このブログについて

「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2017年5月31日水曜日

自分で考える

これは、あなたの人生です。
あなたは、自分の人生を生きる必要があります。
人は誰もが、必要な役割を与えられて生まれます。
この世界には、不要な存在はありません。
すべての人が、必要に従って生まれ、必要を満たすために生きているのです。
あなたには、あなたの役割があります。
その役割に従って生きることによって、必要が満たされるのです。
そのため、あなたは自分の人生を生きる必要があるのです。
しかしながら、多くの人は自分の人生を生きてはいません。
自分に役割が与えられているということを知らずに生きているのです。
それは、人生が直接的に役割の話をしないためです。
残念ながら、人生が直接的にあなたに役割のことを話すことはありません。
待っていれば、役割を果たせるということはないのです。
あなたは自分で考え、自分で理解する必要があるのです。
人生があなたを甘やかすことはありません。
人生は、あなたの自力を育てているのです。
あなたは成長する必要があります。
燕(つばめ)の雛(ひな)のように、口を開けて待っていてはならないのです。
人生というものは、自分で考え、想像し、行動し、創造する必要があるのです。
多くの人は自分で考えることをしません。
多くの人は、考えを誰かに任せているのです。
そのため、想像力は欠落し、選択肢は減少します。
少ない選択肢の中から行動したとしても、生み出されるものは歪(いびつ)です。
自分で考え、豊かな想像力によって選択肢を増やし、多くの選択肢の中から行動すれば、生み出されるものは真(まこと)なのです。
自分で考える人は豊かな人生を築き、自分で考えることを放棄する人は乏しい人生を築きます。
これが自分の人生であるということを理解していることが重要であるのです。
人は、未熟です。
出来ることは限られています。
上手くいかないことばかりであり、納得することはできないでしょう。
しかしながら、自分で考えている人は、未熟さの中に成長を実感することができます。
自分で考えることのない人は、未熟さの中に苦悩を実感することになるのです。
自分で考えることによって、人は成長することができるのです。
自発性こそが、成長の原因であるのです。
誰かや何かに従うだけの人間には、成長する可能性は導かれません。
それは、機械のように、同じ作業を続けることによって劣化するだけなのです。
人は同じことを続けてはなりません。
常に変化の中に存在する必要があるのです。
昨日と同じではなりません。
あなたは常に変化し続ける必要があるのです。
自分で考えることを放棄する人は、他者の作った道に追従する以外の方法を見出すことができません。
それは、自分で考えないからです。
与えられたことを消化するだけの退屈な存在となるのです。
退屈は苦悩に結び付きます。
自分で考えることを放棄すれば、人は必ず苦悩に陥(おちい)るということを覚えておきましょう。
あなたは自分で考えなければなりません。
考えることは、知識という燃料を必要とします。
薪(まき)がなければ、炎を得られないのです。
そのため、あなたは知識を必要としなければなりません。
あなたは学び続けなければならないのです。
無知であってはなりません。
無知であっては、何も考えられないのです。
知識が考えることをさせます。
知識が想像力を育みます。
知識が行動を促(うなが)します。
知識が創造力の源なのです。
学ばない者が自分の人生を生きることはできません。
自分で考えない者は、幸福を得られないのです。
あなたが幸福を求めているのであれば、自分で考えるように努めましょう。

2017年5月30日火曜日

成るように成る

人生とは、思い通りにはいかないものです。
多くの人は、人生を思い通りに進めようとしています。
多くの人は理想を実現しようと努めるのです。
しかしながら、そうはいきません。
すべての理想は退けられ、必要な現実が導かれます。
人生は、あなたの欲しているものを与えはしません。
それは、あなたが未熟であり、無知であることを知っているからです。
未熟で無知な者の欲するものは歪んでいます。
未熟で無知な者の欲するものは、却(かえ)ってその者を苦しめるのです。
あなたの人生は、誰よりもあなたのことを考えています。
そのため、あなたの欲するものではなく、あなたに必要なものを導くのです。
人生は思い通りにはいきません。
それは、必要が導かれているからです。
多くの人は、自分が欲するものを手に入れることが最善だと考えています。
しかしながら、あなたは未熟であり、無知なのです。
自分が欲するものを手に入れるということは、決して最善ではないということなのです。
理想は最善ではありません。
現実こそが最善なのです。
あなたは現実を受け入れましょう。
現実とは、目の前のそれです。
あなたの目の前に存在するすべてが現実です。
それを受け入れる必要があるのです。
問題が生じていたとしても、それが現実です。
それを否定することは、現実を否定し、理想を追い求める行為です。
それでは、最善を受け取ることはできません。
人生は、問題を受け入れることを最善と判断して導いたのです。
あなたが問題を受け入れることによって、それを解決する可能性が高まります。
問題を解決する経験こそが、あなたに成長を導くのです。
欲するものを手にしたとしても、成長することができなければ価値がありません。
都合の良い世界を生きたところで、何の意味もないのです。
あなたが生きなければならないのは、成長することのできる世界です。
それは現実の世界なのです。
人生は思い通りにはいきません。
あなたに決められるのは、どう解釈するのか?ということだけです。
次に受け取る状況は、因果が決めるのです。
出来ることは出来るし、出来ないことは出来ないのです。
成ろうとして成ることもあれば、成ろうとして成れないこともあります。
そして、成ろうとせずに成ることもあるのです。
人生は、あなたの欲求を無視します。
それは、あなたが未熟であり、無知であるからです。
理由はそれだけです。
願いが叶ったと思うのは、必要と欲求が重なっていただけのことです。
あなたの願いが聞き入れられた訳ではありません。
健康に気を付けていても病気が与えられます。
不健康な生活を続けていても健康が与えられます。
生きようとして死を受ける人がいます。
死のうとして生を受ける人もいます。
あなたの取るに足りない欲求など、人生が実現するはずがないのです。
少しだけ深く考えてみましょう。
そうすれば、願いが叶うことなどないと理解することができるでしょう。
人生を思い通りに進めようと努めてはなりません。
理想に逃げてはならないのです。
目標や夢を追うことと、理想に逃げることは違います。
思い通りにいかない人生を受け入れましょう。
現実こそが最善です。
人生は、成るようにしか成らないのです。
自らの取るに足りない欲求を退け、目の前の現実に感謝しましょう。

2017年5月29日月曜日

仕方のないこと

すべての人は、現実を生きています。
誰も、理想を生きることはできません。
理想とは幻想であり、それに触れることはできません。
理想とは、あなたの頭の中だけに存在する仮想の世界なのです。
誰も、仮想の世界に生きることはできないのです。
多くの人が理想を欲しています。
多くの人が理想を生きようと願うのです。
しかしながら、誰も理想を生きることはできません。
すべての人は現実を生きるのです。
あなたが得られるのは、理想とは異なった現実です。
多くの人にとって、現実とは苦しみです。
それは、現実には問題が存在し続けるからです。
人生の目的は、自らの成長にあります。
成長するためには、余計な所有を手放す必要があります。
誰もが誤解や錯覚や無知などの不自然を所有しているのです。
それ等を取り除くことによって、人は成長することができるのです。
不自然を取り除くためには、それと向き合う必要があるのです。
向き合うことによって理解を得ることができます。
理解を得ることによって、不自然を手放すことができます。
理解が得られなければ、不自然を理解するまで所有することになるのです。
問題とは、不自然と向き合うことによって生じる自然です。
人生において、問題が存在し続けることが自然であるのです。
問題を否定し、成長を妨げるというのが不自然な行為であるということを理解する必要があるでしょう。
問題とは現実です。
理想の世界には問題は存在しません。
それは、理想とは都合の良い世界のことであるからです。
現実には都合の悪い問題が存在しています。
それを喜ぶ人は少ないのです。
多くの人が都合の良い世界を求めます。
しかしながら、都合の良い世界を生きることによって生じる問題についての考えは持ち合わせてはいないのです。
あなたは、都合の良い世界には大きな問題が生じることを覚えておきましょう。
あなたは未熟です。
そして、不自然な存在です。
未熟であり、不自然な存在にとって都合の良い世界というものは、当然ながら不自然な世界です。
元々は自然な存在であるあなたが、不自然な世界に生きるということは、苦悩という結果を受ける以外の選択肢は存在しないのです。
誤解や錯覚や無知などの不自然を所有している者が苦悩を生きるというのは、当然のことなのです。
しかしながら、多くの人はそのことに気が付きません。
気が付かないために、いつまでも理想を追い求めているのです。
大切なのは、現実を受け入れることです。
あなたは現実を生きているのです。
現実を受け入れることがなければ、何も始まりはしないのです。
あなたは理想を諦めましょう。
仕方がないということを理解しましょう。
それ以外の結果を得ることは不可能なのです。
この世界には、因果の仕組みが存在しています。
すべての状況が、あなたの選択の結果であるのです。
原因はあなたにあります。
他にはありません。
現実に導かれる状況は、あなたの実力そのものであるということなのです。
他の選択肢はありません。
受け入れましょう。
理想に逃げ込もうとも、そこでは何も得られません。
なぜなら、理想の世界など存在しないからです。
潔(いさぎよ)く諦め、潔く受け入れるのです。

2017年5月28日日曜日

問題の扉と知恵の鍵

人は、小さな世界を生きています。
すべての人が、世界を限定的に生きているのです。
あなたの生きる世界は、あなたの認識に依存します。
あなたの認識が世界を見せるのです。
あなたの認識しない世界を生きることはできません。
すべての人は未熟です。
すべての人が不足しています。
すべての人が偏見と誤解に満ちています。
すべての人が盲目(もうもく)であるのです。
すべての人が、小さな世界を生きるのです。
あなたはそのことを覚えておきましょう。
すべての人の生きている世界は小さくて限定的です。
しかしながら、多くの人は自分は”知っている”と思い込んでいます。
多くの人は、自分が正しいと思い込んでいるのです。
残念ながら、”知っている”人はいません。
この世界には、正しい人など存在しないのです。
すべての人が未熟であり、誤解を所有しているということを覚えておきましょう。
あなたは決して、思い上がってはなりません。
あなたの認識など、小さなものでしかないのです。
あなたは自分が”知らない”ということを自覚しましょう。
あなたは無知であって、何も知らないのです。
何も知らない者は小さな世界に生きることになりますが、それを満足する者はいません。
人の魂は、無知を満足するほど愚かなものではないのです。
あなたが小さな世界を満足しているのであれば、自分が愚かな存在であるということを自覚しなければなりません。
あなたは学ばなければなりません。
あなたは、学び続けなければならないのです。
世界は広いのです。
あなたには知らないことが山程あるのです。
そこには、より良い方法が存在しているのです。
大きな世界を知れば、小さな世界を満足することなどできないのです。
そのため、あなたの満足は虚偽(きょぎ)に過ぎないということを知る必要があるのです。
あなたは小さな世界を手放し、より大きな世界へと向かいましょう。
そのためには、問題の扉を開く必要があります。
小さな世界から、大きな世界へと続く扉とは、人生における様々な問題であるのです。
問題を解決することによって、大きな世界への扉を開くことができるのです。
扉を開くためには鍵が必要です。
問題の扉を開く鍵とは知恵のことです。
あなたは、知恵によって問題を解決することができるでしょう。
しかしながら、知恵を身に付けるのは簡単なことではありません。
それは、知恵は苦しみを経なければ得ることができないからです。
あなたは苦しみを必要としているのです。
苦しみとは、実践哲学です。
苦しむからこそ考えることができるのです。
苦しみを否定するのであれば、思考を放棄することになるのです。
人は苦しみの後押しによってのみ、自発的に考えるようになるのです。
苦しみの後押しがなければ、人は甘えるようになるのです。
甘えは人を破滅に導くでしょう。
それは、甘えによって自主性を失うからです。
依存によって知恵を得ることはできません。
他者を師と仰(あお)ぎ、その教えに追従(ついじゅう)したところで何の知恵も得られません。
それよりも、自ら苦しむ方が知恵を得られるのです。
人は、苦しみの中で多くの学びを得ます。
人は、苦しみの中で知恵を育むのです。
知恵の乏しいことを喜んではなりません。
小さな世界に長(なが)らえてはなりません。
苦しみと向き合うことによって得られる知恵の鍵を使って、問題の扉を開きましょう。
そして、大きな世界を生きるのです。

