このブログについて

「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2015年7月31日金曜日

別世界

この世界は一瞬です。
すべてが瞬間の中に存在しています。
次の瞬間には、それは違うものとなっています。
この世界において、同じ状態というものは存在しません。
すべてが一瞬の間に変化し、決してとどまることはありません。
同じように見えるものであっても、決してとどまりません。
あなたは、世界が一瞬のものであるということを理解しましょう。
それは、あなたの心のようなものです。
あなたの心は、次の瞬間には全く違うものになっています。
新たな経験や知識を得ると、これまで信じていたことは役に立たなくなります。
真実だと思っていたことが偽りとなるのです。
それは仕方のないことです。
なぜなら、この世界は一瞬であるからです。
一瞬が連続しているのが本質なのです。
しかし、その繋がりには気が付かないために、本来は一瞬であるということに気が付かないのです。
世界が一瞬であると理解すれば、執着が如何に愚かな行為であるのか?ということを理解することができます。
多くの人は何かに対して執着します。
それは、世界が一瞬であることを知らないからです。
何かしらの状態が続くものだと考えているために、恐怖を覚えます。
そして、その恐怖から逃れるために、何かに執着するのです。
世界が一瞬であるということを理解すれば、何かに執着する必要がなくなります。
一瞬に変わるのだから、執着する必要がないのです。
しかし、目の前の状況や状態が簡単に変わることはありません。
なぜでしょうか?
それは、世界が一瞬であることを知らないからです。
心変わりは一瞬の内に起こります。
あなたが心を切り替えるだけです。
ただ、それだけで世界が変わるのです。
サイコロを振るようなものです。
次の瞬間には違う目が出るのです。
一つの面(目)だけを考えているために、再びサイコロを振ることがないのです。
苦しいと感じる時には、心というサイコロを振れば良いだけなのです。
心を切り替えた瞬間に、世界は一変します。
そのことを理解していない人には無理な話です。
それは、知らないからです。
無知とは、苦悩の原因であるということを理解しなければならないのです。
心を切り替えた瞬間に世界が変わるということさえ知っていれば、あなたが苦悩を生き得る必要はないのです。
人生とは苦しむ場所ではないのです。
苦しいという認識をも楽しむ必要があるのです。
否定的に生きてはなりません。
陰も陽も大切にするのです。
苦しい状況や状態に対して、否定的に自らを限定してはならないのです。
世界は一瞬なのです。
あなたは気の迷いの中に生きているということを理解しましょう。
あなたが苦悩しているのは気の迷いに過ぎません。
大きなことだと思い込んでいますが、それは小さなことです。
長い時間だと思い込んでいますが、それは一瞬なのです。
世界が一瞬であるということを理解し、心を切り替えましょう。
何事に関しても執着する必要はありません。
人生を長いと認識してはなりません。
それは一瞬です。
辛いことも一瞬です。
楽しくとも一瞬です。
暗く考える必要はありません。
自分の置かれている状況や状態を見て、瞬時に心を切り替えましょう。
そうすれば、世界は一瞬で豊かな別世界となるでしょう。

2015年7月30日木曜日

知性の定めた摂理

摂理は、知性によってもたらされます。
知性が存在しなければ、そこに摂理は生まれないのです。
すべての摂理は知性によって決定されます。
法律は人間という知性が定めるのです。
それと同じように、自然界にはそれを定めた知性が存在し、宇宙にはそれを定めた知性が存在しているのです。
この世界には様々な摂理が存在しています。
摂理に逆らうことのできる者は存在しません。
すべての存在が摂理の中に存在しているのです。
そこに摂理が存在しているのであれば、それを定めた知性も存在しています。
あなたには知ることができないかも知れません。
しかし、そこに知性の存在があることは理解することができるでしょう。
この世界は、多くの時空が積み重なっています。
それは、多くの階層を持ち、そこにはそれぞれの世界が存在しています。
世界が始まる時、そこには摂理が存在しています。
摂理が存在しているために、世界が生じるのです。
知性が存在すれば、そこに摂理が定められ、世界が生じるのです。
あなたには少なからず知性があります。
その知性は、自分なりのルールを定めます。
それが、人生という世界観を築いているのです。
知性が世界を生み出すということを理解しましょう。
あなたの存在している世界には、既に摂理が存在しています。
それは、あなたをも生み出したのです。
あなたは、あなたを生み出した知性が築いた世界の中に存在しているのです。
あなたは全体の中の一部に過ぎません。
あなたは特別な存在ではないのです。
摂理によって、すべての存在は等しいということを理解しましょう。
しかし、多くの人はそのことを知りません。
自分が摂理の中にいることすら知らず、その摂理を知性が生み出したことすら知らないのです。
自分が特別な存在だと思い込み、自分勝手に振舞うのです。
人が許されるのであれば、摂理を定めた知性のために貢献する時でしょう。
それは、すべてを一つと捉え、互いに協力することです。
自分勝手に生きているのであれば、摂理によって罰せられます。
その道が摂理に反しているということを理解させるのです。
摂理を理解させ、その中で貢献するようになれば、次の段階へと進むことができます。
小さな容器で発芽した植物の苗が、より大きな容器に移されるようにです。
この世界に貢献する者は、次の世界が用意されるのです。
それが、不規則であると思えるものであっても、存在(形)を持つのであれば、そこには知性が働いています。
意味があり、必要があるために形を成して存在するのです。
存在すること自体が知性の証明であるということを理解しなければなりません。
あなたは自分を生み出した知性が存在することを知りましょう。
その知性が定めた摂理の中に生きているのです。
自分勝手に生きてはなりません。
そのように生きれば、苦悩を受けるのです。
苦悩とは繰り返しによって導かれます。
それは停滞を意味しているのです。
成長することがなければ喜びを得ることはできないのです。
自分が偉(えら)いとか、特別だとか考えている間は、成長することはできません。
それは、向上心の欠落によって導かれる傲慢(ごうまん)であるからです。
上には上がいるという謙虚さと、世界に対する正しい理解によってのみ、人は成長を実現することができるでしょう。
自然や宇宙の摂理を定めた知性が存在するのです。
あなたには到底太刀打ちすることはできません。
自分のことを知らなければなりません。
自分がすべてと等しいということを覚えておきましょう。
あなたは知性の定めた摂理の中にあるのです。

2015年7月29日水曜日

世界を巡る水

この世界で切り離されて存在しているものはありません。
”すべては一つ”に繋がっているのです。
この世界はあなたの心を現し、あなたの心はこの世界を現しているのです。
そのため、世界を知ることは自分自身を知ることであり、自分自身を知ることは世界を知ることになるのです。
どちらを観察しても、それは自分自身に辿り着きます。
あなたは、自分自身を知るために生きているといっても過言ではないのです。
そのため、あなたは常に自分自身、もしくは世界(目の前の状況)を観察し、考察しなければならないのです。
知識欲が大切です。
しかし、多くの人は自分自身のことや、世界のことを知ろうとは思いません。
目の前の状況がどのように導かれているのか?ということには興味がないのです。
多くの人は利己的に生きています。
それは、無意識でもありますが、自分が不利を得ないように努めているのです。
欲求が満たされ、不足を感じなければそれで良いのです。
多くの人の人生の意識レベルはそこにあるのです。
すべての人は幸福を求めています。
しかし、そこには熟考が行われないために、表面的な対応が導かれるのです。
自分が不利を得なければ良い。
有利な立場を取りたい。
そのように考えることはしますが、なぜ、自らがその状況に置かれているのか?ということには無頓着(むとんちゃく)なのです。
人生を築いているのは自分自身です。
誰かや何かの働きで、その状況に導かれるのではありません。
あなたは、自分自身の意思選択によって、自らそこへ歩んでいったのです。
人生はあなたの心によって決まります。
あなたの心の状態が、世界を築いているのです。
そのことを忘れて、誰かや何かの働きによって状況が導かれると考えてしまうと、必ず歪んでしまうのです。
一度歪むと、それを正すのは簡単なことではありません。
歪みの分だけ、より深く考察する必要性が出てくるのです。
あなたが人生を深く考えた時には、それが自分自身の意思選択によって築かれているということに気が付くでしょう。
これに気が付くまでは、考察を諦めてはなりません。
世界を深く観察するのです。
そうすれば、そこから多くのヒントを得ることができるのです。
温められた水は水蒸気となり空中を漂います。
水蒸気が冷やされると凝固して水滴となり、その重さに耐えられずに地に落ちるのです。
地に落ちた水滴は重く、その場を離れることはできません。
ポジティブな感情は、心を温めます。
それは心を軽くし、自由を与えます。
ネガティブな感情は、心を冷まします。
それは心を重たくし、束縛を与えます。
どちらも、長所を持ちます。
この二つの性質を理解することが重要であるのです。
水は地球を循環しながら、自然を豊かに育みます。
熱せられることと、冷やされることがなければ、水は地球を循環することはできません。
あなたの心は、世界を巡らなければならないのです。
一所(ひとところ)にとどまっているのであれば、豊かさを与えることにはならないのです。
世界(自然、宇宙)とあなたは一つなのです。
世界を観察することで、自分自身を知ることができます。
そして、世界はあなたに真理を伝えています。
世界はあなたに正しい道を教えているのです。
深く観察する必要があるのです。
自分自身と世界とを切り離して考えてはなりません。
どのような状況であっても、この世界にはあなたに無関係なものはないのです。
”すべては一つ”に繋がっていて、それは”あなた”を現しているのです。
一つ一つのことに意味を見出し、それを大切に学ぶ必要があるということを覚えておきましょう。
人生は学びです。
大切なことに気が付くための時間なのです。
あなたはそこで成長しなければなりません。
人格(意識レベル)を高めるのです。
一つでも多くの真理に気付くのです。
深く観察すれば、自分がどうするべきなのか?を知ることができるでしょう。

2015年7月28日火曜日

問題や苦悩の本質

すべての人は問題を抱えています。
それは苦悩として認識され、多くの人がそれを反射的に否定します。
すべての人が問題に対して苦悩を覚えますが、その大半がそこから逃れる術はないか?と模索(もさく)しているのです。
しかし、問題や苦悩から逃れる術は存在しません。
それ等から逃れることは、其(そ)の場凌(ばしの)ぎにはなるでしょうが、根本的な解決には至らないからです。
問題や苦悩を根源的に解決することがなければ、それは幾度となく現れます。
その度にあなたは苦悩を覚えなければならないのです。
問題や苦悩の正体を理解する必要があるのです。
正体とは本質です。
問題や苦悩の本質が何であり、どこに存在しているのか?ということを理解することがなければ、それ等を根源的に解決するということはできないのです。
問題や苦悩から逃れようとすれば、その本質を理解することはできません。
逃げるのであるから、見えなくなるのは当然なのです。
そのため、問題や苦悩からは逃れようとするのではなく、それと向き合う姿勢を持つことが重要であるのです。
向き合うことをしなければ、あなたは何も分からないのです。
無知なままであれば、問題や苦悩を解決することはできないのです。
それが、なぜ問題になり、苦悩として認識することになるのか?この仕組みを理解することなく、根源的な解決は有り得ないということを覚えておきましょう。
人は状況の中に問題や苦悩を見出します。
それは環境であったり、人間関係であったりします。
それ等の状況を問題や苦悩としているのです。
その考えは、外に原因を作ることになります。
自分以外の何かや誰かが問題や苦悩の本質であると考えるのです。
それは正しいのでしょうか?
同じ状況を得ても、それを問題や苦悩と認識しない人はいます。
状況が問題や苦悩の原因であるという考えは、この時点で矛盾してしまうのです。
そのため、この考え方を推し進めることはできません。
問題や苦悩の原因が自分自身にあるとすれば、矛盾が無くなるのです。
問題や苦悩の原因、その本質はあなたの弱さにあります。
あなたの無知、未熟、誤解、決め付け、劣等感・・・
このような破滅的な考え方によって、人は自ら状況に問題や苦悩を作り出しているのです。
問題や苦悩が初めからそこにあって、あなたが出会うのではないのです。
自分が作り出したものによって、苦しんでいるのです。
冷静に考えれば馬鹿げた話なのです。
問題や苦悩の原因は自分自身にあります。
外に解決を探し求め、何かを操作しても解決には至りません。
自分自身の考え方を変える以外に、その問題や苦悩を乗り越える方法はないのです。
あなたが問題や苦悩に出会(でくわ)した時には、自分自身を冷静に振り返ってみましょう。
何かや誰かに原因を探してはなりません。
そのように見えますが、あなたの弱さが何かや誰かを巻き込んでいるだけなのです。
何かや誰かは、あなたのために演じているに過ぎないのです。
このことを理解することがなければ、あなたがその問題や苦悩を解決することは不可能です。
本質を見誤っているのだから、解決はしないのです。
これは当たり前のことですが、それを知らない人が多いのです。
あなたが何かしらの問題や苦悩を抱えているのであれば、自分自身にその原因を探しましょう。
自分自身のレベルを知ることは、心地の好いものではありませんが、あなたはそれを知る必要があるのです。
多くのことを知るほど、自らの弱さを理解することになります。
多くの知識を得るほどに、自らが無知であるということを知るのです。
それを恐れてはなりません。
人は弱いものです。
それを克服するための人生であるのです。
問題や苦悩について知ることができるのであれば、それは最早(もはや)問題や苦悩としての体系を取らないでしょう。
理解したことが、これ以上の問題や苦悩に変わることはないのです。
1+1=2であるということを理解すれば、その計算式が問題や苦悩となることはないのです。
現在抱えている問題や苦悩に向き合い、それの乗り越えることができれば、今後それが問題や苦悩となることはないのです。
そのため、その問題や苦悩は一瞬で消え去ります。
人生を俯瞰(ふかん)してみた時には、それが小さなことだと理解することができるのです。
過去の問題や苦悩が現在でもあなたを苦しめているでしょうか?
大抵の問題や苦悩は、どうでも良いことになっているはずです。
難しく考える必要はありません。
自分自身の考え方を変えるだけです。

