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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2015年3月31日火曜日

思い通り

思い通りに進むことなどありません。
すべてが必要によって満たされますが、それがあなたの思い通りに進むことなどないということを理解しましょう。
思い通りに進むことは、決して喜ぶべきことではありません。
それは、あなたが未熟であるという事実が既に存在しているからです。
因果の仕組みによって導かれる状況は、あなたの未熟さを反映した当然の結果です。
そのために、思い通りの展開などが導かれるはずもなく、必要のみが満たされるのです。
理想などという不要の幻想に固執してはなりません。
あなたの思い通りに進むことなど、あなたにとっての利益には結び付かないのです。
あなたが本当の利益を求めているのであれば、目の前の状況を素直に受け入れましょう。
それがどのような状況であろうとも、それを否定していてはならないのです。
目の前の状況を否定するということは、必要を否定するということです。
それは、あなたが利益を損なうということに繋がるのです。
しかし、思い通りに進むことを利益だと考えている愚かな者には、そのことが分かりません。
そのために、必要に対して不満を持ち出し、必要を退(しりぞ)け、不要を得ることになるのです。
不要を得ることによって導かれるのは問題です。
問題によって生み出されるのは苦悩です。
人が問題を抱えて苦悩しているのは、自らが必要を拒絶しているからに他なりません。
必要を拒絶しているために、必要が満たされないのです。
苦悩を得ず、幸福を得るためには、必要を満たさなければなりません。
思い通りに進ませるのであれば、それは未熟な結果である苦悩を導くことになるために、それによっては幸福を得るということはできないのです。
あなたは、人生を思い通りに進ませる必要などないということに気が付きましょう。
人生を思い通りに進ませようとするのは、自我による働きです。
自我の持つ我欲によって、人は思い通りに人生を進ませようと考えているのです。
我欲に根差した生き方によって幸福を得る人はいません。
なぜなら、この世界が求めているのは自我による”わがまま”などではなく、非我(ひが)による貢献であるからです。
利己的な生き方よりも、利他的な生き方の方が優れています。
幼い子どもは自分勝手に生きるものです。
それは、視野が狭く、自分自身のことにしか考えが及ばないからです。
成熟した大人は相手を尊重します。
それは、視野が広く、自分以外のことにも考えが及ぶからです。
非我による貢献を行うことのできる者は、成長を実現した者であるのです。
成熟した自己を身に付けている者でなければ、非我による貢献は行えないのです。
幼い自己を所有する者は視野が狭く、自分勝手に考えることしかできません。
それは、人生を思い通りに進ませることが重要であるという、浅はかな考えに至るのです。
子どもは大人の忠告に耳を貸しません。
それは、苦悩を経験するためには良いことではありますが、賢いとは言えません。
大人の忠告を真摯に受け止め、その可能性を考慮しつつ、次の選択を考えなければならないのです。
それは、自我を妥協するということです。
人は、自我を妥協しなければなりません。
しかし、これは志を妥協しろというのではありません。
非我によって貢献することに関しては、妥協は許されません。
我欲による”わがまま”を強行してはならないということなのです。
我欲は妥協しなければなりません。
思い通りに進ませることには、愚かではあるものの、ある種の快楽がもたらされます。
まるで、自分がこの世界の支配者になったかのような錯覚を覚えるのです。
しかし、それは虚しい自尊心を満たすだけの行為に他ならず、自分が愚かな存在であるということを認めることに他ならないのです。
自分自身の肉体すらまともに動かすことができないのに、自分が偉いなどという陳腐(ちんぷ)な考えを信じていてはなりません。
あなたには、爪が伸びることすら食い止めることはできないのです。
白血球が体内で働かなければ、あなたは今まで生きてなどいないのです。
あなたには、自分の身体に対する免疫(めんえき)のことなど考えてはいないでしょう。
あなたが免疫について考えていないのであれば、簡単に病気に苦しむことになるのです。
あなたの思い通りに運営していれば、肉体は一日と健康を保つことはできないのです。
肉体が健康を保っているのは、あなたの思い通りには進めていないからなのです。
思い通りに進ませることはあなたの利益にはなりません。
あなたは、自分自身が未熟であるという重要な事実を忘れてはならないのです。
思い通りに進まないからといって、人生を拒絶してはなりません。
思い通りに進まない時には、思い通りに進まないことが重要であるのです。
あなたの思い通りに進めば、人生が一日と続かないことを”神”は知っているのです。

2015年3月30日月曜日

正しい答え

あなたは自分自身の人生の生き方を確立しなければなりません。
あなたは、自分自身の人生を生きなければならないのです。
それは、自分自身の人生を生きることがなければ、人生の目的を果たすことができないからです。
自分自身の人生の目的が何であるのかを知らず、混乱と苦悩の中に生きるのであれば、後悔を得ることになるのです。
それでは、先へと進むことはできないのです。
同じことを繰り返しているのであれば、この世界の目的であり、人生の目的でもある成長を実現することにはならないのです。
成長を実現することができなければ、それを達するまで果てしなく同じことを繰り返さなければならないのです。
そのため、逃げることはできません。
自分自身の人生の目的が何であるのかを知らず、混乱と苦悩の中にいつまでも生きるのであれば、懸命に逃げたとしても同じ場所に戻ってくることになるのです。
学びは”死”を以て終わりではないのです。
死という状態は肉体との決別に過ぎず、それによってすべてが消え去る訳ではありません。
人は、肉体が無くても存在することができるのです。
それは、人の本質が霊であり、魂であるからなのです。
肉体はそれを支える友であるに過ぎず、そこに執着したり、それを傷付けることによって人生の苦しみが消失するということはないのです。
例え、死を受けたとしても、人は再び生まれます。
そこでは前回の人生での学びが引き続き導かれ、それによって成長を実現するまで何度でも繰り返されるのです。
死が解決策となることはありません。
苦しみを解決したいのであれば、学びを受け入れることによって成長を実現する以外に方法はないということなのです。
成長によってのみ、その学びは終了し、苦しみは消失するのです。
そのため、人が目的として覚えていなければならないのは、成長であるということなのです。
人は”何か”を成長しなければなりません。
成長から遠ざかってはならないのです。
人生を成長のための場所であると考え、時間や労力の使い方を決めるのです。
目的意識が定まらなければ、目的を果たすことはできないのです。
多くの人は人生に対する目的を見失っています。
生活することや、目の前の状況に対する目的を持つことに懸命になるあまり、人生の意味を履き違えるのです。
周囲の人がそうしているという理由によって、それが正しいとは言えません。
周囲の人がそうしているという理由によって、それを行うのでは、目的を果たすことは難しいのです。
しかし、周囲の人がそうしていないという理由によって、それが正しいとも言えません。
周囲の人がそうしていないという理由によって、それを行うのでは、目的を果たすことは難しいのです。
周囲の人の人生と、あなたの人生は全くの別物です。
それぞれの人生を一緒くたにして考えてはならないのです。
あなたには、あなただけの人生があるのです。
周囲の人の生き方は参考にはなれど、あなたにとって”正しいもの”にはならないのです。
そのため、誰かと自分自身の人生を比べることによっては、正しい答えが導かれるということはありません。
誰かを羨(うらや)むことや、嫌うことをしても、あなたの人生には何の価値もないのです。
大切なのは、自分自身が成長するということです。
他人をどれだけ助けたいと願おうとも、自分自身のことすら救うことができない者に、どうやって他人の面倒を見ることができるのでしょうか?
泳ぐこともままならない者が、溺れている者を救うことなどできないのです。
泳ぐことができなければ、互いに水に飲まれるということを理解しなければなりません。
他人がどうあろうとも、あなたには関係ありません。
あなたは自分自身の人生の生き方を確立しなければならないのです。
人生の目的である成長を実現することができなければ、何をやっても、何を所有したとしても虚しいだけであるということに気が付きましょう。
これは、あなたの学びであるのです。
これは、あなたの未熟さであるのです。
これは、あなたの弱さであるのです。
周囲の人と同じではなりませんし、違っていてもなりません。
周囲の人との比較が重要なのではありません。
あなたは、自分自身が成長することのできる方法を探し続けましょう。
成長することのできる道を探し続けるのです。
他人から好かれる方法や、他人よりも優れている方法・・・
このようなものには本当の価値はないのです。
本当の価値は自分自身の中に存在しています。
人生の意味を考えましょう。

2015年3月29日日曜日

虚しい固執

あなたは、この世を照らさなければなりません。
あなたという存在によって、この世が少しでも光を得るようにしなければならないのです。
あなたはこの世を照らすという大いなる役割を以て生まれたのです。
自分のことばかりを考え、小さな視野の中で傲慢(ごうまん)に生きる者は、自分に与えられた役割を見失っています。
自分に与えられた役割を見失っているのであれば、人生の目的を果たすことはできません。
人生の目的を果たすことができないというのであれば、幸福や豊かさというものを得ることは叶わないのです。
人は何のために生まれ、何のために生きているのか?ということを、常に探求し続けなければならないのです。
自分が何のために生まれ、何のために生きているのか?ということを探求することがなく、世俗に捉われて生きるのであれば、虚しい一生を得ることになるのです。
目的意識もなく生きることに、何の喜びがあるというのでしょう?
世俗の営みに心を乱し、本来の目的と役割を見失って生きることが幸福を導くのでしょうか?
人生というものを深く考えなければなりません。
ただ生活するために生きるのであれば、これほど辛いことはありません。
なぜなら、世俗には苦悩が溢れているからです。
世の中の仕組みに慣れ、それを追い求めるような生き方をしているのであれば、人が苦悩するのは当然の結果であるのです。
世の中の目的と、人生の目的とを混同してはなりません。
世の中を動かしているのは人の心です。
人の心とは未熟であり、不足しているのが常です。
そのため、世の中が成熟することは簡単ではないのです。
世の中には恐怖と悪意が渦巻いているのです。
それは、人の心の投影なのです。
世俗には苦悩が溢れているということは、人の心を観察すれば容易に理解することができるのです。
未熟であり、不足を所有する人は利己的な思考に捉われ、利己的な生き方に固執(こしゅう)するようになります。
利己的な生き方に固執するような人が、誰かや何かのために自主的に貢献するということは有り得ません。
利己的な生き方に固執するような人の目的は、自己の利益に他ならないからです。
自己の利益のために働き、自己の利益のために生きるのです。
しかし、それでは世を照らすことはできません。
利己主義的な生き方であっては、自分自身を照らすことに精一杯です。
夜道において、自分自身を照らすのであれば、目の前の道がどのような様子なのかを理解するには至りません。
自分自身を照らすことによって光が視界に入り込み、眩しさのあまり足元すら確認することができないのです。
夜道を安全に歩むためには、自分自身ではなく、周囲を照らさなければならないということなのです。
世界は、他人との共存によって成り立ちます。
あなたは決して、人生を独りで歩んでいる訳ではありません。
どのような形にしろ、他人と共に歩んでいるのです。
そのため、自分自身を照らすだけであるのならば、共に歩む他人をも苦しめてしまうという結果を引き起こすことになるのです。
自分の周囲を照らすことは、他人の足元を照らすことです。
足元を照らされた相手は、あなたに感謝するでしょう。
感謝した相手は、自らの所有する光によってあなたの足元を照らし返すのです。
そうやって世界は光に満ち、暗闇を恐れる必要もなくなるのです。
利己主義的な生き方によって自分自身を照らすのであれば、世界には闇が溢れます。
世の中に苦悩が溢れているのは、光の届いていない暗闇があるからなのです。
暗闇に落ち込む時、人は恐怖に支配されます。
恐怖は苦悩を導きます。
苦悩の原因は恐怖にあるということを理解するのであれば、それに捉われないことは決して難しいことではないのです。
あなたは自分が何をするべきであるのか?ということを理解しましたか?
この世を照らさなければなりません。
どうやって照らすのでしょう?
それは、喜びによって照らすのです。
喜び、楽しみ、慈しみ、寛容(かんよう)、許し、安心、希望、協力、愛情・・・
このような建設的な感情や生き方によってのみ光は導かれ、世は照らされるのです。
あなたは自分の態度がどのようなものであるのか?ということを観察しましょう。
そして、それが少しでも世を照らす態度であるように努めなければならないのです。
自分勝手に生きても、楽しいことはありません。
利己主義的な生き方は虚しいだけであるということに、あなたが一刻も早く気が付くことを願っています。
虚しい固執を手放しましょう。

