人生は未知の世界です。
	それは、人が無知であるからです。
	この世界は広大であり、あなたには知り得ません。
	あなたがどれだけ幅広く世界を観察したとしても、そのすべてを理解することは不可能です。
	それは、この世界がすべての人のそれぞれの人生のために存在し、あなたは他人の人生を含めて生きることができないからです。
	あなたはあなたの人生の学びを得ることで精一杯です。
	それを超える情報を得ることはできません。
	あなたがこの世界に存在しているすべての人を知らないように、この世界に存在している情報のすべてを得ることはできないのです。
	そのため、あなたには無知という状態が継続され、人生は未知によって溢れるのです。
	どれだけの情報を集めようとも、知らないことが溢れてきます。
	あなたがすべてを知ることはないのです。
	しかし、これは情報を集めること、一つでも多くのことを理解しようと努めることが無駄になるというのではありません。
	あなたはできる限りの情報を集め、一つでも多くのことを理解する必要があるのです。
	それでも、無知と未知は存在し続けるのです。
	そこには大切な訳があります。
	それは、人生が楽しいものになるためです。
	最も簡単に表現するのであれば、人生は楽しむためのものです。
	すべての経験を楽しむことができれば良いのです。
	成長とは、興味関心を以て経験することによって得られる建設的な気付きによって実現します。
	経験に対して建設的でなければ、成長を実現させる気付きを得ることができません。
	破滅的な気付きも重要です。
	苦しみや悩みも重要です。
	それを否定しているのではありません。
	最終的には、建設的な気付きを得ることによってのみ、成長が実現するというのです。
	建設的な気付きこそが、成長への扉を開く鍵になるのです。
	そのため、紆余曲折(うよきょくせつ)しながらも、楽しむという建設的な気付きに辿り着いて欲しいと願うのです。
	そのためには、どうすれば楽しむという状態が実現するのか?ということを考察しなければなりません。
	既知(きち)の情報や体験を再び得ることは楽しみに繋がるでしょうか?
	あなたがそれを過去に体験しているのであれば、それを楽しむことは厳密にはできません。
	既に結末を理解しているために、安心して眺めることができるのです。
	安心して眺めることを良いことと考える後進的な考えの人は多くいますが、その人たちがその体験を本当の意味で楽しんでいるといえるのでしょうか?
	楽しみとは、できる限り多くの感情を得ることによって生じます。
	楽しみとは、脳が感知するのではありません。
	それは、心の働きによって得られる心的な副産物なのです。
	心が大きく揺れ動くほどに、多くの感情を得ることができます。
	様々な感情の方向に引っ張られることによって、心はそれを認識するのです。
	同じ感情をどれだけ経験しても、心は退屈を得ることになります。
	何事においても、それを繰り返しているのであれば、楽しみは失せるのです。
	それは、繰り返すことによって難易度が下がるからです。
	簡単なことから生じる楽しみは、とても少ないのです。
	そのため、人は繰り返しを嫌うのです。
	多くの人は安定を求めていますが、それでも退屈は拒絶します。
	安定が続くことによって退屈が生じるのは明らかであるにもかかわらず、それを嫌うのです。
	それは、無意識下における本心は様々な感情を欲しており、常に自らを大きく揺さぶることを求めているのです。
	日常から離れることに楽しみを見出すのはこのためです。
	しかし、この矛盾には気が付きません。
	人は安定を求めていますが、同時に変化を求めているのです。
	それは、未知が楽しみの材料(原因)であるということを、心は知っているからなのです。
	そのため、人は変化という刺激を求めるのです。
	未知を認識しなければ、人生が豊かさを得ることはありません。
	自分が”知っている”などと思い上がってはなりません。
	あなたは生涯を通じて無知であり、世界は未知のままであるのです。
	あなたに理解することができるほど、この世界は小さなものではないのです。
	知らないことが存在することが楽しいということを理解しましょう。
	冒険には危険が付き物です。
	それは、未知へ向かうからです。
	知らないことに対して、人はうまく立ち回ることができないのです。
	それを恐れる気持ちが溢れてきますが、心はそれを楽しんでいるということを知らなければなりません。
	未知は楽しみの原因です。
	そのこと知って、未知に冒険しましょう。
	
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