”それ”が何であるのか?という問いの答えが必要です。
あなたには、目の前の”それ”が何であるのか?
どのような意味を持つのか?
何を示唆(しさ)しているのか?
どのような効果を生み出すのか?
”それ”の正体を、できる限り正確に捉える必要があるのです。
この世界に存在するすべての事象には、必ず目的があります。
すべての事象が何等かの意図を以て働いているのです。
この世界において、秩序(ちつじょ)を乱すものは存在しません。
秩序を乱しているように思うものがあるだけであり、それは個人的、人間的な思い込みに過ぎないのです。
あなたにとっての”悪”が、他人や世界にとっての悪であるとは言えないのです。
多くの人が思い込みによって世界を捉えます。
正しい世界ではなく、思い込みの世界を生きているのです。
その思い込みが目の前の”それ”の正体を歪めているのです。
対象を正しく認識する場合には、私情を持ち込むことはできません。
正義(利己的な都合)を振りかざしたところで、”それ”を正しく認識することはできません。
私情を離れた場所でなければ、正しい認識は導かれないのです。
あなたは、私情によって自らの状態を乱してはなりません。
あなた自身が乱れるなら、それに関連して目の前の”それ”も乱れるからです。
水の揺らぎの中では、何を見ても揺らいで見えるのと同じなのです。
乱れた者が捉える世界は、そのすべてが乱れているということを理解する必要があるでしょう。
しかし、多くの人は既に世界が乱れているということに気が付きません。
それは、全体が歪んでいるために、それが普通であると思い込んでいるためです。
正しい姿とは、個人的、人間的な視点から見出せるものではありません。
それは、個人的、人間的な視点を扱う自己という状態が既に未熟であり、不足しているからです。
未熟であり、不足しているのであれば、何を見たとしても、それの全体を把握することにはならないのです。
未熟さと不足の中で捉える対象は、自己のその状態が故に全体の一部を捉えるに過ぎないのです。
大切なのは、歪みなく見るということです。
あなたはできる限り全体的な視点から”それ”を捉える必要があります。
全体的な視点を手にいれるためには、私情にこだわっていてはなりません。
個人的、人間的な視点である、傲慢(ごうまん)さから離れるのです。
自分勝手な状態を保持していてはならないということなのです。
他人は、あなたとは別の視点を持っています。
他人にとっての”それ”は、あなたにとっての”それ”とは違う意味と姿を持っているのです。
あなたはその違いに気が付かなければならないのです。
すべての人の持つ視点を総合したものが全体的な視点です。
あなたはできる限りその状態に近付かなければならないのです。
自分勝手に生きていてはなりません。
他人を受け入れる寛大な自己を育みましょう。
そうでなければ、必ず歪みます。
そうなれば、”それ”が何であるのか?という問いの答えの精度を欠くことになるでしょう。
”それ”が何であるのか?ということが分からなければ、目の前の事象は問題を引き起こすようになります。
引き起こされた問題によって混乱する自己は、苦悩の波間に沈むのです。
人生に苦悩を引きずるのであれば、何のために生きているのか?という最大の疑問に答えを導くことができません。
何のために生きているのか?という理由が分からなければ、何が幸福であるのか?ということも分からないでしょう。
人は何のために生きているのでしょうか?
苦悩するためでしょうか?
その答えを知るためには、目の前の”それ”の意味を正しく理解する必要があるのです。
目の前の小さな事柄に関する意味も分からない者には、人生の意味という大きな意味を理解することなどできるはずがないのです。
全体的な視点というものを意識していなければなりません。
視点を手前に落としてはなりません。
多くの人が小さな視点の中に生きているために、問題を引き起こして苦悩するのです。
目線を上げて、遠くと近くを同時に視認する必要があるでしょう。
バランスが大切なのです。
他人と比較することによって、あなたは自分というものを認識します。
自分勝手に生きていては、自分のことすらままならないということなのです。
”それ”を正しく認識するためには、個人的、人間的な視点である傲慢さから離れなければならないということを覚えておきましょう。
人は謙虚に受けることです。
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