2015年3月28日土曜日

真実の道

一時的なものを求めるのは、真実の道ではありません。
一時的なものとは、不安定なものであるのです。
それは、いつかは失います。
どのように懸命に求めたとしても、やがて失うものに価値を見出したところで、それが最高の結果をもたらすということはないのです。
人が求めるべきは、普遍的な価値であるということを理解しなければならないでしょう。
普遍的な価値を求めることが、あなたを真実へと導くことになるのです。
普遍的な価値こそが、あなたに真実の幸福と豊かさを与えるということを覚えておかなければなりません。
しかし、多くの人は普遍的なものを知りません。
一時的なものを求め、不安定な幸福と豊かさを楽しんでいるのです。
しかし、一時的、不安定な価値をどれだけ大切に守っても、それ等は一時的であり、不安定なものに過ぎません。
いつかは必ず失うものであるのです。
その時になって絶望したり、後悔したとしても取り返しがつかないということを理解しなければならないのです。
そうならないためには、一時的であり、不安定な価値を求めることをやめ、普遍的な価値を求めて真実の道を探すことに集中しなければならないのです。
人生は瞬(またた)く間に過ぎ去ります。
気が付いた時には、あなたは遠くへ来ているのです。
五十年という時間が短いということを覚えていなければなりません。
一時的であり、不安定な価値を求めることに五十年という歳月を費やしてはなりません。
多くの人は財産に価値を求めています。
多くの財産を所有することによって幸福と豊かさを実現しようとするのです。
しかし、財産ほど不安定なものはありません。
あなたがどれほどの財産を所有していたとしても、それは一瞬で奪われるからです。
多くの人は家族や友人などの人間関係によって幸福と豊かさを実現しようとします。
しかし、人間関係ほど不安定なものはありません。
あなたがどれほど他人を思っても、その関係は一瞬で崩れ去るのです。
多くの人は外見の美しさによって幸福と豊かさを実現しようとします。
しかし、外見ほど不安定なものはありません。
あなたがどれほど外見を気にしても、それは確実に老いを受け入れるのです。
多くの人は性的な快楽に幸福と豊かさを実現しようとします。
しかし、性的な快楽ほど不安定なものはありません。
歳を経れば誰だって、性的な渇望(かつぼう)を失います。
そして、老体を性的快楽の対象として求める人はいません。
そのため、性的な快楽を求めていても、それは確実に遠ざかるものであるのです。
多くの人は健康によって幸福と豊かさを実現しようとします。
しかし、健康ほど不安定なものはありません。
健康に気を付けることは大切なことですが、どれだけ気を付けていたとしても、次の瞬間には病気によって苦しむことになります。
多くの人は生きることによって幸福と豊かさを実現しようとします。
しかし、生きることほど不安定なものはありません。
人は必ず死にます。
いつ死を迎えるのか?誰にも分かりません。
そして、目的もなく、ただ生きるだけであるのならば、どうして幸福や豊かさが得られるのでしょうか?
ただ生きることは、真実の道とは言えないのです。
大切なのは、普遍的な価値を見出すことです。
いつどうなるか分からないものに価値を求めるのは真実ではないのです。
では、普遍的なものとはなんでしょうか?
それは、いつの時代、どこの場所でも変わることのない価値です。
愛とは普遍です。
努力とは普遍です。
自己の探求とは普遍です。
”神”への信仰(宗教ではない)とは普遍です。
心の平和とは普遍です。
感謝することは普遍です。
喜びとは普遍です。
人助けとは普遍です。
いつの時代、どこの場所によっても通用する価値こそが、普遍の価値であるのです。
普遍の価値を求める道こそが、真実の道であるのです。
あなたはこれを行きましょう。
愛を以て努力し、自己への探求と”神”への信仰を忘れることなく、心の平和によって感謝と喜びを実現し、人助けをして生きるのです。
これが、真実の道です。

2015年3月27日金曜日

高度な精神世界

あなたは人生を大切にしなければなりません。
人生を大切にするというのは、その目的を理解し、目的の実現のために懸命に生きるということです。
人は懸命に生きなければならないのです。
しかし、多くの人は人生を大切にしているとは言えません。
その目的を理解することもなく、それを実現しようとすることもありません。
目的を理解することができないのだから、それを実現しようとすることはできません。
人生を懸命に生きるためには、その目的を理解する必要があるということなのです。
目的を理解することがなければ、人生を大切にするということは叶わないのです。
あなたは、自分自身の人生の目的を知っていますか?
ただし、人生の目的は人それぞれに違います。
それは魂の段階というものが人それぞれに違うからです。
そのため、人生の目的は自分だけのものであり、他人に求めたところで理解する術はありません。
人生の目的は、自分自身で見付け出さなければならないのです。
人生の目的を見出すことは簡単なことではありません。
なぜなら、目の前に広がる現状があなたを追い立てるからです。
人は生きる(仕事や生活)のに精一杯であり、人生の目的という大切なものを追求することが難しいのです。
生きるのに精一杯であるというのは、多忙であるということを指しますが、それ等に捉われているということも指すのです。
どのような生活をしている人にも、自分の時間というものは与えられています。
自分の自由にすることのできる時間が全くないという人はいません。
長短はあれど、誰もが自分の時間を持つのです。
しかし、生きること(仕事や生活)に捉われ、人生の目的というものを気にかけないのであれば、どれだけ時間を消費してもそれを見出すことはできないのです。
人生の目的を知らずに年老いてしまえば、苦悩と後悔に襲われるでしょう。
気が付いた時にはもう遅いのです。
そのように生きた人の時間は不足しているし、精神や肉体は衰えているのです。
人生の目的を探すことをしなかった者は、苦悩と後悔の中に死を迎える以外に方法はないのです。
一刻も早く気が付く必要があるのです。
仕事や生活などの”飾り”に精一杯になってはなりません。
人生とは、物質的な場所ではないのです。
それは、高度な精神世界であるということを理解する必要があるのです。
すべてが”魂”の結果であるのです。
心も感情も思考も、すべてが”魂”によって導かれます。
その心や感情や思考が行動を導き、状況や環境へと発展するのです。
物質的な動きとは、行動の次の段階であるのです。
それは、あまりにも浅はかであるということが言えるでしょう。
しかし、多くの人は物質的な観点によって人生を捉えます。
そのために、物質的な利益や快楽についてのみ懸命に働き、時間を無駄にするのです。
どれだけの財産を築こうとも、それによって人が救われるでしょうか?
抱え切れないほどの財産を所有していようとも、苦悩と後悔からは逃れられないのです。
財産によって、幸福が手に入るでしょうか?
財産によって、人生を満足することができるでしょうか?
多くの人は財産を築くために生きています。
財産を築くという物質的な目的に対して時間を費やすのです。
有り余るほどの富を抱えて、何になるのでしょうか?
贅沢や財産によって確保することができる安心(回避することのできる苦しみ)を楽しんだところで、何になるのでしょう?
財産は簡単に喪失(そうしつ)してしまいます。
それは、他人によって簡単に奪うことができるのです。
他人に影響を受けるものが人生の目的なのでしょうか?
人生の目的はそれぞれに違い、人生の目的は自分だけのものであるのです。
流転する財産が目的であるというのには無理があるのです。
明日になれば、あなたの財産は誰かのものになる可能性があるのです。
人生はあなたのものです。
誰にも奪うことのできないものが目的なのです。
あなたは人生を大切に生きていますか?
人生の目的を理解し、それを実現するために生きていますか?
物質的な利益や快楽に溺れて時間を無駄にすることなく、懸命に生きていきましょう。

2015年3月26日木曜日

想念の比重

重たいものほど、強く引かれます。
その質量が大きいほどに、引力が増すのです。
質量の大きな物体と、質量の小さな物体を同時に落とせば、質量の大きな物体の方が早く地面に到達するでしょう。
それは、質量が大きいために強く引かれたのです。
すべての人は心を所有しています。
心の中には思考や感情という想念が存在しています。
人は、何かに対して必ず想念を抱きます。
そして、その想念が引かれるのです。
想念が大きければ、それは結果に対して強く引かれます。
誰もが強く思い描くことに対して、素早く行動を起こした経験があるでしょう。
しかし、やる気の起きないことに対しては、行動もままならないという経験もあるのです。
強く思い描くことによっては、人は強く引かれるために、行動を起こさずにはいられないのです。
人が行動するのは、それに対する想念が強いということを理解する必要があるのです。
想念の強弱によって、行動に対する選択が変わるのです。
想念の強いものに対して、人は意識的、無意識的にかかわらず行動するということを覚えておかなければならないでしょう。
大切なのは、自分自身の想念の状態をコントロールするということです。
何に対して強く想念を抱いているのか?ということに注意する必要があるのです。
そうでなければ、理想に対しての行動が伴わず、理想に反する行動によって苦悩するという結果を得ることになるでしょう。
あなたは、自らの心を見つめなければなりません。
自らの心を蔑(ないがし)ろにしてはなりません。
多くの人は自らの心の状態を理解してはいません。
一番近くにあるもののことを理解してはいないのです。
そのため、理想に反する結果を受け取ることになるということを知る必要があるのです。
多くの人は理想的な結果を受け取ることができてはいません。
苦悩に満ちた人生を生きているのがその証拠です。
多くの人は苦悩につきまつわられるのです。
それは、想念の比重に対して無頓着であるからなのです。
あなたは、自分自身の想念がどのような思考や感情に対して重きを置いているのかを知っていますか?
例えば、あなたが怒りに対して強い想念を抱いているのであれば、怒りという想念に対する質量が増します。
質量が大きければ、加速度は増します。
怒りの感情によっては、争いに引き寄せられるのです。
怒りの感情が強いほどに、争いは激しいものとなるのです。
引き寄せられないためには、質量を小さくする以外に方法はありません。
争い(に引き寄せられない)を生み出さないためには、怒りの感情を小さくする以外に方法はありません。
怒りの感情を小さくするためには、その対象を許すことや認めること、思いやることや尊重することなどの建設的な選択が必要です。
怒りとは違う感情に対して集中しない限りは、質量が小さくなることは有り得ません。
思えば思うほど、想念の質量は大きくなる一方なのです。
地球において、重力に逆らうことのできる物体は存在しません。
すべての物体が地に引かれます。
質量が大きな物体ほど強く引かれるために、その重量が大きいのです。
喜びに対して想念を向ければ、建設的な想念の質量は大きなものとなります。
建設的な想念が大きければ、幸福や豊かさという状況に引き寄せられるのです。
人が幸福や豊かさを求めているのであれば、喜びに対して想念を集中させる必要があるのです。
喜ばない者には幸福や豊かさはありません。
苦悩している者が、どうやって幸福や豊かさを手に入れると言うのでしょうか?
苦悩を苦悩とするのであれば、不幸や乏しさに対して引き寄せられるのです。
人は、自らの意思によって体重を増減させることができます。
体重が増せば身体は重たく、それによって様々な弊害(へいがい)が生じます。
体重が減れば身体は軽く、それによって様々な利点が生じるのです。
身体は肥えて重い状態よりも、痩せて軽い状態の方が幸福であるのです。
どちらの状態に利点が生じるか?ということを考える必要があるのです。
どのような想念に対して重きを置くのか?ということです。
この世界には逆らうことのできない大きな力というものが存在しています。
破滅的な想念に重きを置くことによっては、幸福や豊かさを手に入れることはできないのです。
あなたは、自らがどのような想念に対して重きを置いているのか?ということを観察しましょう。

2015年3月25日水曜日

役割を持つ者

この世界に存在を許されているものすべてには、大切な役割が与えられています。
すべての存在が何等かの役割を果たすために働いているのです。
それが、小さな命であっても、一粒の小石であってもです。
すべての存在がこの世界のために働いているということを理解しなければなりません。
すべての存在が、意識的、無意識的に世界に対して貢献しようと努めています。
あなたにどのように映ろうとも、すべての存在が世界に貢献しようとし、それぞれの形で貢献しているのです。
多くの人は自らの信じる正義に従って世界を決め付けます。
そのために、善悪の判断によって、すべての存在が持つそれぞれの役割を見失っているのです。
正義感の強い者、傲慢な者、偏見によって生きる者は、自分自身の役割(目的)を追い求めることには懸命です。
しかし、他人や他の存在の役割を考慮することはないのです。
そのため、自分自身の役割を果たそうとする気持ちが先行して自分勝手になり、思いやりを見失ってしまうのです。
思いやりを見失った結果、不満や争いを生み出し、孤立と分裂を引き起こすのです。
自らがこの世界に存在を許されているということを知らない者もいます。
自分自身に与えられた大切な役割というものがあることすら知らずに生きている者は、この世界には数多くいるのです。
多くの人が自らの役割を知りません。
そのために、無関心や無気力を引き起こし、自己憐憫(じこれんびん)や自己批判の状態に陥るのです。
あなたは、自分自身が何等かの大切な役割を与えられているということを知りましょう。
あなたがどのような人物であろうとも、あなたには必要性があるのです。
必要であるために、この世界に存在することを許されているのです。
この世界に必要でなければ、存在を許されないのです。
この世界に存在することができるのは、役割を持つ者だけであるということを覚えておかなければならないのです。
あなたが生きているのであれば、何も心配する必要はありません。
あなたがどのような人物であり、どのような状態であろうとも、必要性があるために存在しています。
あなたや周囲の人には理解することのできない大切な役割が与えられているのです。
そのため、自分自身の必要性が見出せないからといって、自暴自棄(じぼうじき)に陥る必要はないのです。
人はただ懸命に生きれば良いのです。
難しく考える必要はありません。
世界に対する役割を理解することは簡単なことではありません。
なぜなら、世界に対する自分自身の役割を理解するためには、自分自身が何者であるのか?ということを知る必要があるからです。
機械には様々な形の部品が使われています。
機械が正しく機能するためには、様々な形の部品が正しく働かなければなりません。
何か一つでも足りなければ、機械が正しく機能することはないのです。
そのため、どのような部品であっても、蔑(ないがし)ろにしてはならないのです。
部品がどのような形と性能を持っているのか?ということを知らなければ、その役割を理解することはできません。
あなたはこの世界に対して必要ですが、それがどのような形で必要であるのか?ということを知るためには、自分自身が何者であるのか?を知る必要があるということなのです。
あなたは自分自身が何者であるのか?ということを知っていますか?
これを知ることは簡単なことではないのです。
そのため、多くの人が自分自身の役割を知りません。
役割があることすら知らないでいるのが現状なのです。
あなたにはどのような役割があると思いますか?
あなたはそれを追求し続けなければなりません。
一生を掛けて、あなたは自分がどのような形によって、世界に貢献することができるのかを考えましょう。
そして、他人や他の存在がどのような形によって、世界に貢献することができるのかも考えるのです。
すべての存在には、大切な役割があります。
役割を持たないものは存在することができません。
あなたが忌(い)み嫌う対象であろうとも、そこには大切な役割が存在するのです。
そのことを忘れてはなりません。
自分を含め、すべての存在は世界に対して必要な役割を持っています。
そのことを理解することができなければ、あなたは苦悩することになるでしょう。
自分自身の価値や、他人との関係に対して苦しむのです。
すべてに必要な役割が与えられているということを知れば、苦悩は解決するのです。
他人との関係に悩む必要もなければ、自分自身の存在に苦しむこともないのです。
すべてが必要によって満たされます。
不要なものは存在しません。
それがどのようなものであろうとも、必要であるために存在しているということを知りましょう。
善悪によって判断することができるほど、この世界は簡単なものではありません。
存在するすべてに、大切な役割が与えられているということを忘れてはなりません。
感謝して生きていきましょう。

