あなたは人を責めてはなりません。
その人は、既にその報いを受けているからです。
あなたは何が正しいかを知らないのです。
どうして、他人を責めることができるのでしょうか?
あなたがその人を責めるのであれば、その人が正しくないことを証明しなければなりません。
そして、自分が正しいということを証明する必要があるのです。
あなたにこれができるでしょうか?
あなたが信じて主張する正しさにどれだけの人が賛同し、どれだけの人が反対するでしょうか?
正しいというのであれば、すべての人に支持されるはずです。
しかし、それは実現しないでしょう。
あなたが正しいと主張しても、それに反対する人は必ずいるのです。
あなたは、完全なる正しさを有することはできません。
あなたが有することができるのは、”自分が正しいと思う意見”であるのです。
それは、決して正しくはないのです。
すべての人が”自分が正しいと思う意見”を所有しています。
そのため、誰一人として正しさを有することはありません。
自分を正しいと主張する者は、その時点において正しくはないのです。
この世界には、正しい人など存在しないのです。
すべての人が未熟です。
すべての人が歪みを有しています。
すべての人が成長を求められています。
すべての人が苦悩します。
すべての人が学んでいるのです。
正しい人は存在することが許されないのです。
この世界は学びを得る場所だからです。
そのため、自分を正しいと主張する時点において、学びを得ているのです。
人は、自らに相応しい場所(状況、環境)を得ます。
正しいのであれば、問題は決して生じません。
すべては因果の仕組みによるからです。
問題を受ける者は、それが相応しいために受けるのです。
自らが正しくもないのに誰かを責め、不正によって本当は低い自らを高めようとする者には、その行いに相応しい問題を受けるでしょう。
あなたが問題を受けないようにするには、人を責めることをやめることです。
あなたは人を責めることができるような”立派”な人物なのでしょうか?
あなたには知らないことも、できないこともないというのでしょうか?
”わたし”はあなたの高ぶりに反対しましょう。
その時点において、あなたは完全には正しくないのです。
それでも、あなたは自らが正しいと主張し、人を責めるのですか?
自らを顧(かえり)みて、どうするのかを決めましょう。
自らを顧みることなく、どうして自分が正しいというのでしょうか?
客観視すらできない者が多いのです。
あなたの信じている正しさは、決して正しくはありません。
あなたは疑い続けなければなりません。
あなたがそれを信じる根拠はどこにあるのですか?
習慣としての信仰があるのではないですか?
子は親を見て育ちます。
子は普通、親のように振る舞うのです。
親の業(わざ)を子が真似るのです。
子が親を排(はい)することは稀(まれ)です。
親が正しいと主張することを、子は真似るのです。
”普通”の子は、親の信仰を受け継いでいるのです。
親が酒に耽(ふけ)るのであれば、子も酒を楽しみます。
親が暴力的であれば、子も暴力的であるのです。
親の正しさが子の正しさとなるのです。
酒に耽ることは正しいのでしょうか?
暴力的に振る舞うことは正しいのでしょうか?
意見は二分するでしょう。
どちらが正しいかを決めることはできません。
あなたはどちらかの意見によって人を責めるでしょうが、それは正しくはありません。
あなたはどうして人を責めることができるのでしょうか?
あなたは何が正しいのかを知らないのです。
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