あなたが金を儲けるには、人の弱みに漬け込めば良いでしょう。
それは難しいことではありません。
不安を駆り立て、怒りを導けば良いのです。
人は不安と怒りによって、あなたに多くを捧げるでしょう。
あなたが金を信仰しているのであれば、人に不安と怒りを導きましょう。
そうすれば、あなたの主人(信仰の対象である金)は、あなたに報酬を惜しみなく与えるでしょう。
すべてのものには性質が備わっています。
人が頭脳によって生き、鳥が翼によって生き、魚が鰓(えら)によって生きるようにです。
金はその性質によって自ら生き、また人を生かします。
金という存在に命が無いと誰が決めたのですか?
金に命が無いと考えてはなりません。
金はその性質によって生きているのです。
あなたが金を扱う時には、生き物として扱わなければなりません。
それは野の獣のように、人に従うことはありません。
人が野の獣を従えることができるでしょうか?
その時には従えたように思っても、その性質が牙を剥いて襲うのです。
多くの人は自分が金の主人であると考えています。
しかし、そうではありません。
金の主人は金自身であり、あなたではないのです。
あなたがどうして、自分以外の存在を従えることができるでしょうか?
あなたは我が子でさえ、従えることができないのです。
どうして金を従えることができると考えるのでしょうか?
金を求める人は、金の主人には成り得ません。
それは、僕(しもべ)の方が主人を求めるからです。
あなたが金のために生きるのであれば、その主人はあなたではないのです。
金を求める者は金の僕となり、その命令に従わなければならないのです。
金のために働き、金のために生きる者が、どうして金の主人なのでしょう?
金を儲けるために人の弱みに付け込む者は、その業(わざ)によって鎖(くさり)に繋がれます。
人から奪う者は、盗人となるのです。
あなたは目的(金儲け)のために、人から奪ってはなりません。
金と共存しなければならないのです。
野の獣は、その扱い方を間違えなければ安全です。
しかし、その扱い方を間違えてしまえば、牙を剥くのです。
その時には、あなたは簡単に捕らえられ、大いに悲しむでしょう。
金の扱い方を間違えてはなりません。
野の獣はあなたの僕にはならないのです。
それを制することはできません。
互いの性質を知り、共存する方法を探すのです。
金を信仰する者は金に仕え、”神”を信仰する者は”神”に仕えるでしょう。
人は仕える主人から、その報いを得るでしょう。
あなたは自らの務めを果たし、与えられるもので満足しましょう。
それが足りないからといって、奪い取ってはなりません。
人に不安と怒りを導けば、それはその人を苦しめる結果となるからです。
人から奪い取って苦しめるのであれば、その人が次にあなたに報いることは、それと同じことなのです。
あなたは自らの行為を受けるでしょう。
因果の仕組みは正しく、そして相応しくあなたに返るからです。
すべての責任は自分自身で負わなければなりません。
あなたは、自らの責任を放棄することはできません。
金を得ることは決して悪いことではありません。
それが与えられた結果であるのならば安全です。
しかし、与えられていなければ安全ではないのです。
野の獣が自ら歩み寄るのであれば安全です。
しかし、それを追い立てることは安全ではないのです。
どうするべきなのかを考えましょう。
あなたは何に仕えるのかを考えなければなりません。
どのように向き合うのかを考えなければなりません。
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