働く者は、”神”からの恵みを受けるでしょう。
それ以外のために働く者には、それ以外からの恵みを受けるのです。
何に仕えるのかはあなたの自由です。
あなたは自らの仕えるものを考える必要があるのです。
人生は考え方によって形成されます。
その人の得ている結果は、仕えるものからの恵みなのです。
白菜の種を蒔いたのに、水菜を収穫することはできません。
白菜の種を蒔けば、白菜を収穫するのです。
しかし、怠け者にはその収穫さえ約束されません。
畑は、その人の働きに対して正直なのです。
あなたは、収穫したい作物の種を蒔きましょう。
そして、働きを収めましょう。
そうすれば、あなたは多くの収穫を得ることができるでしょう。
そして、空腹は満たされるでしょう。