2017年5月27日土曜日

人は苦しみのために生きている

あなたは、何のために生きているのでしょうか?
人が生きるには様々な理由があるでしょう。
人ぞれぞれに立場が異なり、必要も異なります。
そのため、生きる理由は異なるのです。
しかしながら、生きる理由の根本は同じなのです。
立場や必要は一時的なものでしかありません。
様々な概念を取り除いていけば、差異(さい)はなくなるのです。
すべての人が根本的には同じ理由によって生きていますが、立場や必要によって細分化されているために別々の理由を所有しているように思うのです。
表面的には、人はそれぞれの生きる理由に従って生きています。
立場や必要によって、生きる理由は異なるのです。
しかしながら、それ等は表面的な理由に過ぎず、根本的には別の理由に従っているということを知らなければならないのです。
あなたは、成長するために生きています。
すべての人が成長することを生きるための根本的な理由としているのです。
成長することが生きる理由であることを認識することができず、目の前の表面的な理由を重要視している人も多いのです。
それが悪いということではありません。
人は、目の前のことに対して懸命に取り組まなければなりません。
しかしながら、視野が広い方が余裕を以て目の前のことに取り組むことができるのです。
表面的な理由に捕らわれず、根本的な理由を視野に入れている人は、余裕を以て生きることができるのです。
多くの人はあまりにも、目の前のことに捕らわれ過ぎています。
懸命に取り組むことは素晴らしいことですが、力を抜くことも覚えなければなりません。
張り詰めた綱は脆(もろ)いのです。
何事にも余裕が必要です。
あなたは、生きるための根本的な理由が成長することにあると知りましょう。
そうすれば、立場や必要を俯瞰(ふかん)することもできるのです。
すべての状況が成長のために導かれるということを知れば、目の前の状況に翻弄(ほんろう)されることもなくなるでしょう。
視野を広げるというのは、こういうことなのです。
多くの人が、立場や必要によって翻弄されています。
それは、そこから導かれるものが苦しみであるからです。
どのような状況にも苦しみは含まれています。
あなたが苦しみを避けることはできないのです。
人は苦しみのために生きているということを知りましょう。
しかしながら、多くの人は喜びのために生きていると思い込んでいます。
幸福のために生きても、得られるのは苦しみです。
それは、苦しみにこそ価値があるということを示しているのです。
勿論、苦しみが続くことに価値があるというのではありません。
苦しみと喜びは、交互に訪れることが自然なのです。
そのため、苦しみを否定するのは不自然です。
喜びだけを求めるのも不自然です。
苦しみと喜びの両方が必要であるのです。
あなたは苦しみを受けます。
苦しむことによって、自分の中に弱さを発見することができるでしょう。
自分の中の弱さを発見することによって成長することができるのです。
もしも、苦しみによって自分の中に弱さを発見することができなければ、それを放置することになるのです。
弱さを放置するのであれば、成長することはできないのです。
人は、成長することによって自由を得られます。
自由を得ることは喜びです。
それは、人を苦しみの鎖(くさり)である不自由から解放される喜びなのです。
しかしながら、自由を得ることによって得られる喜びはいつまでも続くものではありません。
なぜなら、自由を得ることによって退屈するようになるからです。
人は、自由によって苦しむのです。
あなたは自由でも不自由でも苦しむのです。
そして、自由でも不自由でも喜ぶでしょう。
どちらにしても苦しみ、どちらにしても喜びます。
立場や必要によって得られるのは苦しみと喜びの感情です。
苦しみと喜びを繰り返すことによって得られる(副)産物が成長なのです。
そのため、人は成長を目的に生きているということなのです。
それ以上の理由を知る必要はありません。
それ以上の理由は、あなたが成長した暁(あかつき)に知ることができるでしょう。
今は、自分が立場や必要のために生きているけれども、それは成長のためであるということを理解しておきましょう。

2017年5月26日金曜日

満足の基準

あなたは、多くを所有してはなりません。
多くを所有すれば、苦悩を導くのです。
人は、持ち過ぎるものではありません。
人は、持ち過ぎないように努めなければならないのです。
しかしながら、多くの人は弱さを抱えています。
弱さは恐怖に根差します。
恐怖は不足を煽(あお)ります。
弱さは不足を恐れさせるのです。
そのため、多くの人は不足を回避しようと努めます。
不足を回避するために、必要以上に所有しようと努めるのです。
それは、恐怖によって導かれる結果であるにもかかわらず、多くの人はそれに満足を覚えるのです。
10割でも多過ぎるのです。
あなたは袋に満杯に詰め込んではなりません。
それは、袋を損なうからです。
あなたは、中身よりも袋の方が重要であることを知らなければなりません。
袋を損なってしまえば、他のものを詰めることができないからです。
袋を損なわないために、余裕を持たせるのです。
多くの人は10割を満足だと考えています。
欲深い者は、それを超えて欲しがるでしょう。
満腹になるほどに食物を詰め込めば、満足を得られるでしょう。
しかしながら、それは一瞬のことです。
一瞬の満足の後には、苦悩が襲うのです。
胃袋に食物を満腹に詰め込むものではありません。
腹八分という言葉があるのです。
満腹を得なければ、あなたは幸福を得ることができるでしょう。
大きな袋に必要以上に詰め込んでは、その重みに絶えられなくなります。
あなたは、必要以上の荷物を運ぶことはできないのです。
多くの人は必要以上に得ることで満足します。
それは、多くの人が弱さを抱えているからです。
弱さを抱えている人は、持ち過ぎることに幸福を覚えます。
必要以上に所有することを美徳と思い込んでいるのです。
残念ながら、この世界においては、持ち過ぎることに利点はありません。
それは、この世界には陰陽の仕組みが存在しているからです。
この世界のすべてに、陰陽の仕組みが関わります。
陰陽の仕組みには、”代償と報酬の天秤”が含まれています。
すべては、相応しい形に収まるのです。
誰であっても、代償に相応しい報酬を受けることができます。
あなたがこの世界を不公平だと思っているのは、偏見に陥(おちい)っているからです。
物事を短絡的にしか捕らえることができずに、自分の中だけで不公平だと思い込んでいるのです。
代償と報酬は、形を変えて導かれているのです。
そのことを理解しなければなりません。
知恵を育まなければ、偏見に陥ります。
偏見に陥れば、弱さを抱えることになるのです。
あなたは既に、必要を受け取っています。
それは、”袋”が損なわれないように、余裕を持たせてあります。
そのため、満杯になるまでは受け取ることはありません。
偏見を抱える弱い者は、袋が満杯になるまで欲しがります。
袋が満杯になっても、尚欲しがるのです。
あなたは8割を満足の基準としましょう。
8割を得られれば十分なのです。
まだ入るからといって詰め込むものではありません。
詰め込んでも良いことなどないのです。
その時には良いと思えても、必ず後悔するのです。
人生は公平です。
すべては、代償と報酬の天秤によって計られます。
不正はありません。
あなたは自らの因果によって人生を決めるのです。
満足の基準を見誤ってはなりません。

2017年5月25日木曜日

嘘の鎖

世の中には、嘘が溢れています。
人の世は、大半が嘘によって築かれているのです。
あなたは、人の世を偽りだと考えなければなりません。
人の世で真を探そうとしても、それは難しいことでしょう。
それは、人の弱さに原因があります。
人は弱い存在です。
すべての人が未熟です。
未熟な者は恐れを抱きます。
大抵の人は恐れに従って選択します。
大抵の人は、恐れを原動力としているのです。
恐れは、自身を守らせます。
恐れを抱えている人は、保身に走るのです。
大抵の人は保身を考えています。
保身を気に掛けないでいられるほど、人は強くないのです。
大抵の人が利己的であるということを知らなければなりません。
大抵の人が自分の利益を優先するでしょう。
それは、人が弱いからです。
あなたは、人が弱いということを理解しなければなりません。
間違えてはなりませんが、弱いことが悪いと言っているのではありません。
弱さに甘んじることは最善ではありませんが、現状が弱いからといって、それが悪いということではないのです。
そのため、弱さを抱える自分や他者を責める必要はありません。
弱さを認め、それを手放す心掛けによって生きていく必要があるのです。
大抵の人が弱いために、人の世は恐れに支配されています。
それは、利己的な社会構造を実現します。
大抵の人が保身のために働きます。
人の世は、自分の利益のために成り立っているのです。
自分の利益を得るためには、嘘を吐く必要があります。
真を吐けば、他者の利益を導くからです。
人が強くあれば、真を吐くことによって他者の利益を導けば良いのです。
強い人が互いの利益のために協力することは、最も価値のある行いなのです。
しかしながら、それは理想であって実現することはありません。
現実は、弱い人が自分の利益のために依存しているのです。
人の世は嘘で築かれています。
人々は、嘘の鎖(くさり)によって繋がれているのです。
それは強固な鎖です。
簡単に引きちぎることはできません。
嘘の鎖は、複雑に絡み合っているのです。
嘘の鎖に繋がれている以上、あなたが自由を得ることはできません。
それは、嘘が依存を導くからです。
嘘を吐くことによって、人は依存に陥(おちい)ります。
嘘を吐くことによって生み出された矛盾を隠すために、更なる嘘が必要となるからです。
人は嘘に嘘を重ねます。
その嘘が露呈(ろてい)しないためには、秘密を共有する仲間が必要なのです。
嘘を吐く者は依存を避けることはできません。
嘘を吐くほどに、嘘の鎖は縺(もつ)れるのです。
嘘の鎖を引きちぎるためには、真が必要です。
真を吐くことによって嘘の鎖は緩むのです。
一度縺れた嘘の鎖を解くのは簡単なことではありません。
嘘を吐くことよりも何倍、何十倍もの真の労力が必要となるのです。
あなたが自由を必要としているのであれば、簡単に嘘を吐いてはなりません。
自由を必要としているのであれば、真を吐きましょう。
真はあなたに孤独を導きます。
人の世で真を吐くということは、嘘の鎖で繋がった仲間を失うということになるからです。
しかしながら、それで良いのです。
人は真によって独立し、互いの利益のために協力することが最善であるのです。
嘘の鎖によって依存してはなりません。
真の協力によって、共に生きましょう。

2017年5月24日水曜日

反発

人生には問題が付き物です。
人生には問題があって良いのです。
人生には、問題がなくてはなりません。
人生には、問題がなくては困るのです。
多くの人は、問題が無い方が良いと思います。
感情論に頼れば、問題は無い方が良いと思えるでしょう。
多くの人は感情論によって人生に反応しています。
物事を深く考察することはなく、反射しているに過ぎないのです。
多くの人は、体験をそのまま返します。
例えば、熱いものに触れた時には、ただ熱いという刺激に対する反応をするだけなのです。
本来ならば、なぜ熱いものに触れたのか?
熱いものに触れて何を学んだのか?
熱いものに触れてどうすることが最善なのか?
というように、様々な視点によって、様々な可能性を論理的に引き出す試みが必要であるのです。
どのような体験からも、その可能性を論理的に引き出すことによって、最終的には”自分とは何か?”という問いの答えを導くことに繋がるのです。
あなたが人生を体験しているのは、自分という存在を知るためです。
自分という存在を知るために、様々な体験を必要としているのです。
人生の目的は自分を知ることにあります。
様々な体験を通じて、自分という存在を知ることができれば良いのです。
すべての体験は、そのために導かれるのです。
人生におけるどのような問題も、それは自分を知るために導かれます。
それ以外の目的はないのです。
あなたは自分を知らなければなりません。
すべての人は未熟であるために、自分という存在が何であるのか?を知りません。
そのため、人生には問題が付き物であるのです。
問題の存在しない人生はありません。
どのような人物の人生にも、常に問題は生じているのです。
あなたはそのことを理解しましょう。
問題を抱えているのが自然です。
そのため、問題を拒絶するのは不自然であるのです。
問題は、あなたにとっての苦しみです。
あなたは問題によって悩みを抱えるでしょう。
問題の目的はあなたが苦悩することにあるのです。
あなたは苦悩する必要があるのです。
そのための問題なのです。
多くの人は苦悩を悪いものだと考えますが、決してそのようなことはありません。
寧(むし)ろ、苦悩はなくてはならないものであるのです。
あなたが幸福感を得られるのは、苦悩のおかげです。
苦悩が存在しなければ、幸福は存在することができないのです。
なぜなら、苦悩こそが、あなたを成長させる原動力であるからです。
人は、問題によってストレスを覚えます。
ストレスは、問題に対する反発力を育みます。
問題に対する反発力によって成長が促(うなが)されるのです。
問題に対してストレスを覚えることもなく、反発もしなければ、人はただ従順であるだけです。
従順であるのならば、より核心的な方法は必要ないのです。
従順であるのならば、人は停滞に陥るのです。
停滞は破滅的な問題を生じさせ、破滅的な苦悩を得ることになるのです。
問題を解決するためには、問題に対して反発する必要があるのです。
しかしながら、それは感情論によって問題を拒絶するということではありません。
問題を論理的に受け入れて、論理的に反発するということなのです。
それは、より良い一歩を踏み出すということなのです。
問題は、あなたの心の中に反発力を生み出してくれる最良の協力者です。
反発力によって問題を解決することで、あなたは成長することができるのです。
それは、”自分とは何か?”という問いの答えに近付くことになるのです。
問題にただ反応してはなりません。
問題の存在意義を熟考しなければならないのです。
人生を無意味に過ごしてはなりません。
一つ一つの体験を考察することによって、実りある時間を過ごすのです。
問題に対して建設的に反発し、それを解決することによって新たに問題を発生させ、建設的な苦悩を得ましょう。
人生に問題は付き物です。
問題に対してどのように向き合うかを選択しましょう。