2015年3月24日火曜日

全体的な視点

”それ”が何であるのか?という問いの答えが必要です。
あなたには、目の前の”それ”が何であるのか?
どのような意味を持つのか?
何を示唆(しさ)しているのか?
どのような効果を生み出すのか?
”それ”の正体を、できる限り正確に捉える必要があるのです。
この世界に存在するすべての事象には、必ず目的があります。
すべての事象が何等かの意図を以て働いているのです。
この世界において、秩序(ちつじょ)を乱すものは存在しません。
秩序を乱しているように思うものがあるだけであり、それは個人的、人間的な思い込みに過ぎないのです。
あなたにとっての”悪”が、他人や世界にとっての悪であるとは言えないのです。
多くの人が思い込みによって世界を捉えます。
正しい世界ではなく、思い込みの世界を生きているのです。
その思い込みが目の前の”それ”の正体を歪めているのです。
対象を正しく認識する場合には、私情を持ち込むことはできません。
正義(利己的な都合)を振りかざしたところで、”それ”を正しく認識することはできません。
私情を離れた場所でなければ、正しい認識は導かれないのです。
あなたは、私情によって自らの状態を乱してはなりません。
あなた自身が乱れるなら、それに関連して目の前の”それ”も乱れるからです。
水の揺らぎの中では、何を見ても揺らいで見えるのと同じなのです。
乱れた者が捉える世界は、そのすべてが乱れているということを理解する必要があるでしょう。
しかし、多くの人は既に世界が乱れているということに気が付きません。
それは、全体が歪んでいるために、それが普通であると思い込んでいるためです。
正しい姿とは、個人的、人間的な視点から見出せるものではありません。
それは、個人的、人間的な視点を扱う自己という状態が既に未熟であり、不足しているからです。
未熟であり、不足しているのであれば、何を見たとしても、それの全体を把握することにはならないのです。
未熟さと不足の中で捉える対象は、自己のその状態が故に全体の一部を捉えるに過ぎないのです。
大切なのは、歪みなく見るということです。
あなたはできる限り全体的な視点から”それ”を捉える必要があります。
全体的な視点を手にいれるためには、私情にこだわっていてはなりません。
個人的、人間的な視点である、傲慢(ごうまん)さから離れるのです。
自分勝手な状態を保持していてはならないということなのです。
他人は、あなたとは別の視点を持っています。
他人にとっての”それ”は、あなたにとっての”それ”とは違う意味と姿を持っているのです。
あなたはその違いに気が付かなければならないのです。
すべての人の持つ視点を総合したものが全体的な視点です。
あなたはできる限りその状態に近付かなければならないのです。
自分勝手に生きていてはなりません。
他人を受け入れる寛大な自己を育みましょう。
そうでなければ、必ず歪みます。
そうなれば、”それ”が何であるのか?という問いの答えの精度を欠くことになるでしょう。
”それ”が何であるのか?ということが分からなければ、目の前の事象は問題を引き起こすようになります。
引き起こされた問題によって混乱する自己は、苦悩の波間に沈むのです。
人生に苦悩を引きずるのであれば、何のために生きているのか?という最大の疑問に答えを導くことができません。
何のために生きているのか?という理由が分からなければ、何が幸福であるのか?ということも分からないでしょう。
人は何のために生きているのでしょうか?
苦悩するためでしょうか?
その答えを知るためには、目の前の”それ”の意味を正しく理解する必要があるのです。
目の前の小さな事柄に関する意味も分からない者には、人生の意味という大きな意味を理解することなどできるはずがないのです。
全体的な視点というものを意識していなければなりません。
視点を手前に落としてはなりません。
多くの人が小さな視点の中に生きているために、問題を引き起こして苦悩するのです。
目線を上げて、遠くと近くを同時に視認する必要があるでしょう。
バランスが大切なのです。
他人と比較することによって、あなたは自分というものを認識します。
自分勝手に生きていては、自分のことすらままならないということなのです。
”それ”を正しく認識するためには、個人的、人間的な視点である傲慢さから離れなければならないということを覚えておきましょう。
人は謙虚に受けることです。

2015年3月23日月曜日

世界を受け入れる

すべての必要が満たされます。
この世界は必要によって満たされているのです。
それは、必要によって満たされることが必要であるからです。
どのような状況も、すべてが必要として存在しています。
必要であるために、その存在が実現することを許されているのです。
あなたはそのことを理解しなければなりません。
すべてが必要であるという”真理”を理解しなければ、無知の代償として苦悩を受けることになるでしょう。
世界は成長のために存在しています。
世界は成長のため”だけ”に存在しているのです。
それ以外の目的を以て存在を許されるものはありません。
あなたがどのように考えようとも、すべてが必要であるという真実を覆すことはできないのです。
あなたには、何が正しくて、何が正しくないのか?という判断ができますか?
すべてが正しいということを理解している人物がどれほど生きているでしょうか?
人生に対して苦悩を抱えている人は、世界を正しく見ることができてはいません。
正しく見ることができていないがために、苦悩という状態を受け取るのです。
すべてが成長のためだけに存在しているという真理を理解する人が、苦悩を得ることは有り得ないのです。
それは、その理解を使って、すべての状況を成長へと変換することができるためです。
すべての状況を成長へと変換することができる人が、どうして苦悩を得るのでしょう?
そのような矛盾は起こり得ないのです。
すべてが正しく、すべてが必要です。
未熟であり、無知な者には理解することができません。
そして、善悪を分けて争うのです。
しかし、それは仕方のないことです。
その未熟さと無知を解決するために、この世界で学んでいるのです。
あなたが成長、そして、人生の幸福を求めているのであれば、学びを取り除くことをやめなければなりません。
多くの人は学びを取り除こうと努めます。
苦しいこと、嫌なこと、不利なことなど、自分自身がネガティブに受け取る印象に対して、それを否定したり、そこから逃亡を計るのです。
どうにかして、その苦しみを受け取らないように努めるのです。
しかし、それでは目的である成長を実現することはできません。
目的である成長が実現されなければ、同じ学び(状況)を再度受け取らなければならないのです。
人生の目的が成長にあるため、この学びから逃れる術は無いのです。
人は目の前の状況を受け入れなければなりません。
何を得て、何を失おうとも、それが必要であるのです。
この世界の判断を歪めてはならないのです。
謙虚に生きることです。
柔軟に受け取ることです。
楽しく在ることです。
苦しいからといって、その学びを取り除いてはなりません。
すべては必要であるのです。
そのことを理解し、すべてを受け入れてみましょう。
すると、心の中には平穏が生じることに気が付くはずです。
その平穏の中に生きれば、目の前の状況がどのようなものであろうとも、それが幸福であるということに気付くことができるでしょう。
目の前の幸福を、未熟さと無知によって苦しみに変換してはならないのです。
すべてが必要です。
そこには感謝して然(しか)るべきなのです。
一つ一つの状況に感謝する必要があります。
例え、それがどのような学びであろうとも、学びはすべて大切なものに違いがないのです。
大切なものを蔑(ないがし)ろにしてはならないのです。
あなたが受け取るものは、そのすべてが最善です。
しかし、多くの人はそのことを信じることができません。
それは、この世界に”真理”が働いているということを知らないからです。
すべては目的を以て進んでいます。
どのようなレベルの事象であっても、それは明確な目的のために遂行されるのです。
あなたの受け取る状況がどのようなものであれ、あなたの成長のために遂行されている大切な学びであることを理解しましょう。
世界を受け入れましょう。

2015年3月22日日曜日

観察

あなたは誰ですか?
あなたは何者なのでしょう?
多くの人は自分自身という存在に対して、深い関心を持ちません。
そのために、自分自身というものが何であるのか?ということを知りません。
自分自身に対して深い関心がないために、自分自身に対して無知が生じるのです。
この人生を生きているのは誰ですか?
誰が人生を築いているのですか?
あなたには答えることができますか?
あなたは、自分が誰であり、何者であるのか?ということを深く追求しましょう。
多くの人は自分自身を肉体であると考えています。
例えば、自分自身の顔の作りを見て、それが自分自身であると考えるのです。
しかし、誰にも自分自身の顔の作りを見ることはできません。
鏡などに反射した像によって、自分自身の顔の作りを認識することはできます。
しかし、それは、自分自身で確認した訳ではありません。
反射した像が本当に自分自身の姿なのでしょうか?
鏡を通して見る自分と、写真を通して見る自分とは違う印象を受けるでしょう。
これは、自分の耳を通じて聞く声と、録音機材を通して聞く声に違いがあるのと同じです。
自分自身だと思っているものを、直接的に確認することは誰にもできないことなのです。
鏡が本当にあなたを映していると思いますか?
写真が写しているのがあなたなのでしょうか?
この違いを埋めることができなければ、顔の作り一つにしても、どちらが自分自身の本当の姿であるのかを理解することはできないのです。
誰にとっても、自分自身を認識することはできません。
自分自身というものは客観的に観察することができないということなのです。
観察することができるということは、それは自分自身から離れているということを知りましょう。
自分自身ではないために、観察することができるのです。
あなたは肉体ですか?
肉体はあなたの意思の外で動いています。
自律神経を自在に操作することはできません。
それに、肉体を観察することはできます。
そのため、肉体は自分自身ではありません。
思考はどうでしょうか?
自分が何を考えているのか?
思考の傾向がどのようなものであるのか?
あなたにはこれを観察することができます。
そのため、思考は自分自身ではありません。
心はどうでしょうか?
心も思考と同様に感情によって観察することができます。
そのため、心も自分自身ではないと言えるでしょう。
肉体と思考、そして心より先を観察することはできません。
人の本質は、肉体と思考と心が取り除かれても残るものであるということが言えるでしょう。
多くの人はそれ以外には何も無いと言うかも知れません。
それでは、霊の存在や生まれ変わりの記憶の証明にはならないのです。
霊を目撃する人や、生まれ変わりの記憶を持つ者がいます。
彼等は総じて”頭がおかしい”のでしょうか?
その考えは現実的ではありません。
それは、人には認識することができない所有物があるということを証明しているのです。
魂というものを認識することができる者はいません。
しかし、魂というものを信じることができる者はいます。
自分の顔の作りを確認することはできませんが、それが存在していることは誰であっても信じることができるのです。
しかし、魂を観察することはできません。
なぜなら、それが人の本質であるからです。
誰にも本当の自分という存在を観察することはできないのです。
肉体や思考や心を観察することができるのは、それ等が魂の結果(表現)であるからです。
自分が何者であるのか?ということに、深い関心を持ちましょう。
そうすれば、この世界は生き易い場所となるでしょう。

2015年3月21日土曜日

真の財産

人にとっての真の財産とは何でしょうか?
あなたは何に対して価値を覚えますか?
多くの人は自分自身(健康な生活や自由な時間や夢などの目的)であると答えるでしょう。
そして、次点においては家族や恋人などの他人と答えるでしょう。
そして、その次にはお金や仕事などと答えるのです。
その順番がそれぞれに入れ替わることもあります。
しかし、大抵の人はこれ等に対する価値を見出すはずなのです。
あなたにとって価値のあるものとは何ですか?
これ以外には、宗教や思想、民族や国、正義や志などと答えるかも知れません。
人にはそれぞれに何かしらの価値があり、何かしらの財産があるのです。
多くの人は、それが外に存在していると考えます。
それは、普段から外ばかりに注目して生きているためです。
物事の外見には認識が及びますが、その内面に対しては、認識が及ばないのが現状なのです。
あなたは、自らが求める価値について、それがどのような状態であることを求めているのか?ということを考える必要があるでしょう。
外見が良ければ良いという考えであっては、それを手に入れたとしても、後に見込み違いであるということに苦悩することもあるのです。
ただ、自分自身が満たされていれば幸福なのでしょうか?
あなたの傍(かたわら)には、苦しんでいる人がいるかも知れません。
ただ、家族や恋人がいれば良いでしょうか?
その人たちはあなたのことを嫌っているかも知れません。
ただ、お金や仕事があれば良いでしょうか?
それは、社会や誰かを犠牲にして得たお金や仕事であるかも知れません。
宗教や思想、民族や国、正義や志が破滅的な性質を持っていたとしても、それに価値を見出すことができるでしょうか?
大切なのは、それがただ存在する、ただ所有しているということではありません。
それが、貢献という形の性質を持っているか?ということが重要であるのです。
それが真の財産となるためには、あなたの求めている価値、所有している価値が、建設的な状態にあることが必要であるのです。
ただ求めても、ただ所有しても、それが破滅的な性質を所有しているのであれば、それを求め、所有していることによって苦悩を得るということになるのです。
そのため、外的要素にこだわるのは、見込み違いを生み出す原因となるということなのです。
内的要素にこだわることをしなければ、満足と幸福を得ることはできないのです。
この世界では”愛”によってのみ、幸福が実現します。
愛が不足している場所に幸福が実現することはありません。
どのように努めても、それが愛に乏しい行為であるのならば、苦悩を得ることになるのです。
自分自身の充実や、家族や恋人や、お金や仕事・・・
どのようなものを所有していたとしても、それが愛に乏しい状態であるのであれば、因果の仕組みによって苦悩が導かれるのです。
あなたは本当に価値のあるものが何であるのか?ということを理解することができましたか?
”愛”が不足しているのであれば、何を得ても価値がありません。
愛が不足しているものの外見がどれほど優れていたとしても、それがあなたの真の財産となることはありません。
どれだけ気に入った外見の恋人に巡り合ったとしても、暴力を振るうような相手であっては幸福が実現することはないのです。
内的な性質がどのような状態にあるのか?ということが重要であるのです。
多くの人は外的に世界を捉えています。
そのために、自らの所有しているものが外的にどれだけ優れているのか?という取るに足らない価値を競っているのです。
精神的な成長によって、感性(価値観)というものは大きく変化します。
人が何を好むか?ということは、安定することがないのです。
十代の頃に好んでいたものを、二十代になってまで同じように好むでしょうか?
三十代、四十代と歳を重ねる時に、感性が同じであるということはないのです。
そのために、外的要素には一時的な価値しかないということが理解できるでしょう。
世界を表面的に捉えてはならないのです。
内的要素を大切にしなければ、真の価値と真の財産に気が付くことはできないのです。
外的要素に捉われる人は、どれだけの欲望を生み出しても満たされることはないのです。
あなたにとっての真の財産とは何ですか?
物事には外的要素と内的要素が存在しているということを理解しましょう。
そして、本質は常に内に存在しているということです。
そこに愛があるのか?ということを確認する必要があるのです。
この世界に存在するものはすべてが大切なものです。
しかし、あなたに幸福を導くものは、愛が内蔵されていることが条件であるのです。
何に真の価値があるのかを考え続けましょう。