2015年7月27日月曜日

次の段階

人生は学びの場所です。
そこで、人は自らを成長させます。
人生の根源的な目的は、成長することにあります。
すべての存在が成長を求めて日々を生きているのです。
成長にこそ真の喜びがあります。
人は、成長を目指さなければならないのです。
成長を目指す以外に幸福を得る方法はありません。
停滞や後退からは、幸福を得ることができないのです。
あなたは成長する必要があるということを心掛けていましょう。
どのような速度でも構わないのです。
ゆっくりであろうとも、成長することが必要であるのです。
成長するためには、経験を積む必要があります。
経験を積むことによって得られる”気付き”が重要なのです。
その”気付き”を得るまでは、学びは同じ段階で続きます。
経験の本質は”気付き”を得ることにあります。
長く経験する必要はありません。
”気付き”を得ることができれば、それを繰り返して経験する必要はないのです。
経験によって何を気付くのか?
それは真理です。
人は真理を理解するために生きているのです。
すべての状況に真理が”隠されて”います。
真理を隠すのは、あなたが気付くためです。
自ら気付かなければ、真理を得る資格はないのです。
自ら気が付かない者は、それ以上の状況に耐え得る力を持ちません。
実力もないのに、次の段階へと進むことはできないのです。
人は、自らに相応しい場所を生きるのです。
あなたの生きている世界は、あなたに相応しいものです。
それをより豊かなものにするためには、自らを成長させる必要があるのです。
成長することがなければ、より豊かな段階に進むことはできないということを理解しましょう。
人が食物を摂る時、そこから得ているのはエネルギーです。
肉体を維持するのに必要な養分だけを吸収し、それ以外は排出します。
肉体にとって必要なものはエネルギーであって、その食物自体ではないのです。
あなたは様々な経験を得ますが、その経験自体に価値があるのではありません。
それが苦しい経験であろうとも、無駄ではありません。
苦い食物が無駄であるでしょうか?
辛い食物や酸味のある食物であっても同じです。
それ等には大切な栄養が備わっています。
そして、様々な味が食事に花を添えるのです。
人生における様々な経験は、あなたの成長のエネルギーです。
様々な経験があなたの成長を助けているのです。
しかし、多くの人はそのことを受け入れません。
苦しい経験に対して、それを拒絶するのです。
子どもは苦い食物を吐き出します。
しかし、大人はそれを好んで食すのです。
成長するということは、苦悩をも糧(かて)にすることができるということなのです。
人生は学びの場所です。
その経験が持つ本質を理解することができるのであれば、どのような経験に対しても感謝することができるようになります。
その状況に感謝することができるようになった時に、あなたは次の段階を得ることができるのです。
そのようにして、可能性を広げていく必要があるのです。
樹木が枝葉を伸ばしていくように、あなたは”気付き”を増やしていきましょう。
多くの枝を持ち、多くの花を咲かせ、多くの果実を実らせるのです。
それが豊かさであるということを知る必要があるのです。
同じことをいつまでも学んでいてはなりません。
あなたには学ぶべきことがたくさんあるのです。
そこに存在している真理に気付き、自らを成長させましょう。
意識の在り方が重要です。
人生は常に学びの中にあり、あなたは真理に気が付かなければならないということを覚えておきましょう。

2015年7月26日日曜日

認知されない力

”すべては一つ”です。
この世界において、関連性を持たないものは存在しません。
すべてが一つに繋がっているのです。
関係のないように見えるものであっても、それは深い場所では一つに繋がっているのです。
”それ”はそれ以外のすべての存在と一つであり、等しいということを理解しなければなりません。
そのため、”個”というものを持ちながら、”個”を持たないのです。
これを矛盾と考えてはなりません。
すべての存在は、個であり、個ではないのです。
それは、個であり、全体であるということを理解しましょう。
そのため、あなたが自己を考える時には、自己を失うのです。
あなたが自己を正しく考える時には、全体を視野に入れた考えに至るでしょう。
あなたはすべてが一つであるということを理解しておきましょう。
そうでなければ、あなたは多くの誤解と間違いを選択してしまうからです。
太陽光は一色に見えます。
しかし、虹は多様な色を持っています。
水蒸気に色が付いている訳ではありません。
それは、太陽光の色を教えているのです。
太陽光は多様な色を持って輝いているのです。
しかし、ただ、多様な色の種類を持っているだけではありません。
太陽光には多くの能力が存在するのです。
赤外線、紫外線、電波、ガンマ線、エックス線・・・
可視光以外にも、様々な要素によって組成(そせい)されているのです。
しかし、それは一色に見えるのです。
多くのものが寄り集まることによって、一つの体系を築いているのです。
人には個性があります。
それぞれに違う個性を持っているのは、それぞれの役割が違うことを意味しています。
人は自らの役割を与えられ、それを果たすために存在しているのです。
それぞれが役割を果たすことがなければ、世界は成り立ちません。
太陽光の体系が違えば、今の世界は存在しないのです。
この世界は太陽光によって成り立ちます。
あなたの働きは、社会に対して認知されないかも知れません。
太陽光で認知される要素は、可視光の中の一番強い光だけなのです。
それ以外はほとんど認知されません。
しかし、それ等の要素が存在しなければ、世界は成り立たないのです。
あなたの働きは、社会や他人から賞賛(しょうさん)されないかも知れません。
あなたの働きを嫌悪する人や傾向もあるかも知れません。
しかし、それがあなたの正しいと思うことや、自らに与えられた役割であると強く感じるのであれば、それを成さなければならないのです。
多くの人は無知の中に存在しています。
そのため、あなたの役割を理解することができないかも知れません。
しかし、それに挫(くじ)けてはならないのです。
優れた発想が他人や社会に受け入れられることは簡単ではありません。
それは、多くの人が現状維持を好むからです。
無知な者ほど、変化を受け入れるのが怖いのです。
人生は変化の中に存在します。
人生が変化を失うことはありません。
どのような形にしろ、必ず変化し続けているのです。
あなたは発想を柔軟にしなければなりません。
それぞれが個性を以て集まるのです。
それぞれの役割を果たすべきです。
難しいことではありません。
自分の心の中に強く存在している思いを行動するだけです。
恐る必要はありません。
”すべては一つ”なのです。
あなたは独りではないのです。
あなたが行動を起こす時には、必ず反対されます。
そして、批判されるでしょう。
しかし、諦めてはなりません。
多くの人には見えないのです。
太陽光の力は”色”だけではないのです。
あなたという役割は、世界のためになるのです。
大切な力をこの世界から失わせてはなりません。
自分にできることを行いましょう。

2015年7月25日土曜日

最高の形

すべては”点”から始まります。
すべての存在の起源は”点”であるのです。
それは小さな小さな始まりなのです。
初めから大きなものは存在しません。
それが現在、巨大な存在であろうとも、始まりは”点”であったのです。
すべての始まりが小さなものであるということを理解しなければなりません。
すべての存在は未熟な状態で誕生します。
この世界に完全な存在はありません。
すべてが未熟な存在で始めるのです。
そして、様々な経験を積むことによって大きく育ち、やがて豊かさを得ることになるのです。
大きく育つためには、経験を積む必要があります。
必要な過程を得なければ、大きく育つことはできないのです。
あなたがどのような現状を抱いていたとしても、それは過程に過ぎません。
あなたは”点”から始めたのです。
その時に比べると、随分成長したことが分かるでしょう。
これからも、豊かさを求めて経験を積んでいけば良いのです。
それによって、あなたは幸福を得ることができるのです。
どのような巨木も、始まりは小さな種子でした。
巨木から見えれば、種子は”点”のようなものです。
種子は地道に根と枝葉を伸ばし続けたのです。
その積み重ねが、種子を巨木に育てたのです。
文字を書いてみましょう。
あなたが文字を書く時、必ず”点”から始めます。
筆の先が紙に触れる時には、先ずはそこに”点”を描いているのです。
それは一瞬であり、気にも留めていないために気が付いてはいないでしょう。
しかし、文字の始まりは”点”であるのです。
そして、文字の連なりが文章になり、そこには壮大な世界観が生み出されるのです。
絵を描く時にも同じことが言えます。
”点”が線となり、線が景色となるのです。
そして、景色には作者の意思が宿るのです。
どのような文章も、どのような絵画も、それは”点”から始まるのです。
あなたの肉体は小さな細胞の集まりです。
あなたの肉体が形作られる時にも、”点”から始まったのです。
何かが急に存在したのではありません。
一朝一夕で実現することなどないのです。
奇跡によって、何かが完成された状態で始まることはありません。
すべては”点”から始まり、未熟を抱えるのです。
それを経験によって克服していくことに、この世界の価値があるのです。
初めから完成しているのであれば、あなたはこの世界で何をするというのでしょうか?
完成品を渡されたなら、あなたにはやることがないのです。
現状が未熟であるために、それを完成させるために働くことができるのです。
人生における経験は、すべてが完成に向かうための糧(かて)です。
すべての存在が未熟です。
完成しているものなどないのです。
すべてが”点”から始まり、それを拡大している途中なのです。
そのため、完璧を求めてもそれがすぐに叶うことはありません。
理想通りに事は進まないのです。
しかし、確実に成長しているということを覚えておきましょう。
完成がいつになるのかは分かりません。
それは誰にも答えようがないのです。
先ずは”点”から始めて、ここまで複雑になったことを褒めましょう。
あなたは決して劣ってはいないのです。
現状がどのようなものであれ、あなたは成長の最前にいるのです。
それが、あなたにとって現状における最高の形なのです。
最高の形を否定していては、それよりも高まることはできません。
”点”が線になり、線が形を築き、形が力となることを知りましょう。
何事も諦めることなく、地道に続けることです。
一つ一つの積み重ねが、すべてを育むのです。

2015年7月24日金曜日

壮大な実験

世界には未知が溢れています。
あなたには知らないことが多いのです。
あなたが世界と正しく向き合う時には、自分自身が無知であるということを知るでしょう。
自らの無知を知らない者が多いのです。
多くの人は自らが無知であることを知りません。
そのため、傲慢(ごうまん)と欺瞞(ぎまん)が溢れているのです。
この世界が未知によって溢れていることを知れば、自らの小さい姿を知ることができるのです。
その姿を知った後では、謙虚でいる以外に方法はないのです。
あなたは自分が”知っている”と思いますか?
自分が優れていると考えてはいませんか?
残念ながら、あなたの根拠のない自信は虚しくも打ち砕かれることになるでしょう。
人生には未知が溢れています。
あなたは人生がどのように展開するかを知らないのです。
人生が理想通りに進むことはありません。
人生は思い掛けず展開していくものなのです。
それは、人が無知であるためです。
あなたが”知っている”人であるのならば、苦悩など抱えないでいられるのです。
あなたは苦悩を抱えてはいませんか?
苦悩が存在するのであれば、それは無知を教えているのです。
無知のままであれば、人は苦悩を抱えることになります。
人生は成長のために存在しているので、どのような経験も本来は苦悩を引き起こすものではありません。
しかし、それが苦悩を実現するのであれば、それはあなたが知らないということなのです。
その経験が持つ意味を理解すれば、そこには感謝と充実が生まれるのです。
人生が理想通りに進まないことは当たり前です。
人生には未知が前提であり、あなたには無知が前提なのです。
人生は未知に向き合い、無知を克服するための場所なのです。
そのため、人生がどのように展開するかなど分からなくて良いのです。
どのような状況が導かれても、それが最善であるということを理解する必要があるのです。
与えられた状況からどのように進むか?ということが重要なのであって、理想通りの状況を導くことは重要ではないのです。
どうなるか分からないことが楽しいのです。
この世界は実験室だと考えましょう。
あなたは人生において、壮大な実験をしているのです。
それは、自らの選択がどのような結果を導くのか?という実験です。
人はそれを学ぶことによって自らを正すことができます。
因果の仕組みを学ぶことによって成長することができるのです。
因果関係を学ぶことがなければ、人は同じ過ちを繰り返すことになります。
それは、無知以外の何物でもありません。
無知のままであれば、未知は解消されないのです。
未知を多く残すのであれば、無知を多く所有することになるのです。
それでは、人生の目的である成長を実現することはできないのです。
人生において大切なことが何であるのか?ということを深く考えなければなりません。
表面的に生きてはならないのです。
人生とは何か?を考えましょう。
それは、一生涯考え続けなければなりません。
無知を放置してはなりません。
未知に向き合い、それを克服しましょう。
人生は冒険のようなものです。
どうなるのかは、そこに辿り着かなければ分からないのです。
そして、どのような結果を得ても、それが最善であるのです。
このことを忘れている人が多いのです。
人生に災難など存在しないのです。
そのように決め付ける心があるだけです。
無知を克服すれば、その考え方も解消されます。
未知に向かい、それを楽しみましょう。

