人にはそれぞれに学びがあります。
	人は、それぞれの学びを学んでいるのです。
	人には、それぞれの段階が存在し、それに相応しい学びを学んでいるのです。
	その人の段階に相応しい学び以外を学ぶことはできません。
	そのため、あなたが他人と何かを比較することには意味がないのです。
	他人と何かを比較したところで、あなたの学びが変わる訳ではありません。
	あなた自身に相応しい学び以外を学ぶことは許されないのです。
	そのため、他人を見てそれを羨(うらや)ましく思ったところで、あなたにはその学びは必要ないのです。
	すべてが学びです。
	人は、限定的な価値観によって判断しています。
	そのため、他人との比較の中に自分自身を置くのです。
	例えば、お金を多く所有しているだとか、健康で豊かに暮らしているだとか、多くの仲間に囲まれているだとか・・・
	これ等の状態に対して、人は優劣を決めているのです。
	これ等はただの状態に過ぎません。
	学びが導く状態であるのです。
	そのため、学びに付属している経験であるだけであり、所有ではないのです。
	そのため、どれだけお金を所有していようとも、学ぶ必要がなくなれば失います。
	健康で豊かに暮らしていようが、それを学ぶ必要がなければ失います。
	多くの仲間に囲まれていようが、同じことなのです。
	学びが止まっている間は、その状態が止まっています。
	しかし、学びが変わることによって、状態も変わるのです。
	その程度のことなのです。
	他人を羨ましく思う気持ちは分かりますが、安易に考えてはならないのです。
	それは、あなたには、あなたに相応しい学びがあるからです。
	あなたに相応しい学びは、あなたの目の前の状態です。
	それ以外に良いものはないのです。
	しかしながら、多くの人は他人の学びを羨ましく思うことによって、自分自身の学びを蔑(ないがし)ろにしているのです。
	多くの人が不満や不安を抱えて生きているのは、目の前の状態を否定しているからなのです。
	これよりも良いものを探していますが、そのようなものは存在しません。
	あなたにとって、目の前の状態以上の価値など存在しないのです。
	探しても無駄です。
	なぜなら、その程度の問題も解決することができない者には、それ以外の問題を解決することはできないからです。
	多くの人は理解することができませんが、目の前に存在する問題が最も簡単なものなのです。
	自分に相応しいものほど、簡単なものは存在しないのです。
	当たり前のことです。
	自分に相応しくないものが難しいことなど、容易に想像することができるでしょう。
	あなたの目の前の状態は、あなたが学ぶべきことです。
	不満や不安によって、それを否定しているのであれば、必要な成長が実現することはなく、苦悩が導かれるのです。
	人にはそれぞれに相応しい学びが与えられています。
	他人を羨ましく思う必要はありません。
	他人は他人の学びを学び、あなたはあなたの学びを学べば良いのです。
	幸せの形はそれぞれに異なります。
	あなたが他人の状態を得たとしても、決して幸せにはなれないのです。
	多くの人が他人の状態を得れば幸せになれると考えています。
	しかし、あなたに相応しくないものを得るということは、身体にアレルギー物質を投じるようなものなのです。
	目の前の問題から逃避して、無理矢理に他人と同じような状態を作ったとします。
	それは、病気でもないのに、医者に症状を訴えるようなものです。
	医者はあなたの症状を聞いて、その病気に相応しい薬を処方するでしょう。
	あなたは健康である(もしくは、別の病気)であるために、関係のない薬を飲まなければなりません。
	そうなれば、あなたの身体は薬の強烈な作用によって、新たな病気を煩(わずら)うことになるのです。
	あなたは、病気に相応しい薬を飲まなければならないのです。
	相応しくない薬は毒なのです。
	他人を羨むということは、そういうことなのです。
	なぜ、あなたは他人の病気を羨むのですか?
	目の前の状態とは、その人の病気であるということを覚えておきましょう。
	人生は汚れを取り除く場所です。
	汚れを取り除くことによって成長することができるのです。
	目の前のどのような状態も、その人の汚れが導き出した状態なのです。
	それを羨む必要はないのです。
	
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