2015年3月20日金曜日

心を静めることが大切です。
人は心によって、この世界を生きています。
世界に対して、どのような認識を導くのかによって、どのような人生を得るのか?ということが決まります。
人は、人生を認識によって築いているのです。
世界に対して、それぞれが認識を以て接するために、人生はそれぞれに違うものとなるのです。
世界は一つですが、人生はそれぞれに異なった形を得るのです。
人生は心の現れです。
心の認識によって人生はどのような姿にも変化するのです。
人生とは、心による世界の認識に過ぎないのです。
そのため、人生というものは心の状態によって決まります。
多くの人は、人生が生まれ持った環境や状況や能力によって決まると考えています。
それは、自身が所有している心というものに対する無知によって引き起こされる、浅はかな結論であるのです。
心を知らずに生きている者には、人生というものが外的要因によって決められるという印象を得るのです。
しかし、この考えは正しくないと言わなければなりません。
それは、同じような環境や状況、能力を所有していようとも、人生には大きな違いが生じるからです。
能力というものは、個人の魂の力であるために、前世からの力の蓄積という特殊な性質を持ちます。
それを比べると正確な判断を下すのは難しいのですが、同時代に生きる個人の能力に関しては相違が大き過ぎるということは稀です。
大抵の人物の能力は似通っていると言えるでしょう。
環境や状況に対しては、例えば兄弟には大した違いはありません。
親から受ける愛情の違いを考慮しても、その他の人から受ける愛情というものによって相殺(そうさい)することが言えます。
愛情を受けずに生きる人は存在しません。
すべての人は、必要な量の愛情を受け取ることを約束されて生まれるのです。
このことを認識したり、信じることができないのは、心がそのように捉えるからに他ならないのです。
必要なものを受け取っているにもかかわらず、それを認識することができないのは、外的要因に原因があるのではなく、自分自身の心に原因があるということを認める必要があるということなのです。
世界は美しく存在しています。
それは、どのような時代においても、誰にとっても同じです。
様々な正義が存在し、様々な陰謀が暗躍していますが、それでも世界は美しいのです。
それを歪めたり汚すのは、自分自身の心の認識であるということを認める必要があるのです。
多くの人は心の重要性を理解しません。
人生を築いているのは、頭脳であったり、生きる為のテクニック(資産運用や渡世(とせい))であると本気で信じ込んでいるのです。
そして、お金や物品などの外的要因に価値観を集中し、心から遠ざかっているのです。
その結果として、心は衰退し、歪んだ認識によって人生に苦悩を引き込むのです。
現代に生きる人は、心について何も知りません。
物質主義によって支配され、心に内在する能力に気が付けないのです。
心が乱れるなら、人生が乱れます。
そこには、争いや苦悩が溢れるのです。
静かな水面に雫(しずく)が垂れれば、それは一つの波紋を生み出します。
波紋は滑らかに水面を走り、全体に広がるのです。
これは、静かな心が対象を正しく理解することや、世界への広がりを現しているのです。
雨によって激しく叩かれる水面に雫が垂れても、それがどこに落ちたのか、どのような波紋を生み出したのかを知ることはできません。
これは、乱れた心が対象を理解することができないことや、世界を閉ざしてしまうことを現しているのです。
雨の中の一雫を探し出せる人はいないのです。
その一雫を認識するためには、水面は静けさを保っていなければならないということなのです。
多くの人は心が乱れているために、目の前の現象についての考察が不十分です。
乱れた心では本質を理解することができないために、ネガティブな印象と歪んだ選択によって人生を築くことになります。
同じ現状を目撃しても、それに対する感想は千差万別です。
例えば、死に対して不吉さを覚える人もいれば、それを喜びと考える人もいるのです。
兄弟であっても、見解は違うものになるのです。
それを環境や状況や能力のせいにするのは無理があるのです。
安易な考えは責任を転嫁するのです。
あなたが心に向き合った時には、世界に対する自分自身の認識が人生を築いているということに気が付くでしょう。
そして、乱れた心であっては、世界を正しく認識することができないということにも気が付くはずなのです。
あなたは世界が美しいということを覚えておきましょう。
世界を認識した時に、ネガティブな印象に辿り着くのであれば、それは自身の心に歪みが生じているということに気が付きましょう。

2015年3月19日木曜日

高次の選択

相手の立場になって考えることは大切です。
あなたは、相手の立場になって、相手を考えなければなりません。
相手の立場になって考えることがなければ、相手を理解することはできません。
相手を理解することができなければ、相手を導くことはできないのです。
すべての人が、主観を中心とした見解を所有します。
すべての人は自己という主観を持っているために、それを通して世界を認識する必要があります。
自己を手放すことはできません。
すべての人が自己と共に在るのです。
しかし、多くの人は自己を自我という歪んだ状態に留めています。
それを克服するために生まれて来たのだから、それは仕方のないことです。
すべての人の自己は、自我という歪んだ状態にあるのです。
自我とは主観に頼った見解です。
その状態は、自分を中心とした観点のみを所有するのです。
多くの人は自分を中心として考えています。
例えば、誰かに相談を受けている時でさえ、自分を中心として考えているのです。
相談しているのは相手であるにもかかわらず、それを自分を中心とした考えから導き出す答えによって応えようとしているのです。
相手は自分に必要な解決策を欲しているにもかかわらず、返ってくる答えが的外れなものであれば、相談事が解決することはないのです。
それでは、互いに途方に暮れてしまうでしょう。
問題を解決するためには、先ずは相手の立場になることが求められるのです。
自我という状態に留まる者には、問題を解決することができません。
それは、相手の求める答えを与えることができないからです。
大切なのは相手の立場になって考えることです。
あなたは、どのような時にも、相手の立場になって考えるようにしなければなりません。
人それぞれに魂の水準は違います。
それに付随して、受け取る状況にも違いがあるのです。
そのために、認識はそれぞれの所有物であり、それに違いが生じるのは自然なことなのです。
それぞれが違う認識によって、違う世界を築くのです。
同じ対象を見ても、そこから生み出される感想は違うものになるでしょう。
花に魅力を感じる者がいる一方で、興味のない者もいます。
それは、認識というものが、それぞれに違いを所有するということを意味しているのです。
そのため、花に興味のある者が、自らの主観を通してその魅力を懸命に伝えたところで、花に興味の無い者にはその熱意は全く伝わらないのです。
花に興味の無い者に対して、その魅力を伝えるためには、花に対して興味の無い者の立場になって考え、その立場の者が興味を抱くように伝える必要があるのです。
自らが譲歩しなければ、伝わるものも伝わらないのです。
人間関係に対する問題は、認識の相違に他なりません。
人が互いに争うのは、互いを尊重しないからです。
争いは自我によって引き起こされます。
人が主観を離れない限りは、争いは続くのです。
相手の立場になって考えることと、争いによって問題を抱えることと、どちらが大切だと思いますか?
どちらが、あなたの求めている結果を導くことができるでしょうか?
自我という小さな見解が、そんなに重要でしょうか?
それは、争ってまで守らなければならないものなのでしょうか?
深く考える必要があります。
しかし、多くの人は考えていません。
その頭脳は考えることを放棄しているのです。
そのために、争いという低次の選択に行き着くのです。
幼い子どもは、気に入らないことがあると腹を立てます。
そして、周囲の人や物に対して憤(いきどお)りをぶつけるのです。
成熟した大人がそのように振る舞うことはありません。
物事を穏便に進めようと努めるのです。
そこには努力が必要であるために、このような方法を用いるのは高次の選択であるということができるでしょう。
あなたは相手の立場になって考えたことがありますか?
これは、相手の過ちを指摘するなと言っているのではありません。
相手の過ちを、相手の立場になって考え、指摘する必要があるということなのです。
自分の立場を理解してもらった上で受け取る言葉を嫌う人はいません。
それは、そこに”愛”を感じるからなのです。
自己満足の言葉を吐き捨てていてはならないのです。
相手の立場になって考えることが大切です。
どのような時にも、相手の立場を忘れないように心がけましょう。

2015年3月18日水曜日

自己満足の世界

人生の目的は成長です。
すべての存在は、それぞれの立場によって成長を目的としています。
成長とは、すべての存在の義務であるのです。
そのことを理解する必要があります。
今は理解することができなくても、いずれはそのことに気が付かなければならないのです。
人生の目的は成長であるということを心に留めておきましょう。
人が成長を果たすためには、”道”を行く必要があります。
”道”とは、人生であり、仕事であり、生活であり、時間であり、志であり、信念であり、興味であり、追求です。
すべての人が”道”を進んでいるのです。
しかし、多くの人がそれを意識してはいません。
そのため、”道”と聞いても、それをイメージすることは難しいでしょう。
人には何等かの目的があります。
それは、たわい無い目的かも知れません。
しかし、すべての人には目的があり、それに従って行動しているのです。
すべての人が自分自身の立場によって、様々なことを学んでいるのです。
どのような人の人生にも学びが存在しているのです。
その学びを得ることによって、成長を実現しようとしているのです。
人間がどのように考えようとも、人生の目的は成長にあるのです。
これを否定することはできません。
それは、成長を理由としなければ、真の喜びを得ることはできないからです。
欲望を満たすことによって得られる肉体的な快楽は、一時のものに過ぎません。
そのため、どれだけの物を所有し、どれだけの欲望を満たそうとも、それが足りることはないのです。
しばらくすると、また乾くのです。
そして、欲望を求める気持ちが人を追い立てるのです。
何度手にしても満たされないものは幸福ではないのです。
麻薬には中毒性があり、何度も何度も欲します。
その時には満たされた気持ちになったとしても、しばらくすれば、また満たされない気持ちになるのです。
これが、正しい方法でないことが理解できたでしょう。
人は”道”を歩みます。
歩むということは、達成する必要があるということです。
何かを作り始めれば、それを完成する必要があります。
それが責任です。
”道”を行けば、それを達成する必要があるのです。
”道”を達成するためには、その”道”のすべてを理解する必要があります。
明るい色ばかりを好み、暗い色を蔑(ないがし)ろにしているのであれば、素晴らしい絵画を完成させることはできないのです。
素晴らしい絵画を完成させるためには、すべての色を理解し、それを適切に用いる必要があるのです。
”道”を行けば、様々な経験を得ます。
それは、楽しみや喜びであったり、悲しみや苦しみであったりするのです。
多くの人は”道”の達成に関心を抱きません。
多くの人は自分が”道”を歩んでいることすら知らないでいるのです。
そのために、自分にとって”良いところ”は受け入れ、”悪いところ”は拒絶します。
それは、絵画を描くために、自分の好きな色しか用いないことと同じです。
世界は無限の色で溢れています。
自分の好きな色だけで表現することができるほど、世界は詰まらいものではないのです。
偏見を所有する人には魅力がありません。
それは、無知と愚かさは所有しているけれど、知恵と可能性を所有してはいないからです。
自己満足を押し付けられて、それを幸福と思う人はいないのです。
自己満足の世界に生きたところで、幸福を得ることはできないのです。
人生には苦しい状況というものが訪れます。
しかし、あなたはそれを拒絶して、自己満足の世界に引き籠(こも)ってはなりません。
学ぶ必要があるために、それは目の前に出現するのです。
その学びを得なければ成長することができないのです。
それは、自分自身の未熟さの現れなのです。
しかし、多くの人はそのことを理解することができないために、苦悩によって返事をするのです。
学びに対して拒絶や苦悩を選択するのであれば、成長が実現しないことは当然なのです。
それでは、”道”の達成を得ることはできません。
もちろん、人生の幸福も実現することはないのです。
自己満足の世界に生きてはなりません。
謙虚に学びましょう。