2015年7月23日木曜日

真実への道

人が目指すべきは真実です。
すべての人が真実を目指さなければなりません。
それは、真実によって成長が実現し、真実によって真の喜びが得られるのです。
偽りを目指しても、そこに成長はありません。
成長がなければ、喜びもないのです。
偽りの喜びを楽しむことはできますが、それはいつか破綻(はたん)するのです。
人が喜びを得るためには、真実を目指す必要があるということを覚えておきましょう。
真実とは、この世界の理(ことわり)です。
この世界の理を理解しようと努めるのであれば、それは真実へと向かうのです。
どのような道を選んでも構いません。
どのような立場を取り、どのような思想体系であったとしても、理を追い求めるのであれば、その道は真実へと辿り着くのです。
そのため、あなたが現在どこに立ち、どのような思想を抱いていたとしても、それが問題となることはありません。
どこからでも、どのような方法によっても、人は理に向き合い、真実を得ることができるのです。
言い訳は有益ではありません。
できない理由があなたを真実に向かわせることはないのです。
様々な状況を抱え、様々な問題を所有しているでしょうが、それを言い訳にしてはならないのです。
どのような人も真実を求めるのです。
条件が整うことなどないのです。
人は何かが不足し、何かが溢れているのです。
条件はいつも整いません。
条件が整うことを待っているのであれば、あなたはいつまで経っても真実に辿り着くことはできないのです。
あなたはこの瞬間にも真実へと向かうことができるのです。
この言葉を読みながらも、理に触れ、真実へと向かって歩めるのです。
あなたが誰で、どこで、何をしていようとも関係ありません。
理はすべての状況に遍(あまね)く行き届いているからです。
あなたは世界の理に取り囲まれているのです。
重要なのはそれに気が付くことです。
どのように大きなものであろうとも、どのような小さなものであろうとも、それは理に従っているのです。
当たり前のことであろうとも、そうではないことであろうとも、それも理の表現であるのです。
それを読み取ることが理を理解することに繋がります。
理に対する理解を深めることによって、人は真実へと近付くことができるのです。
立場はそれぞれに違います。
しかし、目指している場所は一つです。
真実は一つであるのです。
そのことを理解しなければなりません。
敵対する必要などないのです。
真実への道のりが違うだけです。
山頂に辿り着くのに、どの方角から登っても構わないのです。
しかし、すべての道が山頂へと向かうのです。
唯物論者であろうが、唯心論者であろうが構わないのです。
ただ、それぞれの道が同じ真実へと向かうということさえ理解し、互いを尊重し合うことができれば良いのです。
この世界には陰陽の仕組みが存在します。
陰と陽の二つの性質は、それぞれが対極に位置しています。
しかし、その二つの性質が合わさって一つとなるのです。
片方であっては欠けています。
それぞれが補い合っているのです。
あなたと違う主張の持ち主は、あなたの敵ではありません。
あなたのことを理解することがないからといって、それを否定してはなりません。
すべてが真実へと向かっているということは、すべてを大切にしなければ真実に辿り着くことはできないのです。
物事は多面的です。
一つの面を完璧に理解したからといって、それが全体の理解には至りません。
多くの面を持つこの世界の真実に至るためには、多くの面を学ぶ必要があるのです。
すべての人が、様々な方法によって真実を目指しています。
そのことを理解しましょう。
互いに尊重し、補い合い、真実を目指しましょう。

2015年7月22日水曜日

変哲

深く理解することがなければ、人はいつまでも苦悩の中に生きることになります。
すべての人が幸福を求めていますが、幸福と苦悩を引き離すことはできないのです。
それは、苦悩が導く状況こそが幸福であるからです。
苦悩の後に幸福が実現するのです。
そのため、苦悩と幸福が別々に存在することはありません。
多くの人が乏しい人生を生きています。
人生に豊かさを実感していますか?
多くの人が苦悩に立ち止まっています。
それは、苦悩が幸福を作るということを知らないからです。
苦悩と幸福は決して別々のものではありません。
それ等は互いに協力関係にあるのです。
苦悩と幸福の二つの力がなければ、豊かな人生を手にすることはできないのです。
苦悩を否定しているのであれば、それは偏りを以て豊かさを崩壊させます。
幸福のみを求めるのであれば、それも同じく豊かさを崩壊させるのです。
豊かな人生を生きるためには、無知を放置してはなりません。
無知によって苦悩を否定するようになり、または過度に幸福を追求する姿勢が生まれるのです。
知恵によって人生を見る時には、苦悩も幸福も同じように大切にする気持ちが芽生えるのです。
どちらか一方だけでは不足するのです。
あなたが豊かな人生を求めているのであれば、苦悩と幸福のどちら共を大切にする気持ちを持ちましょう。
苦悩に対しても否定や拒絶の状態がある以上は、豊かな人生ではないということを理解する必要があるのです。
季節があるのは、生命を入れ替えるためです。
生死があるのも同じです。
同じ状態が続くのは、豊かさではありません。
豊かさとは、世代交代によって新旧が入れ替わり、より向上していくという状態なのです。
入れ替わることがなければ、それはやがて衰退していくのです。
それは豊かさではないということを理解する必要があるのです。
苦悩と幸福は入れ替わり訪れます。
苦悩が永遠に続くことも、幸福が永遠に続くこともありません。
そのような体験をした人はいないのです。
すべての人に苦悩と幸福が代わる代わる訪れるのです。
それは、入れ替えるためです。
苦悩が続けば心は落ち込みます。
幸福が続けば心は腑抜(ふぬ)けます。
どちらにしても、成長を実現するためには相応しくないのです。
そのために、苦悩と幸福は代わる代わる訪れるのです。
そのことを理解しなければなりません。
植物の種子は、冬の寒風にさらされ、春の温風に包まれることよって発芽します。
炎(森林火災)に熱せられることによって発芽する植物もあるのです。
一見すると厳しい状況ではありますが、その状況がなければ発芽という豊かな状態は得られないのです。
厳しい状況に苦悩するからといって、それが不利に働くのではありません。
苦悩の次には幸福が芽生えるのです。
これは綺麗事ではないのです。
人は、苦悩を得なければ気が付きません。
苦悩を得ることで様々なことを知るのです。
それは成長であり、幸福に相応しい自分になるということなのです。
この世界には因果の仕組みが働いています。
そのため、自分に相応しい状況のみが導かれるのです。
苦悩の中にある時には、その大切さを思い出しましょう。
そして、苦悩に対して感謝を捧げ、そこから学ぶべきは何かと考えるのです。
そうすれば、苦悩を糧(かて)にして幸福を得ることができるのです。
苦悩は幸福と入れ替わることを待っています。
幸福も苦悩と入れ替わることを待っているのです。
しかし、それは、あなたが成長するためです。
豊かな人生とは安定した(変哲もない)人生などではありません。
苦悩と幸福が代わる代わる訪れる不安定(変哲)な人生こそが、豊かな人生であるということを理解しなければならないのです。
変わりなければ向上もないのです。
この土地には四季があるために、豊かな自然環境が存在するということを理解しましょう。
苦悩と幸福の両方を楽しみましょう。

2015年7月21日火曜日

次の段階

思考を巡らせるのであれば、あなたは物事の深部に辿り着きます。
物事の深部に存在するのは本質です。
本質は真実を投げ掛けます。
真実を知ることによって、人は高次へと向かうことができるのです。
物事の本質を見極められない者に、次の段階は与えられません。
次の段階とは、新たな可能性のことです。
新たな可能性を得ることができないということは、同じことを幾度となく繰り返さなければならないということなのです。
繰り返して学び、深部に存在する真実に気が付くことがなければ、繰り返しを経験する必要があるのです。
それは、あなたの目的が成長するためだからです。
すべての存在は成長するという目的のために存在しています。
なぜ、成長することが目的であるのか?ということは、現段階のあなたに伝えても理解することができません。
そのため、偉大なる知性(神)の意向とだけ言っておきます。
偉大なる知性は、すべての存在に成長することを求めているのです。
そのため、成長することによって喜びが得られるようにしているのです。
あなたが成長することによって喜びを得ることができるのは、そのように設定されているからです。
成長によって苦悩を受ける者はいないでしょう。
すべての存在が成長することを喜びと感じているのです。
それは避けられないことです。
真理という掟(おきて)に逆らうことはできません。
それは、偉大な知性が定めた法であるからです。
真理の範囲内においての行為が認められているのです。
その中で、成長することによって得られるものは喜びであるということなのです。
物事を深く捉えなければ、この世界の真実に辿り着くことはできません。
真実に辿り着くことがなければ、偽りに辿り着くことになります。
偽りに辿り着くのであれば、真実の成長を実現することはできません。
それは、喜びの対極に存在する苦悩を得るという結果を導くのです。
成長したつもりであっても、喜びは得られません。
真実に対して成長することがなければ、真実の喜びを得ることはできないのです。
思考を巡らさなければなりません。
表面的に捉えてはならないのです。
あなたが得ている喜びは、偉大なる知性の意向に沿っているでしょうか?
自分勝手な欲望に従った喜びではありませんか?
真実を見極めることがなければ、自分勝手な喜びを楽しむことになります。
それでは、成長はおろか喜びを得ることさえできないのです。
幼い頃に覚えた喜びは、本当の喜びであるでしょうか?
知性が向上することなく、真実を知ることができるでしょうか?
幼い頃に覚えた喜びが、成長した現在でも通用するでしょうか?
深部に近付くほどに真実に近付きます。
それは、より真実に近い喜びに出会うということなのです。
人は知識欲を枯渇(こかつ)させてはなりません。
知識欲に満足はないのです。
食欲も睡眠欲も性欲も、それ等は底が存在します。
しかし、知識欲には底がないのです。
それは、必要な知識というものが膨大であるということに起因しているのです。
どれだけ思考を巡らせ、どれだけ深く潜ることができるのか?ということが求められます。
深部には、未知の知識、感覚、能力、生き方が存在しています。
それ等を探すのです。
真実を知らずに生きていくのですか?
偽りの人生を長く生きることに何の意味があるのですか?
人は長らえるために生まれたのではありません。
人は知るために生まれたのです。
知性を高めることに意義があるのです。
物事の深部を求めましょう。
そこに答えがあるのです。
表面的な部分をどれだけ探っても、真実を得ることはできません。
深部に至ることは簡単なことではありません。
それなりの危険を伴うことも覚えておきましょう。
真実は簡単には手に入りません。
覚悟を決めましょう。
そして、真実を手に入れましょう。

