人生は、思い通りに進むものではありません。
人生は、思い通りに進まないのが自然です。
しかしながら、多くの人は人生を思い通りに進ませるために作為しています。
それは、人生が思い通りに進むことの方が良いと思い込んでいるからです。
残念ながら、人生は思い通りに進まないのが自然です。
そして、思い通りに進まないことが最善なのです。
自分の思い通りに進んで良いことなどありません。
それは、自分という存在が歪んでいるからです。
すべての人格は歪んでいます。
それは、自らの見識を振り返れば理解することができるでしょう。
あなたはいつも未熟な見解によって物事を判断してきました。
あなたの判断は常に未熟な水準に止まります。
あなたは自らのこれまでの判断が最善であったと思えますか?
その時には最善であったと思えても、今になって思えばそうも思えないでしょう。
人は常に成長しています。
そのため、常により良い判断を発見し続けているのです。
満足も不満となります。
喜びも苦しみに至るのです。
歓喜は退屈となり、幸福は不幸となるでしょう。
それは、あなたの判断が未熟であることの証明です。
もしも、あなたの判断が完成されたものであるのならば、評価が変わることはないのです。
しかしながら、あなたの評価は常に変化しているのです。
そのため、あなたは常に未熟な存在であるということを認めなければならないでしょう。
自分が未熟な存在であると認めることができない者は傲慢(ごうまん)に陥(おちい)ります。
傲慢に陥れば、自分が正しいと思い込むのです。
自分が正しいと思い込む者は、人生が思い通りに進むことが最善であると確信するのです。
しかしながら、あなたが未熟であることは疑うことのできない現実です。
自分が正しいとする理想を確信しているのであれば、現実との間に矛盾を抱えることになるでしょう。
人は現実を生きているのです。
理想は、思考の中の妄想に過ぎません。
誰も理想を生きることはできないのです。
そのため、根拠のない理想を確信して自分が正しいと思い込み、人生を思い通りに進ませようと作為する者は、現実との矛盾に苦悩することになるのです。
残念ながら、人生を思い通りに進ませようと作為して幸福を得ることはできません。
それは、作り物の世界であるからです。
人が作る物は未熟です。
未熟な者が作る物は未熟であるのです。
それは当然のことです。
そのため、どのように尽力して作り物の世界を築いたところで、それは未熟な世界を築くに過ぎないのです。
人は、作為の中に生きています。
作為とは、不自然のことです。
例えば、無為(むい)のままに行われる生命活動は自然です。
食欲も、睡眠欲も、性欲も、意欲も、どのような欲求も自然なのです。
しかしながら、人はそこに作為を持ち込みます。
生命活動を作為することによって、それを歪めているのです。
人は作為によって、必要に対して過剰や不足を導くのです。
それは、不自然な強欲や無欲を招くのです。
人は強欲であっても、無欲であってもなりません。
自然(無為)に導かれる欲求に従うことによって、必要を満たすことができるのです。
自然に従えば、人生が思い通りに進もうが進むまいが、それが最善であるということを理解することができるのです。
それは、人生に正解を求める愚かさを手放すことができるようになるということなのです。
正解を求めるために、思い通りに進ませようとしているのです。
人生に対する正解とは、理想という名の妄想です。
そのようなものに価値はありません。
作り物の世界を喜んではなりません。
自分が作り物の世界を生きているということを知りましょう。
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