2017年5月23日火曜日

作り物の世界

人生は、思い通りに進むものではありません。
人生は、思い通りに進まないのが自然です。
しかしながら、多くの人は人生を思い通りに進ませるために作為しています。
それは、人生が思い通りに進むことの方が良いと思い込んでいるからです。
残念ながら、人生は思い通りに進まないのが自然です。
そして、思い通りに進まないことが最善なのです。
自分の思い通りに進んで良いことなどありません。
それは、自分という存在が歪んでいるからです。
すべての人格は歪んでいます。
それは、自らの見識を振り返れば理解することができるでしょう。
あなたはいつも未熟な見解によって物事を判断してきました。
あなたの判断は常に未熟な水準に止まります。
あなたは自らのこれまでの判断が最善であったと思えますか?
その時には最善であったと思えても、今になって思えばそうも思えないでしょう。
人は常に成長しています。
そのため、常により良い判断を発見し続けているのです。
満足も不満となります。
喜びも苦しみに至るのです。
歓喜は退屈となり、幸福は不幸となるでしょう。
それは、あなたの判断が未熟であることの証明です。
もしも、あなたの判断が完成されたものであるのならば、評価が変わることはないのです。
しかしながら、あなたの評価は常に変化しているのです。
そのため、あなたは常に未熟な存在であるということを認めなければならないでしょう。
自分が未熟な存在であると認めることができない者は傲慢(ごうまん)に陥(おちい)ります。
傲慢に陥れば、自分が正しいと思い込むのです。
自分が正しいと思い込む者は、人生が思い通りに進むことが最善であると確信するのです。
しかしながら、あなたが未熟であることは疑うことのできない現実です。
自分が正しいとする理想を確信しているのであれば、現実との間に矛盾を抱えることになるでしょう。
人は現実を生きているのです。
理想は、思考の中の妄想に過ぎません。
誰も理想を生きることはできないのです。
そのため、根拠のない理想を確信して自分が正しいと思い込み、人生を思い通りに進ませようと作為する者は、現実との矛盾に苦悩することになるのです。
残念ながら、人生を思い通りに進ませようと作為して幸福を得ることはできません。
それは、作り物の世界であるからです。
人が作る物は未熟です。
未熟な者が作る物は未熟であるのです。
それは当然のことです。
そのため、どのように尽力して作り物の世界を築いたところで、それは未熟な世界を築くに過ぎないのです。
人は、作為の中に生きています。
作為とは、不自然のことです。
例えば、無為(むい)のままに行われる生命活動は自然です。
食欲も、睡眠欲も、性欲も、意欲も、どのような欲求も自然なのです。
しかしながら、人はそこに作為を持ち込みます。
生命活動を作為することによって、それを歪めているのです。
人は作為によって、必要に対して過剰や不足を導くのです。
それは、不自然な強欲や無欲を招くのです。
人は強欲であっても、無欲であってもなりません。
自然(無為)に導かれる欲求に従うことによって、必要を満たすことができるのです。
自然に従えば、人生が思い通りに進もうが進むまいが、それが最善であるということを理解することができるのです。
それは、人生に正解を求める愚かさを手放すことができるようになるということなのです。
正解を求めるために、思い通りに進ませようとしているのです。
人生に対する正解とは、理想という名の妄想です。
そのようなものに価値はありません。
作り物の世界を喜んではなりません。
自分が作り物の世界を生きているということを知りましょう。

2017年5月22日月曜日

拒んでも導かれる現実

人生におけるすべての状況は、あなたにとって必要であるために導かれます。
あなたにとって必要でない状況は、導かれる必要がないのです。
人生には、意味の無いことや、価値の無いと思えることもあるでしょう。
しかしながら、人生には必要以外は導かれません。
それは、あなたが様々な経験を通じて、成長した後に知ることができるでしょう。
人生には、現在のあなたには理解することができないことの方が多いのです。
大抵の状況の必要性を理解することはできないでしょう。
そのため、多くの人が苦悩しているのです。
問題を抱え、苦悩に陥るのは、その状況の必要性を理解してはいないからです。
ただ、それだけの理由によって、状況が問題や苦悩という姿を得るのです。
あなたがその状況の必要性を理解しているのであれば、問題や苦悩が導かれることはないのです。
あなたが必要だと思う状況が、問題や苦悩になると思いますか?
あなたが必要だと思う状況は、あなたにとって歓迎(かんげい)すべきものとなるのです。
多くの人は、初めから問題や苦悩が導かれると思い込んでいます。
しかしながら、問題や苦悩はあなたの認識によって選択されるものであり、あなたが生み出すものであるのです。
すべての状況は、ただの学びです。
それ以上でも、それ以下でもありません。
あなたはその状況から必要な学びを得ることができます。
しかしながら、それを自分勝手に歪めているのです。
人生があなたを苦しめているのではありません。
あなたが自分の意思によって苦しんでいるだけなのです。
そのことを理解することがなければ、目の前に導かれる状況に対する必要性を理解することはできないでしょう。
あなたは、人生におけるすべての状況が、あなたにとって必要であるということを理解しましょう。
目の前に導かれる状況に必要性を見出すことができず、それを拒み続けるのであれば、人生は何の展開もすることはできないのです。
なぜなら、人生はあなたの学びであるからです。
あなたに相応しい状況が導かれるに過ぎません。
あなたが学び、成長することがなければ、人生が展開することはないのです。
あなたが成長しなければ、人生も停滞するのです。
そのため、人生はあなたに必要な状況だけを導くのです。
本当に必要なものは、それを拒んでも導かれます。
本当に必要なものからは、逃れることができないのです。
あなたにとって本当に必要なのは現実です。
多くの人は現実を拒み、理想に逃避します。
しかしながら、理想に逃れることはできません。
どれだけ拒んでも、現実は導かれるのです。
それは、現実こそが必要であるということを意味しているのです。
あなたには、本当に必要なことを理解することはできません。
しかしながら、本当に必要なことを理解する必要はないのです。
学べば良いのです。
理解するために学ぶのです。
理解を得るためには、先に学ぶ必要があるのです。
そのため、初めから理解する必要などないのです。
あなたはただ学びましょう。
心配することはありません。
あなたの目の前に導かれる状況がどのようなものであろうとも、それは、あなたの成長のために必要なことなのです。
人生は、あなたの都合で判断することのできるようなものではないのです。
人生を判断するには、あなたは余りにも未熟です。
あなたは何も知りません。
あなたは何もできないのです。
何も知らず、何もできないのに、どうしようというのですか?
あなたには、何もできないのです。
あなたが何も知らず、何もできないために、人生が必要を導いているのです。
あなたのために尽力している人生に対して、感謝の気持ちを抱くのが自然なのです。
どうして、あなたのために働いている者に対して不義を働くことができるのですか?
拒んでも導かれる現実を大切にしましょう。

2017年5月21日日曜日

共感

すべての人は、可能性を目指さなければなりません。
可能性を目指すということは、変化を目指すということです。
人は、変化しなければなりません。
それは、人生の目的である成長の本質が変化であるからです。
人は成長するために生まれました。
人は、変化するために生まれたのです。
変化は豊かさを導きます。
豊かさは、変化によってのみ導かれるのです。
停滞は乏しさを導きます。
停滞は問題を引き起こし、苦悩を導くのです。
多くの人は、変わらないことに価値を見出します。
それは、停滞するということであって、変化するということではありません。
そのため、多くの人は乏しさに対して価値を見出しているということになるのです。
停滞に価値を見出すのであれば、乏しさを受け取ることになるのです。
停滞に価値を見出して豊かさを得ることはできません。
多くの人が矛盾を抱えているのです。
豊かさを求めているにもかかわらず、変化を嫌っているのです。
人生において豊かさを得るためには、現状に停滞していてはならないのです。
変化し続けることによって、豊かさが継続するのです。
肯定と否定の繰り返しによって変化が生じます。
この世界には、陰陽の仕組みが存在しています。
陰と陽が繰り返すことによって、豊かさが導かれるのです。
多くの人は、自分にとって都合の良いものを保有しようとします。
自分にとって都合の悪いものは否定するのです。
そのため、陰陽のどちらか一方に止まるようになるのです。
陰陽のどちらか一方に止まることによって、変化を失います。
そのため、自分にとって都合の良いものを保有しようとする考えは、乏しさを導くことになるのです。
多くの人は、自分にとって都合の良いものを求めます。
あなたが豊かさを必要と考えているのであれば、自分にとって都合の良いものばかりを求めてはなりません。
都合の良いものと都合の悪いものを同時に保有するのです。
あなたが歩むためには、地面に置いた踵(かかと)を地面から離さなければなりません。
そして、再び踵を地面に置くのです。
踵を地面に置く行為と、地面から離す行為を繰り返すことによって、あなたは歩みを進めることができるのです。
踵を地面から離すことが都合が悪いからといっていつまでも置いておけば、歩むことはできないのです。
自分にとって都合の悪いことにも、大切な意味があります。
大切な意味があるために、目の前に導かれるのです。
そのことを忘れてはならないのです。
多くの人は、共感されることに価値を見出します。
それは、共感されることによって他者に承認(しょうにん)されると思うからです。
共感されることは、安心感をもたらします。
他者からの共感によって、孤独感が紛れるのです。
そのため、多くの人は他者からの共感を得られる状況に止まります。
そして、自分を失うのです。
自分とは、自然であることです。
他者からの共感を基準に人生を選択するのであれば、人は不自然を得ることになるのです。
人生は、歩むのが自然です。
立ち止まっているのは不自然なのです。
どのような問題や苦悩に会っても、歩み続けることが自然なのです。
あなたが自然を失った時、問題や苦悩に会えば絶望し、立ち竦(すく)むことになるのです。
本来ならば、問題や苦悩は成長の可能性を与えてくれる人生からの恵みです。
問題や苦悩の中で変化を目指すことによって、人は成長することができるのです。
すべての人が停滞に陥(おちい)ります。
すべての人が問題や苦悩に会うのです。
その時に、歩みを止めてはなりません。
辛い時にこそ歩むのです。
問題や苦悩の中で、共感者を探してはなりません。
共感する(される)ことによって、可能性を失うのです。
大切なのは、肯定と否定の繰り返しです。
問題や苦悩を受け入れ、そして、それを手放さなければならないのです。
問題や苦悩の中では、共感されないことにこそ可能性が存在しています。
問題や苦悩の中で共感を求めてはなりません。
あなたは、共感されないことにも可能性が存在しているということを理解しましょう。
共感されることばかりを選択する必要はありません。
可能性を必要とするのであれば、共感されないことを選択してみましょう。

2017年5月20日土曜日

死すべき者

人生とは、死への旅路です。
すべての人に時間の限界が存在します。
すべての人が死を迎えるのです。
死を免れる人はいないのです。
あなたはいつか死にます。
それは、今日かも知れませんし、明日かも知れません。
どちらにしても、死を得るのです。
あなたは自分が必ず死ぬことを念頭において生きていましょう。
死を排除した人生に生は輝きません。
それは、生と死は一つの存在であるからです。
死が存在するために生が存在を許されているのです。
死が原因であり、生は結果です。
多くの人は生を原因だと思うでしょうが、それは誤解です。
死を前提として生が存在しているのです。
人は、死ぬために生きているのです。
そのことを理解しなければならないでしょう。
人生の終着点は死です。
そのため、生のために人生を進むことのできる人はいません。
すべての人生が死ぬために存在しているのです。
生のための人生であるのならば、そこには矛盾が生じてしまうでしょう。
死への旅路であるのだから、生に向かうことは矛盾を生み出すのです。
多くの人は、生きるために選択します。
しかしながら、それは時間の経過と共に可能性を失うのです。
それは、人生における生の可能性は、常に減少していくからです。
人生において増加していく可能性とは、死ぬことなのです。
死の可能性は常に増加しています。
可能性の減少するものに尽力するものではありません。
可能性の増加するものに尽力するのが自然なのです。
あなたが矛盾という不自然を手放し、自然を得るためには、死ぬために人生を選択する必要があるということなのです。
生まれた瞬間から、死へと向かいます。
生まれた瞬間から生へと向かう人はいません。
すべての人が、人生を終えるために始めたのです。
死を意識して生きなければなりません。
多くの人は、生きるために人生を選択します。
生きるためには多くのものが必要です。
生きるためには、多くの欲求が必要なのです。
そのため、生きようと強く願う者は、強欲に陥(おちい)ることになります。
それは、傲慢(ごうまん)を引き起こすのです。
傲慢な者は、利益を求めて道を真っ直ぐに進もうと企(たくら)みます。
しかしながら、人生の旅路を真っ直ぐに進むことはできません。
それは、自然界には山があり、崖があり、川があり、海があるように、人力ではどうすることもできない障害が立ちはだかるのです。
傲慢な者は、山を削り、崖を崩し、川を塞き止め、海を埋め立てるのです。
自然を歪めることによって利益を得ようと考えるのです。
しかしながら、自然を歪めることによって生じる弊害(へいがい)のことは考えていません。
自然を歪めることによって、そこには不自然が生じます。
人は不自然の中で豊かに生きることはできないのです。
不自然の中では、問題や苦悩が生じ続けるのです。
欲張って、自然を歪めるものではありません。
迂回(うかい)しなければならないのが自然です。
人生においては、欲張らない方が効率が良いということを覚えておきましょう。
あなたは自然を受け入れるべきなのです。
人生に導かれる様々な状況に抵抗してはなりません。
それは、あなたが賢(かしこ)くなるための学びです。
賢くなければ、いつまでも生きることに欲をかくでしょう。
賢くなければ、人生が死ぬためのものだと理解することができないのです。
あなたは、人生が何のためにあるのか?ということを考え続けましょう。
死すべき者が、強欲に生きるものではありません。
死すべき者が、傲慢に陥ってはなりません。