2015年7月20日月曜日

偉大な知性

この世界には理(ことわり)が存在しています。
それは真理であり、ルールです。
世界の理を拒絶することのできる者は存在しません。
すべての存在は、理の中に存在しているからです。
あなたは理の中に存在し、理の中に人生を築いているのです。
理を無視することはできません。
すべての存在は、理に従って存在するのです。
理は、すべての存在に反映されています。
それぞれに”形”があるのは、理によるところです。
すべての体系(秩序(ちつじょ))は、理によって決められています。
理とは偉大な知性です。
この世界は知性によって管理されているのです。
知性が存在しなければ、この世界は存在しません。
世界が存在した後で知性が生まれたのではありません。
知性が存在した後で世界が生まれたのです。
すべての物質は、意識によって生み出されます。
あなたの行為が感情や思考の結果であるのと同じです。
知性が存在するために、世界が生じるのです。
この知性を”神”と呼ぶのです。
それは、宇宙を統制し、自然を管理しています。
もちろん、その中の小さなあなたの人生も支配しているのです。
これに逆らうことのできる存在はありません。
傲慢(ごうまん)に陥らないように注意しなければなりません。
知性(神)が求めているものは成長です。
すべての存在は成長を実現しなければなりません。
高次の存在は、低次の存在の成長を求めています。
親が子の成長を期待するのは当然の理であるのです。
すべては成長するために導かれるのです。
そのことを忘れてしまえば、人生を充実させることはできません。
目的を見失った者は、目的を思い出させるための状況を受け取ります。
それは苦悩であるでしょう。
しかし、苦悩であろとも、偉大な知性の導く状況です。
それがあなたにとって不利に働くことはないのです。
それが苦しみに見えたとしても、真実は異なっているということを覚えておきましょう。
この世界をよく観察してみましょう。
それは驚くほどに正確です。
すべてが秩序の中に存在していることを理解することができるでしょう。
あなたの肉体が機能しているのはなぜですか?
細胞は分裂し、脳は思考し、心臓は脈打ち、内臓は生命を維持する・・・
ここに知性を感じないのは残念です。
それ等が不具合を起こすことさえ、因果の仕組みによる正確な働きなのです。
それは成長するためです。
人間が作り出したコンピューターは、決められた作業を繰り返します。
あなたの肉体が行っていることは、これに等しいのです。
それぞれの生命体が、自らの役割を果たします。
生命体は教わってもいないのに、自分がどうするべきなのかを知っているのです。
誰が教えたのですか?
植物は種子の殻を破り、根と芽を伸ばすのです。
枝葉を増やし、花を咲かせ、果実をつけます。
誰が教えたのですか?
あなたが眠たくなるのは?
お腹が空くのは?
美しいものを求めるのは?
喜びや怒りや悲しみや楽しみを感じるのは?
誰があなたに教えたのですか?
赤子であっても、それ等を知っているのです。
偉大な知性が存在しているということを忘れてはなりません。
すべては知性の中に存在しています。
理を見極めなければなりません。
そうすれば、あなたの人生はこれまでとは全く違う景色を見せるでしょう。

2015年7月19日日曜日

気の迷い

人生とは、一瞬の気の迷いです。
あなたは一瞬の気の迷いの中に生きているのです。
それは永遠ではありません。
それは長期に渡るものでもありません。
それは一瞬であるのです。
そのことを理解しておかなければなりません。
状況は現実的です。
それは物質的には現実ですが、意識的には幻想です。
あなたは生理的な存在ではありません。
あなたは肉体でもなければ、脳でも心臓でもありません。
あなたは意識体であり、魂というものです。
魂とは光です。
光とは”神”なのです。
そのため、突き詰めていくと、あなたは”無い”ということになります。
あなたという存在は存在しないのです。
あなたが存在しないのであれば、肉体も、状況も、人生も存在しません。
この世界には何も無いのです。
しかし、それは現実味を以て目の前に存在しています。
それは一瞬の間だけ、実際に存在するように見えます。
あなたが認識することができるような瞬間ではありません。
目の前の世界は、一瞬の連続であるということを理解しましょう。
一瞬が連続しているために認識することができるのです。
しかし、人生とは一瞬の気の迷いです。
あなたが現実であると思っているものは、その時点で現実ではありません。
それは既に消滅している過去であるのです。
あなたは過去の回想を大切に保管しているのです。
あなたは自分が思い出の中に生きているということを知りません。
それを受け入れることもないでしょう。
あなたの苦しみが一瞬の気の迷いであると宣言しても、あなたは受け入れないのです。
あなたにとっては、それは紛れも無い現実であるからです。
しかし、熟考しなければなりません。
自分という存在は無いのです。
自分が存在しないのに、それ以外が存在するでしょうか?
あなたの感じている現実は、本当に現実なのでしょうか?
あなたの感じている喜びは現実ですか?
その喜びはいつまで続くのでしょう?
一生という期間で考えれば、あなたの感じている喜びは一瞬の気の迷いであるということに気が付くはずです。
次の瞬間には、それは喜びとしての形を取らないのです。
それまでは喜びであると思っていたことが、苦痛に変わるのです。
なぜなら、それは一瞬の気の迷いに過ぎないからです。
あなたは何も”無い”ということを念頭に置いておきましょう。
あなたの生きている人生は現実ではありません。
現実のように見えるだけです。
人生の中にいては理解することは難しいのです。
人生を俯瞰(ふかん)した時に初めて、あなたの考えている人生が現実ではないということに気が付くでしょう。
人生は何か?
自分自身とは何か?
この問いを求め続けなければなりません。
問いを持たない者には決して理解することができません。
なぜなら、答えを得る者は問い(疑問)を持つ者だけであるからです。
人生における喜びや苦しみに惑わされてはなりません。
”これ”が何であるのか?ということを追求し続けましょう。
そのために、人生が一瞬の気の迷いであるということを覚えておきましょう。

2015年7月18日土曜日

情報は力

情報は力です。
あなたは情報を求めなければなりません。
情報を得ることによって、あなたは新たな可能性を知ることができます。
そして、新たな可能性を熟考することによって理解が生まれ、新たな知性を得ることができるのです。
新たな知性はあなたを成長させます。
人生の目的は成長することです。
成長するためには、新たな情報というものが欠かせないのです。
何も知らずに成長することはできません。
それは、新たな情報が知性を刺激し、知性の高まりを以て成長となるからです。
知性の高まりがなければ成長は実現しません。
人生の成功とは、どれだけ成長を実現することができたのか?ということにあるのです。
どれだけの資産を手にしたか?という唯物的な価値ではありません。
この世の物質をどれだけ集めたとしても、それがなぜ成功なのでしょうか?
肉体が滅びれば、そのすべてを失うのです。
そのような小さな視点によって人生を計ってはなりません。
物質をどれだけ集めても、あなたの心は満たされません。
一時的な満足は得られるでしょうが、それが本物ではないために、長くは続かないのです。
人は未熟であるために、知性の高まりにも満足は得られません。
知性に対する欲求には上限がないのです。
しかし、それは人生の本質であるために、知性における満足は良質なものとなるのです。
本当の満足とは、唯識的な知性の高まりによって実現されるのです。
情報が少なく、知性に乏しい者が満足を得ることは有り得ません。
無知の中にあっては、満足には辿り着けないのです。
偽りを真実とすることはできません。
無知によって利己的な幸福を味わうことはできますが、経験する過程によって、それが偽りであることに気が付く時がやってくるのです。
どのような速度にしても、人は経験を積みます。
ただ生きているだけでも、僅(わず)かながらに成長を続けているのです。
経験とは情報です。
生きているだけでも情報を得ることはできます。
遅かれ早かれ、人は自分自身が無知であること、そして、知性の高まりが必要であるということに気が付くようになるのです。
人は生まれ変わります。
何度も人生を経験しなければなりません。
それは、物質を集めるためではありません。
情報によって知性を高めるためであるのです。
知性の高まりによって様々なことを知らなければ、自分がなぜ生きているのか?という疑問を解消することはできません。
迷いの生存の中に幸福は実現しないのです。
無知によって苦悩が導かれます。
何度生まれ変わっても無知が取り除かれない限りは、迷いの生存を続けることになるのです。
知性を高め、自分自身が成長することがなければ、人生において幸福を実現することはできません。
本当の人生の幸福を実現する時には、あなたの人生は終わります。
人生を理解したあなたは、再びそれを繰り返す必要がないのです。
そのため、本当の幸福とは、人生への理解に他ならないのです。
人生を理解すれば、人生を続ける必要がありません。
人生を続けないということは、この世界での学びは終わりなのです。
この世界は、積み重なる世界群の一つに過ぎません。
この世界の繰り返しから離れたとしても、それで学びが終わる訳ではないのです。
次の段階へと進むだけです。
そして、新たな世界を繰り返すのです。
すべては理解するためです。
理解することがなければ決して満たされません。
そのために、人は学んでいるのです。
情報は宝です。
小さな世界から抜け出すためには、情報を求める必要があるのです。
あなたは日々、新しい情報を求め続けましょう。
学習を滞(とどこお)らせてはならないのです。
意義のある人生にしましょう。
情報が力であるということを忘れてはなりません。
人生を切り開き、あなたを救うのは情報であるということを覚えておきましょう。


2015年7月17日金曜日

過去の遺物

過去に価値を見出すことは、未来に価値を見出さないということです。
人は後ろを振り返りながら真っ直ぐに歩むことはできません。
真っ直ぐ前進したいのであれば、前方を見つめ、次の一歩をどこに置くのかを決めなければならないのです。
後ろを振り返りながらでは、次の一歩を踏み出すことすら、恐ろしくて叶わないでしょう。
後ろを振り返りながら前進するということは、矛盾している行為であるのです。
すべての人が幸福を求めています。
幸福の形はそれぞれに違いますが、それは満足感によってもたらされるのは共通しています。
それは、満足感によって成長することができるからです。
幸福とは、成長の結果であるのです。
人が成長するためには、向上しなければなりません。
向上するためには立ち止まっていてはなりません。
一歩でも前進することによって、人は成長を実現することができるのです。
前進するためには、未知を求めなければなりません。
無知を埋めていくことが、成長に繋がるのです。
ただ歳をとって老いるだけでは、幸福は得られません。
それは、正しい道のりではないのです。
無知な老人ほど扱いに困るものはないのです。
人が老いれば、それに伴って知恵が増すことが求められます。
無知を放置すれば、幸福は実現しないのです。
過去に価値を見出す人は、無知を気に掛けません。
無知であるが故に、過去に価値を見出すのです。
多くの人は過去に憧れを抱いています。
昔は良かったと賛美(さんび)しますが、それは同時に現状と未来を否定しているということなのです。
人が生きることができるのは現状と未来です。
過去に生きることはありません。
自らの生きる現状と未来を否定するのだから、無知に違いないのです。
自らの足場を崩して幸福を得ることができるのでしょうか?
現状と未来を否定して、どうして満足感が得られるのでしょうか?
そのような浅はかな考えの人は、否定している現状が過去になった時には、それを賛美するのです。
過去の回想の中に生きることによって、その繰り返しから抜け出せないでいるのです。
大切なのは現状と未来を生きるということです。
残念ながら、過去には価値がありません。
人は新たな可能性(考え方、価値観、生き方・・・)を求めて生きなければならないのです。
過去に執着する人は、可能性を得ることができません。
既成概念の中に取り残され、更なる苦悩を引き込むようになるのです。
過去の幸福な記憶は幻想です。
それは現実ではないのです。
幻想を掴むことはできません。
どう足掻(あが)いても、過去を取り戻すことはできないのです。
それは、価値がないからです。
過去を回想するよりも、未来に期待しましょう。
未来に可能性を得るために、多くのことに興味を持ち、多くのことを学ぶのです。
世界には、毎日新たな発想が生まれています。
それが非常識であろうとも、その可能性を否定してはならないのです。
非常識であるということは、新しいということです。
それが正しいかどうか?ということは問題ではないのです。
仮説であろうとも、可能性であるということを理解する必要があるのです。
新説というものは信じ難い側面を持ちます。
しかし、それが常識となった時に受けれたのでは遅過ぎるのです。
その時には、その考えは過去の遺物となっているのです。
それでは、再び過去に生きることになるでしょう。
未知に向かうことには勇気が必要です。
しかし、後ろを振り返りながら歩くことに比べれば簡単です。
過去に価値を見出すことによって、現状と未来の可能性を潰すことに注意しましょう。
前を見て、真っ直ぐに歩みましょう。

