このブログについて

「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2015年3月29日日曜日

虚しい固執

あなたは、この世を照らさなければなりません。
あなたという存在によって、この世が少しでも光を得るようにしなければならないのです。
あなたはこの世を照らすという大いなる役割を以て生まれたのです。
自分のことばかりを考え、小さな視野の中で傲慢(ごうまん)に生きる者は、自分に与えられた役割を見失っています。
自分に与えられた役割を見失っているのであれば、人生の目的を果たすことはできません。
人生の目的を果たすことができないというのであれば、幸福や豊かさというものを得ることは叶わないのです。
人は何のために生まれ、何のために生きているのか?ということを、常に探求し続けなければならないのです。
自分が何のために生まれ、何のために生きているのか?ということを探求することがなく、世俗に捉われて生きるのであれば、虚しい一生を得ることになるのです。
目的意識もなく生きることに、何の喜びがあるというのでしょう?
世俗の営みに心を乱し、本来の目的と役割を見失って生きることが幸福を導くのでしょうか?
人生というものを深く考えなければなりません。
ただ生活するために生きるのであれば、これほど辛いことはありません。
なぜなら、世俗には苦悩が溢れているからです。
世の中の仕組みに慣れ、それを追い求めるような生き方をしているのであれば、人が苦悩するのは当然の結果であるのです。
世の中の目的と、人生の目的とを混同してはなりません。
世の中を動かしているのは人の心です。
人の心とは未熟であり、不足しているのが常です。
そのため、世の中が成熟することは簡単ではないのです。
世の中には恐怖と悪意が渦巻いているのです。
それは、人の心の投影なのです。
世俗には苦悩が溢れているということは、人の心を観察すれば容易に理解することができるのです。
未熟であり、不足を所有する人は利己的な思考に捉われ、利己的な生き方に固執(こしゅう)するようになります。
利己的な生き方に固執するような人が、誰かや何かのために自主的に貢献するということは有り得ません。
利己的な生き方に固執するような人の目的は、自己の利益に他ならないからです。
自己の利益のために働き、自己の利益のために生きるのです。
しかし、それでは世を照らすことはできません。
利己主義的な生き方であっては、自分自身を照らすことに精一杯です。
夜道において、自分自身を照らすのであれば、目の前の道がどのような様子なのかを理解するには至りません。
自分自身を照らすことによって光が視界に入り込み、眩しさのあまり足元すら確認することができないのです。
夜道を安全に歩むためには、自分自身ではなく、周囲を照らさなければならないということなのです。
世界は、他人との共存によって成り立ちます。
あなたは決して、人生を独りで歩んでいる訳ではありません。
どのような形にしろ、他人と共に歩んでいるのです。
そのため、自分自身を照らすだけであるのならば、共に歩む他人をも苦しめてしまうという結果を引き起こすことになるのです。
自分の周囲を照らすことは、他人の足元を照らすことです。
足元を照らされた相手は、あなたに感謝するでしょう。
感謝した相手は、自らの所有する光によってあなたの足元を照らし返すのです。
そうやって世界は光に満ち、暗闇を恐れる必要もなくなるのです。
利己主義的な生き方によって自分自身を照らすのであれば、世界には闇が溢れます。
世の中に苦悩が溢れているのは、光の届いていない暗闇があるからなのです。
暗闇に落ち込む時、人は恐怖に支配されます。
恐怖は苦悩を導きます。
苦悩の原因は恐怖にあるということを理解するのであれば、それに捉われないことは決して難しいことではないのです。
あなたは自分が何をするべきであるのか?ということを理解しましたか?
この世を照らさなければなりません。
どうやって照らすのでしょう?
それは、喜びによって照らすのです。
喜び、楽しみ、慈しみ、寛容(かんよう)、許し、安心、希望、協力、愛情・・・
このような建設的な感情や生き方によってのみ光は導かれ、世は照らされるのです。
あなたは自分の態度がどのようなものであるのか?ということを観察しましょう。
そして、それが少しでも世を照らす態度であるように努めなければならないのです。
自分勝手に生きても、楽しいことはありません。
利己主義的な生き方は虚しいだけであるということに、あなたが一刻も早く気が付くことを願っています。
虚しい固執を手放しましょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