2017年5月19日金曜日

強さの原理

人は、強く生きなければなりません。
人は、逞(たくま)しく生きるべきなのです。
あなたは自分自身を鍛え上げる必要があります。
あなたは自分自身を磨く必要があるのです。
自分自身を洗練しなければ、強く生きることはできません。
誰もが、人生の目的を所有しています。
誰もが、人生の目的を果たすために生きているのです。
しかしながら、人生の目的を果たすのは簡単なことではありません。
なぜなら、人生の目的を果たすためには、それに相応しい力が必要であるからです。
力が不足しているのであれば、目的を果たすことはできません。
多くの人は、力不足に陥っています。
そのため、人生の目的を果たすことができません。
多くの人が、不満の中に生きています。
それは、人生の目的に向き合ってはいないということです。
人生の目的を果たすために生きているのであれば、満足の中に生きることができるのです。
どのような状況を得ようとも、それが人生の目的に沿っている道であるのならば、満足を得ることができます。
しかしながら、それが人生の目的に反する道であるのならば、どのような状況を得ようとも不満を抱くことになるのです。
人は、自らの人生の目的に沿って生きる必要があるのです。
自らの人生の目的に沿って生きるためには、強くなければなりません。
弱ければ、人生の目的に沿って生きることはできません。
それは、風に吹かれて舞い散る落ち葉のように、目的を他者に任せることになるのです。
自らの人生の目的は、自力によって果たさなければなりません。
誰かや何かに任せていても、人生の目的を果たすことはできないのです。
あなたの人生の目的を知る他者はいません。
誰も、あなたの代わりにあなたの人生の目的を果たすことはできないのです。
あなたの人生は、あなたに責任があるのです。
あなたは自らの責任を果たすことができるほどに強くなければなりません。
強くなるためには、苦しみを大切にする必要があるのです。
あなたが強くなるためには、苦しみの協力が不可欠です。
苦しみの協力無くして、強さを得ることはできません。
多くの人は苦しみを嫌い、拒絶します。
苦しみから逃れるのであれば、却(かえ)って弱くなるのです。
例えば、耕された土地に植えられた樹木は、土が柔らかいために細い根を張ります。
土が柔らかいために、細い根で十分なのです。
しかしながら、いくら細い根を張ったとしても、風雨によって簡単に倒れてしまうのです。
硬い土地に根を下ろした樹木は、土が硬いために太い根を張る必要があります。
硬い土を掘り進まなければならないために、根を強くする必要があるのです。
太い根を張れば、風雨によって倒れることはありません。
そして、根が強い分だけ、幹も枝葉も大きく育つことができるのです。
樹木にとっての苦しみは、土が硬いことです。
硬い土に根を張ることは容易ではないのです。
しかしながら、硬い土に根を張る樹木は大きく育ち、自らの役割を十分に果たすことができるのです。
多くの人は苦しみを否定しますが、それでは強い心は育ちません。
思い通りになることや、都合の良いことばかりを求めてはならないのです。
思い通りにならないことや、都合の悪いことにこそ、強さの秘訣(ひけつ)が備わっているのです。
苦しみの中に根を張ることこそが、強さの原理なのです。
甘えてはなりません。
思い通りになることや、都合の良いことばかりを追い求めてはなりません。
現実はいつも思い通りにはいかず、都合が悪いことばかりです。
しかし、現実はあなたを強くするのです。
自然はあなたを逞しく育てようとします。
しかしながら、あなたは甘えて貧弱になろうとするでしょう。
あなたは強く逞しく生きましょう。
強さによって自由を勝ち取るのです。
それはもちろん、自分の中の不自然(弱さ)に打ち克つための強さです。

2017年5月18日木曜日

主観と客観の一致

人生とは、自分自身を知るための時間です。
すべての人は、自分自身を知るために人生を経験しているのです。
人は、様々な経験を通じて、自分自身を知ることができます。
どのような事柄であろうとも、それは、自分自身を伝えているのです。
人生には、それ以外の目的はありません。
あなたが生活しているのも、人間関係を築いているのも、仕事に勤めているのも、様々な苦悩に向き合っているのも、人生の役割を果たそうとしているのも、すべては自分自身を知るためなのです。
自分自身を知るために生まれ、自分自身を知るために死ぬのです。
そのことを知らなければ、人は、様々な経験に翻弄(ほんろう)されてしまい、冷静さを欠いて、自分自身を見失うでしょう。
自分自身を見失うことによって、人は人生の意味を見失ってしまいます。
人生の意味を見失えば、そこには絶望が待ち受けているのです。
絶望に落ち込めば、そこから抜け出すのは容易ではありません。
絶望にも重要な意味がありますが、落ち込まないで良いのであれば、落ち込まない方が良いでしょう。
あなたは自分自身を知るために人生を経験しているということを知りましょう。
自分自身を知ることが、人生の目的です。
そのため、あなたはどのような経験にも、自分自身を探しましょう。
あなたは思考の中に自分を探すことができます。
あなたの頭や心の中に飛び交う意識が、あなたの現状を伝えています。
あなたは行為の中に自分を探すことができます。
あなたの行為こそが、あなたの現状を伝えているのです。
あなたは他者の中に自分を探すことができます。
他者を通じて得られる経験によって、あなたは自分自身の現状を知ることができるのです。
あなたは状況の中に自分を探すことができます。
あなたの受け取る状況こそが、あなたの現状を伝えているのです。
自分自身を知るためには、客観性が必要です。
客観性を持たずに、自分自身を知ることはできません。
それは、自分自身というものが、あなたの最も近くに存在しているからです。
例えば、客観性を持たずに、自分の(肉体的な)顔を知ることはできません。
あなたは、自分で自分の(肉体的な)顔を知ることはできないのです。
それは、目が顔に備わっているからです。
あなたが自分の(肉体的な)顔を見るためには、水や鏡などの反射によって自分の(肉体的な)顔を知るか、他者に教えてもらうしかないのです。
自分自身を知るということは、決して容易ではないのです。
客観性を与えてくれる対象が必要なのです。
そのため、人生は自分勝手に生きることはできません。
思い込みの主観的な世界に生きているのであれば、自分自身を知ることはできません。
それは、自分の(肉体的な)顔を妄想したに過ぎないからです。
妄想に生きたところで、人生の目的を果たすことはできません。
人生とは現実なのです。
現実とは、主観と客観の一致する世界です。
主観に偏っても、客観に偏っても、それは現実ではないのです。
多くの人は主観に頼って生きています。
そのため、客観を大切にしてバランスを保つ必要があるということなのです。
あなたは、主観に頼ってはなりません。
客観性を大切にしなければなりません。
そうでなければ、自分自身を知ることはできないのです。
あなたは思考と行為と他者と状況を観察しましょう。
そして、考察しなければなりません。
そうすることによって、自分自身を知る手掛かりを得ることができるのです。
観察も考察もせずに短絡的に判断するのであれば、事象の外観に捕らわれてしまうでしょう。
事象の外観に捕らわれるということは、自分自身を構成する要素を知ることには繋がっても、その本質である自分自身を知ることはできないのです。
外観を詳しく調べられても、内容を知ることはできません。
内容を知るためには、外観とは異なる見方が必要になるのです。
外観を見るためには、主観を用いることで十分です。
しかし、内容を見るためには、主観と客観を用いる必要があるのです。
主観と客観が一致しなければ、本質である現実を得ることはできないのです。
あなたは、自分自身を知るためには、主観と客観を一致させましょう。
すべての事象の中に、自分自身を探せば良いのです。
人生を誰かや何かのせいにしてはなりません。
すべての事象が自分自身を起源としているという見方を忘れないことです。

2017年5月17日水曜日

認識の死角

人生は、認識によって築かれます。
人は、人生を認識によって築いているのです。
あなたの人生は、あなたの認識によって築かれています。
あなたの人生は、あなたの認識に相応しい姿を成すのです。
人は、認識に従って選択します。
認識に外れたものを見ることはできません。
認識に外れたものを得ることはできないのです。
人は、自らの認識の範囲内で生きているということを知らなければならないでしょう。
人は未熟な存在です。
人の認識は限定的なものであり、知らないことばかりです。
人は多くのことを発見してきましたが、それでも全体の僅(わず)かの範囲でしかありません。
そして、知っていると思い込んでいるものであっても、その知識は浅いのです。
あなたの認識は狭く浅いのです。
そのことを理解していなければならないでしょう。
しかしながら、多くの人は認識によって人生が築かれることを知りません。
人生は自らの選択の結果であるということを知らずにいるのです。
多くの人は、人生を考察することがありません。
本能に従い、感情のままに生きているのが”普通”です。
そして、与えられるものを消費するのが”普通”なのです。
しかしながら、あなたには人生の目的があります。
それは、あなただけに任せられた仕事です。
あなたはそれを果たさなければならないのです。
本能に従い、感情のままに生きて、与えられるものを消費するだけの人生であれば、自らの人生の目的を果たすことはできません。
人は、何のために生まれたのか?ということを自分自身に問い続ける必要があるのです。
しかしながら、多くの人はその問いを見失っているのです。
人は未熟な存在です。
そのため、依存心を所有します。
依存心は無知を放置するのです。
無知とは、認識の死角です。
人は、無知によって認識に限界を作っているのです。
無知を取り除くことによって、認識の死角を取り除くことができます。
そのため、人は無知を克服する必要があるのです。
人は、限定的な認識の中に人生を築きます。
それは、自身の無知によって誘導されているようなものなのです。
知識よりも、無知の方が大きいのです。
そのため、人が人生を選択する可能性としては、無知に頼ることの方が確率が高いのです。
すべての人は、無知に従っているのです。
人は、大きなものに従うのです。
あなたは自分が無知に頼っていることを知りましょう。
あなたの選択は、錯覚の世界を築きます。
あなたは無知によって、錯覚を生きているのです。
知らなければ、虚像であっても真実と解釈します。
人は、小さな知識よりも、大きな無知を信用するのです。
そのために、錯覚は大きく育つのです。
大切なのは、知識を求め、知恵を育むことです。
知恵が育まれるのであれば、認識の視野も育まれます。
認識の視野が育まれるのであれば、自らの人生の目的を知ることもできるのです。
あなたは学ばなければなりません。
”普通”を生きてはなりません。
当たり前を当たり前として甘えていてはならないのです。
誰かや何かが助けてくれるなどと依存していてはなりません。
人生は自分自身の選択によって築かれるのです。
自分を救うのは、自分自身の選択でしかないのです。
自分の身は自分で守るのです。
誰も守ってはくれません。
知恵こそが、あなたの守護なのです。