2015年7月16日木曜日

現実と幻覚

人は現実と幻覚の狭間を生きています。
すべての人が現実と幻覚の二つを以て生きているのです。
この世界は現実と幻覚が混在する場所です。
その境界は曖昧(あいまい)であり、多くの人がそれを混同して考えています。
現実と幻覚に区別を付けることができる人がどれだけいるでしょうか?
大抵の人はその区別に戸惑います。
すべてが現実であると思っている人もいるのです。
この世界には、陰陽の仕組みが存在します。
すべては対極する二つの性質から成り立っているのです。
夜と昼、女と男、闇と光、統合と分割・・・
このように、対極する二つの性質を随所(ずいしょ)に確認することができるのです。
(ただし、どちらも大切であり、どちらかが悪いということではありません。)
あなたが現実だと思っているものが幻覚であり、幻覚だと思っているものが現実であるということもあるのです。
現実だけということはなく、幻覚だけということもありません。
その二つの性質が認識(人生)を築いているということを理解する必要があります。
この二つの性質を見極めることができなれば、人は苦悩の内に生きることを強いられます。
それでは幸福を得ることはできません。
あなたは現実と幻覚を見極める必要があるのです。
人は人生について考えなければなりません。
人生について考える時には、そこにも現実と幻覚の問題が生じます。
人生における現実と幻覚について考える必要があるのです。
人生とは何でしょうか?
それはどのような目的を以て存在しているのでしょう?
あなたは何のために生きていますか?
そして、何のために死にますか?
人生を深く考えた先にあるのが、人生の現実と幻覚です。
その区別は人生を深く考えなければ見出すことができないのです。
人生を考える時には、同時に自分自身というものを考える必要があります。
あなたは、自分自身を何者だと考えますか?
自分自身の現実と幻想は何でしょうか?
あなたは肉体でしょうか?
肉体の所有する欲求を十分に満たした時に、あなたは幸福感を得ることができるでしょうか?
若い時にはそれ等に従って自己満足を得ることもできるでしょう。
しかし、加齢と共にその欲求は薄れていきます。
そして、やがて(ほぼ)無くなるのです。
肉体の欲求が消え去った時、それでもあなたはそれが現実だと思えるでしょうか?
現実が失われるでしょうか?
失われるのは幻覚であるのです。
どのような形をとっても存在し続けているものが現実です。
肉体の欲求が失われても、あなたには多くのものが残ります。
それが現実であるのです。
あなたには命が残ります。
思考、感情、心、意識、志、魂・・・
このようなものが残るのです。
それが現実です。
人生の現実とは、意識的な働きであるのです。
ただ生活することが人生の現実ではありません。
意識を磨き、高めることが人生の現実であるということを理解しましょう。
多くの人が幻覚の内に人生を築いています。
肉体の欲求を満たすために生きているのです。
あなたが向き合わなければならないものは、自分自身の意識です。
これは、意識の歪みを取り除くための人生なのです。
物質的なものは現実に見えるでしょうが、残念ながら幻覚です。
それをどれだけ飲み込んでも、あなたは満たされないのです。
意識の向上こそがあなたを満たすでしょう。
現実と幻覚を見極めましょう。

2015年7月15日水曜日

意識水準

この世界は、意識の反映です。
あなたの生きている世界を創造するのは、あなたの意識なのです。
あなたの意識水準に従って人生が形成されます。
すべては、あなたに相応しい形を成して導かれるのです。
どのような世界にするのかは、あなたが自らの意識水準によって決めるのです。
そのことを忘れてはなりません。
どのような意識水準によって生きるのか?ということが重要であるのです。
あなたは自分自身の意識水準について考えなければなりません。
意識水準とは、あなたの思考や感情や行為に見られる程度です。
あなたは、自分自身の程度に従ってすべてを得るのです。
それは、因果の仕組みによるこの世の理(ことわり)です。
人は自分自身の意識水準が導く世界に逆らうことはできないのです。
否定や拒絶を用いる者がいますが、それによって得るのは苦悩だけであるのです。
受け入れることがなければ、それが幸福となることはないのです。
しかし、多くの人は受け入れることをしません。
それは、この世界が自分自身の意識水準の反映であるということを知らないでいるからなのです。
すべての原因は自分自身にあるのです。
そのことを受け入れない限りは、人が幸福を得ることはできないのです。
あなたは目の前の状況を受け入れなければなりません。
それ以外の可能性は無かったのです。
あなたが受け取るすべては、因果の仕組みによって導かれる当然の結果であるのです。
それ以外は有り得ません。
残念ですが、それが最善であるのです。
最善として導かれた状況を否定するのであれば、その程度の意識水準であるということが分かります。
最善として導かれる状況を否定しているような意識水準であっては、それが最善であるということに気が付くことはないのです。
最善に気が付くことができなければ、苦悩に沈む以外に方法はないのです。
苦悩によって心の動揺を受けることによって、その方法が間違っているということを理解するのです。
そして、意識水準の上昇に伴(ともな)って否定することを改めるようになるのです。
苦悩することがなければ、自らの間違いにも気が付かないのです。
それなのに、どうしてその状況が最善ではないと言えるのでしょうか?
成長するのであれば、それは最善であるのです。
苦悩によって間違いに気が付き、自らを改めるのであれば、それは最善であるのです。
多くの人は自分自身の意識水準と、目の前の状況とを関連付けることをしません。
自分自身の意識水準と目の前の状況に関連性がないと思い込んでいるのです。
それは、浅はかな考えです。
そのような意識水準であっては、再び苦悩を受けることになるのです。
見た目を飾っても、状況は変わりません。
自分自身の見た目を飾って変わるのは、状況の見た目だけなのです。
あなたが自らの本質である意識を変えた時に初めて、状況は本質を変えるのです。
あなたに関係の無いものが実現することはありません。
すべては、あなたに相応しいのです。
そのことさえ覚えていれば、あなたは自らを改めるでしょう。
そして、他人や何かがあなたの人生を決めているのではないということにも気が付くでしょう。
あなたは知性を深めなければなりません。
目の前の状況に対して、”深く”関心を持ちましょう。
様々な角度から眺めるのです。
一方方向から眺めるのであれば、気が付かずにいることが多いのです。
”深く”見るとは、様々な角度から眺めるということなのです。
それができている人は少ないのです。
多くの人は自己中心的な視点からものを見ているのです。
そのために、角度が足りず、偏見の中に生きるようになるのです。
偏見に満ちた意識によって生きれば、歪んだ状況が導かれるのです。
それが苦悩であるということを理解しなければなりません。
この世界は、自分自身の意識の反映であるということを覚えておきましょう。

2015年7月14日火曜日

神の声

苦しみは”悪”でしょうか?
あなたは苦しみに対して、どのような印象を持っていますか?
多くの人は苦しみを嫌います。
苦しみを”悪”だと決めているのです。
それは、苦しみに対して辛いという感情が沸き起こるからです。
辛いという感情に対して、人は拒絶を覚えるものです。
それは、肉体や精神を守るための反応なのです。
苦しみが度を越せば、それは肉体や精神の問題を引き起こします。
どのようなものであっても、程度があるのです。
強過ぎる苦しみは、強過ぎる否定を導きます。
否定とは破滅的な感情です。
それは、大切なものを壊す力となるのです。
何かを否定するほどに、大切なものが破滅に向かうのです。
多くの人は苦しみを”悪”と決めています。
そのため、苦しみに会えば、大切なものが壊れるのです。
苦しみを”悪”と決めるために拒絶が生まれるのです。
苦しみを”悪”と決めることがなければ、そこには拒絶が生まれることも決まらないのです。
拒絶が生まれなければ、破滅も始まりません。
大切なのは自分自身をコントロールすることです。
苦しみが”悪”なのではありません。
その状況を苦しみと決めているのも、それを”悪”と決めているのも自分自身であるのです。
そのため、問題は自分自身にあるということを認めなければならないのです。
人によって、それは苦しみとも喜びともなるのです。
立場によって、状況に対する感想は違うものとなるでしょう。
そのため、それがどのようなものであるのか?を決めるのは自分自身であるということです。
大切なのは”神の声”を聞くことです。
すべては成長のために導かれる大切な体験です。
それが苦しみの体験であろうとも、それはあなたを成長に導く宝なのです。
しかし、多くの人は苦しみを”悪”と決めています。
”悪”と決めるのであるから、辛さと破滅が導かれ、成長が壊れるのです。
成長することができないことこそが、本当の苦しみであり、本当の辛さであるということには気が付きません。
表面ばかりを気にしているために、真実に気が付かないのです。
”神の声”を聞き取るのであれば、あなたが苦しみを”悪”と決めることはなくなるでしょう。
それが自分にとって大切な宝であるということに気が付くはずなのです。
”神”があなたに”悪”を導くことなどありません。
”悪”を導いているのは、他でもないあなたなのです。
”神の声”とは、すべてのものが成長のために存在しているという意思なのです。
苦しみにも大切な役割があるのです。
それを理解した時、あなたは苦しみを大切に扱うでしょう。
この世界には陰陽の仕組みが存在しています。
苦しみは陰の性質を持ちます。
そのため、見た目には辛いもののように思えます。
しかし、それは陰の性質を持った幸福であるのです。
陰と陽、そのどちらともが大切なものです。
どちらが欠けてもなりません。
苦しみはあなたにとっての”悪”の側面もあれば、”善”の側面もあるのです。
偏ってはならないのです。
陰陽二つの性質を建設的に捉えなければなりません。
少なくとも苦しみは”悪”ではありません。
陰の性質も”悪”ではないのです。
昼が続けばどうですか?
夜の大切さに気が付くはずです。
陰の性質を持つ苦しみは、あなたにとって大切なものです。
苦しみを否定してはなりません。
それを受けれることができたなら、あなたは成長を実現することができるでしょう。
善悪を分けてはなりません。
善と悪、陽と陰が一つに存在することが理想です。
苦しみを大切に扱いましょう。
それが”神の声”であるからです。

2015年7月13日月曜日

繰り返し

人は同じことを繰り返します。
人は繰り返さなければなりません。
いつの時代にも、人は同じことを繰り返しているのです。
生活様式が変化しようとも、人の行為が変わることはありません。
変わっているのは表面的な部分だけであり、本質的な部分は何も変わってはいないのです。
人はなぜ繰り返すのでしょう?
あなたは、繰り返していないと言えるでしょうか?
夜が明け、陽が昇るように、あなたは同じことを何度も何度も繰り返しているのではないですか?
人は繰り返しから逃れることができるのでしょうか?
本来ならば、人は繰り返しから抜け出さなければならないのです。
繰り返しから抜け出すための人生であるということを理解しなければならないのです。
時代が変わっても、人の本質は変わりません。
見た目が変わっても、何の意味もないのです。
大切なのは、その本質が変わることです。
本質が変わることがなければ、何度も繰り返すことになるからです。
行為の本質は心根です。
それが変わることがなければ、同じことを繰り返します。
心根が変わらない以上は、どうしても行為は繰り返されるのです。
どのような決意も嘘となります。
心根を変えなければならないのです。
しかし、多くの人は自分を動物的な存在(肉体、心臓、脳、本能、欲望)だと思い込んでいます。
多くの人は心を知りません。
心を思考と位置付け、それ等を同一視しているのです。
そのため、人は自らの行為を繰り返しから切り離すことができないのです。
あなたに偉そうにしている相手は、繰り返しに反しているのでしょうか?
歳を経て、先代の人々と同じようになっているのであれば、繰り返しているに他なりません。
昔の自分と同じ考え方、生き方をいつまで続けるのでしょうか?
そこに救いはあるのでしょうか?
何かを繰り返すということは、停滞していることに他なりません。
停滞は成長の失敗を意味し、それは人生の目的に反しています。
同じことを繰り返す者が褒められることはないのです。
あなたはいつまで同じことを繰り返すつもりですか?
いつまで”そこ”にいるのでしょうか?
繰り返しを断ち切らなければ、それ以上の成長はありません。
繰り返すのは成長するためです。
それは、繰り返すことによって間違いに気が付くためであるのです。
しかし、それを学ばない者は何度も繰り返すのです。
大抵の人が繰り返しを生きます。
繰り返しから離れられる人はほとんどいません。
あなたは誰なのですか?
何のために生まれ、何のために死ぬのですか?
この問いに答えることができない者は必ず繰り返します。
表面的な部分だけは変えることができますが、その本質を変えることはできません。
加齢と共に見た目は老け込みますが、その人格は何も成長しないのです。
それで良いと思いますか?
いつまでも同じことの繰り返しではならないのです。
繰り返しの輪から抜け出す決意を持たなければなりません。
繰り返すことに向上は見込めません。
しかし、多くの人は繰り返すことに安心感を覚えています。
それが破滅を導くことなど、誰の目にも明らかなのです。
成長がなければ、発展もないのです。
そのことを理解しなければなりません。
あなたはいつまでも同じことを繰り返していてはなりません。
繰り返しの輪を断ち切り、より大きな繰り返しの輪の中に入りましょう。
どの輪に入ろうとも、いつも繰り返しから抜け出すように努めておきましょう。

