相手の立場になって考えることは大切です。
	あなたは、相手の立場になって、相手を考えなければなりません。
	相手の立場になって考えることがなければ、相手を理解することはできません。
	相手を理解することができなければ、相手を導くことはできないのです。
	すべての人が、主観を中心とした見解を所有します。
	すべての人は自己という主観を持っているために、それを通して世界を認識する必要があります。
	自己を手放すことはできません。
	すべての人が自己と共に在るのです。
	しかし、多くの人は自己を自我という歪んだ状態に留めています。
	それを克服するために生まれて来たのだから、それは仕方のないことです。
	すべての人の自己は、自我という歪んだ状態にあるのです。
	自我とは主観に頼った見解です。
	その状態は、自分を中心とした観点のみを所有するのです。
	多くの人は自分を中心として考えています。
	例えば、誰かに相談を受けている時でさえ、自分を中心として考えているのです。
	相談しているのは相手であるにもかかわらず、それを自分を中心とした考えから導き出す答えによって応えようとしているのです。
	相手は自分に必要な解決策を欲しているにもかかわらず、返ってくる答えが的外れなものであれば、相談事が解決することはないのです。
	それでは、互いに途方に暮れてしまうでしょう。
	問題を解決するためには、先ずは相手の立場になることが求められるのです。
	自我という状態に留まる者には、問題を解決することができません。
	それは、相手の求める答えを与えることができないからです。
	大切なのは相手の立場になって考えることです。
	あなたは、どのような時にも、相手の立場になって考えるようにしなければなりません。
	人それぞれに魂の水準は違います。
	それに付随して、受け取る状況にも違いがあるのです。
	そのために、認識はそれぞれの所有物であり、それに違いが生じるのは自然なことなのです。
	それぞれが違う認識によって、違う世界を築くのです。
	同じ対象を見ても、そこから生み出される感想は違うものになるでしょう。
	花に魅力を感じる者がいる一方で、興味のない者もいます。
	それは、認識というものが、それぞれに違いを所有するということを意味しているのです。
	そのため、花に興味のある者が、自らの主観を通してその魅力を懸命に伝えたところで、花に興味の無い者にはその熱意は全く伝わらないのです。
	花に興味の無い者に対して、その魅力を伝えるためには、花に対して興味の無い者の立場になって考え、その立場の者が興味を抱くように伝える必要があるのです。
	自らが譲歩しなければ、伝わるものも伝わらないのです。
	人間関係に対する問題は、認識の相違に他なりません。
	人が互いに争うのは、互いを尊重しないからです。
	争いは自我によって引き起こされます。
	人が主観を離れない限りは、争いは続くのです。
	相手の立場になって考えることと、争いによって問題を抱えることと、どちらが大切だと思いますか?
	どちらが、あなたの求めている結果を導くことができるでしょうか?
	自我という小さな見解が、そんなに重要でしょうか?
	それは、争ってまで守らなければならないものなのでしょうか?
	深く考える必要があります。
	しかし、多くの人は考えていません。
	その頭脳は考えることを放棄しているのです。
	そのために、争いという低次の選択に行き着くのです。
	幼い子どもは、気に入らないことがあると腹を立てます。
	そして、周囲の人や物に対して憤(いきどお)りをぶつけるのです。
	成熟した大人がそのように振る舞うことはありません。
	物事を穏便に進めようと努めるのです。
	そこには努力が必要であるために、このような方法を用いるのは高次の選択であるということができるでしょう。
	あなたは相手の立場になって考えたことがありますか?
	これは、相手の過ちを指摘するなと言っているのではありません。
	相手の過ちを、相手の立場になって考え、指摘する必要があるということなのです。
	自分の立場を理解してもらった上で受け取る言葉を嫌う人はいません。
	それは、そこに”愛”を感じるからなのです。
	自己満足の言葉を吐き捨てていてはならないのです。
	相手の立場になって考えることが大切です。
	どのような時にも、相手の立場を忘れないように心がけましょう。
	
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