2017年5月16日火曜日

皺寄せ

人生に打算は不要です。
損得を考えたところで、あなたが豊かさを得るようにはなりません。
打算は乏しさを導きます。
それは、打算は不自然な方法であるからです。
損得を考えるということは、いつも傾いているということです。
人が打算している時、損か得のどちらかを期待し、どちらかを否定しているのです。
この世界には、陰陽の仕組みが存在しています。
陰も陽も、大切な要素です。
どちらか一方が重要であり、どちらか一方が軽んじられて良いものではないのです。
影と光の協力によって、物質が認識されます。
影と光が協力することがなく、どちらか一方を求めるのであれば、影によっても光によっても物質を認識することができなくなるのです。
陰陽の仕組みを蔑(ないがし)ろにし、打算によって貪(むさぼ)ろうとする者には、その品性に相応しく乏しさが導かれるのです。
人は、自分に相応しい結果を受けるのです。
誰も、因果の仕組みを否定することはできません。
あなたが受け取るどのような結果も、あなたという原因によって導かれるのです。
多くの人は、打算によって人生を豊かさへと導こうとしています。
自分にとっての損を切り捨て、得を取れば、人生が豊かなものになると思い込んでいるのです。
しかしながら、人生はそのように簡単なものでも、甘いものでもないのです。
陰と陽の二つを大切に扱うのであれば、豊かさを得ることができます。
しかしながら、打算によって陰と陽を切り離すのであれば、豊かさを得ることができないのです。
多くの人は、自分に都合の良い結果を求めています。
それは、理想の為せる業(わざ)です。
自分に都合の良い結果ばかりを求めていれば、石垣の石の中から好きなものを選んで引き抜いたことになるのです。
都合良く、石垣の中から石を引き抜いたとすれば、石が引き抜かれた場所の歪みを解消するように、残された石が崩れ落ちるでしょう。
そうやって、この世界は均衡を保っているのです。
都合良く一部を取り除けば、他を代用してバランスを取るのです。
この世界は不自然を嫌います。
すべてを自然な姿に導くのです。
そのため、自らの勝手な理由で都合良く行った作為は、都合の悪い状況によって相殺(そうさい)されるのです。
あなたは、皺寄(しわよ)せがくるということを覚えておきましょう。
自らの都合の良いように事は運びません。
この世界では、不自然は許容(きょよう)されないのです。
あなたは未熟であり、不自然です。
そのため、自らの都合によって判断してはなりません。
例え、都合が悪くても、そこから学ぶことはできるのです。
都合が悪いからといって、それを否定しているというのであれば、学ぶことは制限されるでしょう。
学ぶことが制限されるのであれば、未熟であり、不自然は解消されないままなのです。
この世界は陰陽の仕組みによって成り立っています。
あなたはそれを認めなければなりません。
偏(かたよ)った食事を続けているのであれば、その皺寄せは思わぬ形で訪れます。
偏った人間関係でも同じです。
自分にとって都合の良いものが最善であると考えてはなりません。
自分にとっての都合など、何の価値も無いということを理解しなければなりません。
それは、人が未熟であり、不自然を拭い去ることができないからです。
未熟であり、不自然な者の都合とは、未熟であり、不自然であるのです。
そのようなものに価値はないのです。
そのため、人生には打算は必要無いのです。
心の赴(おもむ)くままに生きるべきです。
そして、そこで導かれる状況に文句を吐かないことです。
どのような状況が導かれようとも、自分の都合を振りかざしてはなりません。
水を掬(すく)えば、忽(たちま)ち水面は元の姿に戻るでしょう。
しかしながら、それは豊かさを得た訳ではありません。
水を掬った分、全体の水の量は減っているのです。
自然は均衡を保つために、水面の”皺”を伸ばしたのです。
見た目に騙(だま)されてはなりません。
自分勝手に、都合の良いように解釈するものではありません。

2017年5月15日月曜日

不自然の連鎖

人の本来の在り方とは自然です。
人の本来の姿は自然という状態なのです。
しかしながら、自然を実現することのできる人は稀(まれ)です。
多くの人は、自然を歪めます。
それは、不自然という状態に在るということです。
多くの人は、不自然を生きています。
不自然とは、思い通りにしようとすることを言います。
多くの人は、自分の思い通りにしようとするのです。
思い通りにならない状況に不満を抱き、思い通りになるように企(たくら)むのです。
それは、状況を歪める行為であるということを覚えておかなければなりません。
あなたは、思い通りにならない状況を、思い通りにしようと考えるでしょう。
そして、そのように作為するでしょう。
それが、苦悩の原因なのです。
苦悩は、不自然な状況に存在しているのです。
自然の中には苦悩は存在しません。
なぜなら、自然とは、思い通りにならないことを言うからです。
人生には、思い通りにならないことが普通です。
思い通りになることなど何もありません。
そのため、人は思い通りにならないことを思い通りになるように作為するのです。
人生は常に自然を導いています。
思い通りにならないことばかりを体験するでしょう。
それが自然なのです。
人の本来の在り方とは、思い通りにならない人生を生きるということです。
しかしながら、多くの人は思い通りになる人生を望んでいるのです。
既(すで)に認識が歪んでいます。
歪んだ認識によって見る世界は、同じように歪んでいるのです。
そのため、人生は思い通りにならなくて良いのですが、それでは納得がいかないのです。
多くの人は幸福を、思い通りになることだと思い込んでいるのです。
理想の実現こそが幸福であると考えているのです。
しかしながら、理想が実現することほどの悲劇はありません。
なぜなら、人は未熟であるからです。
未熟な者の理想は未熟であり、大きく歪んでいるのです。
そのような理想が実現すれば、苦悩を得ることに追われるようになるのです。
理想を追い求める者の人生には、苦悩が絶えません。
それは、苦悩を生み出しているのが自分自身であるからです。
誰も、自分自身から逃れることはできないのです。
あなたは、思い通りにならない人生を楽しみましょう。
人生は思い通りにならなくて良いのです。
寧(むし)ろ、思い通りにならない方が良いのです。
そのことに気が付かなければなりません。
思い通りにならないことを否定し、思い通りになるように作為します。
そこには、不自然な歪みが生じます。
それは、苦悩を導きますが、人は苦悩を嫌うのです。
そのため、不自然な歪みによって生じる苦悩を補(おぎな)う必要に迫られます。
それは、更なる不自然の作為となるのです。
不自然に不自然を重ねることによって、苦悩を隠そうとするのです。
そうやって、不自然の連鎖が生じます。
不自然を重ねるということは、問題を重ねるということです。
残念ながら、忘れ去られる問題は存在しません。
すべてのものは必ず明らかにされるからです。
あなたは、どのようなものも隠し通すことはできません。
人生には、思い通りになることなど無いのです。
あなたがどのように不自然を重ねようとも、人生は必ず自然に戻ろうとします。
あなたが除草する(不自然)速度よりも、草が生じる(自然)速度の方が早いということを覚えておきましょう。

2017年5月14日日曜日

惹かれるものに引かれる

あなたは、人生を難しく考える必要はありません。
残念ながら、人生にはあなたの考えているような形の価値はありません。
多くの人は、企(くわだ)てによって人生を築こうとしています。
企てによって得られる価値とは、企てによって得られる結果なのです。
すべての人は未熟です。
未熟な者の企ては歪(ゆが)んでいるのです。
多くの人は正しいことを知っています。
多くの人は、自分が正しいと思うことを企てるのです。
あなたの正しいと思うことが正しいとは限りません。
誰にも、何が正しいかは分からないものなのです。
そのため、人生には正解はありません。
誰もが、自由に生きれば良いのです。
好きなことをして、好きに生きるのです。
ただ、それだけです。
自由に生きるということは、決して気楽なものではありません。
自由に生きることによって生じる問題も苦悩もあるからです。
どのように生きようが、問題や苦悩を避けることはできません。
それは、問題や苦悩は自分自身から生じるからです。
しかし、自由に生きることは、自分自身から生じる問題や苦悩に対して向き合う余裕を与えてくれます。
企てによって難しく生きているのであれば、自分自身から生じる問題や苦悩に向き合う余裕を失ってしまうのです。
それは、企てることは不自然であるからです。
未熟な者の知恵は未熟です。
それは、不自然な知恵なのです。
未熟な者の知恵は、理(ことわり)を歪めます。
そのため、何かを企てた時点において、理を歪めることになるのです。
企てとは、利己的な思考です。
人が何かを企てる時、それが他者に対するものであったとしても、その根源には利己心が存在しているのです。
他者のためを思うのであれば、人が何かを企てる必要はありません。
他者のためを思うのであれば、人が何かを企てる以前に行動しているからです。
人が本当に他者を思う時、企てを必要とはしないのです。
企てとは、自分と他者を天秤に掛ける行為なのです。
企てとは、迷いであるということを覚えておきましょう。
そのため、何かを企てる人は不自然を得るのです。
あなたは、人生を難しく考える必要はありません。
惹(ひ)かれるものに引かれていけば良いのです。
何の企てもせず、心の赴(おもむ)くままに生きれば良いのです。
そして、現実を受け入れ、それを楽しめ(学べ)ば良いのです。
それだけで、あなたの人生は豊かさを得ることができるのです。
純粋な心で生きれば、美しいものに出会うでしょう。
企てる思考は、歪みを映します。
大抵の人は企てによって人生を築いています。
そのため、大抵の人が不自然を得ているのです。
問題や苦悩に縛られているのは、企てに執着しているからです。
企てを捨て、利己心に別れを告げれば、問題や苦悩は解き放たれるでしょう。
企てを所有している間は、問題や苦悩も所有していなければなりません。
人は、理想によって企てを所有します。
自分の理想を実現するために企てるのです。
理想を実現しようとするのは利己心です。
理想を実現しようとする時、人は傲慢(ごうまん)であるということを理解しましょう。
人が謙虚(けんきょ)であるのならば、現実を大切に扱うはずなのです。
人生を簡単に考えれば、現実と向き合うことが最善であることに気が付くでしょう。
しかしながら、難しく考えれば、理想を実現することが最善だと思うのです。
残念ながら、理想が実現することはありません。
目の前に導かれるのは、理想とは異なる現実なのです。
理想を実現する難しい方法よりも、現実を受け入れる簡単な方法を理解しましょう。

2017年5月13日土曜日

歪んだ認識

あなたは多く持ち過ぎています。
これ以上、足りないと考える必要はありません。
寧(むし)ろ、多く持ち過ぎているものを手放さなければなりません。
人は不自然な状態です。
そのため、認識は歪んでいます。
あなたはすべての認識が歪んでいるということを理解しましょう。
あなたの認識は間違っているのです。
そして、他者の認識も間違っています。
それは、多くを持ち過ぎているために歪み、正しく見ることができないためです。
重荷を抱えているのであれば、正しく見ることができません。
それは、重荷によって余裕を失い、感情がざわめくからです。
重荷を抱えている時、あなたは冷静でいられるでしょうか?
重さに耐えかねて、怒りや悲しみの気持ちが湧き起こって心を乱すでしょう。
多くの人が心を乱しているのは、重荷を抱えているためなのです。
重荷を抱えなければ、誰もが気楽に生きられるのです。
大切なのは、認識の歪みに気が付くことです。
あなたは自らの認識を疑わなければなりません。
もちろん、他者の認識も疑う必要があるでしょう。
すべての認識を疑い、事実を信用するのです。
事実には疑いようがありません。
しかし、それを認識を通して見る時には疑いが生じるのです。
人は過去の経験や、そこから導きだされる憶測によって事実を見ています。
人の認識は、過去の経験に起源しているのです。
どのような体験に対しても、過去の経験を持ち込もうとするのです。
しかしながら、過去の経験から導き出される認識は歪んでいるために、その答えも歪みます。
そのために、疑う必要があるのです。
この世界は、あなたに多くの豊かさを与えてくれます。
あなたは、それを自分の意思によって好きなだけ受け取ることができます。
もちろん、断ることもできるのです。
しかしながら、多くの人の認識は足りないと考えているのです。
そのため、抱えられるだけ受け取ろうとするのです。
残念ながら、抱え込むほどに重たく歪みます。
抱え込むほどに心は乱れるのです。
大切なのは、既に多く持ち過ぎているということを忘れないことです。
多く持ち過ぎていると認識していれば、断ることもできるでしょう。
断れば、受け取ることはありません。
受け取らなければ、与えることができるのです。
自然界の理(ことわり)とは、与えることです。
与え合うことによって、豊かさを実現しているのです。
しかし、受け取ることばかりを考えているのであれば、肥え太った者達の醜い強欲が奪い合いに発展して乏しさを実現してしまうのです。
受け取らずに与えることが、豊かさの鍵であることを忘れてはならないでしょう。
あなたが与えることで、誰かや何かに貢献することができます。
あなたが与えることで、荷物を減らすことができるのです。
歪んだ認識は恐怖を抱え、不足を覚えます。
多くを持ち過ぎていると考えるのであれば、恐怖に従う必要もないのです。
あなたは恐怖に従ってはなりません。
恐怖に従えば、人は傲慢(ごうまん)に陥(おちい)ってしまうのです。
傲慢に陥れば、多くを集めなければならないでしょう。
不足よりも、所有を数えましょう。
そうすれば、余計を理解することもできるでしょう。
多くを抱え込もうとしてはなりません。
多くを与えようとしましょう。
そうすれば、あなたは身軽になって、心は穏やかであり、豊かさを感じることができるでしょう。
陽の光を独占しようとした樹木は、枝葉を密に重ね合わせます。
そうすることによって、下草から陽の光と雨と命を奪うのです。
そこに豊かさは導かれないということを考えましょう。