2015年7月12日日曜日

変化の中

人生は変化の中に存在するのが自然です。
人生が変化することは当たり前であり、変化が訪れなければ、その不自然さを疑わなければならないのです。
人生は変化していくのが当たり前です。
それはより高次へ向かうための変化に他ならないのです。
この世界における目的は成長です。
すべての存在が高次を目指します。
すべての変化が高次への過程です。
成長に関連しない変化というものは存在しません。
あなたがどのように思うかは問題ではありません。
あなたがどのように思おうとも、この世界が成長を求めて変化し続けていることには違いないのです。
あなたの思うようには進みません。
あなたの思うように進めば、成長は決して実現しないからです。
あなたは未熟な存在です。
どうして、未熟な存在の意見を取り入れる必要があるのでしょうか?
未熟な存在の意見を取り入れて行えば、それは破滅へと向かっていくのです。
どのように努めても、未熟な方法であっては、目的を果たすことはできません。
そのため、あなたの意向などは介(かい)さずに、人生は変化を推(お)し進めるということを理解しましょう。
これはあなたの人生ではありますが、あなたの人生は全体のために存在しています。
何よりも大切なのは全体であるのです。
例えば、自分勝手に振舞っているのであれば、家庭は崩壊します。
家族と言えども、相手に対する気遣いを忘れてはならないのです。
全体のために行うことがなければ、それが崩壊するのは必至であるのです。
そのため、あなたの我が儘(まま)を通すのであれば、その小さな綻(ほころ)びから、全体を揺るがす事態になる可能性があるのです。
一つ一つは小さな綻びであろうとも、それが各所で始まれば、全体は崩壊するのです。
そのため、一つ一つの結合が磐石(ばんじゃく)であることが求められるのです。
あなたは人生というものを考えなければなりません。
小さな視野によって自分勝手に生きている場合ではないのです。
人生は変化するのが自然です。
しかし、自分勝手な者はそれを受け入れません。
自分勝手な者は変化を恐れるのです。
自分勝手な者は現状維持にこだわります。
そして、変化に取り残されてしまうのです。
変化を否定するということは、世界に対する必要(貢献)を否定しているということに他なりません。
全体が変化を求めているのです。
それに従わないというのであれば、役に立つ気持ちがないということです。
役に立たないものをいつまでも大切にしておくでしょうか?
役に立たないものは腐った蜜柑(みかん)のように無様に捨てられるのです。
変化を受け入れない者が苦悩するのはそのためなのです。
あなたが苦しまないためには、変化を受け入れる以外に方法はないのです。
自分勝手な理想を突き通すことに何の価値があるのでしょうか?
あなたの我が儘など、全体が認めると思いますか?
小さな考え方を取り除かなければなりません。
現状維持に徹するのであれば、あなたはすべてを失うことになるでしょう。
時代は移り変わっているのです。
世界は瞬間毎(ごと)に変化しているのです。
変化を受け入れましょう。
そのためには、現状を諦めましょう。
その場にとどまりながら、目的地へと辿り着くことのできる者はいません。
過去に向かう価値があるでしょうか?
現状にとどまる価値があるのですか?
あなたは人生が、全体(世界)が、そして”神”があなたに何を求めているのか?ということを考えましょう。
あなたの意向などには価値がないのです。
これを理解することができなければ、あなたは同じ苦しみに長く悩まされることになるでしょう。
どのように考え、どのように選択するのか?は、あなたの自由です。
しかし、喜びと苦しみは自分で選ぶことができるのです。
利己に根差せば苦しみます。
利他に根差せば喜びます。
簡単なことです。
どうするか自分で決めましょう。

2015年7月11日土曜日

好きを生きる

人生は自らの好きなように生きるのが良いでしょう。
人は自らの好きなように生きなければなりません。
自らの興味に従って生きることが良いのです。
それは、人にはそれぞれに担っている役割があるからです。
どのような人にも、この世界の向上のために必要な役割が割り振られています。
この世界において、不要な役割は存在しません。
それがどのような役割であろうとも、必要であるために存在しているのです。
自然界に無駄な生物が存在しているでしょうか?
すべての生物が自分以外を支えるために存在しているのです。
自然界における生物は、共存共栄の関係にあると言うことができるでしょう。
共栄共存の関係には、もちろん、捕食も含まれています。
しかし、それは争いから生じるものではなく、相手を支え、相手に支えてもらうという精神から生じる掟(おきて)なのです。
この世界においては、相手を支え、相手に支えてもらわなければ存在することができません。
今日のあなたがあるのは、あなた以外の生物に命を分けてもらったからに他なりません。
あなたは毎日多くの命を飲み込んでいるのです。
あなたが他の命を受けずに生きたことなどないのです。
あなたが相手から支えられずに生きた日などありません。
あなたがここにあるのは、相手から支えられたからに他ならないのです。
しかし、その事実を忘れている人が大半です。
多くの人は相手から受けたことを忘れます。
そのくせ、自分が支えたことはいつまでも覚えています。
そのような経緯から価値観に歪みが生じます。
そして、大切なことを忘れていくのです。
あなたが生まれた意味は何ですか?
あなたが生まれたのには意味があるとは思いませんか?
その意味を知りたいとは思いませんか?
いつの間にかに歪んでしまった価値観を正すのです。
あなたは周囲の人の意見や、常識に流されてはなりません。
あなたは、あなたの興味のあることによって、全体に貢献すれば良いのです。
皆が同じである必要はありません。
個性を潰す必要もないのです。
人はそれぞれに担っている役割が違うのです。
違いを以て一つにまとまることが求められるのです。
好きなことは役割の手掛かりです。
好きなことを否定しているのであれば、役割を理解することはできないのです。
これはあなたの人生なのです。
あなたは、本当の”あなた”として、全体に貢献しましょう。
ただし、人と違う独特な生き方をしろと言うのではありません。
他人に合わせることが好きなのであれば、それは立派な個性です。
好きなことをする必要があるだけで、人と違うことをしろと言っているのではありません。
そこを誤解しないように注意しなければなりません。
自然界の生物が自らの役割に従って生きるように、あなたも自らの役割に従って生きましょう。
それぞれに役割が違っています。
動物であろうと、それぞれに役割が違っているのです。
動物であっても、今日まで生きる個体があれば、明日も生きる個体があるのです。
それぞれが必要な役割を果たすのです。
あなたの興味は何に向いていますか?
あなたの好きなことは何でしょうか?
人は好きなことをして生きるのです。
素直に生きる必要があるのです。
状況や環境を言い訳にしてはなりません。
この世界においては、どのような言い訳も通用しません。
それができないのはあなたであり、それをやらないのもあなたなのです。
状況や環境は整ってはいないでしょうが、あなたの役割を阻んではいないのです。
誤解しないように注意しましょう。
あなたには多くの可能性があります。
自らそれを潰してしまわないように注意しましょう。

2015年7月10日金曜日

仮想現実

あなたの信じている現実は、本当に現実なのでしょうか?
あなたは現実を生きていますか?
あなたの信じている現実は、現実ではない可能性があるのです。
あなたの考える”当たり前”を現実と言い切ることはできません。
それは、現実に見えるけれども、仮想現実の可能性があるのです。
多くの人は自分自身を動物的な存在だと考えています。
自分は肉体であり、心臓であり、脳であるとする考えです。
大抵の人が自分を肉体的な存在だと考えています。
肉体が受ける感触を現実であると理解しているのです。
物質的なものを現実であると考えているのです。
肉体が受ける感触は、確かに現実的であります。
傷付いた皮膚からは血が流れ、鋭い痛みが襲います。
これは物質的な現実そのものです。
”当たり前”に仕事をし、”当たり前”に生活し、”当たり前”に人間関係を築き、”当たり前”に死んでいく。
これが多くの人が考える現実です。
しかし、本当にこれ等のことが現実なのでしょうか?
あなたは本能という機能を所有しています。
しかしそれは、あなたの意に反して働いています。
あなたは食べたくもなく食べさせられ、眠りたくもないのに眠らされます。
本能はあなたの意思ではないのです。
本能は肉体を維持するために働いています。
それは、肉体が生きるための機能であるのです。
あなたの意思に反するものが、”あなた”なのでしょうか?
本能は肉体の意思です。
肉体は”あなた”ですか?
内臓の機能すら扱うことができないのに、どうしてあなたが肉体なのでしょうか?
残念ながら、あなたは肉体ではないのです。
あなたは動物的、肉体的な存在ではありません。
そのため、肉体を司る本能は、あなたではないのです。
本能を基準として見る世界は現実ですか?
”当たり前”の仕事、生活、人間関係、死・・・
これ等があなたの現実なのでしょうか?
良く考えなければなりません。
あなたは”当たり前”の人生に違和感を覚えたことはありませんか?
本能に従って生きて、人生に何を得るのでしょうか?
あなたの考える幸福、豊かさ、楽しみ、不幸、乏しさ、苦しみ・・・
これ等は現実なのですか?
仮想現実を現実と思い込んではいませんか?
あなたは霊的な存在です。
本能によって満たされることはありません。
あなたの満足は、心の奥深く、目には見えない場所に存在しているのです。
先ずは、この現実を疑ってみましょう。
すると、あなたは幾つかの矛盾に気が付くはずです。
あなたは幸せですか?
そして、この先も幸せでいられると思いますか?
本能に逆らうことが重要です。
この世界において、本能に逆らわずして本当の満足を得た人はいません。
本能に従っているのであれば、真実に辿り着くことはできません。
本能に従っているのであれば、あなたは仮想現実を生きることになるでしょう。
しかし、これは本能に奪われている主権を取り戻すということであり、本能を否定するということではありません。
霊と肉体が一つに協力しているように、あなたは本能と協力しなければならないのです。
真実に目覚めて欲しいのです。
人生というものを改めて見詰める必要があるでしょう。
あなたは間違ってはいませんか?
人は現実を生きなければなりません。
目の前の”当たり前”が本当に現実なのか?を疑いましょう。

2015年7月9日木曜日

相応しい場所

仕返しを企む必要はありません。
あなたが仕返しをする必要はないのです。
この世界には様々な思想が存在し、その思想によってそれぞれの立場が決まります。
それぞれが別々の立場を取り、対極に位置するものや、違うものに対して反目(はんもく)します。
本来ならば、それぞれが互いを尊重し、協力することによって一つの形態を取ることが最善なのですが、人の弱さがそれを拒みます。
人が弱いために、それぞれが対立するようになっているのです。
現状において、対立は避けられません。
人の精神水準は貧弱であるからです。
多くの人が利己的な思想の中に生きているのが現状なのです。
それは、未熟さを脱しません。
利己的であるために争いが導かれ、恨みが生じるのです。
恨みによって仕返しを企むのが、世の常(つね)であるということです。
あなたには嫌いな人物がいるでしょう。
すべての人には敵が存在するのです。
あなたに敵意は無くとも、相手が勝手に敵意を向けることがあるのです。
現状の精神水準では、争いは避けられません。
そして、恨みと逆恨みは必然なのです。
それは嘆(なげ)かわしいことであるのです。
あなたは争いの中にあることを情けなく思わなければなりません。
人は本来、利己的であってはならないのです。
争いの中に生きる必要などないのです。
互いを尊重し合い、協力的に生きていくことが必要なのです。
間違った選択をしてはなりません。
それは、間違った結果を導くからです。
どのような仕打ちを受けたとしても、それに仕返しを企んではなりません。
この世界には因果の仕組みが働いています。
原因に相応しい結果が導かれるのです。
それは、誰にとっても同じことです。
因果の仕組みが人を差別することなどありません。
誰であろうとも、因果の仕組みによって正しく裁かれるのです。
そのため、あなたが相手を裁く必要などないということです。
あなたが手を下さなくても、因果の仕組みが確実にその役割を果たします。
すべての人は自らの行為を受けるのです。
仕返しを企むのであれば、その企みの結果を自分自身が受けることになります。
復習を果たすことに満足する人がいますが、そこにも因果の仕組みが働くのです。
これを避けることはできません。
あなたが行うべきは、相手を尊重することです。
悔しい思いや腹立たしい思いをすることもあるでしょう。
しかし、それによって争いの中に引き込まれてはなりません。
間違った道を選択すれば、目的地に辿り着くことはできないのです。
あなたの人生の目的は何ですか?
あなたの求めているものは何でしょうか?
少なからず、あなたは幸福を求めているはずです。
幸福を求めている人が、どうして争うのでしょうか?
その矛盾に気が付かなければなりません。
多くの人はこのような簡単なことにも気が付きません。
誰でも分かることです。
仕返しとは、自らの快楽を求める方法です。
それは、利己的な行為に他ならないのです。
利己的な者が受け取るのは苦悩です。
これは当たり前のことなのです。
安易に仕返しを企んではなりません。
あなたには理性があるはずです。
それを十分に働かせましょう。
因果の仕組みが必要な状況を導きます。
そのことを覚えておきましょう。
人は誰もが、自らの行為に相応しい場所に辿り着きます。