2015年3月17日火曜日

一生の仕事

あなたは自己と離れ離れに生活してはなりません。
あなたは、自己という大切な配偶者を突き放してはならないのです。
どのような時にも自己を見詰めて
いなければなりません。
自己を放棄してはならないのです。
自己と協力し、人生を豊かなものとして築かなければならないのです。
人生には様々な問題が生じます。
それは、人が無知であり、未熟であるためです。
無知や未熟を克服するために、因果の仕組みによって問題が生じるのです。
すべての問題は自分自身の責任によって生じるのです。
しかし、多くの人はそのことを理解することができません。
それは、問題の本質を理解することができないからです。
多くの人は、問題が自分自身から生じるということを理解することができません。
問題は、相対する誰かや何かによって生じると、本気で信じ込んでいるのです。
原因は他人や何かにあると自分自身を正当化することによって、責任を転嫁し、自らに受ける苦しみを和らげようとしているのです。
多くの人が認めたくないのです。
多くの人が自分自身を美化しているために、無知と未熟は克服されることなく、更なる問題の原因として存在し続けるのです。
多くの人が自分自身を正当化するのには理由があります。
それは、自分自身の現状に対する理解が及んでいないということにあるのです。
多くの人が、自分自身の現状を正しく認識することができていません。
多くの人が自分自身を正確な姿よりも優れたものだと考えているのです。
しかし、本当にそうでしょうか?
多くの人が人生に何等かの問題を抱え、それによって苦悩しています。
優れている者が苦悩に達するでしょうか?
優れているのであれば、問題を学びに変え、喜びを得ることになると理解することができるのです。
問題に苦悩しているのであれば、その対応が愚かなものであるということを認めなければならないのです。
問題に対する対応が愚かなものになるのにも理由があるのです。
それは、先述した理由と同じく、自己を正しく認識していないという理由があるのです。
カメラの焦点が合っていなければ、対象を正しく写すことはできません。
対象は正しくそこに存在しているのに、それを写すことができないのはカメラに問題があるのです。
人生におけるすべての状況は、人が成長するための学びです。
人は自己というレンズを通して状況と向き合います。
自己が正しく認識されていなければ、状況を正しく認識することはできません。
その結果として誤解が生じ、間違った見解によって苦悩を導くことになるのです。
人が人生に苦悩するのは簡単な仕組みであるのです。
自己に対する認識が間違っているという理由だけなのです。
自己に対する認識が正しければ、どのような状況も問題となることはなく、それに苦悩する必要もないということを理解しましょう。
あなたは自己と共に生活していますか?
自己とは、あなたの本質です。
あなたの思考、感情、心、魂の建設的な状態の総称(そうしょう)が自己であるのです。
それ等が破滅的な状態であれば、それを自我(我欲)と呼びます。
あなたは、自分自身の思考、感情、心、魂を意識しながら生きなければなりません。
それ等の働きに対して意識を集中し、できる限りの理解を得なければならないのです。
自己を見詰めることによって、自己の状態をより正しく認識することができます。
しかし、それは短い期間によって達成されることはありません。
一生をかけて行う必要があるのです。
散漫な心によって生きてはなりません。
それでは、問題は更に複雑に絡み合い、解決することができなくなるのです。
あなたは、最大の協力者である自己と共に歩まなければなりません。
他人に頼ることも、物に頼ることも、有益ではありません。
ただ、自己を見詰め、穏やかに進めば良いのです。
そうすれば、人生に苦悩が必要でないことを理解することができるでしょう。
目の前のそれが問題ではないということを知るようになるのです。
そして、すべてが大切な学びであり、喜びを導く大切なものであるということを認識するでしょう。
外的刺激に心を乱し、愚かに生きてはなりません。

2015年3月16日月曜日

現実

これは現実です。
あなたには、目の前に広がる”それ”が何であると思いますか?
それは、夢でしょうか?
それとも幻でしょうか?
あなたが体験している”それ”は現実であるのです。
”それ”がどのような状況を導こうとも、現実であることに変わりはありません。
信じられないようなこともあるでしょう。
どのように解釈しても、理解することのできないこともあるのです。
他人には理解されないこともあります。
しかし、そのすべてが現実であるのです。
あなたは”それ”が現実であるということを受け入れなければなりません。
あなたが体験するすべての状況が、あなたにとっての現実であるのです。
それを否定することはできません。
あなたを含め、誰もが信じられない状況であったとしても、あなたの体験は現実であるのです。
そのことを理解しましょう。
信じられないからといって、それが夢や幻であるということはありません。
信じられないことも現実です。
あなたの体験は、そのすべてが現実であるということを理解しましょう。
そして、その現実と向き合う必要があるのです。
現実とは、意思という原因が生み出した結果です。
それは因果の仕組みによって導かれます。
あなたに信じられないことは、この世界には無限に存在しています。
他人に信じられないことも同じです。
あなたはどれだけのことを知っているのですか?
人類は知っていることの方が多いと思っているですか?
無知であるが故に苦悩しているということを知りましょう。
無知であるが故に、信じられないことが存在するのです。
しかし、大抵の人はそのことに気が付きません。
自分が無知であるということを理解せず、多くのことを知っていると信じ込んでいるのです。
その結果として、自分自身を信じる気持ちが勝り、状況を信じられずに否定するのです。
それが現実逃避という行為に繋がります。
現実とは、あなたの思考や感情が招いた当然の結果です。
それがどのような形で表現されようとも、現実は現実なのです。
あなたの受け取るすべてが因果の仕組みによって導かれます。
そのために、すべての問題はあなたに関係しているものであるのです。
それは、自分自身で引き起こした問題です。
それ以上でも、それ以下でもありません。
自分自身で引き起こし、自分自身で受け取っているのです。
それを否定するのであれば、自分自身を否定するということなのです。
自分自身を否定するのであれば、自分自身の成長を否定するということになります。
自分自身の成長を否定するのであれば、人生の目的を否定するということになるのです。
人生の目的を否定するのであれば、幸福を否定することになるということを理解する必要があるのです。
目的を果たさなければ、幸福を得ることはできないのです。
あなたは目的を果たすために、現実と真摯(しんし)に向き合いましょう。
現実における問題は、あなたの弱さが生み出した結果なのです。
問題と向き合うことによって、自分自身の弱さと向き合うことができるのです。
何事に関しても、向き合うことがなければ克服することはできません。
逃げ回っているのであれば、それの良い部分を理解することはできないのです。
表面的な見解によって解決する問題など、この世界には存在しないのです。
あなたがどのように考えようとも、これは現実です。
問題を前にすれば、それが現実であると信じたくはないでしょうが、現実であるということを認める必要があります。
問題を解決するためには、まずは認めることが肝心なのです。
すべてが自分自身の引き起こした問題です。
自分自身が引き起こしたのであれば、自分自身で解決することもできます。
あなたはそのことを覚えておかなければなりません。
問題を解決するのは自分自身であるのです。
目の前の現実を受け入れましょう。

2015年3月15日日曜日

変化について

多くの人にとって、変化を受け入れるのは容易なことではありません。
多くの人が変化を恐れています。
それは、変化によって現状が破壊されてしまうからです。
現状の破壊によって、これまでの安泰(あんたい)が脅かされ、ある種の問題を抱えることが必至であるということを想像します。
その想像によって、多くの人は変化を恐れるのです。
現状を破壊する以外に、新たな状況を手に入れることはできません。
新たな状況を手に入れるためには、現状の破壊が必要であるのです。
それを避けることはできません。
多くの人は現状に対しする安泰が心地好いものであると認識します。
無意識的、意識的にそれを守ろうと考えるのです。
しかし、変化を受け入れることがなければ、成長や発展を期待することはできません。
新たな状況にこそ、新たな可能性というものが存在しています。
それを手にすることがなければ、停滞が生じることになります。
停滞は退屈を導き、退屈は苦悩を導くのです。
変化が無ければ、人は苦悩するということを理解する必要があるのです。
しかし、多くの人はそのようには考えません。
変化の無いことが幸福であると思っているのです。
そのために、多くの人は”何もない”ことを求めているのです。
しかし、”何もない”という人生においては、成長というものを期待することはできません。
変化を嫌い、新たな可能性に挑戦しない者は、どれだけ年齢を重ねたとしても、それに見合う経験を重ねることはできません。
そのため、人生に苦悩することを続けます。
愚かに迷う者が尊敬されることはなく、人の師となることもできないのです。
子どもは変化を受け入れることができません。
遊びの時間は過ぎているのに、いつまでもそれに執着するのです。
執着心によって、人は現状にとどまるのです。
あなたは執着心を捨てなければなりません。
何かに執着したところで、停滞によって苦悩するのが落ちです。
執着したところで幸福を得ることはできません。
問題の先送りをするだけでは、苦悩を避けることはできないのです。
変化が迫ってきている時には、それを受け入れる必要があるということであるのです。
変化を受け入れ、新たな可能性に挑戦することがなければ、童話、蟻とキリギリスのキリギリスのように冬の寒さに凍えることになるのです。
蟻は環境(季節)の変化に気が付いていたのです。
夏が終わり、冬が到来することを知っていたために、その変化をいつでも受け入れることができるように準備していたのです。
そのために、厳しい冬が到来したとしても、苦悩する必要がなかったのです。
あなたは変化を受け入れることができますか?
人生には多くの変化が訪れます。
それは、小さな変化であったり、大きな変化であるでしょう。
しかし、変化は確実に訪れるのです。
その時になって、変化を拒絶するのであれば、問題は余計に大きなものとなるのです。
人生は自らに相応しい状況が導かれます。
それは、因果の仕組みによって正しく行われます。
あなたに相応しい変化であると、因果の仕組みが判断した結果として、その状況が導かれるのです。
相応しいものを拒絶するのであれば、相応しいものを拒絶することに相応しい状況が導かれるのです。
それが、幸福であると思いますか?
あなたが誰かのためを思って行ったことが拒絶された時に、どのように思うでしょう?
その次の行動はどのようなものにするでしょうか?
あなたは誰かのためを思って、更に分かり易く、更に”強く”行うことでしょう。
変化を受け入れることがなければ、より強い力を以てそれを知らせるのです。
人が変化を拒絶し続けることは不可能です。
それは因果の仕組みによって導かれる当然の結果であるからです。
変化を拒絶して良いことは無いと心得ましょう。
変化を受け入れることは容易なことではありませんが、それは新たな可能性を導く大切なものです。
変化をネガティブに考える必要はありません。
変化によって、一時は”悪くなる”ように思えるかもしれません。
しかし、人生があなたを苦しめるということはないのです。
人生の目的は成長であり、幸福であるのです。
人生があなたを成長させ、幸福に導くこと以外を行うことはないのです。
信じることも容易ではありません。
既に古く、未熟な現状に執着してはなりません。
変化を受け入れましょう。

2015年3月14日土曜日

魂のために

多くの知識に出会うことによって、思考は拡大します。
多くの感情に出会うことによって、心は拡張します。
多くの生き方に出会うことによって、人生は向上します。
多くの人に出会うことによって、人格が成長するのです。
人は成長するために生まれてきました。
人生は成長のためにあるのです。
人は成長しなければなりません。
成長することがなければ、すべてが虚しいということは否定することのできない事実なのです。
成長することによって得られる喜びによって、人は幸福を感じることができます。
何を得ようとも、成長という本質的な目的を達成することがなければ、幸福を感じることはできないのです。
幸福を得るためには、成長する以外に方法はないということを覚えておきましょう。
人が成長させなければならないものは”魂”です。
求められるのは、魂の成長なのです。
魂というものは具体的な形として認識することはできませんが、それは形を変えた表現としてあなたを形成しています。
あなたの心は魂の表現です。
心という意識は、具体的な形として体内に存在することはありません。
すべての臓器を調べても、あなたにはそれを発見することはできません。
それは、現在におけるあなたの”成長段階”では、認識することができないからです。
魂という高度な存在を認識するためには、それなりの”成長段階”を必要とするのです。
心からは感情が派生します。
感情も、元を正せば魂であるのです。
思考も派生します。
思考も、魂の表現の一部として認めることができるでしょう。
それに、生き方と人格が付属しています。
人間のすべての精神的な働きは、肉体によっては実現しません。
屍体(したい)によって精神的な働きが実現するでしょうか?
肉体が思考や感情などの精神的な活動をしているのは、魂という本質が体内に存在しているからであるのです。
死とは、魂と肉体が離れ離れとなり、肉体の精神的な活動が終わることを言うのです。
あなたは自分自身の本質が何であると思いますか?
多くの人は歪んだ教育によって、肉体こそが自分自身であると考えます。
そして、その本質が脳であると信じるのです。
しかし、人が自由に操れるのは、肉体の内の一部の筋肉だけであるのです。
肉体における主要な臓器の働きは、何一つとして任されていないのです。
それなのに、あなたは肉体が自分自身であると、肉体が人間の本質であると信じますか?
歳を経れば、肉体は朽ち果てます。
老化現象に対抗することはできません。
すべての人の肉体が衰え、言うことを聞かなくなるのです。
そのように有限的なものが本質であるでしょうか?
精神的な活動が衰えることはありません。
ネガティブな状態であっても、”呆(ぼ)けた”としても、精神的な活動が衰えることはないのです。
肉体が滅びても、肉体が滅びた後も、精神的な活動は続くのです。
人は肉体との関係は手放さなければなりませんが、精神的な活動との関係を手放すことはできません。
それは、人の本質が魂であるからなのです。
あなたは魂を成長させるために生きています。
魂の表現である思考、感情、心を大切に育みましょう。
小さな認識の中に生きていてはなりません。
世界に対して大きく興味を抱き、より多くの知識や感情や生き方に触れましょう。
成長するためには、精神的な活動を活発にして、それがより拡大していく必要があるのです。
無知を放置しているのであれば、精神的な活動は幼稚なままであるのです。
無知によって導かれる結論は、取るに足らないものに過ぎないからです。
子どもの浅はかな提案を大人が本気で受け入れるでしょうか?
あなたは、子どもの提案が熟慮を欠いた提案だと理解した上で受け流すでしょう。
精神的な活動の薄弱(無知)な人間は、どれだけ年齢を重ねようとも子どものようなものです。
しかし、年齢を重ねているために”無駄に”自尊心が高く、自分が優れていると思い込んでいます。
その誤解が、魂の成長(精神的な活動の向上)を阻んでいるのです。
しかし、そのことには気が付きません。
小さなプライドによって、人は小さな世界に引きこもります。
そして、多くの知識や感情や生き方に触れる機会を失います。
いつまでも同じことを繰り返し、口からは不満を吐き、悲観に暮れるのです。
それが幸福であると思う人はいないのです。
自分自身の人生の目的が何であるのか?ということを忘れてはなりません。
精神的な活動を通して魂を育みましょう。
すべての活動が魂に通じているということを忘れてはならないのです。