2017年5月12日金曜日

必要のための必要でないもの

これは、あなたの人生です。
あなたは、自分の人生を生きなければなりません。
それは、人生の目的を果たすためです。
あなたの人生の目的を果たすためには、あなたが自分の人生を生きることが求められるのです。
多くの人は、自分の人生を生きることができてはいません。
多くの人が、虚像の人生を生きているのです。
それは、誰かや何かによって作り上げられた人生です。
多くの人が、これを生きているのです。
大切なのは、自分の人生を生きることです。
しかしながら、自分の人生を生きることは簡単なことではありません。
それは、あなたの自分という存在に対する認識が歪んでいるからです。
人は、自分を知りません。
誰も、自分が何者であるのか?を知らないのです。
それは、すべての人が虚像の人生を生きているということを意味しています。
自分の人生を生きている人はいないのです。
誰もが迷い、苦悩を抱えています。
それは、虚像の人生を生きてるからです。
あなたは、自分の人生を探し続けなければなりません。
自分に対する認識を誠実なものとするのです。
自分の人生を生きるということは、自分にとっての必要を行うということです。
自分のとっての必要を行うことによって、自分の人生を生きることができるのです。
しかしながら、自分を知らないあなたには、自分にとっての必要を行うことはできません。
誰にも、自分にとっての必要は分からないのです。
多くの人が、自分にとって必要のないことを行っています。
ただし、この世界に不要はありません。
ここで言う必要のないことというのは、自分の人生の目的に対して直接的ではないという意味と理解しましょう。
多くの人は、自分にとって必要のないことを行うことによって、自分にとっての必要を理解しようとしているのです。
何が必要であるのかを理解するためには、数を当たる必要があるのです。
それは、素朴(そぼく)な方法ですが、それ以外に方法はないのです。
人は、自分にとっての必要を理解するために、多くの自分にとって必要のないことを行わなければなりません。
それは地道な作業なのです。
一つ一つを実際に経験し、そこから得られる心境によって、それが必要か必要でないかを見定めましょう。
その行為が、腑(ふ)に落ちれば、それはあなたにとっての必要です。
それは、善悪によって決まるものではありません。
例え、それが常識的には間違っている行為であったとしても、腑に落ちればそれで良いのです。
人の振り翳(かざ)す善悪ほど、根拠の無いものはないのです。
あなたの考えてる善悪を当てにしてはなりません。
なぜなら、それは立場や経験値によって大きく変わるものであるからです。
人の考える善悪ほど、当てにならないものはないのです。
これは、あなたの人生です。
周囲の人達が反対しようとも、腑に落ちることをしましょう。
自分が納得のいく生き方をするのです。
あなたの選択が未熟を離れることはありません。
そのため、あなたは周囲の人達から嘲笑(ちょうしょう)や否定を受けるかも知れません。
しかし、自分が納得するのであれば、それで良いのです。
人生において最も重要なことは、自分の人生を生きたか?ということです。
自分の納得できる人生を生きなければならないのです。
その生き方が間違っていたと後に気が付いたとしても、その時に腑に落ちていれば良いのです。
人は、後悔しないように生きなければなりません。
どのような選択肢を選んでも、未熟なあなたは必ず後悔します。
しかし、納得する選択肢を選ぶのであれば、後悔は少ないでしょう。
あなたは必ず後悔を選ばなければなりませんが、その後悔が少ない方を選ぶ努力が必要なのです。
これはあなたの人生です。
自分にとっての必要を行えば良いのです。
自分にとっての必要を行えば、人生は豊かさを得るということを覚えておきましょう。
腑に落ちない生き方によって、豊かさを得ることなどできないのです。

2017年5月11日木曜日

寡欲

あなたは、人生が発見の場所であるということを知りましょう。
あなたは、発見しているのです。
あなたは、発見しているに過ぎません。
しかし、発見こそが重要なのです。
あなたにできることと言えば、発見することだけです。
それは、この世界の理(ことわり)であるかも知れませんし、自分自身であるかも知れません。
傲慢(ごうまん)に陥った者は、発見することに満足することがありません。
傲慢に陥った者は、発見を創造と言い表すのです。
多くの人は、発見に価値を見出すことをしません。
多くの人は創造にこそ価値があると思い込んでいるのです。
発見と創造は同じことです。
創造する方法を発見したのです。
しかしながら、多くの人は形に捕らわれます。
創造することによって得られる報酬(ほうしゅう)に目が眩(くら)むのです。
そして、発見を蔑(ないがし)ろにします。
あなたは、発見にこそ価値があるということを理解しなければなりません。
この世界においては、小さなものが大きくなるのです。
原因は小さなものであり、その結果が大きなものです。
人は、発見しているに過ぎません。
小さな発見が、大きな発見に繋がっているのです。
小さな発見を蔑ろにしているのであれば、大きな発見に繋がることはありません。
多くの人は、目に映る形を求めています。
それは、利益を求めているからです。
発見は利益ではなく、創造が利益だと思い込んでいるのです。
あなたは発見こそが重要であるということを理解しましょう。
一つの発見に対して、謙虚な姿勢であるべきなのです。
一つ一つの発見の積み重ねこそが、価値を生み出すということを理解しましょう。
あなたの目の前には、常に新たな発見が存在しています。
それを発見すれば良いのです。
新たな発見を発見することができないというのであれば、欲に目が眩んでいるのでしょう。
人生を豊かなものにするためには、小さな発見を続けるだけで十分です。
しかし、発見が途切れるのであれば、人生は簡単に乏しさを得ることになるのです。
多くの食物を飲み込めば、腹が痛むのです。
少しの食物を飲み込めば、腹は喜ぶでしょう。
強欲は豊かさを導きません。
それは、強欲は傲慢の産物であるからです。
寡欲(かよく)こそが豊かさを導くのです。
それは、寡欲は謙虚の産物であるからです。
人は発見しているに過ぎません。
人が何かを創造しているのではないのです。
その創造の方法を発見したに過ぎません。
人にできることは、発見することだけです。
新たな発見をするためには、謙虚でなければなりません。
傲慢に陥れば、強欲によって一つのことだけに集中します。
それは、視野を失う結果を導くのです。
謙虚であれば、人は観察者としての立場を保つことができます。
それは、一つのことだけに集中することを避け、より広い範囲を見渡すことができるのです。
広い範囲を見渡すことができれば、新たな発見を得ることもできるでしょう。
傲慢に陥り、視野を失えば、同時に余裕を失います。
発見を続けていれば、余裕を保つことができるのです。
あなたは傲慢によって狭い視野に生きてはなりません。
謙虚によって広い視野に生きましょう。
人生は常に発見の連続です。
あなたには、知らないことの方が多いのです。
謙虚な気持ちで、人生に向き合いましょう。

2017年5月10日水曜日

足枷

すべての人は、無知に捕らわれています。
無知とは、不自然な姿です。
すべての人は不自然な姿をしています。
それは苦しみなのです。
人生において、苦しみと共に生きない者はいません。
すべての人が苦しみを抱いて生きているのです。
それは、不自然な姿であり、無知を抱えているからです。
無知は足枷(あしかせ)です。
すべての人にとって、無知は重荷となるのです。
無知こそが人の自由を奪うのです。
その他に自由を奪うものは存在しません。
誰かや何かがあなたの自由を奪っているのではないのです。
あなたの抱える無知こそが、あなたの自由を奪っているということに気が付きましょう。
すべての人が不自由の中に生きています。
それは、すべての人が無知であり、不自然であるからです。
無知を手放すことは、重荷を手放すことに等しく、それは、人にとっての喜びなのです。
無知を所有して喜ぶ人はいません。
人は、自由を得る時に喜ぶのです。
あなたは無知を克服しなければなりません。
何か一つでも悟り得なければならないのです。
そのための人生であるのです。
誰かや何かを言い訳にしてはなりません。
誰かや何かはあなたの苦しみには関係のないことなのです。
あなたが不自由を生きて、苦しんでいるのは、あなたの無知による結果なのです。
そのことを覚えておきましょう。
無知を克服するためには学ばなければなりません。
どのようなことでも構いません。
ただ、ひたすらに学びましょう。
どのような学びも、一つに繋がっています。
すべての知識と経験は、唯一あなたの人生を示すのです。
あなたは自らの人生を知るために学ぶのです。
それ以外を学んではいないのです。
あなたが自らの人生について学べば、人生が不自由の中にあるはずがないのです。
あなたが自らの人生について学べば、人生は自由を得るということを覚えておきましょう。
人生とは、認識の産物でしかないのです。
そのことを理解しなければ、誰かや何かに翻弄(ほんろう)されてしまうでしょう。
あなたは誰かや何かのために生まれたのではありません。
あなたは自分の人生を生きるために生まれたのです。
誰かや何かのために貢献することが許されるのは、あなたが自分の人生を生きることができた後のことなのです。
自分の人生を生きることすらできない者が、誰かや何かに貢献することなどできないのです。
無知によって重荷を抱え、不自由を生きている者には、誰かや何かに貢献することなどできないのです。
あなたは学びましょう。
何でも良いのです。
自らの興味のあるものを学ぶのです。
一つでも多くの無知を手放すことが求められます。
そうすることで、現実を受け入れることができるようになるでしょう。
理想を追い求め、現実を否定するのは無知の業(わざ)です。
無知には現実の価値を理解することができないのです。
思い通りに展開させることになど価値はありません。
学ぶことにこそ価値があるのです。
その程度のことは理解する必要があるでしょう。
理想を追い求め、現実を否定するのであれば、人生を足止めすることになるでしょう。
やはり無知は、あなたの足枷となるのです。
あなたは自分が無知に捕らわれているということを理解しましょう。
そして、学ぶ気持ちを見失ってはなりません。

2017年5月9日火曜日

自己研鑽

あなたは、足りないものを学ぶために生まれたのです。
あなたは、この人生を何だと思いますか?
あなたは学ぶために生まれたのです。
残念ながら、あなたは未熟です。
あなたには学ばなければならないことがあるのです。
あなたは歪んでいます。
それを正す必要があるということを覚えておかなければならないのです。
足りないものを学ぶことは、簡単なことではありません。
歪んだものを正すことは困難です。
あなたは人生を簡単に考えてはなりません。
人生は苦しいのが自然です。
それは、あなたが未熟であり、不自然であるからです。
あなたの状態に相対して、人生の姿が決まります。
あなたが未熟であるほどに、人生は厳しいのです。
それは、あなたの歪みを正すために力が加えられるためです。
歪んであるものほど、強い力を必要とするのです。
すべての人が未熟です。
人によって、その度合いは異なります。
そのため、人によって苦しみの質は異なります。
しかしながら、すべての人が苦しみを抱えているのは事実なのです。
この世界において、苦しみを抱えない人はいません。
それは、すべての人が足りないものを学ぶために生まれたからです。
あなたはそのことを理解しなければなりません。
あなたが受け取るのは苦しみです。
それが目的であるのです。
この世界に生まれたのであれば、この世界の理(ことわり)に従わなければなりません。
従わなければ学ぶことはできません。
反発する者が得られるのは、更なる不足であるということを覚えておきましょう。
案内人の話を聞いていなければ、目的地へと辿り着くことは難しいのです。
郷に入っては郷に従うべきなのです。
理に反発しているのであれば、学ぶことはできません。
あなたには、人生に対する不満があるかも知れませんが、そのような態度が役に立つことはありません。
これは、誰かの奴隷(どれい)になれという話ではありません。
寧(むし)ろ、あなたが自由を得るための話なのです。
人生は、あなたの不足を補(おぎな)うために学びを導いています。
それは、あなたを成長させるためであり、あなたを自由にするための働き掛けです。
しかしながら、未熟な者にはその意図を理解することが難しいのです。
あなたはいつも人生の意味を考えていましょう。
人生が何のために有るのか?
その苦しみの意図とは?
意味を考えていなければ、志(こころざし)を見失うことになります。
志を見失えば、苦しみは不幸として認識されてしまうのです。
あなたは人生において、自己を研鑽(けんさん)しなければならないのです。
足りないものを学び、歪みを正すのです。
そのために必要な状況が導かれています。
あなたにとっての最善は、常に目の前に存在しているのです。
そのことに気が付かなければなりません。
あなたが安全に学べるように、常に人生が見守っているのです。
人生は、あなたに最善の学びを導きます。
それを理解することができないのは、自分自身の未熟さに原因があるのです。
そのため、人生に不満を抱き、不幸に陥(おちい)るのは間違っているのです。
感謝を忘れてはなりません。
あなたに対して、常に最善を導くことは骨の折れる仕事なのです。
当たり前を当たり前と考えてはなりません。
この世界には、当たり前など存在しないのです。
すべてが、意図的に存在しているということを覚えておきましょう。