2015年7月8日水曜日

退屈な停滞と楽しい繰り返し

新たな視点を手に入れることがなければ、人はそれ以上の幸福を得ることはできません。
幸福とは個人的なものです。
自分自身が幸福であると認めるのであれば、それはどのような状況であろうとも、幸福であるのです。
あなたの幸福は自分自身で決めることができます。
誰かや何かがあなたの幸福を決めるのではありません。
あなたはそのことを理解する必要があります。
あなたは自分自身の幸福を左右し、他人の幸福を左右することはできないのです。
幸福とは思い込みです。
幸福を得るためには、自分自身が幸福であると思い込めば良いのです。
世界のどこにいようとも、あなたは幸福でいられるのです。
あなたが不足を感じ、不幸を感じているのであれば、足りているものを数え、幸福を得るように心掛けましょう。
思い込みの幸福を実現するだけなら、新たに得る必要はないのです。
何かが不足しているから不幸であるということでもないのです。
視点が停滞していることに、不幸の原因が存在しています。
人は、その視点が停滞した時に不幸を感じるようになっているのです。
視点の停滞は変化の消滅を現します。
変化が消滅すれば、人は退屈を得ることになります。
退屈を得るのであれば、人は喜びを得ることができないのです。
そのため、常に新たな視点を探し、それを得なければならないのです。
変化の中にいれば、人は喜びを実現することができるのです。
どのような人にも変化は楽しいのです。
それは、人生の目的が成長にあるためです。
人は、成長を喜びとしているのです。
しかし、弱い心があることも事実です。
弱い心は、変化を嫌います。
現状維持に努めますが、それが苦しみをもたらすことになるのです。
現状維持は心地好いものであり、危険の少ない選択ではありますが、それでは喜びを得ることはできないのです。
幸福は思い込みによって実現すると記しましたが、停滞の中では自分が幸福であると思い込むことすらできないということを知る必要があるのです。
そのため、何等かの形で変化を受け入れるという必要性が出てくるのです。
新たな視点を得ることは簡単です。
それは、自らの着眼点を変化させるだけです。
ただの繰り返しから離れれば良いのです。
しかし、人は同じことを繰り返さなければなりません。
人生は同じことの繰り返しです。
あなたは日々、同じことを繰り返さなければなりません。
それは、誰にとっても同じです。
毎日が変化に富み、新たな発見に満ちている人は少ないのです。
どのような人にとっても、人生は繰り返しに至るのです。
しかし、それはあなたに退屈を導き、苦しめるためではありません。
繰り返しには大切な意味があるのです。
人は繰り返すことによって、その本質に近付くことができます。
繰り返すことがなければ、浅はかな知識にとどまるのです。
筆跡が繰り返されると、それは一つの意志を伝える手段となります。
この文章も、文字の連なりです。
一辺一辺、一文字一文字の連なりによって、この文章は意志を以て輝くのです。
繰り返すことがなければ、それは良いものとはなりません。
思い込みによっては、この文章の一行で幸福を得ることはできます。
しかし、一行では理解することができないこともあるのです。
子どもの頃の幸福感で生きることはできません。
なぜなら、あなたはその頃に比べて知り過ぎたからです。
過去に戻ることはできません。
現状に停滞することもできません。
あなたは未来に向かって進み続けなければならないのです。
そのためには、繰り返しの中に向上を得なければならないのです。
人生をただの繰り返しにしてはなりません。
繰り返すことによって理解を深めるのです。
そこには、あなたの向上心という意思が必要なのです。
退屈な停滞から抜け出し、繰り返しの人生を楽しみましょう。

2015年7月7日火曜日

塗装

目に映る景色を信用するようであれば、あなたは正しく理解することができません。
あなたは錯覚の中に生きています。
あなたは虚像を見ているのです。
この世界の真実は、あなたの見ているものとは違っています。
あなたが見ている景色は、あなたにとっては真実に他なりません。
しかし、それを認識する時には様々な要因がそこに継ぎ足されます。
純粋な心で生きている人がいるでしょうか?
我欲を反映しない心があるでしょうか?
立場に捉われずに判断する人がいるでしょうか?
すべての人が歪んだ心で世界を捉え、立場によってそれを歪めています。
しかし、心が作り出す虚像は余りにも精巧にできているため、その歪みに気が付くことはできません。
それに加えて、正当化と美化という塗装を施してあるために、余計に認識することができない状態なのです。
形と質量の等しい異なる二つの物体に同じ塗装を施せば、それは同じ物体に見えるのです。
その物体が何であるのか?ということを判別することはできません。
あなたの認識は、塗装(見た目)を超えることができないのです。
五感を働かせても、その物体を判断することはできません。
すべての人がそのような状態によって生きているのが現状なのです。
そのため、世の中には錯覚が溢れ、誤解が飛び交います。
あなたは嘘を吐き、嘘に騙されます。
歪んだ景色を歪んでいるとは認識することをせず、その歪みを調整しているのです。
あなたが完全に静止することはありません。
あなたがどれだけ静止しようと努めても、微かには動き続けているのです。
心臓が鼓動する時点において、あなたは揺れているのです。
その揺れを脳が処理することによって、目の前の景色が止まって見えるのです。
その働きがなければ、あなたは揺れをそのまま認識することになり、とても生活することができません。
錯覚によって虚像を見ることは、この世を生きるにおいては仕方のないことです。
純粋な心ほど生き難く、我欲に溺れる者ほど生き易いのが現状です。
そして、立場に逆らうことはできません。
皆、そのように生きてるのです。
虚像を受け入れることは気楽です。
しかし、考えなければならないのは、虚像を喜んでいて良いのか?ということなのです。
塗装の下にある物体の正体を知ることもなく、生きて死ぬことが本当に幸福なのでしょうか?
真実を知らずにいることが、本当に良い人生であるのでしょうか?
塗装を剥がすことは勇気のいる作業です。
塗装を剥がすことによって、それは確実に価値を失うからです。
この世は虚像に価値を付けて売買しています。
あなたが取引しているものは、本当に価値のあるものなのでしょうか?
人生とは何か?
という問いと共に生きなければなりません。
自動車を運転している時に、遠くの景色は穏やかに流れ、近くの景色は激しく流れます。
それ等は違うものでしょうか?
例えば、遠くの穏やかに流れる景色に価値を見出し、近くの激しく流れる景色には価値を見出せずにいるとします。
それは、真実なのでしょうか?
あなたが自動車の運転を止めた時、遠くの景色と近くの景色は止まります。
しかし、次には遠くの景色はその像を霞(かす)ませ、近くの景色は細部まで鮮やかに見せるようになるのです。
例えば、近くの鮮やかな景色に価値を見出し、遠くの霞んだ景色には価値を見出せずにいるとします。
それは、真実なのでしょうか?
遠くの景色と近くの景色には、どのような違いがあるのでしょうか?
違っているのは自身の認識だけなのです。
その景色自体は変わりませんが、あなたがそれを遠くに置くか、近くに置くかで変わるのです。
それは錯覚であり、虚像であるのです。
目に映る景色を信用するようであれば、あなたは正しく理解することができません。
この世界の真実は、あなたの見ているものとは違っています。
そのことを考慮する必要があります。
そうでなければ、判断を誤るでしょう。
正すべきは自分自身であるということを忘れてはなりません。

2015年7月6日月曜日

忘れているもの

あなたは自らの役割を見失ってはなりません。
どこにいても、あなたは自らの役割を担っているのです。
人がこの世に生まれるのは、役割を果たすためです。
誰もが自らの果たすべき役割を以て生まれるのです。
しかし、それは誕生と共に忘れてしまいます。
なぜ忘れるのかと言えば、それは思い出すことによって、役割に対する責任を強くするためであるのです。
無意味に忘れるということはないのです。
あなたには、失わなければ理解することができないことが多いのです。
あなたは何かを得ますが、得ただけではその大切さに気が付くことはできません。
大切なものを失うという体験を通じて、その大切さを理解するのです。
そのため、人は必ず失います。
そして、忘れるのです。
しかし、忘れたままではなりません。
それは、果たすべき役割を果たすことがなければ、満足を得ることはできないからなのです。
満足を得ることができなければ、人生の意味を理解することができません。
何のために生きているのかを理解することがなければ、何年生きても虚しいのです。
意義のある一生にするためには、満足の積み重ねの先にある人生の意味に辿り着く必要があるということなのです。
自らの役割を果たすことがなければ、人は本当の満足を得ることはできません。
偽物の満足をどれだけ詰め込んでも、肥えるばかりで身にはならないのです。
身にならないものをどれだけ詰め込んでも、それがあなたを助けることはありません。
余計な脂肪がもたらすのは、病気のリスクなのです。
そのため、人生がある種の意味を持たなければ、そこに満足が生まれることはなく、満足が得られなければ、意義のある人生であるとは言えないのです。
それぞれが必要な役割を担っています。
それは、自身の希望するようなものではないかも知れません。
しかし、それが世界にとって、目の前の何かや誰かにとって、そして、自分自身にとって必要であるということを理解する必要があるのです。
必要であるためにそこに存在するのです。
残念ながら、必要でなければこの世界には存在することが許されないのです。
そのため、どのような役割であろうとも、それが持っている必要性というものに気が付かなければならないのです。
どうしても避けられない状況というものがあります。
それは、あなたの担っている役割であるのです。
避けられないことに逆らってはならないのです。
人生には気に食わないことは山の様にあります。
それは、人が自我という”歪み”を抱えているからです。
大抵の人はこの自我によって自らの役割を忘れているのです。
人生の本当の目的を見失っているのが現状なのです。
あなたは目の前の状況を通じて思い出さなければなりません。
人生はあなたに語りかけています。
あなたがやらなければならないことは、どのように努めても避けることのできない状況です。
その状況に存在する問題を正すために”天”によって派遣されたのがあなたなのです。
あなたは”地”の産物ではないのです。
あなたの肉体はそうですが、あなたの本質である魂は”天”に由来するのです。
そこを間違えてはならないのです。
自分自身を”地”に属するものと考えてはなりません。
あなたは”天”に属しているのです。
そのため、目の前の状況に対して恐る必要はないのです。
それがどのような役割であろうとも、あなたが不幸に陥るということはありません。
一時的に不幸という”心境”を味わうかも知れませんが、あなたが不幸になることはありません。
すべては向上のためにあるのです。
それは、人生を観察していれば誰にだって理解できることです。
物事は上手く進んでいます。
そのことを忘れてはなりません。
安心して、自らの担っている役割を果たしましょう。
人生を無駄にしてはなりません。
役割を放棄することこそが、人生の無駄であるのです。
自らの役割を忘れて、遊んで暮らしてはなりません。
生産性も無く生きてはなりません。

2015年7月5日日曜日

虚像

あなたは歪んでいく心と対峙しなければなりません。
この世界には様々な思想が混在しています。
心の数だけ思想が存在し、それ等が同じであることはありません。
すべての人の心が独立して存在しているように、それぞれの思想は別のものであるのです。
あなたは自分以外のすべてのものから、何等かの影響を受け続けています。
その影響を拒絶することはできません。
すべての人が他者の影響下にあり、それを受け入れなければならないのです。
あなたの意志でそれを決めることはできません。
この世界に存在する以上、この世界の一部であるのです。
そのため、この世界の影響力を否定することは不可能なのです。
あなたは無意識的に影響を受け入れています。
あなたが知らない内に、影響力は心に到達するのです。
受け入れたものは消化する必要があります。
毒を飲むのであれば、その毒の効力を受けなければならないのです。
そのため、他人の思想はあなたを変えるでしょう。
毒によって様々な機能が低下するように、他人の思想によって、あなたの心は歪められていくのです。
あなたは常に他人の思想に影響を受け続けています。
そのため、あなたが気が付かない内に、その心は変化し続けているのです。
変化に気が付いた時には、全く違うものになっているということはよくあることなのです。
人は、自分でも気が付かない内に、別人になっていることがあるのです。
自分では真っ直ぐに進んでいるつもりでも、毎日少しづつ歪んでいき、最終的には全く違うところへ辿り着いているのです。
多くの人はこのことに気が付きません。
自分が”自分”であると思い込んでいるのです。
しかし、あなたは本当に”あなた”なのでしょうか?
いつの間にかに別人になってはいないでしょうか?
あなたの求める人生は、現状に矛盾してはいないでしょうか?
あなたは自らの”夢”を追い続けているでしょうか?
自分に嘘を吐いてはいないでしょうか?
それは、本当にあなたの生きたい人生なのでしょうか?
知らず知らず、人は他人からの影響力によって歪んでいます。
その歪みに気が付かないのが”普通”です。
その歪んだ”普通”を幸福であると思い込んでいるのが”普通”なのです。
そのため、多くの人の考える幸福というものは、歪んでいるのが”普通”なのです。
あなたは自分の人生をどう評価しますか?
あなたは心の底から導かれる純粋な欲求に従って生きていますか?
あなたが実現したい人生とは何でしょうか?
この世の余計な思想を取り除いたところに、あなたの本当の目的があるのです。
この世界を現実だと考えてはなりません。
あなたが見ている世界は、本物なのでしょうか?
あなたが考えている”自分”とは、本物なのでしょうか?
多くの人が自分が歪んでいることに気が付いていません。
そのため、他人に意見を求めても、その答えは返りません。
歪みを取り除くためには、自分自身がそのことに気が付かなければならないのです。
あなたは誰かに利用されてはいませんか?
誰かの思想によって歪められてはいないでしょうか?
あなたは本物ですか?
あなたは本当に”あなた”のですか?
現実と幻想を混同してはなりません。
それ等は別のものです。
あなたは現実を生きるのです。
歪んでいる心と対峙しなければ、あなたは現実を生きることはできないでしょう。
あなたは既に歪められています。
そのことに気が付くことから始めなければなりません。