2015年3月13日金曜日

寛大な視点

あなたは、隔たりなく学ばなければなりません。
偏見を以て学びを完成することはできません。
偏見によって学んだところで、それは偽りの真実を得ることになり、学んだことにはならないのです。
何かを学ぶということは、その対象を正しく理解するということです。
正しい理解とは、その本質を知るということであり、表面的な外見を知るということではないのです。
人の表情を観察したとしても、それだけではその人の心の動きを理解することはできません。
その人が笑顔を浮かべていたとしても、心の中には苦悩や悲しみが存在しているということがあるのです。
その人が笑顔であったからといって、それで理解を得たことにはなりません。
笑顔であったとしても、その心の中に存在しているものを見極めることがなければ、理解を得ることにはならないのです。
その人が厳しい表情を浮かべていたとしても、その心の中には愛が溢れているかも知れません。
見極めを誤れば、結果は苦しいものとなります。
それは、大きな誤解となり、苦悩の結果を導くのです。
偏見を以て見るのであれば、そこには隔たりが生じます。
隔たりによって対象は歪んで見えたり、隠されることになるのです。
一部を知っただけでは、全体を知ったことにはなりません。
対象を理解するためには、全体をできる限りに知る必要があるのです。
しかし、多くの人は全体を知ることができません。
それは、小さな価値観に固執するからです。
すべての人は自分自身の考えを所有しています。
それぞれの信念のために、人は生きているのです。
それは一見すると良いことのように思えます。
信念を以て生きることは重要です。
しかし、それが極端になり、柔軟性に欠けてしまうと、問題が生じるのです。
それが偏見であるのです。
強過ぎる信念は自我を強調します。
自我によって人は善悪という隔たりを用います。
その結果、分裂が生じ、理解は遠ざかるのです。
散り散りのパズルは、何を描いているのか分かりません。
それは一つ一つが全体の絵を構成している欠片です。
まとまりが無ければ、全体を理解することはできないのです。
一つ一つのピースが正しく配置されなければ、理解を得ることはできません。
それがどのようなパーツであろうとも、それを欠かすことはできません。
すべてのピースが揃わなければ、パズルは完成しないのです。
多くの人は偏見によって世界を見ています。
例えるならそれは、パズルのピースが散り散りになっている状態であるのです。
そのために、人生における様々な状況に対して、その意味を理解することができずに苦しむのです。
状況に対して、散り散りになっているすべてのピースを正しく繋ぎ合わせることができれば、その状況に対して不安や心配などの破滅的な感情を生み出す必要はありません。
パズルが完成した暁(あかつき)に得られるものは、感動や納得などの建設的な感情であるのです。
そこにネガティブな心は生まれないのです。
あなたは隔たりなく学ばなければなりません。
物事には外的傾向と内的傾向の二つの性質が存在しています。
物事には、表面的な現象と内面的な本質が備わっているのです。
これは、因果の仕組みにも見受けられる法則です。
片方だけを注意深く見ても、理解を得ることはできません。
簡単なことではありませんが、状況に対してそれを隔たりのない寛大な視点によって観察しましょう。
この世界に”悪いこと”は存在しません。
すべてが意味のある大切な学びであるのです。
もしも、”悪いこと”を知っているというのであれば、それはあなたの偏見が勝手に決め付けた浅はかな見解なのです。
一部だけを知っているからといって、全体を知った気になっていてはなりません。
それでは全く足りないのです。
目に見えるものだけを大切にすれば、目に見えるものまでも損なうことになります。
それは当然です。
目に見えるものの原因は目には見えないものにあるからです。
あなたの心(感情や思考)が行動を生み出すのです。
行動が目に見える形を生み出すに過ぎません。
善悪の判断(偏見)を置いて、隔たりなく学ぶことに努めましょう。
そして、学びを完成させましょう。

2015年3月12日木曜日

理解に苦しむ

理解を得ることは簡単なことではありません。
対象を理解するということは、それを多面的に捉えなければならず、自分には信じられない可能性についても柔軟に検証しなければならないのです。
既成概念に束縛されている人間には、それを多面的に捉え、信じられない可能性を受け入れることはできないものです。
既成概念に束縛されているために、対象を一面的にしか捉えることができず、信じられない可能性を容認することはできません。
信じられないことは否定し、決して新たな可能性に対して挑戦することはありません。
自分が信じていることを唯一の正義だと考え、それを疑うことをしません。
そして、新たな可能性を受け入れることができずに、同じことを繰り返すことによって貴重な時間と労力と機会を損なうのです。
そのために、理解からは遠ざかり、無理解によって分裂を得ます。
分裂によって争いが生じ、結果として苦悩を得るのです。
理解が深まらなければ、そこには最終的に苦悩が残るのです。
苦悩しないためには理解する以外に方法はないのです。
人生を豊かなものとして、幸福に生きるためには、理解を深める以外に道がないということを理解しなければならないのです。
しかし、多くの人はこのことを理解しません。
自分が正しいと考えているために、新たな可能性に対して柔軟に対応することができないのです。
そのために、自分が信じることができないことに対して心を閉ざします。
何かに対して心を閉ざすということは、それだけで理解を失うということです。
理解を失えば、苦悩が待っているのです。
あなたは心を閉ざしてはなりません。
それがどのような対象であろうとも、それを理解するように努める必要があるのです。
理解を深めることがなければ、可能性を見出すことはできません。
可能性を見出すことができなければ、それ以上の成長や幸福を得ることはできないのです。
停滞は後退を意味します。
立ち止まっているのであれば、置いていかれるのです。
遅れを取り戻すのは簡単なことではありません。
後に文句を吐いたところで、どうすることもできないのです。
人はそこに苦しみを見出すのです。
理解を深めることに集中しましょう。
そして、あなたが理解することが難しいように、他人も理解に苦しんでいます。
すべての人が理解に苦しむのです。
何事に関しても、理解を得ることは簡単ではありません。
あなたは、他人を自分のように見る必要があるのです。
他人があなたの意見を受け入れないからといって腹を立ててはなりません。
あなたが理解していることであっても、他人には理解することができないということは珍しいことではないのです。
他人が理解していることを、あなたが理解することが簡単なことではないのと同じなのです。
そのために、理解できないことや、理解されないことを悔やむ必要はないのです。
理解を深めること、理解を育むことは簡単ではありません。
理解されないことや、理解できないことが当たり前なのです。
理解されないことを理解させ、理解できないことを理解することが求められているのです。
理解を深めるためには、多面的な視点と柔軟性と享受性と忍耐力が必要です。
理解が難しいことを当然と考えるのであれば、無理解の中にあっても辛抱強く待つことができるでしょう。
違う環境、違う経験、違う考え、違う記憶、違う心を持っているのです。
違う者たちが理解を深めるのは難しいのです。
違う言語を話す相手の意思を理解するためにはどうしますか?
あなたは思い付く様々な方法によって、相手の意思が何を伝えようとしているのかを観察することに努めるでしょう。
違う言語を聞く相手に意思を伝えるためにはどうしますか?
これも同じように、思い付く様々な方法によって、相手に自分の意思が何を伝えようとしているのかを示すでしょう。
言語の異なる相手に対して、既成概念は無効です。
多面的に、柔軟に、辛抱強く伝える必要があるのです。
理解が簡単に実現すると考えている人には、これ等の手段を見出すことはできません。
そのために理解を実現することができないのです。
自分勝手に生きても理解は深まりません。
それは、苦悩の人生を示唆(しさ)します。
他人を理解すること、他人に理解されることは簡単なことではありません。
しかし、不可能なことではないのです。
簡単には理解されないこと、理解できないことを念頭において、辛抱強く実践しましょう。

2015年3月11日水曜日

愛に近い人

人生の目的は成長にあります。
人は人生において成長を実現する必要があるのです。
すべては成長のための活動であり、それ以外の目的を持ちません。
すべてが成長という目的のために遂行されます。
しかし、人が成長するのは容易なことではありません。
それは、植物の種子が何十年という歳月を経て大樹となるように、難しいことであるのです。
数億、数兆の種子が地に落ちます。
その中で地に根を下すのはいくつの種子でしょう?
そして、その中で芽を出して枝を持つのはいくつの種子でしょう?
そして、その中で花を咲かすのはいくつの種子でしょう?
そして、その中で幹を太らせるのはいくつの種子でしょう?
大抵の種子が、大樹となることができません。
大抵の種子が大樹となる前に倒れ、土に還るのです。
人はどうでしょうか?
数億の人が地に生まれます。
その中で人生を完成させる人はどれだけの人数なのでしょう?
人生の意味を見出す人はどれだけでしょう?
人生の意味を見出し、それを実践する人はどれだけでしょう?
自分自身の正体を知る人はどれだけでしょう?
それ等を知り、実践することは簡単なことではありません。
多くの人は、何のために生きているのかすら知らないのです。
しかし、生きているのです。
それは、自分が何のために生きているのか?という最大の問いに答えを出すためです。
そのために、人生には多くの時間が与えられているのです。
人は、人生を生きる中で、その問いに対する答えを探し求めなければならないのです。
小さな種子は大樹となり、最高の形によって滅びる必要があります。
それは、この世界の目的が成長であるためです。
小さな人間は偉大な師となり、聖なる死を得る必要があるのです。
人生の目的が成長である以上、人はより良い人格を求めて生きなければならないのです。
より良い人格とは、愛に「近い」人であるのです。
愛に近いほどに、人格は高まります。
愛とは光です。
太陽光に祝福される樹木が大樹となるように、愛の光に祝福される人が偉大な師となるのです。
あなたは愛に近付かなければならないのです。
愛とは愛情であり、思いやりのことです。
あなたは愛に近付く方法を探しましょう。
しかし、それは簡単な道のりではありません。
人が成長することは簡単なことではないのです。
愛を理解することは難しいのです。
それは、人が愛に対して心を閉ざしているためです。
あなたは敵を許すことができますか?
苦しみに対して感謝すること、受け入れることができますか?
好き嫌いを無くすことができますか?
恐怖を克服することができますか?
偏見に捕らわれないことができますか?
あなたはすべてを愛することができますか?
これを聞いて、成長することがどれだけ難しいことであるかを理解することができたでしょう。
成長は簡単なことではないのです。
しかし、不可能なことではありません。
人生を焦る必要はありません。
許された時間を十分に使い、少しづつであっても成長すれば良いのです。
簡単に成長することができないということは、初めから分かっていることなのです。
初めから分かっていることに対して苦悩する必要はありません。
許された時間を最大限に利用し、少しでも愛に近付くことができるように努めましょう。

2015年3月10日火曜日

偉人

すべてのことは因果の仕組みによって導かれます。
因果の仕組みが誤ることはありません。
それは、確実に現れるのです。
原因が結果に繋がらないということは有り得ません。
すべての原因が結果として正確に実現するのです。
そのため、この世界には奇跡というものは存在しません。
奇跡に見えることはあっても、奇跡という根拠を欠くものが存在することは、因果の仕組みによって有り得ないことであるのです。
なぜ、因果の仕組みが存在し、それが確実なものであるのか?という疑問が起きるでしょう。
それは、この人生の目的というものに理由が存在するのです。
人生の目的は成長です。
これは、人生に生きていれば自ずと理解することができることです。
すべての存在は成長のために生きているのです。
ある程度の成長が実現すれば、それが魂の成長というより本質的な目的を持っているということを理解するようになります。
人生は成長のために存在し、すべてが成長のために動かされているのです。
人は魂を成長させる必要がありますが、そのためには経験を積む必要があります。
経験を通して、人は刺激を受けます。
その刺激が心や思考を動かし、そこに新たな可能性を導くのです。
新たな可能性を帯びた心や思考によっては、新たな局面を得ることができるのです。
新たな局面によって、人は新たに成長することができるのです。
成長することによって得られるものは喜びです。
人は成長することでしか喜びを得ることはできません。
成長することがなければ退屈や苦悩が導かれるのです。
成長することで、人は幸福を得るのです。
人にとって成長というものは、運命(義務)付けれらた目的であるということなのです。
人が成長を拒否するのであれば、苦悩が導かれるのです。
しかし、人は苦悩を受け入れることができないがために、成長に向かって歩み始めるのです。
どのように生きようとも、人生は成長のために存在するという目的を覆すことはできません。
すべての人が経験を実現するために生きているのです。
この世界は「神」によって創造されました。
人は心臓がどのような仕組みによって動いているのか?すら知りません。
あなたには答えられますか?
科学者がその問いに答えることができるでしょうか?
命という最も身近なものですら、人には説明することができないのです。
人は何も知らずに生きているということを受け入れなければならないのです。
しかし、多くの人は自分の心臓がどうして動いているのかも知らないのに、人生に善悪や好き嫌いを持ち込みます。
何が善であり、何が悪であるのか?を知っているとでもいうのでしょうか?
受け取った結果に不満を訴える人がいますが、なぜ、不満を訴えるのでしょう?
それは、因果の仕組みを知らないからです。
人生の目的や意味を知らないからです。
自分のことを知らないからなのです。
無知であるが故に苦しむのです。
あなたはそのことを理解しなければなりません。
あなたは何のために生きていますか?
あなたは何者なのですか?
このように基本的なことですら答えることができないのです。
それなのに、どうしてあなたが偉いのでしょうか?
どうして、あなたが正しいのですか?
それが「悪い」とどのような根拠によって決めているのですか?
因果の仕組みは正確に、確実に仕事を果たします。
あなたの受け取るすべての状況が、あなたが成長するための経験です。
因果の仕組みは最善のタイミングと質を以て、あなたに成長のための気付きを与えているのです。
そのことに気が付く必要があるのです。
すべての行為が自分自身に返ります。
そのことを理解して、自らの方針を決めましょう。