2017年5月8日月曜日

身から出た錆

すべての人が未熟です。
すべての人が未熟さを抱えています。
未熟でない人物は存在しません。
人が人で有る以上、未熟さを離れることはできないのです。
未熟さは歪みとして現れます。
歪みは誤解であり、偏見を導きます。
そのため、すべての人が誤解を抱え、偏見を所有しているのです。
この世界において、偏見を所有していない人はいません。
あなたも、多くの偏見を所有しているのです。
人生の目的は、その偏見を取り除くことです。
誤解を手放し、未熟さを薄めることにあるのです。
人生の目的は成長することです。
それは、偏見を取り除くことであるのです。
あなたは自らの抱える偏見を取り除かなければなりません。
そのためには、自らの抱える偏見を認識する必要があるのです。
自らの抱える偏見を認識することがなければ、それを改善しようとは思えません。
知らなければ、存在しないのです。
あなたが自らの抱える偏見を認識した時に、それは形を成すのです。
人はすべてのことに偏見を抱えています。
人が何かを理解しているということはありません。
人は何も知らないのです。
理解していると思い込むことはできますが、理解することはありません。
人の理解とは、常に発展の途上にあるのです。
そのため、人は多くの可能性を抱えているということを覚えておきましょう。
あなたには、知らないことが多過ぎます。
それは、あなたが多くの偏見を所有しているということを意味しているのです。
あなたは多くの誤解を抱え、歪んでいるのです。
そのことに気付き、改善に努めましょう。
偏見は、金属に浮き出る錆(さび)のようなものです。
錆が浮き出るのであれば、歪みます。
錆が浮き出るのであれば、穴が空きます。
錆が浮き出るのであれば、金属は破滅するのです。
偏見を抱える人は歪みます。
その思考には死角が生じます。
そして、苦悩を得ることになるのです。
金属にとって、錆は厄介(やっかい)な存在です。
それは、破滅を意味しているからです。
金属を役立たせるためには、錆を落とさなければなりません。
錆に覆われていれば、役に立つものも立たないのです。
人は未熟です。
人は錆に覆われているようなものなのです。
錆は金属から生じます。
金属は自ら錆びるのです。
あなたの偏見は、自らの生み出した結果です。
誰かや何かによって偏見を抱えたのではありません。
すべては、身から出た錆であるということを覚えておきましょう。
あなたは錆びた刃物を研ぐように、自らの所有する偏見を取り除かなければなりません。
刃物を砥石(といし)に擦(す)るのです。
あなたの偏見を研ぐのは知識と経験です。
あなたは知識と経験という砥石によって、自らを研ぎ澄ませましょう。
しかしながら、錆は簡単には落ちません。
何度も、何往復も研がなければなりません。
それは、何度も、何往復も学ばなければならないということなのです。
金属が錆を避けることはできません。
あなたが存在している以上、偏見は生じるのです。
学びが終わるなどと考えてはなりません。
自分が役に立っているなどと過信してはなりません。
生涯を通じて、学びに励(はげ)みましょう。
身から出た錆を落とし続けましょう。
苦悩(偏見)を簡単に取り除くことはできませんが、それでも学び続けなければなりません。

2017年5月7日日曜日

成長するための条件

あなたの目の前には、常に最善の状況が導かれています。
あなたは常に、最善の学びと向き合っているのです。
あなたは常に、最善を学ぶことができます。
あなたは常に、祝福されているのです。
あなたが学びを失うことはありません。
あなたは常に幸福であり、常に成長することができるのです。
しかしながら、多くの人はそのことに気が付きません。
目の前の状況を嫌い、拒絶によって不幸を得るのです。
残念ながら、人は不幸に陥(おちい)ることが許されています。
それは、自分自身の選択によって決めることができるのです。
あなたが不幸を得るのは、あなたの選択による結果です。
あなたが自分自身の意思によって、幸福と不幸を決めることができるのです。
人生を決めるのは認識です。
あなたがどのように認識するのか?によって、人生は大きく変貌(へんぼう)します。
目の前には常に最善の学びが導かれています。
しかしながら、それをどのように認識するのか?は自分次第です。
多くの人は誤解を所有しています。
多くの人は誤解を所有し、その結果として矛盾を抱きます。
矛盾は苦悩を導きます。
多くの人が苦悩しているのは、矛盾を抱えているためであり、それは誤解を所有しているためなのです。
認識のずれこそが、あなたを苦しめているのです。
あなたが誤解を手放し、目の前に導かれる最善の学びを受け入れることができれば、苦しいことは存在しません。
今までに苦しいと思い悩んでいた事柄でさえ、消え去るのです。
それは、苦悩の本質が誤解によって生み出された妄想に過ぎないからです。
あなたが苦悩しているのは、目の前の状況を最善の学びだとして受け入れられない傲慢(ごうまん)にあります。
多くの人は、現実を否定し、理想を追い求めているのです。
現実を否定し、理想を追い求めるのは傲慢であるのです。
しかしながら、多くの人は傲慢であるが故(ゆえ)に、そのことには気が付かないのです。
目の前に導かれる状況を否定したとしても、満足する結果を得ることはできません。
それは、最善を否定しているからです。
最善を否定して満足することはできないのです。
あなたが満足を得るためには、目の前に導かれる最善の学びを受け入れ、それを学ばなければならないのです。
あなたに必要なことは、最善の学びを受け入れることなのです。
逃れようと努めても、決して満足することはありません。
この世界には、因果の仕組みが存在しています。
目の前に導かれるすべての状況としての結果の原因は、あなたなのです。
目の前に導かれるすべての状況は、あなたの認識が選択した当然の結果なのです。
あなたの選択を人生が状況として導いているのです。
すべての状況があなたに相応しいということを認めなければなりません。
人生から与えられた条件を否定してはなりません。
それは、あなたが成長するための条件なのです。
それ以外の条件によって成長することはできません。
そのため、例え逃れようとも、逃れた先で同じ学び(状況)を得ることになるのです。
あなたは決して逃れることはできません。
なぜなら、それが最善であるからです。
先述したように、あなたが学びを失うことはありません。
あなたは常に、学びの中に存在しているのです。
理想を諦めて、最善の学びである現実を受け入れましょう。
それ以外に方法はないのです。
受け入れずに否定すれば、可能性は狭まります。
可能性が狭まるに連れて、あなたは苦悩します。
どちらにしても、あなたは最善の学びを受け入れざるを得ないのです。
人生は、あなたが理解して受け入れるまで学びを続けるのです。
あなたが受け入れなければ、次はより厳しい方法を用いて受け入れるように働き掛けるのです。
導かれる状況は、あなたのためです。
今は理解することができなくても、そのことを覚えておきましょう。
いつか必ず、役に立つでしょう。

2017年5月6日土曜日

真実の世界

あなたは、人生に満足することができていますか?
人生は、満足することに意義があります。
あなたは、自らの人生に満足しなければなりません。
満足することの無い人生には、意義を見出すことができないのです。
人生に満足することは簡単ではありません。
それは、人生に満足するのが自分であるからです。
多くの人は、自分を誤解しています。
多くの人は、自分が正しいと思い込んでいるのです。
しかしながら、自分という存在は未熟であり、歪んでいるのです。
未熟な自分が得る満足とは、必ず歪んでいるということを理解しなければなりません。
未熟な満足とは歪みなのです。
人生に満足しているという人もいます。
それは真実かも知れません。
しかしながら、その満足が真実かどうかを精査する必要があるのです。
その満足がただの自己満足であれば、真実を疑うべきでしょう。
それは、人は皆、信じたいものを信じるからです。
人は皆、信じたくないものは信じないのです。
そのため、その満足が自己満足の域を脱していない限りは、妄想が作り上げた虚構の満足である可能性が高いのです。
多くの人は、自分を知りません。
そのため、自らが虚構の世界を生きていることを理解することができません。
人は見たいものを見て、見たくないものは見ないのです。
そのことに気が付かなければならないのです。
多くの人は、自分が見ているものが正しいと思います。
多くの人は、自分が信じているものが正しいと思い込むのです。
そのため、見えないものは信じないのです。
見たいものを見て、信じたいものを信じていく内に、人は自己満足の世界に生きるようになるのです。
自己満足の世界に生き、そこで満足を覚えていたとしても、それを最良だと思うのです。
そして、それ以上の生き方を探求することはなくなるのです。
例えば、娯楽によって息抜きを楽しむことが人生の目的となってしまうのです。
娯楽によって息抜きを楽しむことによって満足している人は多いのです。
しかしながら、そこには成長が導かれません。
例えば、嫌な仕事や人間関係などを我慢してこなし、そのストレスを解消することを目的として生きるのであれば、人生に豊かさを得ることはできないのです。
それは、汚れを落とすだけで、美しさを生み出す作業ではないからです。
皿洗いを目的にしてはなりません。
見た目に美しく、美味しい料理を提供し、相手に喜んでもらうことによって自分も喜ぶということを目的とする方が豊かであるのです。
皿洗いを目的とするのであれば、料理の質を蔑(ないがし)ろにしてしまうでしょう。
そのため、息抜きを目的とするような生き方を楽しんではならないのです。
息抜きよりも、仕事を楽しむような人生を築きましょう。
それは、心によって築くことができるのです。
人生は認識によって築かれます。
あなたがどう思い、どう考えるか?によって人生は大きく変わるのです。
あなたの満足の形も、認識によって変わります。
残念ながら、現行の満足は未熟です。
それは、自分が歪んでいるからです。
あなたは自分が見たいものだけを見てはなりません。
自分が信じたいものだけを信じてはならないのです。
見たくないものも見るのです。
信じたくないものも信じましょう。
その後で、導かれる満足の形こそが、真実の満足なのです。
すべてを見た後でなければ、真実を決めることはできません。
あなたは偏見に従ってはなりません。
正義感に従うことをやめましょう。
何が善で何が悪なのか、あなたには判断することができないのです。
すべてを許容した上で、人生に満足しましょう。
それは、真実の世界なのです。

2017年5月5日金曜日

温め直される料理

あなたは、自分が成長したと誤解してはなりません。
あなたは以前に比べて、多少なりとも成長したでしょうが、それでも不足しています。
あなたは未熟であり、成長を必要としているのです。
そのために、目の前には学びが導かれ続けます。
それは、問題として提起(ていき)され、あなたは苦悩を覚えるでしょう。
すべての人が問題と向き合わなければなりません。
すべての人が苦悩を覚えることになるのです。
どのような人物であろうとも、人生の問題を避け、苦悩に会わずに生きることはできません。
それは、未熟であるからです。
未熟であるために問題が与えられ、苦悩から学ぶことを必要とするのです。
人生において、成長を成し遂げた人物は存在しません。
あなたは一生涯、成長するために学び続けなければならないのです。
誰も、不足を満たすことはできません。
誰も、歪みを正すことはできません。
誰も、汚れを落とすことはできないのです。
成長を成し遂げるには、人生は余りにも短いのです。
そのため、あなたは生涯を通じて学び続けなければならないということを覚えておきましょう。
しかしながら、多くの人が自分が成長したと誤解しています。
それは、問題を避け、苦悩を否定する態度に見て取れます。
自分が成長していると錯覚しているために、目の前に導かれる問題や苦悩が自分には相応しくないと思い込んでいるのです。
この世界には因果の仕組みが存在しています。
あなたの受け取る結果は、あなたの所有する原因によって導かれているのです。
そこに間違いはありません。
あなたの注文通りの料理が運ばれてくるのです。
自分で注文した料理が目の前に運ばれた後に、それが気に食わないといって文句を吐くのは筋の通らない話なのです。
あなたはそのような問題や苦悩を頼んだ覚えはないと主張するでしょうが、あなたが確かに頼んだのです。
あなたの生き方。
言動や態度がその問題や苦悩を確かに頼んでいるのです。
自分で頼んでおいて、正当化や美化によって誤解し、錯覚しているのです。
人生からすれば、迷惑な話なのです。
人生は、あなたが問題や苦悩を食べ終わるまで待ち続けます。
料理(問題や苦悩)が冷めれば、温め直してくれるのです。
人生は最も効果的な学びを導きます。
それは、あなたが最も苦悩することができるように問題を導くということなのです。
あなたは足りません。
あなたは歪み、汚れています。
成長しなければなりません。
問題や苦悩を避けることなどできないのです。
あなたは成長する必要があるということを忘れてはなりません。
成長に時間と労力を費やし、決して諦めてはなりません。
あなたの人生は常に学びと共にあります。
成長の余地は多く残されているのです。
あなたは誤解してはなりません。
錯覚によって実態を見失ってはなりません。
何度も言いますが、あなたは成長する必要があるのです。
人生は、あなたの成長を求めているのです。
例えば、肉体が成体となり、子を持つ親となり、多くの後輩に出会ったとしても、成長するべきは自分自身なのです。
多くの人は我が子や他者の成長を願っていますが、自分の成長の方が先決なのです。
自分が成長してもいないのに、どうして誰かに成長を求めることができるのでしょうか?
それは傲慢(ごうまん)でしかないのです。
誤解を手放しましょう。
あなたは生涯を通じて足りません。
あなたは決して満足できる水準ではないのです。
そのことを忘れてはなりません。
あなたは自分自身を磨くのです。
時間を掛けて、丁寧に磨きましょう。
それでも完成しないのです。
生涯を通じて、自分を磨きましょう。

