人は、人生において、幸福を追求する権利を持ちます。
人は、誰もが幸福を手にすることが出来るのです。
すべての人が幸福を求めています。
それが自然です。
あなたは、幸福を追求しましょう。
それが、人生の目的でもあるのです。
しかしながら、人が幸福を実現するのは簡単なことではありません。
それは、人の心が弱いからです。
あなたは未熟です。
無知であり、弱い心に従います。
それが”普通”です。
そのため、多くの人は認識を歪めているのです。
あなたの考える幸福が、真(まこと)の幸福であるとは限りません。
なぜなら、この世界には、あなたの知らない幸福の形が存在しているからです。
多くの人は、知っている幸福の形を真の幸福だと思い込んでいます。
知っている幸福の形を追い求めることに専念しているのです。
残念ながら、あなたの知っている幸福の形が、あなたの求める真の幸福であるはずがありません。
なぜなら、人生は最後まで分からないからです。
真は、人生の最後まで分からないものなのです。
真は、人生の最後になって、その本質を現すのです。
そのため、現時点におけるあなたの追い求める幸福の形が、真の幸福であるとは限らないのです。
人は未熟です。
そのため、あなたは真を知りません。
真を知るために生きているということを忘れてはならないのです。
真を知るためには、疑う必要があります。
素直に従うことは良いことのように思えますが、それでは真を知ることは出来ません。
素直に従っている人は、与えられた幸福の形や、知っている幸福の形を追求することに専念するからです。
あなたは、疑うことによって真に近付くでしょう。
疑うことによって、より多くの視点を得ることが出来るのです。
従順な者が、真を知ることは出来ません。
疑うことの無い者が、幸福を得ることは出来ないのです。
疑うことは大切です。
それは、あなたを真に導きます。
すべての人が幸福を追求しています。
すべての人は、それが自分の幸福だと思ってその道を歩むのです。
あなたが幸せを感じるのであれば、それで良いでしょう。
幸せを感じることは重要なことなのです。
幸せを感じることの無い道を歩むものではありません。
幸福を実現するためには、幸せを感じる道であることが必要であるからです。
しかしながら、あなたは、幸せを感じる心を疑わなければなりません。
ただ、幸せを感じるままに歩めば良いということではないのです。
幸福を追い求める余り、自由と利己主義を履き違えてはならないのです。
自由とは、責任を果たすことによって導かれる資産です。
利己主義とは、責任を放棄することによって導かれる負債です。
あなたが幸せを感じているのは、自由のためか?、利己主義のためなのか?を考える必要があるのです。
その幸せは、責任を果たすことによって導かれているものか?、責任を放棄することによって導かれているものなのか?を考えなければならないのです。
中には、自由と利己主義を履き違えている人もいます。
そのような人にとっての幸福とは、責任を果たすことによって導かれるものではなく、責任を放棄することによって導かれるものとなっているのです。
自分のために利益を追求することによっては、真の幸福が導かれることはありません。
それは幸福に見えはしますが、中身は負債なのです。
盗みをして多くの財産を得るようなものなのです。
盗人(ぬすびと)は多くの財産を得ます。
しかしながら、それはこの世界に対しての責任を放棄した結果として得た負債なのです。
因果の仕組みを無視することの出来る人は存在しません。
そのため、盗人は、盗みによって蓄えた財産よりも、後に多くの負債を支払わなければならなくなるのです。
盗人は盗みによって増えていく盗品に幸せを感じます。
しかしながら、盗品の数が増えることによって、罪の重さも増えるのです。
そして、罪の重さによって、罰の重さが決まるのです。
あなたは盗人の幸福が真の幸福だと思うでしょうか?
あなたは、その盗人が知らない幸福の形が存在していることを知っているでしょう。
あなたは、自分を客観視することによって、この盗人のことを思い出しましょう。
真の幸福とは、自由の中に導かれるのです。
自由は、責任を果たすことによって導かれるのです。
真の幸福を追求するということは、責任を果たすことだと理解しなければなりません。
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