2015年3月9日月曜日

偉大なる力

継続は最高の力です。
継続することによって、それは偉大な力となるのです。
継続することがなければ、力は不足します。
人が生み出すことのできる一瞬の力というものは、とても小さなものであります。
どのような人物の力も、瞬間的なものであれば小さいものであるのです。
大きな力を得るためには、小さな力を継続することによって積み重ねる必要があります。
小さな力であっても、それを積み重ねることによって大きな力となるのです。
人間の身体は、小さな細胞の塊です。
細胞は原子の塊です。
人間というものは、一つ一つのとても小さな力の集合体であるということを理解することができるでしょう。
それは、力の継続に他なりません。
初めから大きなものが存在するということはないのです。
小さな一粒の種が大樹となるように、小さな力の積み重ねが、大きなものを生み出すのです。
あなたは小さな力を積み重ねなければならないということを理解しましょう。
継続を放棄した者には、大きな力を生み出すことはできません。
大きな力を生み出すことができない者には、何かの成果を実現することはできないでしょう。
継続は最高の力です。
継続は偉大なる力なのです。
あなたは継続によって小さな力を積み重ねましょう。
そして、必要な成果を実現するのです。
必要な成果を実現することがなければ、人生の幸福や豊かさを得ることはできないのです。
あなたが幸福や豊かさを求めているのであれば、継続を行う必要があるのです。
しかし、多くの人は継続を苦手としています。
多くの人は意識が散漫であり、集中することを苦手としています。
集中力の欠如は、意識の散漫を導き、偉大なる力を手にし損ねるという結果に繋がるのです。
継続を実現するためには、集中力が必要なのです。
あなたは集中力を高めるために、自らの心と向き合う時間を増やしましょう。
自らの心と向き合うことができず、その特性を理解することがなければ、集中力を持続することができません。
集中力すら持続することができない者が、どうやって継続を実現するのでしょうか?
それは、火は灯すが、すぐに消えてしまうロウソクのようなものです。
少しの間しか光をもたらさないロウソクが、一体何の役に立つというのでしょうか?
あなたがもし、そのようなロウソクを所有しているのであれば、腹を立てるか、呆(あき)れて捨ててしまうことでしょう。
どちらにしても使い物にならないと言って悲観するのです。
継続は心に灯る光です。
情熱という火が灯ることがなければ、継続は実現しません。
あなたは情熱を絶やさないように努める必要があるのです。
情熱を絶やさないためには、楽しみを見続けるという必要があります。
ここでも継続が必要になるのです。
苦しいながらも楽しむ必要があるのです。
矛盾しているように思えるかも知れませんが、苦しみの中に楽しみを見出すことは可能です。
運動による筋肉疲労が一種の快感であるように、苦しみを楽しむことは難しいことではないのです。
ポジティブに考えることが大切です。
ネガティブに考えるならば、何事も継続することができないのです。
童心が大切です。
純粋な子どもは、同じことを何度繰り返したところで、それを楽しむことができるのです。
「大人」からすれば取るに足らないようなことであっても、純粋な子どもには喜びであるのです。
童心を忘れた「大人」には、取るに足らないことを喜びに変換することはできません。
幼い子どもであっても、童心を忘れることが多々有ります。
そのような者は、また幼い子どもであるにしても、喜びから見放され、退屈と苦しみの中に生きなければならないのです。
継続することがなければ、「深み」を得ることはできません。
すぐに飽きて、放り出してしまうのであれば、物事の表面的な部分しか理解することはできず、その本質を理解することはできません。
物語のクライマックスと結末を知らずに、喜びを得ることはできないのです。
物語の始まりだけで判断すれば、理解することができないことが多く、誤解を生じる可能性が高いのです。
この言葉も最後まで読まなければ理解することができません。
それも、童心を以て読み解く必要があるのです。
そして、何度も継続して読むことがなければ、本当の意味での理解は難しく、それを実践に繋げることができないのです。
継続は最高の力です。
あなたはこの偉大な力を童心を以て実現しましょう。
何事に関しても、できる限り純粋に向き合わなければばなりません。

2015年3月8日日曜日

幸福度

人生は学びの場所です。
人生は学びに従って展開します。
人生が学びを失うことは有り得ません。
それは、人生が学びを中心として構築されるからです。
常に学びはあります。
それは、あなたを成長させるためです。
あなたが未熟であるが故に、学びは絶えないのです。
学びは様々な顔をしてあなたを訪れます。
喜びを讃えた顔で現れる時もあれば、苦しみを讃えた顔で現れる時もあります。
それは、自然が春の暖かな陽射しによってあなたを包み込むこともあれば、冬の吹雪によってあなたを突き放すことがあるのと同じです。
人は様々な方法によって学ぶ必要があり、実際に学んでいるのです。
それは、成長のためであるということを理解しなければなりません。
そして、人の魂には成長が不可欠であるということを知る必要があるのです。
すべての人が幸福を求めています。
あなたは何のために幸福を求めているのでしょうか?
追求すれば、それは成長のためであるということを理解するでしょう。
それは、新緑が春に芽吹き、冬には散るのと同じです。
理由を探るのは難しく、また、そこには大きな価値はありません。
ただ、成長することが必要であり、学び続けることが重要であるのです。
理由は人それぞれに「勝手に」用意することができます。
それに、心境によって簡単に変化もします。
そのために、理由というものをあまり重要視する必要はないのです。
大切なのは目的です。
人生の目的は成長であるのです。
この目的を見失うことがなければ、人生の幸福を見失うことはないのです。
人生には様々な局面が存在します。
それは、「最悪」に思えるような状況から始まり、「最高」に思える状況に至ります。
そして、再び「最悪」に到達し、「最高」に至るのです。
この繰り返しによって、人は必要な経験を消化し、成長していくことができるのです。
しかし、何の努力もなしに成長に結び付けることはできません。
目的を見失ってはならないのです。
人は成長のために生きています。
すべての経験は成長のために存在しているのです。
そのために、「最高」も「最悪」も同じように大切にするという心掛けが必要であるのです。
「最高」を好み、「最悪」を嫌うのであれば、その偏見を原因として心と人生は必ず歪みます。
歪みによって得られるものは不調和であり、それは問題と苦悩を引き起こすのです。
「最高」が良いものであり、「最悪」が悪いものであるというのは、個人の小さな見解です。
人は未熟であるために学んでいるのです。
未熟な者の個人的な小さな見解が、どうして善悪を決めることができるのでしょうか?
あなたには何が「最高」であり、何が「最悪」であるのかを判断することができないのです。
春が最高であるとして、冬を否定するのであれば、あなたは自然の恵みを半分捨てることになるのです。
自分にとって良いことがあればそれで良いという考え方によって、自分にとって嫌なことを否定するのであれば、人生の幸福の半分をむざむざ捨てることになるのです。
あなたは幸福を求めていますが、現状が最大の半分であるということを理解しなければなりません。
しかし、これは認識によって変動します。
あなたが嫌なことを否定する割合によって、幸福は削られるからです。
あなたの心境に応じて、人生の幸福度は変わります。
あなたは自分自身の認識を大切にしなければなりません。
人生の目的を見失ってはならないのです。
目的を目指している人と、それを見失っている人では、結果に大きな違いが現れるのです。
人生は自分自身で築くものなのです。
理由が分からなくても構いません。
目的を覚えているのであれば、理由は何とでもなるからです。
四季のように様々な顔を見せる人生を楽しめるかどうかは、あなた次第なのです。

2015年3月7日土曜日

共感力

理解とは、同じ水準によって導かれる共感です。
水準が等しくなければ理解が生じることはありません。
どのように理解しようとしても、水準に隔たりが存在するのであれば、理解に達することはないのです。
人は理解を重要とします。
それは、理解することによって可能性を生み出すことができるからです。
そのため、可能性を求めるすべての人が理解を欲しています。
あなたは理解することを求めます。
一つでも多くのことを理解することによって、人生に可能性を導くことができるということを知っているからです。
理解することが増えれば、可能性は増えます。
それは、理解していることが行えることであるからです。
理解していないことを行うことができるでしょうか?
理解していないのであれば、どうやって行えば良いのかも分からないのです。
人が何かを行うためには、それを理解しておく必要があるということを覚えておきましょう。
理解するためには水準が必要です。
それは、知性であったり、人格であったり、愛情であったりするのです。
それ等の水準が低いものであれば、対象を理解することはできないのです。
多くの人は頭脳によって物事を理解することができると考えています。
しかし、頭脳をどれだけ鍛え上げたとしても、理解を得ることはできません。
頭脳明晰な人同士であっても、主張が違えばそれだけで理解は生まれません。
どれだけ頭脳を鍛え上げても、それだけでは理解を得ることにはならないのです。
大切なのは知性であり、人格であり、愛情であるのです。
それ等は、心によって生じます。
心によって頭脳は知性になります。
心によって自我が人格となり、本能は愛情になるのです。
心が伴わなければ、それ等が向上することはないのです。
頭脳と自我と本能であっては、この世界においては理解することができないものが多いのです。
この世界に理解を深めようと考えているのであれば、心を以て生きる必要があります。
心無き人には、この世界を理解することはできないのです。
あなたは心を大切に生きなければなりません。
どのような思考、感情、行動、感覚に対しても、心を込めることを忘れてはならないのです。
心を意識して、すべてを行うのです。
すべての存在の核となるものが心です。
すべての存在は心を潜在しています。
もちろん、あなたの中にも心はあるのです。
心は見えません。
心は触れることができません。
心には具体的な形はないのです。
しかし、それは存在します。
それは、とても微細なものであるのです。
これを理解するためには、あなたの水準が心と同じ場所に達する必要があります。
思考、感情、行動、感覚を微細なものとしなければならないのです。
それは、よく考え、よく思い、よく行い、よく感じるということなのです。
簡単に理解は得られません。
多くの時間と労力をかけて理解に近付くのです。
そのために、心を意識して生きるという実践が必要であるのです。
あなたが他の文化を理解するためには、その中で生活する必要があります。
外から見ただけでは、理解することなどできるはずがありません。
他の文化を意識して生きるためには、中に入る以外に方法はないのです。
想像は理解ではありません。
推測では共感することはできないのです。
互いに理解を深めなければ、そこには対立が生じます。
対立は争いを導き、争いは苦悩を生み出します。
苦悩によって幸福が得られることはありません。
人生を豊かなものにするためには、理解を深める必要があります。
理解することができなければ、幸福というものはないのです。
理解は、同じ水準によって導かれる共感です。
あなたは自分自身を成長させるように努めましょう。
心を意識しましょう。

2015年3月6日金曜日

焦り

人生に焦る必要はありません。
生き急いだところで、それが良い結果を導くとは限らないのです。
多くの人は「上手くいかない」と嘆きます。
そして、その「失敗」を取り戻そうとして、心は焦ります。
焦ることによって「上手くいかない」状況や「失敗」を取り戻せると信じ込んでいるのです。
あなたは、焦ることによってそれ等を取り戻すことができると思いますか?
それ等はすでに過去に存在するのです。
現在に生きるあなたがどうやって過去に戻り、それを変えるというのでしょうか?
過去に戻ることもできないのに、過去のことをあれこれと考えたところで、それによってあなたが幸福を得ることはないのです。
過去はどうすることもできません。
あなたにできることは、過去は過去として諦めることか、過去を受け入れて糧(かて)にすることくらいです。
過去をあれこれと考えるのはやめましょう。
過ぎたことはどうでも良いのです。
大切なのは未来に生きることです。
あなたが悲観している間にも、未来は次々と訪れるのです。
あなたに未来を食い止める術はありません。
あなたが求めていなくても、未来は常に押し寄せるということを覚えておきましょう。
しかし、あなたは未熟です。
あなたは人生に「上手くいかない」ことや「失敗」というものが存在していると考えています。
しかし、それは真実なのでしょうか?
何度も言いますが、あなたは未熟なのです。
未熟なあなたの考える「上手くいかない」ことや「失敗」というものが、本当に上手くいかないことや失敗であるというのでしょうか?
残念ながら、あなたは自分自身の理想に対して焦っているだけです。
理想に対して現状が「上手くいかない」ことや「失敗」であると決め付けているのです。
それは、自己中心的な考え以外のなにものでもないのです。
あなたは独りで勝手に「上手くいかない」と嘆き、「失敗」したと悲観しているのです。
何も知らない子どもが落ち込んでいる姿を見て、あなたはきっと笑い飛ばして励ますでしょう?
それは、子どもにとっては大きな出来事であったにしても、あなたには小さな出来事であるからです。
あなたは未熟であるのです。
残念ながら、あなたは子どもです。
そのために、人生に学んでいるのです。
さて、あなたは人生の「正解」を知っていますか?
何のために生きているのでしょう?
あなたが人生の「正解」を知っているというのであれば、人生に焦りを持ち込むことも構いません。
しかし、「正解」を知っているのであれば、本来焦ることはありませんが・・・
あなたは「上手くいかない」と嘆くことも、「失敗」したと悲観する必要もないのです。
なぜなら、何が「正解」であるのかを知らないからです。
あなたは何のために焦っているのですか?
何に嘆き、何に悲観しているというのでしょう?
あなたには理解することができないかも知れませんが、人生は常に上手く進んでいます。
そして、すべてが成功であるのです。
あなたが勝手に「上手くいかない」と嘆き、「失敗」したと悲観しているだけなのです。
それが如何に滑稽(こっけい)なことであるかを理解する必要があるのです。
「上手くいかない」ことや「失敗」と思える状況を受け取ったのであれば、それが必要であり最善であるのです。
何も心配する必要はありません。
すべてが上手く進んでいます。
ネガティブな心で生きるのであれば、ネガティブな選択肢を実現することになります。
そうすれば、更なる「上手くいかない」ことや「失敗」と思うものを受け取ることになるのです。
「バカ」な考えを所有してはなりません。
人生におけるすべての事象は、必要であり最善です。
無意味なこともなければ、無益なこともありません。
無駄なことなど以ての外なのです。
すべてが大切なものなのです。
どのように映ったとしても、それを愛するように努めましょう。
あなたが愛によって成長した時に、その意味を理解することができるでしょう。