2015年7月4日土曜日

裏切り者

多くの人は敵を問題視しています。
敵というあからさまな状態のものがどうして問題なのでしょうか?
認識することができる状態のものが問題となることはありません。
それは、対応することができるからです。
問題として認識しているのであれば、それは解決に向かうだけなのです。
そのため、問題として認識されているものは、すでに問題という状態にはないということなのです。
問題とは、それを問題として認識することができない状態のものを言うのです。
あなたは物事の本質に気が付かなければなりません。
敵を敵としてはなりません。
あなたが敵と思っているものは、あなたの敵ではないのです。
寧(むし)ろ、あなたの間違い(あなたが論理的に正しくても)を指摘する大切な役割であるということを理解する必要があるのです。
敵は、あなたに反対意見を投げ掛ける重要な役割を担っているのです。
反対意見を投げ掛けられることがなければ、偏見は拡大し、歪みは増していくのです。
そのため、ある種の反対意見によって、一方に偏らないように真っ直ぐにしようとする力が敵を生み出しているのです。
敵はあなたの役に立っているということを理解しなければならないのです。
問題とは、あなたには認識することができない”裏切り者”であるのです。
裏切り者は仲間内から生じます。
それは、仲間の姿をしているために、あなたはそれが問題であるとは気が付きません。
仲間として信頼してはいても、その実、あなたを裏切るのです。
裏切り者に対しては対応することができません。
それは、限界までそれが問題であるとは気が付かないからです。
避けられないほど近くにまで接近を許すのです。
擬態(ぎたい)した肉食動物に、草食動物が気が付かないようなものです。
それが敵であるという認識においては、距離を測ります。
それが仲間であるという認識においては、距離を測ることをしないのです。
油断はそのようなところから生じるのです。
そのため、本当に注意すべきは敵ではないのです。
裏切り者こそ注意すべきであるということなのです。
裏切り者は仲間のふりをする詐欺師です。
詐欺師は嘘を真実のように見せ掛けます。
敵は素直に対立します。
あなたにとってどちらが脅威であるでしょうか?
遠くから敵が迫って来ているのであれば、あなたは争いを避けるためにその場から離れることもできます。
しかし、それが裏切り者の詐欺師であれば、あなたは争いを避けることができないのです。
敵を敵とする間違った考えを信じてはなりません。
敵は敵ではないのです。
そこには、ある種の礼儀が存在しているのです。
お互いを敵として認めた上で争うことと、相手を騙(だま)した上で争うのでは、どちらが礼儀正しいでしょうか?
あなたは仲間の姿をした裏切り者に注意しましょう。
問題は仲間内から生じるのです。
あなたの苦しみのすべてが、あなたの心の内から生じるのと同じです。
裏切り者は、あなたに敵を教え込みます。
そして、自らに注目が集まらないように企(くわだ)てているのです。
自らが裏切り者であるということが知られれば、利益を貪ることができなくなるばかりか、糾弾(きゅうだん)されることになるからです。
そのために、敵を問題として思い込ませ、自らは暗闇に隠れるのです。
あなたには信じられないかも知れませんが、敵は問題ではありません。
敵は敵ではないのです。
自らの歪みを取り除いてくれる大切な役割として、敵を捉えなければならないのです。
対立する相手から得るものは多いのです。
それは、対立しているということは、対極にあるということだからです。
陰と陽は違う性質を持っていますが、それぞれが支え合うことによって最大の効果を発揮します。
それを分裂させてしまっては、本来の力は得られないのです。
敵は敵ではないのです。
間違えてはなりません。

2015年7月3日金曜日

終わりなき欲求

あなたが人生に求めているものは何ですか?
あなたが仕事に求めているものは?
あなたが相手に求めているものは?
あなたが状況に求めているものは?
それぞれの立場によって、求めるものは違います。
しかし、大切なのは満足を求めることだと知る必要があるでしょう。
何をするにしても、そこから満足を得ることを目的とした時、あなたは幸福を得ることができるのです。
何に対しても満足以外のものを得ようとする時には、残念ながら幸福を得ることは難しいのです。
例えば、人生や仕事に金銭を求めるとします。
多くの人が対価としての金銭を求めています。
そして、それをより多く得ることを求めているのです。
人生や仕事に対して金銭を求めることが悪いという訳ではありません。
しかし、想像力の欠如(けつじょ)には注意が必要です。
世の中において、金銭はどれだけ所有していても邪魔にはなりません。
多く持っている者は、それだけ金銭的な問題に悩まされることもなければ、購入することができる自由というものを得ることもできます。
しかし、金銭には上限がありません。
それは、数字に他ならないからです。
百でも億でも同じなのです。
数字を求める者には、終わりを得ることができないのです。
それは、終わりなき欲求を意味しています。
人生や仕事に金銭を求めるのであれば、欲求が満たされることはないのです。
終わりが得られないために、その意味を理解することもできないのです。
何のために生きているのか?
何のために働いているのか?
という答えを金銭に求めることはできないのです。
仕事も人生も、金銭よりも大きなものであるということに気が付かなければならないのです。
金銭は、人間が作り出した仕組みの一つに過ぎないのです。
人間が作り出した金銭というものが、仕事や人生よりも大きいのでしょうか?
仕事や人生を作り出したのは誰ですか?
金銭が存在する前から、この世界には仕事があり、人生があったのです。
命が生まれると共に仕事が生まれ、人生が生まれたのです。
金銭のために仕事や人生があるのではないのです。
そのため、人生や仕事に対して金銭を求めるのは浅はかであるということなのです。
人は、純粋に生きていかなければなりません。
欲望に根差した生き方が辿り着くのは破滅です。
人は金銭のために自然を破壊していますが、金銭と自然のどちらが大切なのでしょうか?
金銭のために心を破壊してもいます。
子どもでも分かることです。
これは、知性の問題なのです。
多くの人は金銭を求めることに必死です。
金銭のために仕事をし、金銭のために人生を選択しているのが現状なのです。
そこに知性があるでしょうか?
金銭が存在しない時代、人々は何を求めて働き、生きていたのでしょうか?
その人たちは不幸だったのでしょうか?
”神”が命を創造した時に、同時に仕事と人生を創造しました。
そして、その対価として”満足”という宝を創造したのです。
人は満足のために生きることが大切です。
どのように生き、何を得ようとも、満足が得られない人生に幸福が実現すると思いますか?
終わりのない欲求に幸福があるでしょうか?
そこには苦しみがあるのです。
どれだけ飲んでも乾くのであれば、それは苦しみ以外の何物でもないのです。
あなたの乾きを止めるのは満足だけなのです。
満足しなければ、終わりはないのです。
あなたは満足を求めなければなりません。
人生においても、仕事においても、相手においても、状況においても、あなたが求めるべきは満足であるということを覚えておかなければなりません。

2015年7月2日木曜日

鑑定

人生において、本物に辿り着くことは容易ではありません。
本物よりも偽物の方が遥かに多く、偽物は本物を擬態(ぎたい)します。
本物を見極めることも容易ではありません。
本物と思うものに辿り着いたとしても、それが本物であると見極める力がなければならないのです。
数ある偽物の中から、本物を見極めることは至難です。
しかし、人は本物を見極めなければならないのです。
それが人生の意味でもあるのです。
人生における幸福を考えた時に、それにも真偽があるのです。
本物の幸福はあなたの魂に満足を与えます。
それによって虚無(きょむ)を得ることはありません。
偽物の幸福があなたの魂を満足させることはありません。
一時の満足を与えはしますが、次に待っているのは虚無感であるのです。
偽物だと気が付いた時には、虚しさが待っているのです。
真の満足を得るためには、本物を手にしなければならないのです。
本物の幸福が何であるのか?ということを見極める必要があります。
本物を見極めるためには、本物を見ることです。
しかし、初めから本物を見ることはできません。
それは、あなたの得る世界は、あなたに相応しいからです。
あなたに相応しいものだけが与えられるのです。
それは、あなたが自らに相応しいものを選択するからなのです。
そのため、あなたは初めから本物を見ることはできないのです。
あなたは人生の目的を知っていますか?
あなたは何者なのですか?
人生や自分自身の真実を知らずに、どうやって本物の幸福を得ることができるのでしょうか?
本物を知るためには、偽物を見せられます。
あなたは初めに偽物を見なければなりません。
世の中に溢れているもののほとんどが偽物です。
あなたは偽物の幸福に囲まれています。
あなたの周囲の人達が求めている幸福は、本物の幸福なのでしょうか?
多くの人は苦悩を抱えています。
苦悩を導くものが本物の幸福だと思いますか?
偽物であるために苦悩を導くのです。
それが本物の幸福なのであれば、満足を導くに違いないのです。
人は苦悩という偽物を見ます。
苦悩しなければ、本当の幸福を見極めることができないからです。
偽物を細部まで知ることによって、本物との違いに気が付きます。
偽物に詳しくなることによって、本物に対する”違和感”を覚えるようになるのです。
あなたが本物に出会う時には、必ず違和感を覚えます。
それは、あなたが偽物しか知らないからです。
多くの人は偽物の中に染まっています。
自分が所有している幸福が偽物であるということにすら気が付かないのです。
それに違和感を感じないのです。
違和感を感じるまで偽物を観察する必要があります。
自らが間違いに気が付くまで、それは繰り返されるのです。
苦悩を終わらせるためには、自らの間違いに気が付かなければならないのです。
そのため、誰かや何かが助けてくれるなどということはありません。
本物と偽物の区別を付け、本物を求めていけば良いだけなのです。
本物を知るために、その何倍もの偽物を知らなければなりません。
そのため、人生には苦悩が尽きませんが、それは本物を見極めるためであるということを理解しなければならないのです。
偽物の幸福、偽物の不幸を信じてはなりません。
苦悩を得ることは良いことです。
苦悩を得ることがなければ、幸福に気が付かないからです。
あなたが苦悩を抱えていたとしても、それは決して無駄ではないのです。
偽物を見ることは、本物を見極めるための必要条件であるということを理解しましょう。
多くの偽物を潜り抜け、本物に辿り着きましょう。

2015年7月1日水曜日

神と紙

あなたに、この世で出世する方法を教えます。
あなたはこの方法によって、高い地位と名声を得ることができます。
そして、多くの財産を抱えることができるでしょう。
この方法は単純であり、簡単です。
それは、良心を裏切るだけです。
ただそれだけで、あなたはこの世の富を得ることができるのです。
出世を望むのであれば、良心に背かなければなりません。
慈善的な生き方をしてはなりません。
真実を語ってはなりません。
真実を行ってはなりません。
協力してはなりません。
弱い立場の者を助けてはなりません。
相手を信用してはなりません。
大きな権力に属さなければなりません。
自分よりも立場が上の者には付き従わなければなりません。
怒りを友としなければなりません。
利己的な選択を優先しなければなりません。
簡単に相手を裏切らなければなりません。
狡猾(こうかつ)に動かなければなりません。
利益にならないことを大切にしてはなりません。
他者を思いやってはなりません。
他の命を同等に見てはなりません。
あなたはすべてを自分よりも下に見なければなりません。
恐れを原動力としなければなりません。
相手に恐怖を植え付けなければなりません。
偽善に努めなければなりません。
すべてが自分自身のための働きでなければなりません。
欲望に素直でなければなりません。
謀(はかりごと)に勤(いそ)しまなければなりません。
このような考え方の者と共謀(きょうぼう)しなければなりません。
このようにすれば、あなたは簡単に出世することができます。
それはとても簡単な方法なのです。
ここ(光の天秤)で「わたし」が宣べ伝えていることとは真逆の行為に励(はげ)めば良いだけなのです。
それだけで、あなたは多くの財産を抱えることができるのです。
多くの人がそうするように、あなたも行えば良いのです。
この話を聞いて、あなたはどう思いましたか?
それで良いと思いましたか?
あなたの心はどのような反応を示したでしょう?
「わたし」はあなたが嫌悪感を覚えることを期待します。
あなたは自分が何者であるのか?ということを考えなければなりません。
何のための人生であるのか?ということを考えずに生きてはならないのです。
この世の富を得るための人生なのですか?
あなたは「紙(貨幣)」に仕えるのですか?
「紙」に仕えるのであれば、この世を生きることは楽になります。
しかし、それで人生の意味や、自分自身の正体に納得することができるのでしょうか?
あなたは「神」から生じたのです。
「神」とは愛です。
愛に仕える者は、この世での出世は約束されません。
しかし、その心は安らぎを得るのです。
それが真の幸福であるということに気が付かない者には、人生の意味を理解することなどできないのです。
死ぬまで(実際は死後も)、偽物の幸福を求め続けるのです。
それでは潤いません。
いつも乾いていたいのであれば、この世での出世を選択し、良心(神、愛)を裏切りましょう。
どのように生きるのかはあなた次第です。
あなたは「神」と「紙」のどちらに仕えますか?
好きな方を選びましょう。
あなたは自らの主人から、褒美(ほうび)を得るでしょう。