あなたは、未熟に生まれました。
あなたは無知です。
それ故(ゆえ)に、理(ことわり)を知りません。
理を知らないということは、過ちを犯すということです。
すべての人が過ちを犯します。
それは、すべての人が苦しみを受けるということなのです。
すべての人は失敗を選択します。
そして、後悔するのです。
それは、苦悩として尾を引き、容易に手放すことは出来ません。
人が失敗し、後悔し、苦悩し、それに執着するのは、未熟であり、無知であるからに他ならないのです。
知っていれば、失敗することも、後悔することも、苦悩することも、それに執着することもないのです。
知っていれば、あなたが苦しむこともないのです。
しかしながら、あなたは知りません。
あなたは知らずに生まれたのです。
それが、この世界の理です。
あなたは知らずに生まれなければなりませんでした。
それは、正しく学ぶためです。
あなたが正しく学ぶためには、知らないという状態が必要なのです。
少しでも知っていれば、正しく学ぶことは出来ません。
それは、半端な知識が邪魔をして、全体を学ぶことを拒絶するからです。
知らなければ、全体を学ぼうとすることが出来るのです。
人生の目的は理を理解することです。
理を理解するためには、偏ってはなりません。
偏見を抱えている状態においては、理を理解することは出来ません。
理とは、全体のことであり、決して一部のことではないからです。
偏見とは、一部を見ることです。
そのような状態においては、理を理解することも出来ず、苦しみを手放すことも出来ないのです。
多くの人は、良いものを集めます。
良いものを集めることによって、豊かな人生を生きることが出来ると考えているのです。
しかしながら、良いものを集めたからといって、豊かな人生を生きることは出来ません。
なぜなら、未熟者の考える良いものとは、自分に都合の良いものであるからです。
未熟者にとっての都合の良いものとは、偏見を通じて考えられた都合の良いもののことなのです。
残念ながら、未熟者は全体を認識することが出来ません。
一部だけを見て、判断を下しているのです。
それは、幼稚(ようち)な人間が、小さな価値観を盾(たて)に持論を展開しているようなものなのです。
小さな世界に生きている者には、一部がすべてです。
小さな世界に生きている者にとっての一部とは、世界そのものなのです。
しかしながら、それは全体の一部でしかないのです。
あなたには、知らない世界が存在しています。
全体を知らないあなたには、正しく判断することは出来ないのです。
あなたは必ず間違えます。
そのため、安易に判断を下してはなりません。
自分にとって都合の悪いものを安易に排除(はいじょ)してはなりません。
なぜなら、それが自分にとって本当に都合の悪いものであるか分からないからです。
自分にとって都合の良いと思っているものも、本当に良いものか分かりはしません。
残念ながら、未熟者には判断することが出来ないのです。
判断を焦ってはなりません。
判断を下すためには、熟考しなければならないのです。
しかしながら、これは優柔不断に決断を先延ばしにしろというのではありません。
決断は素早く行わなければなりませんが、断定してはいけないということなのです。
新たに知ることによって、あなたはより良い方法を見出します。
より良い方法を見出したのであれば、それを試さなければならないのです。
人生を豊かなものにするためには、変化する必要があるのです。
より良い方法を見出すためには、偏見に従っていてはなりません。
より良い方法は、未知の情報によって実現するからです。
偏見に拘(こだわ)っているのであれば、未知の情報を受け入れることは出来ません。
人生は、良いものばかりで構成されるべきではありません。
悪いものも含(ふく)めて構成されるべきなのです。
それが、人生の本来の在るべき姿です。
悪いものが悪いとは限りません。
すべては、未熟な現状の判断に過ぎません。
安易に悪いものを取り除いてはなりません。
それを取り除くことは、知恵に任せましょう。
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