人にとっての真の財産とは何でしょうか?
あなたは何に対して価値を覚えますか?
多くの人は自分自身(健康な生活や自由な時間や夢などの目的)であると答えるでしょう。
そして、次点においては家族や恋人などの他人と答えるでしょう。
そして、その次にはお金や仕事などと答えるのです。
その順番がそれぞれに入れ替わることもあります。
しかし、大抵の人はこれ等に対する価値を見出すはずなのです。
あなたにとって価値のあるものとは何ですか?
これ以外には、宗教や思想、民族や国、正義や志などと答えるかも知れません。
人にはそれぞれに何かしらの価値があり、何かしらの財産があるのです。
多くの人は、それが外に存在していると考えます。
それは、普段から外ばかりに注目して生きているためです。
物事の外見には認識が及びますが、その内面に対しては、認識が及ばないのが現状なのです。
あなたは、自らが求める価値について、それがどのような状態であることを求めているのか?ということを考える必要があるでしょう。
外見が良ければ良いという考えであっては、それを手に入れたとしても、後に見込み違いであるということに苦悩することもあるのです。
ただ、自分自身が満たされていれば幸福なのでしょうか?
あなたの傍(かたわら)には、苦しんでいる人がいるかも知れません。
ただ、家族や恋人がいれば良いでしょうか?
その人たちはあなたのことを嫌っているかも知れません。
ただ、お金や仕事があれば良いでしょうか?
それは、社会や誰かを犠牲にして得たお金や仕事であるかも知れません。
宗教や思想、民族や国、正義や志が破滅的な性質を持っていたとしても、それに価値を見出すことができるでしょうか?
大切なのは、それがただ存在する、ただ所有しているということではありません。
それが、貢献という形の性質を持っているか?ということが重要であるのです。
それが真の財産となるためには、あなたの求めている価値、所有している価値が、建設的な状態にあることが必要であるのです。
ただ求めても、ただ所有しても、それが破滅的な性質を所有しているのであれば、それを求め、所有していることによって苦悩を得るということになるのです。
そのため、外的要素にこだわるのは、見込み違いを生み出す原因となるということなのです。
内的要素にこだわることをしなければ、満足と幸福を得ることはできないのです。
この世界では”愛”によってのみ、幸福が実現します。
愛が不足している場所に幸福が実現することはありません。
どのように努めても、それが愛に乏しい行為であるのならば、苦悩を得ることになるのです。
自分自身の充実や、家族や恋人や、お金や仕事・・・
どのようなものを所有していたとしても、それが愛に乏しい状態であるのであれば、因果の仕組みによって苦悩が導かれるのです。
あなたは本当に価値のあるものが何であるのか?ということを理解することができましたか?
”愛”が不足しているのであれば、何を得ても価値がありません。
愛が不足しているものの外見がどれほど優れていたとしても、それがあなたの真の財産となることはありません。
どれだけ気に入った外見の恋人に巡り合ったとしても、暴力を振るうような相手であっては幸福が実現することはないのです。
内的な性質がどのような状態にあるのか?ということが重要であるのです。
多くの人は外的に世界を捉えています。
そのために、自らの所有しているものが外的にどれだけ優れているのか?という取るに足らない価値を競っているのです。
精神的な成長によって、感性(価値観)というものは大きく変化します。
人が何を好むか?ということは、安定することがないのです。
十代の頃に好んでいたものを、二十代になってまで同じように好むでしょうか?
三十代、四十代と歳を重ねる時に、感性が同じであるということはないのです。
そのために、外的要素には一時的な価値しかないということが理解できるでしょう。
世界を表面的に捉えてはならないのです。
内的要素を大切にしなければ、真の価値と真の財産に気が付くことはできないのです。
外的要素に捉われる人は、どれだけの欲望を生み出しても満たされることはないのです。
あなたにとっての真の財産とは何ですか?
物事には外的要素と内的要素が存在しているということを理解しましょう。
そして、本質は常に内に存在しているということです。
そこに愛があるのか?ということを確認する必要があるのです。
この世界に存在するものはすべてが大切なものです。
しかし、あなたに幸福を導くものは、愛が内蔵されていることが条件であるのです。
何に真の価値があるのかを考え続けましょう。
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