あなたは、隔たりなく学ばなければなりません。
	偏見を以て学びを完成することはできません。
	偏見によって学んだところで、それは偽りの真実を得ることになり、学んだことにはならないのです。
	何かを学ぶということは、その対象を正しく理解するということです。
	正しい理解とは、その本質を知るということであり、表面的な外見を知るということではないのです。
	人の表情を観察したとしても、それだけではその人の心の動きを理解することはできません。
	その人が笑顔を浮かべていたとしても、心の中には苦悩や悲しみが存在しているということがあるのです。
	その人が笑顔であったからといって、それで理解を得たことにはなりません。
	笑顔であったとしても、その心の中に存在しているものを見極めることがなければ、理解を得ることにはならないのです。
	その人が厳しい表情を浮かべていたとしても、その心の中には愛が溢れているかも知れません。
	見極めを誤れば、結果は苦しいものとなります。
	それは、大きな誤解となり、苦悩の結果を導くのです。
	偏見を以て見るのであれば、そこには隔たりが生じます。
	隔たりによって対象は歪んで見えたり、隠されることになるのです。
	一部を知っただけでは、全体を知ったことにはなりません。
	対象を理解するためには、全体をできる限りに知る必要があるのです。
	しかし、多くの人は全体を知ることができません。
	それは、小さな価値観に固執するからです。
	すべての人は自分自身の考えを所有しています。
	それぞれの信念のために、人は生きているのです。
	それは一見すると良いことのように思えます。
	信念を以て生きることは重要です。
	しかし、それが極端になり、柔軟性に欠けてしまうと、問題が生じるのです。
	それが偏見であるのです。
	強過ぎる信念は自我を強調します。
	自我によって人は善悪という隔たりを用います。
	その結果、分裂が生じ、理解は遠ざかるのです。
	散り散りのパズルは、何を描いているのか分かりません。
	それは一つ一つが全体の絵を構成している欠片です。
	まとまりが無ければ、全体を理解することはできないのです。
	一つ一つのピースが正しく配置されなければ、理解を得ることはできません。
	それがどのようなパーツであろうとも、それを欠かすことはできません。
	すべてのピースが揃わなければ、パズルは完成しないのです。
	多くの人は偏見によって世界を見ています。
	例えるならそれは、パズルのピースが散り散りになっている状態であるのです。
	そのために、人生における様々な状況に対して、その意味を理解することができずに苦しむのです。
	状況に対して、散り散りになっているすべてのピースを正しく繋ぎ合わせることができれば、その状況に対して不安や心配などの破滅的な感情を生み出す必要はありません。
	パズルが完成した暁(あかつき)に得られるものは、感動や納得などの建設的な感情であるのです。
	そこにネガティブな心は生まれないのです。
	あなたは隔たりなく学ばなければなりません。
	物事には外的傾向と内的傾向の二つの性質が存在しています。
	物事には、表面的な現象と内面的な本質が備わっているのです。
	これは、因果の仕組みにも見受けられる法則です。
	片方だけを注意深く見ても、理解を得ることはできません。
	簡単なことではありませんが、状況に対してそれを隔たりのない寛大な視点によって観察しましょう。
	この世界に”悪いこと”は存在しません。
	すべてが意味のある大切な学びであるのです。
	もしも、”悪いこと”を知っているというのであれば、それはあなたの偏見が勝手に決め付けた浅はかな見解なのです。
	一部だけを知っているからといって、全体を知った気になっていてはなりません。
	それでは全く足りないのです。
	目に見えるものだけを大切にすれば、目に見えるものまでも損なうことになります。
	それは当然です。
	目に見えるものの原因は目には見えないものにあるからです。
	あなたの心(感情や思考)が行動を生み出すのです。
	行動が目に見える形を生み出すに過ぎません。
	善悪の判断(偏見)を置いて、隔たりなく学ぶことに努めましょう。
	そして、学びを完成させましょう。
	
0 件のコメント:
コメントを投稿