2015年3月5日木曜日

真の理解

大切なのは理解力です。
理解力に乏しければ、状況の本質を知ることはできません。
状況の本質を理解することができなければ、それが自分にとって、他人にとってどのような意味を持つものであるのか?ということを理解することができないのです。
状況の意味を理解することができなければ、そこから得られるはずの豊かさを得ることはできません。
豊かさを得ることができないのであれば、乏しさを得ることになります。
乏しさとは無知や不足のことです。
それこそが人生に苦悩を導くのです。
状況の本質と意味を理解することができなければ、人は乏しさを受けることによって無知と不足を増し、苦悩を得ることになるのです。
人生の目的は幸福を得ることです。
人は成長によってそれを実現する必要があるのです。
状況の本質と意味を理解することができなければ、成長も幸福も実現することはないのです。
あなたが人生の目的を果たすためには、状況の本質と意味を理解する必要があるのです。
しかし、多くの人は誤解を受けます。
理解を主観によって考えているために、自分自身の納得を理解であると考えているのです。
そのような自己中心的な到達点が理解であるなどと考えてはなりません。
人は未熟であるのです。
人は愚かであり、歪んでいます。
未熟であり、愚かであり、歪んでいる者が自己中心的な考えによって到達した答えが、どうして状況の本質と意味を理解したと言えるのでしょうか?
幼い子どもに、法律の話をしても理解することはできません。
あなたが未熟であり、愚かであり、歪んでいるのであれば、どうやって難解な状況の本質と意味を理解することができるのでしょうか?
状況の本質と意味を理解するのは簡単なことではありません。
もしも、それが簡単なことであるというのであれば、人が人生に苦悩することなど有り得ないのです。
人々の間には、多くの苦悩が存在しています。
それは、状況の本質と意味を「正しく」理解することができていないということを証明しているのです。
人生の目的は成長することです。
そして、幸福を得ることなのです。
正しく理解することができるのであれば、苦悩を得ることなど有り得ません。
正しく理解すれば、それが成長と幸福の糧(かて)になることは当然の結果であるのです。
苦悩が導かれるのであれば間違いです。
多くの人は心を乱して争います。
その結果として、退化と不幸を得るのです。
それが正しい生き方であるということが言えるのでしょうか?
あなたが望んでいる人生とは、苦悩に満ちたものなのでしょうか?
あなたが望んでいるのは幸福な人生であるはずです。
現在のあなたの人生はどのようなものでしょうか?
現状はあなたが自ら築きました。
あなたが自分自身で選んだ結果であるのです。
そこには成長と幸福があるでしょうか?
あなたは理解力を育む必要があります。
これは、生涯を通じて続けなければならないことです。
理解力を育むためには、多面的な見解が必要です。
一方向から対象を捉えても、それが何であるのかを理解することはできません。
見る角度によって、対象は全く違う表情を見せるからです。
そのために、隈無(くまな)く観察する必要があるということなのです。
すべての面を見た後で、真の理解が生じます。
偏見や不足があるなら、真の理解には辿り着けないのです。
あなたは状況の本質と意味を捉えましょう。
嘘や間違いを信じてはなりません。
正しい理解は、あなたの心が教えてくれます。
そこに喜びや幸福感が存在するのであれば、正しさに「近い」ということなのです。
喜びや幸福感がどのような認識によって生まれるのか?を探すのです。
暗闇の中に浮かぶ像の正体が分からなければ、あなたは恐怖を覚えます。
そこには喜びや幸福感はありません。
しかし、その正体を理解した瞬間に恐怖は消え去り、喜びと幸福感を得ることができるのです。
大切なのは理解力です。
理解を深めようと努めましょう。
そして、真の理解に到達しましょう。
そこに苦悩はありません。

2015年3月4日水曜日

無邪気に生きる

あなたはなぜ、そのように疲れた顔をしているのですか?
なぜ、怒りに満ちた表情によって生きているのでしょう?
なぜ、悲しくて涙を流すのですか?
愚痴や不満があなたに何をもたらすのでしょう?
人生はそんなに詰まらないものですか?
そんなに辛いのですか?
良いことは一つも無いのですか?
それは不幸なことなのでしょうか?
相手が悪いのですか?
時代が悪いのですか?
政治家が悪いのですか?
自分が悪いのですか?
多くの人は歪んでいます。
多くの人は汚れています。
多くの人は偏見によって支配されています。
多くの人は無知であるのです。
あなたは、人生にどのような感想を抱いていますか?
正直に考えを述べましょう。
あなたは現状をどのように考えますか?
満足していますか?
豊かですか?
幸福ですか?
楽しいですか?
輝いていますか?
あなたが人生に苦悩しているのであれば、それはその生き方が間違いであるということを受け入れる必要があります。
間違っているから苦しむのです。
ただそれだけです。
すべては因果の仕組みによって公正に裁かれるのです。
あなたが苦悩を得るのであれば、生き方を変える必要があるのです。
人生を築くのは何ですか?
人生を築くのは心です。
あなたの心が人生を築くのです。
心の状態が大切です。
しかし、苦悩を抱えるすべての人は、心を大切にすることができてはいません。
人生に苦悩する人はすべて、唯物的な価値観に心を奪われ、快楽と物欲によって苦悩の海に沈むのです。
あなたは「童心」を得なければなりません。
あなたの中の童心こそが、あなたに本当の価値を導きます。
それ以外にあなたに本当の価値を導くものはありません。
宗教の教祖であろうが、贅沢な金持ちであろうが、有力な権力者であろうとも、あなたに本当の価値を導くことはできないのです。
自分の内的価値を知らない者が、人生の価値を理解することなどできるはずがないのです。
「外」の詰まらないもの(物質や外的刺激)に気を取られ、「内」の真の価値には気が付かないのです。
真の価値に気が付くことができないのであれば、人生の意味すらも理解することができないのです。
そのために、顔をしかめて生きているのです。
そのような詰まらない顔をして生きることが目的ではないのです。
楽しく生きることが目的です。
童心によってのみ、人は詰まらない快楽と物欲から抜け出すことができます。
童心によってのみ、人は自由を得ることができるのです。
童心を以て生きるということは、幼く生きる、未熟に生きるということではありません。
好奇心、探究心、向上心、柔軟性、汎用性・・・
これ等を手放さないように生きるということです。
童心を忘れた時から遊び心が無くなり、詰まらない人間になります。
大抵の「大人」のように厳しい表情によって、ネガティブな言葉を吐くようになるのです。
このような人間のどこに魅力があるというのでしょう?
どこに価値がありますか?
あなたはしかめっ面の人間に魅力を感じますか?
そのような人間に価値があると思うでしょうか?
いつも楽しく在りましょう。
童心を忘れてはなりません。
無邪気に生きるのです。
人生は楽しいのですよ。

2015年3月3日火曜日

心のコントロール

人は心を大切にしなければなりません。
あなたはいつも自身の心を見つめていなければならないのです。
心から目を離せば、それは制御の効かない車のように暴走してしまうのです。
車を正しく目的地に導くためには、自分が車を操作しているということを忘れないことです。
操作していることを忘れてしまうのであれば、車は簡単に道を逸れてしまうのです。
タイヤ一つが溝(みぞ)に落ち込んだだけで、車は自由を失います。
目的地に対する意識を失えば、違う道を彷徨(さまよ)うことになるのです。
タイヤが溝に落ち込んでも、違う道を彷徨っても、車は目的地には辿り着くことができないのです。
あなたの人生において、あなたの心が車に値します。
あなたという魂を、心が運ぶのです。
心が整えられていなかったり、歪んだり、閉ざされているのであれば、故障した車がそうであるように道のりは危険なものとなるのです。
整備不良の車ほど危険なものはないのです。
目的地に辿り着くことができるかどうか?ということは、車の仕上がりに関わります。
故障を抱えたままであっては、途中で動かなくなったり、道を逸れて事故を起こすこともあるのです。
車はあなたを目的地へと運ぶ重要な存在です。
それを蔑(ないがし)ろにすることはできません。
人生については、心の在り方が重要です。
心が正しく存在することが、人生の質を決めるのです。
心の乱れている者の人生は乱れます。
心の閉ざされている者の人生は閉ざされます。
心の歪んでいる者の人生は歪みます。
心の立ち止まっている者の人生は立ち止まるのです。
車が道を進むように、心が人生を進むのです。
心は人生を現します。
心を見れば、人生が分かるのです。
あなたは、自分自身の心のままに人生が展開しているということを理解しましょう。
人生は偶然や奇跡によって導かれるのではありません。
因果の仕組みによって、当然の結果が導かれるのです。
整備を怠った車が故障するのは当然のことです。
これが偶然や奇跡的に起こるでしょうか?
人生に対して偶然や奇跡を信じる人がいますが、その考えによって人が自身の心の現実から意識を離しているということを理解する必要があるのです。
そのような人は自らの心の状態を理解しません。
そのために、短絡的であり、感情的であり、物事の原因を他人や他の何かに押し付けるのです。
自分の感情(心)をコントロールすることすらできない者が、どうやって人生の目的地に辿り着くというのでしょう?
運転技術がなければ、決して車を目的地に届けることはできないのです。
心を整えるためには、心を見つめることです。
ただ、それだけです。
難しい知識や技術、多くの資金や時間を必要とはしません。
あなたは自分の心を見つめ、それがどのような状態にあるのかを、客観的に理解するのです。
正当化はいけません。
タイヤがパンクしているのに、自己正当化によって「パンクしてはいない」などと自分に都合の良いように思い込んではならないのです。
あなたは自身の心を大切にしていると言えますか?
心を「愛」によって整えているでしょうか?
多くの人は唯物を中心として世界を理解します。
そのために、心に対して用いる力は限られます。
多くの人は心が大切であるとは思っていないのです。
理解しやすい物質に頼るのです。
しかし、物質に頼り、心を忘れた結果として得るものは苦悩であるのです。
心(自分)を大切にしているために、他人を大切に思うことができるのです。
心の無い世界には冷酷と争いが蔓延(はびこ)ります。
暴走した車は、歩行者を轢(ひ)き殺すのです。
この現実から目を背けてはなりません。
コントロールを失った心は、他人の精神の尊厳を殺します。
それが幸福なのでしょうか?
あなたは心を大切にしなければなりません。
野蛮な世界を生きてはなりません。
あなたはいつも自分自身の心を見つめていなければならないのです。
心がコントロールを失わないように注意しましょう。

2015年3月2日月曜日

自我と我欲と愚か者

あなたは自分が如何に愚かな存在であるのかを理解する必要があります。
あなたは、謙虚にいなければなりません。
自我によって我欲を通してはならないのです。
しかし、多くの人は自分が愚かな存在であるということを知りません。
また、それを指摘されても憤慨(ふんがい)し、寄せ付けないのです。
多くの人は自分が正しいと思い込みます。
そのために、自分の信じる正義を正当化するために努めます。
その結果として、不満と争いを生じるのです。
不満と争いによってもたらされる結果は苦しみでしかありません。
不満と争いという破滅的な方法によっては、苦悩が導かれるのは当然の結果であるのです。
自分が愚かな存在であると理解することのない人は、愚かであるが故に苦悩するようになるのです。
それは、正しい道ではありません。
人が正しく生きれば、豊かさと幸福に辿り着くのです。
それが実現しないというのであれば、愚かな者が愚かな行為によって愚かに生きているということが言えるのです。
あなたが求めているのは何ですか?
乏しさと不幸を求めているのですか?
それとも、豊かさと幸福ですか?
あなたが豊かさと幸福を求めているのであれば、自我による我欲を捨てなければなりません。
自分中心の考えを捨て、謙虚に生きるのです。
自分自身が、それ以外のすべての存在と一つであるということを受け入れ、謙虚に生きるのです。
自分が無知であり、未熟であるということを受け入れ、謙虚に生きるのです。
太陽が照らさなければ、人は何もできません。
光が奪われるだけで、あなたは歩むこともできないのです。
あなたは自分自身が発光し、道を照らし出すことができるでしょうか?
現在のあなたの力によっては、それは不可能でしょう。
あなたは愚かであるが故に、太陽に頼る必要があるのです。
愚かであるが故に助けてもらわなければならないのです。
光を奪われるだけで何もできない自分が、本当に偉いのでしょうか?
自分の力では暗闇を照らすこともできないのに、どうして偉いのでしょうか?
あなたは勘違いしてはなりません。
あなたの考える正義など的外れであるのです。
それは、無知であり、未熟であるために仕方のないことなのです。
「わたし」があなたを愚かだと言うのは、あなたを傷付けるためではないのです。
ただ、現状を正確に捉えて欲しいのです。
多くの人は自我によって我欲に溺れます。
そのために、光を失います。
自分が偉いと思えば、人は太陽を蔑(ないがし)ろにするのです。
太陽はすべての人に光を届けますが、その力の恩恵に預かっているのは、それを感謝している者だけです。
謙虚でない者には、その力の恩恵に預かることはできないのです。
光を受けていながら、その光によって照らし出される本当の姿(本質的な部分)には気が付くことがないのです。
太陽はすべてのものを輝かせますが、それを認識するのは人の力です。
太陽の光によって照らし出されるものであっても、人の認識が及ばなければ「見る」ことはできないのです。
人はそれを見えてはいても、認識することができないのです。
世界はあなたの認識によって築かれます。
人生はあなたが作るのです。
しかし、自分独りで作るのではありません。
自分以外の多くの存在からの援助がなければ成り立ちはしないのです。
謙虚さのない者は、援助を受ける資格を持ちません。
援助を受けるに相応しい者は、謙虚さを忘れない者であるのです。
人は無知であり未熟です。
そのために、学ばなければならないのです。
自分が正しいと思い込み、自我によって我欲に溺れる者がそれ以上学びを得ることはないのです。
他者からの光がなければ、あなたは何かを見ることも、触れることも、掴むことも、退くこともできないのです。
謙虚さを忘れないように注意しましょう。
自分の愚かさに気が付かなければなりません。
感謝して生きましょう。