すべての存在は”神”の所有です。
	すべての存在が”神”によってその存在を許されているのです。
	それは、相対的に機能しています。
	この世界において、無駄なものはありません。
	それを無駄と考える未熟さがあるだけなのです。
	成熟した精神には、無駄が存在しないということを理解することができるのです。
	大人と子どもでは、その必要性が異なるようにです。
	ここで言う大人とは成熟した精神のことであり、子どもとは未熟な精神のことです。
	肉体年齢のことではありません。
	大人の提案に対して、子どもはそれを無駄だと考えます。
	大人は子どもに学習を促します。
	しかし、子どもはその必要性を理解しません。
	そのため、多くの子どもは学習を嫌います。
	大人は、経験によって学習の必要性を理解しています。
	互いの意見は反しているように思え、その議論は無駄なように思えますが、大人は子どもを説得する術を学び、子どもは勧告を受け入れることを学ぶのです。
	子どもを説得することによって大人は成長し、大人の勧告を受け入れることによって子どもは成長するのです。
	そこには、大きな意義があるのです。
	すべての存在が独自の信仰を持ち、それを善とします。
	それぞれは自らの善を掲げて争います。
	正義の前では、相手の善は悪となるからです。
	それ等は相対的に争うのです。
	そこには、大人と子どものように成長を分かつという目的があるのです。
	しかし、人はそれを知りません。
	それは、未熟であるからです。
	”神”はすべての存在に成長を求めています。
	それは、喜びのためです。
	あなたが成長に意味もなく喜ぶのは、そこに”神”の意思が存在するからなのです。
	この世界のすべては”神”の所有です。
	あなたはそのことを覚えておかなければなりません。
	”神”は互いを相対的に向き合わせます。
	そこで、互いの不足を理解させるのです。
	あなたが不足しているのであれば、相対する相手と争わなければなりません。
	すべての争いは不足によってもたらされるのです。
	それは、不足を満たすためです。
	不足が満たされるまで争いは続きます。
	互いに満足していれば、争いなど起きないのです。
	すべては成長のためです。
	しかし、あなたは成長など望んでいないと悪態を吐くかも知れません。
	しかし、それは苦悩が許さないでしょう。
	成長することがなければ、そこには苦悩が導かれます。
	それは、”神”の意思です。
	人は”神”の道具なのです。
	ただし、支配的な意味などではありません。
	それは、自由を与えられた道具なのです。
	しかし、”神”は手入れをしません。
	それは、道具(人)に任せられているのです。
	刃物が鈍るのは、自身から生じる錆(さび)によります。
	切れ味の鈍る刃物は使われる機会を失います。
	それは、活躍の場を失うことであり、喜びから遠ざかるということなのです。
	錆とは道具から生じた不足です。
	それは、成長から遠ざかることによって生じます。
	あなたが喜びを得るためには、成長する必要があるのです。
	あなたは錆びた刃物と鋭い光を放つ刃物であれば、どちらを用いるでしょうか?
	”神”はあなたと同じことをするでしょう。
	(本来は、「あなたは”神”と同じことをするでしょう」です)
	あなたは自身が”神”の所有であり、道具であるということを理解しましょう。
	自分勝手に振舞い、手入れに乏しい道具が用いられることはありません。
	その道具が使い物にならなければ、代役を立てる他ないのです。
	”神”はあなたの準備が整うまで待ちます。
	使える状態を得るまではあなたを用いないのです。
	あなたは成長を求めなければなりません。
	自分を磨き続けましょう。
	人生の目的は、怠慢(たいまん)や傲慢(ごうまん)にはないのです。
	”神”の道具として、誇らしく整いましょう。
	
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