2017年5月4日木曜日

繰り返しの学び

すべての人には、果たさなければならない役割があります。
すべての人が目的を持って生まれたのです。
すべての人は、自分自身の果たさなければならない役割のために生きているということを知らなければなりません。
あなたにも、役割が与えられています。
あなたはそれを人生の目的として生きなければなりません。
あなたはただ生きるために生まれたのではありません。
快楽を貪(むさぼ)るために生まれたのでも、無関心に生きるためでも、苦しみに絶望するためでもありません。
あなたは持って生まれた役割を果たし、この人生に満足するために生まれたのです。
人生の目的を見失えば、人生に満足することはできません。
すべての人が、人生の目的を見失わないように注意していなければならないのです。
しかしながら、多くの人は人生の目的を見失っています。
自分が何のために生まれたのか?
何のために生きているのか?
何のために死ぬのか?
ということを見失っているのです。
多くの人は、人生という視点を見失っています。
そのため、その視野はとても狭く、限定的にしか物事を認識し、思考することができなくなっているのです。
それは、物事の繋がりを見失うこととなり、短絡的な判断を導くのです。
人生という視点を見失っている者には余裕がありません。
狭い視野の中に生きる者は、狭量(きょうりょう)を得るのです。
それは、物事の繋がりを理解することができず、全体性を失うためです。
人生には様々な問題が生じます。
しかしながら、それは成長のための学びに過ぎません。
人は問題によって苦しみますが、その過程が視野を広げ、理解を深めるための条件なのです。
人は、問題によって苦しむことがなければ、視野を広げ、理解を深めることはできません。
問題も生じず、苦しむことがなければ、惰性(だせい)に安心していれば良いだけです。
それは、既存を認めることになります。
既存を認めるということは、視野を広げる必要も、理解を深める必要もないということになるのです。
変わる必要がないのだから、成長することはできないのです。
しかしながら、それでは満足することができません。
それに、あなたは自分の人生に納得することができないのです。
満足し、納得することができない人生を生きることによって、後悔を抱くことになるのです。
後悔とは、永続する苦しみのことです。
誰も、後悔から逃れることはできません。
誰も、後悔に耐えることはできないのです。
あなたが満足し、納得する人生を生きたいと考えているのであれば、問題が生じ、それに苦しんだとしてもへこたれないことです。
あなたが満足し、納得する人生を生きるためには、問題が生じるのは当然のことです。
あなたが苦しむのは、当たり前のことなのです。
当たり前のことで一々へこたれているのであれば、満足し、納得する人生を生きることはできません。
すべての人は幸福を求めていますが、その願望と態度には矛盾があるのです。
すべての人が幸福を求めていますが、多くの人は問題や苦しみに対して気力を失っています。
それは、短絡的にしか考えられていないからです。
全体性を見失わずにいれば、目の前の問題や苦しみは学びとなるのです。
しかし、短絡的にしか考えなければ、目の前の問題や苦しみは苦悩となるのです。
人生において導かれるすべての状況は、自分に相応しいものです。
あなたの目の前に導かれる問題や苦しみは、あなたに相応しいのです。
そのため、どちらにしてもそれ等と向き合わなければなりません。
あなたは、自らの抱える問題や苦しみの原因から逃れることはできないのです。
そのため、どこへ逃れようとも問題や苦しみは襲います。
問題や苦しみから一時的に逃れることはできますが、それ等はやがて追い付くということを覚えておきましょう。
そのために、問題が生じ、苦しんだとしてもへこたれてはならないのです。
解決することは容易ではありません。
何度も挑戦しなければなりません。
簡単に諦めるようでは、人生の目的を果たすことはできないのです。
人生とは、繰り返しの学びです。
そのため、忍耐が必要なのです。
人生は必ず豊かさへ向かいます。
心配する必要はありません。
安心して問題や苦しみに向き合いましょう。
問題に苦しんだとしても、へこたれてはなりません。

2017年5月3日水曜日

価値基準

すべての人が幸福を求めています。
すべての人が、自分に相応しい幸福を求めているのです。
幸福というものは、人によってその形が異なります。
それは、人生に対しての目的やその必要が異なっているためです。
人生の目的や必要を満たす条件を幸福と呼ぶのです。
人生の目的や必要から外れていれば、幸福と認識することはできないのです。
すべての人は、自分の人生の目的や必要を満たす条件を求めているのです。
しかしながら、人生の目的や必要は常に変化しています。
それは、自分自身が変化しているためです。
すべての人は常に成長しています。
変化とは、成長のことを指すのです。
どのような変化であろうとも、成長です。
人生には、気に食わない変化ばかりが生じると思うかも知れませんが、それも成長の証なのです。
あなたは信じることができないかも知れませんが、常に成長し続けているのです。
そのために、人生の目的や必要も変化し続けているのです。
人生の目的や必要は価値です。
あなたは人生の目的や必要を満たす条件に価値を見出すでしょう。
価値基準は常に変化しています。
それが固定されることはありません。
多くの人は、価値基準の変化に気が付いていません。
価値基準が変化しているにもかかわらず、既存の価値基準に従っていたりします。
既存の価値基準に従うのは無謀です。
既存に価値を求めても、実際には価値を得ることはできないからです。
人生の目的や必要は、可能性として現れます。
あなたは、何かしらの可能性こそが、人生の目的や必要であると認識していましょう。
そのため、人が幸福を得るためには、可能性を大切にすることが求められるのです。
可能性を大切にしない者が、幸福を得ることはできません。
なぜなら、既存からは停滞が導かれ、停滞は衰退をもたらすからです。
可能性こそが、変化と繁栄をもたらすのです。
そのため、人生に幸福を求めているのであれば、可能性を重要視しなければならないのです。
可能性とは、未知のことです。
未知であれば、それはあなたにとっての可能性なのです。
あなたが可能性を求めるのであれば、自分にとっての未知に向き合わなければなりません。
しかしながら、多くの人は既存に価値を求める思考が定められています。
多くの人は、意識的にも、無意識的にも、既存に価値を求めるのです。
それは、人生の目的と必要を反することを意味しているのです。
人生の目的と必要に反することは、矛盾を生じさせます。
多くの人は、外を変えたいと思ってはいても、内を変えることはないのです。
多くの人は、このような矛盾を抱えています。
あなた自身も、人生の目的や必要も常に変化しています。
そのことに気が付かなければなりません。
外を変えたいと思うのであれば、内の変化に気付き、それを変えなければならないのです。
内を変えずに外を変えようとするのは傲慢(ごうまん)です。
外を変えたいと思うのは、既に内が変化しているためなのです。
そのため、外を変えようと思う時には、内を変える必要があるのです。
既存の価値基準に従っているのであれば、内を変えることはできません。
未知に価値基準を置くことによって始めて、あなたの内は変化を受け入れることができるのです。
自分を変えることなく、人生が変わるなどと考えてはなりません。
人生を変えようと考える必要などないのです。
変えるべきは自分です。
既存に依存する態度を手放すのです。
あなたは未知に向き合い、新たな変化を楽しむのです。
既存に価値を求めたとしても、決して得ることはできません。
それは、栄養の得られない砂を噛むようなものなのです。
すべてが変化し続けているということに気が付きましょう。
そして、新たな価値基準に向き合うために、自分を変えましょう。

2017年5月2日火曜日

自己分析

多くの人は、人生に抵抗します。
多くの人は、人生に対して不満を抱いているのです。
多くの人は、別の状況を欲しています。
多くの人は、決して満足することがありません。
多くの人にとっての最善とは、自らの思い描く理想です。
多くの人にとっての最悪とは、予想に反する現実です。
多くの人は理想を求めています。
現実を受け入れることのできる人は少ないのです。
理想とは、現実とは異なる結果のことです。
しかし、目の前に導かれるのはいつも現実です。
理想が目の前に導かれることなどないのです。
理想が実現することはありません。
それは、自らの思い描く妄想に過ぎないからです。
残念ながら、すべての人が歪んでいます。
すべての人が不自然な状態であるのです。
不自然は問題を引き起こします。
多くの人が不幸なのは、不自然であるからです。
それ以外の原因は存在しません。
不自然であるが故(ゆえ)に、不幸であるのです。
あなたが幸福を得るためには、自然を実現する必要があります。
自然とは、在るが儘(まま)という状態です。
不自然とは、我が儘という状態なのです。
多くの人は導かれる状況に対して抵抗します。
それは、自然を歪める行為であるのです。
人生が導く状況は、あなたの所有する原因に対する結果です。
あなたは、自分に相応しい結果を受け取っているのです。
それに抵抗するということは、自己分析(じこぶんせき)をしないということなのです。
自己分析は大切な作業です。
それは、人生の目的であるのです。
あなたは人生を通じて自分自身を学んでいます。
これは、あなたが”あなた”を知るための時間なのです。
その他のものに価値はありません。
しかしながら、多くの人はそのことを知りません。
そのため、価値の無いものに価値を見出し、それを必死に追い求めているのです。
残念ながら、自分についての情報以外には価値はありません。
多くの人は、財産や健康や仲間や愛情や生き甲斐などを価値と呼んでいます。
どのようなものを得ようとも、自分を知らなければ、人生は乏しいのです。
人生の豊かさに、財産や健康や仲間や愛情や生き甲斐は関係ありません。
多くの人はそのように信じていますが、その多くの人は不幸なのです。
この矛盾に気が付かなければなりません。
あなたが大切にしなければならないのは、自己分析です。
自己分析を行うためには、人生に抵抗することはできません。
それは、自己分析は事後に行うことができるからです。
あなたは何かしらの状況を経験することによって始めて、自己分析を行うことができます。
事前に自己分析を行うことはできないのです。
人生に抵抗することによって、自己分析の機会を失います。
人生に対して不満を抱き、別の状況を欲し、満足することを拒否する者が、どうして自己分析を行うことができるのでしょうか?
現実を受け入れ、謙虚(けんきょ)な姿勢で内省(ないせい)することによってのみ、自己分析を行うことができるのです。
財産や健康や仲間や愛情や生き甲斐などの”副産物”に目が眩(くら)み、人生の本質を見失う者には幸福は導かれないのです。
あなたは在るが儘に現実を受け入れなければなりません。
何のために人生を経験しているのか?ということを見失ってはならないのです。
目先のことに執着してはなりません。
どのような状況からも自己分析を行うのです。
人生の原因は自分自身にあります。
自分を知らなければ、何をやっても結果は同じです。
自己分析を行うために、抵抗を緩めましょう。

2017年5月1日月曜日

人生の備え

多くの人は、人生に対して不安を覚えます。
多くの人は、不安と共に生きているのです。
それは、人生に対する確信がないからです。
確信がないために不安を抱えるのです。
多くの人が不安を覚えるのも仕方ありません。
なぜなら、多くの人にとって、人生は未知であるからです。
これから導かれる状況を事前に知っていれば、不安を覚えることはありません。
予定調和を不安に思う人はいないのです。
あなたには、これから導かれる状況を知ることはできません。
どのような状況が導かれるのか分からないために不安なのです。
行き先を告げられずに旅路を行けば、誰もが不安を抱えるのです。
事前に行き先を知っていれば、道程に向き合うこともできるのです。
しかし、あなたは知らないのです。
それは、学びのためです。
あなたにとって、人生が予定調和であるのならば、学ぶことはありません。
既に理解していることを、再び体験する必要はないのです。
あなたが体験する必要があるのは、未だに理解していないことなのです。
そのため、人生が予定調和であってはならないのです。
あなたが学ぶために、人生は未知であることを覚えておきましょう。
あなたが未知を避けることはできません。
あなたは常に未知を体験するのです。
その度に不安を抱えていても仕方ありません。
不安はあなたを鈍(にぶ)らせるからです。
不安が強ければ、重荷を背負って旅路を行くようなものなのです。
それでは、学ぶものも学べません。
大切なのは、不安の荷物を減らし、効率良く学びを得ることなのです。
あなたにとって不安は大切な感情であるために、それを完全に手放すことはできません。
目的は、不安を減らすことなのです。
不安を減らし、人生の旅路を進み易くするのです。
そのためには、人生の構造を知っておく必要があるのです。
人生は予定調和ではありませんが、理(ことわり)が存在しています。
どのような人生も理を無視することはありません。
すべての人生が理の中で展開しているのです。
人生の理の一つに、”人生は螺旋状に展開する”というものがあります。
あなたは人生において、同じことを繰り返しているように感じることがあるでしょう?
あなたは同じ”ような”ことを繰り返してはいますが、同じことではありません。
人生は同じような体験を導きますが、それは、以前とは少しだけ異なっている体験であるのです。
以前の体験を経ているのだから、異なっていて当然です。
同じことのように感じるのは、螺旋の幅が狭いためです。
僅(わず)かな違いを認識することができていないだけなのです。
あなたがどのように認識しようとも、人生の理はあなたの意思に関係なく働きます。
あなたがどのような選択をしようとも、人生は螺旋状に展開しているのです。
人生の旅路は螺旋状であるということを覚えておきましょう。
あなたが人生を始めた時から、人生の螺旋は動き始めています。
それは、あなたが死を迎える時にまで続くのです。
あなたが諦めずに何かを続けているのであれば、人生は必ず展開するということを覚えておきましょう。
螺旋は、描くほどに大きな形となります。
あなたは螺旋の中心から人生を始めたのです。
生きるほどに、体験するほどに、螺旋は大きくなります。
それは、人生が経過するほどに豊かさを得ることを意味しているのです。
あなたの抱えている問題は、必ず小さなものとなります。
結論を急いではなりません。
あなたが螺旋を広げれば、問題は問題ですらなくなるのです。
何事も諦めずに続けてみましょう。
人生の螺旋は、あなたが学ぶほどに大きく育つのです。
あなたは何も知りません。
あなたには、人生を判断できるほどの力はありません。
あなたにできることは学ぶことです。
人生は螺旋状に展開しています。
そのことを覚えておきましょう。
不安に思うことがあったとしても大丈夫です。
人生は常に広がっているのです。
後の方が楽であるということを知りましょう。